最終更新日 2025-08-22

末森城(尾張国)

末森城は織田信秀が築いた対今川戦略拠点。信秀死後、信行が継承し信長との兄弟相克の舞台に。稲生の戦いで信行方敗れ、信行謀殺後に廃城。小牧・長久手の戦いで信雄が再整備するも再び廃城。現在は城山八幡宮として信仰を集める。

尾張国 末森城 ― 織田信秀の野望と信長・信行兄弟相克の舞台

序章:尾張の虎、東方へ睨みを利かす ― 末森城の誕生

戦国時代の尾張国において、わずか10年余りという短い期間ながら、織田弾正忠家の戦略拠点として、そしてその後の内部抗争の象徴として強烈な光芒を放った城がある。それが、現在の愛知県名古屋市千種区にその痕跡を留める末森城である。この城の誕生は、単なる一城郭の建設に留まらず、「尾張の虎」と称された織田信秀の晩年における戦略的大転換と、その野望を具現化するための必然的な帰結であった。

戦国期尾張の情勢と信秀の戦略転換

末森城が築かれた天文17年(1548年)頃、尾張国は統一された権力の下にはなく、守護の斯波氏、守護代の織田大和守家(清洲織田氏)と織田伊勢守家(岩倉織田氏)が名目上の支配者として存在していた。しかし、実質的な権力は、守護代の家臣筋に過ぎなかった織田弾正忠家の当主・織田信秀が掌握しつつあった 1 。信秀は卓越した軍事力と経済力を背景に尾張国内で急速に勢力を拡大し、主家をも凌ぐ存在となっていた。

しかし、その信秀も盤石ではなかった。国外に目を向ければ、北には「美濃の蝮」斎藤道三、東には駿河・遠江を支配する今川義元と、その影響下にある三河国の松平氏という二大勢力が存在し、信秀は常に二正面での緊張を強いられていた 2 。特に三河を巡る今川氏との争いは熾烈を極め、一進一退の攻防が続いていた。

この膠着状態を打破すべく、信秀は大きな戦略的決断を下す。天文17年(1548年)頃、長年の宿敵であった美濃の斎藤道三と和睦し、その証として道三の娘・濃姫(帰蝶)を嫡男・信長の正室に迎えたのである 4 。この政略結婚により、信秀は北方の脅威を一時的に解消し、これまで二方面に分散させていた軍事力を東方、すなわち対今川・松平戦線へと集中させることが可能となった。この戦略的転換こそが、新たな拠点としての末森城を必要とした直接的な背景である。

古渡城から末森城へ:攻勢防御拠点の構築

信秀はそれまで、那古野城の南方に位置する古渡城を本拠としていた。しかし、この城は平城であり、信秀が美濃へ出陣した隙に攻撃を受けるなど、防衛上の脆弱性が指摘されていた 6 。さらに、東方への攻勢を本格化させるにあたり、古渡城は前線からやや後方に位置し、指揮拠点としては必ずしも最適ではなかった。

そこで信秀は、東山丘陵の末端に位置する標高約43メートルの要害の地を選び、新たな城の建設に着手する。これが末森城である 3 。縁起を担ぎ「末盛城」とも記されたこの城への移転は、単なる居城の変更ではなかった。それは、対東方戦略における「前進基地」の構築を意味していた。末森城は、東方に睨みを利かす絶好の位置にあり、ここを拠点とすることで、三河方面への迅速な軍事展開が可能となった。

さらに信秀は、末森城の北方に位置する守山城を実弟の織田信光に守らせることで、両城を連携させた強力な東部防衛線を形成した 6 。この布陣は、今川・松平勢の尾張侵攻を阻止する防壁であると同時に、信秀自身が三河へ打って出るための発進基地でもあった。

一般的に末森城は「今川氏への備えの城」と解説されることが多い。しかし、その築城に至る経緯を深く考察すると、その本質は守勢に立った結果ではなく、むしろ攻勢に転じるための戦略的布石であったことが浮かび上がる。美濃との和睦によって後顧の憂いを断ち、軍事資源を東方に再配分できるようになった信秀は、すでに西三河の要衝・安城城を奪取するなど、積極的に東方への勢力拡大を図っていた 3 。この攻勢をより効率的に、かつ強力に推進するための司令塔として、末森城は築かれたのである。この城は、信秀の晩年における最大の戦略目標、すなわち三河掌握にかける執念の物理的な現れであったと言えよう。


表1:末森城 関連年表

西暦(和暦)

出来事

主要人物

城の役割・状態

1547-48年(天文16-17年)

織田信秀、末森城を築城し、古渡城から移る。

織田信秀

織田弾正忠家の本城、対今川・松平戦略拠点

1552年(天文21年)

織田信秀、末森城にて病死。

織田信秀、織田信行

信秀終焉の地

1552年以降

織田信行(信勝)が末森城を継承。

織田信行、土田御前、柴田勝家、林秀貞

織田家信行派の本拠地

1556年(弘治2年)

稲生の戦い。敗れた信行方が末森城に籠城。

織田信長、織田信行、土田御前

籠城戦の舞台、反信長の象徴

1558年(永禄元年)

織田信行、清洲城にて信長に謀殺される。

織田信長、織田信行

-

1558年以降

城主を失い、廃城となる。

-

廃城状態

1584年(天正12年)

小牧・長久手の戦いに際し、織田信雄が再整備。

織田信雄、徳川家康

信雄・家康連合軍の東方拠点として一時的に機能

明治時代以降

城跡に鎮座していた白山社が合祀され城山八幡宮となる。

-

史跡、信仰の場

現代

城山八幡宮境内として、空堀などの遺構が現存。

-

名古屋市内の貴重な戦国期城郭遺構


第一部:城郭の構造と機能 ― 戦国期平山城の実像

末森城は、織田信秀によって築かれ、その短い歴史の中で軍事拠点としての役割を全うした。現在、名古屋市街地という都市環境の中にありながら、その遺構は驚くほど良好な状態で保存されており、戦国時代中期の「土の城」の姿を今に伝えている。現存する遺構や古図を手がかりに、その構造と防御思想を分析する。

第一章:立地と縄張り

末森城は、濃尾平野の東縁に広がる東山丘陵の先端、標高約43メートルの丘陵上に築かれた平山城である 5 。この立地は、平野部を一望できる優れた視界を確保し、敵の動向を早期に察知する上で極めて有利であった。平地の利便性と山城の防御性を兼ね備えた、当時の先進的な城郭形態と言える。

城の縄張り(設計)は、丘陵の地形を巧みに利用したものであった。城の中心となる本丸は、現在の城山八幡宮の社殿が鎮座する最も高い場所に置かれた 7 。その西側に一段低く二の丸が配置され、ここには近代建築である旧昭和塾堂が建っている 7 。城山八幡宮に残る古図によれば、本丸と二の丸は土橋によって連結されており、有事の際にはこの連絡路を遮断することで、本丸の独立性を高める設計であったと推測される 14 。城全体の規模は、東西約180メートル、南北約150メートルに及んだとされ、当時の尾張における拠点城郭として十分な規模を誇っていた 11

第二章:防御施設 ― 土の城の技巧

末森城の防御システムの中核をなすのは、石垣ではなく、土を主材料とした構築物であった。特に、城を訪れる者を圧倒するのは、その壮大な空堀である。

本丸の南から東にかけての斜面中腹には、現在でも深さ5メートルから7メートル、幅は最大で16メートルにも達する巨大な空堀が明瞭な形で残されている 5 。この規模の空堀が都市部に現存している例は極めて稀であり、末森城の軍事的重要性を物語っている。堀の壁面は鋭く削り出された切岸となっており、敵兵が容易によじ登ることを許さない 5

さらに、過去の発掘調査では、二重の「薬研堀」が検出されたとの記録がある 14 。薬研堀とは、底がV字型に鋭く掘られた堀のことで、滑り落ちた敵兵が身動きを取りにくく、高い殺傷能力を持つ戦国期特有の防御施設である。このような堀を二重に巡らせることで、城の防御力は格段に向上していたと考えられる。

また、城山八幡宮に残る古図には、虎口(城の出入り口)を防御するための「馬出」と呼ばれる小規模な曲輪が描かれている 7 。馬出は、虎口から出撃する味方を援護し、敵の直線的な突入を防ぎ、側面から攻撃を加えるための先進的な設備である。

しかし、これらの高度な防御施設の存在は、一つの重要な問いを投げかける。現在確認できる末森城の遺構、特に馬出のような構造や大規模な空堀は、信秀・信行時代のものだけではなく、後の時代に大規模な改修が加えられた結果である可能性が極めて高い。

その根拠は、城の歴史そのものにある。末森城は、弘治3年(1557年)に城主の信行が謀殺された後、一度廃城となっている 11 。しかし、それから約27年後の天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いが勃発すると、織田信長の次男・信雄が羽柴秀吉軍に備えるため、この廃城を再整備して利用したという記録が複数の資料で確認できる 7 。馬出や総構えといった構造は、信秀が築城した1540年代よりも、1580年代の城郭建築でより一般的になった技術である。したがって、現在の遺構は「1548年の信秀による創建時の基本構造」の上に、「1584年の信雄による対秀吉戦を想定した、より実戦的な改修」が重ねられた「歴史的複合体」と捉えるのが最も合理的である。この視点に立つことで、なぜ一度廃城となった城が、これほどまでに堅固で巧妙な遺構を現代に留めているのかという疑問に対する答えが見えてくる。末森城の土塁や空堀は、二つの異なる時代の緊迫した軍事情勢をその身に刻み込んだ、歴史の証人なのである。

第二部:織田弾正忠家の内訌 ― 信長と信行の対立

織田信秀の死後、末森城は歴史の新たな局面を迎える。それは、信秀が築き上げた織田弾正忠家の家督を巡る、実の兄弟による骨肉の争いである。この内訌において、末森城は単なる軍事拠点の枠を超え、織田家内の保守派・反信長勢力が結集する政治的な中心地となり、信長の天下統一事業の黎明期における最大の試練の舞台となった。

第一章:信秀の死と「二元体制」

天文21年(1552年)、尾張の虎・織田信秀は、志半ばにして末森城で病没した 2 。彼の死は、弾正忠家に大きな権力の空白を生んだ。家督は嫡男の信長が継承したとされるが、その実態は単純なものではなかった。

信秀の死後、父の最後の居城であり、事実上の本城であった末森城を継承したのは、信長の同母弟である織田信行(信勝)であった 1 。この事実は極めて重要な意味を持つ。当時の武家社会において、当主が最後に居住した城を相続することは、その後継者としての正統性を内外に示す強力な象徴であった。信行が末森城主となったことは、彼が単なる信長の弟ではなく、有力な家督継承候補者と目されていたことを示唆している。

さらに、信行の下には、織田家の宿老である柴田勝家や林秀貞(通勝)といった重臣たちが付けられた 1 。加えて、兄弟の生母である土田御前も、信長ではなく信行と共に末森城で暮らした 7 。これらの事実から、信秀死後の弾正忠家は、信長が単独で家督を継承したというよりも、那古野城を拠点とする信長が尾張西部を、そして正統性の象徴である末森城を拠点とする信行が重臣たちの支持を得て東部を支配するという、一種の「二元体制」にあったとする見方が有力である 1 。末森城は、この権力分有状態における信行派の牙城となったのである。

第二章:稲生の戦いと末森城籠城

この不安定な二元体制は、やがて破綻を迎える。信長の「うつけ」と評される常識外れの言動や、身分にとらわれない人材登用といった革新的な政策は、旧来の秩序を重んじる宿老たちの反発を招いた。彼らは、品行方正で武将としての器量も備えているとされた信行こそが、織田弾正忠家の当主にふさわしいと考え、信長を廃して信行を擁立しようと画策する 1

弘治2年(1556年)8月、ついに信行方は末森城と那古野城を拠点に、信長に対して反旗を翻した。両軍は稲生(現在の名古屋市西区)の地で激突する 6 。兵力では信行方が優勢であったが、信長は自ら先頭に立って三間半(約6.3メートル)の長槍を振るい、敵将・林通具(美作守)を討ち取るなど、鬼気迫る奮戦を見せ、戦局を覆した 21

稲生の野戦で敗れた柴田勝家らの軍勢は、拠点である末森城へと敗走し、籠城の構えを見せた 6 。勝利の勢いに乗る信長は、ただちに末森城を包囲。城下の町家に火を放って城を孤立させ(裸城にし)、降伏を迫る強力な軍事的圧力をかけた 7

城がまさに陥落寸前となったその時、事態を収拾するために動いたのが、城内にいた母・土田御前であった。彼女は信長に使者を送り、息子の罪を詫び、助命を嘆願した 7 。母の必死の懇願を前に、信長は攻撃を中止し、信行の赦免を受け入れた。これにより、信行は一命を取り留め、末森城も破壊を免れたのである。

第三章:謀殺と廃城

一度は赦免された信行であったが、信長への対抗心を捨てることはなかった。永禄元年(1558年)、彼は再び信長への謀反を企てる 10 。しかし、この計画は信行の家老であった柴田勝家によって、事前に信長へと密告された 11 。稲生の戦いを通じて信長の器量を目の当たりにした勝家は、もはや信行に未来はないと見限り、織田家の将来を信長に託す決断をしたのである。

二度にわたる弟の裏切りを知った信長は、もはや躊躇しなかった。病に罹ったと偽り、見舞いと称して信行を自身の居城である清洲城に呼び寄せた。そして、油断した信行を城内の一室で謀殺したのである 11

城主を失った末森城は、その存在意義を完全に失った。信長は、この城が再び反乱の拠点となることを防ぐため、速やかに廃城としたと伝えられている 8 。織田信秀の野望の象徴として築かれ、兄弟の血で血を洗う抗争の舞台となった末森城は、築城からわずか10年余りで、その短いながらも濃密な歴史に幕を下ろした。

この一連の出来事を通して、末森城は単なる軍事施設ではなく、織田家内部の保守派・反信長勢力が結集する「政治的シンボル」としての役割を担っていたことが明らかになる。信秀の最後の居城という正統性を背景に、宿老たちがこの城に集ったのは、信行を旗頭とする政治運動の拠点であったからに他ならない。信長が稲生の戦いの後に城を攻め、信行の謀殺後に速やかに廃城としたのは、この「反信長の象徴」を物理的にも精神的にも完全に破壊し、自らの支配体制を盤石にするための、徹底した政治的措置であったと解釈できる。


表2:稲生の戦いにおける両軍の主要構成

項目

織田信長軍

織田信行軍

総大将

織田信長

織田信行

主要武将

佐久間信盛、佐久間盛重、森可成、織田信房

柴田勝家、林秀貞(通勝)、林通具

兵力(推定)

約700~1,000名 21

約1,700~2,000名 21

主要拠点

清洲城

末森城、那古野城


第三部:歴史の再舞台 ― 小牧・長久手の戦いとその後

信行の死と共に廃城となり、歴史の表舞台から一度は姿を消した末森城。しかし、その戦略的な価値は時代を超えて認識されていた。約四半世紀の時を経て、尾張国が再び天下分け目の戦いの舞台となると、末森城はその堅固な地勢から再び軍事拠点として注目され、歴史にその名を刻むことになる。そしてその後は、戦乱の記憶を留めながらも、地域の信仰と文化の中心へとその姿を変えていく。

第一章:織田信雄による再整備

天正10年(1582年)の本能寺の変で織田信長が横死すると、その後継者の地位を巡り、筆頭家老であった羽柴秀吉が急速に台頭した。これに対し、信長の次男・織田信雄は徳川家康と手を結び、秀吉との対決姿勢を鮮明にする。天正12年(1584年)、両陣営は尾張国で対峙し、小牧・長久手の戦いが勃発した 28

この戦いにおいて、信雄・家康連合軍は小牧山に本陣を構え、その周辺に砦のネットワークを築いて秀吉の大軍を迎え撃つという防御戦略をとった 28 。この文脈の中で、かつて廃城となった末森城跡が、その戦略的な立地から再び脚光を浴びることになる。末森城跡は小牧山の南東に位置し、秀吉方の拠点であった犬山城や楽田城方面からの侵攻に対する東方の警戒拠点として、また、徳川家康の本国である三河との連絡線を確保する上でも重要な場所であった。

このため、織田信雄は末森城跡に大規模な改修を施し、即席ながらも強力な砦として再生させたと考えられている 7 。現在我々が見ることができる、深く広大な空堀や、古図に描かれた馬出といった高度な防御施設の多くは、この時に築かれたものである可能性が高い。信秀が築いた元々の城の基礎の上に、秀吉との実戦を想定した、より進んだ築城技術が加えられたのである。この戦いにおいて末森城で具体的な戦闘があったという記録は乏しいが、信雄・家康連合軍の防衛網の一翼を担う拠点として、一時的にではあるが重要な軍事的役割を果たしたことは間違いない。

第二章:近世から現代へ

小牧・長久手の戦いが和睦によって終結すると、末森城は再びその軍事的な役割を終える。しかし、城はその命脈を絶たれたわけではなかった。城の歴史は、新たな形で受け継がれていくことになる。

その礎を築いたのは、皮肉にも城を廃墟に至らしめる原因となった城主・織田信行自身であった。彼は城主であった天文22年(1553年)、加賀国(現在の石川県)の白山比咩神社から分霊を迎え、城の鎮守として城内に白山社を祀っていた 9 。城が廃された後も、この白山社は地域の住民たちの信仰を集め、ひっそりと維持され続けた。そして明治時代に入り、近隣にあった八幡社と合祀されることで、現在の「城山八幡宮」として新たな歴史を歩み始めたのである 9

江戸時代に編纂された尾張国の地誌『尾張名所図会』にも、「末森古城」としてその名が記されており、信秀・信行父子の城であったことが伝えられている 17

現代において、末森城跡は城山八幡宮の神域として手厚く保護され、名古屋という大都市の中心部にありながら、戦国時代の城郭遺構が奇跡的とも言える良好な状態で残されている 5 。本丸跡は神社の社殿や駐車場となり、二の丸跡には昭和3年(1928年)に青年の修練場として建設された昭和塾堂の建物が現存し、戦国時代から近代に至るまでの歴史が重層的に感じられる独特の景観を形成している 7 。また、城の名は「末盛通」という街路名にも残り、地域の歴史的アイデンティティの一部として今に生き続けている 7

末森城の歴史は、軍事施設としての「死」(廃城)と、信仰の対象としての「再生」という、明確な機能の転換を示している。この転換の核となったのは、城主・信行が城内で行った宗教的行為(白山社の勧請)であった。城の軍事的・政治的機能は信行の死と共に完全に失われたが、彼が城内に埋め込んだ「白山社」という宗教的な種子は、城の物理的な崩壊を乗り越えて存続した。この種子が地域住民の信仰という養分を得て育ち、やがて「城山八幡宮」という新たな大樹として、その場所の記憶と意味を現代までつないでいるのである。これは、日本の城郭が単なる軍事施設に終わらず、しばしば地域の信仰や文化の中心地へと姿を変えていく歴史のダイナミズムを示す、象徴的な事例と言えるだろう。

終章:末森城が物語るもの ― 織田家内部抗争の象徴として

尾張国末森城の歴史は、築城から廃城までわずか10年余りという、戦国時代の数多の城郭の中でも極めて短いものであった。しかし、その短い期間に凝縮された歴史は、戦国という時代の本質と、織田信長という傑出した人物が天下統一へと駆け上がる前夜の、激しい内部の葛藤を雄弁に物語っている。

第一に、末森城は織田信秀の卓越した戦略眼と、晩年まで衰えることのなかった野望の証左である。美濃との和睦という外交的成功を背景に、対今川・松平戦線における攻勢拠点として築かれたこの城は、当時の尾張において最も先進的な戦略思想を体現した城郭であった。

第二に、この城は信秀の死後、織田弾正忠家が乗り越えなければならなかった深刻な家督争いの縮図となった。父の正統性を象徴する末森城を継承した信行と、旧来の秩序に反発する信長。この兄弟の対立は、単なる血族間の諍いではなく、旧守派の重臣たちと新興勢力との代理戦争でもあった。末森城は、信長が天下統一へと向かう前に、まず自らの家中ですら統一しなければならなかったという、厳しい現実を象徴する存在なのである。

第三に、末森城の遺構は、歴史の証人として類稀な価値を持つ。一度廃城となりながら、小牧・長久手の戦いという新たな軍事的緊張の中で再整備された結果、信秀が築いた1540年代の築城術と、信雄が改修した1580年代の、より進んだ築城術が重なり合った「複合遺構」となった。名古屋市街地という開発の波に洗われる場所にありながら、二つの時代の軍事思想をその身に刻み込んだ土の城が、これほど良好な状態で残されていることは、まさに奇跡と言えよう。

結論として、末森城は織田信長の華々しい成功物語の影で繰り広げられた、血族間の熾烈な権力闘争と、それに翻弄された人々の記憶を宿す場所である。その短い歴史は、戦国という時代の非情さと、一つの勢力が統一へと向かう過程で必然的に生じる内部の軋轢を、何よりも雄弁に物語っている。この城の歴史を深く理解することは、織田信長の天下統一事業の出発点を、単なる英雄譚としてではなく、より深く、人間的な葛藤に満ちたものとして捉え直すことに繋がるのである。

引用文献

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  10. 末森城の駐車場や御城印、見どころ(空堀、本丸跡など)を紹介! https://okaneosiroblog.com/aichi-suemori-castle/
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