能登末森城は、戦国の要衝。畠山、上杉、織田、前田と支配者変遷。天正十二年、前田利家が佐々成政の大軍を破り、加賀百万石の礎を築く。今も史跡として往時を伝える。
日本の戦国時代史において、数多の城郭が興亡の歴史を刻んできた。その多くは地域の盛衰を物語るにとどまるが、中には天下の動向と密接に連動し、歴史の転換点として重要な役割を果たした城も存在する。能登国羽咋郡(現在の石川県羽咋郡宝達志水町)に存在した末森城は、まさに後者の典型例と言える。本報告書は、この末森城を単なる一地方の山城としてではなく、織田信長亡き後の北陸地方における権力構造の再編、ひいては豊臣政権下の大名配置を決定づけた戦略拠点として捉え、その構造、歴史、そして運命を決定づけた「末森城の戦い」の意義を多角的に分析・考察することを目的とする。
なお、本報告書で扱うのは能登国の末森城である。尾張国(現在の愛知県名古屋市)にも同名の末森城が存在するが、これは織田信秀によって築かれ、信長の弟・信勝(信行)の居城として知られる城であり、能登末森城とは全く別個の城郭である 1 。両者はしばしば混同されるため、本報告書の冒頭においてこの点を明確に区別しておく。
末森城は、宝達丘陵の北西端に位置する末森山(標高138.8メートル)に築かれた山城である 5 。この地は、加賀、能登、越中の三国が接する国境地帯にあり、古くから北陸道が通過する交通の要衝であった 8 。城からは加賀平野や河北潟、そして日本海を一望でき、能登半島の付け根を扼する絶好の立地を誇っていた。
この地理的優位性こそが、末森城を戦国末期の熾烈な争奪戦の舞台へと押し上げた根本的な要因である。城を制する者は、三国間の人流と物流を支配し、敵対勢力の連携を分断することが可能となる。そのため、能登の支配者であった畠山氏、越後から覇権を拡大した上杉氏、そして天下統一を目指す織田氏(およびその後継者たる前田氏と佐々氏)といった諸勢力にとって、末森城は自らの勢力圏を維持・拡大する上で決して手放すことのできない戦略的価値を有していた。
末森城の真の価値は、単に「国境の城」という静的な地理条件に留まるものではない。北陸の勢力均衡が崩れるたびに、その戦略的価値が再定義される「動的な要衝」であった点にこそ、この城の歴史を読み解く鍵がある。能登畠山氏の支配下では、南の加賀一向一揆や東の越中神保氏に対する押さえとして機能した。しかし、天正5年(1577年)に上杉謙信が能登を制圧すると、城の役割は反転し、織田勢力が支配する加賀への侵攻拠点へと変貌を遂げる 8 。さらに、織田勢力、すなわち前田利家が能登を領有すると、今度は独立勢力である越中の佐々成政に対する最前線の防御拠点となる。このように、支配者が交代するたびに城の「仮想敵」と「戦略的ベクトル」が劇的に転換するダイナミズムは、城の物理的な位置は不変でも、政治情勢によってその意味が絶えず変化する戦国時代の城郭の特性を象徴している。
末森城は、末森山の尾根筋を巧みに利用して築かれた典型的な山城である。昭和60年(1985年)度から4年間にわたって実施された詳細な分布調査により、その縄張りの全貌が明らかとなった。城は、本丸に通じる各尾根に曲輪を直線的に配置する「連郭式」の構造を基本としており、長期的な籠城を目的とした、石川県内でも屈指の規模を誇る山城であったことが判明している 8 。
城の中心部は、最高所に位置する「本丸」、その南側に続く「二の丸」、そして南西の尾根に設けられた「若宮丸」の三つの主要な曲輪で構成される 6 。本丸は城全体の司令部として機能し、大規模な建造物の存在が推定される 5 。二の丸と若宮丸は、本丸へ至る経路を固める防御の中核を担っていたと考えられる。これらの曲輪群が点在する城域の総面積は、実に3万平方メートルにも及ぶ広大なものであった 5 。さらに、城内には「馬掛場」や「武家屋敷」と伝えられる区域も存在し、単なる戦闘時の砦ではなく、平時においても城主と家臣団が居住し、政務を執るための機能を備えた本格的な城郭であったことが窺える 10 。
末森城跡の特筆すべき点の一つは、第二次世界大戦まで国の保安林として乱伐が禁じられていたため、土塁や空堀といった遺構の保存状態が極めて良好であることだ 8 。現在でも、本丸、二の丸、若宮丸のあった跡地や、草叢に覆われながらもその形状を明瞭にとどめる空堀を確認することができる 6 。
特に、各曲輪を隔てる空堀は深く大規模であり、敵の侵攻を効果的に阻んだであろう。また、若宮丸は本丸からやや離れた独立性の高い曲輪であり、その下には幾層もの腰曲輪が存在したと推測されている 14 。こうした配置から、若宮丸は城内に侵入した敵兵を側面から攻撃するための「隠し曲輪」、あるいは「出城」として機能した可能性が指摘されている 5 。城の斜面は鋭く削り取られ、高い切岸を形成しており、下からの登攀を困難にしていた。これらの堅固な防御施設は、後の末森城の戦いにおいて、圧倒的多数の敵を相手に城が持ちこたえる大きな要因となった。
昭和60年(1985年)から旧押水町によって実施された大規模な発掘調査は、文献史料だけでは窺い知れない城の実像を明らかにした 7 。城内からは、15世紀後半から16世紀後半にかけての陶磁器などの生活用具や、武具、そして鉄砲の弾などが数多く出土している 7 。これらの出土品は、末森城が長期間にわたって継続的に使用されていたこと、そして戦国末期の主要な武器であった鉄砲を用いた戦闘に備えていたことを物語っている。
また、若宮丸の発掘調査では、建物の柱を据えたと考えられる柱穴の跡が発見されており、曲輪内には恒常的な建造物が存在したことが考古学的にも裏付けられた 13 。これらの発見は、末森城の性格を考える上で重要な示唆を与える。縄張り調査から「長期居城を目的とした県内屈指の山城」と評価されている点 8 、そして発掘調査で武具だけでなく「生活用具」が多数出土している点 7 を総合すると、末森城は戦闘時のみ機能する一時的な「陣城」とは一線を画すものであったことがわかる。むしろ、平時においても城主とその家臣団が居住し、周辺地域の支配を行う政治・経済の中心地としての機能も有した「拠点山城」であったと結論付けられる。この性格は、城主であった土肥氏が在地性の強い国人領主であったこととも見事に符合する。末森城は彼らにとって、軍事、政治、そして生活の全てを支える本拠地そのものであった。
末森城の正確な築城年代は不明であるが、史料によれば、少なくとも16世紀半ばにはその存在が確認できる。『長家系譜』には、天文19年(1550年)の時点で城が設けられており、その城主は能登守護・畠山氏の家臣であった土肥但馬、すなわち土肥親真であったと記されている 8 。
しかし、土肥親真の出自と能登畠山氏との関係は、単純な主従関係ではなかった可能性が高い。親真は、もともと越中国を本拠とする土肥氏の一族であり、能登においては在地性の強い国人領主であった 16 。彼が能登畠山氏の正規の家臣として活動したことを示す直接的な史料は乏しい 18 。むしろ、畠山家中の内紛である「大槻・一宮の合戦」において、親真が温井方として参戦している記録が残っており 19 、これは彼が守護・畠山氏と一定の関係を保ちつつも、独自の判断で行動する半ば独立した勢力であったことを示唆している。この時期の末森城は、権威が形骸化しつつあった能登畠山氏の支配体制下で、在地領主である土肥氏が自らの勢力を維持・拡大するための拠点として機能していたと考えられる。
天正5年(1577年)、越後の上杉謙信が能登に大軍を率いて侵攻すると、北陸の勢力図は一変する。能登畠山氏の本拠・七尾城が陥落する中、土肥親真は時勢を読み、上杉方に降伏した 7 。この年の上杉家の家臣団名簿である『上杉家家中名字尽』には、越中衆の一人として「土肥但馬守」の名が記されており、親真が正式に上杉勢力下に組み込まれたことが確認できる 18 。
謙信は、能登を平定した後、次なる目標である加賀攻略の拠点として末森城を重視した。城には一時、上杉軍の重臣である斎藤朝信らが入り、織田勢力に対する最前線基地としての役割を担った 7 。その後、城の支配は再び親真に委ねられ、彼は上杉氏の能登支配を支える一翼を担うこととなった 21 。
天正6年(1578年)の謙信の急死は、北陸情勢に再び大きな変動をもたらした。上杉家が家督争い(御館の乱)で混乱する隙を突き、織田信長の命を受けた柴田勝家が北陸への侵攻を本格化させる。天正8年(1580年)、柴田軍の圧力を受けた土肥親真は、上杉氏を見限り、織田方に降伏した 18 。
翌天正9年(1581年)、織田政権下で能登一国が前田利家に与えられると、親真は利家の与力(配下の将)という立場となり、引き続き末森城主の地位を安堵された 10 。さらに、利家の正室・まつ(芳春院)の姪を妻に迎えることで、新たな支配者である前田家との関係強化を図った 10 。しかし、天正11年(1583年)、羽柴秀吉と柴田勝家が雌雄を決した賤ヶ岳の戦いにおいて、利家軍の先鋒として出陣した親真は、近江柳ヶ瀬で討死を遂げ、その波乱の生涯を閉じた 13 。
親真の死後、利家は末森城を前田家の直轄拠点として、その戦略的重要性を再認識した。そして、城主として自らの腹心である重臣・奥村永福を配置した 8 。これにより、末森城は土肥氏という在地領主の城から、前田氏という新たな統一権力の城へと、その性格を完全に変えることになったのである。
この土肥親真の一連の動向は、戦国時代後期の国人領主が、自らの所領と一族の存続を賭けて巨大勢力の間を渡り歩く、したたかな生存戦略の典型例を示している。畠山氏への従属、上杉氏への降伏、織田氏への帰順、そして前田氏への与力化という末森城の城主の変遷は、そのまま北陸地方の覇権が畠山、上杉、織田(前田)へと移り変わっていく過程を正確に映し出す鏡像と言えよう。
和暦(西暦) |
主要な出来事 |
天文19年(1550年)頃 |
史料上の初見。能登畠山氏の配下、土肥親真が城主であったと伝わる 8 。 |
天正5年(1577年) |
上杉謙信の能登侵攻。土肥親真は降伏し、末森城は上杉軍の拠点となる 7 。 |
天正8年(1580年) |
織田家の柴田勝家が侵攻。土肥親真は降伏し、織田方に属する 18 。 |
天正9年(1581年) |
前田利家が能登国主に。土肥親真は利家の与力となり、城主の地位を維持する 21 。 |
天正11年(1583年) |
賤ヶ岳の戦いで土肥親真が戦死 13 。前田利家は重臣・奥村永福を新たな城主とする 8 。 |
天正12年(1584年) |
末森城の戦い 。佐々成政軍の猛攻を奥村永福が守り抜き、前田利家の救援で勝利する 11 。 |
元和元年(1615年) |
元和一国一城令により廃城となる 10 。 |
平成3年(1991年) |
石川県指定史跡となる 7 。 |
表1:末森城関連年表
天正12年(1584年)、末森城は、その後の北陸の、ひいては日本の歴史を大きく左右する激戦の舞台となった。この戦いは、単なる地域的な紛争ではなく、織田信長亡き後の天下の覇権を巡る、より大きな構図の中で発生したものであった。
この年、中央では羽柴秀吉と、信長の次男・織田信雄および徳川家康の連合軍が対峙する「小牧・長久手の戦い」が勃発していた 12 。この天下分け目の戦いは、全国の大名を巻き込み、各地で連鎖的な戦闘を引き起こした。末森城の戦いは、この中央での対立が北陸地方に飛び火した、いわば「第二戦線」であった。
北陸において、この対立構造は前田利家と佐々成政という二人の武将の激突として現れた。利家は秀吉方に、一方の成政は信雄・家康方に与したのである 24 。両者はかつて織田信長の下で、利家は「赤母衣衆」、成政は「黒母衣衆」の筆頭として、互いに武功を競い合った同僚であり、ライバルであった 24 。しかし、本能寺の変を経て、信長の後継者を選ぶ過程で両者の道は分かたれた。越中を本拠とする成政は、秀吉の勢力拡大を快く思わず、家康と連携することで活路を見出そうとした。彼の戦略は、利家の領国である加賀・能登を攻撃することで秀吉軍の戦力を北陸に引きつけ、中央での家康・信雄連合軍の戦いを有利に導くことにあった 12 。こうして、かつての盟友は、北陸の覇権と自らの存亡を賭けて、末森城で雌雄を決することになったのである。
天正12年9月9日、佐々成政は1万5千と号する大軍を率いて越中富山城を出陣した 9 。成政軍は宝達山を越え、末森城を南から見下ろすことができる坪井山(坪山砦)に本陣を敷いた 26 。この布陣は、末森城を孤立させると同時に、利家の領国である加賀と能登の連絡を完全に遮断するという明確な戦略的意図を持っていた 9 。さらに成政は、金沢からの利家の援軍を警戒し、有力な家臣である神保氏張の部隊を海岸沿いの要衝・北川尻に配置し、万全の態勢を整えた 26 。
これに対し、末森城を守る前田方の兵力は、圧倒的に寡兵であった。その数については諸説あり、300人 26 、500人 29 、あるいは1,500人 9 と記録によってばらつきがあるが、いずれにせよ1万5千の佐々軍に対して絶望的な戦力差であったことは間違いない。城を守る将は、前田家の譜代の重臣である奥村永福と、その補佐役である千秋範昌であった 9 。彼らは、この絶望的な状況下で、前田家の命運を賭けた籠城戦に臨むことになった。
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攻城軍(佐々軍) |
籠城・救援軍(前田軍) |
総大将 |
佐々成政 |
前田利家 |
主要武将 |
神保氏張、佐々平左衛門、前野小兵衛など |
籠城 : 奥村永福、千秋範昌、土肥次茂など 救援 : 前田利長、村井長頼など |
推定兵力 |
15,000人 |
籠城 : 300~1,500人 救援 : 2,500人 |
表2:末森城の戦いにおける両軍の兵力・主要武将比較
9月10日(史料によっては11日 28 )、佐々軍による末森城への総攻撃が開始された。大軍の猛攻の前に、当初の戦況は佐々軍が圧倒的に有利に進んだ 26 。城代の一人であった土肥次茂(土肥親真の弟)は、城下町を守るために打って出たが、衆寡敵せず討死を遂げた 22 。城外の防御線は次々と破られ、三の丸、二の丸も陥落したとの記録もあり 30 、本丸に追い詰められた籠城軍は、まさに落城寸前の危機に瀕していた。
この絶望的な状況の中、城将・奥村永福は冷静沈着な指揮で、残った兵を巧みに動かし、必死の防戦を続けた 32 。そして、この籠城戦の士気を支えたのが、永福の妻・お安(つね)の方の存在であった。伝承によれば、お安の方は自ら薙刀を手に城内を巡回し、兵士たちを鼓舞した。さらには、負傷者の手当てを自ら行い、粥を炊き出して疲弊した城兵に振る舞うなど、献身的に将兵を支え続けたという 12 。この逸話は、物理的な戦力差を覆す上で、城内の士気を維持することがいかに重要であったかを物語っている。お安の方の存在は、絶望的な状況下で戦う兵士たちにとって、大きな精神的支柱となったに違いない。
末森城が落城寸前であるとの急報は、金沢城の前田利家のもとにもたらされた。利家は即座に救援のための出陣を決意する。しかし、この決断は大きな困難を伴うものであった。金沢城の守備兵力は手薄であり、また主君である秀吉からは、軽率な行動を慎み金沢城を固守するよう厳命されていた 12 。家臣団の大半は、本拠地を空けるリスクと主君の命令に背くことを恐れ、援軍の派遣に強く反対した 12 。
この膠着した状況を打破したのが、利家の正室・まつ(芳春院)であった。利家の迷いを見抜いたまつは、金銀の入った袋を夫の前に差し出し、「日頃から金銀で兵を養うとおっしゃっているのに、蓄えることばかり。それならば、この金銀に槍を持たせて戦わせればよろしいではございませんか」と、辛辣な言葉で利家を叱咤したと伝えられている 12 。この一喝が利家の覚悟を決めさせた。彼は家臣の反対を押し切り、忠臣を見殺しにはできないと、決死の救援行に打って出たのである。
利家は、嫡男・利長らと共に2,500の兵を率いて金沢城を出陣した 26 。しかし、末森城への道は佐々軍の警戒網が敷かれている。ここで決定的な役割を果たしたのが、高松村(現在のかほく市)の農民・桜井三郎左衛門であった 7 。彼は土地勘を活かし、佐々軍の警戒が手薄な海岸線の砂丘地帯を進む間道を利家軍に教えたのである 26 。この奇策により、利家軍は神保氏張が守る北川尻の警戒網を潜り抜け、敵に察知されることなく、驚異的な速さで末森城へと接近することに成功した。
9月11日の明け方(12日早朝説もある 28 )、海岸線を進んだ利家軍は今浜(現在の宝達志水町今浜)に到着し、末森城を包囲攻撃する佐々軍の背後から奇襲をかけた 12 。予期せぬ援軍の出現、それも敵の背後からの攻撃に、佐々軍は完全に意表を突かれ、大混乱に陥った。この好機を逃さず、城内からも奥村永福率いる籠城兵が最後の力を振り絞って打って出る。前後から挟撃される形となった佐々軍は、もはや組織的な抵抗を維持できず、総崩れとなって敗走した 9 。
この激戦による死者は、両軍ともに750人余りにのぼったと記録されている 26 。圧倒的優位にありながら大敗を喫した佐々成政は、軍をまとめて越中へと退却した 26 。この敗北は、成政の加賀・能登侵攻計画を完全に頓挫させ、これ以降、彼は守勢に転じざるを得なくなった。末森城の戦いは、前田利家の劇的な勝利に終わったのである。
この戦いの勝敗を分けた要因は、単なる戦術の優劣に留まらない。それは情報戦、心理戦、そして指導者の決断力の差であった。成政は、偽の縁談で利家を油断させようとしたが 28 、利家はこれを察知し備えを固めた。一方、利家は桜井三郎左衛門という現地の協力者から「敵の意表を突く進軍路」という決定的な情報を得た。心理面では、籠城側のお安の方、救援側のまつという二人の女性が、絶望的な状況や困難な決断に際して、兵士や指導者の精神を支え、物理的な劣勢を覆す原動力となった。そして何よりも、秀吉の命令に背き、本拠地を空けるという大きな危険を冒してでも、戦略的要衝と忠臣を見捨てないという利家の果断な決断が、勝利をその手中に引き寄せたのである。
末森城の歴史は、城そのものだけでなく、その運命に関わった人物たちの生き様によって彩られている。ここでは、城の興亡を象徴する四人の主要人物に焦点を当てる。
能登畠山氏の衰退期から織田・前田の台頭期にかけて末森城主を務めた土肥親真は、激動の時代を生き抜いた国人領主の典型である 18 。彼は、畠山、上杉、織田、そして前田と、北陸の覇権を握る勢力が変遷するたびに、巧みにその麾下に加わることで自らの所領と一族の存続を図った。その行動は、一見すると主体性のない日和見主義のようにも見えるが、巨大勢力の狭間で生き残りを賭ける地方領主の、したたかで現実的な生存戦略の現れであった。賤ヶ岳の戦いで前田軍の先鋒として散ったその最期は、新たな秩序に組み込まれていく国人領主の宿命を象徴している。
前田利家が尾張荒子城主時代から仕えた最古参の家臣の一人であり、「髭殿」と呼ばれ絶大な信頼を寄せられた忠臣である 36 。末森城の戦いにおける彼の功績は、単に城を守り抜いたという戦術的勝利に留まらない。圧倒的劣勢の中、主君の救援を信じて最後まで耐え抜いたその粘り強さと忠義は、前田家臣団の結束力を内外に示し、後の加賀藩における奥村家の地位を不動のものとした。彼の武勇と、妻・お安の方の献身的な逸話は、加賀百万石の礎を築いた家臣団の理想像として後世まで語り継がれている 34 。
織田信長配下時代には、鉄砲隊の指揮官として長篠の戦いで活躍するなど、有能な武将として高く評価されていた 37 。しかし、信長亡き後の政治情勢の読みを誤り、秀吉との対立の道を選ぶ。末森城での手痛い敗北は、彼の軍事計画を頓挫させただけでなく、その威信を大きく傷つけ、没落への道を決定づける転換点となった 40 。武勇に優れ、領国経営にも手腕を発揮したとされるが、中央の政治力学に対応できなかった悲劇の武将と言える。なお、彼に関する悪評の一部は、後に越中を支配した前田氏によって意図的に広められた可能性も指摘されている 41 。
末森城の戦いにおける勝利は、前田利家の武将としての評価を決定的なものとした。秀吉の命令に背くという大きな政治的リスクを冒してでも、 strategic な要衝と忠臣を見捨てなかったその決断は、結果として秀吉からの信頼をさらに厚くし、北陸における彼の地位を盤石なものにした。家臣や領民を大切にする姿勢が、桜井三郎左衛門のような協力者を生み、勝利を呼び込んだとも言える。この一戦での勝利がなければ、後の加賀百万石の繁栄はあり得なかったであろう。末森での勝利は、利家が北陸の雄から天下の大々名へと飛躍する上で、不可欠な一歩であった 24 。
末森城の戦いは、しばしば「前田家の桶狭間」と評される 24 。これは、圧倒的劣勢を覆して勝利し、その後の飛躍のきっかけとなった点で、織田信長にとっての桶狭間の戦いに匹敵する重要性を持つことを意味する。もしこの戦いに敗れていれば、前田家は加賀・能登の支配権を失い、佐々成政に北陸の覇権を奪われていた可能性が高い。そうなれば、後の加賀百万石という巨大な藩の成立はあり得なかったであろう。この一戦の勝利こそが、前田家が豊臣政権下で北陸の最有力大名としての地位を確立し、江戸時代を通じて続く大藩の礎を築く上での、決定的な転換点であった。
末森城での敗北により、佐々成政は軍事的に大きく後退し、守勢に回らざるを得なくなった。この好機を逃さず、翌天正13年(1585年)8月、羽柴秀吉は自ら10万(一説には7万 44 )ともいわれる大軍を率いて越中に侵攻した。これが「富山の役」である 26 。末森での敗戦で勢いを失っていた成政に、この大軍に抗する力はなく、降伏を余儀なくされた。
戦後処理として、成政は越中を没収され、その旧領のうち砺波・射水・婦負の三郡は前田利家の嫡男・利長に与えられた 28 。これにより前田家の所領は大幅に拡大し、加賀・能登・越中の三国にまたがる広大な領国を支配する大々名としての地位を不動のものとした。この一連の流れは、秀吉が自らに従わない有力大名を確実に排除していく天下統一事業の重要な一環であった。その意味で、末森城の戦いは、秀吉による北陸平定、ひいては天下統一の序章としての役割を果たしたと言える。
この戦いの最大の歴史的意義は、豊臣政権下における「北陸ブロック」の支配者を、佐々成政ではなく前田利家に決定づけた点にある。戦国末期、上杉氏、織田氏の諸将が入り乱れた北陸は、信長死後、成政と利家の二大勢力が覇を競う場となっていた。末森城での利家の完勝は、この競争に明確な決着をつけた。この結果を受け、秀吉は利家を北陸支配のパートナーとして公認し、「富山の役」で成政を完全に排除した。これにより、前田家は他の大名を寄せ付けない「北陸の雄」としての地位を確立し、その後の約270年間にわたる北陸の政治地図を決定づける分水嶺となったのである。
戦国時代を通じて重要な役割を果たした末森城も、江戸時代に入り、世の中が安定するとその役目を終えることとなる。元和元年(1615年)、徳川幕府によって発布された一国一城令により、末森城は廃城となり、その歴史に幕を下ろした 10 。
現在、末森城跡は平成3年(1991年)に石川県の指定史跡となり、大切に保護されている 6 。城跡には、本丸、二の丸、若宮丸の曲輪跡や、大規模な空堀が良好な状態で残されており、訪れる者は往時の山城の姿を偲ぶことができる 6 。山麓には駐車場や案内板、鳥瞰図などが整備され、多くの歴史ファンやハイカーが訪れる史跡となっている 6 。城跡の管理は、宝達志水町埋蔵文化財センターが行っている 6 。
また、末森城の戦いの劇的な物語は、地域の民謡として歌い継がれたり 9 、様々な伝承として今なお地域の人々に語り継がれており 49 、郷土の誇りとして生き続けている。
能登国末森城の歴史は、一つの城郭の興亡を通じて、戦国時代という時代の本質を我々に示してくれる。その歴史は、守護大名(畠山氏)という中世的権威が失墜し、在地領主(土肥氏)が自らの力で台頭し、最終的には天下人(秀吉)の代理人たる大大名(前田氏)が地域を完全に支配するという、戦国時代における権力構造の典型的な変遷過程を凝縮している。
本報告書では、末森城の構造的特徴、考古学的知見、そして築城から廃城に至るまでの歴史的変遷を詳述した。特に、城の運命を決定づけた「末森城の戦い」については、その背景、経過、そして関わった人々の動向を多角的に分析し、この一戦が単なる局地戦ではなく、前田家の運命、北陸の勢力図、さらには秀吉の天下統一事業にまで影響を及ぼした歴史的な転換点であったことを明らかにした。
一地方の山城が、いかにして天下の動向と密接に結びつき、歴史を動かす舞台となり得たのか。末森城跡に佇むとき、我々はそこに刻まれた攻防の記憶とともに、乱世を生き抜いた人々の知恵、勇気、そして決断の重みを感じ取ることができる。末森城が語る物語は、戦国時代を理解する上で、依然として多くの示唆に富んでいる。