本佐倉城の築城は、単に旧来の居城が老朽化したという物理的な理由に留まるものではない。それは、関東地方を約30年にわたる戦乱に陥れた「享徳の乱」という未曾有の動乱の中から、必然的に生まれた戦略的決断の産物であった。本章では、城が築かれた歴史的背景と、千葉氏が「佐倉」の地を選定した地政学的な理由を深く考察する。
享徳3年(1454年)、第5代鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺したことに端を発する「享徳の乱」は、関東全域を巻き込む大乱へと発展した 1 。この戦乱は応仁の乱に先立つこと13年、関東地方における実質的な戦国時代の幕開けと位置づけられている 2 。結果として、利根川を境界として関東は東の古河公方(足利成氏)陣営と西の関東管領(上杉氏)陣営に二分され、諸大名はどちらの陣営に与するかという重大な選択を迫られた 2 。
この動乱は、下総国(現在の千葉県北部と茨城県南部)の名門・千葉氏の運命をも大きく揺るがした。康正元年(1455年)、古河公方側についた千葉氏庶流の馬加康胤と重臣の原氏が、関東管領側についた宗家の千葉胤直・胤宣父子の本拠地・千葉城(現在の千葉市中央区)を急襲し、宗家一族を自害に追い込んだのである 2 。これにより、鎌倉時代以来の名門であった千葉宗家は事実上滅亡し、千葉氏の内部で権力の空白が生まれた。しかし、クーデターを成功させた馬加康胤も、室町幕府の命を受けた美濃国の東常縁によって討伐される 3 。
この混乱の中から千葉氏の新当主として台頭したのが、馬加康胤の子息とされる千葉輔胤であった 3 。輔胤は父の路線を継承し、古河公方・足利成氏と強く結びつくことで下総における支配体制の再構築に着手した 4 。
この一連の出来事は、本佐倉城の築城を理解する上で極めて重要な意味を持つ。輔胤にとって、旧宗家の本拠地であった千葉城をそのまま使用することは、政治的正統性の観点から大きな問題があった。千葉城は、自らが打倒した旧体制の象徴であり、そこには旧宗家を支持する勢力の記憶が色濃く残っていた。したがって、輔胤が新たな本拠地を築くことは、単なる居城の移転ではなく、旧体制との完全な決別を宣言し、自らが創始者となる新たな「千葉王朝」の始まりを内外に示すための、極めて象徴的な政治行為であった。本佐倉城は、この「王朝交代」を可視化するための記念碑として計画されたのである。
千葉輔胤が新たな本拠地として選んだ佐倉の地は、享徳の乱によって激変した関東の地政学的環境に完璧に対応する戦略的要衝であった。
第一に、古河公方・足利成氏との連携強化という軍事・政治的要請があった。成氏は上杉方に鎌倉を追われ、下総国古河を新たな本拠地としていた 2 。従来の千葉城が江戸湾(東京湾)に面した海洋交易の拠点であったのに対し、本佐倉の地は古河へ陸路・水路双方でアクセスしやすい、内陸の戦略的位置にあった 5 。
第二に、印旛沼水運の掌握という経済的・軍事的利点があった。当時の印旛沼は「香取の海」と呼ばれる広大な内海の一部であり、常陸川(現在の利根川下流)や鬼怒川を通じて関東各地と結ばれる水運の大動脈であった 3 。本佐倉城はこの印旛沼南岸の台地に位置し、城から眼下の水系を利用して古河や北関東へ軍勢や物資を迅速に輸送することが可能であった 8 。これは、古河公方を支える上で決定的な優位性をもたらした。
第三に、経済基盤と防衛上の利点を兼ね備えていた。本佐倉の地は水上交通のみならず、下総国を東西に結ぶ古道が交差する陸上交通の要衝でもあった 3 。さらに、安房国の里見氏など南方の敵対勢力からの脅威を受けにくい地理的条件に加え、周囲には千葉氏一族の臼井城などの支城群が点在しており、本拠地としての総合的な防御力も極めて高かった 8 。
これらの要素を総合すると、本佐倉城への本拠地移転は、千葉氏の国家戦略そのものが大きく転換したことを物語っている。それは、従来の江戸湾を基盤とした海洋・商業的拠点から、享徳の乱後の新たな政治の中心軸である古河公方との連携を最優先し、その生命線となる利根川・印旛沼水系を掌握するための内陸・軍事的拠点への「戦略的重心の北遷」であった。本佐倉城は、この千葉氏の新戦略を遂行するための司令塔として、文明年間(1469年~1487年)に築かれたのである 9 。
本佐倉城は、石垣を一切用いない「土の城」でありながら、戦国時代の築城技術の粋を集めた、極めて堅固かつ巧妙な構造を誇る。その縄張り(城の設計思想)は、自然地形を最大限に活用しつつ、時代の進展とともに加えられた先進的な防御思想を随所に見て取ることができる。本章では、この巨大城郭の構造を詳細に分析し、その歴史的価値を明らかにする。
本佐倉城は、総面積約35万平方メートルに及ぶ、千葉県内でも最大級の規模を持つ中世城郭である 11 。その最大の特徴は、自然の台地を巧みに削り出し、谷を埋め立て、大規模な土塁と空堀を巡らせて築かれた点にある 7 。
城は、北に広がる印旛沼に面した半島状の台地上に築かれており、往時は三方を広大な湿地帯に囲まれた天然の要害であった 12 。この地形は、敵が攻撃可能な正面を西側の台地続きの一方向に限定させる効果を持ち、防御側にとって極めて有利な条件を作り出していた。
城郭の構造は、城主一族が居住し、政治の中枢機能を持つ「内郭群」と、その周囲に家臣団の屋敷地や軍団の駐屯地が広がる「外郭群」が同心円状に配置された「惣構え」の形態をとる 7 。これは、城そのものだけでなく、城下町を含めた領域全体を防衛するという、戦国時代に発展した広域防御思想を体現したものである 11 。
内郭群は、半島状台地の先端から城山、奥ノ山、倉跡、セッテイ山などが直線的に並ぶ連郭式の構造を基本としている 13 。各郭は明確な機能分化が見られ、城の中枢としての多様な役割を担っていた。
内郭群を守る外郭群もまた、巧妙な防御施設を備えていた。特に、16世紀後半に大規模な改修・拡張が行われた痕跡が見られ、関東の覇者・後北条氏の築城術の影響が色濃く反映されている 20 。
この向根古谷郭に見られる堅固な構造や、セッテイ山の多角形の縄張り、城内各所に効果的に配置された横矢掛かりの施設は、戦国時代末期に関東を席巻した「北条流築城術」の典型的な特徴である 13 。発掘調査の結果、16世紀後半に城が大規模に改変・拡張されたことが判明しており 20 、これは千葉氏が後北条氏の勢力下に組み込まれていく過程で、その最新技術の支援を受けて城を近代化した明確な証拠と言える。
本佐倉城の縄張りは、単一の思想で一度に造られたものではなく、約100年の歴史の中で、時代の要請に応じて増改築が繰り返された「積層構造」を持つ。築城当初の室町中期の比較的単純な連郭式の構造から、戦国期の戦闘激化に対応したセッテイ山のような洗練された防御施設、そして最終的には後北条氏の最新技術の粋である向根古谷郭の増設へと至る。この変遷は、一つの城郭の中に、室町中期から戦国末期に至るまでの関東の築城技術の発展史が刻まれていることを意味する。本佐倉城は、まさに「生きた築城技術の博物館」と呼ぶにふさわしい遺構なのである。
郭の名称(郭番号) |
位置 |
主な遺構・出土遺物 |
推定される機能・性格 |
城山(Ⅰ郭) |
内郭中央 |
主殿、会所、庭園、茶室跡、門跡、櫓跡 |
本丸。城主の居館、政務・儀礼・饗応の中枢空間。 |
奥ノ山(Ⅱ郭) |
内郭、城山の南 |
妙見宮基壇跡 |
二の丸。当初は妙見尊を祀る祭祀空間。 |
倉跡(Ⅲ郭) |
内郭、奥ノ山の西 |
掘立柱建物群、炭化米、陶磁器、鍛冶道具 |
倉庫群。および職人等の生産・生活空間。 |
セッテイ山(Ⅶ郭) |
内郭、倉跡の西 |
建物跡、碁石、茶壺、火箸、供膳具 |
迎賓・饗応施設。先進的な防御機能も持つ。 |
荒上(Ⅷ郭) |
外郭、内郭の西 |
長大な空堀・土塁、出桝形、掘立柱建物跡群 |
大手口。家臣屋敷地や馬場施設。 |
向根古谷(Ⅸ郭) |
外郭、内郭の南 |
二重の空堀、土橋、馬出、櫓台 |
南の守りの要。後北条氏の技術が導入された先進的郭。 |
東山(Ⅴ郭) |
内郭北東 |
物見台 |
防塁。城山を守る巨大な防御壁。 |
東山馬場 |
内郭、東山と城山の間 |
(建物跡なし) |
馬場、あるいは軍勢の駐屯地。 |
根小屋 |
外郭、内郭の南西 |
(未調査) |
大手口。家臣屋敷地(根小屋)。 |
本佐倉城は、単なる軍事要塞としての機能に留まらず、千葉氏が本拠を置いていた約100年間にわたり、下総国の政治・経済・文化の中心、すなわち「首都」としての役割を果たした。本章では、城下町の形成や発掘調査から得られた知見を基に、その多面的な都市機能を明らかにする。
千葉氏が千葉城から本拠を移して以降、本佐倉城とその周辺地域は、下総国の首府として急速に発展を遂げた 3 。築城後、計画的に「市立て町立て」が行われ、城の周囲には広大な城下町が形成されたことが記録から窺える 11 。
城下町の整備は、宗教施設の建立と密接に関連していた。城の鎮守として八幡神社が手厚く祀られ、3代当主・千葉勝胤の時代には、自身の名を冠した菩提寺である勝胤寺や、祈願寺の妙胤寺などが次々と建立された 25 。これらの寺社は、領民の信仰の中心であると同時に、城下町の核として都市の景観と秩序を形成する上で重要な役割を担った。
経済的な側面では、城の北に広がる印旛沼に面した「浜宿湊」の存在が極めて重要であった 7 。この港は、当時の水運の大動脈であった利根川水系と直結しており、広域的な交易ネットワークの拠点として機能した 26 。これにより、本佐倉城下には各地から物資が集散し、商業活動が活発化したと考えられる。城と港、そしてそれらを取り巻く町場が一体となって、下総国の経済を牽引していたのである。
この繁栄した城下町は、本佐倉城の廃城後もその命脈を保った。江戸時代に入り、成田街道が整備されると、城下町の住民と機能の多くは近隣の酒々井宿に移設され、宿場町として新たな発展を遂げたとされている 12 。本佐倉城が築いた都市基盤が、後世の地域の発展にも繋がったことを示す興味深い事例である。
本佐倉城は、政治・経済のみならず、文化の中心地でもあった。特に3代当主・千葉勝胤は和歌に精通した文化人であり、家臣らと連歌会を催すなど、城内では「佐倉歌壇」と称される活発な文芸活動が展開されていた 25 。当時一流の歌人であった衲叟馴窓(のうそうじゅんそう)が編纂した『雲玉和歌集』には勝胤を評価する記述が見られ、本佐倉が当代の文化シーンにおいて一定の地位を占めていたことを示唆している 5 。
こうした高度な文化活動の存在は、発掘調査によって出土した遺物によっても裏付けられている。特に、迎賓施設であったと推定されるセッテイ山からは、碁石や茶壺、火箸といった遺物が発見されている 13 。これは、城内で囲碁や茶の湯といった、当時の武家社会における最高の教養であり、洗練されたもてなしの文化が日常的に実践されていたことを示す動かぬ証拠である 13 。
また、城内各所からは、中国から輸入された天目茶碗のような高級品を含む、多種多様な陶磁器が出土している 13 。これらの遺物は、城主や上級家臣たちが、単に実用的なだけでなく、美術的価値の高い器を用いて食事をする豊かな食文化を享受していたことを物語っている。
ここで、同じ千葉氏一族の重要拠点であった臼井城と比較すると、本佐倉城の「首都」としての性格が一層明確になる。臼井城も本佐倉城に匹敵する大規模な惣構えを持つ堅城であったが、史料には戦闘に関する記録が多く、より軍事拠点としての性格が強い城であった 29 。両者の決定的な違いは城下町の成熟度にあり、本佐倉城には計画的に整備された町場が存在したのに対し、臼井城では「町屋の展開が未成熟であった」と分析されている 30 。
この比較から導き出されるのは、本佐倉城が千葉氏宗家の本拠地として、単なる軍事機能だけでなく、領国経営に必要な政治、経済、文化、宗教といった多様な都市機能を集約した「首都」として意図的に整備されたという事実である。一方、臼井城はあくまで前線基地、あるいは支城としての役割が主であり、首都機能を持つまでには至らなかった。この対比によって、戦国期下総国における本佐倉城の唯一無二の歴史的地位が際立つのだ。
戦国時代後期、関東に覇を唱えた後北条氏の台頭は、下総国の名門・千葉氏の運命に暗い影を落とし始めた。当初は対等な同盟者であった両者の関係は、やがて主従関係へと変質し、最終的には当主暗殺という悲劇を経て、千葉氏は事実上の滅亡へと追いやられる。本章では、後北条氏の巧みな戦略によって千葉氏が自立性を失い、本佐倉城がその歴史の渦に飲み込まれていく過程を詳述する。
千葉氏と後北条氏の関係は、天文7年(1538年)の第一次国府台合戦において、共に小弓公方・足利義明軍と戦い勝利を収めたことに始まる 8 。この時点では、両者は対等な同盟関係にあった。しかし、後北条氏が急速に関東での勢力を拡大するにつれて、その力関係は徐々に変化していく。
後北条氏は、武力だけでなく、婚姻政策を巧みに利用して周辺勢力への支配を浸透させていった。千葉氏もその例外ではなく、当主・親胤は北条氏康の娘を、後の当主・邦胤は北条氏政の娘を正室に迎えた 8 。この姻戚関係の深化は、一見すると両家の結束を強固にするものに見えるが、実態は後北条氏が千葉氏の家督継承問題に介入し、内部からその支配を強めるための布石であった。
この従属関係の進行は、本佐倉城の構造そのものにも影響を及ぼした。16世紀後半、城は後北条氏の先進的な築城技術の支援を受けて大規模な改修が行われ、防御能力が飛躍的に向上した 20 。しかし、これは同時に、本佐倉城が小田原城を本城とする後北条氏の広域防衛ネットワークの一翼を担う「支城」として、その戦略体制に組み込まれていく過程でもあった 3 。後北条氏の家臣団の所領を記録した『小田原衆所領役帳』には、千葉氏の庶流である高城氏や匝瑳氏などが後北条氏の家臣として名を連ねており、この時点で千葉一族の多くが後北条氏の直接的な支配下に置かれていたことがわかる 32 。
後北条氏による千葉氏支配を決定的なものにしたのが、二度にわたる当主暗殺事件であった。
一度目は弘治3年(1557年)、当主の千葉親胤が城中で暗殺された事件である 33 。一説には、反北条的な姿勢を見せ始めた親胤を、親北条派の家臣が後北条氏の意を受けて暗殺したとも言われている 8 。この事件以降、千葉氏の家督は後北条氏の強い影響下で決められるようになり、その自立性は大きく損なわれた。
そして二度目の悲劇が、天正13年(1585年)に起こる。当主の千葉邦胤が、家臣の鍬田万五郎によって城内の寝所にて殺害されたのである 8 。後世の伝説では、宴席で万五郎が放屁したことを邦胤が厳しく叱責し、恥をかかせたことを恨んだ末の犯行(通称「放屁事件」)と面白おかしく語られている 36 。しかし、一国の当主がそのような理由で殺害されるとは考えにくく、これはあくまで表向きの口実であり、その背後には後北条氏の策謀があったと見るのが自然であろう。
この内部の混乱は、後北条氏にとって千葉領を完全に併合するための絶好の機会となった。後北条氏当主・氏政は、邦胤の嫡男・重胤がまだ幼いことを理由に、自らの五男である直重を邦胤の娘婿として送り込み、千葉氏の家督を強引に継がせた 3 。これにより、平安時代から約400年にわたり下総に君臨した名族・千葉氏は、事実上、後北条氏に乗っ取られる形でその歴史に終止符を打った。千葉氏の滅亡は、豊臣秀吉による小田原征伐の5年前、この瞬間に実質的に確定していたのである。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉が天下統一の総仕上げとして20万を超える大軍を率いて関東に侵攻し、小田原征伐が始まった 37 。この時、千葉氏の当主は後北条氏直系の千葉直重であり、千葉軍は完全に後北条軍の一部隊として、本拠地の小田原城に籠城し、豊臣軍と対峙した 10 。
約3ヶ月にわたる包囲戦の末、後北条氏が秀吉に降伏すると、それに与した千葉氏もまた領地を没収され、大名としての家は改易となった 3 。これにより、本佐倉城も千葉氏の居城としての約100年間の歴史に完全に幕を下ろした。邦胤の遺児・千葉重胤は、後に徳川家康から200石の知行を与えられるも、名門千葉氏を維持するにはあまりに少ないとしてこれを固辞し、浪人として生き、寛永10年(1633年)に江戸でその生涯を閉じたと伝わっている 40 。
西暦(和暦) |
千葉氏の動向 |
後北条氏の動向 |
主要な出来事と両者の関係性 |
1538年(天文7) |
当主・昌胤、参陣。 |
氏綱、足利義明と対決。 |
第一次国府台合戦 : 千葉氏は後北条氏と連合し勝利。対等な同盟関係。 |
1557年(弘治3) |
当主・親胤(氏康の娘婿)、城中で暗殺される。 |
(氏康の時代) |
親胤暗殺事件 : 後北条氏の介入が強まる契機となる。 |
1571年(元亀2) |
邦胤、元服。 |
(氏政の時代) |
|
1573-74年頃 |
邦胤、家督継承。後に氏政の娘を妻に迎える。 |
氏政、娘を邦胤に嫁がせる。 |
婚姻同盟の深化 : 千葉氏は後北条氏との姻戚関係を強化するも、従属性が強まる。 |
1585年(天正13) |
当主・邦胤、家臣により城中で暗殺される。 |
氏政、事件を好機に介入。 |
邦胤暗殺事件 : 後北条氏が邦胤の嫡男を退け、自らの子・直重を千葉氏当主とする。 |
1585年以降 |
千葉直重(北条氏政の五男)が千葉氏当主となる。 |
氏政・氏直、千葉領を直接支配下に置く。 |
千葉氏の実質的滅亡 : 本佐倉城は小田原城の支城となり、千葉氏は後北条氏に完全に併合される。 |
1590年(天正18) |
千葉軍、後北条軍として小田原城に籠城。 |
氏政・氏直、秀吉に降伏。 |
小田原征伐 : 後北条氏と共に千葉氏も改易され、大名としての歴史が終焉する。 |
戦国の終焉とともに千葉氏の居城としての役割を終えた本佐倉城は、近世を経て現代に至るまで、その姿を大きく変えることなく静かに時を重ねてきた。本章では、廃城後の城の変遷と、今日における国指定史跡としての価値、そして我々に語りかける歴史的意義について概観し、本報告の結びとする。
小田原征伐後、関東の新たな支配者となった徳川家康は、その戦略的重要性から本佐倉城を破却せず、自らの家臣を配置して下総国佐倉支配の拠点とした 24 。慶長15年(1610年)には、後に幕府の老中として権勢を振るう土井利勝らが城に入り、佐倉藩の藩庁が一時的に置かれた 12 。
しかし、本佐倉城はあくまで中世的な「土の城」であり、徳川幕府が目指す近世的な支配体制の拠点としては、機能的に限界があった。そこで土井利勝は、家康の命により、本佐倉城から約4キロメートル西の鹿島台に、新たな近世城郭である佐倉城の築城を開始した 39 。
そして元和元年(1615年)、佐倉城が完成すると、藩庁機能はすべてそちらへ移転された。これに加えて、幕府が発令した「一国一城令」により、支城の存在が認められなくなったこともあり、本佐倉城はその役目を完全に終え、廃城となった 12 。
廃城後、本佐倉城跡は大規模な開発を免れ、奇跡的にその遺構を良好な状態で現代に伝えてきた。戦国時代の城郭の姿を色濃く残すその歴史的価値が再評価され、平成10年(1998年)9月11日、国の史跡に指定された 9 。さらに、平成29年(2017年)4月6日には、公益財団法人日本城郭協会によって「続日本100名城」(121番)にも選定され、日本を代表する城郭遺跡の一つとして広く認知されるに至った 12 。
現在、城跡を訪れると、往時を偲ばせる大規模な土塁や深く掘られた空堀、そして複雑な郭の配置を明瞭に確認することができる 9 。佐倉市と酒々井町が協力して史跡の保存整備を進めており、案内所の設置や散策マップの配布などが行われているが、見学路などの整備はまだ途上にある 38 。今後のさらなる整備と活用が期待される。
本佐倉城は、関東戦国史の幕開けである享徳の乱という激動の中から生まれ、約100年間にわたり下総国の政治・経済・文化の中心として繁栄した千葉氏後期の拠点であった。その縄張りは、室町時代中期の築城術から、戦国時代末期の後北条氏による最新技術まで、時代の変遷を一つの城郭の中に刻み込んだ、まさに「生きた博物館」である。
しかし、その歴史はまた、関東の覇権を巡る争いの中で、名門千葉氏が次第に自立性を失い、最終的に後北条氏に飲み込まれていく悲劇の物語でもある。本佐倉城の栄華と、その主であった千葉氏の落日は、戦国という時代の厳しさと無常を我々に雄弁に語りかけている。
今日、国指定史跡として保存されている本佐倉城跡は、単なる過去の遺物ではない。それは、戦国武士たちの知略と野望、そして栄枯盛衰のドラマが刻まれた第一級の歴史遺産であり、訪れる者に戦国時代の息吹を今なお力強く伝えてくれる、貴重な文化財なのである。