本宮城は、奥州街道の要衝に位置する群郭式城館。二本松畠山氏の拠点として創築され、天文の乱で本宮宗頼が敗走し、二本松畠山氏の支城となる。天正十三年、伊達政宗が本宮城を無血接収し、人取橋の戦いで政宗の命を救う最後の砦として機能。奥州仕置により廃城となる。
福島県本宮市にその痕跡を留める本宮城は、戦国時代の南奥州(現在の福島県中通り地方および山形県置賜地方、宮城県南部)における政治・軍事史を語る上で欠かすことのできない重要な城郭である。一般には、天正13年(1585年)の「人取橋の戦い」において、若き伊達政宗が絶体絶命の窮地を脱した際の拠点として知られているが、その歴史的意義は単一の合戦における役割に留まるものではない。本宮城の価値を正しく理解するためには、その創築から廃城に至るまでの約150年間にわたる機能の変遷と、それを規定した地理的条件、そして城郭そのものが持つ構造的特徴を多角的に分析する必要がある。
本宮城とは、単一の城郭を指す名称ではない。阿武隈川東岸の丘陵地帯に築かれた、菅森館(すがもりだて)、鹿子田館(かのこだたて)、愛宕館(あたごだて)という、少なくとも三つの主要な城館群から構成される複合的な防御施設の総称である 1 。このような複数の独立性の高い郭(くるわ)や館が連携して一つの城郭として機能する形態は「群郭式城館(ぐんかくしきじょうかん)」と呼ばれ、特に中世の東北地方において広く見られる特徴的な構造である 3 。
この構造は、単なる築城技術上の選択に留まらず、当時の東北地方における武士団の統治形態を物理的に体現したものであった。織田信長や豊臣秀吉に代表される畿内の戦国大名が、強力な権力を象徴する中央集権的な単一巨大城郭を志向したのとは対照的に、東北の在地領主たちは、惣領を中心としながらも、一族や有力家臣がそれぞれ独立した館を構え、連合して地域を支配するという分権的な体制を維持していた。本宮城の複数の館は、それぞれが城主一門の異なる家系や配下の有力国人の拠点として機能し、城全体が単一領主の居城というよりも、地域の支配者層である一族郎党の政治的・軍事的共同センターとして機能していたと解釈できる。この構造そのものが、後に伊達政宗が打破しようと試みた南奥州の旧来の権力構造を象徴していたのである。
城が位置する本宮の地は、古代以来、奥州街道が貫く交通の要衝であった。北には二本松、南には郡山(当時は安積郡)を控え、西には安達太良連峰、東には阿武隈高地が広がる。この地を押さえることは、仙道(中通り)の南北交通を掌握し、周辺地域への軍事展開を容易にすることを意味した。本宮城が歴史の転換点において度々重要な役割を果たしたのは、この卓越した地政学的優位性に起因する。
本宮城の歴史は、大きく二つの時代に区分することができる。第一期は、南北朝時代の動乱が終息に向かう15世紀初頭の創築から、戦国中期の天文の乱を経て、伊達政宗の南奥州侵攻が本格化するまでの時代である。この時期、本宮城は奥州探題であった二本松畠山氏の分家、鹿子田氏(あるいは本宮氏)の拠点として、安達郡南部の地域支配の中心を担った 1 。
第二期は、天正13年(1585年)に伊達政宗によって接収されてから、天正17年(1589年)頃に廃城となるまでの極めて短期間でありながら、最も激動の時代である。この時期、本宮城は伊達氏の南奥州制覇における最前線基地へとその性格を劇的に変化させた。「人取橋の戦い」では政宗の命を救う最後の砦となり、その後の二本松領併合、さらには蘆名氏が支配する会津への侵攻においては、欠くことのできない兵站・指揮拠点として機能した 5 。
この役割の変遷は、在地領主による地域支配という中世的な秩序が、伊達政宗という新たな戦国大名の登場によって解体され、より広域的な領国支配体制へと再編されていく、戦国時代末期の南奥州における権力構造のダイナミックな変化を鮮やかに映し出している。本報告書では、これらの歴史的変遷を詳細に追いながら、本宮城が果たした多層的な役割を再評価することを目的とする。
西暦(和暦) |
主要な出来事 |
関連人物 |
本宮城の役割・状況 |
関連資料 |
1394-1441年(応永・永享年間) |
畠山満詮が鹿子田館を築城し、本宮城の歴史が始まる。 |
畠山満詮、畠山国詮 |
二本松畠山氏の分家・鹿子田氏(本宮氏)の創設と拠点形成。 |
2 |
1542年(天文11年) |
伊達稙宗・晴宗父子の内紛「天文の乱」が勃発。 |
伊達稙宗、伊達晴宗、本宮宗頼 |
城主・本宮宗頼は宗家の二本松畠山氏と袂を分かち、伊達晴宗方に与する。 |
4 |
1546年(天文15年) |
本宮宗頼が宗家の畠山義国に攻められ敗北。岩城氏へ亡命。 |
本宮宗頼、畠山義国 |
在地領主の支配が断絶し、二本松畠山氏の直轄の支城となり城代が置かれる。 |
4 |
1585年(天正13年)8月 |
伊達政宗が小手森城を撫で斬りにし、南奥州への侵攻を本格化。 |
伊達政宗、大内定綱 |
伊達氏の脅威が間近に迫る。 |
11 |
1585年(天正13年)10月 |
粟之巣の変(高田原の変)。畠山義継が伊達輝宗を拉致、両者死亡。 |
伊達輝宗、畠山義継、伊達政宗 |
政宗による二本松城攻めが開始される。 |
13 |
1585年(天正13年)11月 |
二本松畠山方が兵力を二本松城に集中。伊達政宗が本宮城を無血接収。 |
伊達政宗 |
伊達軍の前線基地、対連合軍の司令部となる。 |
4 |
1585年(天正13年)11月17日 |
人取橋の戦い。伊達政宗が佐竹・蘆名連合軍に大敗するも、本宮城へ退却し壊滅を免れる。 |
伊達政宗、鬼庭左月斎、伊達成実 |
政宗の命を救う最後の砦として機能。戦略的価値が最大限に発揮される。 |
13 |
1586年(天正14年) |
二本松城が開城し、伊達氏の支配下に入る。 |
伊達政宗 |
対蘆名氏の最前線拠点として、安積郡侵攻の橋頭保となる。 |
15 |
1589年(天正17年)6月 |
摺上原の戦い。伊達政宗が蘆名氏を破り、会津を制圧。 |
伊達政宗、蘆名義広 |
会津侵攻における重要な中継拠点として機能。 |
16 |
1589年(天正17年)頃 |
蘆名氏滅亡後、戦略的価値を喪失し、廃城となる。 |
伊達政宗 |
伊達氏の領国拡大に伴い、前線基地としての役割を終える。 |
2 |
1590年(天正18年) |
豊臣秀吉による奥州仕置。伊達政宗は会津などを没収される。 |
豊臣秀吉、伊達政宗 |
豊臣政権の城割政策もあり、本宮城の廃城が確定的に。 |
18 |
本宮城の歴史は、室町時代中期、二本松に拠点を置いた名門・畠山氏の勢力拡大と密接に関連して始まる。その構造は、戦国時代を通じて東北地方で広く見られた在地領主の城郭の典型的な姿を示しており、後の織豊系城郭とは一線を画す特徴を備えていた。
本宮城の築城年代は、史料によって断定はできないものの、概ね南北朝の動乱が収束し、室町幕府の支配体制が安定に向かう応永・永享年間(1394年-1441年)頃とされている 2 。この時期、奥州では鎌倉公方と室町幕府の対立を背景に、奥州探題として派遣された諸氏が各地で勢力を扶植していた。
築城主は、二本松畠山氏の祖である畠山国詮の子、畠山満詮(はたけやま みつあきら)と伝えられる 4 。満詮は、二本松城を築いたとされる弟の畠山満泰の兄にあたる人物である 4 。これは、二本松に本拠を置いた畠山宗家が、その勢力圏を南に拡大する過程で、一族の有力者を安達郡南部の要衝である本宮の地に配置したことを示唆している。満詮は、この地に新たな拠点を築くことで、宗家の支配を補完し、在地勢力を統括する役割を担ったと考えられる。
畠山満詮がこの地に入って興した一族の名称については、いくつかの説が存在する。満詮が「鹿子田氏」を名乗ったとする説 1 と、まず地名に由来する「本宮氏」を称し、その後に「鹿子田氏」が分かれたとする説 4 である。
これらの説は必ずしも矛盾するものではない。中世武士団においては、本拠地の地名を苗字とすることは一般的であり、満詮が当初「本宮殿」などと呼ばれ、後に一族が「本宮氏」を称したのは自然な流れであろう。一方で、城郭群の一つである「鹿子田館」の名が示すように、「鹿子田」もまたこの地域における重要な地名であったと考えられる。本宮氏から分家した一族が鹿子田館を拠点として鹿子田氏を名乗ったか、あるいは一族全体が何らかの理由で本宮から鹿子田へと改称した可能性も考えられる。いずれにせよ、本宮城は二本松畠山氏の庶流としてこの地を治めた一族の世襲の拠点として、その歴史を開始したのである。
前述の通り、本宮城は複数の独立した館からなる群郭式の城館である。それぞれの館は、比高差のある丘陵や台地といった自然地形を巧みに利用して配置されており、相互に連携することで地域全体の防衛を担っていた。
これら丘陵上の防御施設群に囲まれた麓の平坦地、現在の本宮小学校周辺には、城主一族が日常的に生活し、政務を執り行うための居館が存在したと推定されている 4 。このように、平時の居館と戦時の詰城(つめのしろ)を分離しつつ一体的に運用する形態は、中世の山城に典型的に見られる構造である。
本宮城の構造は、天守や高石垣といった、織田信長以降に発展した「織豊系城郭」に見られるような要素を持たない。その防御は、土を盛り上げた「土塁(どるい)」、尾根を断ち切る「堀切(ほりきり)」、斜面を人工的に削り出した「切岸(きりぎし)」といった、土木工事を主体とする素朴かつ実戦的な施設によって構成されている 5 。これは、戦国時代を通じて東北地方の在地領主たちが築いた城郭に共通する特徴であり、本宮城がまさしくその典型例であったことを示している。石材や瓦を多用した巨大建築による「見せる城」ではなく、あくまでも地域の防衛拠点という実用性を第一に追求した城であった。
現在、本宮城の遺構が最も良好に残されているのは、中核であった菅森館跡、すなわち花山公園一帯である。公園として整備されているため、一部に地形の改変は見られるものの、安達太良神社の背後に広がる平場は主郭跡とされ、その周囲には土塁状の高まりが認められる 4 。主郭の北側には二郭とされる平場があり、両者を隔てる堀切も明瞭に確認することができる 5 。訪問者の記録によれば、現地に縄張り図などの詳細な案内板は設置されていないものの、事前の情報収集によって、これらの遺構を十分に見て取ることが可能である 5 。ただし、主郭部など一部は藪化が進んでおり、見学には注意を要する状況となっている 5 。
本宮城の主要部(菅森館、愛宕館、鹿子田館)を対象とした、本格的な学術的発掘調査の報告は、現時点では確認されていない。これは、東北地方に数多く存在する中世城館跡の研究全般に共通する課題でもあり、文献史料が乏しい城郭の実像を解明する上で大きな制約となっている 19 。
しかし、近年、本宮城と同時期に機能していたと考えられる関連施設での調査が進展している。特に、本宮駅から東に約800メートルに位置する「大学館跡」では、県道の改良工事に先立ち発掘調査が実施され、戦国時代(16世紀から17世紀)に属する堀などの遺構が確認された 20 。この調査は、本宮城の支城や周辺の防御ネットワークの実態を明らかにする上で貴重な手がかりを提供するものである。
本宮市内では、古代の上人壇廃寺跡や縄文時代の高木遺跡など、他の時代の遺跡に関する発掘調査は数多く行われている 21 。これらの成果を蓄積しつつ、本宮城そのものに対する体系的な考古学調査を実施することが、その詳細な構造や歴史的変遷を解明し、戦国史における価値を確定させる上で、今後の重要な課題と言えるだろう。
16世紀半ば、伊達氏内部で勃発した「天文の乱」は、南奥州の政治秩序を根底から揺るがし、本宮城もその渦中に巻き込まれた。この大乱を境に、本宮城はその性格を大きく変容させ、やがて奥州の覇権を目指す伊達政宗の前に、その運命を委ねることになる。
天文11年(1542年)、伊達氏14代当主・伊達稙宗とその嫡男・晴宗との間で、稙宗が推し進める拡大政策(特に三男・時宗丸の越後上杉氏への養子縁組問題)を巡って対立が先鋭化し、南奥州の国人領主たちを二分する大規模な内紛へと発展した 8 。これが「天文の乱」である。この乱において、本宮城の宗家である二本松畠山氏当主・畠山義国は、稙宗方に与して参戦した 10 。
当時、本宮城主であった本宮宗頼は、宗家である畠山義国とは異なる政治的決断を下す。宗頼は伊達晴宗方に与したのである 4 。この選択の背景には、常に宗家と緊張関係にあった庶流として、この内乱を機に自立性を高めようとする意図があったと考えられる 24 。また、地理的に晴宗方の勢力圏と近接していたことも、その決断に影響を与えたであろう。
しかし、この決断は裏目に出る。天文15年(1546年)、稙宗方の畠山義国は、晴宗方に与した宗頼を討つべく本宮城に侵攻した 9 。宗頼は奮戦するも衆寡敵せず、城は陥落。彼は安住の地を追われ、縁戚関係にあった岩城氏のもとへ亡命を余儀なくされた 7 。これにより、畠山満詮以来、約150年にわたって続いた本宮氏(鹿子田氏)による本宮城の世襲支配は、ここに終焉を迎えた。なお、宗頼の子・直頼は後に伊達政宗に仕え、家名を再興している 4 。
本宮宗頼の敗走と追放は、単に城主が交代したという以上の、重大な意味を持っていた。それは、本宮城の「アイデンティティ」とも言うべき、その根本的な性格を不可逆的に変化させた決定的な転換点であった。
乱以前の本宮城は、畠山満詮以来の血縁に基づく一族の「本拠地(ホーム)」であった。城主である本宮宗頼は、宗家とは異なる独自の政治判断を下すだけの主体性と地域的基盤を持っていた。しかし、彼の敗北によって、この在地領主としての支配は断絶する。本宮城は二本松畠山氏の所領に完全に組み込まれ、宗家から城代が派遣されて統治する「支城(軍事拠点)」へとその性格を変えたのである 4 。
この変化は、城と地域の有機的な結びつきを希薄化させた。もはや特定の在地一族の生活と統治の中心ではなく、二本松城という上位権力に従属する純粋な軍事・行政拠点となったのである。この性格変容が、約40年後、伊達政宗による本宮城の接収を結果的に容易にする遠因となった。もし、地域に深く根差した在地領主が城に籠っていれば、激しい抵抗が予想されたであろう。しかし、城を守っていたのはあくまで宗家から派遣された城代とその部隊であったため、主君の命令一下、主力が二本松城に引き揚げると、本宮城は容易に無主の状態となり、政宗は大きな抵抗を受けることなく入城することができたのである 4 。
天正13年(1585年)、伊達家の家督を継いだ若き伊達政宗は、南奥州の旧来の秩序を力で塗り替えるべく、積極的な領土拡大政策を開始した。同年8月、大内定綱の小手森城を攻め落とした際には、城内の女子供に至るまで800人余りを斬殺する「撫で斬り」を行い、その苛烈さを周辺大名に見せつけた 11 。
この政宗の動きに危機感を抱いた二本松城主・畠山義継は、政宗の父・輝宗の斡旋を受けて降伏した。しかし同年10月8日、義継は謝罪のために輝宗が滞在する宮森城を訪れた際、突如として輝宗を拉致するという凶行に及ぶ。政宗は直ちに追撃し、阿武隈川河畔の高田原(現在の福島県大玉村)で一行に追いつくが、混乱の中で輝宗は義継もろとも討ち果たされるという悲劇的な結末を迎えた 13 。これが「粟之巣の変(高田原の変)」である。
父の弔い合戦という大義名分を得た政宗は、直ちに全軍を動員し、二本松城への総攻撃を開始した。
政宗率いる伊達軍の猛攻に対し、二本松畠山方は、領内に点在する支城の兵力を中核である二本松城に集結させ、徹底した籠城戦で対抗する戦略を選択した 4 。この戦略に基づき、本宮城に駐留していた城代と守備兵も二本松城へと引き揚げた。
これにより、かつては畠山氏の重要拠点であった本宮城は、一時的に無主の状態となる。この好機を政宗は見逃さなかった。同年11月、伊達軍は戦闘を経ることなく本宮城を接収。政宗自身も入城し、この地を二本松城攻めの後方支援拠点、そして間近に迫っていた佐竹・蘆名連合軍との決戦に備えるための最前線司令部としたのである 4 。天文の乱を経て軍事拠点へと変質していた本宮城は、その新たな主として伊達政宗を迎えることになった。
天正13年(1585年)11月、本宮城は伊達政宗の軍事キャリア、ひいては伊達家の命運を左右する歴史的な戦いの中心舞台となった。二本松城を救援すべく結集した南奥州連合軍を迎え撃つにあたり、本宮城は政宗の戦略の根幹をなす拠点として、その価値を最大限に発揮した。
政宗による二本松城包囲の報を受け、常陸の佐竹義重(この戦いには直接出陣せず、一族の佐竹義政らが名代として軍を率いた)、会津の蘆名氏を筆頭に、岩城氏、二階堂氏、白河結城氏、石川氏ら南奥州の諸大名は、伊達氏の勢力拡大を阻止すべく、総勢30,000と号する大連合軍を結成した 13 。連合軍は須賀川に集結した後、二本松を目指して北上を開始した。
これに対し、政宗が動員できた兵力はわずか7,000であった 13 。圧倒的な兵力差を前に、政宗は二本松城の包囲部隊を一部残置し、主力を率いてこれを迎撃する決断を下す。その迎撃拠点として選ばれたのが、本宮城であった。政宗は岩角城を経て本宮城に入り、ここを作戦司令部とした 13 。『伊達日記』によれば、政宗が本宮に入ったのは決戦前日の11月16日である 27 。本宮城は、南下してくる連合軍の進撃ルートを正面から受け止め、かつ背後の二本松方面とも連携を保つことができる、まさに決戦の地にふさわしい戦略的要衝であった。
決戦当日(11月17日)、政宗は本宮城を後方の最終拠点として確保しつつ、部隊をさらに南に進め、安達太良川を渡った先の観音堂山(現在の日輪寺山)に本陣を構えた 13 。これにより、本宮城は直接の戦闘指揮所という役割に加え、食料や武具を補給する兵站基地、予備兵力の待機場所、そして万一の際の退却拠点という、多重の戦略的機能を与えられた司令部となった。
瀬戸川に架かる人取橋付近で両軍が激突すると、戦いは当初から兵力で勝る連合軍の一方的な攻勢で推移した 13 。伊達軍は各所で防衛線を突破され、潰走を始める部隊が続出。連合軍の猛攻は政宗の本陣にまで及び、政宗自身も鎧に銃弾5発、矢1筋を受けるほどの熾烈な攻撃に晒された 13 。伊達軍は壊滅の危機に瀕し、政宗の首も風前の灯火であった。
この絶体絶命の状況を打開したのは、宿将たちの命を懸けた奮戦であった。軍配を預かる重臣・鬼庭左月斎(当時70歳を超えていたとされる)は、政宗を逃がすべく殿(しんがり)を務め、僅かな手勢を率いて敵中に突入し、壮絶な討死を遂げた 13 。また、伊達成実の部隊も瀬戸川館付近で敵の挟撃を受けながらも踏みとどまり、連合軍の進撃を食い止めた 13 。
鬼庭左月斎や伊達成実らの決死の奮戦によって稼ぎ出された僅かな時間を利用し、政宗は辛うじて観音堂山の本陣を離脱。目指す先は、後方拠点である本宮城であった 13 。もしこの時、本宮城という堅固な退却拠点がなければ、政宗は退路を失い、連合軍の追撃を受けて討ち取られていた可能性が極めて高い。本宮城は文字通り、19歳の政宗の命と伊達家の未来を救った最後の砦となったのである。
日没により戦闘が中断された後、戦況は意外な形で転回する。その夜、連合軍の佐竹陣中において、部将の佐竹義政が家臣に刺殺されるという内紛が発生。さらに、佐竹氏の本国である常陸に里見氏や江戸氏が侵攻する動きがあるとの急報がもたらされた 29 。これにより、連合軍の主力であった佐竹軍は、戦線を維持することが困難となり、翌朝にかけて撤退を開始した。主力を失った連合軍は統制を失い、雪崩を打つように瓦解。伊達軍は奇跡的に壊滅を免れた。なお、これらの連合軍内部の混乱は、政宗の謀略によるものであったとする説も存在する 14 。
人取橋の戦いにおける本宮城の役割を考察する際、単なる「司令部」や「退却先」という言葉だけではその本質を捉えきれない。より深く分析すると、本宮城は政宗の無謀ともいえる積極防御策を可能にした「戦略的緩衝地帯(クッション)」として機能したことがわかる。
第一に、政宗は圧倒的な兵力差にもかかわらず、籠城ではなく野戦を選択した。この大胆な決断の背景には、たとえ野戦で敗れても、背後には本宮城という確固たる拠点が存在するという計算があった。
第二に、戦闘において伊達軍は各所で敗走したが、それは統制を失った無秩序な潰走ではなく、本宮城という明確な目標地点への「戦略的後退」であった。これにより、軍の組織的な崩壊を防ぎ、再編の機会を維持することができた。
第三に、連合軍の視点に立てば、たとえ野戦で伊達本陣を蹂躙したとしても、その先には堅固な本宮城が控えており、攻城戦という新たな多大な負担を強いられることになる。この本宮城の存在が、連合軍の徹底的な追撃を心理的に躊躇させ、結果として政宗が夜を迎えるまでの時間を稼ぐ一因となった可能性は否定できない。
結論として、本宮城は物理的に政宗の身を保護しただけでなく、心理的・戦略的に「負けても次がある」という状況を作り出した。これにより、伊達軍の粘り強い抵抗を支え、連合軍の戦意にも影響を与えた、目に見えないながらも極めて重要な役割を果たしていたのである。
人取橋の戦いという最大の危機を乗り越えた伊達政宗は、南奥州の覇権確立に向け、その歩みをさらに加速させる。この過程において、本宮城は伊達氏の領土拡大を支える重要な軍事拠点として、最後の輝きを放つことになった。
人取橋の戦いの後、連合軍が瓦解したことにより、二本松城は孤立無援となった。天正14年(1586年)7月、二本松城は開城し、畠山氏は事実上滅亡。その領地は伊達氏に併合された 15 。これにより、伊達氏の勢力圏は安積郡(現在の郡山市周辺)を支配する二階堂氏や、会津の蘆名氏と直接境を接することになった。
この新たな状況下で、本宮城の戦略的重要性はさらに高まった。かつては対二本松の最前線であったが、今や対蘆名・対佐竹の最前線基地へとその役割を変えたのである 5 。政宗が安積郡、さらには会津へと侵攻作戦を展開する上で、本宮城は兵員の集結、兵糧や弾薬の集積・供給、そして指揮命令系統の中枢を担う、不可欠な橋頭保として機能し続けた。
伊達氏と蘆名氏の対立は、蘆名家の家督相続問題を契機に決定的となり、天正17年(1589年)、両者は会津の命運を賭けて激突する。この「摺上原の戦い」に際しても、本宮城は重要な役割を果たした。政宗は米沢から出陣した後、本宮城を経由して決戦の地に近い猪苗代城へと進軍しており、本宮城が重要な中継拠点として活用されていたことがうかがえる 17 。
同年6月5日、磐梯山麓の摺上原で行われた決戦で、伊達軍は蘆名義広の軍に圧勝。この勝利により、政宗は会津の中心である黒川城(後の会津若松城)を攻略し、長年の目標であった南奥州の覇権をほぼ手中に収めたのである 16 。
摺上原の戦いにおける決定的勝利と会津の制圧は、皮肉にも本宮城の歴史的役割に終止符を打つことになった。伊達氏の領国が会津盆地まで一挙に拡大したことで、国境線は遥か南へと移動した。これにより、本宮城は国境の最前線拠点という第一級の戦略的価値を完全に失い、伊達領国の内陸部に位置する一城郭へとその地位を低下させたのである 2 。
本宮城の運命を最終的に決定づけたのは、中央の政治情勢の激変であった。天正18年(1590年)、小田原北条氏を滅ぼして天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、全国の大名配置を再編する「奥州仕置」を実施した。秀吉は、惣無事令(私闘禁止令)に違反して会津を攻略した政宗の行為を問題視し、会津をはじめとする新領地を没収、伊達氏の所領を大幅に削減した 17 。
さらに、秀吉政権は全国の大名の力を削ぎ、豊臣政権への反抗を防ぐため、本城以外の支城を破却させる「城割(しろわり)」政策を強力に推進した。この政策の下、二本松城ですら伊達氏の手を離れ、会津に入封した蒲生氏郷の支城とされた 15 。
このような全国的な政治・軍事秩序の大変革の中で、すでに伊達氏にとっての戦略的価値を失っていた本宮城が存続する理由はなく、歴史の舞台から静かに姿を消した。各種の資料は、本宮城の廃城年を、奇しくも伊達氏が南奥州の覇権を確立した天正17年(1589年)頃と伝えている 2 。
本宮城の歴史を概観するとき、その評価は単に「人取橋の戦いにおける伊達政宗の本陣」という一点に集約されがちである。しかし、本報告書で詳述したように、この城が持つ歴史的価値はより多層的かつ深遠であり、戦国時代の南奥州を理解する上で極めて重要な視座を提供するものである。
本宮城の本質的な価値は、以下の三つの側面に集約することができる。
第一に、本宮城は 中世東北地方の典型的な「群郭式城館」として、在地領主の統治形態を今に伝える貴重な遺産 である。菅森館、鹿子田館、愛宕館という複数の館が連携するその構造は、惣領制に代表される、畿内とは異なる分権的な武士団の社会構造を反映している。本宮城は、在地に根差した畠山氏庶流の拠点として、約150年間にわたり地域の政治・軍事の中心として機能した。
第二に、本宮城の歴史は、 戦国時代の社会変動を映し出す縮図 としての価値を持つ。天文の乱において、城主・本宮宗頼が宗家と袂を分かって敗れ去ったことで、城は血縁に基づく世襲の「本拠地」から、上位権力に従属する「軍事拠点」へとその性格を不可逆的に変えた。これは、中世的な在地領主層が解体され、戦国大名による一元的な領国支配体制へと移行していく時代の大きな流れを象徴する出来事であった。
第三に、本宮城は 伊達政宗の覇業を決定づけた極めて重要な戦略拠点 であった。人取橋の戦いでは、政宗の命と伊達家の未来を救う最後の砦として機能した。それは単なる退却拠点に留まらず、圧倒的に不利な状況下で野戦を敢行するという政宗の戦略を支えた「戦略的緩衝地帯」であった。この危機を乗り越えた後、本宮城は会津侵攻の橋頭保として、政宗が南奥州の覇者となるための道を切り拓いた。
結論として、本宮城は、中世から戦国末期への移行期における南奥州の政治・社会・軍事の様相を多角的に示す、一級の歴史的史跡であると再評価することができる。
本宮城の歴史的価値をさらに明らかにするためには、今後の研究におけるいくつかの課題が存在する。
最も重要なのは、 本宮城跡(特に菅森館、愛宕館、鹿子田館の主要部)に対する体系的な考古学調査の実施 である。発掘調査によって、城郭の正確な縄張り、建物の配置、そして時代ごとの改修の痕跡などが明らかになれば、文献史料だけでは知り得ない城の実像に迫ることが可能となる。
また、 『本宮市史』をはじめとする郷土史資料や、二本松畠山氏、伊達氏関連の古文書のさらなる精査 も不可欠である。本宮市歴史民俗資料館や、近年開館した本宮市歴史文化収蔵館が所蔵する未公開資料の中には、本宮城の城代として誰が派遣されていたか、あるいは城下町の様子など、より詳細な歴史像を復元するための新たな手がかりが含まれている可能性がある 34 。これらの地道な研究を通じて、本宮城は南奥州戦国史におけるその真の価値を、より一層明確に示してくれるであろう。