杣山城
越前の要衝・杣山城は、南北朝時代に南朝方の拠点となり、新田義貞も入城。室町期には斯波氏と朝倉氏の争奪の舞台となり、戦国末期には一向一揆の抵抗拠点となった。その歴史は、越前の動乱を物語る。
越前の要衝・杣山城の総合的研究 ― 南北朝の動乱から戦国期の終焉まで ―
序章:杣山城の歴史的意義
概要
福井県南越前町にその遺構を残す杣山城は、単に越前国の一山城として片付けられる存在ではない。鎌倉時代末期にその歴史の幕を開けてから、天正元年(1573年)に事実上の廃城となるまでの約250年間にわたり、この城は北陸道の動乱の中心にあり続けた「時代の目撃者」であった 1 。平安時代初期に源頼親が城郭を築いたという伝承も残されているが 2 、歴史的実像としては、鎌倉時代末期に在地領主であった瓜生氏によって築かれたことに始まると考えられている 1 。南北朝の争乱においては南朝方の最後の拠点となり、室町時代には守護斯波氏の政争の舞台となり、そして戦国時代には越前を支配した朝倉氏の南方の要衝として、また一向一揆との攻防の最前線として、常に時代の大きなうねりの中にその身を置いてきた。
地理的・戦略的重要性
杣山城が歴史上、繰り返し重要な役割を担った根源的な理由は、その傑出した地理的条件にある。標高492メートルの杣山に築かれたこの城は 5 、眼下に古代からの大動脈である北陸道と日野川の流れを収め、交通と軍事の要衝を扼する位置にあった 1 。特に、京や近江方面から木ノ芽峠を越えて越前に侵攻してくる敵勢をいち早く察知し、迎撃するための最前線基地として、「越前の玄関口」とも言うべき極めて重要な戦略的価値を有していた 4 。この地理的優位性こそが、南北朝の英雄・新田義貞から、室町幕府の管領・斯波高経、戦国大名・朝倉氏、そして天下人・織田信長に至るまで、各時代の権力者たちがこの城を巡って激しい争奪戦を繰り広げた最大の要因であった。
杣山城の歴史を深く考察すると、それは単なる城主の変遷の記録に留まらない。この城の支配者の交代劇は、越前国における権力の中心が、在地領主(瓜生氏)から守護(斯波氏)、守護代、そして戦国大名(朝倉氏)へと移行し、最終的に中央の統一権力(織田氏)に組み込まれていくという、中世から近世へと至る日本の歴史的変遷の縮図そのものを映し出している。瓜生氏の在地支配、新田義貞の南朝方拠点化、斯波高経の幕政を巡る籠城、朝倉氏による越前統一の足掛かり、そして一向一揆の最後の抵抗拠点化と、杣山城をめぐる攻防は、常にその時点での越前国の覇権争いを象徴する出来事であった。したがって、杣山城の歴史を紐解くことは、越前という一国の政治史・軍事史のダイナミズムを、具体的な城郭の変遷を通して理解するための、極めて有効な事例研究となるのである。
【表1】杣山城 略年表
時代 |
年代 |
主要な出来事 |
主な城主・関連人物 |
平安時代 |
初期 |
城郭が築かれたとの伝承が残る 2 。 |
源頼親(伝承) |
鎌倉時代 |
中期~末期 |
瓜生氏が居城として築城、または再築したとされる 2 。 |
瓜生衡 |
南北朝時代 |
延元元年/建武3年 (1336) |
新田義貞が金ヶ崎城を脱出し、杣山城に入城。南朝方の拠点となる 1 。 |
瓜生保、新田義貞 |
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延元2年/建武4年 (1337) |
城主・瓜生保が金ヶ崎城救援に向かうも戦死 2 。 |
瓜生保 |
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延元3年/暦応元年 (1338) |
新田義貞が藤島の戦いで戦死 1 。 |
新田義貞 |
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暦応4年/興国2年 (1341) |
杣山城が北朝方によって攻め落とされる 1 。 |
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室町時代 |
貞治5年/正平21年 (1366) |
「貞治の政変」で失脚した斯波高経が籠城。幕府軍に包囲される 1 。 |
斯波高経 |
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貞治6年/正平22年 (1367) |
斯波高経が城内で病没 1 。 |
斯波高経 |
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文明6年 (1474) |
日野川の合戦で朝倉孝景が斯波方の甲斐氏を破り、杣山城を攻略 8 。 |
増沢甲斐守、朝倉孝景 |
戦国時代 |
1470年代以降 |
朝倉氏の家臣・河合安芸守宗清が城主となる 2 。 |
河合安芸守宗清 |
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永正11年 (1514) |
朝倉氏に対抗する一向一揆軍が一時立てこもる 2 。 |
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天正元年 (1573) |
刀根坂の戦いで城主・河合安芸守が討死。朝倉氏滅亡に伴い廃城となる 10 。 |
河合安芸守、織田信長 |
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天正2年 (1574) |
越前一向一揆が蜂起し、抵抗拠点として一時利用される 5 。 |
越前一向一揆衆 |
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天正3年 (1575) |
織田信長による越前一向一揆殲滅戦により、完全にその役割を終える。 |
織田信長 |
現代 |
昭和9年 (1934) |
国の史跡に指定される 5 。 |
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昭和54年 (1979) |
山麓の居館跡などが追加指定される 5 。 |
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第一章:城郭の構造と考古学的知見
杣山城の特質を理解する上で、その構造の分析は不可欠である。この城は、単一の構造物ではなく、自然地形を巧みに利用した山城部分と、山麓に広がる居館部分が一体となった、大規模かつ複合的な中世城館であった 4 。その構造は、一度に完成されたものではなく、各時代の軍事的・政治的要請に応じて段階的に拡張・改修されていった痕跡を色濃く残している。
第一節:自然地形と縄張
杣山城が築かれた杣山は、南条山地に属しながらも、南北をそれぞれ田倉川と阿久和川に挟まれており、周囲から孤立した地形をなしている 4 。この地理的条件に加え、山頂の南北斜面は急峻な崖を呈しており、これが天然の要害として機能した 4 。特に、本丸南側や東御殿直下の急崖は、地質学的に非常に硬質なチャート層によって形成されており、人工的な防御施設を補って余りあるほどの防御力を城に与えていたと考えられる 4 。
城の縄張(設計)は、この険しい地形を最大限に活用している。山頂に軍事中核である「山城」を置き、北側山麓の比較的緩やかな斜面に、平時の政治・生活の拠点である「居館」と城下町を配置するという、戦時と平時双方の機能を両立させた複眼的な構造が最大の特徴である 4 。
第二節:山城部分の遺構
山城部分は、標高492メートルの山頂に位置する「本丸」を最高所とし、そこから派生する尾根筋に沿って主要な曲輪(くるわ)が配置されている 6 。
- 中核部(本丸・西御殿・東御殿) : 本丸は城下の様子や木ノ芽峠方面を一望できる絶好の監視地点であった 5 。その西側の尾根には大小17もの平坦面からなる「西御殿」が、南側には約600平方メートルの不整形な平坦地である「東御殿」が設けられている 5 。昭和45年(1970年)から始まった発掘調査では、これらの曲輪から建物の存在を示す礎石が検出されており、単なる空き地ではなく、兵舎や物見櫓、あるいは城主の有事の際の居住空間などが存在したことが考古学的に裏付けられている 4 。
- 防御施設 : 中世山城の典型的な防御施設である「堀切」と「土塁」が、現在も良好な状態で残存している 7 。特に本丸と西御殿の間など、尾根の要所を分断するように設けられた複数の堀切は、敵の侵攻を遅滞させ、各個撃破を容易にするための重要な仕掛けであった 7 。
- 水源の確保 : 山城における籠城戦の生命線を握るのは、水の確保である。「西御殿」の一角には「殿池」と呼ばれる池が現存しており、これが城内の貴重な水源として利用されていた 1 。険しい山中にこれだけの規模の貯水池を維持していたことは、杣山城が長期の籠城を想定して設計されていたことを示唆している。
第三節:山麓居館跡の調査成果
山麓の阿久和地区には、城主が平時に居住し、政務を執ったとされる「居館跡」が広がる 5 。平成11年度(1999年)から18年度(2006年)にかけて行われた発掘調査により、その具体的な姿が明らかになってきた 4 。
- 主要遺構 :
- 土塁(一ノ城戸) : 城下への入り口を固める巨大な土塁であり、「一ノ城戸」と呼ばれる 6 。中央部が門の役割を果たし、一部には野面積みの石積みが5段分残存しており、堅固な防御施設であったことが窺える 6 。
- 礎石建物 : 居館の中心となる建物の跡。戦国時代のものと比較して全体的に礎石が小さい傾向があり、南北朝期から室町期にかけての建築様式の特徴を示している可能性がある 6 。
- 井戸・土器廃棄土坑 : 石組みの井戸や、大量の土師質皿が廃棄された土坑が発見されており、ここでの日常生活の痕跡を物語っている 6 。特に井戸が意図的に礫で埋められていた痕跡は、城が放棄される際に計画的な処理が行われたことを示唆しており、興味深い。
- 城下の広がり : 居館跡の周辺には「大屋敷」や「御屋敷」といった地名が今も残り、発掘調査でも居住空間を示す平坦面が確認されている 6 。これらは、城主の館だけでなく、家臣団の屋敷が立ち並ぶ城下町が形成されていたことを示しており、杣山城が単なる軍事拠点ではなく、地域の政治・経済の中心地でもあったことを物語っている 6 。
第四節:伝承地の考古学的検討
杣山城には、南北朝時代の悲劇を伝える数々の伝承地が残されている。新田義貞の妻・匂当内待が一時隠れたとされる「姫穴」 5 、瓜生保の戦死を聞いた夫人が侍女たちと共に身を投げたという「袿掛岩」 5 、そして犬や馬さえも引き返すほどの険しさを示す「犬戻り駒返し」 6 などがそれである。これらの伝承地は、いずれも城の急峻な崖や岩場といった、防御上重要な地形と密接に関連している。これらの物語は、単なる伝説としてではなく、杣山城がいかに難攻不落の要害であったかを、人々の記憶を通して語り継ぐ口承史料としての価値を持っている。
【表2】杣山城の主要遺構一覧
遺構名 |
位置 |
規模・特徴 |
推定される機能 |
本丸 |
杣山山頂(標高492m) |
城の最高所に位置する主郭。城下を一望できる 5 。 |
司令塔、最終防衛拠点、監視所 |
西御殿 |
本丸の西側尾根 |
大小17の平坦面から構成される。礎石建物跡あり 5 。 |
城主の有事の際の居住区、兵舎 |
東御殿 |
本丸の南側 |
南北に長い約600平方メートルの不整形な平坦地。礎石建物跡あり 6 。 |
兵舎、物資貯蔵庫 |
殿池 |
西御殿内 |
山中にある貯水池 5 。 |
城内の主要な水源 |
堀切 |
尾根筋の要所 |
尾根を人工的に断ち切ったV字状の溝。土橋を伴う箇所もある 7 。 |
敵の進軍阻止、曲輪の独立性の確保 |
居館跡 |
北側山麓 |
土塁や石垣で囲まれた広大な平坦地。複数の礎石建物跡や井戸を検出 5 。 |
城主の平時の館、政庁 |
一ノ城戸 |
居館跡の入り口 |
「ハ」の字状に開く大規模な土塁。一部に石積みが残る 6 。 |
城下への第一の関門、防御施設 |
杣山城の構造は、築城当初から現在見られるような大規模なものではなかった可能性が高い。鎌倉末期の瓜生氏による築城時点では、荘園管理を主目的とした「砦程度の小規模なもの」であったと推測される 1 。それが、南北朝の動乱という未曽有の軍事的緊張の中で、新田義貞率いる南朝軍の拠点として整備が進められた。そして、その後の「貞治の政変」において、斯波高経が幕府の数万ともいわれる大軍と対峙するに及び、山城部分の大規模な改修と、山麓における本格的な居館・城下町の整備が行われ、今日見られるような複合城郭へと大きく拡張されたと考えられる 1 。発掘調査で確認された、造成時期や様式の異なる遺構の混在は 4 、まさにこの段階的な進化の過程を物語る考古学的な証左と言えよう。現存する杣山城の遺構群は、単一の時代の産物ではなく、幾多の戦乱を乗り越える過程で積層的に形成された「歴史の地層」なのである。
第二章:南北朝の動乱と杣山城 ― 南朝最後の拠点として
杣山城が日本の歴史の表舞台に鮮烈な印象を刻みつけたのは、14世紀の南北朝の動乱期においてであった。この時代、城は南朝方の忠臣・瓜生氏の居城として、そして建武政権の立役者・新田義貞が再起を期した最後の拠点として、越前における南朝方の抵抗の象徴となった。
第一節:瓜生氏による築城
鎌倉時代の中期から後期にかけて、この地は中世荘園「杣山庄」として知られていた 5 。この荘園の地頭職にあったのが、嵯峨源氏の流れを汲む名門・瓜生氏であった 16 。瓜生衡(うりゅう ひら)が、一族の拠点として、また荘園管理の拠点として杣山に城を築いたのが、杣山城の始まりとされる 2 。当初の城は、来るべき大乱を想定したものではなく、在地領主の館としての性格が強かったと推測される。
第二節:新田義貞の入城と金ヶ崎城の攻防
建武の新政が足利尊氏の離反によって崩壊すると 1 、後醍醐天皇方の総大将であった新田義貞は、恒良親王を奉じて北陸へ落ち延び、越前の玄関口である敦賀の金ヶ崎城に籠城した 1 。この時、杣山城主であった瓜生保は、弟の義鑑坊と共に南朝方として義貞に呼応した 2 。
北朝方の大軍に包囲され、兵糧攻めに苦しむ金ヶ崎城を救うべく、瓜生保は杣山城から救援に出撃する 2 。しかし、延元2年(1337年)、敦賀市樫曲付近で北朝方の斯波軍と激突し、奮戦虚しく戦死を遂げた 2 。この瓜生軍の敗北は、金ヶ崎城にとって致命的な打撃となり、落城は時間の問題となった 17 。
この絶望的な状況下で、新田義貞は金ヶ崎城が陥落する直前に城を脱出し、瓜生氏の拠点である杣山城へと逃れた 1 。これにより、杣山城は一夜にして北陸における南朝方の最大かつ最後の戦略拠点へとその姿を変えることになった 18 。
第三節:南朝方の拠点から北朝の手に
杣山城を新たな拠点とした新田義貞は、その勢力を再編し、反撃に転じた。山城の地の利を活かし、越前国内を転戦して斯波軍を度々破り、一時は軍事的主導権を握るほどの勢いを取り戻した 1 。その勢いは、一度は失った金ヶ崎城を奪還するほどであった 19 。
しかし、南朝方の優勢は長くは続かなかった。延元3年(1338年)、義貞は福井平野の藤島城を攻める最中、灯明寺畷において斯波軍の別動隊と遭遇し、不慮の戦死を遂げてしまう 1 。総大将を失った南朝軍は急速に統制を失い、士気は地に落ちた。義貞の死後も杣山城はしばらく抵抗を続けたが、暦応4年(1341年)6月、ついに北朝方の総攻撃の前に落城した 1 。これにより、越前における南朝方の組織的な抵抗は完全に終焉を迎え、杣山城は北朝方の手に渡った。
新田義貞が金ヶ崎城から杣山城へと拠点を移した決断は、単なる敗走ではなく、彼の戦略思想の大きな転換を示すものであった。海に面し、海上からの補給を期待できる一方で、四方を包囲されやすい「点」の防御拠点であった金ヶ崎城に対し、杣山城は内陸の山岳地帯に位置し、ゲリラ的な遊撃戦を展開するのに適した「線」の防御拠点であった。この戦略転換により、義貞軍は籠城戦による消耗を避け、機動力を活かして一時的に息を吹き返すことに成功した。しかし、その一方で、この選択は中央からの支援ルートを断ち、北畠顕家といった他の南朝勢力との連携を困難にさせ、結果的に義貞軍を越前という一地域に孤立させることにも繋がった 19 。杣山城への移動は、短期的な延命と戦術的成功をもたらしたものの、大局的には南朝方を局地戦力へと追い込み、その敗北を決定づけた、諸刃の剣の戦略であったと評価できる。
第三章:室町時代における杣山城 ― 斯波氏と朝倉氏の角逐
南北朝の動乱が終息し、室町幕府の体制が確立されると、杣山城は越前守護となった斯波氏の支配下に入り、北朝(幕府)方の重要拠点として新たな役割を担うことになった。この時代、城は幕府内部の政争や、越前国内の勢力争いの舞台として、再び歴史の渦中に巻き込まれていく。
第一節:守護・斯波高経の拠点
南北朝の動乱で北朝方の勝利に貢献した斯波高経は、越前守護として大きな権勢を誇った。しかし、2代将軍・足利義詮の時代になると、その家格の高さを背景にした幕政への介入が専横と見なされ、諸将の反感を買うことになる 1 。
貞治5年(1366年)、政争に敗れて失脚した高経は、将軍に対し叛意を示し、京の自邸に火を放って本拠地である越前へと下向した。この時、彼が立てこもったのが杣山城であった 1 。世に言う「貞治の政変」である。事態を重く見た幕府は、山名氏、土岐氏、京極氏といった有力守護大名を総動員した討伐軍を派遣し、杣山城を幾重にも包囲した 1 。この幕府の大軍と対峙するにあたり、高経は杣山城に大規模な拡張・整備を施したと考えられており、城の防御能力はこの時に飛躍的に向上したと推測される 1 。
しかし、両軍の間で大規模な攻城戦が行われることはなく、膠着状態が続いた。そして翌年の貞治6年(1367年)、斯波高経は包囲された城内にて病没し、この政変は終結した 1 。
第二節:守護代・甲斐氏の支配
斯波高経の死後も、杣山城は引き続き斯波氏の重要な拠点として機能した。特に、斯波氏の家宰であり、越前守護代を歴任した甲斐氏が城主としてこの地を治めた 4 。甲斐氏は斯波氏の重臣として、越前南部の支配を担い、新興勢力の台頭に備える役割を果たしていた。
第三節:朝倉氏の台頭と城主の交代
室町時代も中期に入ると、応仁の乱(1467-1477年)を契機として、守護である斯波氏の権威は大きく揺らぎ始める。その一方で、守護代の家臣であった朝倉氏が、越前国内で着実に実力を蓄え、下剋上への道を歩み始めていた 20 。
朝倉氏の初代当主・朝倉孝景(英林孝景、後の敏景)は、越前の実質的な支配者となるべく、斯波氏とその重臣たちとの対決姿勢を鮮明にする。そして文明6年(1474年)、孝景は斯波方に与する甲斐氏(増沢甲斐守)が籠る杣山城に狙いを定め、攻撃を開始した 7 。日野川流域で繰り広げられたこの戦いで、朝倉軍は甲斐軍を打ち破り、杣山城はついに落城した 9 。
この勝利により杣山城を支配下に置いた朝倉孝景は、自らの信頼篤い家臣である河合安芸守宗清を新たな城主として配置した 2 。この出来事は、単なる一城の攻略に留まらず、斯波氏から朝倉氏へと越前の支配権が完全に移行したことを象徴する、画期的な事件であった。杣山城は、朝倉氏が戦国大名として越前一国を支配するための、南方の重要な礎石となったのである。
第四章:戦国時代の杣山城 ― 朝倉氏の支配と一向一揆
戦国時代に入ると、杣山城は越前を100年以上にわたって支配した戦国大名・朝倉氏の支城として、その歴史の新たな一章を迎える。本拠地である一乗谷の南方を固める戦略的要衝として、また、国内に根強い勢力を持つ一向一揆への備えとして、その重要性は依然として高かった。
第一節:朝倉氏の支城としての役割
朝倉氏の支配下において、杣山城は家臣の河合安芸守宗清が城主を務めた 6 。戦国時代のゲームなどでは「河合吉統」の名で知られる武将と同一人物、あるいは近しい縁者であった可能性が指摘されている 10 。河合氏は、南越前の統治を任されると共に、近江方面からの侵攻に対する第一線の防御拠点として、杣山城の守りを固めていた。この城は、朝倉氏の領国支配体制において、一乗谷、大野郡の亥山城などと並ぶ、欠くことのできない軍事拠点の一つであった。
第二節:一向一揆との攻防
朝倉氏の治世を通じて、浄土真宗本願寺派の門徒による一向一揆は、常に領国支配を脅かす潜在的な脅威であり続けた。永正3年(1506年)には、越前国内で大規模な一向一揆が蜂起し、朝倉軍と九頭竜川を挟んで激戦を繰り広げるなど、両者の対立は根深いものがあった 20 。
こうした緊張関係の中、永正11年(1514年)には、朝倉氏に反旗を翻した一向一揆勢が杣山城に立てこもるという事件が発生している 2 。朝倉氏の重要拠点であるはずの城が、敵対勢力に一時的とはいえ占拠されたこの出来事は、杣山城が朝倉氏にとって南方の防衛拠点であると同時に、一揆勢にとっては朝倉支配を覆すための格好の攻撃目標でもあったことを示している。この一揆は最終的に鎮圧されたとみられるが、杣山城が常に一触即発の最前線に置かれていたことを物語るエピソードである。
第三節:織田信長の越前侵攻と落日
朝倉氏5代当主・朝倉義景の時代、天下布武を掲げる織田信長との対立は避けられないものとなった。元亀元年(1570年)の「金ヶ崎の退き口」や「姉川の戦い」を経て、両者の関係は破局的な戦争へと突き進んでいく 23 。
天正元年(1573年)8月、信長は浅井長政の籠る小谷城を攻撃。その救援のために近江へ出陣していた朝倉義景率いる朝倉軍主力に対し、信長は奇襲をかけ、越前への退却路である刀根坂で追撃戦を展開した 22 。この「刀根坂の戦い」で、戦意の低い朝倉軍は総崩れとなり、壊滅的な打撃を受けた 22 。この時、杣山城主であった河合安芸守も、朝倉軍の中核として奮戦したが、乱戦の中で討死を遂げた 10 。
この戦いの結果は、杣山城の運命を決定づけた。朝倉氏の防衛戦略は、一乗谷を中核とし、杣山城のような各地の支城ネットワークで敵の侵攻を食い止めるという、中世以来の拠点防御思想に依存していた。しかし、信長が用いたのは、城を一つ一つ攻略する伝統的な戦法ではなく、大軍による圧倒的な機動力で敵の主力野戦軍そのものを殲滅するという、新しい時代の戦争であった。刀根坂で城主の河合氏を含む朝倉軍の主力が消滅したことにより、いかに堅固な山城であろうとも、杣山城はもはや組織的な抵抗が不可能な「抜け殻」と化した。信長は大規模な攻城戦を行うことなく越前を制圧し、朝倉義景は一乗谷で自刃、100年続いた名門・朝倉氏は滅亡した 9 。そして、その戦略的価値を失った杣山城は、信長の支配体制下で廃城とされるに至ったのである 7 。杣山城の落日は、個々の城の堅固さよりも、軍全体の機動力と決戦能力が雌雄を決する、戦国時代の新たな軍事 парадигмの到来を象エンブレム徴する出来事であった。
第五章:最後の抵抗と終焉 ― 越前一向一揆の拠点化
天正元年(1573年)の朝倉氏滅亡と織田信長による廃城命令により、杣山城の正規の軍事拠点としての歴史は幕を閉じた。しかし、城は完全に沈黙したわけではなかった。越前の新たな支配者となった織田勢力に対する最後の抵抗の舞台として、歴史の終幕に再びその姿を現すことになる。
第一節:天正2年(1574年)の一揆蜂起
朝倉氏滅亡後、織田信長は越前の支配を、朝倉氏からの降将であった前波長俊(桂田長俊)らに委ねた。しかし、彼らによる統治は過酷であり、民衆の不満は急速に高まっていった 26 。この不満を背景に、同じく降将であった富田長繁が反乱を起こしたことをきっかけに、越前国内は再び混乱に陥る。この機に乗じて、本願寺の指令を受けた一向一揆が全土で蜂起し、桂田らを討ち取り、越前は「百姓の持ちたる国」となった 26 。
この大混乱の中、一度は廃城となっていた杣山城は、織田勢力に抵抗する一向一揆衆によって、再び軍事拠点として利用された 5 。天然の要害である杣山城は、ゲリラ的な抵抗活動を行うには格好の場所であった。しかし、この時の籠城の具体的な規模や戦闘の経過については、多くの資料が「詳細は不明」としており 5 、本願寺から派遣された下間頼照が率いる一揆軍本隊とは別に、地域的な抵抗勢力が立てこもったものと推測される。
第二節:織田軍による再度の平定
天正3年(1575年)、長篠の戦いで武田勝頼を破り、後顧の憂いを断った織田信長は、満を持して3万ともいわれる大軍を率い、越前一向一揆の殲滅に乗り出した 27 。
一揆勢は木ノ芽峠や鉢伏城などに防衛線を敷いて織田軍を迎え撃とうとしたが 29 、信長の圧倒的な軍事力の前に防衛線は次々と突破された。一揆の総大将であった下間頼照は海路での脱出を図るも捕らえられ、討ち取られた 31 。信長は府中ですら1500人以上を処刑するなど、徹底的な残党狩りを行い、越前の一向一揆勢力を根絶やしにした 28 。
この織田軍による越前再平定に伴い、一向一揆の抵抗拠点の一つであった杣山城も、完全にその歴史的役割を終えた。これ以降、城が再び軍事目的で利用されることはなく、静かに山野に還っていったのである 10 。
終章:史跡としての杣山城
戦国の世が終わりを告げ、杣山城が歴史の表舞台から姿を消して数百年、城は再びその価値を見出されることになる。それは、戦乱の記憶を今に伝える貴重な歴史遺産としてであった。
杣山城跡は、南北朝時代の動乱における南朝方の重要拠点であった歴史的価値、そして山頂の山城と山麓の居館が一体となって良好な状態で保存されている稀有な事例として高く評価された。その結果、昭和9年(1934年)3月13日、約170ヘクタールに及ぶ広大な城域が国の史跡に指定された 4 。さらに、その後の調査研究の進展を受け、昭和54年(1979年)5月21日には、山麓の居館跡と二ノ城戸跡が追加指定され、史跡としての保護体制が強化された 4 。
昭和45年(1970年)から始まった発掘調査と環境整備事業により、礎石建物跡の平面表示や登山道の整備が進められた 4 。現在、杣山城跡は、その激動の歴史を学ぶ貴重な学習の場として、また、豊かな自然の中で歴史散策を楽しむことができるハイキングコースとして、地域住民や全国の歴史愛好家から広く親しまれている 5 。
鎌倉、南北朝、室町、戦国という激動の時代を通じて、常に越前の動乱の中心にあり続けた杣山城。瓜生氏の忠義、新田義貞の悲運、斯波高経の栄枯盛衰、そして朝倉氏の百年王国とその終焉。城跡に残る土塁や堀切、礎石の一つ一つが、この地で繰り広げられた数多の物語を今に伝える「歴史の証人」である。この貴重な文化遺産を適切に保存し、その歴史的意義を後世に伝えていくことは、現代に生きる我々に課せられた重要な責務と言えよう。
引用文献
- お そ ば に し て https://www.fcci.or.jp/files/uploads/2024july_54_history.pdf
- 杣山城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%A3%E5%B1%B1%E5%9F%8E
- 杣山城(福井県南条郡)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/3966
- 史跡 杣山城跡 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/36/36079/70425_1_%E5%8F%B2%E8%B7%A1%E6%9D%A3%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E8%B7%A1.pdf
- 杣山城跡 | スポット - 南越前町観光情報サイト https://www.minamiechizen.com/spot/19013/
- 国指定史跡 杣山城跡 | 南越前町ホームページ https://www.town.minamiechizen.lg.jp/kurasi/103/128/p001165.html
- 杣山城の見所と写真・100人城主の評価(福井県南越前町) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/1862/
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