飛騨の松倉城は、姉小路頼綱が飛騨統一の野望をかけ築いた天空の要塞。壮大な石垣を誇るも、豊臣秀吉の飛騨征伐で落城。金森長近により破城され、その歴史は高山城へと引き継がれた。
飛騨国、現在の岐阜県高山市にその痕跡を留める松倉城は、戦国時代の終焉を象徴する壮大かつ悲劇的な山城である。高山市街の南西に聳える松倉山、その標高856.7メートルの山頂に築かれたこの城は、単なる軍事拠点に留まらない、複雑で多層的な歴史的価値を秘めている 1 。比高360メートルという峻険な地形に位置し、高山盆地を一望のもとに収めるその立地は、北の越中、南の美濃、東の信州、西の郡上へと通じる諸街道の結節点を押さえる戦略上の要衝であった 2 。飛騨の国境を越えようとするあらゆる勢力にとって、松倉城は越えがたい障壁として、また飛騨の支配者にとっては一国を見渡し統べるための絶好の観測点として機能したのである。
この城の歴史は、戦国末期に飛騨一国をほぼ手中に収めた「飛騨の梟雄」姉小路頼綱(あねがこうじ よりつな)、本名・三木自綱(みつき よりつな)の野望と密接に結びついている 3 。飛騨統一の最終段階で築かれた松倉城は、頼綱の権勢を内外に誇示する壮大な石垣群を備えていた。それは、単なる防御施設としての実用性を超え、新たな時代の支配者としての威厳を示す政治的象徴であった。しかし、その栄華は束の間のものであった。築城からわずか6年後の天正13年(1585年)、天下統一を進める豊臣秀吉の前に立ちはだかったことで、その運命は暗転する 4 。秀吉の命を受けた金森長近(かなもり ながちか)の軍勢によって攻め落とされ、築城からおよそ10年後には新たな拠点・高山城の築城に伴い廃城となるという、戦国末期の激しい権力闘争と時代の急転換を体現する存在となった 1 。
長らく歴史の中に埋もれていた松倉城であったが、昭和31年(1956年)に岐阜県の史跡に指定され、その価値が再認識される第一歩を踏み出した 1 。そして、平成22年(2010年)から令和4年(2022年)にかけて高山市が実施した総合調査は、この城の評価を決定的に変えるものであった 5 。測量調査、そして初の発掘調査によって、「土の城」から「石の城」へと変貌を遂げた痕跡や、意図的に城の機能を破壊した「破城」の生々しい証拠が次々と発見されたのである 6 。これらの学術的成果は、松倉城が飛騨の支配者交代、すなわち在地領主の時代から中央政権の支配下へと移行する歴史の転換点を物理的に刻み込んだ第一級の歴史遺産であることを証明した。その結果、令和6年(2024年)12月、松倉城跡は国の史跡指定を受けるに至り、その重要性が全国的に認められた 5 。本報告書は、これらの最新の研究成果に基づき、飛騨の空に聳えた石垣の城、松倉城の全貌を詳細に解き明かすものである。
年代 |
主な出来事 |
典拠 |
永禄年間 (1558-1570) |
三木自綱(姉小路頼綱)が松倉城を築城したとする説がある。 |
2 |
天正7年 (1579) |
自綱が桜洞城から本拠を移し、松倉城を築城したとする説が有力。飛騨統一事業を本格化させる。 |
4 |
天正10年 (1582) |
6月、本能寺の変。10月、頼綱が八日町の戦いで江馬輝盛を討ち、北飛騨を制圧する。 |
4 |
天正11年 (1583) |
頼綱が敵対勢力を一掃し、飛騨一国をほぼ統一する。 |
11 |
天正13年 (1585) |
豊臣秀吉の命により金森長近が飛騨へ侵攻(飛騨征伐)。閏8月6日、頼綱の子・秀綱が守る松倉城が内応により落城。姉小路氏(三木氏)は滅亡する。 |
2 |
天正14年 (1586) |
金森長近が飛騨一国3万3千石の領主となる。 |
14 |
天正16年 (1588) |
長近が高山城の築城を開始。これに伴い、松倉城は廃城となる。 |
1 |
昭和31年 (1956) |
松倉城跡が岐阜県の史跡に指定される。 |
1 |
平成22年-令和4年 (2010-2022) |
高山市教育委員会による総合調査(測量・発掘調査等)が実施される。 |
5 |
令和5年 (2023) |
『松倉城跡総合調査報告書』が刊行される。 |
16 |
令和6年 (2024) |
12月20日、文化審議会が松倉城跡を国の史跡に指定するよう文部科学大臣に答申する。 |
5 |
松倉城の築城を理解するためには、16世紀後半の飛騨国における権力闘争の力学を解き明かす必要がある。この城は、一人の野心的な武将が、在地領主から一国を統べる戦国大名へと飛躍を遂げる過程で、その新たな権力基盤として生み出されたのである。
戦国時代の飛騨は、小規模な国人領主が群雄割拠する状態が続いていた。その中で頭角を現したのが、飛騨南部の益田郡を拠点とする三木氏であった 9 。三木氏は京極氏の一族を称し、当主・三木良頼(よりより)の代には、断絶していた飛騨国司の名門・姉小路家(藤原氏系)の名跡を継承することに成功する 3 。これにより、朝廷から正式に国司に任じられ、三木氏は姉小路氏として飛騨における支配の正統性を手に入れた 10 。
その子である自綱(のちの頼綱)は、父の築いた基盤をさらに発展させる。彼は中央の覇者であった織田信長と誼を通じ、その強大な権威を後ろ盾として飛騨国内での影響力を急速に拡大していった 3 。しかし、その前には大きな壁が立ちはだかっていた。北飛騨を拠点とする江馬(えま)氏である 4 。江馬氏は高原諏訪城を本拠とし、甲斐国の武田信玄と結びつくことで三木氏に対抗しており、両者の対立は飛騨の覇権を二分する激しいものであった 4 。
「飛騨の梟雄」と称される姉小路頼綱は、権謀術数に長けた冷徹な現実主義者であった 3 。天正10年(1582年)6月、織田信長が本能寺の変で横死するという中央政権の空白が生まれると、飛騨の情勢は一気に流動化する。この機を逃さず、江馬氏当主・江馬輝盛(てるもり)は勢力拡大を狙って姉小路方の小島城に攻め寄せた 11 。これに対し、頼綱は迅速に行動を起こす。自ら軍を率いて出陣し、高山盆地北部の「八日町の戦い」で江馬軍と激突。鉄砲を効果的に用いた戦術で勝利を収め、輝盛を討ち取った 12 。
この勝利を契機に、頼綱は一気呵成に飛騨統一へと突き進む。江馬氏の旧領をすべて併呑し、その一族を飛騨から追放 4 。さらに、かつては味方であった牛丸氏や広瀬氏など、自らの支配に服さない勢力を次々と討伐し、天正11年(1583年)頃には、白川郷の内ヶ島氏などを除く飛騨一円をその手中に収めることに成功した 11 。
松倉城の築城は、この飛騨統一事業の総仕上げとして行われた。築城年代には永禄年間(1558-1570)説もあるが 2 、頼綱が江馬氏との対決と飛騨統一を本格化させた天正7年(1579年)頃とする説がより有力視されている 4 。この時期に、頼綱は三木氏累代の本拠地であった飛騨南部の桜洞城(さくらぼらじょう)から、高山盆地を見下ろす松倉山に新たに築いた城へと、その拠点を移したのである 10 。
この本拠地移転は、単なる居城の変更以上の、極めて重要な戦略的意味を持っていた。桜洞城が三木氏という一在地領主の拠点であったのに対し、松倉城は飛騨全体の交通網を掌握できる、まさに「首都」と呼ぶにふさわしい場所に位置していた 2 。頼綱が桜洞城を「冬城」、松倉城を「夏城」と称したという逸話が残されているが 2 、これは季節による使い分けという風流な側面だけでなく、自身の統治体制が旧来の地域支配から飛騨一国を経営する新たな段階へと移行したことを宣言する、政治的な意思表示であったと考えられる。松倉城の築城は、頼綱が名実ともに飛騨の覇者となったことを天下に示す、野望の象徴だったのである。
松倉城は、その峻険な立地を最大限に活かした、戦国末期の山城の到達点の一つを示す。城郭の縄張りは、壮麗な石垣に比して各曲輪の面積は比較的小さく、居住性よりも軍事拠点としての機能性を優先した、合理的かつ緊密な設計思想が見て取れる 15 。それは、城郭本体と山麓の城下町、そして周辺の支城ネットワークが一体となった、領域全体を支配するためのシステムの中核として構想されていた。
松倉城の中枢部は、松倉山の山頂から延びる尾根上に、本丸、二の丸、三の丸といった主要な曲輪を直線的に配置する「連郭式」の縄張りを基本とする 1 。
松倉城は、山城としての防御機能を高めるための様々な工夫が凝らされている。尾根筋には、敵兵の直線的な侵攻を阻むために地面を深く掘り下げた「堀切(ほりきり)」や、斜面を駆け上がってくる敵の動きを妨げる「竪堀(たてぼり)」が設けられていた 5 。城への主たる出入り口である虎口(こぐち)は、発掘調査の結果、石垣で四角く囲み、進入した敵を三方から攻撃できるように設計された「出枡形虎口(でますがたこぐち)」であったことが判明しているが、現在は破城によって意図的に埋められ、その痕跡を留めるのみである 6 。
城への登城路は、主に二つあったとされる。大手道(正門への道)は、北麓の「飛騨の里」付近から渓流沿いを遡るルートで、搦手道(裏門への道)は千島町方面から登るルートであった 9 。特に搦手道は、頼綱の娘婿・三木三沢が居城とした山下城との連絡路としての役割も兼ねており、松倉城が孤立した存在ではなく、周辺の支城群と連携して防衛線を構築するネットワークの中心であったことを物語っている 9 。
松倉城は、単なる山上の要塞ではなかった。その北麓には、家臣団や商工業者が居住する城下町が経営されていたことが、文献史料や地名から明らかになっている 9 。江戸時代の元禄期に作成された検地水帳には「町屋敷」という記録が見え、現在も「古町」や「馬場」といった小字名が残っていることは、そこに計画的な町割りが存在したことを示唆する 9 。また、山中の各所にも、家臣の屋敷跡とみられる大小の平坦地が点在している 9 。
この構造は、軍事・指揮機能を山上の城郭に集約し、政治・経済機能を山麓の城下町に配置するという、当時の先進的な城郭都市の思想を反映したものである。姉小路頼綱が構想したのは、一つの堅固な城ではなく、松倉城を司令塔とし、城下町を経済基盤、支城網を防衛線とする、飛騨一国を統治するための総合的な都市・防衛システムであったといえる。この城下町の空間構造については、専門家による詳細な研究も進められている 16 。
松倉城跡を訪れる者を最も圧倒するのは、その壮大な石垣群である。しかし、近年の詳細な調査研究は、これらの石垣が単一の時期に、単一の技術で築かれたものではないことを明らかにした。松倉城の石垣には、様式の異なる二つの系統が存在し、それは飛騨という一地方が、在地勢力の時代から中央集権体制下へと組み込まれていく激動の歴史を、物理的な構造として刻み込んだ「生きた証拠」なのである。
高山市が実施した総合調査により、松倉城には築城技術や防御思想が異なる二系統の城郭遺構が重層的に存在することが判明した 5 。これは、城が少なくとも二段階のプロセスを経て築かれ、あるいは改修されたことを強く示唆している。この発見は、松倉城の歴史を、姉小路氏の時代と、その後の金森氏の時代という二つのフェーズで捉え直すことを可能にした。すなわち、伝統的な工法による「土の城」から、先進技術を駆使した「石の城」への変遷の過程が、この城跡には保存されているのである 6 。
第一期、すなわち姉小路頼綱による当初の築城段階の遺構と考えられるのは、本丸の東に位置する二ノ丸などで見られる石垣である 5 。これらの石垣は、比較的小型の石材を用いた低いものであったり、大小の自然石をあまり加工せずに積み上げた「乱積み」であったりする特徴を持つ 21 。また、防御施設として竪堀や堀切といった土木工事が多用されており、防御の主眼が北側と東側に向けられている 5 。これは、伝統的な山城の築城術を色濃く残すものであり、当時、北方に最大のライバルであった江馬氏の侵攻を想定していた姉小路氏の戦略的意図を反映していると解釈できる。
これとは対照的に、第二期の遺構とされるのが、本丸や三の丸の西面・南面に見られる、高さ5メートルから8メートルにも達する壮麗な「高石垣」である 2 。これらの石垣には、長さ2メートルを超える巨石が惜しげもなく用いられ、見る者を圧倒する威容を誇る 5 。特に注目すべきは、石垣の隅角部に用いられた「算木積み(さんぎづみ)」と呼ばれる技法である 19 。これは、長方形に加工した石の長辺と短辺を交互に組み合わせて積み上げることで、強度を飛躍的に高める先進技術であり、織田信長や豊臣秀吉の城郭建設で本格的に導入された、いわゆる「織豊系城郭」の最大の特徴の一つである。
この先進技術で築かれた高石垣群は、姉小路氏滅亡後に飛騨の新領主となった金森長近によって、松倉城が一時的に改修された際に築かれたとする説が極めて有力である 19 。防御の主眼が、それまでの北・東方面から西・南方面へと転換している点も興味深い。これは、飛騨が中央政権の支配下に組み込まれた後の、新たな戦略環境に対応した結果と考えられる。在地領主の城から、中央政権の出先機関としての城へ。松倉城の石垣は、その権力構造の劇的な転換を雄弁に物語っている。
発掘調査は、こうした石垣の様式の違いだけでなく、具体的な遺構も明らかにしている。特に三ノ丸で発見された「埋門(うずみもん)」は、石塁(石垣)の内部にトンネル状の通路を設けた珍しい構造の門である 7 。通路の床には敷石が丁寧に配されていたことも確認されており、当時の城郭建築の具体的な姿を今に伝えている 23 。
天正13年(1585年)、松倉城は築城からわずか数年にして、その歴史のクライマックスを迎える。それは、豊臣秀吉による天下統一事業という、抗いがたい巨大な歴史のうねりが飛騨一国を飲み込んでいく過程であり、一城の堅牢さだけでは時代の趨勢に抗えなかった戦国末期の現実を象徴する戦いであった。
天正10年(1582年)の本能寺の変の後、織田信長の後継者を巡る争いの中で、姉小路頼綱は大きな政治的決断を迫られた。彼は、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と対立する織田信孝や柴田勝家、そして越中の佐々成政と連携する道を選んだ 3 。しかし、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が敗死すると、反秀吉勢力は急速に劣勢となる。天正13年(1585年)、秀吉は10万の大軍を率いて佐々成政の籠る富山城を包囲(富山の役)。これと並行して、成政の同盟者であった姉小路氏を討伐するため、配下の武将・金森長近に飛騨への侵攻を命じた 3 。
当時、越前大野城主であった金森長近は、息子の可重(ありしげ)と共に軍勢を率い、南北両面から飛騨へと侵攻を開始した 4 。長近の軍には、かつて姉小路頼綱によって滅ぼされた江馬氏や鍋山氏の旧臣たちが道案内役として加わっていた 4 。彼らにとって、この戦いは旧領回復をかけた雪辱戦でもあった。金森軍は鮎崎城などを前線拠点とし 26 、姉小路方の鍋山城や広瀬城といった支城を次々と攻略し、松倉城へと迫った 27 。頼みの綱であった佐々成政は秀吉の大軍に包囲され、援軍を送る術はなく、姉小路氏は完全に孤立無援の状態に陥った 4 。
父・頼綱が別城で敗走する中 9 、家督を継いでいた次男の姉小路秀綱は、弟の季綱ら一族郎党と共に本拠・松倉城に立てこもり、徹底抗戦の構えを見せた 4 。松倉城は「難攻不落」と謳われた堅城であり、金森勢は峻険な地形と堅固な守りを前に攻めあぐね、数日間にわたる激しい攻防戦が繰り広げられた 4 。
しかし、戦いの趨勢を決したのは、武力による強襲ではなかった。金森長近は、力攻めと並行して城内への調略を進めていた。この情報戦・心理戦が功を奏し、秀綱の家臣であった藤瀬進蔵(ふじせ しんぞう)が内応を決意する 4 。天正13年閏8月6日の深夜、藤瀬は城内の本丸屋形に火を放った 12 。予期せぬ内部からの火の手と混乱に乗じて金森勢が総攻撃を仕掛ける中、秀綱はこれ以上の抵抗は不可能と判断。ついに松倉城は陥落した 4 。この落城は、軍事拠点としての城の物理的な強靭さよりも、政治的孤立と情報戦が勝敗を分かつという、戦国末期の戦いの様相を如実に示している。
松倉城の落城により、飛騨を支配した姉小路(三木)氏は事実上滅亡した。その後の城主たちの運命は、対照的なものであった。
姉小路氏の滅亡後、松倉城とその支配権は、飛騨平定の功労者である金森長近の手に渡った。しかし、飛騨の新たな支配者の拠点として松倉城が輝いた期間は極めて短かった。その終焉は、新領主による合理的な経営判断と、豊臣政権による中央集権化政策という、二つの大きな力が交差した結果であった。
天正14年(1586年)、金森長近は豊臣秀吉から正式に飛騨一国を与えられ、新たな国主となった 14 。落城後の松倉城は金森氏の管理下に置かれ、飛騨統治の初期における一時的な拠点として利用されたと考えられる 1 。第三章で詳述した、算木積みなどの先進技術を用いた壮麗な高石垣群は、この時期に金森氏によって、城の防御力を強化し、新支配者の権威を示すために改修された可能性が極めて高い 19 。
しかし、長近は飛騨統治の恒久的な拠点として松倉城を選ばなかった。当初は鍋山城を居城とした後、天正16年(1588年)、高山盆地の中心部、かつて天神山城があった場所に、新たな城「高山城」の築城を開始したのである 14 。
この拠点変更には、明確な理由があった。松倉城は標高856.7メートルという高所に位置する山城であり、軍事拠点としては優れているものの、平時の統治や経済活動の中心地としては著しく不便であった 3 。一方、高山城は平山城であり、その麓には広大な城下町を建設し、商業や産業を振興させることが可能であった 32 。戦乱の時代が終わり、統治と経営の時代へと移行する中で、山上の要塞から平地の政庁へと拠点を移すのは、極めて合理的な経営判断であった。この高山城の築城に伴い、松倉城はその歴史的役割を完全に終え、廃城となった 1 。
松倉城の終焉は、単なる機能停止(廃城)に留まらなかった。近年の発掘調査は、この城が意図的に軍事機能を破壊される「破城(はじょう)」の措置を受けていたことを明らかにした 5 。
調査によって、三ノ丸の埋門や出枡形虎口が、崩された石垣の石材によって人為的に埋められていたことが確認された 5 。また、本丸北側の石垣が大きく崩されているのも、同様に破城の一環であったと考えられる 5 。破城は、城が反乱勢力などに再利用されることを防ぐために行われる措置であり、豊臣政権が全国の支配を確立していく過程で、旧勢力の拠点を無力化するためにしばしば用いた政策であった。
金森長近にとって、松倉城の破城は一石二鳥の策であった。自身の新たな都市計画(高山城下町の建設)のために松倉城を廃城にする必要があり、同時に、豊臣政権の家臣として、旧支配者・姉小路氏の権威を象徴する城を無力化するという中央の方針にも応えることができた。松倉城は、新領主の領国経営戦略と、中央政権の支配戦略が交差する地点で、歴史の舞台から意図的に退場させられたのである。
廃城から400年以上の時を経て、松倉城跡は今、戦国時代の終焉と近世の幕開けを物語る貴重な歴史遺産として、新たな光を浴びている。その価値は、完成された美しさにあるのではなく、むしろ歴史の転換点が「凍結」されたかのように生々しく残されている点にある。
姉小路氏の滅亡と金森氏による高山城への拠点移転という「歴史の断絶」があったからこそ、松倉城跡は奇跡的にその姿を留めることになった。もし金森氏がこの城を本拠とし続けていれば、古い時代の遺構は後の改修によって失われ、破城の痕跡も残らなかったであろう。山林に埋もれながらも、その壮大な石垣群は風雪に耐え、昭和31年(1956年)には岐阜県の史跡に指定された 1 。
そして、近年に実施された高山市による総合調査は、この城の学術的価値を飛躍的に高めた 5 。二時期にわたる石垣の存在や、破城の痕跡といった新事実の発見は、松倉城が単なる一地方の城ではなく、日本の城郭史、ひいては政治史の大きな転換点を解明する上で極めて重要な遺跡であることを証明した。これらの成果が高く評価され、令和6年(2024年)に国の史跡指定が答申されたことは、松倉城が国民全体の歴史遺産として保存・活用されていくべき存在と認められたことを意味する 5 。
松倉城跡が持つ歴史的価値は、多岐にわたる。
飛騨 松倉城は、一国統一の野望を抱いた「梟雄」姉小路頼綱の夢の跡であり、その夢が天下統一というさらに大きな時代の波に飲み込まれていく、戦国末期の非情さとダイナミズムの象徴である。天空に築かれた壮大な石垣は、そこに生きた武士たちの栄枯盛衰だけでなく、時代を根底から変えた技術革新と政治体制の変革をも、400年の時を超えて静かに語りかけている。この城跡は、歴史の転換点そのものを生々しく見せる「タイムカプセル」として、訪れる者に過去との対話を促す、第一級の歴史遺産なのである。