松波城
奥能登の要衝・松波城は、能登畠山氏庶流の拠点として築かれ、海上交通を掌握。枯山水庭園は文化の象徴。上杉謙信の能登侵攻で落城したが、その歴史は地域支配と文化の融合を語る。
奥能登の要衝・松波城 ― 能登畠山氏庶流の興亡と戦国時代の地域支配
序章:奥能登に築かれた戦略拠点
能登半島の先端近く、日本海(富山湾)に注ぐ松波川の左岸に広がる丘陵地帯に、かつて松波城は存在した 1 。標高約24メートルから30メートルの平山城であり 2 、その立地は単なる軍事的な要害であるに留まらず、奥能登の政治、経済、文化を掌握するための戦略的要衝であった。松波川の河口域を見下ろすこの地は、天然の良港を擁し、古来より海上交通の結節点として機能していた。戦国時代において、海運は物資輸送と経済活動の生命線であり、この港湾機能を支配下に置くことは、地域経済を掌握することに直結した。松波城の築城には、奥能登における軍事・経済の両面を掌握しようとする能登畠山氏本家の明確な意図が込められていたのである。
松波城が築かれた15世紀後半、能登国は守護大名・能登畠山氏の統治下にあった。能登畠山氏は、室町幕府の三管領家の一つに数えられる名門・畠山氏の分家であり、初代当主・畠山満慶以降、約170年にわたり能登を支配した 4 。しかし、その支配体制は盤石ではなかった。三代当主・畠山義統が応仁の乱後の文明9年(1477年)に初めて能登へ下向するまで、歴代当主は京都に在住する在京守護であり、領国経営は守護代以下の家臣団に委ねられていた 6 。この間接統治の伝統は、在地勢力である国人衆の力を温存させる結果となり、後の時代に「畠山七人衆」に代表される有力家臣団が台頭し、主家の権力を脅かす下剋上の土壌を育む遠因となった。
広大な能登国、とりわけ守護所の置かれた七尾から地理的に離れた奥能登を実効支配するためには、本拠である七尾城 7 を中心とした支配体制を補完する、信頼のおける一族を配した支城ネットワークの構築が不可欠であった。松波城は、まさにこの戦略的必要性から誕生した城郭であり、その後の約一世紀にわたる歴史は、能登畠山氏の盛衰と戦国時代の地域支配の力学を色濃く映し出すこととなる。
第一章:松波城の黎明 ― 能登畠山氏の分家と在地勢力
築城の経緯と初代城主・畠山義智
松波城の歴史は、室町時代の文明6年(1474年、一部資料では文明7年ともされる)に幕を開ける 8 。能登畠山氏の三代当主であった畠山義統は、三男の義智に三千八百貫余(約一万四千石とも伝わる)の所領を与え、奥能登のこの地に城を築かせた 9 。これが松波畠山氏の始まりであり、以後6代にわたり、松波城はこの一族の居城として奥能登一帯に君臨することとなる。
初代城主となった畠山義智は、単なる武将ではなかった。旧記によれば「筆道家にして文武の諸芸に通じていた」とされ、高い文化的素養を持つ人物であったことがうかがえる 11 。その文化人としての一面は、彼の初期の領地経営にも明確に表れている。義智は入部に際し、尾張国名古屋から刀工の勝長らを招聘し、城下に鍛冶町を設けて刀剣製作にあたらせた 11 。これは、軍備の増強という実利的な目的と同時に、高度な技術を持つ職人を集めることで地域の産業を振興し、城下町を活性化させる狙いがあったと考えられる。松波の地が、単なる軍事的な前線基地としてではなく、地域の産業と文化の中心地として構想されていたことを示唆している。
「松波氏」継承の謎と在地勢力との融合
当初、松波城主一族は能登畠山氏の庶流として「畠山」姓を名乗っていた 9 。しかし、五代当主・義龍の時代に、一族の歴史における重要な転機が訪れる。義龍はこの地の有力な在地豪族であった「松波氏」の名跡を継承し、自らも「松波義龍」と称するようになったのである 8 。
この名跡継承は、単なる改姓以上の深い政治的意味合いを持っていた。これにより、能登畠山氏の分家という「外来の支配者」であった彼らは、地域に根差した正統な領主へと自らを再定義することに成功した。武力による支配だけでなく、在地社会が古くから持つ権威構造に自らを組み込むことで、支配の正当性を強化し、他の国人衆や地域の民衆からの支持を得やすくする、極めて高度な政治戦略であったと言える。この在地化(ローカライズ)戦略を経て、松波畠山氏は能登畠山家の一門に正式に列せられ、松波城も七尾城の支城としての地位を確固たるものにした 12 。彼らはもはや単なる「畠山家の出先機関」ではなく、名実ともに「松波の領主」へと変貌を遂げたのである。
第二章:松波畠山氏六代の治世と一族の動向
松波畠山氏の系譜
松波城を拠点とした松波畠山氏は、初代・義智から最後の城主・義親に至るまで、約一世紀にわたり6代の当主が続いた 9 。その治世は、寺社の建立や寄進など、領内の安定と文化振興に努めた形跡が見られる一方で、能登畠山氏本家の内紛と連動し、次第に戦国の動乱へと巻き込まれていく過程でもあった。
歴代当主の事績を概観すると、二代・義成は城主一族の墳墓所として福寿庵を建立し、三代・義遠は亡き母の追善のために観音寺を建立するなど、信仰心に厚い一面がうかがえる 11 。四代・常重は、大足八幡宮への寄進などを行う一方で、本家で内紛(鶏塚の合戦)が起こった際には、当主・義慶方として参戦しており、この時点では本家に対して忠実な支城として機能していたことが確認できる 11 。そして五代・義龍が在地豪族「松波氏」を継承し、六代・義親の代に上杉謙信の侵攻を受けて落城の悲運を迎えることとなる。
表1:松波畠山氏歴代当主一覧
代 |
氏名 |
続柄 |
官途名 |
主要な事績 |
初代 |
畠山 義智 |
畠山義統の三男 |
常陸守 |
文明6年(1474年)松波城を築城。刀工を招聘し産業を振興 11 。 |
二代 |
畠山 義成 |
義智の子 |
大隅守、常陸介 |
城主一族の菩提を弔うため福寿庵を建立 11 。 |
三代 |
畠山 義遠 |
義成の子 |
常陸介 |
亡母追善のため観音寺を建立。文芸を好んだと伝わる 11 。 |
四代 |
畠山 常重 |
義遠の子 |
右衛門尉、常陸介 |
寺社への寄進を行う。永禄12年(1569年)の鶏塚の合戦に本家方として参戦 11 。 |
五代 |
松波 義龍 |
常重の子 |
常陸介 |
在地豪族・松波氏の名跡を継承。有力国人・長氏と婚姻関係を結ぶ 11 。 |
六代 |
松波 義親 |
義龍の養子(畠山義綱の三男) |
常陸介 |
天正5年(1577年)七尾城で奮戦後、松波城に籠城するも上杉軍に攻められ自害 8 。 |
本家・七尾城との関係性の変化
松波畠山氏の歴史は、本家である七尾城との関係性、すなわち本家からの統制力(求心力)と、それに抗する自立化の動き(遠心力)とのせめぎ合いの歴史として捉えることができる。
築城当初、松波城は奥能登支配の拠点として、本家の強い統制下に置かれていた。しかし、能登畠山氏本家では八代当主・義続の頃から家臣団の権力争いが激化し、「畠山七人衆」と呼ばれる重臣たちが実権を掌握、当主を傀儡化する事態に至る 14 。本家の弱体化は、相対的に支城である松波氏の自立性を高める結果となった。
その象徴的な動きが、五代当主・義龍が、同じく能登の有力国人である長氏(長英連)に妹を嫁がせた婚姻政策である 11 。これは、本家への垂直的な依存関係から、在地勢力との水平的な連携へと戦略の軸足を移し始めたことを示している。本家の権威に頼るだけでなく、在地勢力同士のネットワークを構築することで、自らの政治的・軍事的基盤を強化しようとする、まさに遠心力(自立化)の現れであった。
六代・義親の出自をめぐる謎
この遠心力に対し、本家側が再び統制を強めようとした求心力の動きと解釈できるのが、六代当主・松波義親の就任である。義親は、五代・義龍の養子という形をとっているが、その実父は能登畠山氏本家の九代当主・畠山義綱であった 11 。義龍が早世したため、本家から後継者を送り込んだとされるこの養子縁組は、自立化の傾向を強める松波氏を、再び本家の血統の下に組み込もうとする政治的意図があったと考えられる。一方で、松波氏側にとっても、本家当主の子を迎え入れることは、一族の権威を高める上で有利に働いた可能性がある。この複雑な背景を持つ養子縁組は、戦国時代における中央(本家)と地方(分家・国人)の微妙な力関係を如実に物語っている。ただし、義親の出自に関しては史料によって混乱が見られ、その信憑性については慎重な検討を要するとの指摘もある 17 。
第三章:城郭の構造と発掘調査から見る実像
松波城は、戦国時代の城郭が持つべき軍事拠点としての機能と、城主の権威と文化的素養を示す政治的・文化的な接遇空間としての機能を併せ持っていた。近年の発掘調査は、この城が持つ二面性を鮮やかに浮かび上がらせている。
城の縄張と防御施設
松波城は、松波川を天然の外堀とする丘陵の先端に築かれ、その規模は東西約160メートル、南北約100メートルに及ぶ 3 。城郭は、本丸、二の丸、三の丸といった複数の曲輪が連なる連郭式の縄張りであったと推測される。現在、本丸跡には武道館が建設されているが 9 、城跡には今なお土塁、空堀、堀切、虎口といった戦国期城郭の典型的な防御施設の遺構が良好な状態で残されている 3 。
平成以降に行われた発掘調査では、これらの遺構に加えて、城内に存在した建物の痕跡も確認されている。柱を直接地面に埋めて建てる掘立柱建物や、礎石の上に柱を立てる礎石建物、そして区画を分けるための柵列の跡が発見されており 18 、城内には居住空間や政務を執り行う館、倉庫など、複数の建造物が計画的に配置されていたことが判明している。これらの遺構は、松波城が単なる臨時の砦ではなく、城主一族が恒常的に居住し、領地経営の拠点として機能していたことを示している。
国指定名勝「旧松波城庭園」の発見と価値
松波城の最も特筆すべき遺構は、城の東南部に位置する曲輪で発見された枯山水庭園である。この庭園は昭和37年(1962年)の公園整備中に偶然発見され、その後の複数回にわたる発掘調査によって、その驚くべき全容が明らかになった 2 。
調査の結果、この庭園は15世紀後半から16世紀にかけて造営されたものであり、能登地方に現存する武家庭園としては最古級のものであることが判明した 2 。庭園は、大小19個の景石と、無数の円礫を敷き詰めることによって、水を用いずに山間の清流を見事に表現している。特に、流れの起点では円礫を渦巻き状に配置して岩間から水が湧き出る様を象り、流れの緩急に応じて円礫を小端立てにしたり平らに敷いたりと、その意匠と表現技法は他に類例を見ない独創性に満ちている 1 。また、庭園の入口から建物へと続く「礫敷きの道」は、全国的にも非常に珍しい遺構として注目されている 2 。
この壮麗な庭園は、単に城主の趣味や慰めのための空間ではなかった。戦国時代において、茶の湯や作庭といった文化は、同盟者や有力な国人を饗応し、交渉を有利に進めるための重要な外交ツールであった。この庭園に付随して建てられた四阿(あずまや)からは、眼下に松波の港と日本海を望むことができたとされ、まさに賓客をもてなすための「迎賓館」として機能していたと考えられる 19 。松波城は、堀や土塁に象徴される軍事拠点(ハードパワー)であると同時に、この庭園に代表される文化的・政治的接遇空間(ソフトパワー)という二つの顔を併せ持つ、複合的な機能を持った城郭だったのである。その高い庭園史上の価値から、平成24年(2012年)に「旧松波城庭園」として国の名勝に指定された 8 。
出土遺物から探る城内の生活
城跡からは、珠洲焼や土師器などの陶磁器が出土している 18 。土師器は日常的な食器として用いられたものであり、城内での生活の痕跡を物語っている。一方、珠洲焼は能登を代表する特産品であり、城主一族が日常的に使用していただけでなく、来客をもてなすための器や、交易品としても重要な役割を担っていた可能性がある。これらの出土品は、城内の人々の生活様式と、城が地域の経済活動と密接に結びついていたことを示す貴重な物証である。
第四章:奥能登の経済・文化拠点としての松波
松波城は、その地理的優位性を活かし、奥能登における経済と文化の中心地としても重要な役割を果たした。城の存在は城下町の形成を促し、日本海交易の隆盛と深く関わっていた。
城下町と港湾機能
松波の地は、松波城が築かれたことで政治・軍事の中心となり、それに伴って城下町が形成された。江戸時代には十村役所が置かれ、農村支配の拠点として発展しているが 21 、その基礎はこの戦国時代の城下町に遡ることができる。特に、この地域は古くから酒造りが盛んであり、「能登杜氏」発祥の地の一つとして知られている 21 。良質な米と水、そして冬の寒冷な気候が酒造りに適していたことに加え、城下町に多くの人々が集まり、物資の集散地として栄えたことが、酒造業の発展を後押ししたと考えられる。城は、地域の経済活動を牽引するエンジンでもあった。
日本海交易と珠洲焼
松波城の経済的基盤を考える上で、中世日本海交易の重要商品であった「珠洲焼」の存在は無視できない。珠洲焼は、12世紀中頃から15世紀末にかけて、能登半島の先端部(現在の珠洲市周辺)で大規模に生産された無釉の陶器である 23 。その製品は、日本海航路を通じて北は北海道南部から南は福井県に至る広大な範囲に流通し、中世日本を代表するブランド品であった 23 。
松波城の立地は、この珠洲焼の生産地と、製品を船に積み出す港湾を管理・支配する上で絶好の位置にあった。しかし、松波城が築かれた15世紀後半という時代は、奇しくも珠洲焼が急速に衰退し、やがて廃絶へと向かう時期と重なっている 23 。その衰退理由としては、生産を後援していた荘園領主(日野家など)の没落 23 、燃料となる森林資源の枯渇 27 、あるいは越前焼など他産地との競合 28 など、複合的な要因が指摘されている。
この地域の基幹産業であった珠洲焼の衰退は、奥能登の経済に大きな打撃を与え、社会的な混乱を引き起こした可能性がある。能登畠山氏本家が、この時期に信頼できる一族である義智を送り込み、松波城を築かせた背景には、こうした経済的・社会的な混乱を収拾し、新たな地域支配体制を構築する目的があったのではないか。初代城主・義智が刀鍛冶を招聘するなど産業振興に力を入れたのは 11 、珠洲焼に代わる新たな経済基盤を模索する動きであったとも解釈できる。松波城の歴史は、中世的な荘園経済の終焉と、戦国大名による新たな地域経済圏の形成という、より大きな歴史の転換点に位置づけることができるのである。
菩提寺・万福寺と松波氏の遺産
松波城主一族の文化的側面と、その後の歴史を物語るのが、菩提寺である曹洞宗・万福寺である 29 。この寺の山門は、松波城の搦手門(裏門)を移築したものと伝えられており、能登町の指定文化財となっている 9 。城郭建築の遺構が現代にまで伝えられている貴重な例である。
さらに寺には、最後の城主・松波義親の肖像画(1680年作)と、その墓(町指定史跡)が大切に守られている 29 。肖像画は、落城から約100年後に描かれたものであり、一族が滅んだ後も、その記憶が地域の人々や子孫によって語り継がれていたことを示している。万福寺は、松波城と城主一族の歴史を今に伝える、生きた証人と言えるだろう。
第五章:落城 ― 上杉謙信の能登侵攻と松波城の最期
天正5年(1577年)、松波城と松波畠山氏の歴史は、越後の龍・上杉謙信の能登侵攻によって、突如として終焉を迎える。その悲劇は、能登畠山氏が築き上げた支配体制、すなわち七尾城を本拠とする「畠山体制」そのものの構造的脆さが露呈し、崩壊した瞬間の象徴であった。
前提としての七尾城の戦い
天正4年(1576年)、織田信長との対決を決意した上杉謙信は、北陸の覇権を賭けて能登へと侵攻を開始した 30 。その最大の目標は、能登畠山氏の本拠であり、日本有数の堅城と謳われた七尾城であった。しかし、この時の能登畠山氏は、一枚岩ではなかった。家中の実権を握る重臣団は、織田信長と結ぶべきとする親織田派の長続連らと、伝統的な同盟関係にある上杉謙信に与するべきとする親上杉派の遊佐続光らとに分裂し、激しく対立していたのである 15 。
この内部対立こそが、難攻不落とされた七尾城の最大の弱点であった。上杉軍による約1年間にわたる包囲戦の末、天正5年(1577年)9月15日、城内の親上杉派・遊佐続光らが謙信に内応。城内から長続連ら親織田派を一掃し、城門を開いた 31 。これにより七尾城は陥落し、能登畠山氏本家は事実上滅亡した。司令塔を失った能登畠山氏の支配体制は、この瞬間に崩壊したのである。
松波城の攻防戦
松波城主・松波義親は、この七尾城の籠城戦において、畠山方として奮戦していた 11 。しかし、味方の裏切りによって城が陥落すると、辛くも城を脱出。最後の望みを託し、居城である松波城へと帰還し、再起を図ろうとした 9 。
だが、謙信は追撃の手を緩めなかった。部将の長沢光国を大将とする追討軍が、ただちに松波城へと差し向けられた 8 。本拠を失い、孤立無援となった松波城に籠る兵はわずかであり、上杉軍の猛攻を前に多勢に無勢であった 11 。義親は城兵を率いて城外で迎え撃つも、激戦の末に敗れ、自身も深手を負った 13 。
落城と松波畠山氏の滅亡
もはやこれまでと覚悟を決めた松波義親は、城内に戻り、自刃して果てた 8 。城主を失った松波城は上杉軍の兵火によって炎上し、ここに松波畠山氏による約一世紀にわたる奥能登支配は終わりを告げた 34 。その後、松波城が再建されることはなく、廃城となった 8 。松波城の落城は、一個の城の陥落という軍事的事象に留まらない。それは、本拠である七尾城が内部から崩壊した時、その支城ネットワークがいかに脆く、各個撃破される運命にあるかを示す、戦国時代の冷厳な現実であった。
終章:松波氏のその後と史跡としての現代
松波城は天正5年(1577年)の落城によってその物理的な機能を終えたが、松波畠山氏という「家」の物語は、そこで途絶えたわけではなかった。城主一族は、戦国乱世から近世へと続く時代の大きな断絶を、巧みな生き残り戦略によって乗り越え、その血脈を未来へと繋いでいった。
落城を生き延びた一族
最後の城主・松波義親は自害したが、その妻子は落城時、故あって越後に滞在していたため難を逃れた 9 。義親の子・連親は、後に織田信長方として能登に復帰した長氏の当主・長連龍に仕え、「長連親」と名乗った 9 。これは、旧来の主家(能登畠山氏)に固執するのではなく、新たな地域の実力者の家臣団に組み込まれることで家の存続を図るという、戦国武士の現実的な選択であった。その子孫は、江戸時代を通じて長氏の家臣として続いた 35 。
一方、義親の弟とされる松波義行もまた、落城を生き延びた一人である。彼は七尾城、松波城で兄と共に戦った後、堀松城に拠って抵抗を続けたという 11 。その後、京に上り、新たな天下人である徳川家康に仕え、千石の所領を与えられたと伝わっている 11 。この系統は、江戸幕府の旗本松波氏として存続した可能性がある 35 。彼らの生き様は、城や領地という「土地」への固執よりも、「家」の存続を最優先する戦国武士の価値観を色濃く反映している。
廃城から史跡へ
主を失い、廃城となった松波城跡は、その後長らく歴史の中に埋もれていた。しかし、昭和37年(1962年)の庭園跡の発見を契機に、その類稀な歴史的価値が再び脚光を浴びることとなる 2 。
発掘調査の進展に伴い、庭園は平成3年(1991年)に石川県の史跡に指定され、さらに平成24年(2012年)には国指定名勝となった 8 。城跡全体も能登町の史跡に指定され 3 、地域にとってかけがえのない歴史遺産として保護されている。また、平成19年(2007年)には、廃線となったのと鉄道の旧松波駅舎を活用した「松波城址情報館」が開設され、発掘調査の成果や城の歴史を広く一般に伝える拠点となっている 8 。
総括
松波城は、戦国時代の能登において、単なる軍事拠点としての役割を遥かに超えた、複合的な機能を持つ要衝であった。能登畠山氏本家の支城として奥能登の軍事バランスを支える一方で、在地勢力との融合を図り、日本海交易を背景とした経済基盤を確立し、そして京の洗練された文化を受容した文化的中心地でもあった。その約一世紀にわたる興亡の歴史は、能登畠山氏一門の盛衰の物語であると同時に、戦国時代における地域権力の形成と崩壊、そして中世から近世へと移行する時代の大きなダイナミズムを凝縮した、貴重な歴史の証言なのである。
引用文献
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- 松波城の見所と写真・全国の城好き達による評価(石川県能登町) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/1050/