美作国の要衝、林野城は後藤氏が築き、山名氏の侵攻で落城。戦国期には尼子・浦上・宇喜多氏の争奪戦の舞台となり、瓦葺きの恒久的な建物も築かれた。関ヶ原後も支城として存続するも、一国一城令で廃城。
林野城(はやしのじょう)は、現在の岡山県美作市林野に位置した中世の山城である 1 。標高250メートル、麓からの比高は約170メートルを測る城山に築かれ、その堅固さから作東随一の豪壮な山城と称された 1 。この城は「倉敷城」という別名でも知られているが、この名称こそが、林野城が単なる軍事施設にとどまらない、地域の経済をも支配する拠点であったことを解き明かす鍵となる 1 。
林野城が有した最大の戦略的価値は、その卓越した地理的条件に起因する。城は、吉井川の主要な支流である吉野川と梶並川が城の南西麓で合流する地点を見下ろす、馬の背状の地形に築かれている 1 。この立地は、三方を急峻な川岸に囲まれた天然の要害を形成するだけでなく、古来より美作地方の物流の大動脈であった水運と、それにつながる陸上交通の結節点を完全に掌握する位置にあった 1 。
「倉敷」とは、本来、年貢米や各種物資を集積・保管し、輸送するための中継拠点、すなわち物流センターを意味する言葉である。林野城が「倉敷城」と呼ばれた事実は、この城が地域の経済活動の中核をなす「倉敷地」を防衛し、支配するために築かれたことを強く示唆している 3 。つまり、林野城は山城としての軍事的な防御機能と、地域の富の源泉である経済拠点を管理する機能を併せ持っていた。この軍事と経済の二重性こそが、戦国時代を通じて尼子氏、浦上氏、宇喜多氏といった有力大名たちがこの城を巡って激しい争奪戦を繰り広げた根本的な理由であった。林野城を制することは、美作東部の軍事的な覇権を握るだけでなく、その経済的な支配権をも手中に収めることを意味していたのである。
林野城の縄張り(城郭の設計)は、北東から南西方向へ長く伸びる痩せ尾根の地形を最大限に活用して構築された、典型的な連郭式山城である 1 。城の中核部は、尾根筋に沿って本丸、二の丸、三の丸が直線的に配置される構造となっている 1 。
城の最高所、標高250メートルの地点に位置するのが本丸である。本丸は東西約170メートルに及ぶ細長い形状の曲輪(くるわ:城内の平坦地)で、幅は狭く、両端は険しい断崖となっている 4 。この長大な曲輪は、内部がさらに三つの区画に分割されており、防御上の工夫が見られる 4 。本丸から南西に下る斜面には、二の丸と三の丸が段状に造成されている。二の丸は長軸70メートル強の規模を持ち、本丸へと続く急斜面を防御する役割を担っていた 4 。さらに下った位置にある三の丸は、大小7つもの郭が複雑に組み合わされて構成されており、城の正面口である大手(おおて)方面に対する厳重な防御陣地を形成していた。三の丸の先端部には土塁が築かれ、そこから麓の居館や城下町へと続く大手道が伸びていたと推定される 4 。
廃城から約400年が経過した現在も、林野城跡には中世山城の防御施設が良好な状態で残存しており、往時の姿を偲ぶことができる 1 。
城内各所には、尾根を人工的に深く掘り切ることで敵兵の直線的な侵攻を阻む「堀切(ほりきり)」や、曲輪の縁を土で高く盛り上げて防御壁とする「土塁(どるい)」が明瞭に確認できる 1 。特に本丸の西端は、高さ1.5メートル、上面幅2メートルの堅固な土塁と、その外側に掘られた上面幅4メートル、深さ3メートルの大規模な堀切によって、鉄壁の防備が固められていた 4 。また、城の斜面には、地面を垂直に掘り下げた溝である「竪堀(たてぼり)」も確認されており、これは斜面を横移動しようとする敵兵の動きを効果的に制限するための防御施設である 6 。
籠城戦に不可欠な水の確保についても備えがあり、城内には井戸の跡が残されている 1 。さらに、主郭の東側には石を積み上げて斜面を補強した「石塁(せきるい)」の存在も確認されており、これは後の時代に発展する石垣の原型ともいえる高度な土木技術が用いられていたことを示している 6 。
林野城の縄張りは、約300年という長い歴史の中で、戦況の変化や支配者の交代に応じて段階的に拡張・改修が加えられた痕跡を、その遺構の中に明確に留めている 8 。
城が築かれた当初、南北朝時代の形態は、山頂部を一つの主要な曲輪とする、比較的単純な単郭(たんかく)構造であったと推定される 8 。これは、築城技術がまだ発展途上であり、動員できる労働力も限られていた初期の山城によく見られる特徴である。この時代の城は、恒久的な拠点というよりも、有事の際に立て籠もるための一時的な避難所に近い性格を持っていた。
しかし、戦国時代に入り、戦闘が大規模化・恒常化すると、城の姿は劇的に変貌を遂げる。尼子氏や宇喜多氏といった大勢力による支配の下、より高度な築城技術と大規模な労働力が投入され、城は大幅に拡張された。山頂部の主郭から北と西に派生する尾根筋にも新たに複数の曲輪群が築かれ、城域は全長500メートルにも達する巨大な要塞へと進化したのである 8 。この物理的な拡張は、戦国時代の戦争の規模と戦術が、南北朝時代とは比較にならないほど高度化・複雑化したことを直接的に物語る考古学的な証拠と言える。城はもはや単なる避難所ではなく、大軍を収容し、長期の籠城戦に耐え、さらには能動的な反撃も可能な、恒久的な軍事基地へとその性格を変えたのである。
この進化を象徴する画期的な発見が、城内から出土した瓦の存在である。出土したのは「コビキB類」と呼ばれる種類の瓦で、考古学的な編年研究により、宇喜多氏から小早川氏がこの地を支配した16世紀末から17世紀初頭にかけての年代に位置づけられる 8 。通常、山城の建物は板葺きや茅葺きが一般的であり、高価で高度な技術を要する瓦葺きの建物は、有力大名の居城など、極めて格式の高い城郭に限られていた。林野城跡から瓦が出土したという事実は、この城に対する従来の「一時的な軍事要塞」というイメージを根本から覆すものである。これは、宇喜多氏の支配下において、林野城が単なる前線基地から、地域の支配を恒久的に行うための行政庁舎や、城代などの高級武士が居住する館といった、瓦葺きの常設建造物を備えた中核的な拠点城郭へと昇格したことを示している。この発見は、宇喜多氏による美作東部支配が、単なる軍事占領から、恒久的なインフラ投資を伴う安定した統治の段階へと移行していたことを物語る、極めて重要な物証なのである。
林野城の正確な築城年代は定かではないが、鎌倉時代に美作東部で勢力を有した有力な国人領主、後藤氏によって築かれたと伝えられている 1 。
築城当初、林野城は吉野川の対岸に位置する後藤氏の本拠・三星城(みつぼしじょう)を防衛するための支城として位置づけられていた 3 。記録によれば、後藤一族の後藤良兼が在城したとされ、本城である三星城の南方を固める重要な前線基地としての役割を担っていたと考えられる 3 。この段階では、林野城の機能はあくまで三星城に従属するものであり、両城は一体となって後藤氏の支配領域を守る防衛システムを形成していた。
林野城が歴史の表舞台に明確に登場するのは、日本全土が戦乱に明け暮れた南北朝時代である。康安元年(南朝:正平16年、1361年)、室町幕府の内紛に乗じて勢力を拡大していた山名時氏が、足利氏に反旗を翻して美作国へ侵攻した際、林野城は三星城と共にその攻撃目標となった 1 。
軍記物語『太平記』には、この時の戦いの様子が記されており、山名軍の猛攻に対し「林野・妙見二ノ城」が20日余りにわたって頑強に抵抗した末、ついに落城したとある 8 。この「林野城」が、現在の林野城跡にあたると考えられている。この記述は、築城から時を経て、林野城がすでに美作東部における戦略上の重要拠点として敵方からも認識されるほどの存在となっていたことを示している。南北朝の動乱は、林野城が地域の歴史において重要な役割を担う始まりを告げる出来事であった。
16世紀前半、出雲国(現在の島根県東部)を本拠とする戦国大名・尼子氏が中国地方の覇権を目指して勢力を急拡大し、美作国への侵攻を本格化させる 10 。この尼子氏の東進は、林野城の運命を大きく変える転換点となった。
天文元年(1532年)以降、林野城は尼子氏の支配下に置かれることとなり、その戦略的役割は一変する 8 。これ以降、林野城は尼子氏が美作東部を支配し、さらに備前国(現在の岡山県南東部)へと勢力を伸ばすための最前線拠点として機能するようになった 12 。この時期、尼子氏の麾下にあった国人領主の江見久盛・久資親子が城主(または城代)として林野城に在城したことが記録されている 1 。江見氏は、山陰の大大名である尼子氏の強大な軍事力を後ろ盾とすることで、林野周辺の「倉敷地」一帯を掌握し、当時美作で尼子氏と激しく対立していた浦上氏の勢力を東から牽制するという、極めて重要な戦略的任務を担ったのである 13 。
林野城が尼子方の拠点となったことで、かつては主従関係にあった三星城との関係は、敵対関係へと劇的に変化した。当時、三星城を本拠とする後藤氏は、備前の浦上氏に属していたため、林野城と三星城は梶並川を挟んで互いに睨み合う、尼子・浦上両陣営の最前線となったのである 9 。
本来、本城である三星城を守るために築かれた支城が、敵の手に落ちたことによって、逆に本城を攻めるための攻撃拠点と化す。この「戦略的役割の反転」ともいえる状況は、主家や一族が敵味方に分かれて骨肉の争いを繰り広げた、戦国時代の下克上の様相を象徴する出来事であった。林野城の地理的優位性は、三星城を守る上での長所であったが、ひとたび敵の手に渡れば、それはそのまま三星城にとって最大の脅威となる弱点でもあった。この皮肉な関係性は、戦国時代の城郭が、支配者の変遷によってその戦略的価値をいかに柔軟に、そして非情に変化させていったかを示す好例と言える。
16世紀後半、尼子氏が毛利氏によって滅ぼされ、浦上氏も家臣であった宇喜多直家の下克上によって滅亡すると、美作国の政治情勢は再び大きく動く 3 。備前から台頭した宇喜多直家が、美作の新たな覇者となったのである 10 。
天正7年(1579年)、宇喜多氏は最後まで抵抗を続けていた三星城を攻略し、後藤氏を滅ぼした 3 。これにより美作東部は完全に宇喜多氏の支配下に組み込まれ、林野城は新たな役割を担うこととなる。宇喜多氏の支配下において、林野城は単なる前線基地ではなく、広域にわたる東美作領国を統治するための中核的な拠点城郭として再整備された。宇喜多氏の重臣である戸川秀安や岡市丞といった有力武将が城代として置かれ、この地域の政務と軍事を統括した 1 。第一章で述べた瓦葺きの恒久的な建造物が建てられたのも、この宇喜多氏による安定統治の時代であった可能性が極めて高い。林野城は、戦乱の最前線から、新たな支配体制を支える行政センターへと、その性格を大きく変貌させたのである。
慶長5年(1600年)に天下分け目の関ヶ原の戦いが起こると、西軍の主力であった宇喜多秀家は敗北し、その広大な領地は没収(改易)された。これにより、美作国は新たな支配者を迎えることとなる。戦後、備前・美作の地は、東軍で功績のあった小早川秀秋の所領となった 3 。
小早川氏の支配下で、林野城にはその家臣である稲葉通政が入城し、城代としてこの地を治めた 3 。しかし、その小早川秀秋も慶長7年(1602年)に急死し、家は断絶する。翌慶長8年(1603年)、美作国には森忠政が18万6500石で入封し、津山藩が成立した。
津山藩主となった森氏は、津山に新たな居城(津山城)の築城を開始する一方で、林野城を東美作における重要な支城として存続させた 5 。戦国時代の主要な戦闘は終結していたにもかかわらず、林野城が維持された事実は、その戦略的価値が依然として高く評価されていたことを示している。広大な新領地、特に長年にわたり独立性の高かった東部地域を安定的に統治するため、交通の要衝に位置する林野城は、平時の治安維持や行政を担う上で不可欠な出先機関として機能し続けたのである。この近世初頭における異例の存続は、林野城の価値が特定の戦乱期に限定されるものではなく、地域支配の根幹に関わる普遍的なものであったことを物語っている。
時代区分 |
西暦/和暦 |
主要関連勢力 |
城主・城代(伝承含む) |
主な出来事 |
鎌倉時代 |
--- |
後藤氏 |
後藤良兼 |
三星城の支城として築城される 3 。 |
南北朝時代 |
1361年 (康安元年) |
山名氏 |
(不明) |
山名時氏の美作侵攻により、20日余りの籠城の末に落城 8 。 |
戦国時代 (前期) |
c. 1532年以降 |
尼子氏 |
江見久盛・久資 |
尼子氏の美作侵攻の拠点となり、三星城の後藤氏と対峙 8 。 |
戦国時代 (後期) |
c. 1579年以降 |
宇喜多氏 |
戸川秀安・岡市丞 |
宇喜多氏の東美作支配の拠点として整備される。瓦葺建物が建設か 8 。 |
安土桃山時代 |
1600年 (慶長5年) |
小早川氏 |
稲葉通政 |
関ヶ原の戦後、小早川秀秋の所領となり、稲葉氏が入城 3 。 |
江戸時代初期 |
1603年 (慶長8年)以降 |
森氏 (津山藩) |
(不明) |
津山藩の支城として三代にわたり維持される 5 。 |
江戸時代 |
1615年 (元和元年) |
徳川幕府 |
(廃城) |
一国一城令により廃城となる 5 。 |
江戸幕府による全国支配体制が確立していく中で、元和元年(1615年)、幕府は諸大名に対し「一国一城令」を発布した。これは、各藩が領国に持つ城を居城一つに限定し、それ以外の城郭(支城)をすべて破却することを命じた法令である。大名の軍事力を削ぎ、幕府への反乱を防ぐことを目的としていた。
この法令により、津山藩の支城として維持されてきた林野城もその対象となり、その長い歴史に幕を下ろすこととなった 5 。鎌倉時代に築かれて以来、約300年以上にわたって美作東部の歴史の中心にあり続けた名城は、新たな時代の到来と共に、その軍事的・政治的役割を終え、静かに廃城となったのである。
廃城後、林野城跡は山林へと還っていったが、人工的な建造物が取り払われたことで、かえって曲輪や堀切、土塁といった城郭の骨格をなす土木遺構は良好な状態で保存されることとなった。現在、城跡は美作市の史跡に指定されており、その歴史的価値が公的に認められている 4 。
城跡には遊歩道が整備され、ハイキングコースとして市民に親しまれている 5 。本丸跡には城址碑と、往時の姿を想像して描かれた復元図の案内板が設置されており、訪れる人々にこの城が経験した激動の歴史を伝えている 4 。かつての戦いの舞台は、今や地域の歴史を学び、自然に親しむための貴重な文化遺産として、後世にその記憶を継承している。
林野城は、単に美作国に存在した数多の山城の一つではない。その歴史は、美作東部の政治、軍事、そして経済の変遷そのものを体現する、類稀な存在である。鎌倉時代に後藤氏の支城として誕生し、南北朝の動乱でその名を知らしめ、戦国時代には尼子、浦上、宇喜多といった大勢力の覇権争いの最前線となり、そして近世初頭には新体制下の支配拠点として機能し続けた。約300年以上にわたるその生涯は、常に地域の中心であり続けた証左である。
城郭の構造に見られる進化は、日本の城郭技術と戦術思想の発展を如実に示している。南北朝時代の比較的単純な構造から、戦国時代の緊迫した情勢を反映した複雑かつ巨大な要塞へ、そして宇喜多氏の安定支配下で瓦葺きの建物を擁する恒久的な行政拠点へと姿を変えていった過程は、この地が経験した時代の変化を土と石で記録した歴史書そのものである。特に、瓦の出土は、林野城が単なる軍事拠点から、恒久的な統治機能を持つ拠点城郭へと昇華したことを示す決定的な証拠であり、その歴史的評価を大きく高めるものである。
林野城の歴史を深く掘り下げることは、後藤氏に始まり、山名、尼子、浦上、宇喜多、小早川、森といった諸勢力がこの地で繰り広げた壮大な興亡の物語を、一つの城郭という具体的かつ鮮明な視点から理解することに繋がる。川の合流点という地理的優位性を基盤に、時代の要請に応じてその役割を変え続けた林野城は、美作国の中世から近世にかけての歴史を解き明かす上で不可欠な、生きた物証なのである。