豊後水道の要衝に聳えし栂牟礼城。佐伯氏が築きし難攻不落の要塞は、豊薩合戦にて島津軍を阻み、その名を歴史に刻むも、主家改易と共に廃城となる。
日本の戦国時代史において、著名な合戦の舞台となった城や、天下人の居城に光が当てられることは多い。しかし、地方の歴史を動かし、時には天下の趨勢にさえ影響を与えた重要な城郭が、必ずしもその名を知られているわけではない。豊後国(現在の大分県)の南東部、日向国(現在の宮崎県)との国境地帯に聳える栂牟礼城(とがむれじょう)は、まさにそのような「忘れられた要塞」の典型と言えるだろう。
この城が位置する佐伯の地は、九州山地が豊後水道に落ち込む複雑なリアス式海岸を有し、陸路の難所であると同時に、瀬戸内海と南九州、さらには四国を結ぶ海上交通の要衝であった 1 。この地政学的に極めて重要な地域を、平安時代末期から戦国時代を通じて支配したのが、国人領主・佐伯氏である。
栂牟礼城は、この佐伯氏が戦国乱世の只中に築いた拠点であり、その歴史は佐伯氏の、ひいては豊後国全体の命運と深く結びついている。特に、九州統一を目指す薩摩の島津氏が豊後に侵攻した「豊薩合戦」において、栂牟礼城は島津軍の圧倒的な軍事力の前に立ちはだかる「防波堤」として、極めて重要な戦略的役割を果たした 3 。
本報告書は、この栂牟礼城を単なる一地方の山城としてではなく、戦国時代の政治・軍事力学の中でその価値を再評価することを目的とする。城主・佐伯氏の特異な立場、城郭そのものが持つ卓越した防御思想、そして二度にわたる激しい籠城戦の実態を多角的に分析することで、栂牟礼城が九州戦国史に刻んだ真の意義を明らかにしていく。
西暦 |
元号 |
主な出来事(栂牟礼城・佐伯氏関連) |
関連する周辺の動向 |
平安末期 |
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大神氏の一族が佐伯荘を領し、佐伯氏を称する 5 。 |
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1441年 |
嘉吉元年 |
佐伯氏9代惟世、宇山城に籠もり周防の大内氏を撃退 3 。 |
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1521-28年 |
大永年間 |
10代当主・佐伯惟治が栂牟礼城を築城 7 。 |
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1527年 |
大永7年 |
佐伯惟治の乱。 惟治、主君・大友義鑑に謀反を疑われ、栂牟礼城に籠城。臼杵長景率いる2万の大友軍を退けるも、謀略により日向で討たれる 10 。 |
大友氏による豊後国内の国人衆統制強化が進む。 |
1578年 |
天正6年 |
耳川の戦い。大友軍が島津軍に大敗。佐伯氏12代惟教、13代惟真が戦死。惟真の子・ 惟定(当時9歳)が家督を継ぐ 6 。 |
大友氏の勢力が大きく後退し、島津氏の九州制覇が現実味を帯びる。 |
1586年 |
天正14年 |
豊薩合戦勃発。 島津家久率いる軍勢が豊後に侵攻。 |
豊臣秀吉、九州惣無事令を発令するも島津氏はこれを事実上無視。 |
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10月:惟定、島津からの降伏勧告を拒絶し、使者を斬殺 6 。 |
朝日嶽城主・柴田紹安が島津に内応 3 。 |
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11月4日: 堅田合戦。 惟定と軍師・山田匡得、兵力で劣る中、島津軍先鋒を撃破 15 。 |
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12月:因尾砦にて在地農民が島津軍別動隊を撃退 17 。 |
戸次川の戦いで豊臣援軍(長宗我部・仙石勢)が島津軍に大敗。 |
1587年 |
天正15年 |
2月:惟定、島津方が守る朝日嶽城を奪回 14 。 |
豊臣秀吉本体が九州に出陣(九州平定)。 |
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3月:梓峠にて撤退する島津軍を追撃 14 。 |
島津氏が豊臣秀吉に降伏。 |
1593年 |
文禄2年 |
主君・大友義統が文禄の役での失態により改易。 惟定も所領を失い、佐伯の地を去る 19 。 |
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惟定、藤堂高虎に客将として仕える 5 。 |
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1601年 |
慶長6年 |
毛利高政が佐伯に入封し、当初は栂牟礼城を居城とする 22 。 |
関ヶ原の戦いが終結し、徳川家康による全国支配体制が確立。 |
1602年 |
慶長7年 |
高政、平時の統治の不便さから八幡山に佐伯城の築城を開始 22 。 |
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1606年 |
慶長11年 |
佐伯城がほぼ完成。これに伴い、 栂牟礼城は廃城となる 12 。 |
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1618年 |
元和4年 |
佐伯惟定、死去。享年50歳。子孫は津藩藤堂家の重臣として続く 14 。 |
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栂牟礼城の歴史を理解するためには、まずその築城主であり、400年以上にわたってこの地を治めた佐伯氏という一族の特異な成り立ちと性格を把握する必要がある。彼らは単なる大友氏の家臣という枠に収まらない、独立自尊の気風に満ちた国人領主であった。
佐伯氏の出自は、宇佐八幡宮の大宮司家にも連なる豊後の大族・大神(おおが)氏の系譜を引く名門である 6 。鎌倉時代に源頼朝によって豊後守護に任じられた大友氏が東国から下向してくると、佐伯氏は他の多くの国人領主と同様にその支配体制下に組み込まれていった。しかし、その過程で佐伯氏は極めて特異な立場を維持し続けることになる。
大友氏の領国支配の特徴は、有力国人のもとに一族から養子を送り込み、血縁関係を通じて支配を強化する手法にあった。同族の臼杵氏や戸次(べっき)氏などがこの手法によって次第に大友氏に取り込まれていく中で、佐伯氏は最後まで大友氏の血統を受け入れることなく、大神氏以来の血脈を頑なに守り続けた 5 。
この結果、佐伯氏は大友一門を指す「同紋衆」とは明確に区別される「他紋衆」として扱われた 26 。これは大友家中において、一定の敬意を払われる一方で、常に潜在的な警戒対象と見なされる立場であったことを意味する。実際に、佐伯氏は守護である大友氏を介さず、室町幕府や朝廷から直接命令を受けることもあり、その独立性の高さがうかがえる 5 。この独立自尊の気風こそが佐伯氏の強さの源泉であったが、同時に、中央集権化を目指す主家・大友氏との間に深刻な緊張関係を生む最大の要因ともなったのである 26 。
佐伯氏が「他紋衆」という立場にありながら、大友氏に対して強い独立性を保ち得た背景には、彼らの権力基盤が陸上だけでなく、豊後水道という広大な海にあったことが挙げられる。佐伯の地は、複雑な海岸線と多数の浦々を持ち、古来より海上交通の要衝であった 2 。佐伯氏は、この地理的優位性を最大限に活用し、強力な水軍を擁して佐伯湾から日向灘に至るまでの海上交通路を実質的に支配していたとみられている 2 。
彼らの活動範囲は豊後国内に留まらなかった。文献史料には、豊後水道を挟んで対岸に位置する伊予国(現在の愛媛県)の河野氏をはじめとする四国の勢力と密接に連絡を取り合っていたことが記録されている 2 。これは、佐伯氏が単なる豊後の一国人領主ではなく、国境を越えた広域的なネットワークを持つ「海洋領主」としての性格を色濃く帯びていたことを示している。伊予の有力氏族が戦乱を避けて佐伯の地に逃れてくる例も多く、この地が豊後水道を介した人々の往来の結節点であったことがわかる 30 。
この海上支配力は、佐伯氏に莫大な経済的利益をもたらした。当時の水運は、現代の物流の根幹をなすものであり、交易による利益は計り知れない。近世佐伯藩の時代に「佐伯の殿様、浦で持つ」と謳われた言葉は、その豊かさが港からもたらされる海産物や交易に支えられていたことを示しており、その源流は戦国時代の佐伯氏の海上活動にまで遡ることができる 32 。この独自の経済基盤と水軍という軍事力が、大友氏の支配に完全に同化されることなく、独立性を維持することを可能にした実質的な力の源泉であったと考えられる。栂牟礼城の立地もまた、この豊後水道の制海権を睨む戦略的拠点という側面から理解する必要がある。
佐伯氏の独立性と戦略思想を最も雄弁に物語るのが、彼らが本拠とした栂牟礼城そのものである。その立地選定から縄張りに至るまで、戦国乱世を生き抜くための徹底した防御思想が貫かれており、佐伯氏独自の高度な築城技術の結晶と言える。
栂牟礼城は、佐伯氏10代当主・佐伯惟治によって大永年間(1521-1528年)に築かれたとされる 7 。それ以前、佐伯氏は宇山城などを居城としていたが 3 、この時期に拠点を移したのには明確な戦略的意図があった。旧来の拠点は、周防の大内氏の水軍による攻撃を受けるなど、防衛上の脆弱性を抱えていた 26 。
そこで惟治が新たな本拠地として選んだのが、標高約224メートルの栂牟礼山であった。この山は、南を豊後国南部最大の河川である番匠川、西をその支流である井崎川に囲まれており、天然の堀を形成している 10 。さらに、日向国へと通じる街道を扼する位置にあり、南からの侵攻に対する防衛拠点として絶好の立地であった。この拠点移転は、単なる居城の変更ではなく、佐伯氏の防衛戦略がより体系的かつ実践的な段階へと移行したことを示す画期的な出来事であった。
栂牟礼城は、山の尾根に沿って複数の郭(くるわ)を直線的に配置した「連郭式山城」である 1 。その縄張り(城の設計)は、防御機能を極限まで高めることに主眼が置かれている。城域は広大であるが、主要な郭は山頂部の本郭(郭I)とそれに続く郭IIに集約されており、そこに至る全てのルートに幾重もの防御施設が施されている 33 。
この城の最大の特徴は、尾根筋を徹底的に分断するために設けられた、大規模かつ連続的な「堀切(ほりきり)」である 33 。堀切は、敵が尾根伝いに進軍するのを防ぐために掘られた巨大な溝であり、栂牟礼城のものは現在でも容易に昇り降りができないほどの規模を誇る 33 。特に南側や西側の尾根には、複数の堀切を連続させた「多重堀切」が設けられ、岩盤を大規模に削り取って築かれている箇所もある 33 。
さらに、山の斜面からの攻撃を防ぐための工夫も随所に見られる。南尾根の東側面には、斜面に沿って何本もの縦の溝を掘り並べた「畝状竪堀群(うねじょうたてぼりぐん)」が確認されている 10 。これは、斜面を横移動する敵兵の足を止め、動きを著しく制限するための施設である。加えて、この山の表層は火山灰質で非常に滑りやすく、鎧をまとった兵士が斜面を駆け上がることは事実上不可能であったと推測される 9 。佐伯氏は、こうした自然地形の特性すらも防御システムの一部として巧みに取り込んでいたのである。
これらの遺構は、佐伯氏が主家である大友氏の直接的な指示に依らず、独自の技術と思想で築き上げたものであることが指摘されている 34 。この過剰とも思えるほどの徹底した防御構造は、南からの島津氏の侵攻のみならず、あらゆる方面からの攻撃を想定していたことの証左である。特に、この城が最初に経験した大規模な籠城戦が、外部の敵ではなく主家・大友氏による討伐軍であったことを考え合わせると、この城の設計思想には、主家すらも潜在的な脅威と見なす、佐伯氏の「全方位的な警戒心」が色濃く反映されていたと解釈できよう。
堅固に築かれた栂牟礼城は、その真価を二度にわたる大規模な籠城戦において証明することになる。一度目は主家・大友氏の討伐軍を、二度目は九州の覇者・島津氏の大軍を相手にした戦いであり、いずれも城の歴史を語る上で欠かすことのできない激戦であった。
栂牟礼城が歴史の表舞台に初めて登場するのは、築城から間もない大永7年(1527年)のことである。当時、豊後国を治めていた大友義鑑(後の大友宗麟の父)は、領国内の国人領主たちへの統制を強化する政策を進めていた。その中で、独立性の高い「他紋衆」の筆頭格であった佐伯氏、特にその当主・惟治は、義鑑にとって排除すべき存在と見なされた 26 。
「謀反の疑いあり」との口実のもと、義鑑は重臣の臼杵長景を大将とする2万もの大軍を栂牟礼城に差し向けた 10 。これは、築城間もない城の防御力を試す最初の、そしてあまりにも過酷な試練であった。しかし、栂牟礼城はその期待に応える。天然の要害と、完成したばかりの堅固な防御施設を利して、惟治は圧倒的な兵力差を覆し、大友軍の猛攻をことごとく退けたのである 10 。
力攻めでの落城を諦めた大友方は、次に謀略を用いた。和議を持ちかけ、惟治がそれに従って城を明け渡し日向国へ退去する途中、待ち伏せていた手勢に襲わせ、惟治を謀殺するという卑劣な手段であった 11 。この事件により佐伯本家は一時滅亡の危機に瀕し、分家が跡を継ぐことになった 10 。戦いには勝利したものの、結果的に当主を失ったこの「佐伯惟治の乱」は、佐伯氏と主家・大友氏との間に、決して埋まることのない深い溝と不信感を残すことになった。
栂牟礼城がその名を戦国史に刻む最大の戦いが、天正14年(1586年)に勃発した豊薩合戦である。天正6年(1578年)の耳川の戦いで大友氏を破って以降、島津氏は破竹の勢いで北進を続け、九州統一を目前にしていた 17 。大友氏の本国・豊後への侵攻は、その総仕上げとも言うべき最終段階であった。
勢力 |
人物名 |
役職・立場 |
経歴・人物像 |
佐伯方 |
佐伯 惟定 (さえき これさだ) |
栂牟礼城主 |
耳川の戦いで祖父・父を失い、若くして家督を継ぐ。当時18歳。島津の圧倒的軍事力の前に臆することなく、徹底抗戦を主導した気骨ある若き当主 13 。 |
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山田 匡得 (やまだ きょうとく) |
客将・軍師 |
元は日向伊東氏の家臣で「伊東の軍神」と称された猛将。主家滅亡後、佐伯氏に身を寄せていた。長年島津氏と戦い、その戦術を知り尽くした歴戦の将 39 。 |
島津方 |
島津 家久 (しまづ いえひさ) |
豊後侵攻軍 総大将 |
島津四兄弟の四男。沖田畷の戦いで龍造寺隆信を討つなど、島津家随一の戦上手と評される。フロイスも「きわめて優秀なカピタン」と記した名将 42 。 |
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土持 親信 (つちもち ちかのぶ) |
先鋒大将 |
日向の国人。島津氏に降った後、豊後侵攻の先鋒を務める。堅田合戦で佐伯軍と激突 16 。 |
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新名 親秀 (にいな ちかひで) |
先鋒大将 |
土持親信と共に先鋒を務めた武将。堅田合戦で佐伯軍と交戦 16 。 |
島津家久率いる1万余りの日向方面軍が国境を越えると、豊後南部の諸城は次々と降伏、あるいは戦わずして城を明け渡した。特に国境の要である朝日嶽城主・柴田紹安の内応は、大友方にとって大きな痛手であった 3 。このような絶望的な状況下で、栂牟礼城主・佐伯惟定は徹底抗戦の道を選ぶ。その決断を支えたのが、客将として城にいた軍師・山田匡得であった。
島津家久は、弱冠18歳の惟定を侮り、降伏を勧告する使僧・玄西堂ら一行20名を送り込んだ。これに対し、惟定と匡得は敢然とこれを拒絶。使者一行を番匠川の河原でことごとく斬殺し、その首を島津方に送り届けるという衝撃的な方法で、徹底抗戦の意志を内外に示したのである 14 。
使者を殺害されたことに激怒した島津家久は、天正14年(1586年)11月4日、土持親信・新名親秀を大将とする約2,000の軍勢を栂牟礼城攻略の先鋒として差し向けた。これに対し、佐伯方が動員できた兵力は約800。兵力で圧倒的に不利な状況で、城から打って出て野戦を挑んだのが「堅田合戦」である 16 。この戦いの指揮を執ったのが、軍師・山田匡得であった。
彼の戦術は、地形と兵の動きを巧みに連動させた、まさに芸術的なものであった。
この見事な勝利は、単なる偶然ではない。山田匡得は元伊東氏の家臣として、木崎原の戦いをはじめ幾度となく島津軍と戦い、その得意戦法である「釣り野伏せ」(囮部隊で敵を誘い込み、伏兵で包囲殲滅する戦術)を身をもって知っていた 44 。堅田合戦における彼の戦術は、まさにその「釣り野伏せ」を逆用したものであった可能性が高い。敵の戦術を知り尽くしているからこそ、それを先読みし、同じ構造の戦術を仕掛けることで島津軍の虚を突き、寡兵での勝利という奇跡を現実のものとしたのである。この戦いの結果、島津軍は栂牟礼城への直接攻撃を断念せざるを得なくなり、その後の豊後侵攻計画に大きな遅滞を生じさせることになった。
栂牟礼城を中心とした防衛戦は、城兵だけの戦いではなかった。島津軍の別動隊が番匠川上流から栂牟礼城の背後を突こうとした際、その進路上にあった「因尾砦(いんびとりで)」では、正規の兵ではない在地農民たちが立てこもった 17 。彼らは、険しい岩山にできた自然の洞窟を利用したこの砦から、攻め寄せる島津兵に対し上から大石を落とすという原始的だが極めて有効な戦術で抵抗し、百人以上の死傷者を出させて撃退することに成功した 3 。
この事実は、佐伯氏の領国支配が隅々まで行き届き、領民が高い忠誠心と防衛意識を持っていたことを示している。栂牟礼城は、こうした地域全体の抵抗を束ねる中核拠点として機能し、領民を巻き込んだ「地域総力戦」を展開することで、島津軍の侵攻を食い止めたのである。
豊薩合戦において輝かしい戦果を挙げた栂牟礼城と佐伯氏であったが、戦国時代の終焉という大きな歴史のうねりは、彼らの運命を大きく変えることになる。城はその役目を終え、城主は故郷を離れるという、栄光からの転落が待ち受けていた。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉自らが率いる大軍が九州に上陸すると、あれほど強大を誇った島津氏も降伏し、九州平定が成し遂げられた。この戦役において、一貫して反島津の姿勢を貫き、豊臣軍の先導役まで務めた佐伯惟定の功績は秀吉からも高く評価され、感状を与えられている 6 。
しかし、佐伯氏の運命は、主家である大友氏と共にある。文禄2年(1593年)、文禄の役(朝鮮出兵)において、大友軍の総大将であった大友義統が敵前逃亡という失態を犯した。これに激怒した秀吉は、大友氏の豊後一国の所領を没収し、改易処分とした 19 。主家が取り潰されたことにより、その家臣であった佐伯惟定もまた、平安時代から400年以上続いた本拠地・佐伯の地を失い、浪々の身となることを余儀なくされたのである 23 。
大友氏が去った後の佐伯の地は、関ヶ原の戦いを経て、慶長6年(1601年)に毛利高政が2万石の領主として入封することになった 22 。高政は当初、佐伯氏の旧居城である栂牟礼城に入ったが、すぐにこの城が新しい時代の統治には不向きであると判断する。
栂牟礼城は、あくまで戦時の防御に特化した険峻な山城であり、城下町を整備して領国経済を振興させるという平時の政治拠点としては、あまりにも不便であった 22 。そこで高政は、翌慶長7年(1602年)、番匠川の河口に近く、水運の便も良い八幡山に、新たな城の築城を開始した。これが、近世佐伯藩の藩庁となる「佐伯城」である 12 。
慶長11年(1606年)に佐伯城がほぼ完成すると、栂牟礼城はその歴史的役割を完全に終え、廃城となった 10 。この城の交代劇は、単に領主が変わったというだけではない。ひたすらに軍事機能と防御を追求した「戦国の山城」の時代が終わり、城下町の形成と一体となった政治・経済の中心地としての「近世の城」の時代が始まったことを象徴する、この地域の歴史における大きな転換点であった。
故地を追われた佐伯惟定であったが、その武将としての名声は彼を再び歴史の表舞台へと引き戻す。惟定は、豊臣秀吉の弟・秀長の家臣であった築城の名手・藤堂高虎に客将として招かれた 5 。豊薩合戦の際、秀長が豊後に進駐したことがあり、その時に両者は面識を得ていた可能性がある 20 。
惟定は、高虎が伊予宇和島、次いで伊勢津へと転封されるのに従い、藤堂藩の重臣として2,000石(後に4,500石に加増)を与えられた 13 。慶長の役では再び朝鮮に渡海して海戦で功を挙げ、大坂の陣では藤堂軍の先鋒を務めるなど、数々の戦場で活躍した 14 。その武勇と忠誠心は高虎からも高く評価され、津の城下には彼の功績を称えて「佐伯町」の名が付けられた 13 。
元和4年(1618年)、惟定は50歳の生涯を閉じた。彼の子孫は、その後も藤堂家の家臣として代々続き、明治維新を迎えている 5 。また、惟定の兄・惟照は伊予に残り、緒方姓を名乗ってその地で庄屋として続いた。幕末の蘭学者として名高い緒方洪庵は、この惟照の系統の子孫である 5 。故郷を失いながらも、佐伯氏の血脈は、武士として、また文化人として、新たな地で確かに受け継がれていったのである。
栂牟礼城は、慶長11年(1606年)の廃城をもって、その短いながらも濃密な歴史に幕を下ろした。しかし、この城が戦国時代の九州史に刻んだ足跡は、決して小さなものではない。
第一に、栂牟礼城は、豊後の大族・大神氏の血を引く国人領主・佐伯氏の、独立自尊の気概を体現した城であった。主家・大友氏の強い圧力と統制に抗い、独自の勢力を保とうとした彼らの政治的立場が、その徹底した防御構造に如実に表れている。
第二に、九州の覇権を賭けた豊薩合戦において、栂牟礼城は歴史の転換点となる重要な役割を果たした。九州統一の目前まで迫った島津軍の南進を、その圧倒的な軍事力の前に敢然と立ちはだかり、堅田合戦での戦術的勝利によってその進軍を遅滞させた。この栂牟礼城の奮戦がなければ、豊臣秀吉の援軍が間に合う前に豊後全土が島津の手に落ちていた可能性も否定できず、その戦略的価値は極めて高い。
そして最後に、戦国時代の終焉と共に廃城となり、近世城郭である佐伯城にその役割を譲った歴史は、日本の城郭が軍事拠点から政治・経済の中心へとその性格を大きく変えていく、時代のパラダイムシフトを象徴している。
現在、栂牟礼城跡は佐伯市の史跡に指定され、往時を偲ばせる大規模な堀切や畝状竪堀群などの遺構が、今なお良好な状態で保存されている 10 。訪れる者は、草木に覆われた土の遺構の中に、戦国乱世を駆け抜けた佐伯氏の誇りと、難攻不落と謳われた要塞の息吹を感じ取ることができるだろう。栂牟礼城は、戦国時代の山城の姿を今に伝える貴重な文化遺産として、その歴史的価値を静かに、しかし力強く語り続けているのである 33 。