越後の要害、栃尾城は長尾景虎(上杉謙信)が青年期を過ごし、初陣を飾った「旗揚げの城」。堅固な縄張りを持つも御館の乱で落城。その遺構は今も残り、謙信飛翔の地として歴史を伝える。
越後国古志郡、現在の新潟県長岡市栃尾地域にその遺構を留める栃尾城は、戦国時代の山城の典型例として、また後の「軍神」上杉謙信、すなわち長尾景虎が青年期を過ごした「旗揚げの城」として、日本の城郭史上、特異な重要性を有する 1 。本城は標高228メートルの鶴城山に築かれ、その眼下には栃尾盆地が一望できる 1 。この地勢は、越後中部、すなわち中郡を統治する上で極めて重要な戦略的拠点であったことを物語っている。
栃尾城は、「舞鶴城」あるいは「大野城」という別名でも知られる 1 。特に「舞鶴城」の名は、鶴が翼を広げたかのようなU字型、すなわち馬蹄型の険しい山稜を巧みに利用した縄張りに由来するとされ、その堅固さと優美さを同時に示唆している 1 。新潟県指定史跡として保護されていることからも、その歴史的価値の高さがうかがえる 1 。
本報告書は、この栃尾城について、単なる概要の紹介にとどまらず、その城郭としての「構造」、築城から廃城に至るまでの「歴史的変遷」、城の運命を左右した「人物群像」、そして現代における「史跡としての価値」という四つの側面から多角的に分析し、その実像を徹底的に解明することを目的とする。
栃尾城が「要害堅固」と評される理由は、その物理的構造の巧みさにある。自然地形を最大限に活用し、最小限の人工的改変で防御能力を極限まで高めた縄張りは、戦国中期における山城築城術の一つの到達点を示すものである。
栃尾城の縄張りは、鶴城山の険しい自然地形そのものを防御の骨格としている。比高約150メートルの山稜全域を利用し、馬蹄型に郭を配置した「舞鶴型」と呼ばれるこの構造は、城の別名の由来ともなっている 4 。この配置により、城は多方面からの視界を確保しつつ、尾根筋という限定された攻撃路に敵を誘い込むことが可能であった。
さらに、栃尾城は山上の戦闘拠点(詰城)と、山麓の平地に設けられた城主や家臣団の居館群とが一体となった「根小屋式城郭」としての性格を持つ 6 。平時の政務や生活は山麓の大野地区に置かれた居館で行い、有事の際には山上の要塞に立てこもるという、機能の明確な分離が図られていた。このことは、栃尾城が単なる籠城用の砦ではなく、地域の統治機能をも担う複合的な拠点であったことを示している。山頂部の本丸の面積が極端に狭いのは、そこが居住空間ではなく、純粋な戦闘指揮所として設計されたことの証左であり、戦国期山城の合理的な設計思想を色濃く反映している 4 。
栃尾城は、中心となる本丸から放射状に伸びる尾根筋に沿って、複数の郭が巧みに配置されている。
栃尾城の堅固さを支えているのは、郭の配置だけでなく、地形を徹底的に加工して造り出された多様な防御施設である。
表1:栃尾城 主要曲輪一覧
曲輪名称 |
位置関係 |
推定される機能 |
規模・特徴 |
現存する主要遺構 |
本丸 |
鶴城山山頂 |
司令塔、最終防衛拠点 |
約10m x 30mの細長い郭 |
郭跡、切岸、石積 |
二ノ丸 |
本丸の西側 |
副次的防御拠点、兵員駐屯 |
数段の段郭で構成 |
郭跡、井戸跡、切岸 |
中の丸・琵琶丸 |
二ノ丸の西側尾根 |
西側方面の防御 |
尾根上に連なる郭群 |
郭跡、大堀切、土橋 |
松ノ丸 |
本丸の北側 |
北側方面の主防御拠点 |
尾根を削平した郭 |
郭跡、大堀切 |
三ノ丸 |
松ノ丸の北側 |
北側方面の第二防御線 |
堀切で松ノ丸と分断 |
郭跡、堀切、竪堀 |
五島丸 |
三ノ丸の北側 |
北側方面の最前線 |
複数の小規模な堀切 |
郭跡、堀切、土橋 |
千人溜り |
東側中腹 |
兵員集結地、駐屯地 |
広大な平坦地 |
郭跡、大空壕 |
馬継ぎ場 |
西側尾根の郭 |
軍馬の待機場所 |
比較的広い平坦地 |
郭跡、土塁、虎口 |
栃尾城の歴史は、越後国の権力構造の変遷を映す鏡である。築城から廃城に至るまでの城主の交代と城の盛衰は、越後全体の政治情勢と密接に連動していた。
栃尾城の正確な築城年代は不明であるが、一般的には南北朝時代から室町時代初期にかけてと伝えられている 1 。その築城者として有力視されているのが、南北朝時代の武将・芳賀禅可(高名)である 1 。芳賀氏は下野国(現在の栃木県)を本拠とする宇都宮氏の重臣であった 12 。観応の擾乱において足利尊氏方として功を挙げた主君・宇都宮氏綱が越後守護に任じられた際、禅可はその守護代として越後に入国し、現地の統治にあたった 12 。この築城背景は、栃尾城が当初、越後の在地勢力を監視・統制するための、中央から派遣された外部権力の拠点として設営された可能性を強く示唆している。
栃尾城の歴史が最も輝きを放つのは、長尾景虎(後の上杉謙信)がこの城を拠点とした時代である。この6年間は、後の「軍神」を生み出すための不可欠な「揺り籠」であり、同時に過酷な「試練の場」でもあった。
天正6年(1578)、謙信が後継者を指名しないまま急逝すると、二人の養子、上杉景勝と上杉景虎の間で家督を巡る凄惨な内乱「御館の乱」が勃発した。この乱は、栃尾城の運命を再び大きく揺るがすことになる。
当時の栃尾城主は、本庄実乃の子である本庄秀綱であった。秀綱は、父とは対照的に上杉景虎方に与した 1 。この選択の背景には、三条城主・神余親綱との連携や、景勝との指揮権を巡る対立など、単純な派閥争いでは片付けられない複雑な力学が存在したとみられている 21 。乱が景勝方の優位に進む中、栃尾城は景勝軍の攻撃目標となり、激しい攻防戦が繰り広げられた。しかし、衆寡敵せず、天正8年(1580)4月22日、栃尾城はついに落城。城主・秀綱は会津方面へと落ち延びていった 1 。
御館の乱終結後、栃尾城には佐藤甚助忠久や安部政吉といった上杉景勝配下の武将が城主として入った 4 。しかし、慶長3年(1598)、豊臣秀吉の命により上杉景勝が会津120万石へ移封されると、越後には堀秀治が新たな領主として入封する。これに伴い、栃尾城には堀氏の家臣である神子田政友が1万石で入城した 1 。
堀氏の統治は、増税や寺社領の没収など苛烈なものであったため、上杉家の旧臣や領民による一揆が頻発した 11 。栃尾城も、こうした混乱の渦中にあったと推測される。そして慶長15年(1610)、堀氏が御家騒動を理由に改易されると、新たな領主は栃尾城を拠点とせず、城はその軍事的役割を完全に終え、廃城となった 1 。
表2:栃尾城 関連年表
年代 |
主要な出来事 |
城主・関連人物 |
南北朝時代 |
栃尾城が築城されたと伝わる。 |
芳賀禅可(伝) |
室町時代 |
古志長尾家または本庄氏が城主となる。 |
本庄氏 |
天文12年 (1543) |
長尾景虎(14歳)、中郡郡司として栃尾城に入城。 |
長尾景虎、本庄実乃 |
天文13年 (1544) |
栃尾城の戦い 。景虎が初陣を飾る。 |
長尾景虎 |
天文16年 (1547) |
景虎、常安寺を開基。 |
長尾景虎、門察和尚 |
天文17年 (1548) |
景虎(19歳)、春日山城へ移る。 |
長尾景虎 |
天正6年 (1578) |
御館の乱 勃発。 |
本庄秀綱(景虎方) |
天正8年 (1580) |
栃尾城、上杉景勝軍により落城。 |
本庄秀綱 |
乱後 |
景勝配下の武将が城主となる。 |
佐藤甚助忠久、安部政吉 |
慶長3年 (1598) |
上杉景勝の会津移封。堀秀治が越後領主となる。 |
神子田政友(堀氏家臣) |
慶長15年 (1610) |
堀氏の改易に伴い、栃尾城は廃城となる。 |
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栃尾城の歴史は、城という物理的な構造物だけではなく、それを舞台とした人間関係のドラマによって動かされてきた。特に、城の運命を決定づけた主要人物たちの動向は、歴史の転換点を理解する上で不可欠である。
景虎にとって栃尾城は、14歳から19歳までの多感な青年期を過ごした、まさに「旗揚げの城」であった 1 。この地での経験は、彼の類稀なる軍事的才能を開花させ、越後の国人衆をまとめ上げる政治的手腕を磨かせた 17 。同時に、精神的指導者との出会いを通じて、後の彼の生涯を貫く「義」の信念を育む上で決定的な役割を果たした 7 。栃尾城は、景虎が単なる一地方領主の子から、越後を統一し、天下に名を馳せる「上杉謙信」へと飛翔するための原点であり、自己を確立した聖地ともいえる場所であった。
本庄実乃は、栃尾城主として、若き景虎の非凡な器量をいち早く見抜き、その側近として生涯を捧げた忠臣である 19 。景虎が栃尾城に入った際、その後見人となり、初陣である「栃尾城の戦い」をはじめとする数々の戦いで補佐役として軍功を挙げた 11 。謙信からの信任は絶大で、内政・軍事の両面にわたり重用され、直江景綱と並び称される重臣であった 23 。実乃の存在なくして、若き景虎が中郡の鎮撫という困難な任務を成功させることは難しかったであろう。彼は、主君の才能を正しく評価し、その成長を献身的に支えた、理想的な補佐役であった。
父・実乃が景虎(謙信)の最も信頼する臣であったのに対し、その子である秀綱は、謙信死後の「御館の乱」において景勝と敵対し、城を失うという悲運の道を辿った 1 。彼のこの選択は、単純な裏切りや判断の誤りとして断じることはできない。上杉家中の派閥対立、北条家出身の景虎への親近感、そして景勝との指揮権を巡る軋轢など、複雑な人間関係と政治情勢の中で下された苦渋の決断であった可能性が高い 21 。父が築いた栄光の舞台で、時代の大きな奔流に飲み込まれていった彼の生涯は、戦国乱世の非情さを象徴している。
門察和尚は、栃尾城下の瑞麟寺の住職であり、景虎の学問の師であったと伝えられる 7 。景虎は軍事の傍ら、彼の下で禅の修行を積み、深い教養を身につけた 20 。天文16年(1547)に景虎が常安寺を開基した際には、門察和尚が開山として迎えられている 16 。彼との師弟関係が、景虎の精神世界に与えた影響は計り知れない。戦国武将としては異質ともいえる、利害を超えた「義」を重んじる彼の行動原理は、この栃尾時代に門察和尚との交流を通じて培われた精神的基盤に根差していると考えられる。
これらの人物が織りなす師弟、主従、そして対立といった人間関係の交錯が、栃尾城の歴史を動かす原動力となっていた。城は、まさに歴史を動かす人間ドラマが繰り広げられた舞台装置そのものであった。
慶長15年(1610)の廃城により、軍事・政治拠点としての役割を終えた栃尾城は、長い眠りの時を経て、現代において新たな価値を持つ存在として再生した。それは、歴史を物語る貴重な遺産としての価値であり、地域社会の誇りの象徴としての価値である。
栃尾城跡の最大の価値は、戦国時代中期の山城の遺構が、主要部においてほぼ完全な形で保存されている点にある 1 。鋭い切岸、大規模な堀切、連絡路としての土橋、斜面を走る竪堀など、土木工事によって地形を要塞化した痕跡が随所に色濃く残っている 1 。これらは、大規模な石垣や天守が築かれる以前の、戦国時代のリアルな城の姿を今に伝える一級の学術資料であり、日本の城郭史を研究する上で極めて高い価値を有している。
新潟県指定史跡である栃尾城跡は、歴史学習の場、また市民の憩いの場として活用されている 1 。麓の諏訪神社や中央公園などから本丸へ至る複数のトレッキングコースが整備されており、体力に合わせて散策を楽しむことができる 28 。コースの分岐点には案内標識が設置され、本丸直下には手洗い所も設けられるなど、訪れる人々が安全かつ快適に広大な山城を巡れるよう配慮が行き届いている 27 。
こうした整備は行政だけでなく、地域住民の力によっても支えられている。「栃尾城址保存会」といった市民団体が組織され、定期的に登山道の草刈りや清掃活動(クリーン作戦)を実施している 31 。地域住民が主体的に関わることで、史跡はより身近で愛される存在となっている。
栃尾地域にとって、栃尾城は単なる史跡ではない。「上杉謙信公旗揚げの地」として、地域の歴史とアイデンティティを象徴する中核的な存在である 28 。麓の秋葉公園には若き日の謙信の銅像が建立され、その勇姿は今も地域を見守っている 3 。また、栃尾美術館の敷地内には、米沢の上杉家から分霊され謙信公を祀る「謙信廟」も存在し、精神的な拠り所となっている 7 。
毎年開催される「栃尾謙信公祭」では、武者行列などの催しが行われ、謙信公の遺徳を偲ぶとともに、地域の歴史と文化を次世代へと継承する重要な機会となっている 29 。かつての軍事拠点は、その物理的な価値を失った後、上杉謙信という人物の物語性と結びつくことで、地域社会を一つにする「歴史・文化的価値」を持つ存在として見事に再生した。これは、歴史遺産が現代社会において生き続けるための一つの理想的なモデルケースと言えるだろう。
本報告書では、越後の山城・栃尾城について、構造、歴史、人物、現代的価値の四つの側面から詳細な分析を行った。
第一に、栃尾城の構造は、自然地形を最大限に活用した戦国中期山城の築城術の極致を示すものであり、戦闘区域と居住区域を分離した「根小屋式城郭」としても、その合理的な設計思想は高く評価される。
第二に、その歴史は、若き長尾景虎が「上杉謙信」へと飛翔するための原点となった点で、日本の戦国史において特筆すべき重要性を持つ。同時に、城主の変遷は越後国全体の政治情勢を映し出す鏡であり、地域の歴史そのものを物語っている。
第三に、栃尾城の歴史は、景虎、本庄実乃、本庄秀綱、門察和尚といった人物たちの人間ドラマによって動かされてきた。彼らの決断と関係性が、城の、そして越後の運命を大きく左右した。
最後に、軍事拠点としての役目を終えた栃尾城は、現代において「上杉謙信公旗揚げの地」という物語性を核として、学術的・文化的な価値を持つ史跡として再生を遂げた。地域社会の積極的な関与によってその価値は維持・増幅されており、歴史遺産活用の好例となっている。
総じて、栃尾城は単なる一地方の城跡ではなく、戦国時代の築城技術、上杉謙信という英雄の誕生、そして地域の歴史とアイデンティティが凝縮された、極めて価値の高い歴史遺産であると結論付けられる。