桑野城
桑野城 ― 阿波の地に散った甲斐源氏、東条関之兵衛の盛衰
序章:阿波の地に眠る甲斐源氏の夢 ― 桑野城の歴史的座標
徳島県阿南市、那賀川と桑野川が育んだ沖積平野の一角に、かつて桑野城とよばれる平山城が存在した 1 。現在の萬福寺が建つその地は、戦国乱世の荒波に翻弄された一族の栄光と悲劇を静かに今に伝えている。城主であった東条氏は、遠く甲斐の国に源流を持つ武田氏の末裔を称し、新天地・阿波の国で確固たる地位を築いた 3 。しかし、その運命は、土佐の長宗我部元親による四国統一の野望、そして天下人・豊臣秀吉による全国平定という、時代の巨大なうねりによって大きく揺さぶられることとなる。
本報告書は、桑野城という一つの城郭の歴史を追うに留まらない。その中心人物である城主・東条関之兵衛実光の生涯を軸に、戦国時代という過酷な時代を生きた地方豪族の生存戦略、その栄光と限界を深く掘り下げ、解き明かすことを目的とする。彼らの選択と決断、そして迎えた結末は、戦国という時代の本質を我々に雄弁に語りかけてくれるであろう。
以下の年表は、桑野城と東条氏の歴史を、阿波国、四国、そして中央政権の動向と対比させたものである。これにより、彼らの物語が、いかに広範な歴史的文脈の中に位置づけられるかが明らかになる。
表1:桑野城・東条氏関連年表
年代 |
桑野城・東条氏の動向 |
阿波・四国の動向 |
中央の動向 |
文明年間 (1469-1487) |
甲斐の兵乱を逃れた東条常忠が阿波へ移住、守護・細川成之に仕える 3 。 |
細川氏が阿波守護として勢力を保持。 |
応仁の乱が終結し、戦国時代へ移行。 |
延徳・天文年間 (15-16世紀) |
常忠の子・忠雄が船岡山に桑野城を築城 3 。 |
細川氏の勢力が衰退し、家臣の三好氏が台頭。 |
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天文21年 (1552) |
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三好実休が阿波における実権を掌握 4 。 |
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天正3年 (1575) |
城主・東条関之兵衛が長宗我部元親に抵抗するも、敗れて従属。元親の養女を娶る 2 。 |
長宗我部元親が土佐を統一し、阿波へ侵攻を開始 6 。 |
織田信長が長篠の戦いで武田勝頼を破る。 |
天正5年 (1577) |
三好方の新開氏らの攻撃を受けるも、長宗我部方の援護を得て撃退 7 。 |
阿波国内で三好方と長宗我部方の代理戦争が激化。 |
信長、紀州征伐を開始。 |
天正10年 (1582) |
関之兵衛、中富川の戦いで長宗我部方として戦功を挙げる 3 。 |
中富川の戦いで長宗我部軍が勝利し、三好勢力は勝瑞城を追われる 8 。 |
本能寺の変で織田信長が死去。 |
天正10-13年 (1582-1585) |
関之兵衛、功績により西方城、次いで木津城の城主となる 2 。 |
元親が阿波・讃岐を制圧し、四国統一に迫る。 |
羽柴秀吉が信長の後継者としての地位を固める。 |
天正13年 (1585) |
豊臣軍の四国征伐。関之兵衛は木津城で奮戦するも開城。土佐へ逃亡後、元親に処刑される 3 。桑野城は廃城となる 3 。 |
豊臣秀吉の四国征伐により長宗我部元親は降伏。蜂須賀家政が阿波国主となる 9 。 |
豊臣秀吉が関白に就任し、天下統一を本格化。 |
慶長2年 (1597) |
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(伝承) |
桑野城跡に萬福寺が中興される 2 。 |
蜂須賀氏による阿波支配が安定。 |
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第一章:源流を求めて ― 東条氏、甲斐より阿波へ
桑野城の歴史を理解するためには、まずその主であった東条一族の出自と、彼らが阿波の地に根を下ろすに至った経緯を解明する必要がある。彼らの物語は、遠く東国・甲斐の戦乱から始まる。
第一節:甲斐武田氏の庶流としての出自
桑野城主・東条氏は、甲斐源氏の名門、武田氏の庶流を称している 2 。特に、武田信玄の譜代家老としても名高い甘利氏の系統に連なる武将であったと伝えられる 3 。戦国時代において、地方の国人領主が自らの権威を高めるために、中央の名門の系譜を引くことは珍しくない。東条氏が「甲斐武田氏」という出自を掲げた背景には、単なる血縁の事実以上に、戦略的な意図があったと考えられる。当時、武田信玄の武名は全国に轟いており、その一族を名乗ることは、自らの武門としての格を周辺豪族に示し、支配の正統性を補強する上で極めて有効であった。阿波守護であった細川氏に仕える際にも、この由緒ある出自は有利に働いたであろう。
第二節:戦乱を逃れ新天地へ ― 東条常忠の阿波下向
東条氏が阿波の歴史に登場するのは、室町時代中期の文明年間(1469年-1487年)に遡る。甲斐国で発生した兵乱(享徳の乱に連動した国内紛争)に敗れた東條(武田)常忠なる人物が、一族郎党を率いて阿波国名西郡橘宮下へとたどり着いた 3 。
常忠が数ある国の中から阿波を目指した理由は、単なる偶然とは考え難い。当時の阿波守護・細川氏は、室町幕府の管領を輩出する名門であり、中央政界に絶大な影響力を持っていた。一方で甲斐武田氏もまた、幕府体制下で甲斐守護を務める有力大名である。甲斐国内の政争に敗れた常忠が、敵対勢力の影響が及ばず、かつ中央の有力者である細川氏の庇護を求められる場所として阿波を選んだ可能性は高い。これは、当時の武士の移動が、単なる敗走や「都落ち」ではなく、既存の政治的ネットワークを頼った戦略的な行動であったことを示唆している。阿波に到着した常忠は、狙い通り守護・細川成之に仕え、当初は内祭宮下に居を構えたと記録されている 3 。
第三節:船岡山への築城と桑野庄の支配確立
細川氏の被官となった常忠は、やがて桑野の地に移り住み、周辺の8つの村を領有するに至る 3 。これは、彼らが阿波の地に新たな生活基盤を築いたことを意味する。そして、その支配を決定的なものにしたのが、城の築城であった。
常忠の嫡男・忠雄の代になると、彼は船岡山(現在の萬福寺の所在地)に桑野城を築き、そこを本拠として移り住んだ 3 。築城年代は延徳年間から天文年間(15世紀後半から16世紀前半)にかけてと推定されている。父・常忠の代では、あくまで守護・細川氏の庇護下にある「寄寓の身」であったが、忠雄による築城は、東条氏がその土地に深く根を下ろし、他者の権威に依存する存在から、自立した在地領主(国人)へと変貌を遂げたことを象徴する画期的な出来事であった。桑野城は、以後、東条氏による桑野庄支配の軍事的・政治的中心として機能していくことになる。
第二章:乱世の渦中へ ― 城主・東条関之兵衛の台頭
東条氏が阿波の戦国史の表舞台で大きな役割を果たすのは、東条関之兵衛実光の時代である。彼の登場とともに、桑野城をめぐる情勢は大きく動き出す。
第一節:東条関之兵衛実光の登場と系譜の考察
桑野城の歴史を語る上で中心となる人物が、東条関之兵衛実光(とうじょう せきのひょうえ さねみつ)である。しかし、彼の系譜については、複数の伝承が錯綜しており、一筋縄ではいかない。
一つの説は、前章で述べた文明年間に阿波へ下向した東条常忠、その子で築城主の忠雄という流れを汲む子孫とするものである 3 。これは、東条氏が阿波の地で代を重ねてきた旧来の国人であることを強調する系譜である。
一方で、複数の資料は、関之兵衛の父を「武田信綱」という人物であると記している 5 。この説によれば、武田信綱が天文年間(1532年-1555年)に甲斐からこの地に移り住み、桑野の支配者となったとされる 11 。文明年間の移住と天文年間の移住では、年代的に大きな隔たりがある。
この矛盾は、単なる記録の誤りとして片付けるべきではないかもしれない。むしろ、時代の要請に応じた意図的な系譜の「再創造」の可能性を示唆している。戦国中期、武田信玄の名声が最高潮に達した時期に、当代の城主である関之兵衛が、自らの父を「武田信綱」と名乗る、あるいは周囲からそう認識されることで、より直接的に武田信玄の威光と結びつこうとしたのではないか。事実、当時の阿波国には、武田信虎の子を称する武田信顕が脇城主として存在しており 14 、阿波において「武田ブランド」が一定の価値を持っていたことが窺える。関之兵衛の系譜に見られる錯綜は、戦国武将が自らの権威を高めるために行った、ダイナミックな自己演出の一環として解釈することができる。
第二節:阿波国内の群雄割拠と周辺豪族との角逐
関之兵衛が城主となった頃、阿波国は守護・細川氏の権威が失墜し、その家臣であった三好氏が畿内から四国東部にかけて覇を唱えていた。しかし、その三好氏の支配も一枚岩ではなく、阿波国内では各地の国人領主が自立性を保ちながら、離合集散を繰り返す不安定な情勢にあった。
このような状況下で、関之兵衛は桑野の地から勢力を拡大し、近隣の牛岐城(現在の富岡城)主であった新開道善(しんかい どうぜん)と、領地の覇権を巡って度々激しい抗争を繰り広げた 11 。この東条氏と新開氏の争いは、守護不在となった阿波国南部における、在地領主同士の熾烈な生存競争の実態を映し出す縮図であった。
第三節:三好勢力との対峙
天正5年(1577年)頃になると、東条氏と新開氏の局地的な対立は、四国全土を巻き込むより大きな権力闘争の枠組みへと組み込まれていく。土佐から破竹の勢いで勢力を伸ばしてきた長宗我部元親と、それに抗する旧来の支配者・三好氏の対立である。この巨大な対立構造の中で、東条関之兵衛は長宗我部氏に属し、対する新開氏は三好氏に与するという構図が生まれ、両者の争いは「三好対長宗我部」の代理戦争の様相を呈するようになった 12 。
この年、三好方である篠原自遁や矢野国村といった武将が新開氏に味方し、桑野城に攻め寄せた。しかし、関之兵衛は、同じく長宗我部と通じていた一宮城主・一宮成祐の協力も得て、この攻撃を見事に撃退している 7 。この一戦は、戦国時代後期の国人領主が置かれた状況を象徴している。もはや単独で生き残ることが困難となった彼らは、三好か長宗我部かという、より大きな勢力のどちらに与するかという重大な戦略的決断を迫られたのである。関之兵衛が、衰退しつつあった三好勢力を見限り、新興の長宗我部勢力に未来を賭けたこの選択は、彼の、そして桑野城のその後の運命を決定づけることになった。
第三章:土佐の波濤 ― 長宗我部元親との邂逅
東条関之兵衛と桑野城の歴史は、土佐の驍将・長宗我部元親との出会いによって、新たな局面を迎える。この関係は、当初の敵対から始まり、やがて強固な同盟へと発展していく。
第一節:元親の阿波侵攻と関之兵衛の決断
天正3年(1575年)、土佐一国を平定した長宗我部元親は、その矛先を隣国の阿波へと向けた。この阿波侵攻の過程で、元親の軍勢は桑野城にも迫った。この時の関之兵衛の対応については、二つの異なる伝承が残されている。
一つは、関之兵衛が果敢に抵抗したものの、長宗我部軍の猛攻の前に敗れ、元親に従属した、というものである 2 。一方で、阿南市に伝わる郷土史によれば、元親が攻め寄せた際、桑野城は堅固で容易に落ちなかったため、力攻めを諦めた元親との間で和睦が結ばれた、ともされている 15 。
これら二つの伝承は一見矛盾するようだが、両立は可能である。野戦で敗れた、あるいは周辺の支城を攻略されて戦略的に孤立した結果、籠城しても勝ち目がないと判断し、城と領民を守るために和睦、すなわち従属の道を選んだと解釈できる。重要なのは、関之兵衛が一方的に蹂躙されたのではなく、一定の抵抗を示した上で、自らの一族と領地を保全するための最も現実的な策として「従属」を選択した点である。これは、戦国武将の冷静な外交判断を示すものと言える。
第二節:婚姻による同盟と長宗我部勢力への編入
従属の証として、関之兵衛は元親の養女(実際には重臣・久武内蔵助の娘)を正室に迎えた 5 。これにより、彼は長宗我部家臣団の一員に組み込まれ、元親からは譜代の家臣同様の厚い信頼を寄せられたという 6 。
この婚姻同盟は、双方にとって大きな戦略的意味を持っていた。元親側から見れば、阿波南部の有力国人である東条氏を一門に準ずる形で取り込むことで、阿波攻略を円滑に進めるための重要な足掛かりを得ることができる。一方、関之兵衛側から見れば、長宗我部という強力な後ろ盾を得ることで、長年の宿敵であった新開氏をはじめとする三好方勢力に対して、圧倒的に優位な立場に立つことが可能となる。この婚姻は、単なる支配と服従の関係を越え、双方に利益をもたらす戦略的パートナーシップの締結を意味した。関之兵衛はもはや単なる降将ではなく、元親の阿波支配における重要な「協力者」としての地位を確立したのである。
第三節:阿波攻略の拠点としての桑野城
この同盟成立以降、桑野城の戦略的価値は大きく転換する。それまで東条氏一族の領地支配の中心であったこの城は、長宗我部氏による阿波国全体の攻略という、より広域的な軍事戦略における「前線基地」としての役割を担うことになった 6 。桑野の地理的位置は、三好氏の本拠地である勝瑞城方面へ進軍するための絶好の拠点であり、また紀伊水道への出口を確保する上でも重要であった。元親が関之兵衛との同盟を重視したのは、彼個人の武勇だけでなく、彼が支配する桑野城という戦略拠点の価値を高く評価していたからに他ならない。
第四節:中富川の合戦と関之兵衛の武功
関之兵衛は、長宗我部方の一員として、元親の期待に応える働きを見せる。天正10年(1582年)、阿波の覇権を事実上決した中富川の戦いにおいて、関之兵衛は牛岐右京進ら阿波の国人衆と共に長宗我部軍の中核として参戦し、三好・十河連合軍を破る上で大きな戦功を挙げた 3 。
この功績により、関之兵衛は元親からさらなる信頼を得て、桑野城から西方城へ、さらに阿波の玄関口ともいえる最重要拠点・木津城の城主へと任じられた 2 。この配置転換は、単なる栄転ではない。木津城は、紀伊水道に面し、畿内からの攻撃を真っ先に受ける防衛の最前線である。元親がこの重要拠点を関之兵衛に任せたことは、彼を単なる阿波南部の案内役ではなく、阿波支配の根幹を担う中核的な武将として最大限に評価し、信頼していたことの証左である。しかし皮肉にも、この厚い信頼こそが、後の関之兵衛の悲劇的な運命の伏線となるのであった。
第四章:天下人の影 ― 桑野城と東条氏の終焉
四国統一を目前にした長宗我部元親と、その配下で武功を重ねる東条関之兵衛。彼らの栄光は、しかし、四国の外から訪れた巨大な権力の前に、脆くも崩れ去ることになる。天下人・豊臣秀吉の影が、桑野城と東条氏の歴史に終止符を打った。
第一節:豊臣秀吉による四国征伐の勃発
天正13年(1585年)、本能寺の変後の混乱を収拾し、天下統一事業を継承した羽柴(豊臣)秀吉は、自らに服属しない長宗我部元親を討伐するため、10万ともいわれる大軍を四国へ派遣した 3 。それまでの阿波国内の勢力争いや、長宗我部氏の四国統一戦争が、いわば「四国内の論理」で動いていたのに対し、秀吉の四国征伐は、全く次元の異なる「天下統一の論理」による軍事行動であった。動員される兵力、物量、戦略の規模は、長宗我部氏が動員できるそれを遥かに凌駕しており、東条氏のような一国衆にとっては、まさに抗う術のない巨大な津波のようなものであった。
第二節:木津城の攻防 ― 最前線に立った関之兵衛
この未曾有の国難に際し、東条関之兵衛は、阿波防衛の最前線である木津城の守将として、豊臣の大軍を迎え撃つという重責を担った 3 。羽柴秀長を総大将とする豊臣軍の猛攻に対し、関之兵衛は寡兵ながらも城兵を鼓舞し、8日間にわたって籠城戦を繰り広げたとされる 5 。圧倒的な兵力差を考えれば、これは彼が武将として最大限の奮戦を見せたことを物語っている。与えられた任務を放棄することなく、命を懸けて城を守ろうとした彼の姿は、武人としての意地と誇りを示すものであった。しかし、その奮戦も、豊臣軍の圧倒的な物量の前には、長くは続かなかった。
第三節:降伏、逃避、そして非情の結末
激しい攻防の末、これ以上の抵抗は無益な殺戮を招くだけと判断した叔父の東条紀伊守(光豊)が豊臣方に降伏を申し入れ、関之兵衛も説得に応じて木津城を開城した 3 。一族と城兵の命を救うための苦渋の決断であった。開城後、関之兵衛は再起を図るべく、本国である土佐へと逃げ帰った 3 。
しかし、主君・長宗我部元親の反応は、関之兵衛の期待とは全く異なる、非情なものであった。元親が関之兵衛に求めていたのは、たとえ負けるとわかっていても、最後まで城を枕に討ち死にし、豊臣軍に少しでも多くの損害を与え、時間を稼ぐ「捨て石」としての役割であった。元親にとって、生きて帰ってきた関之兵衛は、主君の命令を完遂できなかった「敗将」でしかなかった。ここで彼を許せば、他の防衛拠点でも安易な降伏が続出しかねない。組織の規律を維持するため、元親はかつて厚く信頼した武将に対し、非情の決断を下す。土佐浦戸城にたどり着いた関之兵衛は、舎弟の東条唯右衛門と共に、元親の命によって切腹させられた 3 。関之兵衛の現実的な判断と、元親の戦略上の非情な要求との間に生じた致命的な乖離が、この悲劇を生んだのである。
第四節:主を失いし城 ― 天正十三年の廃城
城主・東条関之兵衛の死は、東条一族の滅亡を意味した。そして、主を失った桑野城もまた、その歴史的役割を終える時が来た。豊臣秀吉による四国平定後、阿波国には蜂須賀家政が入国し、徳島城を新たな本拠として築城を開始した 9 。蜂須賀氏による近世的な支配体制が構築される中で、桑野城のような中世的な国人領主の城は不要となり、天正13年(1585年)頃、廃城になったと考えられる 3 。桑野城の廃城は、戦国的な国衆割拠の時代の終わりと、中央集権的な近世社会の始まりを象徴する出来事であった。
第五章:城跡は語る ― 萬福寺と現代に続く記憶
物理的な城郭としての生命を終えた桑野城は、しかし、その記憶を完全に消し去られたわけではなかった。砦は祈りの場へと姿を変え、東条一族の物語は地域の中で静かに語り継がれていく。
第一節:砦から祈りの場へ ― 萬福寺の創建
桑野城の本丸があった船岡山には、現在、高野山真言宗の寺院「船岡山 萬福寺」が建っている 11 。この寺の創建には、東条氏の記憶が深く関わっている。
創建の経緯については、いくつかの伝承がある。一つは、城主・東條実光が長宗我部元親によって「落城させられ」、その城跡に寺を建立したのが始まりである、というものだ 20 。史実では、関之兵衛は木津城で敗れており、桑野城が戦場となった記録はない。しかし、この伝承は、東条一族の悲劇的な最期が、本拠地であった桑野城の「落城」という象徴的な出来事として地域の人々の記憶に刻まれ、語り継がれた結果と解釈できる。戦乱で滅んだ一族の城跡に寺院を建立することは、死者の魂を弔い、その土地の記憶を浄化・鎮魂するという意味合いを持つ。萬福寺の創建には、非業の死を遂げた関之兵衛をはじめとする東条一族への追悼の念が込められている可能性は極めて高い。また、慶長2年(1597年)に中興されたという記録も残っている 2 。
第二節:江戸期から近代へ ― 蜂須賀藩体制下の城跡
江戸時代に入り、阿波国が徳島藩主・蜂須賀氏の治世となると、桑野城跡に建つ萬福寺は、蜂須賀家の老臣である岩田家の祈願所となった 20 。阿波の新たな支配層が、旧領主・東条氏の記憶が残る場所を保護し、自らの祈願所としたことは興味深い。これは、新たな支配者が前代の支配者の歴史を尊重し、その土地に対する支配の連続性を示そうとする意図があった可能性を示唆する。あるいは、岩田家が東条氏と何らかの縁があったのかもしれない。いずれにせよ、城跡が寺院となることで、戦国時代の記憶は断絶することなく、江戸時代を通じて受け継がれていったのである。
第三節:現代に残る桑野城の痕跡
現在、往時の桑野城を直接示す曲輪や堀といった遺構は残っていない。しかし、萬福寺の境内が周囲の土地よりも一段高い地形をなしていることが、かつてこの地に城が存在したことを物理的に物語っている 2 。
そして、その歴史をより明確に今に伝えているのが、境内に建立された石碑である。その碑には「東条関之兵衛城主桑野城跡 別名栗栖城」と刻まれており、訪れる者にこの地が辿った歴史を雄弁に語りかけている 11 。物理的な城は消え去っても、その記憶は石碑という形で地域に根付き、生き続けているのである。
終章:桑野城が映し出す戦国地方豪族の盛衰
桑野城と、その主であった東条一族の歴史は、戦国時代を生きた一地方豪族の典型的な盛衰の軌跡を示している。
遠く甲斐の国から戦乱を逃れて阿波の地にたどり着いた東条氏は、守護・細川氏の被官から身を起こし、やがて桑野の地に城を構え、自立した国人領主へと成長を遂げた。城主・東条関之兵衛の時代には、阿波国内の激しい勢力争いの中で、新興勢力である長宗我部元親に与するという大胆な戦略的決断を下し、その武功によって一時的に勢力を大きく伸長させた。
しかし、その選択は、自らを四国という地域紛争の枠を越え、天下統一という、より巨大な権力闘争の渦中に投じることを意味した。そして最終的には、豊臣秀吉という抗いがたい力の前に、かつて厚い信頼を寄せた主君・長宗我部元親の非情な論理によって滅ぼされるという悲劇的な結末を迎える。
桑野城の歴史は、戦国時代において、地方の小規模な権力(国衆)が、いかにして激動の時代を生き抜こうと図り、そして時代の大きな構造変化の波に飲み込まれていったかを示す、一つの縮図である。その盛衰の物語は、単なる一地方の城郭史に留まらず、戦国乱世から近世統一国家へと移行する日本の社会構造の劇的な変革を映し出す鏡と言えるだろう。
今日、城跡に静かに佇む萬福寺と、歴史を刻む石碑は、物理的な砦が失われた後も、地域の歴史と人々の記憶がいかにして受け継がれていくかを示している。桑野城の物語は、歴史研究の対象として、そして我々が過去と対話するための貴重な遺産として、今後も語り継がれていくべきである。
引用文献
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- 阿波 桑野城(栗栖城。東条関之兵衛の居城) | 筑後守の航海日誌 https://tikugo.com/blog/tokushima/awa_kuwanojo/
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- 勝瑞城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E7%91%9E%E5%9F%8E
- 東条実光 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E5%85%89
- 「久武親信」伊予軍代として元親に最も信頼されていた男 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/305
- 東条関之兵衛実光 -長宗我部元親軍記- https://tikugo.com/chosokabe/jinbutu/awa/tojo-sekino.html
- 中富川の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AF%8C%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
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- 阿波 西方城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/awa/nishigata-jyo/
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- 徳島城の歴史と特徴/ホームメイト https://www.homemate-research-castle.com/useful/16967_tour_048/
- 萬福寺 (阿南市)とは - わかりやすく解説 Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E8%90%AC%E7%A6%8F%E5%AF%BA+%28%E9%98%BF%E5%8D%97%E5%B8%82%29
- 萬福寺 (阿南市) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%AC%E7%A6%8F%E5%AF%BA_(%E9%98%BF%E5%8D%97%E5%B8%82)
- 桑野城の見所と写真・全国の城好き達による評価(徳島県阿南市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/4207/
- 萬福寺 | 徳島県阿南市桑野町岡元の信仰と健康を祈る場所 https://www.funaokazan-manpukuji.com/information.php