桜洞城
飛騨桜洞城は、戦国大名三木氏の揺籃の地。大規模な空堀や石敷き遺構が発掘され、権力と文化を物語る。松倉城築城後は「冬城」として機能。金森長近の飛騨侵攻で落城し、廃城。
飛騨国・桜洞城 ―戦国大名三木氏、興亡の拠点―
序章:飛騨の山河に刻まれた、覇者の夢の跡
本報告書は、飛騨国益田郡(現在の岐阜県下呂市)に位置した桜洞城を、単なる一城郭としてではなく、戦国大名三木氏の興亡を体現する中心的舞台として捉え、その歴史的意義を多角的に解明することを目的とする。築城の背景から構造、機能の変遷、そして落城と廃城に至るまでを、文献史学と城郭考古学の双方の視点から徹底的に考察する。
桜洞城は、飛騨統一という野望を抱いた三木氏の揺籃の地であった。後に勢力の中心が高山盆地へ移った後も「冬城」として重要な役割を担い続けた、特異な存在である 1 。その歴史は、一地方国人が戦国大名へと飛躍し、やがて中央政権の奔流に飲み込まれていく戦国時代の縮図とも言える。本報告書では、この城が飛騨の歴史の中で果たした役割を深く掘り下げ、その実像に迫る。
第一章:戦国前夜の飛騨国 ―動乱の舞台背景―
1. 守護権威の失墜と国人たちの胎動
戦国時代の飛騨国は、複雑な政治情勢下にあった。室町幕府によって任命された守護・京極氏は、本来の拠点である近江国での政争や内紛に忙殺され、飛騨への実効支配力は次第に形骸化していった 3 。これと並行して、古くからの権威であった飛騨国司・姉小路氏も、古川・小島・向の三家に分裂して内紛を繰り返しており、領国を安定的に統治する能力を失っていた 6 。
この守護と国司という二重権威の弱体化は、飛騨国内に「力の真空」を生み出した。中央からの統制が緩んだこの状況は、在地に根を張り、実力を蓄えつつあった国人領主たちにとって、自立し勢力を拡大する絶好の機会となった。桜洞城を築いた三木氏は、まさにこの時代の潮流に乗じて台頭した勢力であり、城の築城は、この「力の真空」を自らの力で埋め、新たな支配者として名乗りを上げるという意志の表明であったと解釈できる。
2. 山国・飛騨の地理的特性と戦略的価値
飛騨国は、四方を険しい山々に囲まれた地理的閉鎖性を持つ 8 。この地形は、外部からの侵攻を防ぐ天然の要害となる一方で、国内の交通を阻害し、統一的な支配を困難にする要因でもあった。信濃、越中、美濃といった隣国と境を接する地政学的な位置は、武田氏や上杉氏といった強大な外部勢力からの干渉を常に招くことにも繋がった 7 。
経済的に見れば、飛騨は米作に適した平野が少ない山国であったが、その一方で木材を中心とする豊かな山林資源や鉱物資源に恵まれていた 11 。戦国時代の軍事行動や城郭普請には莫大な費用が必要であり、これらの地域資源を掌握し、経済力に転換する能力が、在地領主の軍事力を支える重要な基盤となった。三木氏が桜洞城のような大規模な城館を築き、飛騨統一へと乗り出すことができた背景には、こうした飛騨の経済基盤を巧みに活用した統治能力があったと考えられる。桜洞城は、軍事・政治の拠点であると同時に、領国経済を管理するセンターとしての機能も担っていた可能性が高い。
3. 群雄割拠の時代
当時の飛騨は、複数の国人領主が各地で覇を競う群雄割拠の状態にあった。主な勢力としては、益田郡を中心とする南飛騨に拠点を置く三木氏、高原郷(飛騨北東部)を支配する江馬氏、そして白川郷(飛騨北西部)の内ヶ島氏が挙げられる 4 。桜洞城が築かれた南飛騨の益田郡は、三木氏にとってまさにその勢力拡大の出発点であり、飛騨統一への第一歩を記した地であった。
第二章:三木氏の台頭と桜洞城の誕生
1. 近江からの飛来 ―三木氏の出自と飛騨入部―
飛騨三木氏(「みつきし」と読むのが正しいとされる 6 )は、宇多源氏佐々木氏の庶流である多賀氏の家臣であったと伝えられる 5 。彼らは元来、飛騨の在地勢力ではなく、外部から入部した一族であった。
その契機は、応永18年(1411年)に起こった「飛騨の乱」の後、飛騨守護であった京極氏が幕府から恩賞として得た益田郡竹原郷(現在の下呂市)の代官として、三木正頼が近江から派遣されたことに始まる 3 。こうして飛騨に足がかりを築いた三木氏は、主家である京極氏の衰退に乗じて徐々に自立し、在地領主としての地位を固めていった。
2. 飛騨統一の礎を築いた名将・三木直頼
三木氏の勢力を飛躍的に拡大させ、「中興の祖」と称されるのが三木直頼である 13 。直頼の時代、三木氏は飛騨南部をほぼ手中に収め、その武威は国外にも及んだ。特筆すべきは、大永8年(1528年)、隣国信濃の木曾谷へ侵攻し、信濃四大将の一人に数えられた木曾義元を討ち取った戦功である 6 。
直頼の人物像については、勢力拡大に伴う残虐非道な伝承が見られず、むしろ信仰に篤く、情誼に厚い武将であったと評価されている 3 。彼は武力による征服だけでなく、寺社の建立や修造を通じて人心の掌握に努めた形跡があり、優れた統治者としての一面も持ち合わせていた 6 。外来の勢力であった三木氏が飛騨に支配を確立するためには、武力だけでなく、在地社会の支持を取り付けることが不可欠であった。直頼の「名君」としての一面は、支配の正当性を構築し、在地に深く根を下ろすための戦略的な統治術が成功した結果として形成された側面も考えられる。
3. 覇業の拠点、桜洞城の築城
飛騨統一という壮大な目標を掲げた三木氏が、その戦略的拠点として築いたのが桜洞城である 1 。
築城者と年代については、二つの説が存在する。一般には、江戸中期の地誌『飛州志』の記述に基づき、永正年間(1504年〜1521年)に三木直頼が築いたとされている 1 。一方で、昭和初期の郷土史家・角竹喜登は、直頼の祖父である久頼の代から居城として存在し、直頼・良頼の時代に完成されたという説を唱えている 13 。
この築城者にまつわる異説は、単なる年代の相違以上の意味を持つ。久頼築城説は、三木氏が直頼の代に突如として現れたのではなく、祖父の代から着実に在地領主としての基盤を固めていた過程を示唆する。そして直頼完成説は、その基盤の上に立ち、直頼が飛騨統一という明確なビジョンを持って城を大規模に改修・拡張し、単なる国人の居館から戦国大名の拠点へと昇華させたことを意味している。つまり、この二つの説は「在地領主化(久頼)」から「戦国大名化(直頼)」へと至る三木氏の発展段階を象徴しており、桜洞城が一族の野望と共に成長した城であったことを物語っている。
第三章:桜洞城の構造と実像 ―文献と発掘調査から読み解く―
1. 地の利を活かした縄張
桜洞城は、飛騨川とその支流である桜谷川が合流する地点の南側に広がる、海岸段丘の先端部に築かれた平山城である 13 。標高は約420m 2 。城の北側は桜谷川が形成した深い谷、西側は急峻な崖となっており、天然の要害を巧みに利用している 3 。この立地は、街道を抑える交通の要衝でありながら、優れた防御機能も兼ね備えており、築城者の戦略眼の高さが窺える。
2. 『飛州志』に描かれた往時の姿
江戸時代中期の地誌『飛州志』には、桜洞城の城図が収録されており、往時の姿を推測する貴重な手がかりとなっている。それによれば、城の規模は東西約144メートル、南北約180メートルに及び、周囲は空堀で厳重に囲まれていた 16 。さらに、防御の要となる北側と東側には二重の空堀が設けられていたと記されており、単なる居館ではなく、高度な防御思想に基づいて設計された「城館」であったことがわかる。
3. 大地が語る真実 ―2009年発掘調査の成果―
2009年度に下呂市教育委員会によって実施された発掘調査は、文献史料だけでは知り得なかった桜洞城の実像を明らかにした 18 。調査の結果、城内の主要部の規模は南北約147メートル、東西約97メートルと推定された 17 。
特筆すべきは、大規模な空堀の発見である。城の東から南にかけて、長さ約235メートル、最大幅9メートル、深さ2メートルにも達する空堀が確認され、『飛州志』の記述を考古学的に裏付けた 17 。また、出土遺物には天目茶碗や飾り瓦などがあり、城主の格式の高さや文化的背景を物語っている 21 。
さらに注目されるのは、庭園の一部と考えられる石敷き遺構が検出されたことである 22 。これが事実であれば、桜洞城は武威を示す軍事拠点であると同時に、大名の権威と文化性を象徴する空間でもあったことになる。調査報告では、桜洞城が戦国時代の地方武将の居館としては全国で五指に入るほどの規模を誇ることも指摘されており 18 、これは三木氏の勢力が当時、飛騨国内で傑出していたことを示す動かぬ証拠と言える。これらの発見は、桜洞城が単なる防衛施設ではなく、城主の権威、財力、文化的洗練度を内外に誇示する「見せる」ための城であったことを強く示唆している。
4. 石垣か、土の城か ―遺構から推察する城郭の姿―
現在の桜洞城跡は、土塁や空堀が主体となっており、一見すると「土の城」という印象を受ける。しかし、城跡の各所、特に堀の内部などには、飛騨川から運ばれたと思われる川原石が無数に散乱している 3 。このことから、本来は石垣が用いられていた可能性が指摘されている 1 。三木氏が後に築いた松倉城が総石垣に近い城であったことを考慮すると、その前段階である桜洞城にも、飛騨地方の城郭としては先進的な石垣技術が部分的にでも導入されていたと考えるのは自然であろう。
5. 消えた「詰の城」の謎
『飛州志』の城図や発掘調査で明らかになった構造から、桜洞城は日常的な政務や生活を営む「居館」としての性格が強く、戦闘時に最終的な拠点となる「詰の城」ではなかったと考えられる 16 。通常、居館には背後の山などに詰の城がセットで築かれることが多いが、桜洞城の詰の城は現在まで発見されていない 16 。
近隣の山城である桜谷城がその候補として挙げられたこともあるが、距離が離れすぎていることや規模の点から、詰の城としての機能は否定的とされている 24 。この謎は、三木氏の防衛戦略を考察する上で興味深い。詰の城の不在は、防衛意識の欠如を意味するのではなく、むしろ籠城戦を前提としない、より攻撃的な戦略思想の現れであったのかもしれない。桜洞城を前線基地として、常に領国の外へ打って出るという、三木氏の軍事力への自信の裏返しと捉えることも可能であろう。
第四章:戦略拠点としての変遷 ―「冬城」と呼ばれた理由―
1. 北進の拠点・松倉城の築城
三木氏の勢力が飛騨南部から北部へと拡大する中で、桜洞城の役割も変化していく。天正7年(1579年)、三木氏の六代目当主・三木自綱は、飛騨の中心地である高山盆地を一望できる松倉山(標高856.7m)に、新たな本拠として松倉城を築城した 3 。これは、三木氏の支配の中心が、発祥の地である益田郡から、より戦略的価値の高い高山盆地へと完全に移行したことを示す画期的な出来事であった。
2. 豪雪地帯における軍事と統治 ―「夏城・冬城」体制の戦略的意義―
松倉城の築城後、三木氏は松倉城を「夏城」、桜洞城を「冬城」として季節ごとに使い分けるという、ユニークな二城体制を敷いた 1 。この体制が生まれた背景には、飛騨の厳しい気候が大きく関係している。
飛騨国は日本有数の豪雪地帯であり、高地に位置する松倉城は冬になると深い雪に閉ざされ、城へのアクセスや大規模な軍事行動が著しく困難になる 10 。そこで、比較的標高が低く(約420m)、飛騨川沿いの交通路にも近い桜洞城が、冬期間の政務や兵站を担う拠点として活用されたのである。この「夏城・冬城」体制は、単なる季節移動ではなく、支配領域の拡大に伴い、統治システムを高度化させる必要性から生まれたものと言える。高山盆地を抑える軍事拠点(松倉城)と、南飛騨の旧来の基盤を維持しつつ冬期の行政を担う拠点(桜洞城)という機能分化は、飛騨の厳しい自然環境に適応した、極めて合理的で洗練された統治システムであった。これにより、桜洞城の役割は、最前線の軍事拠点から、領国経営を支える政庁・兵站基地へと戦略的にシフトしたのである。
項目 |
桜洞城(冬城) |
松倉城(夏城) |
考察 |
典拠 |
別名 |
萩原城、古城 |
夏城 |
機能を示す呼称 |
1 |
立地 |
飛騨川沿いの段丘上 |
高山盆地南西の山頂 |
平地拠点 vs 山上拠点 |
4 |
標高 |
約420m |
約857m |
冬季のアクセス容易性 |
2 |
城郭形態 |
平山城(居館形式) |
山城 |
居住性・政務 vs 軍事・監視 |
16 |
主な機能 |
冬季の政務・生活拠点、兵站基地 |
夏季の軍事司令部、飛騨全体の監視 |
気候と地理への適応戦略 |
1 |
築城/改修 |
永正年間(1504-21) |
天正7年(1579) |
三木氏の勢力拡大段階を示す |
1 |
遺構の特徴 |
大規模な空堀、土塁、石敷き |
総石垣(推定) |
城郭技術の発展 |
4 |
3. 城主の変遷と役割の変化
自綱が松倉城へ移った後、桜洞城は嫡男の信綱が城主となった 3 。しかし、この信綱は後に父・自綱によって謀反の疑いをかけられ、松倉城で誘殺されるという悲劇に見舞われる 19 。信綱の死後、桜洞城の城主は不明となるが、自綱自身が両城を往来していた可能性も指摘されており 3 、本拠が移った後も桜洞城が三木一族にとって重要な拠点であり続けたことがわかる。
第五章:飛騨の統一と三木氏の落日
1. 梟雄・三木自綱の野望と飛騨統一戦争
父・良頼の跡を継いだ三木自綱は、中央の覇者・織田信長と同盟を結び、鉄砲などの先進的な戦術を積極的に導入した 3 。そして天正10年(1582年)、飛騨の覇権を長年争ってきた宿敵・江馬輝盛との決戦「八日町の戦い」に臨む 29 。この戦いで三木軍が用いた鉄砲の一斉射撃が江馬輝盛を討ち取り、三木氏に決定的な勝利をもたらしたと伝えられている 6 。この勝利により、三木氏は飛騨の大部分をその手中に収め、悲願であった飛騨統一をほぼ成し遂げた。
2. 一族内の亀裂 ―覇業の裏に潜む内紛の影―
しかし、飛騨統一という大事業を成し遂げた直後、自綱は猜疑心からか、一族の粛清に乗り出す。天正11年(1583年)、実の弟であり、鍋山城主として勢力拡大に貢献した鍋山顕綱を、主導権争いの末に殺害 6 。さらに、かつて桜洞城主であった嫡男・信綱までもが顕綱との内通を疑われ、非業の死を遂げたとされる 19 。
この内部粛清は、急激な勢力拡大の過程で、三木氏の支配体制が極めて脆弱なものであったことを示唆している。養子縁組や武力によって強引に支配を広げたため、家臣団や一族内に深刻な軋轢が生じていたのであろう。この内部の脆さが、後に強大な外敵を前にした際、組織的な抵抗を困難にし、早期崩壊を招く一因となったと考えられる。
3. 中央政権の奔流 ―秀吉の天下統一と金森長近の飛騨侵攻―
天正10年(1582年)の本能寺の変で織田信長が横死すると、日本の政治情勢は激変する。三木自綱は、信長の後継者争いにおいて越中の佐々成政と同盟を結び、羽柴(豊臣)秀吉と敵対する道を選んだ 4 。この政治的判断は、あくまで飛騨国内の覇権と隣国との連携という「地方の論理」に基づいたものであったが、秀吉による天下統一という「中央の論理」がすべてを席巻する時代の流れとは逆行するものであった。結果として、この選択が三木氏の運命を決定づけることになる。
天正13年(1585年)、秀吉は佐々成政を討伐する「富山の役」の一環として、配下の武将・金森長近に飛騨への侵攻を命じた 33 。
4. 天正十三年の攻防 ―桜洞城、落城の刻―
金森長近率いる軍勢は、越中から飛騨へと雪崩れ込み、三木方の城を次々と攻略していった 7 。三木氏の栄光の始まりの地であった桜洞城も、この侵攻の中で抵抗むなしく落城した 2 。最終的に、本拠である松倉城も金森軍の前に降伏。当主・自綱は助命されたものの京へ送られ、ここに戦国大名・三木氏は滅亡した 4 。桜洞城の落城は、抗いがたい時代の大きなうねりの中で、一つの地方権力が終焉を迎えた象徴的な出来事であった。
第六章:城の終焉と後世への継承
1. 廃城と新たな支配体制の構築
三木氏に代わり飛騨国の新たな領主となった金森長近は、三木氏の旧体制を払拭し、新たな支配体制を構築することに着手する。長近は三木氏の拠点であった桜洞城を再利用せず、その近隣に新たに萩原諏訪城を築いた 2 。これは、旧体制の象徴である桜洞城を意図的に放棄し、自らの新しい支配を明確に示すための政治的な決断であったと考えられる。これにより、桜洞城はその歴史的役割を完全に終え、天正14年(1586年)頃に廃城となった 3 。
その後、金森氏は飛騨統治の中心として高山城を築城し、大規模な城下町を整備した 7 。これにより、飛騨の政治・経済の中心は、三木氏時代の益田郡から、金森氏時代の高山盆地へと不可逆的に移行した。桜洞城の廃城は、単なる一城の終焉ではなく、飛騨の「権力地図」が完全に塗り替えられたことを象徴する出来事であった。
2. 近代化の波と遺構の変容
廃城後の桜洞城跡は、長い間、田畑として利用されてきた 3 。しかし、近代に入ると、JR高山本線の敷設工事によって城跡の中心部が貫かれ、多くの遺構が失われることとなった 2 。これは、歴史的遺産が近代のインフラ整備によって変容を余儀なくされた典型的な事例である。
3. 史跡としての再評価
破壊と変容の歴史を経ながらも、桜洞城跡に残された土塁や空堀は、その歴史的価値を認められ、現在では下呂市の指定史跡として保護されている 2 。特に、2009年度に実施された発掘調査は、城の正確な規模や構造を明らかにし、その学術的価値を再確認する上で大きな成果を上げた 18 。
4. 桜洞城を訪ねて ―現存遺構の見方と散策の手引き―
現在の桜洞城跡は、北側の桜谷公園から遊歩道を通って訪れることができる 3 。主郭部分は田畑となっているが、北西部には往時を偲ばせる土塁や空堀、石塁の跡が比較的良好な状態で残っている 2 。JR高山本線の飛騨萩原駅からは徒歩約20分の距離にある 2 。
散策の際には、三木氏の菩提寺であり、直頼の位牌や一族の墓が残る禅昌寺 14 や、金森長近が築いた萩原諏訪城跡 35 と合わせて訪れることで、三木氏の興亡から金森氏による新時代への移行という、飛騨戦国史のダイナミックな転換をより深く体感することができるだろう。
終章:桜洞城が物語るもの
桜洞城は、飛騨の山間に咲き、そして散っていった戦国大名・三木氏の栄光と悲劇の物語を凝縮した史跡である。その歴史的意義は、以下の四点に集約される。
第一に、一地方国人が戦国大名へと成長する過程を体現する「揺籃の地」であった点。第二に、発掘調査で明らかになったその壮大な規模と構造が、最盛期の三木氏の権力と財力を雄弁に物語る点。第三に、「冬城」としての特異な役割が、飛騨の厳しい自然環境が戦国時代の統治戦略に与えた影響を示す、全国的にも貴重な事例である点。そして第四に、その落城と廃城が、戦国末期の地方勢力が中央の巨大な権力に飲み込まれていく時代の必然を象徴している点である。
近代化の波によってその姿を大きく変えながらも、今なお大地に残る土塁や空堀は、訪れる者にかつての覇者の夢の跡を語りかける。桜洞城の歴史は、地域のアイデンティティを形成する上で歴史遺産がいかに重要であるか、そしてそれを未来へ継承していくことの意義を、我々に静かに問い続けている。
年表:桜洞城と三木氏の興亡
年代(西暦) |
元号 |
主要な出来事 |
関連人物 |
典拠 |
1411年 |
応永18年 |
飛騨の乱後、三木正頼が京極氏被官として飛騨入部 |
三木正頼 |
3 |
1504-21年 |
永正年間 |
桜洞城築城(三木直頼または久頼による) |
三木直頼, 三木久頼 |
1 |
1528年 |
大永8年 |
三木直頼、信濃に侵攻し木曾義元を討つ |
三木直頼 |
6 |
1554年 |
天文23年 |
三木直頼没。弟の良頼が家督継承 |
三木直頼, 三木良頼 |
3 |
1560年 |
永禄3年 |
三木良頼、姉小路(古川)姓を名乗る |
三木良頼 |
5 |
1572年 |
元亀3年 |
三木良頼没。子の自綱が家督継承 |
三木良頼, 三木自綱 |
3 |
1579年 |
天正7年 |
三木自綱、松倉城を築き本拠を移す。桜洞城は「冬城」となる |
三木自綱 |
3 |
1582年 |
天正10年 |
八日町の戦い。三木自綱が江馬輝盛を破る |
三木自綱 |
6 |
1583年 |
天正11年 |
三木自綱、弟の鍋山顕綱を殺害。飛騨統一を完了 |
三木自綱 |
6 |
1585年 |
天正13年 |
金森長近が飛騨侵攻。桜洞城落城、三木氏滅亡 |
金森長近, 三木自綱 |
3 |
1586年頃 |
天正14年頃 |
萩原諏訪城築城に伴い、桜洞城廃城 |
金森長近 |
3 |
2009年 |
平成21年 |
下呂市教育委員会による発掘調査実施 |
- |
18 |
引用文献
- 桜洞城 http://chiezoikomai.umoretakojo.jp/gifu/hida/sakurabora.html
- 桜洞城の見所と写真・100人城主の評価(岐阜県下呂市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/311/
- 桜洞城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/chubu/sakurabora.j/sakurabora.j.html
- 三木氏の城跡・松倉山 http://www.hidatakayama.ne.jp/yamagatari/yamagatari/katari/matsukura.htm
- 姉小路氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%89%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E6%B0%8F
- 武家家伝_三木氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/miki_k.html
- 君は戦国飛騨を知っているだろうか。鎌倉・室町の名家から戦国、織豊政権を経て、江戸時代の天領まで目まぐるしく入れ替わる土地が、今も懐かしさを留めて進化を続ける飛騨市(岐阜県)で体感できるぞ - エリアLOVE WALKER https://lovewalker.jp/elem/000/004/205/4205684/
- 三木自綱(みき よりつな) 拙者の履歴書 Vol.259~山城に生き - note https://note.com/digitaljokers/n/nb27e39bca93c
- 桜洞城 - 武田家の史跡探訪 https://mogibushi.com/gifu/gero/sakuraborajo/
- 【岐阜県の歴史】戦国時代、"岐阜"では何が起きていた? 美濃の蝮・斎藤道三の下克上 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=3Q4WSYnyYpE
- 飛騨高山の基礎を築いた金森長近公|特集 https://www.hidatakayama.or.jp/kanamori_nagachika500
- 第1章 高山市の歴史的風致形成の背景 https://www.city.takayama.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/002/176/3ki_02.pdf
- 飛騨 桜洞城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/hida/sakurabora-jyo/
- 三木直頼 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E7%9B%B4%E9%A0%BC
- 桜洞城 三木直頼、戦国飛騨平定の始まりの拠点 | 岐阜新聞デジタル https://www.gifu-np.co.jp/articles/-/30152
- 桜洞城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E6%B4%9E%E5%9F%8E
- 桜洞城|観光スポット - 岐阜の旅ガイド https://www.kankou-gifu.jp/spot/detail_8428.html
- 【岐阜県】桜洞城の歴史 飛騨統一をした三木氏の拠点…秀吉方の金森長近の攻撃で落城した後は廃城へ | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/695
- 桜洞城(岐阜県下呂市)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/4735
- 【桜洞城】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet https://www.jalan.net/kankou/spt_21581af2170133176/
- 第3章 岐阜城跡の調査 https://www.city.gifu.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/005/558/hozonkatuyou345.pdf
- 2057 桜洞城 - KAGAWA GALLERY-歴史館 https://rekishi.kagawa5.jp/2057%E3%80%80%E6%A1%9C%E6%B4%9E%E5%9F%8E/%E5%B2%90%E9%98%9C%E7%9C%8C/
- 桜洞城 - 金森戦記 金森長近 https://kanamorisennki.sakura.ne.jp/hidasiro-new/sakurabora/sakurabora.html
- 桜谷城 - 金森戦記 金森長近 https://kanamorisennki.sakura.ne.jp/hidasiro-new/sakuratani/sakuratani.html
- 【岐阜県】松倉城の歴史 7mを超える石垣の遺構が残っている?飛騨国の難攻不落の城 https://sengoku-his.com/1765
- 『高山陣屋』の歴史と見どころを徹底解説!江戸時代の飛騨高山を巡る旅 https://www.hidatakayama.or.jp/blog/detail_79.html
- 井戸城 今井城 坪之内城 桜洞城 萩原諏訪城 下呂森城 乗政城 御厩野口留番所 大威徳寺 余湖 http://yogochan.my.coocan.jp/gihu/gerosi01.htm
- マイナー武将列伝・三木自綱 - BIGLOBE https://www2s.biglobe.ne.jp/gokuh/ghp/busho/bu_0003.htm
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- 【合戦地をゆく】飛騨の関ケ原の戦い 八日町の戦い - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=IGwZ0Z4MAWU
- 自綱、武力制圧で再統一 牛丸氏や広瀬氏を討伐 戦国飛騨をゆく(52) - 岐阜新聞 https://www.gifu-np.co.jp/articles/-/139675
- 姉小路氏とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%A7%89%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E6%B0%8F
- 金森戦記 金森長近 https://kanamorisennki.sakura.ne.jp/
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- 禅昌寺ゆかりの梅 - 岐阜県観光連盟 https://www.kankou-gifu.jp/spot/detail_6443.html
- 禅昌寺 (下呂市) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%85%E6%98%8C%E5%AF%BA_(%E4%B8%8B%E5%91%82%E5%B8%82)
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