最終更新日 2025-08-21

椎津城

椎津城は、房総半島の要衝に位置し、陸海交通を掌握する戦略拠点。真里谷武田氏の内訌、北条と里見の激しい争奪戦の舞台となった。小田原征伐で落城し廃城となるが、最後の城将・白幡六郎の悲話と「からだみ」の伝承が今に語り継がれる。

房総争乱の要衝 ― 椎津城の興亡と実像

序論:東京湾を見据えた戦略拠点

日本の戦国時代、数多の城郭が興亡を繰り返したが、その中でも上総国市原郡に位置した椎津城は、単なる一地方の城という枠を遥かに超え、関東、とりわけ房総半島の覇権争いの趨勢を映し出す鏡のような存在であった。その歴史は、在地領主の台頭から、戦国大名間の激しい角逐、そして天下統一という巨大な歴史の奔流に至るまで、戦国という時代の力学を凝縮している。本報告書は、この椎津城について、その起源から終焉、さらには現代に続く記憶までを、文献史料と考古学的知見の両面から徹底的に分析し、その多層的な実像を明らかにすることを目的とする。

椎津城が歴史の表舞台で重要な役割を果たし続けた根源は、その傑出した地政学的位置にある。城は、房総半島を南北に貫く主要幹線「房総往還」を眼下に見下ろす台地の先端に築かれており、陸上交通の動脈を完全に掌握することが可能であった 1 。さらに、かつては東京湾(当時は江戸内海と呼ばれた)に直接面し、天然の良港である「椎津湊」を擁していた 2 。これにより、椎津城は陸路のみならず、中世における大量輸送の主役であった海路をも扼する、水陸両用の要衝としての機能を有していたのである 1

この地理的優位性こそが、椎津城を巡る争奪戦が絶えなかった本質的な理由である。城を支配することは、単に一つの拠点を手中に収めることを意味しない。それは、房総半島における物資、情報、そして軍事力という三つの要素が集散・通過する「結節点」を支配することに他ならなかった。上総武田氏(真里谷氏)、安房里見氏、そして小田原北条氏という、房総の覇権を争った歴代の支配者たちが、この城を巡って幾度となく血を流したのは、この地の持つ経済的・軍事的生命線を巡る争いであったからに他ならない 2 。椎津城の価値は、その堅固な防御施設のみならず、この「結節点」としての機能にこそ、その本質があったのである。

第一章:椎津城の黎明 ― 諸説と史料に見る起源

椎津城の起源は単一の伝承に収斂せず、その多岐にわたる築城説自体が、この地が古くから戦略的に重要視されていたことの証左となっている。主な説として、以下の三つが挙げられる。

第一に、相模三浦一族による築城説である。これは、建武2年(1335年)に三浦高継が椎津を所領とし、その後の応仁年間(1467年~1469年)に三浦定勝が築城したとするもので、南北朝時代から室町時代にかけての三浦氏の房総半島への影響力を示唆している 8

第二に、上総武田氏(真里谷氏)による築城説である。康正2年(1456年)、甲斐武田氏の一族である武田信長が古河公方の命を受けて上総に進出し、その過程で真里谷武田氏の拠点として築いたとする説であり、戦国時代の椎津城の直接的な前史として最も有力視されている 8

第三に、在地領主である椎名氏による築城説である。「椎津」という城名から、千葉氏の一族である椎名胤仲(椎津三郎)の居城であった可能性を指摘するもので、さらに古い時代における在地勢力の存在を示唆している 8

これらの築城説は、一見すると互いに矛盾しているように映る。しかし、「築城」という概念を、一度きりの建設行為ではなく、時代と共に繰り返される改修・拡張の過程として捉え直すことで、これらの説は一つの重層的な歴史像として統合され得る。すなわち、まず椎名氏のような在地領主が構えた小規模な「館」や「砦」が存在し、それを南北朝・室町期に三浦氏が軍事拠点として改修、そして戦国期に入り真里谷武田氏が本格的な城郭として大規模に整備した、という段階的な発展モデルを想定することが最も合理的である。

この発展過程を裏付けるように、文献史料や考古遺物は、城の古くからの歴史を物語っている。城跡からは、南北朝時代の「暦応3年(1340年)12月」と刻まれた板碑があったと伝えられており(現在は所在不明)、この時期には既に何らかの宗教的、あるいは軍事的な施設が存在した可能性が高い 12 。また、同じく城跡から出土し、現在は市原歴史博物館に保管されている二基の宝篋印塔は、その様式から14世紀第4四半期から15世紀前半の造立と推定されており、この地の歴史の深さを物語っている 13

さらに、戦国時代初期の動向を具体的に示す一級史料として、「足利高基感状写」の存在が挙げられる 12 。永正16年(1519年)、古河公方・足利高基が、対立する小弓公方・足利義明方の拠点であった椎津城を攻撃した際、軍功のあった武将たちに与えた複数の感状(感謝状)が写しとして現存しているのである 12 。これは、椎津城が戦国初期の関東公方間の争いにおいて、既に明確な軍事拠点として認識され、機能していたことを示す動かぬ証拠である。

このように、複数の築城説は「誰が最初にゼロから築いたか」という単一の問いへの答えではなく、椎津城が時代と共にその役割を変えながら発展してきた、重層的な歴史そのものを反映していると結論付けられる。

第二章:真里谷武田氏の拠点、そして内訌の舞台へ

戦国時代に入り、椎津城の歴史を大きく動かしたのは、甲斐武田氏の流れを汲む上総武田氏、通称「真里谷氏」であった。彼らは上総国に深く根を張り、真里谷城(現在の木更津市)を本拠としながら勢力を拡大し、椎津城をその重要な支城の一つとして位置づけた 10 。しかし、この真里谷氏を襲った家督相続を巡る内紛、いわゆる「天文の内訌」は、椎津城を悲劇の舞台へと変貌させ、房総半島全土を巻き込む大乱の引き金となった。

内訌は、真里谷城主の座を巡る武田信応と、その甥にあたる椎津城主・武田信隆(後の城主・信政の父)との間で勃発した 10 。この一族内の争いは、当時の関東の二大勢力を巻き込むことで、瞬く間に代理戦争の様相を呈した。信応は小弓公方・足利義明と安房の里見義堯を後ろ盾とし、対する信隆は古河公方・足利高基と、関東へ急速に勢力を伸ばしていた小田原の北条氏綱を頼ったのである 10

この外部勢力の介入は、地方領主の内紛がもたらす不可逆的な変化を象徴している。当初は一族内の問題であったはずの争いは、北条・里見という巨大な力の磁場に引き込まれた瞬間、もはや真里谷氏自身の手で収拾することは不可能となった。彼らにとって家督問題は口実に過ぎず、真の目的は上総への勢力拡大にあったからである。

天文3年(1534年)、信応は足利義明の援軍を得て、信隆の籠る椎津城を包囲した。この攻防戦は激戦となり、城兵百余人が討たれたことが、当時の僧の記録である「快元僧都記」に生々しく記されている 12 。そして天文6年(1537年)、ついに椎津城は里見・足利連合軍の猛攻の前に陥落。城主・信隆は北条氏を頼り、武蔵国金沢へと落ち延びていった 10

しかし、戦局は翌天文7年(1538年)の第一次国府台合戦で劇的に転回する。この決戦で北条氏綱は足利義明・里見義堯の連合軍に圧勝し、総大将の義明自身が討死するという結末を迎えた 10 。これにより小弓公方勢力は壊滅的な打撃を受け、椎津城の運命も再び反転する。北条氏という強力な後ろ盾を得た信隆は椎津城主に返り咲き、城は事実上、北条氏の対里見氏、ひいては房総半島全体に対する橋頭堡としての性格を色濃くしていくことになった 10

結果として、内訌の勝者となったはずの信隆とその一族は、北条氏への従属を余儀なくされ、独立した戦国領主としての地位を失った。この一連の過程は、戦国時代において地方の小勢力が中央の大勢力に飲み込まれていく典型的なパターンであり、椎津城はその悲劇的なプロセスが繰り広げられた、象徴的な舞台であったと言える。

第三章:血戦の記憶 ― 天文二十一年の攻防

第一次国府台合戦で手痛い敗北を喫した里見義堯であったが、その後、本拠である安房で着実に勢力を回復させ、再び上総・下総への進出を虎視眈々と狙っていた 16 。これに対し、関東の覇権確立を目指す北条氏康は、里見氏の北上を強く警戒し、上総の国人衆、とりわけ椎津城主となっていた真里谷信政(信隆の子)や万喜城主・土岐頼定らと連携して、里見氏を一気に滅ぼそうと画策した 10 。房総の覇権を巡る両雄の緊張が最高潮に達する中、天文21年(1552年)、椎津城を舞台とする壮絶な合戦の火蓋が切られた。

事の発端は、万喜城主・土岐頼定の裏切りであった。彼は北条氏康からの協力の呼びかけに応じず、その密約の内容を里見義堯に通報したのである 16 。これを千載一遇の好機と捉えた里見義堯・義弘親子は、ただちに兵を動員。正木時茂や土岐頼定らを先鋒とし、一万八千ともいわれる大軍を率いて、電撃的に椎津城へと進軍した 8

完全に孤立した椎津城主・真里谷信政は、小田原からの北条氏の援軍を得てこれを迎え撃つ。信政は、城から五町(約550メートル)ほど離れた丘陵(勝望山と伝えられる)を楯として城外に打って出て、決戦を挑んだ 10 。しかし、里見軍の圧倒的な兵力の前に椎津勢は大敗を喫し、信政は辛うじて城内へと退却した。もはやこれまでと覚悟を決めた信政は、自ら城に火を放ち、燃え盛る炎の中で自刃して果てた 8 。この戦いは、双方合わせて千四百人もの死傷者を出す、極めて熾烈なものであったと記録されている 2

この合戦の様子は、『房総里見軍記』や『房総軍記』、『里見代々記』といった後世の軍記物に詳しく、そして dramatic に描かれている 12 。物語的な脚色が含まれるとはいえ、その記述は合戦の規模と激しさを雄弁に物語っている。そして、その記述を裏付けるかのように、城跡の発掘調査では焼け米やおびただしい数の人骨が出土しており、城が炎上し、多数の死者が出たという歴史の記憶を物理的な証拠として現代に伝えている 20

父・信隆の代から続く大勢力間の争いに翻弄され続けた真里谷信政の最期は、戦国時代の地方領主が迎える過酷な運命を象徴するものであった。この勝利によって、上総国の大部分は一時的に里見氏の勢力圏となり、義堯は重臣の木曾左馬充を新たな椎津城の守将として配置した 10 。そして、信政の死をもって、上総に勢力を誇った真里谷武田氏の嫡流は、事実上、歴史の舞台から姿を消すこととなる 15 。この天文21年の戦いは、単なる一つの城の争奪戦ではなく、房総半島における北条・里見のパワーバランスを一時的に覆し、在地勢力であった真里谷氏を完全に滅亡へと追いやった、決定的な戦いであったと言えるだろう。

第四章:北条氏の最前線基地 ― 繰り返される争奪と改修

天文21年の合戦で里見氏の手に落ちた椎津城であったが、房総半島における北条氏と里見氏の熾烈な覇権争いは、これで終わりを迎えたわけではなかった。むしろ、城は両勢力の最前線として、より一層激しい争奪の対象となっていく。

転機となったのは、永禄7年(1564年)の第二次国府台合戦である。この戦いで里見義弘が北条氏康・氏政親子に再び大敗を喫すると、勢いに乗る北条軍は房総へ追撃を開始し、椎津城を奪還した。城を守っていた里見方の木曾左馬介は敗走を余儀なくされた 12 。この時、敗走する里見義弘が、援軍として参陣していた太田資正(三楽斎)と共に一時的に椎津城に入ったという記録も残されている 12

その後も城を巡る一進一退の攻防は続いたが、天正5年(1577年)頃には、ついに椎津城は北条氏の属城として完全に定着したと見られている 9 。この時期のものとされる「酒井伯耆守宛 北条氏政書状」の写しには、北条氏が有木城(有吉城)を築いて配下の椎津氏を置き、下総・相模の兵を入れて守りを固めている状況が記されており、里見氏がこれを脅威と見なしていた様子がうかがえる 21

対里見氏の最前線基地という新たな役割を与えられた椎津城は、北条氏の手によって大規模な改修、すなわち「大普請」が施されたと考えられる。発掘調査では、天文21年の落城と、それに続く永禄3年(1560年)頃の大規模な造成工事の痕跡が示唆されており、これが北条氏による城の機能強化、いわゆる「椎津大普請」の実態を示すものである可能性がある 12

現在の城跡に残る、敵の直進を許さない巧妙な枡形状の虎口(城門)、郭内からの高さが6メートルにも及ぶ高土塁、そして横堀と竪堀を巧みに組み合わせた堅固な防御施設群は、北条氏が得意とした築城術、いわゆる「北条流築城術」の特徴を色濃く反映していると指摘されている 22 。これらの改修は、来るべき里見氏との決戦を見据え、最前線である椎津城を徹底的に要塞化しようという北条氏の明確な戦略的意図の表れであった。

北条氏の支配下において、椎津城は原氏や高城氏といった有力家臣団が交代で守備にあたる「番城」としての役割を担っていた可能性も高い 22 。こうして椎津城は、真里谷氏の居城から、関東の覇者・北条氏が房総を支配するための、巨大な軍事ネットワークの重要拠点へと変貌を遂げたのである。

現在の椎津城跡に残る遺構は、単一の時代の産物ではない。それは、真里谷武田氏時代の比較的素朴な構造の上に、北条氏がより先進的で堅固な防御施設を付け加えていった「歴史の地層」そのものである。支配者の変遷と共に城の戦略的役割が変化し、それに伴って改修が繰り返された結果、今日の椎津城の姿が形成された。城郭の構造そのものが、房総争乱の歴史を雄弁に物語っているのである。

第五章:城郭の構造分析 ― 考古学が語る椎津城

椎津城は、その激しい争奪戦の歴史だけでなく、城郭構造そのものにも特筆すべき特徴を有している。文献史料が語る歴史を、考古学的知見は物理的な証拠として裏付け、時には新たな視点を提供する。

縄張りの全体像

椎津城の縄張り(城郭の設計)は、東京湾に向かって舌のように突き出た台地の地形を最大限に活用している。基本構造は、台地を三条の大規模な空堀で分断し、複数の郭(くるわ)を直線的に配置した「連郭式」と呼ばれる形態である 1 。城の中枢部は台地の最高地点(標高約31メートル)である東側に置かれた主郭(I郭)であり、その西側に二の郭(II郭)が続く 23 。さらに、南側の急峻な斜面にも腰郭などが巧みに配置されていたと推定される 20 。主郭の北側には土塁を伴う広い平坦面が確認されており、城主の館や兵員の駐屯施設などが存在したと考えられている 20

特筆すべき遺構

椎津城の構造で最も注目すべきは、既存の地形や施設を巧みに転用・再利用している点である。

  • 古墳の利用: 椎津城の最大の特徴は、城の基盤として葉木舞台古墳群(前方後円墳1基、円墳3基と推定)を全面的に取り込んでいることである 3 。古墳時代の豪族の墓である墳丘の盛り土をそのまま土塁として利用したり、最も高い前方後円墳を物見台として再利用したりと、築城における驚くべき合理性と工夫が見て取れる 10 。これは、限られた時間と労力で最大限の防御効果を得るための、戦国期ならではの現実的な選択であった。
  • 防御施設: 城の防御力は、多彩な堀と土塁、そして巧妙な虎口(城門)によって高められていた。
  • 堀: 主郭の南側には、尾根筋を断ち切るための「堀切」や、断面がV字型をした「薬研堀」が確認されている 3 。さらに、城の南西に位置する五霊台地区の発掘調査では、敵兵の横移動を妨げるために複数の畝(うね)を設けた「畝堀」という、より高度な防御施設も検出されており、北条氏による改修の痕跡と考えられる 25
  • 土塁と虎口: 主郭の周囲は、切り落としたような急斜面と高く盛り上げられた土塁によって固められている 3 。城への入り口である虎口は、主郭の南東側と西側の低地からの登城路に遺構が残り 20 、特に北条氏の改修によって築かれた可能性のある、内部が鉤型に折れ曲がる複雑な「枡形虎口」は、侵入した敵を三方から攻撃できる極めて高い防御力を誇ったと推測される 22

発掘調査の成果

千葉県や市原市によって行われた複数回の発掘調査は、椎津城の実像を解明する上で多大な成果を上げている。出土した遺物は、城が機能していた時代や、そこで繰り広げられた歴史を雄弁に物語る。

表1:椎津城跡における主要な発掘調査成果

調査地区

主な遺構

主な出土品

時代

示唆される事柄

主郭部

建物跡、土塁、堀切

16世紀の陶磁器類、鉄釘

戦国時代

城の中枢機能、北条・里見氏時代の活発な使用 1

五霊台地区

畝堀、空堀、土壙墓、竪穴建物跡

人骨、焼米、和鏡(鎌倉期)、縄文貝塚

縄文~戦国時代

激しい戦闘の痕跡、城郭以前からの重層的な土地利用 12

椎津外郭古墳

前方後円墳(推定)

櫛描き文様の埴輪片

古墳時代

城郭の基盤となった古墳の存在と、その築造年代の手がかり 23

その他

-

五輪塔、板碑(伝)

南北朝~戦国時代

城郭、またはその周辺における中世の宗教活動 12

特に、五霊台地区で発見された人為的に埋め戻された堀の跡は、落城後に城の軍事機能を無力化する「破城」が行われた可能性を示唆しており、豊臣秀吉による小田原征伐後の措置を彷彿とさせる 26 。このように、考古学調査は文献史料の記述を裏付けると共に、文字には残されなかった城の実態を明らかにし、椎津城の歴史に揺るぎないリアリティを与えている。

第六章:終焉と伝説 ― 小田原征伐と城将たちの末路

戦国乱世を駆け抜けた椎津城の歴史は、天正18年(1590年)、豊臣秀吉による天下統一事業の総仕上げである小田原征伐によって、その幕を閉じることとなる。城の物理的な終焉は、しかし、地域における新たな記憶と伝説の始まりでもあった。

小田原征伐と椎津城の落城

この年、秀吉は自ら率いる本隊で北条氏の本拠・小田原城を包囲する一方、浅野長政(長吉)らを将とする別動隊を房総方面へと派遣した 28 。その目的は、北条方の支城ネットワークを解体し、小田原城を完全に孤立させることにあった。当時、主だった武将の多くが小田原城に籠城していたため、房総の諸城は「空城同然」の状態であり、豊臣軍の圧倒的な兵力の前に次々と攻略されていった 17

房総における北条氏の重要拠点であった椎津城も例外ではなく、浅野長政軍の攻撃を受けて陥落した 10 。この落城をもって、椎津城はその軍事拠点としての長い歴史に終止符を打ち、廃城となったのである 9

最後の城代をめぐる二つの伝承

椎津城の最期を看取った城将については、史料によって異なる二つの名が伝えられており、落城時の混乱を今に伝えている。

一つは、『市原郡誌』などに記された「白幡六郎」説である 12 。これによれば、最後の城代は北条氏の家臣・白幡六郎であったとされる。彼は奮戦及ばず城を落ち、追撃を受けながら3キロメートルほど北東の白塚村(現在の市原市白塚)まで敗走したが、そこで力尽き討ち死にしたと伝えられる 10

もう一つは、『御府内備考』に見られる「在竹彦四郎」説である 12 。この史料は、永禄7年の第二次国府台合戦で討死した在竹摂津守の子・彦四郎が父の功績によって椎津城を与えられ、小田原征伐の際に城を枕に討死したと記している。

これら二つの異なる伝承は、どちらか一方が誤りであると断定するよりも、落城時の混乱の中で記録が錯綜した結果と見るべきかもしれない。あるいは、一方が城主(城将)で他方が城代(城番)といった役割分担があった可能性も考えられる。いずれにせよ、複数の名が伝えられていること自体が、椎津城の終焉の壮絶さを物語っている。

地域に根付く「白幡六郎」の記憶

歴史の記録としては錯綜している一方で、地域社会の記憶、すなわち伝説や民俗として、より強く後世に語り継がれたのは白幡六郎であった。彼は領民から深く慕われた名君であったとされ、その悲劇的な最期を悼む数々の伝承が椎津の地に今なお息づいている 30

その最も象徴的な例が、椎津地区に伝わる「からだみ(空荼毘)」という独特の葬送儀礼である 12 。これは、毎年8月15日のお盆の夕方に、遺体の入っていない空の棺桶を担いで葬列を組むという奇妙な行事であるが、その起源は、領民たちが敬愛する六郎の死を悼み、新しい領主の目を欺いて密かに行った「遺体なき葬儀」に由来するとされている 30

さらに、六郎を祭神として祀る「白幡神社」や、彼が埋葬されたという塚に由来する「白塚」という地名は、彼の記憶を地域の景観に刻み込んでいる 30 。城という物理的な存在が消滅した後も、最後の城将の物語は人々の心に生き続け、数百年後の現在に至るまで地域共同体のアイデンティティの一部として機能し続けているのである。椎津城の歴史を語る上で、軍記や公式記録といった「歴史」だけでなく、地域に根付いた「記憶」や「伝承」を併せて考察することは不可欠である。城の終焉は、同時に地域における新たな物語の始まりでもあったのだ。

結論:椎津城が戦国史に刻んだもの

上総国椎津城の歴史は、一城郭の興亡に留まらず、戦国時代という激動の時代そのものを映し出す縮図であった。その黎明期は、在地領主の館から、関東の有力勢力が関与する軍事拠点へと変貌を遂げる過程を示し、真里谷武田氏の時代には、一族の内訌が外部の巨大勢力を引き込み、自らがその渦に飲み込まれていくという、戦国期に頻出した悲劇の舞台となった。そして、房総の覇権を巡る北条氏と里見氏の角逐においては、両者の勢力がぶつかり合う最前線として、幾度となく血で血を洗う争奪戦が繰り広げられた。その終焉は、豊臣秀吉による天下統一という、戦国時代の終わりを告げる大きな歴史的画期と完全に同期している。

城郭史の観点から見ても、椎津城は極めて興味深い事例である。古代の古墳群を城の基盤として巧みに利用した縄張りは、築城における合理性と創造性を示す顕著な例であり、また、北条氏による大規模な改修で加えられたとされる枡形虎口や高土塁、畝堀といった防御施設は、戦国時代末期の高度な築城技術を今に伝えている。

戦国時代の終焉と共にその軍事的な役割を終えた椎津城であったが、その歴史的価値が失われたわけではない。現在、城跡は千葉県および市原市の史跡に指定され、その重要性が公的に認められている 32 。特筆すべきは、その保存活動が行政のみならず、「史跡椎津城跡を守る会」をはじめとする地域住民の有志や、地元の姉崎高校の生徒たちの協力によって支えられている点である 33 。これは、史跡が単なる過去の遺物ではなく、地域共同体の誇りとして、未来へと継承されるべき「生きた遺産」であることを示している。

また、新たに開館した市原歴史博物館では、城跡から出土した宝篋印塔などの貴重な文化財が適切に保管・展示され、椎津城の歴史を広く一般に伝え、さらなる学術研究を促進する拠点としての役割を担っている 13

椎津城は、房総の戦国史を、ひいては日本の戦国時代を理解する上で欠くことのできない第一級の史跡である。今後も文献史学と考古学の連携による調査・研究がさらに進められることで、この地に刻まれた歴史の層は、より一層豊かな物語を我々に語りかけてくれるに違いない。

参考文献

  • 『市原郡誌』
  • 『房総里見軍記』
  • 『房総軍記』
  • 『里見代々記』
  • 『里見九代記』
  • 『快元僧都記』
  • 『御府内備考』
  • 千葉県文化財センター. 1990. 『千葉県中近世城跡研究調査報告書 第10集 椎津城跡・大堀城跡発掘調査報告』.
  • 市原市文化財センター. 1998. 『市原市五霊台遺跡』. 財団法人市原市文化財センター調査報告書第64集.

引用文献

  1. 椎津城跡/市原歴史博物館 https://www.imuseum.jp/maibun/map/iseki_file/5/237.html
  2. 姉埼神社殺人事件 https://ozozaki.com/kabeyama/wp-content/uploads/2023/06/anegasaki.pdf
  3. 椎津城 - 埋もれた古城 表紙 http://umoretakojo.jp/Shiro/Kantou/Chiba/Shiidzu/index.htm
  4. 千葉市立郷土博物館:研究員の部屋 https://www.city.chiba.jp/kyodo/katsudo/kenkyuin.html
  5. AN-06 椎津城跡 - 市原歴史博物館 https://www.imuseum.jp/field_museum/1/coursserch/anesaki/877.html
  6. 【市原市】椎津城跡整備に援軍来たる! 姉崎高校生徒が看板・標柱を贈呈 - シティライフ https://www.cl-shop.com/citylife/citylife/ichihara/2019/05/30/31216/
  7. 椎津城 - 城郭図鑑 http://jyokakuzukan.la.coocan.jp/013chiba/146shiitsu/shiitsu.html
  8. 市原郡内の城址における里見一族との関係 https://fururen.net/wp-content/uploads/2024/05/%E5%B8%82%E5%8E%9F%E9%83%A1%E5%86%85%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E9%87%8C%E8%A6%8B%E4%B8%80%E6%97%8F%E3%81%A8%E3%81%AE%E9%96%A2%E4%BF%82.pdf
  9. 上総 椎津城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/kazusa/shiizu-jyo/
  10. 椎津城 https://fururen.net/siryoukan/tenji/iseki/siizu/siizu.htm
  11. 椎津城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/1003
  12. 椎津城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8E%E6%B4%A5%E5%9F%8E
  13. [ID:13314] 宝篋印塔 : 資料情報 | 市原電脳博物館 | 市原歴史博物館・市原市埋蔵文化財調査センター https://jmapps.ne.jp/iom/det.html?data_id=13314
  14. 武家家伝_里見氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/satomi.html
  15. 真里谷信政- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E7%9C%9F%E9%87%8C%E8%B0%B7%E4%BF%A1%E6%94%BF
  16. 真里谷武田氏の滅亡~里見義堯の椎津城の戦い - 今日は何の日?徒然日記 http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2020/11/post-29730e.html?utm_source=dlvr.it&utm_medium=twitter
  17. 天正18年の戦い 北条軍・白幡六郎 vs 豊臣軍 浅野長政とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%A4%A9%E6%AD%A318%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84+%E5%8C%97%E6%9D%A1%E8%BB%8D%E3%83%BB%E7%99%BD%E5%B9%A1%E5%85%AD%E9%83%8E+vs+%E8%B1%8A%E8%87%A3%E8%BB%8D+%E6%B5%85%E9%87%8E%E9%95%B7%E6%94%BF
  18. 椎津城>-里見氏の城と歴史 | たてやまフィールドミュージアム - 館山市立博物館 http://history.hanaumikaidou.com/archives/7788
  19. 真里谷信政- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E7%9C%9F%E9%87%8C%E8%B0%B7%E4%BF%A1%E6%94%BF
  20. 中世上総の国市原郡の城 https://fururen.net/wp-content/uploads/2024/05/%E4%B8%AD%E4%B8%96%E4%B8%8A%E7%B7%8F%E3%81%AE%E5%9B%BD%E5%B8%82%E5%8E%9F%E9%83%A1%E3%81%AE%E5%9F%8E.pdf
  21. 有木城跡 - 市原歴史博物館 https://www.imuseum.jp/maibun/map/iseki_file/5/241.html
  22. 真里谷新地の城 http://yogokun.my.coocan.jp/mariyasinti.htm
  23. ノート018市原市葉木城郭跡について(予察)【考古】 - 市原歴史博物館 https://www.imuseum.jp/siryo_chosa_kenkyu/kenkyu/note/316.html
  24. 椎津外郭古墳 - 市原歴史博物館 https://www.imuseum.jp/maibun/map/iseki_file/4/156.html
  25. 発掘調査報告書等PDF一覧 - 市原歴史博物館 https://www.imuseum.jp/siryo_chosa_kenkyu/kanko/103.html
  26. 根戸城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B9%E6%88%B8%E5%9F%8E
  27. 市原市の新指定文化財(令和2年度) https://www.city.ichihara.chiba.jp/article?articleId=612d7859e05fd3785b7ba6f9
  28. 小田原征伐による落城とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%BE%81%E4%BC%90%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E8%90%BD%E5%9F%8E
  29. 椎津城とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E6%A4%8E%E6%B4%A5%E5%9F%8E
  30. 白幡六郎 https://fururen.net/siryoukan/siryou/rokurou/rokurou.htm
  31. 白幡六郎 https://fururen.net/siryoukan/tenji/hitobito/rokurou/rokurou.htm
  32. 市原市の新指定文化財(平成27年度) https://www.city.ichihara.chiba.jp/article?articleId=60236e8cece4651c88c17b52
  33. 【市原市】戦国時代の城「椎津城跡」を歩いてみよう! | 千葉県のローカルメディア「チイコミ!」 https://chiicomi.com/press/1890274/
  34. 椎津城の見所と写真・100人城主の評価(千葉県市原市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/2444/
  35. 史跡椎津城跡に面した道路の倒木等について | 市原市ウェブサイト https://www.city.ichihara.chiba.jp/article?articleId=682be4419323d9198868406e
  36. 椎津城跡 | 市原市ウェブサイト https://www.city.ichihara.chiba.jp/article?articleId=6023758aece4651c88c18483
  37. 市原歴史博物館 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E5%8E%9F%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8