槇嶋城
槇嶋城は、巨椋池に浮かぶ水城。足利義昭が信長に最後の抵抗を試みた舞台。信長の電撃的侵攻で落城し、室町幕府は事実上終焉。秀吉の宇治川改修で資材に転用され、地上から姿を消す。
槇嶋城 ― 室町幕府終焉の舞台、巨椋池に消えた水城の全史
序章:歴史の転換点としての槇嶋城
京都府宇治市にその名を留める槇嶋城(槙島城、真木嶋城とも記される)は、日本の歴史において特異な位置を占める城郭である。その名は、元亀4年(1573年)、室町幕府第15代将軍・足利義昭が織田信長に最後の抵抗を試み、敗れ去った「槇島城の戦い」の舞台として、広く知られている 1 。この一戦をもって、足利尊氏以来230年以上にわたって続いた室町幕府は事実上の終焉を迎え、日本は新たな時代へと大きく舵を切ることになる。槇嶋城は、まさに日本の政治史における画期的な事件が繰り広げられた、時間的な重要性を持つ歴史の転換点であった。
しかし、槇嶋城の重要性はそれだけではない。この城は、かつて京都盆地南部に広がり、現在は完全に姿を消した巨大な遊水池「巨椋池」に浮かぶ島、あるいは中洲という、極めて特異な地理的条件下に築かれていた 1 。その存在そのものが、京都南部の水利と密接に結びついていたのである。この空間的、地理的な特異性は、城の戦略的価値を規定し、そして最終的にはその運命をも決定づけることとなった。
本報告書は、単に「槇島城の戦い」を詳述するに留まらない。承久年間(1219年~1222年)に遡るとされる築城の起源から、戦国時代の動乱における役割、城主であった真木島氏の流転の生涯、そして豊臣秀吉の天下統一事業の中で廃城となり、その痕跡さえも大地から消し去られるに至った全史を、考古学的知見や地理的環境の変遷をも踏まえ、多角的かつ徹底的に解明することを目的とする。槇嶋城という一つの城郭を通して、戦国末期の政治情勢、城郭の戦略的価値の変遷、そして大規模な土木事業が歴史をいかに変容させたかを明らかにしていく。
表1:槇嶋城 関連年表
年代 |
主要な出来事 |
承久3年(1221年) |
長瀬左衛門により築城されたと伝わる(承久の乱に関連か) 4 。 |
明応8年(1499年) |
畠山氏の内乱に伴う「宇治・槇島合戦」で細川政元軍が占拠 5 。 |
元亀4年(1573年)7月3日 |
室町幕府15代将軍・足利義昭、織田信長に対し挙兵し槇嶋城に籠城 1 。 |
元亀4年(1573年)7月18日 |
織田信長軍の総攻撃により開城。義昭は降伏し、京より追放される 2 。 |
元亀4年(1573年)7月28日 |
信長の奏請により、朝廷は元号を「元亀」から「天正」へと改元 2 。 |
文禄3年(1594年)頃 |
豊臣秀吉による伏見城築城と宇治川改修に伴い、廃城となる 4 。 |
平成8年(1996年) |
宇治市教育委員会による槇島城跡の発掘調査が実施される 9 。 |
平成16年(2004年) |
槇島公園に「槇島城記念碑」が槇島城顕彰会により建立される 1 。 |
第一部:槇嶋城の地理的・歴史的背景
第一章:巨椋池に浮かぶ要害 ― 水が規定した城の性格
槇嶋城の性格を理解するためには、まずその立地環境であった、今はなき「巨椋池」の存在を把握することが不可欠である。かつて京都盆地の南部に広がっていた巨椋池は、宇治川、桂川、木津川という三つの大河川が合流する、広大な遊水地帯であった 11 。その規模は周囲約16km、面積約800haにも及び、池の中にはいくつかの島が点在していた 11 。この巨大な水域は、京都と奈良、大坂を結ぶ水運の要衝として経済的な利益をもたらす一方で、ひとたび大雨が降れば周辺地域に甚大な洪水被害をもたらす、治水の難しい場所でもあった 12 。
槇嶋城が築かれた「槇島」は、この巨椋池に浮かぶ島、あるいは宇治川の流れによって形成された中洲であった 1 。四方を広大な水面に囲まれ、陸路からの接近が極めて困難なこの地形は、まさに天然の要害そのものであった 3 。敵軍が攻め寄せるには舟艇を用いるか、あるいは水量の少ない時期を待つしかなく、防御側にとっては非常に有利な条件を備えていた。この地理的優位性こそが、この地に城が築かれ、南山城における重要な軍事拠点として機能し続けた根源的な理由である。
槇嶋城の歴史は、この「水」という要素によって規定され、その生と死を支配された物語と捉えることができる。城の存在意義、すなわち難攻不落の要害としての役割は、巨椋池という自然環境がもたらしたものであった。事実、足利義昭が織田信長という強大な敵を前に、最後の拠点としてこの城を選んだのは、この「水による防御」への絶大な信頼があったからに他ならない 2 。彼はこの城を、容易には落ちない鉄壁の要塞と考えていたのである。
しかし、皮肉なことに、城に絶対的な価値を与えていた「水」は、その終焉をもたらす直接的な原因となった。戦国時代が終わり、天下を統一した豊臣秀吉は、自らの拠点である伏見城の城下町整備と水運の確保を目的として、宇治川の流路を大規模に改変する治水工事に着手した 3 。この時に築かれたのが、宇治川を巨椋池から切り離す長大な「槇島堤」(太閤堤の一部)である 15 。この巨大な土木事業の過程で、すでに戦略的価値を失っていた槇嶋城は解体され、その石垣などは堤の資材として転用されたと伝えられている 3 。つまり、城の防御力を支えていた自然の「水」が、秀吉という新たな権力者の巨大な意志によって制御・改変される中で、城は物理的にも解体・吸収され、完全に地上から姿を消したのである。これは、個々の城郭の攻防に明け暮れた戦国の世が終わり、国土経営という新たな視点を持つ近世統一政権が誕生したことを象徴する出来事であった。
第二章:承久の乱から戦国前夜まで ― 長き歴史の序章
槇嶋城が歴史の表舞台にその名を現すのは、元亀4年(1573年)の「槇島城の戦い」が最も著名であるが、その歴史はさらに古く、鎌倉時代初期にまで遡るとされる。伝承によれば、築城は承久3年(1221年)、長瀬左衛門なる人物によってなされたという 4 。この年は、後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒の兵を挙げた「承久の乱」が勃発した年であり、上皇方が京都防衛の要である宇治川の防衛線を固めるため、この地に拠点を置いた可能性が指摘されている 5 。これが、槇嶋城が軍事拠点として歴史に登場する最初の記録である。
その後、室町時代に入ると、槇嶋城は南山城の要衝として、度々戦乱の舞台となった。特に明応8年(1499年)、管領家の畠山氏の内紛に端を発した「宇治・槇島合戦」では、細川政元の軍勢によって攻め落とされ、その後は細川氏の支配下に入るなど、時の権力者たちの勢力争いの中で重要な役割を果たしてきた 5 。これらの史実は、槇嶋城が足利義昭の時代に突如として現れた城ではなく、鎌倉時代から戦国時代に至るまで、京都南部の政治・軍事動向を左右する戦略的拠点として、長くその存在価値を認められてきたことを示している。
第二部:城主・真木島(槇島)氏の実像
第一章:謎多き一族の出自
槇嶋城の歴史を語る上で欠かせないのが、戦国期にこの地を本拠とした城主・真木島氏(槇島、真木嶋、牧島など様々な表記が存在する 1 )である。しかし、その出自は複数の史料で異なる記述が見られ、今日においても確定するには至っていない。
主要な説として、まず『細川家記』に見られるものがある。これによれば、一色輝元(輝光)という人物が槇島城に拠点を構えて槇島氏を称し、その子である孫六重利が後の真木島昭光であるとされる 18 。一方で、同書は昭光を桃井氏の末裔とも記しており、記述に矛盾が生じている 18 。また、『蜂須賀家家臣成立書并系図』では、昭光は真木島定重の養子であったとされている 18 。さらに、古くは宇治神社の神官を務める家柄であったとする説も存在する 19 。
近年の研究では、歴史学者の木下昌規氏が、9代将軍・足利義尚の時代にすでに幕府奉公衆として「真木嶋六郎藤原光通」という人物の名が見えることから、一色輝元や真木島昭光は、この古くからの真木島氏の末裔、あるいはその家名を継ぐために養子に入ったのではないかと指摘している 18 。
このように、真木島氏の系譜は諸説入り乱れており、その実像は謎に包まれている。しかし、いずれの説を取るにせよ、彼らが室町幕府の将軍に直接仕える直臣「奉公衆」という身分であり、その奉公の対価として槇島の地を本拠とすることを認められた在地領主であったことは、ほぼ間違いないと考えられる 1 。
第二章:将軍義昭の忠臣・真木島昭光 ― 流転の生涯
謎多き真木島氏の中で、その名が歴史に明確に刻まれているのが、15代将軍・足利義昭の時代に活躍した真木島昭光である。昭光は、義昭が将軍に就任して以降、その側近として頭角を現した。将軍の名である「義昭」から「昭」の一字を与えられる「偏諱」を受けるほど、その信頼は厚かった 22 。彼は単なる武辺者ではなく、諸大名との交渉を取り次ぐ「取次」の役を務めるなど、義昭政権において重要な政治的役割を担っていた 19 。
昭光の真価が最も発揮されたのは、元亀4年(1573年)の「槇島城の戦い」で義昭が敗北し、京を追われてからであった。多くの幕臣たちが義昭を見限り離反していく中で、昭光は主君に従い、河内、紀伊、そして毛利輝元を頼って備後国鞆の浦へと至る、長く苦しい流浪の旅に随行し続けた 22 。その忠節は、滅びゆく主君に最後まで付き従う、中世武士の理想的な主従関係を体現するものであった。
しかし、昭光の生涯は単なる滅びの美学に終わらない。信長の死後、天下の実権が豊臣秀吉に移ると、彼は現実的な政治感覚を発揮し、秀吉と交渉して義昭の京都帰還を実現させるなど、外交手腕を見せた 22 。そして慶長2年(1597年)に義昭が亡くなると、昭光は新たな天下人である豊臣家に2,000石で仕え、奏者番という官僚的な役職を務めることになる 22 。これは、特定の主君個人への人格的な忠誠から、天下を治める統治機構の一員として仕えるという、近世的な武士のあり方への転身であった。
さらに秀吉の死後、豊臣秀頼に仕えた昭光は、老齢にもかかわらず、慶長19年(1614年)からの大坂の陣では豊臣方として参戦した 19 。大坂城落城後も奇跡的に生き延びると、旧知の仲であった細川忠興らの嘆願によって徳川幕府から助命され、晩年は細川家の家臣として1,000石を与えられ、中津城の留守居役などを務めた後、正保3年(1646年)にその波乱の生涯を閉じた 22 。
真木島昭光の生涯は、一人の武将の生き様を通して、時代の大きな変容を映し出している。「将軍の直臣(奉公衆)」という中世的な身分から、天下人の「官僚(奏者番)」へ、そして最後は徳川政権下の大名の「家臣(藩士)」へと、その立場は目まぐるしく変わっていった。彼の人生の軌跡は、室町幕府の滅亡が単なる政権交代ではなく、武士という身分のあり方そのものを根底から変容させる、社会構造の大きな転換点であったことを雄弁に物語っている。
第三部:室町幕府の終焉 ― 槇島城の戦い(元亀4年/天正元年・1573年)
第一章:信長と義昭、決裂への道
永禄11年(1568年)、織田信長は足利義昭を奉じて上洛し、彼を15代将軍の座に就けた。当初、両者の関係は極めて良好で、信長は義昭のために二条城(二条御所)を造営し、義昭は信長を「御父」と呼ぶほどであった 26 。しかし、自らの手で幕府権力を再興しようとする義昭と、将軍を権威として利用しつつ天下布武を進めようとする信長の間には、次第に埋めがたい溝が生まれていく 27 。
義昭は将軍としての権威を回復するため、甲斐の武田信玄、越前の朝倉義景、北近江の浅井長政、さらには三好三人衆や石山本願寺といった反信長勢力に密かに御内書を送り、信長を打倒するための包囲網を画策した 27 。この動きを察知した信長との対立は決定的となり、元亀4年(1573年)2月、義昭は二条城で挙兵する。この時は正親町天皇の勅命による和睦が成立したものの、両者の不信感は頂点に達していた。
そして同年4月、信長包囲網の最大の柱であった武田信玄が病死すると、状況は一変する 2 。信長が反信長勢力の鎮圧に乗り出す中、追い詰められた義昭は同年7月3日、再び信長との和睦を一方的に破棄。京の二条御所を出て、側近である真木島昭光の居城・槇嶋城へと移り、最後の抵抗の意思を鮮明にした 1 。義昭がこの城を選んだのは、前述の通り、巨椋池と宇治川に囲まれた天然の要害に、最後の望みを託したからであった。この時、義昭に従い籠城した兵力は、3,700余であったと記録されている 2 。
表2:「槇島城の戦い」主要関係人物一覧
勢力 |
主要人物 |
役職・動向 |
籠城方(足利軍) |
足利義昭 |
室町幕府15代将軍。籠城の主導者。降伏後、京から追放される。 |
|
真木島昭光 |
槇嶋城主。幕府奉公衆。義昭に最後まで付き従う。 |
|
三淵藤英 |
幕府奉公衆。二条御所の守将であったが、織田軍の圧力により開城。 |
攻撃方(織田軍) |
織田信長 |
総大将。電撃的な進軍で義昭を圧倒し、降伏させる。 |
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佐久間信盛 |
織田家重臣。城外で足利方の足軽隊を撃破 2 。 |
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蜂屋頼隆 |
織田家臣。佐久間信盛と共に城外戦で活躍 2 。 |
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稲葉一鉄 |
織田家臣。別動隊を率い、平等院方面から宇治川を渡河 29 。 |
|
柴田勝家 |
織田家重臣。信長軍の中核をなす武将。二条御所の開城交渉にも関与 2 。 |
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明智光秀 |
織田家臣。信長軍の主要部隊を率いる 14 。 |
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丹羽長秀 |
織田家重臣。信長軍の中核をなす武将 26 。 |
第二章:籠城と信長の電撃的侵攻
義昭挙兵の報せは、すぐさま信長のもとに届いた。信長の反応は驚くほど迅速かつ的確であった。彼はこの挙兵を、将軍の権威を完全に無力化し、自らが天下の実権者であることを天下に示す絶好の機会と捉えたのである。
信長は、この時のために周到な準備を進めていた。同年5月には、琵琶湖の制水権を確保するため、長さ30間(約54m)、幅7間(約13m)にも及ぶ巨大な軍船の建造を命じていた 26 。義昭挙兵の報に接した信長は、完成したばかりのこの大船を早速活用する。7月6日、信長は自ら大船に乗り込み、逆風をものともせず琵琶湖を渡って坂本に上陸 2 。翌7日には早くも京へ入り、妙覚寺に本陣を構えた 2 。岐阜を出てからわずかな日数での、電撃的な進軍であった。
信長は、最終目標である槇嶋城へ直行するのではなく、まず義昭が三淵藤英らに守らせていた二条御所を大軍で完全に包囲した 2 。これは、京における義昭の政治的・軍事的拠点を無力化し、彼を槇嶋城に孤立させるための、計算された戦略であった。信長の圧倒的な軍勢を目の当たりにした公家衆らは戦意を喪失し、次々と降伏。最後まで抵抗の姿勢を見せていた三淵藤英も、柴田勝家の説得に応じて7月12日に御所を開城した 2 。こうして信長は、槇嶋城を攻める前に、京における政治的優位を確立し、義昭を完全に追い詰めたのである。
第三章:宇治川の攻防と落城
二条御所を制圧し、後顧の憂いを断った信長は、数万(一説に7万)ともいわれる大軍を率いて、義昭が籠る槇嶋城へと進軍した 29 。信長は軍を二手に分け、稲葉一鉄らの部隊を宇治川対岸の平等院方面へ 14 、そして自らが率いる本隊を川下の五ヶ庄方面へと向かわせ、城を挟撃する態勢を整えた 14 。
当時、折からの長雨で宇治川は激しく増水しており、その流れは織田軍の行く手を阻んだ。『信長公記』によれば、兵たちが渡河をためらっているのを見た信長は、「お前たちが行かぬなら、私が先陣を切る」と自ら馬を川に乗り入れ、兵たちを叱咤激励したという 30 。この総大将の決然たる姿に士気を取り戻した兵たちは、一斉に渡河を開始。稲葉一鉄の部隊も平等院の対岸から川を押し渡り、周辺の建物を焼き払いながら城へと迫った 29 。
7月18日、織田軍による槇嶋城への総攻撃が開始された。城から打って出てきた足軽部隊を、佐久間信盛や蜂屋頼隆らの部隊が迎撃し、50ほどの首を挙げて撃退 2 。勢いに乗った織田軍は城を完全に包囲すると、外郭を次々と乗り破り、城内に火を放った 2 。天然の要害を頼み、難攻不落と信じていた城が、信長の大軍の前には全く無力であり、いとも簡単に攻め立てられる様を目の当たりにした義昭は、完全に戦意を喪失。恐怖に駆られ、信長に降伏を申し入れた 2 。信長は義昭の命は助けたが、降伏の条件として、当時2歳であった嫡子・義尋を人質として差し出させた 2 。こうして、室町幕府最後の抵抗は、わずか一日の戦闘であっけなく幕を閉じたのである。
この「槇島城の戦い」は、軍事的には当初から勝敗の決していた、一方的な掃討作戦であったと言える。兵力差は歴然であり(約3,700対数万)、戦闘らしい戦闘はほとんど行われなかった。この戦いの本質は、軍事的な勝利そのものよりも、信長が室町幕府という旧来の権威をいかにして解体し、自らが新たな時代の支配者であることを天下に示すか、という計算され尽くした政治的パフォーマンスにあった。
そのプロセスは三段階で構成されていた。第一に、電撃的な進軍と圧倒的な大軍の動員によって、誰もが逆らうことのできない絶対的な「力」を誇示すること。第二に、将軍を殺害するという「将軍殺し」の汚名を避けるため、追放という形でその権威を完全に剥奪し、無力化すること 28 。そして第三に、戦後すぐの7月28日、朝廷に働きかけて元号を「元亀」から「天正」へと改元させることで、旧時代の終焉と、自らが創出する新時代の始まりを天下に宣言することであった 2 。この一連の政治的プロセスを完遂するための、いわば最終幕の舞台装置として、槇嶋城は選ばれたのである。
第四章:戦いの歴史的帰結
7月19日、足利義昭は槇嶋城を退去し、河内国へと下った 1 。これにより、首都京都における統治権を完全に喪失した室町幕府は、事実上滅亡した。義昭はその後も備後国鞆の浦で「鞆幕府」と呼ばれる亡命政権を維持し、将軍職を辞したのは豊臣秀吉の時代になってからであるが、中央政治における影響力は、この槇嶋城からの退去をもって完全に失われたのである。
信長主導で行われた「天正」への改元は、単に年号が変わった以上の、極めて重要な政治的意味を持っていた。元号の制定は、本来、天皇の権能であり、それを幕府が奏請する形で行われてきた。その慣例を破り、信長が主導して改元を行ったことは、もはや将軍の権威に頼ることなく、自らが天下の新たな秩序の創出者であることを内外に宣言する行為であった 2 。
戦いの後、主を失った槇嶋城は、一時的に細川藤孝の子・昭元に預けられた後 2 、塙直政や井戸良弘といった織田・豊臣系の武将が城将として入城し、南山城の拠点として引き続き利用された 4 。しかし、その役割も長くは続かなかった。
第四部:城の構造と終焉
第一章:水城の縄張りと構造
現在、槇嶋城の遺構は完全に失われており、その具体的な姿を正確に知ることはできない。しかし、断片的な記録や現地の状況から、その構造をある程度推測することは可能である。
『日本城郭大系』などの文献によれば、城の規模は東西約200m、南北約220mの平城であったと推定されている 9 。現在、城跡の一部とされる薗場児童遊園に設置された案内板には、往時の縄張り図が描かれている 4 。この図や立地条件から考察すると、槇嶋城は巨椋池や宇治川の水を外堀として巧みに利用した「水城」であったと考えられる。城の主要な郭(くるわ)を同心円状に配置する「輪郭式」か、あるいは本丸を奥に置き、二の丸、三の丸がL字型に取り囲む「梯郭式」に近い構造を持ち、水利を最大限に活かした堅固な防御態勢を築いていたと推測される 35 。
第二章:発掘調査から見えるもの
城の姿を具体的に知るための手がかりとして、1996年(平成8年度)に宇治市教育委員会によって実施された発掘調査が挙げられる 9 。この調査は、宅地開発などに伴う緊急調査として行われたもので、城跡とされる一角が対象となった。
調査の結果、城が活動していた室町時代から安土桃山時代にかけての土師器、瓦器、陶磁器、そして瓦などの遺物が出土した 9 。これらの出土品は、この地に確かに城が存在し、人々が活動していたことを示す考古学的な裏付けとなるものである。
しかしながら、この調査では堀や土塁、建物の跡といった、城の構造を直接示すような明確な遺構は検出されなかった。宇治市が後年実施した別の調査報告によれば、この一帯は宇治川の洪水による土砂が厚く堆積しており(最大で約1.2m)、城の遺構がその堆積層の下に深く埋没しているか、あるいは後世の河川改修や宅地開発によって完全に破壊されてしまった可能性が指摘されている 36 。遺構の検出が困難であるという事実そのものが、槇嶋城が置かれていた「水」と共に生きる厳しい地理的環境を物語っている。
第三章:廃城と遺構の消滅
室町幕府滅亡後も、織田・豊臣政権下の拠点として存続した槇嶋城であったが、その運命を決定づけたのは、天正・文禄年間に豊臣秀吉がすぐ近くの伏見に巨大な城を築城したことであった。秀吉が日本の政治・経済の中心地として伏見城とその城下町の整備を進めると、近接する槇嶋城の戦略的価値は急速に低下していった 3 。その結果、槇嶋城は文禄3年(1594年)頃に廃城となったとみられている 4 。
そして、廃城となった城に追い打ちをかけたのが、秀吉による宇治川の大規模な河川改修工事であった。伏見城への水運を確保し、城下町を洪水から守るため、秀吉は宇治川の流れを巨椋池から完全に切り離し、伏見城の南側を通過する現在の流路へと付け替える、壮大な土木事業を敢行した。この時に築かれた長大な堤防が「槇島堤」であり、太閤堤の一部をなすものである 15 。この堤を建設するにあたり、廃城となって不要になった槇嶋城の石垣や土塁が、格好の建設資材として転用されたと伝えられている 3 。
城の防御の要であった「水」を制御するための堤防に、城そのものが吸収され、消滅していく。この事実は、槇嶋城の歴史が「水」に始まり、「水」に終わったことを象徴している。城の遺構が今日、完全に地上から姿を消した最大の理由は、この豊臣政権による国家的な土木事業にあったのである。
終章:現代に遺る痕跡
現在、かつて槇嶋城があったとされる京都府宇治市槇島町の一帯は、住宅地や工場、田園風景が広がり、往時の巨椋池に浮かぶ水城の面影を見出すことはもはや不可能である 37 。しかし、その歴史を今に伝える痕跡が、二つの石碑として静かに残されている。
一つは、住宅街の中にひっそりと佇む「薗場児童遊園」の片隅に建てられた石碑である 4 。ここには「此の附近 槇島城跡」と刻まれた石碑と、城の歴史や縄張り図を記した案内板が設置されている。この場所が、かつての城域内にあたると考えられている 8 。
もう一つは、そこから北へ約200~300m離れた、より大きな「槇島公園」の敷地内にある「槇島城記念碑」である 4 。こちらは平成16年(2004年)に槇島城顕彰会によって建立されたもので、城域外に建てられた顕彰碑としての性格が強い 8 。
これら二つの石碑は、地形が大きく変貌し、歴史の記憶が断絶しかけている中で、この地がかつて巨椋池に浮かぶ要害であり、足利義昭の最後の抵抗によって室町幕府が終焉を迎えたという、日本史の大きな転換点の舞台であったことを、現代に生きる我々に静かに語りかけている。槇嶋城の物語は、一つの城郭の盛衰に留まらず、自然環境の激変と、中世から近世へと移行する時代の大きなうねりを内包した、壮大な歴史の証言なのである。
引用文献
- 槇島城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A7%87%E5%B3%B6%E5%9F%8E
- 槇島城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A7%87%E5%B3%B6%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 槇島城 - 京都通百科事典(R) https://www.kyototuu.jp/Sightseeing/HistorySpotMakishimaJyou.html
- [槇島城] - 城びと https://shirobito.jp/castle/1806
- 山城 槇嶋城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/yamashiro/makishima-jyo/
- 織田信長に追放される足利義昭の悪あがき「槇島城の合戦」とは【どうする家康 外伝】 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/207358
- 槇島城|信長と足利義昭が戦った室町幕府終焉の城 - お城カタリスト https://shiro1146.com/blog/makishima-03/
- 槇島城の見所と写真・200人城主の評価(京都府宇治市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/356/
- 槙島城跡/槇島城跡/真木嶋城/菌場城 - 全国遺跡報告総覧 https://sitereports.nabunken.go.jp/cultural-property/166314
- 木幡古墳群·一里山遺跡·槇島城跡 - 宇治市 https://www.city.uji.kyoto.jp/uploaded/attachment/11635.pdf
- 第1章 宇治市の歴史的風致形成の背景 https://www.city.uji.kyoto.jp/uploaded/attachment/35803.pdf
- 京都府 巨椋池干拓事業 - 水土の礎 https://suido-ishizue.jp/kokuei/kinki/Prefectures/2601/2601.html
- 京都市の南部に巨大な湖があった?「巨椋池」とはなぜ生まれ、なぜ消えたのか。各地の遺構を巡りながら、その歴史を日本一わかりやすく徹底解説!【教養vlog】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=L0XqYCiRQlE
- 槇島城 - ちえぞー!城行こまい http://chiezoikomai.umoretakojo.jp/kansai/kyoto/makisima.html
- 史跡宇治川太閤堤跡発掘調査の概要 - 宇治市 https://www.city.uji.kyoto.jp/uploaded/attachment/1007.pdf
- 宇治川の歴史 - 国土交通省 https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0601_ujigawa/0601_ujigawa_01.html
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- 【マイナー武将列伝】大坂の陣で戦った足利義昭の側近・真木島昭光 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=snFwZcRVodo
- 槇島城(名右衛門) https://naemon.jp/kyoto/makishima.php
- 八幡市の歴史資料のご紹介(令和6年6月5日) https://www.city.yawata.kyoto.jp/0000009588.html
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- 槇島重利 - 大坂の陣絵巻へ https://tikugo.com/osaka/busho/toyotomi/b-makisima.html
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- 利用されてもいいじゃない! 織田信長も殺さなかった足利義昭の「生き残り術」 | コラム 京都「人生がラク」になるイイ話 | PR会社 - TMオフィス https://www.tm-office.co.jp/column/20161114.html
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- 京都山城 槇島城 京での室町幕府終焉を迎えた城 | 久太郎の戦国城めぐり http://kyubay46.blog.fc2.com/blog-entry-169.html
- 槇島城跡 | 場所と地図 - 歴史のあと https://rekishidou.com/makishimajo/
- 山城國 槇島城(京都府宇治市) - FC2 https://oshiromeguri.web.fc2.com/yamashiro-kuni/makishima/makishima.html