肥薩国境の要衝、水俣城は相良・島津の攻防の舞台。犬童頼安と新納忠元の連歌の応酬は有名。政治的決着で開城、加藤清正が改修するも幕府により破却。地政学的価値は後世も続いた。
肥後国(現在の熊本県)の最南端、薩摩国(現在の鹿児島県)との国境に位置する水俣城は、その地理的条件から戦国時代の九州において極めて重要な戦略拠点であった。八代海に面し、海上交通の要衝を押さえるこの城は、肥後南部を支配する相良氏にとっては薩摩・島津氏の北上を阻む最前線基地であり、一方で九州統一を目指す島津氏にとっては肥後侵攻の足掛かりとなる、まさに係争の地であった 1 。
この城の歴史は、単なる一地方城郭の変遷にとどまらない。その支配者の交代は、南九州における勢力均衡の変動を如実に反映している。相良氏の盛衰、島津氏の台頭、豊臣政権による中央集権化、そして関ヶ原の戦いを経て徳川幕藩体制が確立されるに至るまで、水俣城の運命は常に九州、ひいては天下の政治・軍事動向と密接に連動していた。したがって、水俣城の歴史を紐解くことは、戦国時代という激動の時代における南九州のパワーバランスの変遷を読み解くことに他ならない。この城は、地域の力学を映し出す「鏡」として、その歴史的役割を担っていたのである。
水俣城の正確な築城年代や築城者については、複数の説が存在し、定かではない。伝承によれば、治承5年(1181年)にこの地の豪族であった水俣四郎が砦を築いたのが始まりとされる 3 。しかし、これはあくまで伝承の域を出ず、文献上でその名が初めて確認されるのは、南北朝時代の至徳2年(1385年)に九州探題・今川了俊が発した書状においてである 5 。この記録から、少なくとも14世紀後半には、在地領主である水俣氏の居城として機能していたことが確実視される 5 。
中央政権の分裂が地方にも大きな影響を及ぼした南北朝時代、水俣城もまた動乱と無縁ではなかった。この時期、南朝方として後醍醐天皇を支えた名和長利の孫・顕興の家臣であった本郷家久が城主を務めていた記録が残っている 3 。これは、水俣城が単なる地方豪族の拠点に留まらず、より広域の政治的・軍事的対立の舞台となっていたことを示唆している。
人吉を本拠地とし、球磨地方に勢力を築いた相良氏は、南北朝時代から八代海沿岸の葦北郡への進出を悲願としていた 1 。その南下政策における決定的な転機が訪れたのは、長禄4年(1460年)のことである。この年、相良氏は肥後守護であった菊池為邦から水俣の領有を正式に認められた 9 。これにより、水俣城は在地領主の城という性格から、戦国大名・相良氏の広域支配を支える重要な支城へと、その役割を大きく変えることになった。この出来事は、中世的な在地領主による分散的な支配体制が、戦国大名による一元的な領域支配へと移行していく、時代の大きな潮流を象徴するものであった。水俣城の初期史は、まさにこの歴史的変遷の縮図と言えるだろう。
相良氏の支配下に入った水俣城は、対外的な防衛拠点としての重要性を増す一方で、相良氏内部の権力闘争の舞台ともなり、その歴史に複雑な影を落とすこととなる。国境の要衝という地理的条件は、城代に強大な権限を与える必要性を生んだが、その権限が時として人吉の本家に対する脅威へと転化する危険性を内包していた。
水俣城が相良氏の内紛の悲劇的な舞台となった最初の顕著な例が、大永年間に起こった家督争いである。大永4年(1524年)、相良長定が謀反を起こし、時の当主であった相良長祗は本拠地の人吉を追われ、薩摩へと逃れた 11 。翌年、長定は「謀反は逆臣にそそのかされたもの」として和議を申し入れ、長祗に隠居料として水俣城を譲ると偽りの提案を行った 11 。長祗はこの策略を信じ水俣城へ入るが、それは長定が仕掛けた罠であった。待ち構えていた犬童匡政の軍勢に追い詰められた長祗は、水俣城の裏山で自害に追い込まれた 5 。享年25歳であった。この事件は、水俣城が当主の命運を左右するほどの政治的駆け引きの場であったことを物語っている。
相良氏の支配体制が安定した後も、水俣城は火種を抱え続けた。弘治3年(1557年)、水俣城主であった重臣・上村頼興が死去すると、その子である頼孝らは当主・相良義陽に対し反乱を起こした 5 。一度は義陽が水俣城を与えることを条件に帰参を許したが、最終的に頼孝は謀殺されるという結末を迎えた 5 。本拠地から離れた国境の城を任された有力家臣が、独自の勢力を背景に中央へ反旗を翻すという構図は、水俣城が相良氏にとって外部の敵を防ぐ「盾」であると同時に、内部に刃を向ける可能性を秘めた「諸刃の剣」であったことを示している。
内部の緊張と並行して、水俣城は本来の役割である対外防衛の拠点としても機能し続けた。特に薩摩国境を接する菱刈氏との間では、一進一退の攻防が繰り広げられた。永禄2年(1559年)には、菱刈氏の攻撃により水俣城は一時的に落城する憂き目に遭う 1 。しかし、翌永禄3年(1560年)には天草の上津浦氏の仲介を経て、相良氏は城を奪還しており、この地域の緊張状態が恒常的であったことがうかがえる 5 。この時期、相良氏は水俣城を中核とし、深川城、宝川内城、岩群城、久木野城といった城砦を東西に配置することで、南からの侵攻に備えた重層的な防御ラインを形成していたと考えられている 1 。
天正9年(1581年)に繰り広げられた水俣城を巡る攻防戦は、単なる一城の争奪戦ではなく、肥後南部の支配構造を根底から覆し、九州の勢力図を大きく塗り替える転換点となった。この戦いは、武力による激突だけでなく、武将の教養と胆力が試される心理戦、そして大局的な政治判断が絡み合う、戦国時代を象徴する出来事であった。
天正6年(1578年)、日向国で起こった耳川の戦いで九州の雄・大友氏に壊滅的な打撃を与えた島津義久は、薩摩・大隅・日向の三州統一を成し遂げた 13 。これにより、島津氏は九州全土の平定という次なる目標に向け、本格的な北上を開始する 1 。その戦略において、肥後侵攻の最初の障壁となるのが、国境の要衝・水俣城であった。島津氏にとって、この城の攻略は肥後への門戸を開くための絶対条件だったのである。
島津氏は、数万(一説には5万とも)と称される圧倒的な大軍を動員し、水俣城を陸と海から完全に包囲した 15 。これに対し、城を守る相良方の城代・犬童頼安(資料によっては実作守とも記される)が率いる兵力は、わずか700余名に過ぎなかった 15 。絶望的な兵力差にもかかわらず、頼安は巧みな采配で城兵を鼓舞し、徹底した籠城戦を展開。島津軍の度重なる猛攻をことごとく退けた。
攻城戦が膠着状態に陥る中、島津方の猛将として知られる新納忠元は、武力一辺倒ではない策を講じた。陣中で連歌の会を催し、城兵の士気を削ぐことを狙って、一句を矢文につけて城内へと射かけたのである。
「秋風に 水俣落つる 木の葉哉」 4
この句は、「水俣城も、秋風に舞い落ちる木の葉のように、間もなく我らの手に落ちるだろう」という、降伏を促す挑発的な意味合いを持っていた。これに対し、城内の犬童頼安は少しも動じることなく、見事な返句を同じく矢文で射返した。
「寄せては沈む 月の浦波」 4
この返句は、「寄せ来る波(島津軍)に水面に映る月(水俣城)は揺らぐが、波が引けば月はもとの姿に戻る。決して沈むことはない」という、断固たる抵抗の意志と気概を示したものであった。この風流な応酬は、戦場における武将の胆力と高い教養を示す逸話として、後世に語り継がれている。現在も水俣市に残る「月浦」という地名は、この時島津軍が陣を張った場所であったと伝えられている 4 。
犬童頼安の獅子奮迅の活躍により、水俣城は軍事的には持ちこたえていた。しかし、相良氏本体には、島津の大軍を長期にわたって押し返すだけの余力はもはや残されていなかった。当主・相良義陽は、これ以上の抵抗は領国全体を危うくすると判断し、苦渋の決断を下す。島津氏との和睦交渉に入り、その条件として水俣城を含む葦北郡一帯を割譲することを受け入れたのである 2 。これにより、水俣城は戦闘によって陥落したのではなく、大局的な政治判断の結果として開城されることとなった。
この開城に際しても、犬童頼安の器量の大きさを示す逸話が残されている。新納忠元が、かつて島津方から寝返って頼安の家臣となった者たちの身柄引き渡しを要求した際、頼安は「もし必要とあらば、一戦交えた上で受け取られよ」と毅然としてこれを拒絶した。その気迫に押された忠元は、要求を撤回せざるを得なかったという 18 。この逸話は、頼安が主君への忠誠のみならず、配下の将兵一人ひとりの命を重んじる将であったことを示している。
天正9年(1581年)の開城後、水俣城は相良氏の手を離れ、九州全体の政治情勢の荒波に翻弄される激動の時代を迎える。城主の目まぐるしい交代は、戦国大名による地域分権的な支配が終焉を迎え、天下人による中央集権的な統治体制へと日本社会が大きく移行していく過程を鮮明に映し出している。
相良氏との和睦成立後、水俣城は島津氏の所領となり、肥後支配の橋頭堡としての役割を担った。島津氏は地頭として古墻大炊大夫を城に置き、国境の管理とさらなる北進への備えを固めた 5 。
しかし、島津氏による支配は長くは続かなかった。破竹の勢いで九州のほぼ全土を平定した島津氏に対し、豊臣秀吉が天下統一の総仕上げとして九州への介入を開始する。天正15年(1587年)、秀吉は圧倒的な大軍を率いて九州に上陸(九州平定)。これに抗しきれないと悟った島津義久は降伏し、九州の勢力図は秀吉の意のままに再編されることとなった 20 。この「国分け」により、水俣城を含む葦北郡は島津氏から没収され、豊臣家の直轄領とされた 5 。
秀吉は、この地の統治にあたり、現地の事情に精通した人物を登用する現実的な政策をとった。相良氏の旧臣でありながら、その能力を高く評価されていた深水長智(宗方)を代官に任命し、水俣城および津奈木城の城代として国境地帯の管理を委ねたのである 5 。これは、旧来の支配構造を巧みに利用しつつ、豊臣政権の支配を末端まで浸透させようとする秀吉の統治手腕の表れであった。
豊臣政権下で、水俣城の領主は短期間のうちに次々と入れ替わった。これは、特定の場所に大名が深く根付くことを防ぎ、権力を中央に集中させようとする豊臣政権の国替え政策を反映したものであった。
この時代、水俣城の城主はもはや世襲の領主ではなく、中央権力から派遣される「管理者」としての性格を強めていく。城の運命が、一地方大名の戦略から天下人の全国統治戦略の一環へと組み込まれた瞬間であった。
時代区分 |
年代(和暦/西暦) |
城主/城代/支配者 |
所属勢力 |
主要な出来事・特記事項 |
築城期(伝承) |
治承5年(1181年) |
水俣四郎 |
在地領主 |
砦を築いたとされる伝承が残る 3 。 |
南北朝期 |
至徳2年(1385年) |
水俣氏 |
在地領主 |
今川了俊の書状に名が見える最古の確実な記録 5 。 |
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南北朝時代 |
本郷家久 |
南朝方 |
名和氏家臣の本郷氏が居城とした 8 。 |
相良氏統治期 |
長禄4年(1460年) |
相良氏 |
肥後国人 |
肥後守護・菊池氏の承認を得て、相良氏が領有 9 。 |
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大永5年(1525年) |
(相良長定の支配下) |
相良氏 |
家督争いに敗れた相良長祗が城の裏山で自害 5 。 |
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弘治3年以降 |
上村頼孝 |
相良氏家臣 |
城主・上村氏が当主・相良義陽に反乱 5 。 |
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永禄2年(1559年) |
菱刈氏 |
薩摩国人 |
菱刈氏の攻撃により一時落城 5 。 |
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天正9年(1581年) |
犬童頼安(城代) |
相良氏家臣 |
島津氏の大軍に包囲され、和睦により開城 15 。 |
島津氏統治期 |
天正9年(1581年) |
古墻大炊大夫(地頭) |
島津氏 |
島津氏の所領となり、肥後支配の拠点となる 5 。 |
豊臣直轄期 |
天正15年(1587年) |
深水長智(代官・城代) |
豊臣政権 |
九州平定後、豊臣家の直轄領となる 5 。 |
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慶長3年(1598年) |
寺沢広高 |
豊臣大名 |
寺沢氏の所領となる 24 。 |
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慶長4年(1599年) |
小西行長 |
豊臣大名 |
小西氏の所領となる 24 。 |
加藤氏統治期 |
慶長5年(1600年) |
加藤清正 |
豊臣大名 |
関ヶ原の戦いの後、加藤清正の領地となる 24 。 |
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慶長6年以降 |
中村正師(城代) |
加藤氏家臣 |
清正により城代が置かれ、城の大規模改修が行われる 7 。 |
廃城 |
慶長17年(1612年) |
加藤忠広 |
加藤氏 |
江戸幕府の命令により、宇土城・矢部城と共に破却される 7 。 |
豊臣政権下での目まぐるしい変遷を経て、水俣城はその歴史の最終章を迎える。築城の名手として知られる加藤清正の下で近世城郭として最後の輝きを放つが、それは同時に、新たな時代の到来によってその存在意義を失い、終焉へと向かう序曲でもあった。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、水俣城主であった小西行長は西軍の主力として参戦し、敗北の末に処刑された。一方、東軍に属して九州で戦功を挙げた加藤清正は、その恩賞として小西行長の旧領であった肥後南半を与えられ、肥後一国52万石の大名となった 21 。これにより、水俣城は加藤清正の支配下に入り、その支城ネットワークの一つに組み込まれることになった 7 。
清正は、肥後南部の要、そして依然として強大な勢力を保持する隣国・島津氏への備えとして水俣城を重視し、重臣の中村正師(将監)を城代として派遣した 5 。さらに、清正は水俣城を単なる監視拠点ではなく、実戦に耐えうる堅固な城塞へと改修することに着手した。
その動かぬ証拠が、近年の城跡の発掘調査で発見された「慶長十二年」(1607年)の銘を持つ軒平瓦である 9 。この瓦は、同じく清正の支城であった佐敷城から出土した瓦と同一の型で作られた「同笵瓦」であることが判明している 26 。この事実は、清正が本城である熊本城の天守をはじめとする主要部の建設が完了した慶長12年頃を機に、水俣城や佐敷城といった領国南部の支城群に対し、一斉に本格的な改修工事を開始したことを物語っている。これにより、水俣城は石垣が多用され、瓦葺きの櫓や門を備えた近世城郭へと大きく姿を変えたと考えられる。
また、慶長16年(1611年)に清正が亡くなると、城代の中村正師は主君の死を悼み、城内に霊廟を建立した。これが現在の城山公園内にある加藤神社の起源とされている 9 。
しかし、堅城として生まれ変わった水俣城の歴史は、あまりにも短かった。清正の死の翌年である慶長17年(1612年)、江戸幕府は清正の子・忠広に対し、水俣城、宇土城、そして矢部城(愛藤寺城)の三城を破却するよう命じた 3 。これは、後に全国的に施行される元和元年(1615年)の「一国一城令」に先駆けて行われた、極めて政治的な意図の強い措置であった。
この廃城命令の背景には、徳川幕府の周到な戦略があった。豊臣恩顧の有力大名であった加藤家が、強大な外様大名である島津家と国境を接し、そこに清正が築いた堅城群が存在する状況は、幕府にとって潜在的な脅威であった。特に、両者が連携する可能性を物理的に断つ必要があった。築城の名手であった清正の死は、幕府にとって加藤家の軍事力を削ぐ絶好の機会と映ったのである。若年の忠広が家督を継いだこの時期を捉え、国境の要衝に位置する堅固な支城を破却させることは、加藤家の弱体化と、ひいては幕藩体制の安定化に繋がる重要な一手であった。皮肉なことに、水俣城が対島津の拠点として軍事的に強化されたこと自体が、新たな政治体制下ではその存在を許されない最大の理由となったのである。城の軍事的価値が、時代の支配者の視点の変化によって、その運命を180度転換させた瞬間であった。
慶長17年(1612年)の幕命により、水俣城はその城郭としての歴史に幕を下ろした。しかし、物理的な建造物が失われた後も、その「場所」が持つ地理的・歴史的な意味は、形を変えて後世に影響を与え続けることとなる。
廃城後、水俣城は徹底的に破却されたとみられ、往時の姿を完全に失った 9 。長い年月を経て、城跡は現在「城山公園」として整備され、市民の憩いの場となっている 7 。公園の造成や近年の発掘調査により、かつての城の姿が断片的ながら明らかになってきている。園内のグラウンド脇には、造成時に発見された石垣が一部移設・保存されており、本丸があったとされる高台の下には、往時のものとされる古井戸の跡が残っている 3 。これらの遺構や調査結果から、水俣城が、特に加藤清正時代には石垣を多用し、複雑な塁線を持つ防御性の高い城であったことが判明している 30 。
城郭としては「死」を迎えた水俣城跡であったが、約265年の時を経た明治10年(1877年)、再び歴史の表舞台に登場する。日本最後の内戦である西南戦争において、西郷隆盛率いる薩摩軍が、その地形的な優位性に着目し、この城跡に陣を構えたのである 31 。政府軍との間で激しい戦闘が繰り広げられ、この地は再び戦火に包まれた。現在、城山公園内に西南戦争における薩軍の慰霊碑や官軍の墓地が残されていることは、その何よりの証左である 8 。この事実は、たとえ建造物が失われても、その土地が持つ戦略的な価値は不変であり、時代に応じて異なる形で歴史に影響を与え続けることを示している。物理的な城の消滅後、その場所が持つ地政学的な本質によって、歴史の舞台に「再生」した稀有な例と言えるだろう。
水俣城の歴史は、肥後と薩摩の国境に位置する一つの城の物語に留まらない。それは、相良氏と島津氏の長きにわたる攻防、相良氏内部の権力闘争、豊臣秀吉による天下統一と中央集権化、そして徳川幕府による新たな秩序の構築という、戦国時代から近世へと至る日本の大きな歴史の転換点を、その身をもって体現した存在であった。国境の要衝として生まれ、時代の波に翻弄され、そして最後は新たな時代の礎としてその役目を終えた水俣城は、戦国期九州の動乱を映す、まさに歴史の鏡であったと言えよう。