最終更新日 2025-08-20

水戸城

常陸水戸城は、那珂川と千波湖に挟まれた要害に築かれた日本最大級の「土の城」。江戸氏の拠点から佐竹義宣が大規模改修し、近世城郭の骨格を形成。関ヶ原の戦い後、徳川頼房が入城し水戸徳川家の居城となった。

戦国時代の要衝:常陸国・水戸城の徹底調査報告

序章:要害の地に立つ「土の城」― 水戸城の地理的・構造的特質

常陸国の中央に位置する水戸城は、日本の城郭史において特異な存在感を示す。その本質を理解するためには、まず城が立地する地形の卓越性と、その地形を最大限に活用した独自の構造を把握することが不可欠である。

水戸城は、北を那珂川、南を千波湖(古くは桜川が形成した広大な低湿地帯)に挟まれた、「上市台地」と呼ばれる舌状台地の東端に築かれている 1 。この馬の背のような地形は、三方を天然の堀で囲まれた自然の要害をなし、防御拠点として比類なき条件を備えていた。台地と周囲の低地との比高は24メートルから25メートルにも達し、これが防御上の絶大な優位性をもたらした 1 。考古学的調査によれば、この台地は縄文時代から人々の活動拠点として断続的に利用されており、古くからこの地が戦略的、あるいは生活上の要地として認識されていたことが窺える 1 。歴代城主がこの地を拠点として選び続けた根源的な理由は、この揺るぎない地理的優位性にあった。

しかし、水戸城を最も特徴づけるのは、徳川御三家の居城という高い格式にもかかわらず、石垣をほとんど用いることなく、巨大な土塁と空堀のみで防御を固めた「土の城」であるという点である 2 。近世城郭としては極めて異例であり、その規模は土造りの平山城として日本最大級と評される 2 。城の基本設計思想である縄張りは、台地の形状に沿って東端の最高地に本丸を置き、そこから西へ二の丸、三の丸を直線的に配置する「連郭式」が採用された 7 。この形式は一方向からの連続的な攻撃に脆弱性を抱えるものの、水戸城の場合は細長い台地の地形を最大限に活かした、極めて合理的な選択であった。

各曲輪(郭)を分断する空堀は、まさに圧巻の一言に尽きる。特に本丸と二の丸を隔てる堀は、深さ約22メートル、幅約40メートルという驚異的な規模を誇り、城の防御の核心をなしていた 6 。この「土を掘り、土を盛る」という中世以来の築城技術を極限まで高めた徹底的な土木工事こそが、石垣に代わる水戸城の防御思想の神髄であった。

関東地方は良質な石材の産地が限られ、伝統的に土木技術が城郭建築の基本であった 10 。水戸城の築城もこの技術的伝統の上に成り立っている。特に後述する佐竹氏による大改修期には、土木技術が高度に駆使された。発掘調査で確認された、粘土や砂などを層状に突き固めて強度を高める「版築状」の法面工事は、佐竹氏が高い技術者集団を擁していたことを物語る先進的な工法であった 11 。徳川時代には石垣化が計画されたものの、将軍の死去など政治的都合により実現しなかった 2 。この結果、戦国時代末期に佐竹氏が完成させた「土の城」の姿が、奇跡的に江戸時代を通じて維持されることになったのである。したがって、水戸城は「未完成の石垣の城」ではなく、「高度に完成された土の城」として再評価されるべきであろう。

水戸城 関連年表(戦国時代を中心に)

年代(西暦)

元号

城主(主要関連人物)

水戸城における出来事および関連事項

1190-98年頃

建久年間

馬場資幹

馬場氏が居館を築く(水戸城の起源、「馬場城」)

1426年

応永33年

江戸通房

上杉禅秀の乱に乗じ、江戸氏が馬場城を奪取。以後約170年間支配。

(江戸氏時代)

戦国期

江戸氏

二の丸まで城域を拡張。戦国期の拠点として整備。

1590年

天正18年

江戸重通、佐竹義宣

豊臣秀吉の小田原征伐。江戸氏は北条方、佐竹氏は秀吉方に参陣。

1590年12月

天正18年

佐竹義重・義宣

佐竹軍が水戸城を攻撃、わずか数日で落城。江戸重通は敗走。

1591年

天正19年

佐竹義宣

佐竹氏が本拠を太田城から水戸城へ移転。常陸統一を完了。

1593年頃

文禄2年

佐竹義宣

水戸城の大規模な改修を開始。三の丸の増築、大手門の移設など。

(佐竹氏時代)

文禄・慶長年間

佐竹義宣

薬医門の創建、城下町の整備が進む。近世城郭としての姿が完成。

1600年

慶長5年

佐竹義宣

関ヶ原の戦い。義宣は去就を曖昧にする。

1602年

慶長7年

佐竹義宣

徳川家康により、出羽秋田へ減転封。佐竹氏の水戸支配が終焉。

1609年

慶長14年

徳川頼房

徳川家康の十一男・頼房が入城。水戸徳川家の居城となる。

第一章:戦国前夜 ― 馬場氏の館から江戸氏の拠点へ

戦国時代の水戸城を語る上で、その前史、すなわち馬場氏による創始と、それに続く江戸氏による長期支配の時代を抜きにしてはならない。この時代に、後の大規模な城郭の原型が形成されたからである。

馬場氏による創始

水戸城の起源は、平安時代末期から鎌倉時代初期の建久年間(1190-98年)に遡る 6 。桓武平氏の流れを汲む平国香の子孫、馬場資幹がこの地に居館を構えたのが始まりとされる 1 。当初は「馬場城」とも呼ばれ、以後9代、約200年間にわたって馬場氏の支配拠点となった 2 。この時期の城は、現在の本丸跡にあたる台地の東端部分を中心とした、比較的小規模な館であったと推定されている。

江戸氏の入城と百七十年の支配

馬場氏の支配に終止符が打たれたのは、室町時代の応永23年(1416年)に勃発した上杉禅秀の乱であった。この動乱に乗じ、常陸北部の雄・佐竹氏の配下にあった河和田城主・江戸通房が馬場城を奇襲し、これを奪取した 2 。これより、天正18年(1590年)に至るまでの約170年間、水戸城は常陸江戸氏の拠点として歴史を刻むことになる。

江戸氏の出自は、常陸大掾氏の一族である那珂氏に遡る。南北朝時代の動乱で那珂氏が滅亡の危機に瀕した際、生き残った那珂通泰が那珂川沿いの下江戸を本拠とし、江戸氏を称したのが始まりとされる 10 。水戸城を手に入れた江戸氏は、この地を拠点として勢力を着実に拡大し、主家である佐竹氏の「四宿老」の一人に数えられるほどの重きをなす存在へと成長した 10

江戸氏の時代、城は大きく拡張された。馬場氏時代の館を「内城」(後の本丸)とし、その西側に新たに「宿城」(後の二の丸)を設けるなど、戦国期の城郭としての基礎が築かれた 2 。戦国時代の大部分において水戸城を支配したのは、この江戸氏であった。一般的に流布している「戦国時代の水戸城は佐竹氏の城」というイメージは、天正18年以降のわずか十数年の歴史に過ぎず、それ以前の170年間は江戸氏の城であったという事実こそ、戦国期水戸城の歴史を理解する上で極めて重要である 16 。江戸氏は単なる佐竹氏の従属勢力ではなく、佐竹宗家と「一家同位」の盟約を結ぶなど 10 、常陸中部において独自の勢力圏を築いた半独立的な国人領主であった。この視点の転換が、次章で述べる佐竹氏による攻略の歴史的意義をより一層鮮明にするのである。

第二章:天正十八年の激震 ― 佐竹義宣による水戸城攻略

天正18年(1590年)、日本の歴史を大きく転換させる出来事が、水戸城の運命をも根底から揺るがした。豊臣秀吉による小田原征伐である。この天下統一事業の奔流は、常陸国の勢力図を塗り替え、水戸城に新たな主を迎えることになった。

豊臣政権の誕生と常陸国の情勢

天下統一を目指す豊臣秀吉が、関東に君臨する後北条氏の討伐に乗り出した小田原征伐は、関東の諸大名に踏み絵を迫るものであった 6 。常陸北部の佐竹義宣は、父・義重とともにいち早く秀吉への臣従を決め、小田原攻めに参陣した 13 。この迅速な政治判断は、佐竹氏に大きな果実をもたらす。秀吉は佐竹氏の功を認め、常陸一国54万石の支配を公式に安堵したのである 5

一方で、水戸城主・江戸重通は、この歴史の岐路において致命的な判断ミスを犯す。彼は北条氏に与し、秀吉からの参陣命令を無視した 6 。これは、中央政権の動向を見誤り、旧来の関東における勢力関係に固執した結果であった。江戸重通は、佐竹氏との争いを従来の国人領主間の勢力争いと捉えていたが、現実には新しい天下人である秀吉の秩序に逆らう「反逆者」という立場に自らを追い込んでいたのである。

水戸城攻防戦と江戸氏の終焉

秀吉という絶対的な権威を後ろ盾に得た佐竹義宣は、公認された常陸国主として、領国内の「整理」に着手する。その最初の、そして最大の標的が水戸城であった。義宣は江戸重通に城の明け渡しを要求したが、重通はこれを頑なに拒否。ここに武力衝突は不可避となった 13

天正18年12月19日、佐竹軍は水戸城への攻撃を開始した 19 。この時、義宣自身は上洛中であったため、総指揮は父の義重が執ったとされる 5 。佐竹軍は軍を二手に分け、水戸城を挟撃する形で急襲した 20 。圧倒的な兵力と、何よりも「天下人のお墨付き」という大義名分を掲げた佐竹軍の前に、江戸氏の抵抗はあまりにも脆かった。戦闘はわずか一日、あるいは二日で決着し、水戸城は落城した 5

城主・江戸重通は燃え盛る城を脱出し、かねてより姻戚関係にあった下総国の結城氏のもとへと敗走した 10 。その後、結城家の当主となった結城秀康(徳川家康の次男)に庇護され、失意のうちに慶長3年(1598年)に43歳でその生涯を閉じた 10 。ここに、約170年にわたった水戸における江戸氏の支配は、完全に終焉を迎えたのである。

この水戸城攻略は、単なる地方の城の奪い合いではなかった。それは、「天下統一」という巨大な政治的変動が、地方の権力構造を再編する過程を象徴する事件であった。佐竹義宣は、秀吉の権威を巧みに利用した「執行者」として行動したのである 20 。この後、佐竹氏は同様に小田原に参陣しなかった大掾氏など常陸南部の諸勢力(いわゆる南方三十三館)も次々と滅ぼし、名実ともに常陸一国の支配者としての地位を確立していく 19 。水戸城の攻略は、この常陸統一事業の第一歩であり、最も象徴的な出来事だったのである。

第三章:佐竹氏の時代 ― 近世城郭への大改修と城下町の形成

江戸氏を追放し、水戸城を手中に収めた佐竹義宣は、ここを新たな本拠と定め、常陸54万石の大大名にふさわしい城郭へと大改修を施した。この佐竹氏によるわずか十数年の支配期間に、水戸城は中世的な城郭から近世城郭へと劇的な変貌を遂げ、現在の城跡の骨格が形成されたのである。

本拠移転と大規模普請

天正19年(1591年)、佐竹義宣は本拠地を、領国の北に偏りすぎていた従来の太田城から、常陸国の地理的中心に位置する水戸城へ正式に移した 13 。これは、広大な領国全体を効率的に統治するための、極めて戦略的な決断であった 20

本拠移転に伴い、文禄2年(1593年)頃から水戸城の大規模な改修普請が開始される 13 。この改修は、単なる防御施設の強化に留まらず、豊臣政権下の有力大名としてその権威と統治能力を内外に示すための「首都建設」事業としての性格を帯びていた。

具体的な改修内容は多岐にわたる。まず、城域を西側へ大きく拡張し、広大な三の丸を新たに造成した 1 。これにより、家臣団の屋敷や政庁機能を収容する広大な空間が確保され、城の性格は純粋な軍事拠点から、政治・行政拠点へと大きく移行した。縄張りも再編され、江戸氏時代の内城を「本丸」、宿城を「二の丸」とし、城の正面玄関である大手門を東側から西側の二の丸へと移設するなど、城全体の構造が再定義された 4

この佐竹氏の時代に創建されたと推定されるのが、現在、水戸城唯一の現存建造物である「薬医門」である 4 。本丸の表門(橋詰門)であったと考えられており、その太く頑丈な木割の構造は、安土桃山時代の質実剛健な気風を今に伝えている 5 。また、天守は築かれなかったものの、その代用として「三階物見」と呼ばれる櫓が建設された 7

城下町の形成

城郭の拡張と並行して、城下町の整備も精力的に進められた 17 。低湿地を埋め立てて武家地や町人地を造成するなど 27 、常陸国の新たな首都として、水戸の都市基盤がこの時期に築かれたのである。

佐竹氏が後に秋田へ移封された後、新たな居城として築いた久保田城も、水戸城と同様に石垣を用いない壮大な土の城であった 1 。これは、水戸城の大改修で培われた大規模な土木工事の技術や思想が、そのまま秋田へ持ち込まれたことを示唆している。つまり、戦国末期の水戸城は佐竹氏の築城術の一つの集大成であり、その後の久保田城の原型となったのである。現存する薬医門は、佐竹氏の権勢が頂点に達したこの短い期間を今に伝える、極めて貴重な歴史的証人と言えるだろう。

第四章:関ヶ原、そして秋田へ ― 戦国大名佐竹氏の終焉と水戸城

栄華を極めた佐竹氏の水戸支配は、しかし、長くは続かなかった。慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いが、再び佐竹氏と水戸城の運命を大きく揺り動かすことになる。この戦いは戦国時代の終焉を告げ、徳川の世の幕開けを決定づけたが、佐竹氏にとっては没落の始まりであった。

関ヶ原の戦いと佐竹氏の去就

天下分け目の関ヶ原の戦いにおいて、佐竹義宣は徳川家康率いる東軍への参陣に明確な態度を示さなかった 5 。これは、かねてより豊臣政権の重鎮であった石田三成と懇意であり、また会津の上杉景勝とも同盟関係にあったことなど、複雑な政治的背景によるものであった 5 。義宣の態度は「優柔不断」と評されることが多いが、豊臣家への「律儀」さや、戦国大名としての義理と現実の間で、極めて困難な判断を迫られた結果であった 28

しかし、この曖昧な態度は、戦いに勝利した徳川家康の不信を招く決定的な要因となった 28 。家康は、戦後の秩序を構築する上で、潜在的な脅威となりうる有力大名を容赦なく整理・再配置する方針を採った。

秋田への転封

慶長7年(1602年)5月、徳川家康は佐竹義宣に対し、常陸水戸54万石から出羽秋田20万石への大幅な減知転封という厳しい処分を命じた 5 。これは、関ヶ原で大きな兵力を温存していた有力大名である佐竹氏を、新たな政治の中心地である江戸から遠ざけたいという、家康の冷徹な政治的・戦略的意図によるものであった 30

これにより、佐竹氏による水戸支配はわずか12年で終わりを告げた。彼らが心血を注いで築き上げた近世城郭・水戸城は、新たな支配者である徳川氏の手に渡ることになったのである。佐竹氏の転封は、個人の判断ミスという側面以上に、新しい時代(徳川の世)の秩序構築の過程で、旧来の有力大名が淘汰されるという、非情な政治力学の結果であった。

徳川時代への移行

佐竹氏が去った後、水戸城には家康の五男・武田信吉、十男・徳川頼宣が短期間城主を務めた後、慶長14年(1609年)、十一男の徳川頼房が入城した 2 。ここに徳川御三家の一つ、水戸徳川家が創始され、水戸城はその居城として幕末まで続く新たな歴史を歩み始める。頼房は、佐竹氏が築いた城郭を基礎としつつ、二の丸に御殿を造営し、事実上の天守であった「御三階櫓」を建設するなど更なる整備を行った 12 。しかし、城の基本的な構造は佐竹時代のものが踏襲された。皮肉にも、佐竹氏が築いた城の物理的な遺産は、築城者の政治的運命とは切り離され、徳川御三家の城としてその価値を最大限に発揮することになったのである。

結論:戦国の記憶を刻む遺構 ― 水戸城の歴史的価値の再評価

水戸城の歴史は、戦国時代という激動の時代を通じて、在地領主の拠点から、常陸一国を支配する大大名の首都へと、その役割と構造を劇的に変化させた。特に、天正18年(1590年)の佐竹氏による攻略から慶長7年(1602年)の秋田転封までの期間は、豊臣政権による天下統一から関ヶ原の戦いを経て徳川幕府が成立するまでの、日本史の大きな転換点を凝縮した時代であり、水戸城はその中心舞台の一つであった。

今日、往時の建造物の多くは失われたが、その歴史の記憶は城跡の随所に色濃く刻まれている。三の丸に残る雄大な土塁と空堀、二の丸と三の丸の間の堀跡を利用した現在の道路、そして本丸と二の丸の間の巨大な堀切を走るJR水郡線の線路 6 。これらは、石垣なくして、いかにして堅固な城を築き上げたかという、先人の卓越した土木技術を物語る。そして何よりも、本丸跡に静かに佇む薬医門は、佐竹氏の栄光と、戦国時代の終焉をその身に刻み込んだ、唯一無二の歴史的証人である。

水戸城の歴史的価値は、単に徳川御三家の居城であったという点に留まらない。その本質は、戦国末期の政治的ダイナミズムの中で、卓越した「土の城」の築城技術を駆使して造り上げられた、時代の転換点を象徴する城郭であるという点にある。その巨大な土塁と空堀が語る物語に耳を傾けることこそ、水戸城の真の価値を理解する鍵となるであろう。

引用文献

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