沓掛城
尾張沓掛城の総合的研究 ―桶狭間の前夜から廃城まで―
序章:歴史の転換点に佇む城
愛知県豊明市にその痕跡を留める沓掛城は、日本の歴史、とりわけ戦国時代の画期をなす「桶狭間の戦い」において、今川義元が最後の一夜を過ごした城として広く知られている 1 。永禄3年(1560年)、天下に最も近いとされた駿州の大大名が、尾張の風雲児・織田信長に討たれるという歴史的事件の前夜、その軍事行動の中核を担ったのがこの沓掛城であった。しかし、この城の歴史的意義は、その単一の出来事に集約されるものではない。
本報告書は、沓掛城を尾張と三河という二大勢力がせめぎ合う「国境の城」という地政学的視点から捉え直し、その存在が地域の政治・軍事力学にいかに影響され、また影響を与えたかを多角的に分析するものである。築城の起源にまつわる謎から、発掘調査によって明らかになった城郭の変遷、桶狭間の戦いにおける戦略的役割、そして織田政権下での変容を経て、関ヶ原の戦いの余波の中で静かに歴史の舞台から姿を消すまでの全史を徹底的に解明し、その多層的な価値を明らかにすることを目的とする。
沓掛城 概要
項目 |
詳細 |
典拠 |
所在地 |
愛知県豊明市沓掛町東本郷 |
3 |
城郭構造 |
平山城 |
3 |
築城年 |
正中年間(1324-1326)説、または応永年間(1394-1428)説 |
3 |
主な築城者 |
近藤宗光説、または藤原義行説 |
3 |
歴代主要城主 |
近藤氏、簗田氏、織田氏、川口氏 |
3 |
廃城年 |
慶長5年(1600年) |
4 |
主な遺構 |
曲輪、土塁、空堀、井戸跡 |
3 |
現在の状況 |
沓掛城址公園(県史跡) |
3 |
第一部:沓掛城の黎明 ― 築城から戦国前夜まで
第一章:起源をめぐる諸説
沓掛城の歴史の幕開けは、複数の説が錯綜しており、明確な定説を見るには至っていない。記録上、この地の有力者の存在が示唆される最古のものは、鎌倉時代末期の正中2年(1325年)に、後醍醐天皇が沓掛の住人であった金堂宗光を召し出したという記録である 7 。この金堂宗光が、後に城主となる近藤宗光と同一人物、あるいはその一族であるとすれば、14世紀初頭には既にこの地に後の沓掛城の核となる勢力が根を張っていたことになる。
築城の具体的な時期と人物については、大きく二つの説が並立している。一つは、前述の近藤宗光が正中年間(1324-1326年)に築城したとする説である 3 。もう一つは、それから約70年後の応永年間(1394-1428年)に藤原義行なる人物が築いたとする説である 4 。両者の関係性は史料上明らかではないが、いずれの説を取るにせよ、室町時代を通じて藤原秀郷の後裔を称する近藤氏が代々城主としてこの地を支配していたことは、ほぼ間違いない事実とされている 6 。
この築城者と年代に関する二つの説の並立は、単なる記録の欠如や混乱として片付けるべきではないかもしれない。むしろ、城の発展が一度の築城事業によるものではなく、段階的なものであった可能性を示唆している。後述する発掘調査では、城の性格が時代と共に大きく変容したことが明らかになっており、この考古学的知見と文献上の記録を重ね合わせることで、新たな解釈が生まれる。すなわち、正中年間頃に近藤氏の生活拠点としての「居館」が成立し、その後、地域の緊張が高まる中で、応永年間頃に防御施設を強化した「城郭」へと改修・拡張されたという発展史である。この仮説に立てば、近藤宗光と藤原義行(あるいは近藤氏の一族)は、それぞれ異なる段階の城の姿に関わった人物として、矛盾なく歴史の中に位置づけることが可能となる。
沓掛を本拠とした近藤氏は、単なる地方の土豪に留まらない側面も持っていた可能性がある。一族の近藤伊景の娘が後奈良天皇の宮女として仕え、皇子を身ごもったという伝承が残されており、これが事実であれば、中央の権威とも繋がりを持つ、格式ある一族であったことが窺える 9 。
第二章:城郭の構造と発掘調査が語るもの
沓掛城は、旧鎌倉街道の名勝地である二村山の東麓、標高約21メートルの緩やかな丘陵の先端に築かれた平山城である 4 。その縄張り、すなわち城の設計は、江戸時代中期に描かれたとされる『沓掛村古城絵図』から窺い知ることができる。それによれば、城は本丸、二の丸、三の丸が北から南へ直線的に連なる連郭式の構造を持ち、本丸は堀に囲まれ、その内側に土塁が巡らされていた。さらに南を除く三方には侍屋敷が配置され、それら全体を外堀が囲むという、堅固かつ広大な構えであった。城域は東西約290メートル、南北約234メートルに及び、当時としては比較的大規模な城郭であったと推定される 5 。
長らく絵図や伝承の中にのみ存在した沓掛城の姿は、昭和56年(1981年)から昭和61年(1986年)にかけて豊明市教育委員会によって実施された本丸部分の発掘調査によって、その実存が考古学的に証明された 12 。この調査は、城の構造が静的なものではなく、時代の要請に応じてダイナミックに変容していった様を克明に描き出した。遺構の分析から、城の歴史は大きく三つの時期に区分できることが判明している 9 。
- 第一期: 苑池(庭園の池)を配した優雅な建物や、地面に直接柱を立てる掘立柱建物が存在した時期。この段階では、軍事拠点というよりも、領主の生活空間である「居館」としての性格が強かったと考えられる。
- 第二期: 居館時代の池は埋め立てられ、掘立柱建物も壊された。代わりに、深く掘られた堀と高く盛られた土塁、そして礎石の上に建物を築く礎石建物が造られた。これは明らかに防御機能を最優先した「城郭」への質的転換であり、城は戦闘拠点としての性格を強めていく。
- 第三期: 防御の要であった土塁が意図的に削り取られるなど、城郭としての機能が失われた時期。これは、後述する関ヶ原の戦い後の廃城措置に対応するものと考えられる。
この発掘調査における最も注目すべき発見の一つが、「天文十七」(1548年)と墨書された木簡の出土である 10 。この木簡は、天目茶碗などの陶磁器と共に出土し、桶狭間の戦いのわずか12年前に、城内で何らかの物品管理や行政活動が行われていたことを示す動かぬ証拠となった。この「天文十七年」という年代は、歴史的に極めて重要な意味を持つ。当時、尾張では織田信秀が勢力を拡大し、今川氏もまた三河への侵攻を本格化させていた。天文18年(1549年)には今川軍が織田方の安祥城を攻略し、天文20年(1551年)には信秀が病死するなど、尾張・三河国境地帯の軍事的緊張はまさに頂点に達しようとしていた 15 。このような緊迫した情勢の直前に記された木簡の存在は、城主であった近藤氏が、来るべき動乱に備え、城の防御体制を強化、すなわち第一期の「居館」から第二期の「城郭」へと移行させていた過程を物語る物証と解釈できる。沓掛城の構造的変遷は、戦国時代の緊張激化を物理的に体現したものであり、城が静的な建造物ではなく、外部情勢に応じて変容する生命体であったことを示している。
第二部:激動の時代 ― 桶狭間の戦いと沓掛城
桶狭間の戦いへと至る数年間、沓掛城とその城主は、尾張と三河の狭間で激しい時代の奔流に飲み込まれていく。その目まぐるしい展開を理解するため、まず関連する出来事を時系列で整理する。
桶狭間の戦い前後における沓掛城関連年表
年代 |
出来事 |
典拠 |
天文10年(1541年)頃 |
近藤景春、織田信秀の勢力拡大に伴いこれに追従。 |
6 |
天文20年(1551年) |
織田信秀が病死。織田家内に内紛の兆し。 |
6 |
永禄2年(1559年) |
近藤景春、鳴海城主・山口教継の誘いに応じ、今川義元に寝返る。 |
6 |
永禄3年(1560年)5月18日 |
今川義元、2万5千の大軍を率いて沓掛城に入城。 |
6 |
永禄3年(1560年)5月19日 |
義元、沓掛城を出陣。桶狭間にて織田信長の奇襲を受け討死。 |
6 |
永禄3年(1560年)5月21日 |
織田軍の攻撃により沓掛城は落城。城主・近藤景春も討死。 |
6 |
永禄3年(1560年)6月以降 |
桶狭間の戦功第一とされた簗田政綱が、信長より沓掛城を与えられ新城主となる。 |
6 |
第一章:尾張・三河国境の力学
沓掛城が位置する地域は、尾張国と三河国の国境地帯であり、その境界線は概ね境川によって形成されていた 17 。応仁の乱以降、この地域は守護大名の権威が失墜する中で、織田氏、今川氏、そして三河の松平氏といった新興勢力が覇を競う草刈り場と化していた 15 。このような不安定な環境下で所領を維持することは、国衆と呼ばれる在地領主たちにとって極めて困難な課題であった。
桶狭間の戦い当時の城主、九代目・近藤景春もまた、その苦悩の渦中にいた。藤原秀郷を祖と称する名門の出である近藤氏は、当初三河の松平広忠(徳川家康の父)に属していたが、天文年間に入り織田信秀が尾張を席巻し三河へも頻繁に出兵するようになると、その強大な軍事力を前に、近隣の土豪たちと共に信秀に追従する道を選んだ 6 。しかし、天文20年(1551年)にその信秀が急死し、後を継いだ信長の統治が安定しない中、織田家内で内紛が起こると、パワーバランスは再び流動化する 15 。
この好機を捉えたのが、駿河・遠江・三河を支配下に置き、尾張への進出を窺う今川義元であった。義元は、織田方から寝返った鳴海城主・山口教継を通じて、近藤景春に調略の手を伸ばす。景春はこれに応じ、再び主君を替え、今川方の将となった 6 。この景春の寝返りは、単なる裏切りや日和見主義として断じることはできない。これは、弱体化した主家を見限り、新たに強大な庇護者を得ることで自領と一族の安泰を図るという、国衆としての極めて現実的な生存戦略であった。
そしてこの決断は、単に近藤家一門の運命を変えただけでなく、戦国史を塗り替える大きな戦いの引き金の一つとなった。景春の帰順により、今川義元は尾張侵攻の最前線に、敵地深くに楔を打ち込むための安全な前進基地を労せずして手に入れたのである。もし沓掛城が織田方のままであれば、義元の大軍はここを力攻めするか、大きく迂回することを余儀なくされ、時間と兵力を消耗し、信長に迎撃の態勢を整える貴重な時間を与えてしまったであろう。近藤景春の寝返りは、義元の尾張侵攻作戦の成否を左右する、極めて重要な戦略的布石となったのである。
第二章:今川義元、最後の一夜
永禄3年(1560年)5月18日、池鯉鮒(現在の知立市)を出立した今川義元は、2万5千と号する大軍を率いて沓掛城に入城した 6 。当時の城主・近藤景春に迎えられた城内は、海道一の弓取りと謳われた義元の威光と、大軍の熱気に満ち溢れていたことであろう。『信長公記』によれば、義元は合戦の二日前に沓掛城に入ったとされ、ここで最後の軍議(軍評定)を開いたと推察される 20 。議題は、織田方に包囲され孤立していた味方の拠点、大高城と鳴海城の救援策であった。具体的には、松平元康(後の徳川家康)による大高城への兵糧入れの成功報告を受け、さらに織田方が築いた最前線の砦、丸根砦と鷲津砦への攻撃部署などを最終確認したと考えられる 6 。この時点では、今川軍の作戦は計画通りに進んでおり、城内は目前の勝利への期待感に包まれていたに違いない。
義元が後方の三河国内に留まらず、自ら最前線の沓掛城まで進出したという事実は、この尾張侵攻が単なる局地的な砦の救援作戦ではなく、尾張の恒久的支配を視野に入れた本格的な「制圧作戦」であったことを物語っている。総大将が危険を冒してまで最前線で直接指揮を執るという行為自体が、この作戦の重要性と、彼の並々ならぬ決意、そして自軍の勝利への絶対的な自信の表れであった。
翌19日の朝、午前8時頃、義元は本隊を率いて沓掛城を出立した 20 。目指すは、大高城方面を見渡せる桶狭間山であった。一説には、この出立の際に義元が乗っていた馬が暴れて落馬し、側近が慌てて輿に乗り換えさせたと伝えられている 6 。これが事実であれば、それは海道一の大大名に訪れる悲劇的な運命を暗示する、不吉な出来事であったのかもしれない。沓掛城で過ごした一夜は、義元にとって、その栄光に満ちた人生の最後の一夜となったのである。
第三章:落城と近藤氏の終焉
5月19日午後、桶狭間で休息中の今川本隊は、折からの豪雨を突いて進軍してきた織田信長の本隊による奇襲を受け、大混乱に陥った。その乱戦の中、総大将・今川義元は討ち取られ、2万5千を誇った大軍は総崩れとなった 15 。この衝撃的な敗報は、各地に展開していた今川方の諸将に計り知れない動揺を与えた。
義元の死によって指揮系統を失った今川軍が潰走する中、勢いに乗る織田軍は直ちに反攻に転じ、今川方に奪われていた尾張国内の諸城の奪還を開始した 15 。沓掛城も当然その標的となった。城主・近藤景春は、桶狭間の戦場から城へと戻り、籠城の構えを見せたが、もはや趨勢は決していた。5月21日、織田軍の猛攻の前に沓掛城は陥落。景春は奮戦虚しく討死(一説に横死)を遂げた 6 。
この落城により、鎌倉時代末期から2世紀以上にわたってこの地を治めてきた名族・近藤氏による沓掛支配は、悲劇的な終焉を迎えた。景春が深く信仰していた念持仏の薬師如来像は、落城の混乱の中で行方知れずとなったが、後年(寛永元年・1624年)に近藤氏の一族によって地中から掘り出され、長盛院の本尊として祀られたという伝承が残っている 9 。この逸話は、一族の栄枯盛衰と、戦国の世の無常を静かに物語っている。
沓掛城の迅速な陥落は、桶狭間の戦いが単なる野戦での勝利に留まらず、尾張・三河国境地帯の勢力図を一瞬にして塗り替えた「戦略的勝利」であったことを証明している。総大将を失った今川方は組織的な抵抗力を完全に喪失し、国境地帯の支配権は雪崩を打って織田方に移った。近藤景春のように、大国の狭間で生き残りをかけて今川に与した国衆たちは、その庇護者を失い、織田の報復を前にして為す術もなかった。沓掛城の運命は、戦国乱世における国衆の脆弱な立場を象徴する出来事であったと言えよう。
第三部:新たな支配者たち ― 織田政権下から廃城へ
第一章:戦功第一の城主、簗田政綱
今川義元を討ち取り、奇跡的な勝利を収めた織田信長は、戦後の論功行賞において、極めて革新的な評価を下した。敵将の首を取った毛利新介や服部小平太といった武勇の士を差し置いて、「この度の戦功第一」と賞されたのは、簗田政綱(やなだ まさつな)、通称・出羽守であった 23 。そして政綱には、破格の恩賞として沓掛三千貫文の所領と、まさに今しがた攻略したばかりの沓掛城が与えられたのである 6 。
政綱の功績は、槍働きに代表されるような直接的な戦闘行為ではなかった。彼の最大の功績は、今川軍の進軍経路や兵力配置、そして最も重要な情報である義元本陣の正確な位置を事前に偵察し、信長に報告した「諜報活動」にあった 23 。信長は家臣たちの前で「この勝利はすべて梁田(簗田)の情報によるものである。これからは皆、梁田のようになってくれ」と述べたと伝えられており、情報戦の重要性を誰よりも深く認識していたことが窺える 25 。
信長が簗田政綱に沓掛城を与えたという人事は、単なる功績への報酬という側面を遥かに超えた、高度な政治的パフォーマンスであった。数日前まで敵の大将・今川義元が最後の夜を過ごした城に、その義元を討ち取るための決定的な情報をもたらした功労者を新たな城主として据える。この劇的な構図は、旧体制(今川)の象徴を、新体制(織田)の象徴で鮮やかに上書きする行為に他ならない。それは、尾張・三河の国衆たちに対し、「時代は変わった。これからは織田の時代であり、旧来の価値観ではなく、結果を出した者が正当に評価され報われるのだ」という明確かつ強烈なメッセージを発信するものであった。簗田政綱の沓掛城入城は、まさしく時代の転換点を象徴する出来事だったのである。
第二章:変転する城主と城の役割
簗田政綱が城主となった沓掛城であったが、その軍事拠点としての重要性は、時代の進展と共に急速に薄れていく。桶狭間の戦いがもたらした最大の地政学的変化は、今川氏の軛から逃れた松平元康(徳川家康)が三河で独立を果たしたことであった 15 。そして永禄5年(1562年)、織田信長と徳川家康の間で清洲同盟が成立すると、それまで敵対関係にあった尾張と三河の国境は、強固な同盟国同士の境界線へとその姿を変えた。これにより、国境地帯の軍事的緊張は消滅し、最前線の砦であった沓掛城はその存在意義の多くを失った。
城の役割の変化は、その後の城主の変遷にも見て取れる。天正3年(1575年)、簗田政綱が加賀天神山城主へと転封になると、その後は織田信照(信長の弟・信行の子とされる)、そして川口宗勝(久助)といった人物が城主を務めた 5 。信長が「天下布武」を掲げて戦いの舞台を畿内、北陸、中国地方へと拡大していく中で、もはや安全な後方地帯となった尾張国内の沓掛城は、軍事拠点としての役割を終え、知行地を管理するための行政拠点、あるいは功臣に与えるための資産としての性格を強めていったと考えられる。歴史の表舞台から、城は静かに降りていったのである。
第三章:関ヶ原、そして廃城
沓掛城の歴史は、奇しくも日本の運命を決定づけた二つの天下分け目の戦いに深く関わることで、その始まりと終わりを刻印されることとなる。桶狭間の戦いによって歴史の表舞台に躍り出たこの城は、関ヶ原の戦いによってその役目を終えるのである。
慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に生じた徳川家康率いる東軍と、石田三成を中心とする西軍の対立は、関ヶ原での決戦へと至った。この時、沓掛城の最後の城主であった川口宗勝は西軍に与して参陣した 5 。しかし、周知の通り、戦いはわずか一日で東軍の圧勝に終わり、西軍は壊滅。川口宗勝も敗戦後に捕らえられ、伊達政宗預かりの身となった 6 。
主君が西軍に属したことで、沓掛城の運命もまた決した。新たな天下人となった徳川家康の下で、城は収公(没収)され、廃城とされた 5 。これは、徳川による新たな支配体制を盤石にするため、各地の城郭を整理・削減していく政策(後の元和偃武や一国一城令へと繋がる流れ)の先駆けであり、戦国乱世の終焉を象徴する出来事であった 27 。
こうして沓掛城は、桶狭間という戦国時代の大きな転換点の舞台となることでその名を歴史に刻み、関ヶ原という戦国時代の終焉を告げる戦いの結果、その歴史に幕を下ろした。一つの城の盛衰が、時代の始まりと終わりを告げる二大決戦と見事に同期している様は、他に類を見ない稀有な例と言えるだろう。
終章:史跡としての沓掛城
第一章:現代に遺るもの
慶長5年(1600年)に廃城となった後、400年以上の時を経て、沓掛城の跡地は現在「沓掛城址公園」として整備され、歴史を今に伝える貴重な史跡であると同時に、地域住民の憩いの場として親しまれている 3 。
公園として整備されているものの、城の遺構は驚くほど良好な状態で保存されている。本丸、二の丸、そして本丸の北西に位置する諏訪曲輪といった主要な郭の形状が明瞭に残り、往時の縄張りを体感することができる 5 。中でも特筆すべきは、本丸を囲む空堀である。特に北側と西側の空堀は規模が大きく、深さや角度もよく残っており、城の防御思想を雄弁に物語る最大の見どころとなっている 11 。本丸跡には井戸の跡も残り、南側には大手門があったと推定されている 30 。
この歴史遺産は、現代の地域文化とも巧みに共生している。春には園内の桜が見事に咲き誇り、隠れた花見の名所として人々を楽しませる 1 。また、初夏になると、空堀の一部を利用して造られたビオトープで蛍が飼育され、幻想的な光の舞を見ることができるというユニークな試みも行われている 5 。さらに、毎年6月には近隣の桶狭間古戦場跡と連携して「桶狭間古戦場まつり」が開催され、その会場の一つとして、歴史を未来に伝える拠点としての役割も担っている 5 。
第二章:総括
本報告書を通じて詳述してきたように、沓掛城の歴史的価値は、単に「今川義元が最後に宿泊した城」という一点のみで記憶されるべきではない。その意義は、より多層的かつ深遠である。
第一に、**「国境の城」**として、尾張と三河という二大勢力のパワーバランスの変遷を映し出す鏡であった。近藤氏が織田と今川の間で揺れ動いた様は、戦国国衆の過酷な現実そのものである。
第二に、**「時代の転換点の舞台」**として、桶狭間の戦いという歴史的瞬間に不可欠な役割を果たした。また、その終焉が関ヶ原の戦いの結果に直結している点も、この城の特異な歴史を物語っている。
第三に、**「考古学的価値」**として、発掘調査によって「居館」から「城郭」へと変貌を遂げる過程が具体的に解明された。これは、戦国の緊張が物理的な構造に与えた影響を示す貴重な実例である。
そして最後に、**「人物史の交差点」**として、近藤景春、今川義元、織田信長、簗田政綱、そして最後の城主・川口宗勝といった、戦国時代を彩った様々な人物たちの運命が交錯した場所であった。
結論として、沓掛城は、戦国という時代の力学、戦略、そしてその終焉までを、その身をもって体現した極めて重要な歴史遺産である。その地に立てば、今もなお、歴史の転換点に立ち会った者たちの声が聞こえてくるかのようである。
引用文献
- 沓掛城址公園 | 【公式】愛知県の観光サイトAichi Now https://aichinow.pref.aichi.jp/spots/detail/3046/
- 沓掛城 (愛知県豊明市) -今川義元最後の晩餐の地 - にわか城好きの歴史探訪記 https://tmtmz.hatenablog.com/entry/2023/02/26/080000
- 沓掛城 http://chiezoikomai.umoretakojo.jp/aichi/owari/kutukake.html
- 沓掛城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/1575
- お城発見!『沓掛城』 | 豊明市 - 愛知県知多半島に展開するパチンコ有楽グループ https://yuraku-group.jp/sanpo/kutsukake-jyou/
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- 沓掛城 - 歴史うぉ~く https://rekisi-walk.com/%E6%B2%93%E6%8E%9B%E5%9F%8E/
- 近藤景春とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E8%BF%91%E8%97%A4%E6%99%AF%E6%98%A5
- 豊明市指定文化財/豊明市 https://www.city.toyoake.lg.jp/3356.htm
- 沓掛城の写真:市指定史跡 沓掛城址 案内板[伝もものふ山田(ヤマー)さん] https://kojodan.jp/castle/181/photo/156573.html
- 沓掛城 - - お城散歩 - FC2 https://kahoo0516.blog.fc2.com/blog-entry-834.html
- 【懐かし映像】沓掛城址で発掘調査 愛知県豊明市【1982年1月12日放送】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=Taeu5MbxsZE
- 日本の城探訪 沓掛城 - FC2 https://castlejp.web.fc2.com/03-hokurikutoukai/91-kutsukake/kutsukake.html
- 沓掛城(くつかけじょう)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%B2%93%E6%8E%9B%E5%9F%8E-179905
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- 戦国時代も江戸時代も尾張と三河の国境だった境川を歩いてみた感想 https://sengokushiseki.com/?p=4482
- 三河国と尾張国は応仁の乱で大きく動かされた!最大の激戦は三河国の守護職争いだった!? https://articles.mapple.net/bk/5197/
- 今川義元が、桶狭間の戦いに出陣した城「沓掛城」 - 武将愛 https://busho-heart.jp/archives/5255
- 沓掛城 | あいち歴史観光 - 愛知県 https://rekishi-kanko.pref.aichi.jp/place/place17.html
- レジメ桶狭間 - 横浜歴史研究会 https://www.yokoreki.com/wp-content/uploads/2022/11/%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%83%A1%E6%A1%B6%E7%8B%AD%E9%96%93.pdf
- 今川義元(今川義元と城一覧)/ホームメイト https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/32/
- 織田信長の家臣であった梁田政綱の城。 政綱は永禄3年(1560) 桶狭間の戦 - 信用金庫 http://www.shinkin.co.jp/ichii/sengoku/data/P074_kunotubojyou.pdf
- 沓掛城の見所と写真・500人城主の評価(愛知県豊明市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/181/
- 戦国新報 https://takajuu.co.jp/nakanaka/nakami/h5/401.html
- 沓掛城@信長之野望精華區 - 巴哈姆特 https://forum.gamer.com.tw/G2.php?bsn=64&sn=646
- 一国一城令のもたらしたもの/ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/16936_tour_017/
- 一国一城令 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%9B%BD%E4%B8%80%E5%9F%8E%E4%BB%A4
- 沓掛城址 - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/437300
- 沓掛城の駐車場や御城印、見どころ(空堀、曲輪など)を紹介! https://okaneosiroblog.com/aichi-kutsukake-castle/
- 沓掛城址公園 | 愛知 おすすめの人気観光・お出かけスポット - Yahoo!トラベル https://travel.yahoo.co.jp/kanko/spot-00009942/