会津と越後の国境に位置する津川城は、金上氏が築き蘆名氏の西門として機能。金上盛備の時代に上杉氏と激闘を繰り広げるも滅亡。その後、近世城下町の礎を築き、一国一城令で廃城となった。
津川城は、現在の新潟県東蒲原郡阿賀町にその跡を残す、中世から近世初頭にかけての山城である 1 。その立地は、阿賀野川と常浪川が合流する地点に鋭く突き出した麒麟山(標高約191メートル)の天険を利用したものであり、三方を断崖に囲まれた天然の要害であった 1 。この地形そのものが、城の防御能力の根幹を成し、長きにわたるその歴史的役割を決定づけた。
この城の特異性は、その地理的所属と政治的帰属の間に存在する「ねじれ」にある。行政区分上は一貫して越後国蒲原郡に属しながら、鎌倉時代の築城から江戸時代初期の廃城に至るまで、その支配権は常に会津の領主が掌握し続けた 4 。この事実は、津川城が単なる越後の城ではなく、会津勢力が越後方面へ突き出した最前線基地、すなわち「境目の城」としての性格を色濃く持っていたことを物語っている 7 。
この地政学的な位置づけにより、津川城は会津の蘆名氏にとっては越後攻略の橋頭堡であり、越後の上杉氏にとっては会津からの侵攻を阻む第一の障壁であった 2 。両勢力の力が拮抗する国境地帯にあって、津川城は常に軍事的な緊張の最前線に置かれ、その存在は南奥羽から北越後にかけての勢力均衡に大きな影響を与え続けたのである。
本報告書は、この津川城が辿った約400年間の興亡の歴史を、戦国時代という激動の時代を主軸に据え、多角的に解き明かすことを目的とする。鎌倉時代の築城から、城主・金上氏の盛衰、特に「蘆名の執権」とまで称された金上盛備の動向、そして蘆名氏滅亡後の目まぐるしい城主の変遷を経て、江戸時代初期に廃城となるまでの通史を、城郭構造の分析や文化的背景と絡めながら詳述する。これにより、一地方の山城の歴史を通して、戦国という時代のダイナミズムと、国境地帯に生きた人々の宿命を浮き彫りにしたい。
津川城の創始については、鎌倉時代の建長四年(1252年)、会津守護であった蘆名氏の一族、藤倉(のちの金上)盛弘が、会津領の西端防備と越後進出の拠点とするために築いたと伝えられている 2 。ただし、この築城年代については確たる史料に乏しく、あくまで伝承の域を出ないとする見方もある 4 。
築城主とされる藤倉氏は、その祖を辿れば、源頼朝による奥州合戦の功により会津の地を与えられた佐原義連に行き着く 2 。佐原氏は桓武平氏三浦氏の流れを汲む名門であり、蘆名氏とは同族の関係にあった 10 。この血縁的な繋がりこそが、金上氏が蘆名家臣団の中で特別な地位を占め、国境の最重要拠点である津川城を代々任される背景となった。盛弘の子・盛仁の代から、本拠地であった会津大沼郡金上(かながみ)の地名にちなみ、「金上」の姓を名乗るようになったとされる 13 。
築城以来、津川城は金上氏代々の居城となり、会津の西門として越後に対する防衛の任を担い続けた 9 。その歴史は平穏なものではなく、常に国境紛争の舞台となった。例えば、室町時代の永享五年(1433年)には、越後の五十公野城を拠点とする新宮氏が再起をかけて津川城に攻め寄せたが、金上氏はこれを撃退し、新宮氏を滅亡に追い込んでいる 14 。この事例は、津川城が単なる防衛拠点に留まらず、会津の勢力圏を維持・拡大するための積極的な軍事拠点として機能していたことを示している。
金上氏による津川城の支配は、単なる一族への領地分与という内向きの政策ではなく、蘆名氏の国家戦略における「西への勢力拡大」という明確な意図を担った、極めて重要な軍事・政治的配置であった。最も危険で戦略的価値の高い国境地帯を、一門衆筆頭の金上氏に委ねることで、蘆名氏は越後方面への影響力を確保しようとしたのである。戦国時代に至るまで、津川城は蘆名氏の越後経営における最重要拠点としての地位を不動のものとしていった。
津川城の防御思想は、その立地である麒麟山の地形を最大限に活用することから始まっている。阿賀野川と常浪川が天然の堀として三方を固め、残る東側も尾根続きの険しい山容を呈しており、まさに難攻不落の要害であった 2 。そのあまりの険しさから、俊敏な狐でさえも登るのを諦めて引き返してしまうという意味で、「狐戻城(きつねもどりじょう)」という異名が付けられたほどである 6 。この名は、城の防御能力の高さを端的に物語るものとして、後世にまで語り継がれている。
城の縄張り(設計)は、山の地形を巧みに利用して構築されている。最も防御に適した西側の尾根先端に主郭(本丸)を置き、そこから南側の斜面には二の丸、北側の斜面には複数の帯曲輪(おびくるわ)を階段状に配置している 13 。これにより、どの方向からの攻撃に対しても、立体的かつ多層的な防御網で対抗できる構造となっていた。
津川城の構造を語る上で特筆すべきは、石垣の多用である。中腹以下にも大小多数の腰曲輪が設けられ、その全域にわたって素朴ながらも堅固な「鉢巻石垣」が見られる 14 。特に、本丸下の出丸南面に残る高石垣は、当時の土木技術の高さを今に伝えている 13 。越後の中世山城において、これほど大規模な石垣が用いられる例は極めて珍しい 5 。これは、津川城が会津の築城文化の強い影響下にあったことを示す物的な証拠であり、城の政治的帰属が会津にあったことを雄弁に物語る遺構である。
石垣に加え、城内には様々な防御施設が効果的に配置されていた。敵の直進を阻む竪堀(たてぼり)や、尾根を分断する堀切(ほりきり)、曲輪の防御力を高める土塁などが要所に設けられ、鉄壁の防御システムを形成していた 2 。さらに、籠城戦に備えて水の手曲輪や井戸も確保されており 13 、麓には城主や家臣が居住する侍屋敷群が配されるなど 2 、城全体が一個の軍事都市として機能するよう設計されていたことが窺える。
曲輪・遺構名 |
位置(主郭からの相対位置) |
推定される機能 |
現存する主な遺構 |
本丸(主郭) |
西側尾根先端 |
司令部、最終防衛拠点 |
曲輪跡、金上稲荷神社、展望台 |
二の丸 |
主郭南側斜面 |
主要な居住区、兵員駐屯地 |
曲輪跡、竪堀 |
帯曲輪群 |
主郭北側斜面 |
兵員駐屯地、防御施設 |
5段の曲輪跡 |
水の手曲輪 |
本丸下、出丸南面 |
水源確保(井戸) |
曲輪跡、井戸跡 |
高石垣 |
水の手曲輪上部 |
斜面の補強、防御壁 |
石垣 |
馬場跡 |
城内平坦部 |
馬の訓練、兵員集合場所 |
平坦地、歌碑 |
侍屋敷群 |
西側山麓 |
家臣団の居住区 |
屋敷跡、土塁 |
竪堀・堀切 |
尾根筋、斜面各所 |
敵の移動阻害 |
堀跡 |
戦国時代、津川城と金上氏の歴史は、第15代当主・金上遠江守盛備(かながみ とおとうみのかみ もりはる)の登場によって頂点を迎える。盛備は、蘆名盛氏から盛興、盛隆、そして義広に至る四代の当主に仕え、その卓越した政治手腕と深い見識から「蘆名の執権」と称された、蘆名家中興の第一人者であった 8 。
彼は蘆名家臣団の筆頭として三万八千石という破格の所領を有し、津川城を拠点に対上杉氏の最前線を守る軍事司令官であると同時に、蘆名家の内政・外交を主導する最高実力者でもあった 2 。その外交手腕は中央にも及び、当時天下人への道を歩んでいた織田信長と交渉し、主君・蘆名盛隆に三浦一族の惣領のみが許される名誉な官位「三浦介(みうらのすけ)」を授けさせることに成功するなど、蘆名家の権威向上に大きく貢献した 19 。
盛備が城主であった時代、津川城はまさに歴史の奔流の只中にあった。天正六年(1578年)に越後で上杉謙信が急死すると、後継者を巡る内乱「御館の乱」が勃発する。蘆名氏はこれを越後への勢力拡大の好機と捉え、津川城を拠点として軍事介入を試みた 17 。さらに、乱後に恩賞への不満から発生した「新発田重家の乱」においても、蘆名氏は新発田氏を支援し、津川城は上杉景勝を苦しめるための重要な拠点として機能した 2 。
しかし、蘆名氏の内部にも動揺が走る。天正八年(1580年)に当主・盛氏が死去し、その跡を継いだ盛隆も天正十二年(1584年)に家臣によって暗殺されるという悲劇に見舞われた 19 。跡を継いだのは生後わずか1ヶ月の亀王丸であったが、この幼君も疱瘡により3歳で夭逝してしまい、名門蘆名氏は突如として断絶の危機に瀕したのである 8 。
当主不在となった蘆名家では、後継者を巡って家臣団が二つに分裂する。一方は、北に接する強大な隣国・伊達政宗の弟である小次郎を迎えようとする伊達派。猪苗代盛国をはじめとする多くの重臣がこちらを支持した 22 。もう一方は、南の雄・佐竹義重の子である義広を迎えようとする佐竹派。この派閥を率いたのが、金上盛備であった 22 。
盛備の判断は、極めて冷静な地政学的戦略に基づいていた。当時、急速に勢力を拡大する伊達政宗は蘆名家にとって最大の脅威であり、その弟を当主に迎えることは、いずれ蘆名家が伊達家に吸収されることを意味しかねない。それに対し、佐竹氏とはこれまで協調路線を保っており、義広を当主に迎えることで佐竹氏との同盟を強固にし、伊達氏に対抗する南北の防衛線を築くことが、蘆名家存続のための最善の道であると考えたのである 8 。盛備はその卓越した政治力を駆使して家中の意見をまとめ上げ、ついに佐竹義広を蘆名家の新当主として黒川城に迎え入れた 26 。
しかし、この盛備の合理的な判断は、皮肉にも蘆名家滅亡の引き金となる。義広の家督継承に不満を抱いた伊達派の家臣たちは離反し、伊達政宗に内通。政宗はこれを好機と捉え、蘆名領への侵攻を開始する 23 。
天正十七年(1589年)六月五日、磐梯山麓の摺上原(すりあげはら)で、蘆名・佐竹連合軍と伊達軍が激突した。この戦いで、蘆名方の重臣・猪苗代盛国が伊達方へ寝返ったことが決定打となり、蘆名軍は総崩れとなる 14 。
この時、盛備は居城である津川城にあって国境警備の任に就いていた。主家の危機を告げる急報に接するや、手勢を率いて昼夜を問わず戦場へと駆けつけたが、到着した時にはすでに大勢は決していた 14 。もはやこれまでと覚悟を決めた盛備は、主君・義広を逃すための殿軍(しんがり)を務めたとも、あるいは蘆名家への殉死を覚悟して敵陣に突撃したとも言われる。伊達軍の猛攻の中、奮戦虚しく、壮絶な最期を遂げた。享年63 1 。
「蘆名の執権」と謳われた名将の死とともに、戦国大名としての蘆名氏は滅亡。会津の西門を守り続けた津川城は、その主を失い、伊達政宗の手に落ちたのである。
蘆名氏の滅亡後、津川城は中央政権の動向に翻弄され、城主が目まぐるしく入れ替わる激動の時代を迎える。
摺上原の戦いに勝利した伊達政宗は、会津一帯をその支配下に収め、津川城には重臣の原田宗時を城主として配置した 1 。しかし、政宗の会津支配は長くは続かなかった。天正十八年(1590年)、天下統一を進める豊臣秀吉は、小田原征伐への遅参と惣無事令違反を理由に政宗から会津領を没収(奥州仕置) 1 。津川城もまた、伊達氏の手を離れることとなった。
秀吉によって新たに会津の領主として封じられたのは、蒲生氏郷であった。氏郷は津川城の重要性を認識し、家臣の北川忠信を城主とした 1 。しかし、文禄四年(1595年)に氏郷が若くして亡くなると、蒲生家はお家騒動(蒲生騒動)に見舞われ、大幅に領地を減らされて宇都宮へ転封となった 1 。
蒲生氏に代わって会津百二十万石の領主となったのは、越後から移封された上杉景勝であった。慶長三年(1598年)、景勝は津川城主として藤田信吉を任命し、一万一千石を与えた 1 。藤田信吉は武略・智略に優れた武将であったが、上杉家が徳川家康との対決姿勢を強める中、家康との協調を主張したため、直江兼続らと対立し、最終的に上杉家を出奔した 14 。その後は鮎川氏が城主を務めたとされる 1 。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に与した上杉景勝は、戦後、会津から米沢三十万石へと大幅に減移封された 14 。これにより、津川城における上杉氏の支配もわずか3年で終わりを告げた。
関ヶ原の戦いの後、会津には再び蒲生氏が返り咲き、氏郷の子・秀行が六十万石の領主となった 14 。これに伴い、津川城主には蒲生氏の家臣・岡半兵衛重政が就任した 1 。その後、岡重政が処刑されると、秀行の次男で徳川家康の外孫にあたる蒲生忠知が、小川庄(東蒲原郡)などを合わせて五万石で津川城主となった 14 。
この約40年間における城主の変遷は、豊臣政権末期から江戸幕府初期にかけての日本全体の政治情勢が、津川城という一つの城の運命にいかに直接的に反映されていたかを如実に示している。
支配大名 |
城主名 |
在城期間(西暦) |
石高(判明分) |
特記事項 |
伊達政宗 |
原田宗時 |
1589年 - 1590年 |
不明 |
摺上原の戦いの後に入城。奥州仕置により退去。 |
蒲生氏郷 |
北川忠信 |
1590年 - 1598年 |
不明 |
蒲生氏の会津入封に伴い城主となる。 |
上杉景勝 |
藤田信吉 |
1598年 - 1600年頃 |
11,000石 |
上杉氏の会津入封に伴い城主となる。後に徳川家康に通じ出奔。 |
|
鮎川帯刀 |
1600年頃 - 1601年 |
不明 |
藤田信吉の後任。 |
蒲生秀行・忠郷 |
岡重政 |
1601年 - 1613年 |
不明 |
蒲生氏の会津復帰に伴い城主となる。後に処刑される。 |
|
蒲生忠知 |
1614年 - 1626年 |
50,000石 |
岡重政の後任。徳川家康の外孫。後に山形・上の山へ転封。 |
戦国の世が終わり、世の中が安定期へと向かう中で、津川城の役割もまた、軍事拠点から統治の拠点へとその性格を変化させていく。その象徴的な出来事が、蒲生氏家臣・岡半兵衛重政による城下町の整備であった。
慶長六年(1601年)に津川城主となった岡重政は、智略に優れ、特に民政における行政手腕に長けた武将であった 14 。彼が城主であった慶長十五年(1610年)、津川の町を大火が襲う 14 。町の大半を焼失する未曾有の災害であったが、重政はこの復興事業において、後世に残る画期的な都市計画を実行した。
重政が考案したのは、雪深い津川の気候に対応するための「雁木(がんぎ)」の設置であった 14 。これは、町屋の家々が道路に面した軒先を長く伸ばし、その下の空間を公の通路として共有する仕組みである。これにより、冬に大量の雪が降っても、人々は雪に埋もれることなく町中を往来できるようになった 28 。私有地を公共の利益のために提供させるこの先進的な取り組みは、住民の生活を大いに助けた。
この岡重政による雁木造りは、記録に残るものとしては日本で最も早い例とされ、津川は「雁木発祥の地」として知られている 28 。津川地方では、この雁木を親しみを込めて「とんぼ」と呼ぶ 29 。重政の都市計画は、敵の侵入を想定した鉤型の道筋など、城下町としての防御機能も備えつつ 29 、住民の生活を第一に考えたものであり、現在の津川の町並みの基礎は、まさしく彼によって築かれたと言える 14 。
この雁木の創設は、城主の最大の関心事が、敵との戦いから、雪という自然の脅威から民を守る民政へと移行したことを象徴している。津川城の役割が「戦う城」から「治める城」へと質的に転換した瞬間であり、近世の到来を告げる出来事であった。
しかし、優れた行政官であった岡重政の最期は悲劇的なものであった。藩主・蒲生秀行の死後、跡を継いだのがわずか10歳の忠郷であったため、母である振姫(徳川家康の娘)が後見人となった。しかし、藩政の実権を握る重政と振姫はことあるごとに対立し、藩内は混乱する 14 。慶長十八年(1613年)、事態を憂慮した徳川家康は重政を駿府に呼び出し、藩政を私物化し混乱させた罪で死罪を申し渡した 14 。津川の町の礎を築いた名君は、中央の政治力学の中でその生涯を閉じたのである。
江戸幕府による統治体制が確立されると、全国の大名が持つ城のあり方も大きく変わることになる。元和元年(1615年)、幕府は「一国一城令」を発布。これは、一つの国(藩)において、大名の居城以外の城(支城)を破却させる法令であった 3 。
会津藩の支城であった津川城もこの法令の対象となり、その存続は困難となった。そして寛永四年(1627年)、時の会津藩主・加藤嘉明の代に、幕府の命令により津川城は正式に廃城とされた 1 。建長四年の築城伝承から数えれば、実に375年にわたる城の歴史は、ここに幕を下ろした。城の機能は解体され、この地域の統治の拠点は、川の対岸の平地に新設された代官所に移されたのである 2 。
物理的な城は失われたが、その跡地は歴史の記憶を留める場所として今日に伝えられている。津川城跡は、昭和四十年(1965年)4月7日付で新潟県の史跡に指定され、法的に保護されることとなった 1 。
現在、城跡一帯は麒麟山公園として整備されており、本丸跡までの遊歩道や遺構を示す案内板が設置されている 7 。本丸跡には、金上氏の氏神であったとも伝わる金上稲荷神社が祀られ、ここからは津川の町並みや雄大な阿賀野川の流れを一望することができる 5 。ただし、城山全体は依然として険しく、一部にはかつての難攻不落ぶりを偲ばせる岩場も残っている 6 。
津川城の記憶は、史跡としてだけでなく、地域の文化と伝説の中に形を変えて生き続けている。城の持つ「険しさ」を象徴した「狐戻城」という異名。この「狐」というキーワードは、城が廃された後、地域の神秘的な伝承と結びつき、新たな文化的アイデンティティを形成していった。
古くから麒麟山には多くの狐が棲み、夜になると狐火(きつねび)が頻繁に見られたという伝説がある 31 。かつてこの地方では嫁入りが夜に行われ、提灯を灯した行列が山道を進んだ。その提灯の灯りの列と、山に見える狐火の列が並行して見えたことから、「狐の嫁入り行列」という幻想的な言い伝えが生まれたとされている 32 。
この美しい伝説は、現代において町を代表する祭り「つがわ狐の嫁入り行列」として蘇った 31 。毎年、狐のメイクを施した花嫁と花婿、そして百人を超えるお供が町を練り歩くこの祭りは、全国から多くの観光客を集める一大イベントとなっている 36 。また、大正時代に津川を訪れた詩人・野口雨情もこの狐伝説に感銘を受け、「津川城山白きつね 子供が泣くから化けてみな」という童謡を詠んでいる 5 。
物理的な城は廃城によって消滅したが、その舞台であった麒麟山と、「狐」というモチーフを通じて、城の記憶は地域の文化と深く結びつき、新たな物語として現代に継承されているのである。
津川城の約400年にわたる歴史は、まさに「境目の城」が辿る宿命そのものであった。鎌倉時代に会津の越後進出の拠点として築かれて以来、常に軍事的な緊張の最前線に立ち続け、蘆名氏の西門として、また上杉氏に対する喉元に突きつけられた刃として、その戦略的重要性を失うことはなかった。
金上氏による長きにわたる支配は、戦国末期、「蘆名の執権」とまで称された金上盛備の時代に頂点を迎えるが、彼の蘆名家存続をかけた苦渋の決断は、皮肉にも主家と自らの滅亡を招く結果となった。その後の津川城は、伊達、蒲生、上杉といった戦国・近世初期の有力大名たちの間でめまぐるしくその主を変え、中央の政争に翻弄され続けた。
やがて戦乱の世が終わり、岡重政による雁木造りに象徴されるように、城の役割が軍事から民政へと移行する中で、津川城は近世城下町の礎を築いた。しかし、江戸幕府の統治体制が確立されると、その軍事的価値を失い、一国一城令のもとで静かにその歴史の幕を閉じた。
津川城は、単なる一地方の山城ではない。それは、蘆名氏の興亡、上杉氏との角逐、伊達政宗の野望、そして豊臣・徳川政権による天下統一の過程という、日本の大きな歴史の転換点が凝縮された、歴史の縮図ともいえる存在である。廃城後、その記憶が「狐戻城」から「狐の嫁入り行列」という地域の文化伝承へと昇華された事実は、城郭が持つ物理的な価値を超えた、多層的な歴史的意義を我々に示している。国境に生まれ、国境に翻弄され、そして国境の記憶を文化として今に伝える津川城の歴史は、日本の城郭史において特異な光を放ち続けている。