阿波の海部城は、海部氏が刀工と水軍を擁し長宗我部氏に抗した要衝。島親益事件で落城、長宗我部・蜂須賀氏支配下で役割を変え、一国一城令で廃城。四国の戦国史を物語る。
日本の戦国時代、四国の東南端に位置する阿波国海部郡は、歴史の激動を映し出す鏡のような地であった。太平洋の荒波が打ち寄せるこの地は、海上交通の要衝であると同時に、隣国・土佐との緊張を常に内包する最前線でもあった。この阿波南辺の地政学的要諦に築かれたのが、海部城である。
海部城は、現在の徳島県海陽町、海部川が太平洋に注ぐ河口の独立丘陵に位置する 1 。比高約50メートルのその城山は、三方を海と川に囲まれた天然の要害をなし、典型的な「海城」としての性格を備えていた 1 。この立地は、土佐からの陸路・海路双方の侵攻を監視し、阿波水軍の拠点として機能する上で、比類なき戦略的価値を有していたのである 1 。
戦国末期、四国の勢力図は大きく塗り替わろうとしていた。阿波国では中央の動乱と連動して三好氏の権勢に陰りが見え始め、一方、土佐国では長宗我部元親が「一領具足」を率いて破竹の勢いで領土を拡大していた 3 。特に永禄12年(1569年)、元親が土佐東部の雄・安芸国虎を滅ぼしたことは、国境を接する阿波南部の在地領主たちにとって、その脅威を現実のものとして突きつけた 3 。海部城の歴史は、まさしくこの地政学的緊張が頂点に達しようとする時代を背景に、その幕を開けることになる。
海部城の主、海部氏は、単なる一地方豪族ではなかった。その出自は古く、古代豪族の末裔とも、藤原氏の流れを汲むともいわれ、代々海部郡の郡司を継承してきたと伝わる名家である 6 。室町時代には阿波守護・細川氏に仕え、戦国期には阿波の実力者であった三好氏と婚姻関係を結ぶなど、地域の支配者として確固たる地位を築いていた 6 。
海部氏の力の源泉は、その複合的な勢力基盤にあった。第一に、彼らは南北朝時代から続く刀工集団「海部刀」を庇護し、その生産を奨励するパトロンであった 9 。海部川流域で産出される良質な砂鉄を用い、生み出された海部刀は、実用性に優れた剛健な刀剣として知られた 11 。後年、大坂の陣で蜂須賀家臣が用いた海部刀が徳川家康・秀忠から感状を受けたという逸話は、その性能の高さを物語っている 10 。また、三好長慶が所持したと伝わる「岩切海部」のように、美術的価値の高い名刀も存在した 13 。伝承によれば、城主自らも鍛刀に関わったとされ、海部氏が単なる武力だけでなく、高度な技術力をも掌握していたことが窺える 9 。
第二に、海部氏はその地理的条件を活かし、強力な水軍を組織していた 3 。彼らは代々、船の操縦や水上戦闘に長け、阿波水軍の中核を担う存在であった 12 。海部刀の中には、船上で綱を切断するために峰に鋸刃を施したものや、水中で活動する際に縄を通して背負うための穴が開けられたものなど、水軍の特殊な需要に応えるべく工夫された刀剣が存在したことも、その密接な関係を示している 14 。
この「武士団」「刀工集団」「水軍」という三要素の有機的結合こそが、海部氏の真の強みであった。それは、原料の確保から兵器の生産、そしてそれを運用する戦闘集団までを自己完結させた、一種の「軍産複合体」とも呼べる構造を形成していた。小規模な在地領主でありながら、彼らが土佐統一を目前にした長宗我部元親にとって看過できない存在であった理由はここにある。元親にとって海部城を攻略することは、単に阿波への侵攻路を確保するだけでなく、阿波国独自の優れた兵器生産拠点と海上戦力を無力化するという、より高度な戦略的意図を含んでいたのである。
長宗我部氏の脅威が現実化する以前、海部氏の本城は海部川を約3キロメートル遡った内陸の吉野城であった 3 。しかし、土佐統一を果たした元親の次なる目標が阿波であることは自明の理であった。土佐からの侵攻ルートとなる沿岸部、とりわけ海部川河口という戦略的要衝を固めることは、海部氏にとって喫緊の課題となった。こうして、対長宗我部防衛の最前線基地として、海部城(別名:鞆城)が歴史の表舞台に登場する 3 。
その築城年代については諸説ある。永禄年間(1558年~1570年)に海部友光によって築かれたとする説 18 と、より具体的に元亀二年(1571年)とする説 2 が並立している。元亀二年は、後述する「島親益事件」が発生した年であり、この事件を契機として急遽築城、あるいは大規模な改修が行われた可能性も考えられる。いずれの説を取るにせよ、この城が長宗我部氏の侵攻を強く意識して築かれたことは疑いようがない。内陸の居館であった吉野城から、海に面した最前線の海城へと拠点を移したこと自体が、海部氏の覚悟と、時代の切迫した空気感を物語っている。
元亀二年(1571年)三月、海部城下で起きた一つの事件が、海部氏の、ひいては阿波国の運命を大きく揺るがすことになる 3 。長宗我部元親の末弟・島弥九郎親益(しま やくろう ちかます)が、病気療養のために有馬温泉へ向かう途中、暴風雨に遭遇し、海部城下の那佐湾に避難のため停泊した 3 。親益は長宗我部国親の四男であり、武勇に優れた元親の信頼厚い弟であった 5 。
しかし、この予期せぬ来訪者を、海部方は長宗我部軍による偵察、あるいは奇襲部隊と誤認した 5 。当時、元親の土佐東部平定の報は海部氏にとって大きな脅威であり、国境地帯は極度の緊張状態にあった 3 。海部城主・海部友光が率いる軍勢は、那佐湾に停泊中の親益の船を襲撃。病床にあった親益は「病床にて死するは無念、戦場にて命を落とすは本懐なり」と奮戦したと伝わるが、従者三十余名と共に悉く討ち取られてしまった 3 。親益らの遺骸は、湾内に浮かぶ二子島に葬られたという 5 。
この事件は、単なる偶発的な悲劇として片付けることはできない。それは、戦国時代特有の「情報の非対称性」と「安全保障のジレンマ」が生んだ必然的な衝突であった。親益側に敵意はなかったとしても、当時の通信手段ではその真意を海部方が即座に確認することは不可能である。「敵国の要人が、理由不明のまま領海内に侵入した」という事実に対し、海部氏の選択肢は限られていた。万が一、これが奇襲であった場合に何もしなければ、拠点を失いかねない。一方で、たとえ相手に敵意がなくとも攻撃すれば、将来に深刻な禍根を残す。このジレンマの中、海部氏は最悪の事態を避けるための「予防的攻撃」という、戦国の論理においては十分にあり得る判断を下した。しかし、この決断は結果的に、元親に阿波侵攻の完璧な大義名分を与え、自らの首を絞めることになったのである。
最愛の弟を無残に殺害された長宗我部元親の怒りは凄まじく、これを弔い合戦として阿波への本格侵攻を開始した 18 。まず国境の宍喰城を攻略し、次いで海部城へ五千と号する大軍を差し向けた 3 。
海部城の落城時期については、天正三年(1575年)とする説 20 と、天正五年(1577年)とする説 3 が存在し、確定には至っていない。島親益事件から数年の間隔があるのは、元親が土佐国内の統一戦(対一条氏など)を優先していたためと考えられる 4 。海部方は、鉄砲の名手であった栗原伊賀右衛門らの活躍もあり、懸命に防戦したが、衆寡敵せず、ついに落城の時を迎えた 3 。
この時、城主であった海部友光の動向については、一つの有力な説がある。それは、落城時、友光は主筋にあたる阿波国主・三好長治に従って讃岐攻めに出陣しており、城には不在だったというものである 24 。もしこの説が正しければ、海部城は城主不在という不運も重なり、圧倒的な兵力差の前に陥落したことになる。城を失った友光は、紀州の縁者を頼って落ち延びたとされるが、その後の詳しい消息は歴史の中に埋もれている 3 。しかし、友光の一族の一部は後に阿波へ戻り、刀匠としての道を歩み、その技を後世に伝えたという 24 。
海部城の落城は、阿波国にとって新たな時代の幕開けを意味した。長宗我部元親は、攻略した海部城に実弟の香宗我部親泰を城代として配置した 3 。これにより、海部城は「対長宗我部氏の最前線基地」から「長宗我部氏の阿波侵攻拠点」へと、その役割を180度転換させる。親泰は海部城を足がかりとして、日和佐城や牟岐城といった海沿いの諸城を次々と攻略し、長宗我部氏の勢力圏を阿波南部へと拡大していった 3 。
海部城を起点とした長宗我部軍の快進撃は続き、天正十年(1582年)には中富川の戦いで阿波の三好勢力に決定的打撃を与え、阿波国の大半をその支配下に置くに至った 7 。かつて海部氏が土佐の脅威に備えて築いた城は、皮肉にも阿波国そのものを席巻するための橋頭堡となったのである。
長宗我部氏による四国統一が目前に迫った天正十三年(1585年)、中央の覇者となった豊臣秀吉が四国平定に乗り出す 27 。秀吉の大軍の前に元親は降伏し、土佐一国に減封された 1 。そして、阿波国には秀吉の重臣・蜂須賀家政が新たな国主として入国し、以後、江戸時代を通じて徳島藩蜂須賀氏による支配が確立される 3 。
蜂須賀家政は、広大な領国を効率的に支配し、潜在的な脅威である土佐の長宗我部氏に備えるため、国内の要所に九つの支城を配置する「阿波九城」体制を構築した 19 。海部城はその地理的・戦略的重要性を再び評価され、阿波九城の一つに選ばれた 20 。その役割は、対土佐の国境防衛と海上交通の監視であり、奇しくも海部氏がこの城に託した当初の目的へと回帰したのである。
蜂須賀氏は海部城の初代城代として、重臣の中村右近太夫重勝(重友)に五千石の知行と三百の兵を与えて入城させた 1 。その後も大多和氏、益田氏といった重臣たちが城代や城番を務め、徳島藩の南の守りを固めた 8 。
江戸時代に入り、世情が安定に向かう中、海部城を舞台とした一大事件が発生する。寛永九年(1632年)頃、当時の城代であった益田豊後(行長)が、幕府の有力者や諸大名と結託し、海部城とその所領を徳島藩から独立させ、自らが一万石の大名になろうと画策したのである 3 。
この「益田豊後事件」は、徳島藩の根幹を揺るがす大問題に発展した。陰謀は露見し、豊後は捕らえられた。審議は十数年にも及び、最終的に正保三年(1646年)、豊後は斬罪に処せられた(江戸から阿波への護送中に病死したとの説もある) 3 。この事件は、江戸時代初期における藩の支配体制が未だ盤石ではなかったこと、そして中央集権化を進める幕府と各藩との間に横たわる緊張関係を象徴する出来事であった。
海部城の歴史は、戦国から江戸初期にかけての日本の城郭が辿った役割の変遷を、まさに凝縮した形で示している。それは、在地領主が自衛のために築いた「点」としての城から、広域支配を目指す大名の侵攻拠点という「線」の役割を担い、やがて近世大名の領国支配を支える支城ネットワークという「面」の一部へと組み込まれていく。この変遷は、日本の城郭史の大きな流れを、一つの城の運命の中に明確に見て取ることができる点で、極めて興味深い事例と言える。
年代(西暦/和暦) |
出来事 |
関連人物 |
海部城の役割/状態 |
永禄年間 (1558-70) |
長宗我部氏の脅威に備え、海部城が築城される(または大改修)。 |
海部友光 |
海部氏による対土佐防衛の最前線拠点。 |
元亀二年 (1571) |
城下の那佐湾で島親益事件が発生。 |
海部友光、島親益 |
長宗我部氏との決定的対立の引き金となる。 |
天正三/五年 (1575/77) |
長宗我部元親の攻撃により落城。 |
長宗我部元親、海部友光 |
海部氏の拠点としての終焉。 |
天正五年頃~ (1577頃~) |
香宗我部親泰が城代となり、阿波侵攻の拠点となる。 |
香宗我部親泰 |
長宗我部氏による阿波攻略の橋頭堡。 |
天正十三年 (1585) |
豊臣秀吉の四国平定。蜂須賀家政が阿波国主となる。 |
豊臣秀吉、蜂須賀家政 |
蜂須賀氏の支配下に入る。 |
天正十三年~ (1585~) |
阿波九城の一つとして再整備され、中村重勝が城代となる。 |
中村重勝 |
徳島藩の対土佐防衛・海上監視の要。 |
寛永九年頃 (1632頃) |
城代・益田豊後による独立計画(益田豊後事件)が発覚。 |
益田豊後 |
藩体制を揺るがす事件の舞台となる。 |
寛永十五年 (1638) |
一国一城令により廃城となる。 |
|
城郭としての歴史に幕を下ろす。 |
寛永十五年~ (1638~) |
城の山麓に海部郡代役所(御陣屋)が設置される。 |
|
行政の中心地として機能。 |
文化四年 (1807) |
郡代役所が日和佐(現・美波町)へ移転。 |
|
行政拠点としての役割を終える。 |
海部城は、海部川河口に位置する比高約50メートルの独立した丘陵に築かれた、典型的な平山城である 18 。その縄張りは、山頂部に設けられた主郭(本丸)を中心に、そこから延びる尾根に沿って複数の曲輪が階段状に、あるいは逆S字状に配置された連郭式の構造を持つ 1 。
主郭は長軸30~40メートルほどの広さを持ち、周囲は高さ2メートルほどの堅固な土塁で囲まれていた 1 。主郭と南側の曲輪との間には、敵の侵攻を阻むための深い堀切が穿たれており、防御意識の高さが窺える 2 。また、曲輪の側面や虎口(城の出入り口)周辺には、石垣が用いられているのが大きな特徴である 1 。これらの石垣は、蜂須賀氏が阿波九城の一つとして海部城を再整備した際に、より近世的な城郭へと改修した痕跡と考えられる 1 。ただし、一部の石垣は太平洋戦争中に旧日本軍が高射砲台を建設した際に積み直された可能性も指摘されており、その評価には慎重な検討を要する 2 。
土塁や竪堀、横堀といった土造りの遺構も良好に残り、これらは海部氏時代からの構造を今に伝えている可能性がある 18 。海に面した海城として、海上からの敵の動きを監視し、水軍が出撃する港を眼下に押さえるという機能と、山城としての堅固な防御思想が融合した、巧みな縄張りであったと言える。現在、城跡は地元関係者の尽力により整備が進み、登城口には縄張り図を含む詳細な解説板が設置されている 18 。主郭跡からは、鞆浦漁港と雄大な太平洋を一望することができ、往時の城主が眺めたであろう絶景を偲ぶことができる 2 。
戦国の世が終わり、徳川幕府による全国支配体制が確立されると、城郭のあり方も大きく変化する。寛永十五年(1638年)、幕府が発した一国一城令に基づき、徳島藩の阿波九城はすべて取り壊されることとなり、海部城もまた、その軍事拠点としての歴史に幕を下ろした 19 。
しかし、海部城が持つ地理的重要性は失われなかった。廃城後、城の東側山麓には海部郡一帯を管轄する徳島藩の代官所、いわゆる「御陣屋」が設置された 1 。これにより、この地は軍事拠点から地域の行政・経済の中心地へとその役割を変え、文化四年(1807年)に役所が日和佐に移転するまでの約170年間、地域の中心として繁栄を続けた 2 。
この陣屋には、国境警備と治安維持を担う特殊な藩士集団「判形人(はんぎょうにん)」が配置されていた 2 。彼らは、かつて森志摩守が率いた阿波水軍の将兵の末裔たちで、平時は農業や漁業に従事し、藩からの命令があれば直ちに出動する半農半士の武士であった 3 。城跡の一角には、彼らの屋敷跡を示す石碑が今も残されている 2 。
時代区分 |
支配勢力 |
城主 / 城代 |
期間(推定含む) |
特記事項 |
戦国時代 |
海部氏 |
海部友光、海部吉清 |
~ 天正3/5年 (1575/77) |
城の創設者。刀工・水軍を擁し、長宗我部氏と対立。 |
安土桃山時代 |
長宗我部氏 |
香宗我部親泰 |
天正3/5年~天正13年 (1575/77~1585) |
元親の実弟。海部城を阿波侵攻の拠点として利用。 |
安土桃山~江戸初期 |
蜂須賀氏(徳島藩) |
中村右近大夫重勝(重友) |
天正13年~ |
阿波九城の初代城代。五千石を領す。 |
|
|
大多和長右衛門正之 |
不詳 |
城の改修に関わったとされる。 |
|
|
益田宮内一政 |
不詳 |
城番を務める。 |
|
|
益田豊後(行長) |
~ 寛永9年頃 (1632頃) |
独立を画策した「益田豊後事件」を起こす。 |
阿波国南辺に屹立した海部城の歴史は、一地方城郭の変遷に留まらない。それは、戦国時代から近世へと至る日本の権力構造の変化と、それに翻弄された人々のドラマを凝縮した、四国史の縮図である。
海部氏は、刀工集団と水軍を擁する独自の勢力圏を築き、在地領主としてこの地を治めた。しかし、土佐から押し寄せる長宗我部元親という時代の奔流に抗うことはできなかった。島親益事件という一つの偶発にも見える衝突は、結果として四国全土を巻き込む戦乱の導火線となり、海部氏の没落を決定づけた。この出来事は、相互不信が渦巻く戦国時代の不確実性と、一つの判断が歴史を大きく動かすダイナミズムを象徴している。
支配者を変え、海部城はその役割を劇的に変え続けた。長宗我部氏の侵攻拠点となり、次いで蜂須賀氏の領国支配を支える要石となった。時代の要請に応じ、その存在意義を変容させながらも、この地が持つ戦略的重要性は一貫して認識され続けた。一国一城令による廃城後も、行政の中心地として地域の繁栄を支え続けたことが、その何よりの証左である。
現在、静かに佇む城跡は、海部氏の抵抗、長宗我部氏の野望、そして蜂須賀氏の統治という、四国の戦国から近世に至る権力闘争の記憶を深く刻み込んでいる。それは、時代の荒波の中で役割を変えながらも生き続けた城の物語であり、この地に生きた人々の歴史を今に伝える、かけがえのない遺産なのである。