淡河城
播磨淡河城は、北条氏の血を引く淡河氏の居城。三木合戦で別所氏に与し、羽柴秀長を「牝馬の奇策」で退けるも、戦略的撤退で自ら城を放棄。近世城郭化されるも、一国一城令で廃城。
播磨の要衝・淡河城 ― 北条の血脈、戦国の奇策、そして終焉
序章:淡河の地に刻まれた中世の記憶
兵庫県神戸市北区、のどかな田園風景が広がる淡河(おうご)の地に、淡河城跡は静かに佇んでいます 1 。一見、地方のありふれた城跡にも見えるこの場所は、しかし、その歴史を紐解けば、鎌倉幕府の権威が地方へといかに浸透し、南北朝の動乱を経て、やがて織田信長による天下統一事業の渦中で播磨の国衆が辿った興亡の歴史を凝縮した、極めて重要な史跡であることが浮かび上がります。本報告書は、この淡河城という一つの城郭を通じて、中世から近世初頭にかけての播磨地域の権力構造の変遷と、そこで生きた武士たちの姿を立体的に描き出すことを目的とします。
淡河城の歴史は、特に羽柴秀吉の弟・秀長が率いる大軍を一度は退けたという「牝馬の奇策」によって広く知られています。しかし、その奇策がなぜ生まれ、そして城主は輝かしい勝利の直後に、なぜ自ら城を放棄するという決断を下したのでしょうか。この一見矛盾した行動の背後には、単なる逸話では片付けられない、戦国時代の過酷な現実が隠されています。本報告書では、城の構造、城主一族の出自、そして「三木合戦」という巨大な戦役における兵站戦略という複数の観点から、この謎を解き明かし、淡河城が播磨史、ひいては日本の戦国史において持つ真の価値を論証していきます。
第一章:淡河城の黎明 ― 鎌倉・南北朝の動乱
1.1 築城と淡河氏の出自:北条の血脈を引く在地領主の誕生
淡河城の築城年代と築城主については諸説が存在し、明確な定説はありません 2 。鎌倉時代の貞応元年(1222年)に淡河成正が築いたとする説 4 や、さらに遡る文治元年(1185年)の淡河則長による築城伝承 7 もありますが、より確実視されているのは、鎌倉幕府の有力御家人であり、副執権を務めた北条時房の孫にあたる淡河(北条)時治が、14世紀初頭に居城としたという見解です 6 。
淡河氏の出自は、鎌倉幕府の中枢を担った北条氏に遡ります。承久の乱(1221年)の後、戦功によって播磨国淡河荘の地頭職を得た北条氏の一族が現地に派遣され、その地の名を姓としたのが淡河氏の始まりとされています 2 。これは、鎌倉幕府の支配体制が、執権一族という最も信頼のおける御家人を通じて全国の荘園に浸透していく過程を示す典型的な事例と言えます。
しかし、彼らが入部した淡河の地は、決して空白地帯ではありませんでした。この地域には、古くから石峯寺(しゃくぶじ)に代表されるような有力な寺社勢力が根を張っており、中世には多数の僧兵を抱える一大勢力を形成していました 11 。新たに支配者となった淡河氏は、こうした古くからの在地勢力と時に協力し、時に緊張関係を保ちながら、在地領主としての支配基盤を徐々に確立していったと考えられます。
1.2 南北朝の戦乱:播磨守護・赤松氏との攻防と関係性の変化
鎌倉幕府が滅び、世が南北朝の動乱期に突入すると、淡河氏の立場は大きく揺らぎます。彼らは後醍醐天皇の南朝に与し、足利尊氏を擁する北朝方で、播磨国守護であった赤松則村(円心)と激しく対立しました 8 。その結果、暦応2年/延元4年(1339年)、赤松軍の猛攻を受けて淡河城は落城の憂き目に遭います 7 。
この敗北は、淡河氏にとって大きな転換点となりました。かつての後ろ盾であった鎌倉幕府という中央の権威が失墜した今、在地領主として生き残るためには、地域における新たな実力者との関係構築が不可欠でした。北条氏という名跡はもはや過去のものであり、現実的な軍事力を有する播磨守護・赤松氏への従属は、所領を安堵され、家名を存続させるための必然的な選択でした。
その関係を決定的なものにしたのが、明徳3年(1392年)の養子縁組です。子のなかった淡河範清が、赤松氏の一族である中島氏から季範を養子として迎え入れたのです 8 。これは単なる家督相続の問題ではありません。主従関係を血縁関係へと転化させることで、より強固な政治的・軍事的同盟を構築する、中世武家社会に特有の生存戦略でした。この養子縁組により、淡河氏は単なる赤松氏の家臣ではなく「一門」という特別な地位を得て、摂津と播磨の国境守備という極めて重要な役割を担うに至りました 14 。
その後も、嘉吉の乱(1441年)で主家である赤松氏が没落した際には山名氏に降伏し、応仁の乱後に赤松氏が播磨を奪回する際にはそれに協力するなど、淡河氏は播磨国内の目まぐるしい勢力図の変化に巧みに対応し、戦国の世までその命脈を保ち続けたのです 7 。淡河氏の鎌倉・南北朝時代の動向は、中央政権の崩壊と地方勢力の台頭という時代の大きなうねりの中で、小領主が家名を存続させるために用いた「従属」「敵対」「同化」という巧みな戦略の縮図と言えるでしょう。
第二章:城郭の構造と縄張 ― 防禦思想の変遷を読む
2.1 淡河川の河岸段丘を利用した立地と縄張の全体像
淡河城は、淡河川とその支流である裏川に挟まれた、比高約20メートルの河岸段丘の先端部という、防御に適した場所に築かれた平山城です 4 。特に城の東側は裏川が刻んだ急峻な崖となっており、天然の要害を形成しています 8 。
城の縄張(設計プラン)は、本丸を最も防御しやすい台地の北東角に配置し、その南から西にかけて二ノ丸、南ノ丸、西ノ丸といった曲輪が取り囲む「梯郭式(ていかくしき)」を基本としています 8 。これは、本丸の背後を天然の崖で守り、攻撃正面を限定することで、効率的な防御を可能にする中世城郭の典型的な設計思想です。自然地形を最大限に活用するこの構造は、淡河氏が長年にわたり拠点としてきた時代の姿を色濃く残していると考えられます。
2.2 本丸と天守台:城の中枢部の構造と機能
現在、城跡公園として整備されている城の中心部が本丸跡です 4 。広々とした平坦地であり、かつては城主の居館や政務を執り行う施設、そして戦の際には最終的な籠城拠点となる場所であったと推定されます。
本丸の南側には、この城の構造を理解する上で最も重要な遺構が存在します。それは、東西約50メートル、幅8~16メートルに及ぶ巨大な土塁です 17 。この高まりは「天守台」と呼ばれており 6 、城内で最も堅固に造られた区画でした。実際に天守閣のような高層建築があった可能性は低いものの、この「天守台」という概念自体が、織田・豊臣政権下で城郭が権威の象徴としての意味合いを強めた、戦国時代末期から近世初頭にかけてのものです。この巨大な土塁の存在は、淡河城が単なる中世の砦から、新たな時代の城郭へと改修された可能性を強く示唆しています。
2.3 堀、土塁、虎口:現存遺構から探る防御技術
本丸の防御を固めるため、その周囲には巧みな防御施設が配置されていました。本丸は、南から西にかけてL字型に巡る幅15メートル、深さ3~5メートルという大規模な堀によって、外部の曲輪から厳重に区画されています 8 。この堀は、南側では水を湛えた「水堀」、北側では「空堀」であったと見られ、地形に応じて使い分けられていたことが窺えます 17 。
城の主たる出入り口である虎口(こぐち)は、本丸の西側に設けられていました 17 。現存する遺構からは、両側を高い土塁で挟み込み、進入路を狭くすることで敵兵の突入を困難にする、防御性の高い構造であったことが見て取れます。
本丸の外側には、二ノ丸、南ノ丸、西ノ丸、三ノ丸といった複数の曲輪が存在したとされますが、残念ながら後世の土地改良や圃場整備によって、その多くは往時の姿を失っています 8 。しかし、かつての二ノ丸跡には、淡河氏の菩提寺であった竹慶寺の跡と、今も手厚く祀られている淡河家墓所が残されており 8 、城主一族の記憶を現代に伝えています。
淡河城の縄張は、淡河氏時代の中世的防御思想(地形利用、梯郭式配置)を土台としながら、後述する有馬氏の時代に、権威の象徴としての天守台や規格化された堀といった近世的防御思想が加えられた「ハイブリッド型城郭」であったと推測できます。城跡に残る遺構は、時代の変遷と共に城に求められる機能がどのように変化したかを物語る、生きた証拠なのです。
分類 |
詳細 |
主な遺構・特徴 |
関連資料 |
立地・縄張 |
平山城、梯郭式 |
河岸段丘の先端に立地。本丸を奥に置き、二ノ丸などが取り巻く。 |
4 |
曲輪 |
本丸、二ノ丸、南ノ丸、西ノ丸 |
本丸跡が公園として現存。他は多くが消失。二ノ丸跡に淡河家墓所。 |
8 |
防御施設 |
堀、土塁、虎口、切岸 |
本丸を囲むL字型の堀(水堀・空堀)、本丸西側の虎口跡、東側の切岸。 |
3 |
中枢施設 |
大土塁(天守台) |
本丸南辺に位置する大規模な土塁。近世的改修の痕跡か。 |
6 |
関連施設 |
淡河家墓所、竹慶寺跡 |
二ノ丸跡に現存。城主一族の菩提寺と墓所。 |
6 |
第三章:戦国動乱の渦中へ ― 三木合戦と淡河城
3.1 織田軍の播磨侵攻と別所氏の離反
天正5年(1577年)、織田信長の天下統一事業は中国地方へと及び、その命を受けた羽柴秀吉が先鋒として播磨国に進出します。当初、東播磨に最大勢力を誇った三木城主・別所長治は信長に恭順の意を示していました。しかし、翌天正6年(1578年)、長治は突如として毛利氏に与することを表明し、信長に対して反旗を翻しました 5 。この決断が、播磨全土を巻き込む「三木合戦」の始まりでした。
淡河氏は、室町時代以来、三木城主・別所氏の麾下にある有力な国衆でした 2 。当時の城主であった淡河弾正忠定範は、別所長治の義理の伯父(定範の妻が長治の祖父・就治の娘)という極めて近い姻戚関係にもあり 19 、主君であり甥でもある長治の離反に迷わず同調したのでした 24 。
3.2 城主・淡河定範:智勇兼備と評された武将の実像
この国難に際して淡河城を率いた淡河定範(生年不詳~1579年?)は、後世に「智勇共にすぐれた武将」と評される人物です 19 。その出自は備前国(現在の岡山県)の江見氏であり、淡河氏に養子として入ったとされています 24 。別所家中では、若き当主である長治の後見役的な立場にあったとも言われ、その深い信頼関係が窺えます 26 。彼の名は「おうご さだのり」と読むのが一般的ですが、史料によっては「あわが」や「おごう」といった読み方も伝えられています 24 。
3.3 淡河城の戦い:羽柴秀長を退けた「牝馬の奇策」
三木城の兵糧攻め、世に言う「三木の干殺し」を本格化させた秀吉は、天正7年(1579年)6月、弟の羽柴秀長を大将とする軍勢を、三木城の重要な支城である淡河城へと派遣しました 21 。
これに対し、定範は冷静沈着に迎撃の準備を進めます。彼は秀長軍の来襲を予期し、城の周囲に逆茂木や落とし穴を設け、菱(まきびし)を撒くなど、周到な防御陣地を構築しました 21 。そして、奇策の準備として、近隣から50~60頭もの牝馬を集めていたのです 21 。
戦端が開かれると、定範はまず、わざと油断していると見せかけて秀長軍を城際までおびき寄せました。敵の騎馬隊が、あらかじめ仕掛けられた防御施設によって混乱し、隊列を乱したその瞬間を捉え、定範はかねてより集めておいた牝馬の群れを敵陣めがけて一斉に放ちました 28 。秀長軍の軍馬の多くは牡馬であり、突如現れた牝馬の群れに興奮して暴れ狂い、騎乗の武者を振り落とし、戦場は大混乱に陥りました。この機を逃さず、城内から討って出た淡河勢は、統制を失った秀長軍を散々に打ち破り、見事な勝利を収めたのです 15 。この戦いは、後に豊臣政権の重鎮となる秀長が、その生涯で唯一の敗北を喫した戦いとして語り継がれており 5 、圧倒的な物量を誇る織田軍に対し、地方武将が知略と地の利を活かして一矢報いた象徴的な戦いとなりました。
3.4 兵站線上の攻防:三木城の生命線を巡る死闘
淡河城の戦いは、単なる支城の攻防戦ではありませんでした。淡河城は、毛利方の支援物資が、瀬戸内海の兵庫港から陸揚げされ、丹生山(にぶさん)を経て三木城へと運ばれる、極めて重要な兵站ルート上に位置する要衝だったのです 19 。秀吉が三木城を兵糧攻めによって陥落させる上で、この生命線を断ち切ることは絶対的な至上命令でした。
そのため、秀吉軍は淡河城を孤立させるべく、その四方を囲むように付城(つけじろ)と呼ばれる包囲・監視用の城砦群を築きました 15 。特に、淡河城の北方約1キロの丘陵に築かれた天正寺城は、秀長軍が陣城として使用したことが知られており、眼下の淡河城を完全に監視できる絶好の位置にありました 11 。さらに秀長軍は、淡河城を攻撃する前に、兵站ルートの中継地である丹生山を攻略し、焼き討ちにするなど 21 、周到な準備をもって淡河城への圧力を段階的に強めていたのです。
3.5 栄光からの撤退:落城の決断と淡河氏の最期
牝馬の奇策によって一度は輝かしい勝利を収めた定範でしたが、彼は極めて冷静でした。この一度の戦術的勝利が、三木城全体を包囲する秀吉軍の巨大な戦略を覆すものではないことを、彼は痛いほど理解していました。兵力で圧倒的に劣る状況で、同じ奇策が二度と通用するはずもなく、このまま淡河城に固執し続ければ、いずれは兵糧攻めか力攻めによって全滅させられるだけです 21 。
彼の任務は、淡河城という一つの「地点」を守ることではなく、別所家全体という「組織」を守ることでした。定範は、秀吉本隊が来襲する前に、自ら城に火を放って放棄し、一族郎党という貴重な兵力「資源」を本城である三木城に集中させるという、大局的な戦略的撤退を選択しました 15 。この「勝利からの撤退」は、敗北ではなく、絶望的な状況下で下された最も合理的な戦略的判断だったのです。
三木城に合流した後の定範の最期については、諸説あります。最も有力な説は、天正7年9月、毛利からの兵糧搬入作戦に従事中、大村合戦(現在の三木市平田付近)で羽柴軍と激突し、寡兵ながらも奮戦した末に力尽き、自刃したというものです 19 。自害のふりをして敵兵を油断させ、最後の抵抗を試みたという壮絶な逸話も伝わっています 21 。一方で、毛利輝元の書状などを根拠に、合戦後も生き延びたという生存説も存在し、その最期は必ずしも明確ではありません 24 。
定範の死後も三木城の籠城戦は続きましたが、兵糧は完全に尽き果て、天正8年(1580年)1月、城兵の助命を条件に別所長治ら一族が自刃して開城しました 20 。これにより、在地領主としての淡河氏もまた、主家である別所氏と共に歴史の表舞台からその姿を消したのでした 8 。
第四章:近世城郭への変貌と終焉 ― 有馬氏の時代
4.1 新城主・有馬則頼の入城と統治
三木合戦が終結し、別所氏が滅亡した後、空城となった淡河城は、羽柴秀吉に仕えた武将・有馬則頼(ありま のりより)に与えられました 3 。則頼は当初3,200石の所領でしたが、その後の戦功により1万5千石まで加増され、淡河城を居城としてこの地を治めました 7 。
有馬氏の時代、淡河は1万5千石の城下町として栄えたと伝えられています 7 。また、古くから三木と有馬温泉を結ぶ交通の要衝であった「湯の山街道」が宿場町として本格的に整備されたのもこの頃で、淡河は地域の経済・交通の中心地として新たな発展を遂げました 19 。
4.2 有馬氏による改修:戦国末期から近世初頭への城郭改変
播磨が平定され、世が安定に向かう中で、淡河城に求められる機能も変化しました。敵の攻撃を防ぐ純然たる軍事拠点としての性格よりも、所領を統治し、大名としての権威を示す政治的中心としての性格が強くなったのです。
現在残る淡河城の縄張は、この有馬氏の時代に最終的な改修を受けたと推定されています 3 。第二章で述べた、権威の象徴ともいえる「天守台」状の大規模な土塁や、より規格化された堀の普請は、豊臣政権下の大名であった則頼が、当時の最新の築城技術を取り入れて行ったものと考えられます 18 。この改修により、淡河城は淡河氏時代の中世的な山城から、より政治的・象徴的な意味合いを持つ近世城郭へと、その性格を変貌させたのです。
4.3 慶長の移封と元和の廃城:歴史的役割の終焉
有馬則頼の統治は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを契機に終わりを迎えます。この戦いでの功績により、則頼は2万石に加増され、慶長6年(1601年)に三田城(現在の兵庫県三田市)へと移封されました 4 。
城主を失った淡河城は、事実上この時点でその歴史的役割を終えました。そして、元和元年(1615年)、徳川幕府によって発布された一国一城令により、公式に廃城となったとされています 4 。一国一城令は、役割を終えた多数の支城を公式に破却し、大名の力を一つの拠点に集中させることで、新たな幕藩体制を確立するための政策でした。淡河城の廃城は、まさに戦国の世の終わりと、新たな統治体制の始まりを象徴する出来事だったのです。
第五章:史跡としての淡河城 ― 現代に残る痕跡と記憶
5.1 公園としての整備と模擬櫓
約400年にわたる歴史を閉じた後、城跡は田畑などとして利用されていましたが 9 、現在は本丸跡が「淡河城跡市民公園」として美しく整備され、地域住民の憩いの場となっています 4 。
公園の東隅には、ひときわ目を引くコンクリート製の二層櫓が建てられています 4 。これは史実に基づいて復元されたものではなく、城跡を整備する際に、地域の人々の「城の記憶」を視覚化したいという熱意によって、休憩所を兼ねて建てられた模擬櫓です。建設にあたっては、本来の遺構を破壊することがないよう、土を盛るなどの配慮がなされました 18 。この模擬櫓は、失われた歴史を現代に「再生」しようとする地域社会の試みの象徴と言えるでしょう。
5.2 淡河氏累代の墓所と発掘調査から見えるもの
一方で、城跡には客観的な事実に基づいた歴史の「継承」を担う痕跡も残されています。二ノ丸跡の竹慶寺跡の一角には、現在も白壁に囲まれた淡河氏累代の墓所が大切に守られており、かつてこの地を治めた一族の記憶を静かに伝えています 6 。
また、学術的な側面からのアプローチも行われています。昭和52年(1977年)には、神戸市教育委員会による発掘調査が実施され、『淡河城跡発掘調査概要』という報告書が刊行されました 35 。この調査によって、城の構造に関する考古学的な知見が得られたと考えられます。こうした学術調査の実施は、淡河城が持つ歴史的価値を裏付けるものです。
5.3 周辺史跡との連携:石峯寺、湯の山街道から見る中世淡河の姿
淡河城の歴史をより深く理解するためには、周辺の史跡との関係性を無視することはできません。城の南西に位置する古刹・石峯寺は、中世には多数の僧兵を抱える寺院城郭としての側面も持ち 11 、淡河氏の支配と密接に関わっていたと考えられます。また、城の北側を通る湯の山街道は、戦国時代には秀吉も往来し 19 、江戸時代には宿場町として栄えました。城と寺社、そして街道が一体となって、この地域の豊かな歴史を形成してきたのです。淡河城跡は、地域住民によるシンボリックな「再生」(模擬櫓)と、学術的な探求によるオーセンティックな「継承」(墓所、調査)という二つの側面を持ち合わせています。この両輪があって初めて、史跡は過去の遺物としてだけでなく、現代に生きる文化遺産としての価値を持ち続けることができるのです。
結論:淡河城が語るもの
淡河城の約400年にわたる歴史は、鎌倉御家人の地方定着に始まり、南北朝・室町期の動乱を生き抜く国衆のしたたかさ、そして戦国時代の巨大な統一権力に翻弄され、最後は近世の幕藩体制の中に吸収され消えていくという、日本中世武士の興亡史そのものを体現しています。
特に、三木合戦における城主・淡河定範の戦いは、単なる「牝馬の奇策」という奇抜な逸話としてではなく、兵站という極めて近代的な戦略的視点から再評価されるべきです。彼の見事な戦術的勝利と、その直後の冷静な戦略的撤退は、戦国という時代の過酷なリアリズムと、そこに生きた一人の武将の卓越した判断力を我々に教えてくれます。
今日、公園として整備された淡河城跡は、その遺構と歴史を通じて、地方の視点から日本の大きな歴史の流れを理解するための貴重な窓口を提供しています。本報告書が、この忘れられがちな播磨の要衝の価値を再認識し、その歴史を未来へと語り継ぐ一助となることを願って、筆を置くこととします。
引用文献
- 1130/1000 淡河城跡市民公園(神戸市北区) https://nippon1000parks.blogspot.com/2016/03/11301000.html
- 淡河城 - お城めぐりGPSスタンプラリー [ 戦国攻城記 ] https://kojoki.jp/%E6%B7%A1%E6%B2%B3%E5%9F%8E/
- 播磨 淡河城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/harima/ougo-jyo/
- 淡河城の見所と写真・200人城主の評価(兵庫県神戸市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/494/
- 淡河城 羽柴秀長が唯一の敗戦を喫した「淡河城の戦い」の舞台 | 小太郎の野望 https://seagullese.jugem.jp/?eid=555
- 淡河城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/1936
- 淡河城 http://a011w.broada.jp/oshironiikou/shirobetu%20ougo.htm
- 淡河城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.ougo.htm
- 淡河城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%A1%E6%B2%B3%E5%9F%8E
- 萩原城遺跡埋 ― 第 化財発掘調査報告書 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/14/14368/10921_1_%E8%90%A9%E5%8E%9F%E5%9F%8E%E9%81%BA%E8%B7%A1%E5%9F%8B%E8%94%B5%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1%E7%99%BA%E6%8E%98%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8%E7%AC%AC1%E3%83%BB3%E3%83%BB5%E6%AC%A1.pdf
- 天正寺城(兵庫県神戸市北区淡河町淡河) - 西国の山城 http://saigokunoyamajiro.blogspot.com/2019/01/blog-post_27.html
- 淡河の歴史 http://www.ogo-machiken.com/archives/222/
- 淡河城(兵庫県神戸市北区淡河町淡河) - 西国の山城 http://saigokunoyamajiro.blogspot.com/2019/01/blog-post_22.html
- 武家家伝_淡河氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ougo_ak.html
- 淡河城跡 http://www.siromegu.com/castle/hyogo/ougo/ougo.htm
- ameblo.jp https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12839826795.html#:~:text=%E3%80%8C%E6%B7%A1%E6%B2%B3%E5%9F%8E%E3%80%8D%E3%81%AE%E7%B8%84%E5%BC%B5%E3%82%8A%E3%81%AF,%E8%A6%8B%E3%82%8B%E3%81%A8%E8%89%AF%E3%81%8F%E8%A7%A3%E3%82%8A%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
- 淡河(おうご)城> 遠くからでも見える模擬の復元”櫓”、深い堀と大土塁が残る山城 https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12839826795.html
- 淡河城 | 観光スポット | 【公式】兵庫県観光サイト HYOGO!ナビ https://www.hyogo-tourism.jp/spot/result/1043
- 淡河城 - お城めぐりFAN https://www.shirofan.com/shiro/kinki/ougo/ougo.html
- 【解説:信長の戦い】三木合戦(1578~80、兵庫県三木市) 堅城の三木城、20か月に及ぶ兵糧攻め(三木の干殺し)の末に開城させる! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/179
- 【三木合戦】(支城戦)淡河城の戦い:知将・淡河定範、羽柴軍を一掃す! https://murakushu.net/blog/2021/10/24/ougo/
- 淡河定範の墓 - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/haka/ogo450h.html
- 播磨 淡河弾正戦死碑-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/sokuseki/hyogo/ougo-danjyo-senshihi/
- 淡河定範 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%A1%E6%B2%B3%E5%AE%9A%E7%AF%84
- 淡河定範(?―?) - asahi-net.or.jp https://www.asahi-net.or.jp/~jt7t-imfk/taiandir/x052.htm
- 古戦場 - 三木甲冑倶楽部 https://mikiyoroi.com/?cat=31
- 豊臣秀長 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E9%95%B7
- ぶらり神戸第 21 号 令和3年6月 「織田信長に一矢報いた淡 河 氏」 第4号で戦国の世に関し https://www.hyogo-c.ed.jp/~kobe-sn/burarikobe21gou.pdf
- 【豊臣兄弟!】豊臣秀長が唯一敗れた、「淡河城の戦い」 - ニッポン旅マガジン https://tabi-mag.jp/hidenaga-ougo/
- BTG『大陸西遊記』~日本 兵庫県 三木の干殺し「秀吉の播磨侵攻作戦」~ https://www.iobtg.com/J.Miki.htm
- 別所長治と藤原惺窩 - はせ万鮨 http://www.8000.gr.jp/kyoto/bessyo.htm
- 淡河城 天正寺城 淡河城西付城 滝山城 福谷城 池谷城 萩原城 道場河原城 蒲公英城 宅原城 余湖 http://mizuki.my.coocan.jp/hyogo/koubesi01.htm
- 兵庫県の城一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/28/list/
- 淡河城 | 観光スポット | 【公式】兵庫県観光サイト HYOGO!ナビ https://www.hyogo-tourism.jp/spot/result/1043?c-3=3
- 淡河城跡発掘調査概要 - CiNii 図書 https://ci.nii.ac.jp/ncid/BB15211102