清水山城(近江国)
近江清水山城は、佐々木越中氏の拠点。琵琶湖水運と西近江路を抑える要衝に築かれ、畝状竪堀など最新技術で要塞化。浅井氏と同盟し信長と敵対するも、元亀4年信長の攻撃で落城、廃城。
近江国清水山城総合研究報告 ―戦国期における湖西の拠点城郭の実像―
序論
本報告書の主題定義
本報告書が対象とするのは、近江国高島郡(現・滋賀県高島市新旭町熊野本・安井川)に位置した山城「清水山城」である。戦国時代の動乱期におけるその歴史的、軍事的、政治的役割を、城主一族の出自、城郭の構造、考古学的知見、そして歴史的変遷の各側面から多角的に解明することを目的とする 1 。
研究上の重要課題(同名城郭との峻別)
日本国内には「清水山城」と呼称される城郭が複数存在する。特に、豊臣秀吉の文禄・慶長の役に際して築かれた対馬国清水山城 2 、近江守護六角氏の支城であった東近江市の清水山城(箕作城の別称) 5 などが著名である。これらは本報告書の対象とは全く異なる歴史的背景を持つ城郭であるため、本報告書では、宇多源氏佐々木氏の流れを汲む高島氏(佐々木越中氏)の居城であった高島郡の清水山城にのみ焦点を絞り、情報の混同を徹底的に排除する。
清水山城の位置づけと本報告書の構成
清水山城は、中世から戦国期にかけての在地領主による支配拠点の実態を示す第一級の史跡である。その遺構は、戦国末期の緊迫した情勢を色濃く反映しており、当時の築城技術や社会状況を理解する上で極めて重要である。本報告書では、第一章で城主一族の歴史的背景を、第二章で城郭の構造(縄張り)を、第三章で発掘調査によって明らかになった城内の実像を、第四章で山麓に広がっていた支配拠点の全体像を、そして第五章で戦国動乱の中での落城と歴史的役割の終焉を論じ、最後に総合的な結論を提示する。
第一章:清水山城の歴史的背景と城主一族の変遷
清水山城を理解する上で、その主であった「佐々木越中氏」の出自と、鎌倉時代から戦国時代に至るまでの政治的立場を明らかにすることは不可欠である。本章では、その歴史的背景を詳細に分析する。
第一節:近江源氏佐々木氏と高島郡への入部
清水山城の城主家は、宇多天皇を祖とする源氏の名門、近江源氏佐々木氏の一族である 7 。佐々木氏は平安時代末期より近江国に深く根を張り、源平合戦では源氏方として活躍した 7 。鎌倉時代に入ると、その勢力は近江一円に及んだ。
高島郡における佐々木氏支配の直接的な起源は、鎌倉時代中期の嘉禎元年(1235年)に遡る。『吾妻鏡』によれば、当時近江守護であった佐々木信綱の二男・高信が、高島郡田中郷の地頭職を得てこの地に入部した 8 。この高信が、後に「高島七頭」と称される高島郡の国人領主群の共通の祖となる。
第二節:「高島七頭」と惣領家「佐々木越中氏」
高信の子孫は高島郡内で分家を重ね、勢力を拡大していった。惣領家である高島氏のほか、田中氏、朽木氏、永田氏、平井氏、横山氏、山崎氏といった庶流家が郡内に割拠し、これらは「高島七頭」と総称されるようになった 1 。清水山城は、この高島七頭の惣領家が本拠とした城である 1 。
注目すべきは、この惣領家の呼称である。室町時代の史料において、彼らは「高島氏」という地名由来の名称よりも、「佐々木越中氏」あるいは単に「越中氏」という家号で記されることが一般的であった 10 。これは、惣領家が代々「越中守」の官途名を世襲したことに由来する 7 。江戸時代中期の明暦2年(1656年)に刊行された軍記物『江源武鑑』以降、「高島氏」という呼称が一般化したと推測されており、当時の彼らの自己認識を理解する上で重要な点である 10 。
この呼称の使い分けは、単なる名称の違いに留まらない。在地名である「高島」を名乗ることは、あくまで一在地領主としての側面を強調するに過ぎない。対して、「佐々木」という源氏の名門たる本姓と、室町幕府から公認された官職である「越中守」を家号とすることは、彼らが単なる地方の土豪ではなく、中央の権威と直結した特別な存在であるというアイデンティティを内外に示すものであった。これは、高島七頭という庶流家連合体の中における、惣領家としての別格の地位を明確にするための、意図的な戦略的呼称であった可能性が極めて高い。
第三節:室町幕府との関係と在地支配
佐々木越中氏を含む高島郡の佐々木一族(西佐々木氏)は、室町時代を通じて将軍直属の軍事力である「奉公衆」あるいは「外様衆」に組み込まれていた 8 。これは、彼らが幕府と極めて密接な関係を維持していたことを意味し、近江一国を支配する守護・佐々木六角氏とは一線を画す、独立した立場を保障する強力な後ろ盾となった。
この中央との繋がりは、彼らの在地支配にも影響を与えた。在地においては、清水山城の麓、平井の集落に居住したとされる家臣の八田氏 8 や、佐々木氏直属の職人集団であったと伝わる「河原市鍛冶」 8 などを通じて、直接的な支配体制を構築していた。将軍直属の奉公衆であることは、佐々木越中氏の行動原理を理解する鍵となる。彼らは京の幕府に出仕する中央の武士であると同時に、高島郡を治める在地の領主でもあった。この二重の立場は、時に守護・六角氏と対立し、また時には連携するという、複雑な政治的スタンスを可能にした。戦国時代後期、六角氏が衰退し浅井氏が台頭した際に、彼らが浅井氏と結んだのは、単なる近隣勢力との連携ではなく、守護権力からの自立性を高め、在地支配をより強固にするための、奉公衆という立場を最大限に活用した戦略的判断であったと解釈できる。
第二章:立地と縄張り ― 湖西の要衝たる山城の構造
清水山城の地理的・戦略的な重要性と、戦国末期の緊張を色濃く反映した城郭構造(縄張り)は、この城の本質を物語る上で欠かせない要素である。
第一節:戦略的立地と地理的条件
清水山城は、饗庭野台地の南東端、標高約210mの丘陵上に位置する 9 。その地理的条件は、軍事・経済の両面で極めて優れていた。
まず、陸上交通の掌握である。城の東麓には、京都と北陸を結ぶ大動脈「西近江路」が南北に貫通しており、これを直接的に支配下に置くことができた 9 。また、城の南方には安曇川が流れ、これもまた交通の要路であった 9 。
次に、湖上水運の掌握である。安曇川河口や、古くからの港であった大溝にも近く、琵琶湖の水運をも掌握できる地政学的に極めて重要な場所であった 14 。戦国時代、琵琶湖の水運は米や塩、海産物などを運ぶ大動脈であり、これを制することは経済的・軍事的に絶大な意味を持った 16 。
さらに、城の主郭からは高島郡の中南部一帯と、遠く琵琶湖の対岸までを一望することができ、領内を監視する拠点としても理想的な立地であった 9 。
第二節:放射状連郭式の縄張り
清水山城の基本的な構造は、山頂に位置する主郭(Ⅰ曲輪)を中心に、そこから派生する南東、南西、北西の三方の尾根上に、複数の曲輪群を階段状に配置した「放射状連郭式」と呼ばれるものである 9 。これは、自然の地形を最大限に活用し、多方面からの攻撃に対して効率的に防御しようとする設計思想の表れであり、中世山城の典型的な縄張り形式の一つである。
第三節:徹底された防御施設 ― 対信長を意識した最終形態
清水山城の真価は、その徹底的に構築された防御施設にある。特に、戦国時代末期に発達した最新の築城技術が随所に見られ、極めて実戦的な要塞であったことがわかる。
- 堀切と大堀切: 各曲輪と曲輪の間は、尾根をV字状に深く断ち切る「堀切」によって厳重に分断されている。これにより、敵兵が尾根伝いに連続して攻撃することを防ぐ。特に、主郭(Ⅰ曲輪)とⅡ曲輪の間、そしてⅡ曲輪とⅢ曲輪の間には「大堀切」と呼ぶべき大規模なものが穿たれており、その高低差は訪問者がロープを頼りに昇降しなければならないほどである 19 。この徹底した分断は、敵兵の縦方向の移動を著しく困難にし、各個撃破を狙うためのものである。
- 竪堀と畝状竪堀群: 城が築かれた丘陵の斜面には、斜面を垂直に掘り下げた「竪堀」が無数に設けられている。これは、敵兵が斜面を横方向に移動することを妨げるための施設である。特筆すべきは、主郭の東斜面や、城の弱点とされた北西尾根の防御ラインに設けられた「畝状竪堀群」である 13 。これは、竪堀と土塁(畝)を交互に何条も並べたもので、斜面を登ってくる敵兵の集団行動を不可能にし、一つ一つの畝の間に敵を誘い込んで上から効果的に攻撃を加えるための、戦国末期に発達した極めて高度な防御施設である。
- 強化された北方防衛線: 城の背後、饗庭野台地に続く北西方面は、地形的に最も防御が難しい弱点であった。そのため、この方面には大堀切、畝状竪堀群、そして複数の小曲輪が幾重にも配置され、城内で最も厳重な防御が施されている 20 。
- 虎口と土塁: 城の出入り口である虎口も工夫が凝らされている。主郭南側には、敵の直進を阻み、三方向から攻撃を加えられるように設計された「出枡形虎口」が設けられている 20 。また、各曲輪は土を盛り上げた壁である「土塁」で囲まれており、近接戦闘への備えも万全であった 20 。
これらの防御施設の分析から、重要な点が浮かび上がる。清水山城に見られる畝状竪堀群や徹底した尾根の分断といった築城術は、同盟関係にあった浅井氏の本拠・小谷城の縄張りと強い共通性が見られる 21 。浅井氏は畝状竪堀を多用することで知られており、この先進的な技術が同盟関係を通じて清水山城にもたらされた可能性が極めて高い。特に、弱点である北方に防御力を集中させている点、そしてこれらの高度な土木技術が要求される防御施設の構築は、個別の小競り合いではなく、織田信長が率いるような大軍勢による組織的な攻城戦を明確に想定していた証左と言える。つまり、清水山城に現存する縄張りは、元亀年間(1570-1573)の対信長戦を前に、浅井氏の技術支援を受けて施された最終改修形態であると結論付けられる。
第四節:近江の主要山城との比較
清水山城の特性をより明確にするため、近江国を代表する他の主要山城と比較する。
特徴 |
清水山城(佐々木越中氏) |
小谷城(浅井氏) |
観音寺城(六角氏) |
立地 |
丘陵(標高約210m) 9 |
山岳(標高約495m) 22 |
山岳(標高約432m) 22 |
縄張り形式 |
放射状連郭式 9 |
尾根筋の連郭式 22 |
山全体に曲輪が散在する集合体形式 |
防御の主軸 |
土塁、堀切、畝状竪堀 19 |
大規模な堀切、竪堀、谷の利用 22 |
総石垣、高石垣、巨大な岩盤の利用 22 |
城の性格 |
在地領主の拠点(居住・政務・軍事の複合体) |
戦国大名の本拠(大規模な城域) |
守護大名の本拠(石垣技術を誇示) |
この比較表は、単なるデータの羅列ではない。それは、清水山城が、守護大名・六角氏の観音寺城に見られるような権威の象徴としての「石垣の城」ではなく、戦国大名・浅井氏の小谷城と共通する、実戦を第一に考えた「土の城」の技術的極致であることを視覚的に示している。これは、城主である佐々木越中氏が、六角氏のような古い権威に頼るのではなく、戦国乱世を生き抜くための現実的な軍事力を最優先していたことを物語っている。
第三章:発掘調査が明かす城内の実像
文献史料や縄張りの観察だけでは知り得ない、城内での具体的な生活や活動の実態を、近年の発掘調査の成果から復元する。
第一節:主郭における礎石建物の発見
主郭内部で行われた発掘調査では、画期的な発見があった。それは、六間×五間(約12m×10m)という大規模な礎石建物の跡である 13 。礎石とは、建物の柱の基礎として置かれる石であり、これを用いる建物は、掘立柱建物に比べて恒久的で格式の高い建築物であったことを示唆する。
この建物跡からは、日常的に使用されたであろう多数の土器類や、包丁、刀の鍔、建築用の釘といった金属製品が出土している 13 。これらの遺物は、山上で人々が生活していた紛れもない証拠である。また、南東尾根上の曲輪では、本来は墓石である五輪塔の石材を礎石に転用している例も確認されており、築城当時の切迫した状況や、利用可能な資材を最大限に再利用する現実的な姿勢を物語っている 25 。
第二節:山上での居住空間 ― 「詰の城」概念の再検討
礎石建物の存在と、多種多様な生活用品の出土は、清水山城の主郭が、非常時のみに立てこもる一時的な避難場所、いわゆる「詰の城」ではなかったことを強く示唆している 13 。むしろ、平時から城主やその家族が居住し、家臣団と共に政務を執り行っていた、生活と政治の中心地であったと考えられる。
従来、日本の山城は軍事拠点、そして平時の居館は山麓に置かれるという機能分担が想定されがちであった。しかし、清水山城の事例は、戦乱が恒常化した戦国時代後期において、領主が最も安全な山上に居館と政庁の機能を移転させるという、全国的に見られた傾向を如実に示す物証である。これは、領国支配のあり方が、平時の安定した統治から、常に戦闘を想定した臨戦態勢の統治へと移行したことの現れに他ならない。清水山城は、その過渡期の典型例として考古学的に証明された、全国的にも貴重な事例と言える。
第三節:出土遺物が語る城の終焉
発掘調査は、城の最期についても雄弁に物語る。主郭から出土した土器類を考古学的に分析した結果、その年代は1550年~70年頃に集中していることが判明した 13 。
この年代は、『信長公記』に記されている織田信長による高島郡攻略の時期、特に元亀4年(1573年)と完全に一致する 10 。これは、歴史研究における極めて重要な成果である。信頼性の高い文献史料(信長公記)に記された軍事行動が、考古学的調査(出土土器の年代測定)によって物理的に裏付けられたのである。これにより、清水山城が1573年の信長の攻撃によって機能を停止し、廃城に至ったという歴史的事実の確度は飛躍的に高まる。城に残された遺物は、まさに落城の瞬間にその活動を停止した人々の生活の痕跡であり、歴史の特定の瞬間を封じ込めたタイムカプセルなのである。
第四章:城下町の広がりと支配の拠点
清水山城の支配機能は、山上の城郭だけに留まるものではなかった。山麓に広がる関連遺跡群から、城と一体となった複合的な支配拠点の全体像を明らかにする。
第一節:山麓の屋敷地群
城の南側斜面から山麓にかけての一帯には、「西屋敷」や「東屋敷」といった地名が現在も残っており、発掘調査や地表観察によって、土塁で方形に区画された屋敷跡が広範囲に確認されている 8 。これらの屋敷地群を貫くように、城の正面玄関へ続く大手道と推定される道筋が存在し、その周辺には「大門」や「正門山(ショウモンヤマ)」といった地名も残ることから、これらが計画的に配置された家臣団の屋敷地であったと強く推測される 8 。
第二節:「御屋敷」と「犬馬場」― 領主居館と武芸の場
山麓の南東部には、特に重要な意味を持つ「御屋敷」と「犬馬場」という地名が残る地区が存在する 8 。明治6年(1873年)の地籍図には、この地に一町(約109m)四方の方形区画が描かれており、かつては土塁や堀の痕跡も残っていたことから、佐々木越中氏の平時における居館(御屋敷)跡と推定されている 8 。
この「御屋敷」に隣接する「犬馬場」は、中世武士の重要な武芸であった犬追物(馬上から犬を的にして弓を射る訓練)が行われた場所である 8 。これは単なる訓練場ではなく、領主としての武威と権威を内外に誇示するための重要な儀礼空間でもあった。
第三節:家臣団の集住と城下町
城の大手道が西近江路と接続する平井の集落では、明治期の絵図に街路に沿ったブロック型の地割が認められ、武家屋敷群が存在したと推測されている 8 。この地には、佐々木越中氏の家臣であった八田氏が住んでいたという伝承も残っている 10 。
これらの事実を総合すると、清水山城の全体像が浮かび上がる。山上の城郭(戦闘指揮・最終拠点)、山腹から山麓にかけての家臣団屋敷群、そして平地の領主居館と政庁。これら全てを合わせたものが「清水山城館跡」という一つの巨大な支配システムなのである。これは、城と城下町が一体となった「根小屋式城郭」の典型例であり、清水山城が単なる軍事要塞ではなく、高島郡西部を支配する政治・経済・軍事の中心地として機能していたことを明確に示している。
第五章:戦国動乱と清水山城の落城
本章では、戦国時代の近江国における激しい勢力争いの中で、清水山城がどのような役割を果たし、いかにしてその歴史に幕を閉じたのかを、文献史料を中心に追う。
第一節:浅井氏との同盟と織田信長との敵対
当初、高島七頭は近江守護である六角氏の傘下にあったが、六角氏が当主と家臣団が対立した観音寺騒動などで内紛を繰り返し衰退すると、北近江で急速に台頭した浅井長政と同盟を結ぶようになった 9 。
永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、六角氏は信長の攻撃を受けて滅亡する。当初は信長に従っていた浅井長政が、元亀元年(1570年)に越前の朝倉氏との旧来の同盟を重視して信長と決別すると、佐々木越中氏ら高島七頭も浅井方として信長と敵対する道を選んだ 9 。これにより、清水山城は対信長の最前線の一つとなった。
第二節:元亀争乱と信長の高島郡侵攻
信長と浅井・朝倉連合軍との戦いは「元亀争乱」と呼ばれ、約3年間にわたって近江各地で激しい戦闘が繰り広げられた 28 。この戦いの中で、高島郡も信長の攻撃目標となる。
太田牛一が記した信長の一代記『信長公記』には、元亀4年(1573年)7月26日、信長が自ら大船を率いて琵琶湖西岸の高島郡へ出陣し、「木戸城」と「田中城」を攻撃したと明確に記されている 10 。この「木戸城」が、地理的条件や城の規模、そして前章で述べた考古学的調査による年代観から、清水山城に比定されるというのが現在の学術的な通説である 10 。この信長による直接攻撃により、堅固な防御を誇った清水山城もついに落城したと推測される 12 。落城後、高島郡の城(木戸・田中)は、信長の重臣である明智光秀に与えられたとされる 30 。
第三節:落城後の高島郡と清水山城の廃城
浅井氏滅亡後、信長は高島郡の統治体制を再編する。当初、浅井氏から降伏した猛将・磯野員昌に高島郡を与え、この地の統治を任せた 32 。
しかし、天正6年(1578年)頃には、信長の甥である織田信澄が高島郡の新たな領主となり、琵琶湖岸の勝野に新たに「大溝城」を築城した 14 。これにより、高島郡の支配拠点は、内陸の山城である清水山城から、湖岸の水城である大溝城へと移った。この拠点の移動に伴い、清水山城はその歴史的役割を終え、廃城となったのである。
この支配拠点の移動は、単なる城の移転以上の、重大な意味を持つ。なぜ信長(あるいはその代理人である信澄)は、あれほど堅固な清水山城を再利用せず、湖岸に新たな城を築いたのか。それは、支配のパラダイムシフトを象徴している。佐々木越中氏の支配が、在地に根差した土地と人を直接管理する中世的なものであったのに対し、信長の目指す支配は、琵琶湖水運という広域の物流・経済網を掌握し、中央集権的に統治する近世的なものであった。山城である清水山城は前者の支配体制には最適化されていたが、後者の目的には不向きであった。湖岸に築かれ、港と直結した水城・大溝城こそが、信長の新しい支配体制の拠点としてふさわしかったのである。清水山城の廃城は、単に一つの城が滅んだことを意味するのではない。それは、高島郡における中世的在地領主支配の終焉と、織田政権による近世的・中央集権的支配の始まりを告げる、画期的な出来事だったのである。
結論
清水山城の総合的評価
清水山城は、鎌倉時代に始まる近江源氏佐々木氏一族の在地支配の拠点として築かれ、戦国時代の動乱の中で、対織田信長という明確な軍事目標のもとに、畝状竪堀群などの最新の築城技術を取り入れて要塞化された、極めて完成度の高い「土の城」であった。
城の実像の総括
山上の軍事施設と、山麓の政庁・居館・城下町が一体となった複合的支配拠点「根小屋式城郭」の実態が、文献史料、縄張り調査、考古学調査という三つのアプローチによって立体的に証明された。それは、単なる「城跡」ではなく、中世から戦国にかけての武士の生活、政治、そして戦いの全てが凝縮された歴史的空間であった。
歴史的意義と国史跡としての価値
清水山城の落城と廃城は、織田信長による天下統一事業の中で、中世的な在地領主層が淘汰され、近世的な支配体制へと移行していく日本の歴史の大きな転換点を象徴する出来事であった。その良好な遺構の残存状態は、この時代の城郭と社会を理解する上で比類なき価値を持ち、平成16年(2004年)の国史跡への指定 1 はその価値を公に裏付けるものである。高島市において策定された文化財保存活用計画 37 に基づき、今後も適切な保存と活用を通じて、その歴史的価値を次世代に継承していくことが強く望まれる。
郷土史における伝承
最後に、地域に今なお残る「城のテンシ(天守)には蛇松があった」「正月の朝に金の鶏が鳴く」といった伝承 10 にも触れておきたい。これらは科学的根拠に欠けるものの、落城後も人々がこの城に特別な思いを抱き、その記憶を語り継いできた証である。歴史を史実として理解するだけでなく、人々の心の中に生き続けた記憶として多層的に捉える上で、これら伝承は貴重な民俗学的資料と言えるだろう。
引用文献
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- 「浅井長政」織田信長の義弟になりながらも、反旗を翻したワケとは? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/83
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