伊予河野氏の本拠、湯築城は、先進的な縄張りと豊かな文化を誇る平山城。長宗我部氏に開城し河野氏滅亡後、松山城の資材となり廃城。現代に史跡公園として蘇り、日本百名城に選定される。
愛媛県松山市、日本最古の温泉として名高い道後温泉に隣接する広大な緑地、道後公園。桜の名所として市民の憩いの場となっているこの地が、かつて伊予国に約250年間にわたり君臨した守護大名・河野氏の本拠地「湯築城」の故地であることは、壮麗な天守を誇る近世城郭・松山城の威光の影で、しばしば見過ごされがちである 1 。しかし、昭和末期から平成にかけて行われた大規模な発掘調査は、この城が単なる地方の一城郭に留まらない、戦国時代の城郭史、ひいては社会史を考察する上で極めて重要な意味を持つ、先進的かつ文化的に豊かな拠点であったことを白日の下に晒した 3 。
本報告書は、この湯築城を、戦国時代という激動の時代における伊予国の政治・軍事・文化の中心地として多角的に再評価することを目的とする。その誕生から終焉に至る歴史的変遷を、主であった河野氏の興亡と重ね合わせながら詳述し、織田信長の安土城に先駆けたとされる先進的な城郭構造を解剖する。さらに、発掘調査によって得られた膨大な遺物が雄弁に語る城内の豊かな生活文化を復元し、湯築城が戦国史に刻んだ独自の意義を、総合的な見地から明らかにすることを目指すものである。
湯築城の約250年間の歴史は、その主であった伊予の名門・河野氏の栄枯盛衰と分かちがたく結びついている。本章では、南北朝の動乱期における築城から、豊臣秀吉の天下統一の波に呑まれ廃城に至るまでの軌跡を、時代の大きなうねりと共に通時的に概観する。
河野氏は、古代伊予の豪族・越智氏の系譜を引くとされ、源平合戦において河野通信が源氏方として戦功を挙げ、鎌倉幕府の有力御家人となったことで、伊予国における支配権の礎を築いた名族である 5 。特に弘安の役(元寇)における河野通有の奮戦は「河野の後築地」として後世に語り継がれ、一族の武名を高めるとともに、伊予における地位を確固たるものにした 4 。
湯築城の築城は、南北朝の動乱が全国を席巻していた建武2年(1335年)頃、伊予国守護であった河野通盛によってなされたと伝わる 8 。それまで一族の本貫地であった風早郡河野郷(現・松山市北部)から、道後平野を一望できる戦略的要衝であるこの地へ拠点を移したことは、伊予国全体の支配をより効率的かつ強固なものにしようとする、通盛の明確な意志の表れであった。湯築城に関する現存最古の記録は、築城から間もない康永元年(1342年)に、南朝方の忽那氏に攻撃されたというものであり 9 、この城が誕生当初から時代の戦乱と無縁ではなかったことを物語っている。
室町時代を通じて、河野氏は伊予国守護としての地位を確立したが、その支配は決して盤石ではなかった。一族内部では家督を巡る争い(内訌)が頻発し、その度に外部勢力の介入を招くという脆弱性を常に抱えていた 3 。
地理的に、伊予国は西国の雄である大内氏や毛利氏と、四国・畿内に勢力を持つ細川氏や三好氏といった二大勢力圏の緩衝地帯に位置していた。この地政学的条件が、河野氏の歴史をより複雑なものにした。特に室町幕府の管領家であった細川氏との抗争は熾烈を極め、正平20年(1365年)には細川方の勢力を湯築城から駆逐するなど、一進一退の攻防が繰り返された 8 。
このような内憂外患の時代を生き抜くため、湯築城の防御機能は段階的に強化されていった。その集大成が、戦国時代の緊張が頂点に達しつつあった天文4年(1535年)、当主・河野通直(弾正少弼)によって行われた大規模な改修である。この時、城域全体を囲む外堀が新たに掘削され、今日見られるような二重の堀を持つ堅固な平山城の姿が完成した 5 。これは、単なる防御施設の増強に留まらず、城の性格そのものを変貌させる画期的な事業であった。
天正3年(1575年)に土佐国を統一した長宗我部元親は、その矛先を四国全土に向け、伊予への侵攻を開始した 15 。この新たな脅威に対し、当時の河野氏当主・通直(牛福丸)は、瀬戸内海の対岸に広大な勢力圏を持つ毛利氏との連携を強化することで対抗しようとした 17 。これは、強大な敵に単独で立ち向かうのではなく、巧みな外交によって活路を見出そうとする、河野氏の伝統的な生存戦略であった。
しかし、元親の勢いは凄まじく、天正9年(1581年)以降、伊予各地で激しい戦闘が繰り広げられた。近年の研究では、天正13年(1585年)春には河野氏が長宗我部氏に降伏し、伊予は事実上その支配下に置かれたとする説が有力視されている 18 。この説を考古学的に裏付けるのが、湯築城跡から出土した遺物である。長宗我部氏の居城であった岡豊城(高知県)と同じ鋳型で作られた瓦や、「土州様」(土佐の殿様の意)と墨書された土器皿の発見は、長宗我部氏が湯築城を実質的に管理していた可能性を強く示唆している 18 。
長宗我部元親による四国統一が目前に迫った天正13年(1585年)、天下統一を推し進める羽柴(豊臣)秀吉が、10万を超える大軍を四国へ派遣したことで、情勢は一変する 18 。伊予方面の攻略を命じられたのは、毛利家の重鎮であり、当代随一の知将と謳われた小早川隆景であった 8 。
隆景率いる大軍は、伊予の諸城を次々と攻略し、瞬く間に湯築城に迫った。城内では、徹底抗戦か降伏かで激しい議論が交わされたが(さながら小田原評定の如しと伝わる)、国力・兵力差は歴然としており、抗戦は一族の無益な滅亡を意味した 21 。最終的に、河野通直は隆景の降伏勧告を受け入れ、約1ヶ月の籠城の末に無血開城を決断した 8 。この際、通直は城内にいた45人の子供たちの助命を嘆願するため、自ら先頭に立って隆景に謁見したという逸話は、彼の苦渋の決断と人情を今に伝えている 21 。
開城後、通直は所領を全て没収され、隆景の本拠地である安芸国竹原へ移送された。そして天正15年(1587年)、通直は病により24歳の若さでこの世を去った 20 。これにより、平安時代末期から400年以上にわたり伊予に君臨した名門・河野氏は、戦国大名としての歴史に幕を下ろしたのである 24 。湯築城の終焉は、一個の大名家の滅亡というだけでなく、天下統一という時代の大きなうねりの中で、地方の独立勢力がその歴史的役割を終える、戦国時代の終焉を象徴する出来事であった。
河野氏の退去後、湯築城は小早川隆景に与えられ、次いで豊臣恩顧の勇将・福島正則が一時的に城主となった 9 。しかし、正則はほどなくして国分山城(現・今治市)に本拠を移したため、湯築城は伊予国の政治的中枢としての役割を失い、実質的に廃城状態となった 27 。
決定的な廃城は、関ヶ原の戦いの後、伊予20万石の領主として入封した加藤嘉明が、慶長7年(1602年)に新たな城として松山城の築城を開始したことによる。この時、湯築城に残されていた石材や瓦などが、松山城築城のための資材として転用され、城郭としての構造物は完全に解体された 5 。ここに、中世伊予国の中心であった湯築城はその歴史的使命を完全に終え、政治・経済の中心は近世城郭・松山城へと完全に移行したのである 1 。
西暦 |
和暦 |
湯築城・河野氏の動向 |
関連する国内外の出来事 |
1335年頃 |
建武2年頃 |
河野通盛、湯築城を築城し、本拠を移す。 |
後醍醐天皇による建武の新政が行われる。 |
1342年 |
康永元年 |
南朝方の忽那氏に攻められる(最古の記録)。 |
足利尊氏が室町幕府を開く。 |
1535年 |
天文4年 |
河野通直(弾正少弼)、外堀を築き城郭を大規模に改修する。 |
- |
1581年 |
天正9年 |
長宗我部元親による伊予侵攻が本格化する。 |
織田信長による天正伊賀の乱が起こる。 |
1585年 |
天正13年 |
豊臣秀吉の四国征伐。小早川隆景に約1ヶ月籠城の後、開城する。 |
秀吉が関白に就任する。 |
1587年 |
天正15年 |
福島正則が城主となるが、ほどなく居城を移し、実質的に廃城となる。 |
豊臣秀吉が九州を平定する。 |
1602年 |
慶長7年 |
加藤嘉明が松山城築城を開始。湯築城は資材として利用され、完全に廃城となる。 |
徳川家康が諸大名に江戸城の普請を命じる。 |
湯築城の最大の価値は、その歴史的背景のみならず、良好な状態で現存する遺構が示す、中世城郭としては極めて先進的な構造にある。石垣や天守を持たない「土の城」でありながら、その縄張り(城の設計思想)には、後の近世城郭へと繋がる画期的な要素が数多く含まれている。
湯築城は、道後平野に位置する比高約30メートルの独立した丘陵と、その周囲に広がる平地部を一体的に取り込んだ「平山城」に分類される 5 。城域は南北約350メートル、東西約300メートルに及び、現在の道後公園の敷地がほぼそのまま当時の城域と一致している 5 。
発掘調査の結果、この城は段階的に発展したことが判明している。築城当初は丘陵部のみを利用した簡素な「山城」であったが、戦国時代の緊張が高まる16世紀前半(天文4年)に外堀と外堀土塁が築造されたことで、広大な平地部を城内に取り込み、居住性と防御性を両立させた大規模な「平山城」へと大きく進化したと推定されている 5 。これは、合戦の形態が変化し、城が単なる軍事拠点から、政治・経済・生活の中心地としての機能を求められるようになった時代の要請に応えた結果であった。
湯築城の防御システムの中核をなすのは、城域を二重に囲繞する水堀と、それに付随する大規模な土塁である 30 。内側の「内堀」は丘陵部を直接防衛し、外側の「外堀」は城の全域を防衛する最終ラインを形成していた。
これらの堀を掘削した際に発生した土砂は、堀の内側に高く盛り上げられ、堅固な土塁となった。特に外堀土塁は、基底部の幅が約20メートル、高さが約5メートルにも達する壮大なもので、その総延長は約900メートルに及んだ 30 。石垣をほとんど用いず、土と水という自然の素材を最大限に活用して構築されたこの防御施設は、中世城郭の典型的な特徴を示す「土の城」の様相を色濃く残している 30 。
城への出入り口である虎口は、江戸時代の絵図などから、東側が大手(表門)、西側が搦手(裏門)であったと考えられている 5 。特に大手口には、侵入者の直進を妨げ、側面からの攻撃を可能にするための「遮蔽土塁」と呼ばれる防御施設が設けられており、極めて実戦的な設計がなされていたことがわかる 30 。
湯築城の縄張りは、防御機能だけでなく、城内空間の機能的な区画分けにおいても特筆すべき特徴を持つ。
湯築城の構造がいかに画期的であったかは、同時代の他の守護大名の本拠地と比較することで一層明らかになる。室町から戦国時代にかけての守護大名の拠点は、周防国の大内氏館や越前国の朝倉氏一乗谷遺跡に代表されるように、領国の中心に方形の「館」を構え、その周囲に防御施設を巡らせるのが一般的であった 32 。
これに対し湯築城は、単なる「館」の規模を遥かに超えている。丘陵の詰めの城と、家臣団の居住区を含む広大な平地部を、二重の水堀と土塁という強固な防御施設で一体的に囲い込んでいるのである。この「城郭内に家臣団を集住させる」という構造は、家臣団を敵の攻撃から守ると同時に、大名の直接的な管理下に置き、その統制を強化するという、極めて高度な支配思想の表れである。この思想は、後に織田信長が築いた安土城に代表される「近世城郭」の基本的な概念であり、湯築城はそれを実に40年も早く実現していたと高く評価されている 34 。
この構造は、城主の館だけでなく、支配の拠点全体を防衛する「惣構(そうがまえ)」という思想の、極めて早い実践例と見なすことができる。絶え間ない内紛と外部からの侵攻に晒され続けた河野氏の厳しい歴史的環境が、結果として日本の城郭史を先取りするほどの先進的な縄張りを生み出したと言えるだろう。
比較項目 |
湯築城 |
朝倉氏一乗谷遺跡(福井県) |
大内氏館(山口県) |
立地 |
平山城(丘陵+平地) |
谷筋の地形を利用した城下町全体を防衛 |
平地に築かれた政庁(方形館) |
防御施設 |
二重の水堀・大規模土塁 |
谷の入口に城門を設け、山上に詰城を配置 |
一重の堀・土塁 |
家臣団居住区 |
城郭(外堀)内に計画的に集住 |
城下町に身分に応じて分散配置 |
館の周辺に配置 |
石垣の使用 |
限定的(ほぼ無し) |
寺院や館の一部で限定的に使用 |
限定的 |
思想 |
惣構の萌芽(城と家臣団の一体防衛) |
谷全体を防衛する要塞都市 |
政治的中枢としての館 |
昭和63年(1988年)から12年間にわたって実施された大規模な発掘調査は、湯築城の構造だけでなく、そこで繰り広げられた武士たちのリアルな生活と、彼らが享受した文化の高さを鮮やかに浮かび上がらせた 3 。土の下から現れた無数の遺物は、戦国武士の日常と精神世界を我々に語りかけている。
発掘調査は、公園南側の旧道後動物園跡地を中心に進められ、武家屋敷の礎石やそれを区画する土塀、井戸、そして当時の生活ゴミが捨てられた土坑(ゴミ捨て穴)など、生々しい生活の痕跡が数多く発見された 4 。
これらの調査成果に基づき、公園内には16世紀中頃の武家屋敷が2棟、当時の工法に則って忠実に復元されている 1 。屋敷の内部では、出土した陶磁器や漆器、火鉢、灯明皿といった生活道具が展示され、訪問者は戦国時代の武士の日常空間を体感することができる 41 。また、城内各所で見つかった土坑からは、儀式や宴会で使い捨てにされた土器の皿(かわらけ)と共に、魚の骨や貝殻なども大量に出土しており、彼らの食生活が瀬戸内の海の幸に恵まれた豊かさを持っていたことがうかがえる 32 。
湯築城跡からの出土品の中で、最もその文化的な豊かさを象徴するのが、膨大な量の輸入陶磁器である。破片を含めるとその数は1万点を超え 43 、質・量ともに中世の城郭遺跡としては全国でも屈指の内容を誇る 3 。
出土した陶磁器の産地は、中国産の青磁、白磁、そして鮮やかな文様が描かれた染付磁器を中心に、タイ産の焼締陶器、朝鮮半島産の白磁や三島手の碗など、極めて多岐にわたる 43 。これらの遺物は、湯築城が瀬戸内海を介した国際的な交易ネットワークに深く組み込まれていたことを示す動かぬ証拠である。
特に、青磁の大型の盤や酒会壺といった高級な輸入品は、当時「唐物」と呼ばれ珍重されたものであり、単なる日用品としてではなく、河野氏の富と権威を内外に誇示するステータスシンボルとして、客人を迎える座敷などに飾られていたと推測される 43 。さらに、同じ形・同じ文様の皿や碗が5枚から10枚のセットで出土する例が多数確認されており、武士たちが銘々の膳を用いて食事をとる、格式の高い宴会が日常的に催されていた様子が想像される 43 。
これほど多様かつ大量の輸入品が、なぜ一地方の守護大名の居城にもたらされたのか。その背景には、瀬戸内海の制海権を握っていた村上水軍(海賊衆)との強固な連携があった。河野氏は、娘婿であった来島村上氏との関係を通じて、彼らが掌握する海上交通路を利用し、最新の文物や奢侈品を安定的に入手していたと考えられる 5 。湯築城の文化的な繁栄は、村上水軍という海上勢力との軍事・経済両面にわたるパートナーシップによって支えられていたのである。
湯築城の武士たちは、戦に明け暮れるだけではなかった。発掘された遺構や遺物は、彼らが戦乱の世にあっても豊かな文化活動を嗜んでいたことを示している。
上級武士居住区で発見された池を伴う庭園は、彼らが自然の美を愛で、精神的な安らぎを求める風雅な一面を持っていたことを物語る 30 。また、中国産の天目茶碗や国産の茶壺、建水といった茶道具、さらには青磁の香炉や白磁の花入なども出土しており、城内で茶の湯や香、生け花といった芸道が楽しまれていたことがわかる 43 。復元された武家屋敷の一室では、武士たちが当時流行していた連歌に興じる場面が再現されており 1 、湯築城が伊予国の文化サロンとしての役割も担っていたことを示唆している。
こうした文化活動は、単なる慰みではなく、中央(京都)の先進文化を積極的に取り入れることで、自らの権威を高め、家臣団の結束を固めるという、高度な政治的意味合いも持っていた。出土品が示す生活様式は、河野氏が伊予国における支配者としての正統性を、文化的先進性によっても示そうとしていたことを物語っている。
一度は歴史の表舞台から完全に姿を消した湯築城。しかし、20世紀後半の偶然の発見を機に、その類い稀な歴史的価値が再認識され、今日では過去と現代を結ぶ貴重な文化遺産として新たな生命を吹き込まれている。
廃城後、城跡は「お竹薮」と呼ばれる荒れ地となっていたが、明治21年(1888年)に愛媛県によって公園として整備され、市民の憩いの場となった 46 。戦後の昭和28年(1953年)から昭和62年(1987年)にかけては、城跡の南側一帯に県立道後動物園が設置され、多くの人々に親しまれた 37 。
湯築城が現代に蘇る転機となったのは、この動物園の移転であった。跡地を庭園として整備する過程で、予備調査を行ったところ、地中から保存状態の極めて良好な中世の遺構や、夥しい数の遺物が発見されたのである。この発見を受け、計画は整備から本格的な学術発掘調査へと切り替えられ、昭和63年(1988年)から12年間に及ぶ調査が開始された 37 。一世紀近くにわたり動物園の敷地として利用されてきたことが、奇しくも地下の遺構を開発から守る結果となったのである。
発掘調査によって、湯築城が中世の守護大名の城館を知る上で全国的にも極めて重要な遺跡であることが証明された。この成果を受け、平成14年(2002年)、城跡全体が国の史跡に指定され、歴史公園としての整備が進められた 4 。現在、公園内には以下の施設が設けられ、湯築城の歴史と魅力を伝えている。
現代に蘇った湯築城は、歴史研究の対象としてだけでなく、地域文化を象徴する遺産として多面的な意義を有している。
このように、湯築城跡の整備と活用は、歴史遺産の厳格な保存と、市民に開かれた都市公園としての利用価値を見事に両立させた優れたモデルケースと言える。歴史が日常生活の中に自然に溶け込むことで、市民の郷土への愛着を育み、文化遺産を未来へ継承していく上で重要な役割を果たしているのである。
本報告書で詳述した通り、伊予国湯築城は、単に一地方の城郭という枠組みには収まらない、戦国時代の城郭史、大名支配、そして武家文化を理解する上で、極めて重要な価値を持つ歴史遺産である。
第一に、その先進的な縄張りは特筆に値する。織田信長の安土城に先駆けて、家臣団を城郭内に集住させるという近世城郭の基本思想を具現化したその構造は、戦国社会の構造変化に、在地領主であった河野氏がいかに鋭敏に対応しようとしていたかの証左である。それは、絶え間ない内外の軍事的脅威が生み出した、必然の進化であった。
第二に、発掘調査で明らかになった文化的水準の高さである。膨大な量の輸入陶磁器や、茶の湯などの文化活動の痕跡は、湯築城が単なる軍事拠点ではなく、瀬戸内海の交易網に連なる経済と文化の一大拠点であったことを物語っている。河野氏は、武力のみならず、高い文化資本を以て伊予国に君臨していたのである。
最後に、その現代的意義である。一度は歴史の地層に埋もれながらも、偶然の再発見から国史跡へと至り、市民に開かれた歴史公園として再生された湯築城の歩みは、文化遺産保存の一つの理想形を示している。中世の湯築城と近世の松山城という、二つの「日本百名城」を同時に望むことができるこの場所は、訪れる者に対し、日本の歴史のダイナミックな転換点を雄弁に語りかける。
湯築城の研究は、我々に戦国時代の多様性を教えてくれる。中央の著名な武将や城郭の歴史だけでは見えてこない、地方の在地勢力が繰り広げた生存戦略の巧みさ、そしてその中で育まれた独自の文化の豊かさを、湯築城は静かに、しかし力強く伝えているのである。