出雲の国境に聳える瀬戸山城は、尼子十旗随一の堅城。赤穴氏が守り、大内・毛利との激戦を経験。堀尾氏による近世改修後、一国一城令で破却されるも、その遺構は戦国から近世への変遷を物語る。
出雲、石見、備後。三国の境が複雑に入り組む中国山地の懐深く、ひときわ峻険な山容を誇る一座の頂に、戦国時代の激動を今に伝える城跡がある。瀬戸山城、またの名を赤穴城 1 。島根県飯石郡飯南町の標高約631メートル(一説には683メートル)の山頂に築かれたこの山城は、単なる一地方の砦ではない 1 。それは、西国に覇を唱えた大内、尼子、そして毛利という巨大勢力の興亡を映し出す鏡であり、中国地方全体の戦略地図を左右するほどの重要性を秘めた要害であった。
瀬戸山城が歴史の表舞台でその名を轟かせたのは、出雲の戦国大名・尼子氏がその本拠である月山富田城を防衛するために築いた支城ネットワーク「尼子十旗」の第四の城としてであった 4 。『雲陽軍実記』に記された禄高の順位からも、城主・赤穴氏が尼子家中でいかに重きをなしていたかが窺える 6 。しかし、この城の真の価値は、単に尼子氏の勢力圏内にあったという事実だけに留まらない。その地理的位置こそが、瀬戸山城に比類なき戦略的価値を与えていた。
備後・安芸方面から出雲国へ侵攻しようとする勢力にとって、赤名の地は避けては通れない主要な経路上に位置していた 7 。銀山街道や出雲街道といった主要交通路が交差するこの地を扼する瀬戸山城は、まさに尼子氏の本国へと至る扉を固く閉ざす「閂(かんぬき)」の役割を果たしていたのである 3 。この城の帰趨は、単に一つの拠点の攻防に終わらず、出雲全体の防衛体制、ひいては中国地方の覇権争いの力学そのものを揺るがすほどの意味を持っていた。この極めて重要な役割こそが、城主・赤穴氏が尼子家中で重用され、また敵対勢力から執拗なまでの攻撃を受ける根本的な理由であったと言えよう。
本報告書は、この瀬戸山城を主軸に、城主であった赤穴一族の230年以上にわたる興亡の軌跡、尼子・毛利といった大勢力との間で繰り広げられた激しい攻防、そして戦国時代から近世初頭にかけての城郭技術の変遷を、現存する遺構の分析を通じて多角的に解明するものである。
年代(西暦) |
元号 |
主な出来事 |
城主・関連人物 |
日本史の動向 |
1377年 |
永和3年 |
瀬戸山城、築城に着手される 1 。 |
赤穴(佐波)常連 |
南北朝時代 |
1470年 |
文明2年 |
尼子氏に従い神西城を攻める 9 。 |
赤穴幸清 |
応仁の乱 |
1541年 |
天文10年 |
尼子晴久の吉田郡山城攻めに従軍 9 。 |
赤穴光清 |
尼子氏の勢力拡大 |
1542年 |
天文11年 |
大内義隆が出雲へ侵攻、瀬戸山城攻防戦。 城主・光清は討死し落城 1 。 |
赤穴光清、赤穴久清 |
第一次月山富田城の戦い |
1543年 |
天文12年 |
大内軍が月山富田城から撤退。赤穴氏が城に復帰 9 。 |
赤穴久清(盛清) |
大内氏の出雲侵攻失敗 |
1562年 |
永禄5年 |
毛利元就が出雲へ侵攻。 武名ヶ平城と対峙の末、降伏開城 2 。 |
赤穴久清 |
第二次月山富田城の戦い |
1600年 |
慶長5年 |
関ヶ原の戦い。毛利氏の減封に伴い、赤穴氏も長州へ移る 2 。 |
赤穴元奇 |
関ヶ原の戦い |
1600年以降 |
慶長5年以降 |
堀尾氏が入封。 松田左近吉久が城主となり、近世城郭へ大改修 10 。 |
松田左近吉久 |
江戸幕府の成立 |
1615年 |
元和元年 |
一国一城令により廃城。 破城が行われる 1 。 |
(京極氏家臣・山中織部) |
武家諸法度 |
瀬戸山城の歴史は、その主であった赤穴氏の歴史と不可分である。彼らが如何にしてこの地に根を下ろし、三国を見据える要害を築き上げたのかを理解することは、戦国期におけるこの城の役割を解明する上で不可欠の前提となる。
赤穴氏は、その名字から出雲土着の豪族と思われがちだが、その源流は西隣の石見国に遡る 12 。彼らは漢族系の三善朝臣を祖とし、石見国安濃郡佐波郷(現在の島根県大田市)を本拠とした有力国人・佐波氏の分家筋にあたる一族である 9 。
南北朝時代の動乱期、佐波氏はその勢力を出雲国へも拡大した。当時の赤穴荘は、石清水八幡宮を本所とし、現地の管理者である下司として紀氏が支配する荘園であった 14 。しかし、紀氏一族に内紛が生じると、その隙に乗じる形で石見の佐波氏が進出する 13 。永正二年(1505年)の古文書によれば、佐波氏七代当主・佐波実連の次男であった佐波常連が、紀氏の内紛を利用して赤穴荘の地頭職を譲り受けたことが、赤穴氏の歴史の始まりであった 10 。
常連の子・弘行の代になると、一族は本拠地である佐波の名字を改め、新たに得た所領の地名から「赤穴」を称するようになった 9 。こうして、石見に根を持つ佐波氏の一族は、出雲国赤穴荘の新たな領主として、その歴史を歩み始めたのである。
この出自は、後の戦国時代における赤穴氏の行動原理を読み解く上で、重要な示唆を与える。彼らは純粋な出雲国人ではなく、「石見に根を持つ出雲の領主」という、いわば二重のアイデンティティを持っていた。このことは、彼らが巨大勢力の狭間で生き残りを図る際、独自の政治的力学と思考様式をもたらした可能性がある。例えば、後年、西から強大な勢力を率いて侵攻してきた毛利氏への帰属を決断する際、この「西からの勢力」に対する心理的な障壁が、他の出雲国人と比べて低かったことも考えられる。国人領主の複雑な帰属意識を浮き彫りにする一例と言えよう。
赤穴荘の地頭職を得た佐波常連は、その支配を確固たるものとするため、新たな本拠地の構築に着手した。それが瀬戸山城である。伝承によれば、築城が開始されたのは南朝の天授三年、北朝の永和三年、すなわち西暦1377年のこととされる 1 。
赤名盆地を見下ろす戦略的要地に選ばれたこの山は、自然の地形そのものが堅固な要塞であった。築城当初の瀬戸山城は、後年見られるような壮麗な石垣はなく、山頂や尾根を削平して曲輪(くるわ)と呼ばれる平坦地を造成し、その周囲を土塁で固め、尾根筋を堀切(ほりきり)と呼ばれる深い溝で断ち切るという、中世山城の典型的な姿であったと推測される 2 。山麓の赤名小学校付近には、平時の生活の場である居館が構えられていたと考えられており、有事の際には山上の城に立て籠もるという、当時の国人領主の典型的な支配形態がここにも見られる 2 。
こうして築かれた瀬戸山城は、その後2世紀以上にわたり、赤穴氏歴代の居城として、また出雲南部の防衛拠点として、その役割を果たしていくことになるのである。
15世紀後半、応仁の乱を経て戦国乱世が本格化すると、出雲国では守護代であった尼子氏が台頭し、主家である京極氏を凌ぐ勢いを見せ始める。赤穴氏もまた、この時代の大きな潮流の中で、出雲の覇者・尼子氏の配下としてその武名を馳せることとなる。
赤穴氏は、早くも文明二年(1470年)には尼子氏に従って神西城攻めに参加するなど、尼子氏の勢力拡大に貢献した 9 。特に、「謀聖」と称された尼子経久が家督を継ぐと、その関係はより強固なものとなる。赤穴氏は尼子氏の主要な家臣団に組み込まれ、その居城である瀬戸山城は、尼子氏の本拠・月山富田城を防衛する最前線基地群「尼子十旗」の一つに数えられるに至った 4 。
尼子十旗における瀬戸山城の役割は、単なる防衛拠点に留まらなかった。備後・石見方面からの敵の侵攻を真っ先に食い止める防波堤であると同時に、尼子氏が安芸や備後へ勢力を拡大する際には、その出撃拠点ともなった。天文九年(1541年)、尼子晴久が毛利元就の居城・吉田郡山城へ大軍を差し向けた際にも、当時の城主・赤穴光清は主力部隊の一員として従軍している 9 。このように、瀬戸山城と赤穴氏は、尼子氏の軍事戦略において攻防両面にわたる重要な尖兵の役割を担っていたのである。
瀬戸山城がその真価を最も発揮し、歴史にその名を刻んだのが、天文十一年(1542年)の籠城戦である。
背景: 前年の吉田郡山城攻めに失敗し、逆に勢いを失った尼子氏に対し、周防・長門を本拠とする西国随一の大大名・大内義隆が満を持して出雲への侵攻を開始した 17 。陶隆房(後の晴賢)を総大将とし、安芸の毛利元就ら中国地方の国人衆を動員したその軍勢は、二万とも四万とも言われる大軍であった 15 。大内軍の侵攻ルートは、まさに瀬戸山城が扼する赤名の地であった。周辺の国人たちが次々と大内方へ寝返る中、赤穴光清は尼子方として籠城し、この大軍を迎え撃つ決断を下す 9 。
籠城戦の経過: 城主・赤穴光清は、月山富田城から派遣された田中三郎左衛門率いる千騎の援軍を城内に迎え入れ、総勢約四千の兵力で城の守りを固めた 19 。兵力では圧倒的に不利であったが、光清は地の利を活かした巧みな戦術で大内軍を翻弄する。その最たるものが、城下を流れる赤名川を堰き止め、赤名盆地一帯を湖水化させるという大胆な水計であった 15 。これにより、大軍の展開を阻まれた大内勢は城に容易に近づくことができず、攻めあぐねることとなる。
この籠城戦は二ヶ月にも及ぶ激戦となった 1 。瀬戸山城は、大内軍の度重なる猛攻をことごとく撃退し、その堅固さは「雲南随一の堅城」と謳われるほどであった 1 。しかし、衆寡敵せず、長期にわたる籠城戦で兵糧も尽き果てたのか、ついに光清は討死し、城は陥落した 9 。
戦後の動向: この壮絶な戦いは、赤穴一族の運命を大きく分かつこととなる。光清の父・郡連と三男の盛清(後の久清)は、落城の間際に城を脱出し、月山富田城の尼子晴久のもとへ落ち延びた 9 。一方で、光清の長男・詮清と次男・定清は大内氏に降伏した 9 。これは単なる裏切りと見ることもできるが、戦国を生きる国人領主の視点に立てば、一族という単位で見た場合、敵味方に分かれることでどちらが勝利しても家名を存続させようとする、極めて現実的な生存戦略であった可能性も否定できない。事実、大内方に降った詮清は翌年に筑前で討死し、定清は敵味方に分かれた実家との板挟みに悩み自害したと伝えられており、その選択が決して安易なものではなかったことを物語っている 20 。
この攻防戦は、瀬戸山城が単なる見張り台ではなく、大軍を長期間にわたって足止めできる高度な防御機能と兵站能力を備えた一大戦略拠点であったことを証明した。そして、赤穴光清の死は、滅びゆく主家への忠義を貫いた武将の悲劇として、後世に語り継がれることとなったのである。
天文十一年(1542年)の激戦で一度は陥落した瀬戸山城であったが、歴史の歯車は赤穴氏に再びこの地へ戻る機会を与える。しかし、彼らを待ち受けていたのは、かつての主家・尼子氏の没落と、新たな覇者・毛利元就の台頭という、抗いがたい時代の奔流であった。
瀬戸山城を落とした大内義隆は、その勢いを駆って尼子氏の本拠・月山富田城へと兵を進めた。しかし、尼子方の頑強な抵抗と、長期戦による兵の疲弊、さらには裏切りを疑われた国人衆の離反などが重なり、攻城戦は失敗に終わる。天文十二年(1543年)、大内義隆は出雲から全面撤退を余儀なくされた 9 。
主を失った瀬戸山城には、月山富田城に落ち延びていた赤穴氏が復帰を果たした。父・光清の跡を継いだのは、三男の赤穴盛清(後に久清と改名)であった 9 。光清の奮戦に感銘を受けていた尼子晴久は久清を重用し、赤穴氏は再び出雲南部の守りを担うこととなった 20 。
しかし、一度は危機を脱した尼子氏であったが、大内氏との戦いで受けた打撃は大きく、かつての勢威を取り戻すことはできなかった。さらに、尼子家中を支えた「新宮党」の粛清など内紛も重なり、その力は徐々に衰退していく。その一方で、安芸国では、大内氏の内乱(陶晴賢の謀反)を好機として毛利元就が急速に台頭し、中国地方の新たな覇者としての地位を確立しつつあった。そして永禄五年(1562年)、元就はついに出雲侵攻、すなわち第二次月山富田城攻めを開始する。その最初の標的となったのが、またしても瀬戸山城であった 2 。
二十年前、大内義隆の大軍を迎え撃った瀬戸山城は、再び存亡の危機に立たされた。しかし、今回の敵将・毛利元就の戦術は、かつての陶隆房のそれとは全く異なっていた。
元就は、堅城として名高い瀬戸山城を力攻めにすることを避け、実に巧妙な策を用いた。彼は瀬戸山城の背後にそびえる、より標高の高い武名ヶ平山(標高724メートル)に大軍を率いて登ると、そこに陣城(武名ヶ平城)を築き、瀬戸山城を見下ろす形で対峙したのである 3 。これは「対の城(むかいのしろ)」と呼ばれる戦術であり、敵城の補給路と退路を脅かし、兵站を断つと同時に、高所から城内を監視することで、城兵に絶え間ない心理的圧迫を与える極めて効果的な戦略であった。
赤穴久清は、二十年前の父・光清と同じく籠城の構えを見せたが、状況は絶望的であった。背後を完全に押さえられ、もはや衰退した尼子本家からの援軍は期待できない。このまま籠城を続けても、待っているのは兵糧攻めによる自滅だけであった。この圧倒的な戦略的劣勢を前に、久清は苦渋の決断を下す。所領の安堵を条件に、城を明け渡して毛利氏に降伏したのである 2 。
1542年の徹底抗戦と1562年の降伏開城。この対照的な二つの結末は、城主個人の資質の違いというよりも、中国地方における勢力図の決定的変化を如実に物語っている。久清の決断は、滅びゆく主家と運命を共にする「忠義」よりも、自らの領地と家臣の命を守り抜くという「国人領主としての責任」を優先した、現実主義的な選択であったと言える。それは、戦国後期の国人領主が、もはや独立した勢力としてではなく、巨大な大名権力に組み込まれる存在へと変質していく時代の流れを象徴する出来事でもあった。
この降伏に際して、一つの逸話が残されている。久清の父の代から仕える老臣・森田左衛門と烏田権兵衛は、主君の降伏後も尼子氏への忠義を貫き、賀田城などに立て籠もって毛利軍に対しゲリラ戦を展開した 15 。これに激怒した元就が久清を叱責したところ、久清は「自分は主家を裏切って毛利殿に従いましたが、彼らは武士としての道を貫いております。これを罰することは私にはできません」と毅然として答えたという 24 。この言葉に元就は感心し、久清を許したと伝えられる。この逸話は、時代の奔流の中で苦渋の決断を下した久清の、複雑な胸中を物語っているのかもしれない。
毛利氏の軍門に降った瀬戸山城と赤穴氏は、新たな主君のもとで戦国の世を生き抜いていく。しかし、天下統一の大きなうねりは、やがて彼らを出雲の地から去らせ、城そのものにも劇的な変貌と、そして永遠の終焉をもたらすことになった。
毛利氏配下となった赤穴久清は、主家である毛利氏の戦いに従い、北九州への遠征などにも参加している 26 。その後、子の元奇が跡を継ぎ、文禄・慶長の役にも毛利軍の一員として朝鮮半島へ渡った 12 。しかし、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍が敗北すると、西軍の総大将であった毛利輝元は、徳川家康によって周防・長門の二国に所領を大幅に削減される。この毛利氏の減封に伴い、家臣であった赤穴氏もまた、約230年にわたって支配してきた故郷・赤穴荘を離れ、新たな本拠地である長州萩へ移住することとなった 9 。後に赤穴氏は名字を中川と改めており、国人領主としての赤穴氏の歴史は、ここに事実上の終わりを告げた 12 。
代わって出雲国二十四万石の新たな領主として入封したのは、豊臣秀吉の三中老の一人であった堀尾吉晴である。堀尾氏は、国境防衛の要衝である瀬戸山城の戦略的重要性を高く評価し、重臣の松田左近将監吉久を城番(城代)として入城させた 9 。
松田左近が入城した慶長年間、瀬戸山城は史上最大規模の大改修を受けることになる。それは、中世以来の土の城から、石垣を多用した近世城郭への劇的な変貌であった 11 。
この改修により、城の中心部である主郭やその周辺の曲輪は、高く堅固な石垣で囲われた 1 。城門(虎口)も、敵の直進を阻むために通路を折り曲げた「桝形虎口」のような、より防御性の高い構造へと改められた 3 。一部の資料では、主郭には天守閣、あるいはそれに準ずる高層の櫓が建てられた可能性も指摘されている 1 。
関ヶ原の戦いが終わり、もはや大規模な合戦の脅威が去ったこの時期に、なぜこのような大規模な軍事投資が行われたのか。その目的は、純粋な軍事的必要性以上に、政治的な意味合いが強かったと考えられる。すなわち、新たな領主である堀尾氏が、その権威と経済力を領民や周辺勢力に誇示するための「見せる城」への転換であった。石垣という当時最新の築城技術と、それを実現するための巨大な労役を投じること自体が、旧領主である赤穴氏や毛利氏の記憶を塗り替え、新たな支配体制の正統性を示すための、強力な政治的パフォーマンスだったのである。
しかし、近世城郭として最後の輝きを放った瀬戸山城の命運は、長くは続かなかった。元和元年(1615年)、二代将軍・徳川秀忠は、全国の大名に対し「武家諸法度」を発布。その中の一条である「一国一城令」により、大名は本城以外のすべての支城を破却することを命じられた 1 。
この命令により、瀬戸山城もまた廃城の運命を辿る。堀尾氏に代わって出雲国主となっていた京極氏の家臣・山中織部が城番を務めていたが、この法令に基づき城は放棄された 28 。さらに、単に放棄されるだけでなく、再利用を防ぐために意図的に城の機能を破壊する「破城」が徹底して行われた 15 。堀は埋められ、建物は取り壊され、そして権威の象徴であった石垣は無残に崩された。特に、街道からよく見える側の石垣は、見せしめのように完璧に破壊されたと伝えられている 15 。現在、城跡に残る崩落した石垣の山は、この破城の生々しい痕跡なのである 29 。
堀尾氏による石垣の構築が新時代の支配者の権威の象徴であったとすれば、徳川幕府の命令によるその破壊は、地方の独自な権威が中央の統一的な権力によって否定される過程を象-徴していた。瀬戸山城の石垣の構築と破壊は、戦国時代の終焉と、近世封建体制が確立するまでの政治的ダイナミズムを、物理的な形で今に伝えている。
瀬戸山城跡に立つとき、我々は単なる廃墟を見ているのではない。そこに残る土塁、堀切、そして崩れた石垣の一つ一つが、この城が経てきた歴史と、その時代ごとの築城思想を雄弁に物語る「一次史料」である。瀬戸山城の遺構は、日本の城郭史における「中世」から「近世」への技術的・思想的過渡期を、一つの山に凝縮した生きた博物館と言える。
瀬戸山城の城域は、東西約400メートル、南北約200メートルに及ぶ広大なものである 3 。城は、西にそびえる武名ヶ平山から東へ延びる尾根の先端部分を巧みに利用して占地している。その基本的な防御思想は、尾根筋を巨大な堀切で断ち切り、敵の侵入を遮断するというものである 1 。しかし、その内部構造を詳細に見ると、明らかに性質の異なる二つの時代の遺構が重層的に存在していることがわかる。一つは赤穴氏時代に築かれたであろう中世山城の要素、もう一つは堀尾氏(松田左近)時代に改修された近世城郭の要素である。
城の中心部から山麓へと延びる南西および東の尾根筋には、複数の堀切と、それに伴う小規模な曲輪群が連続して配置されている 2 。これらの曲輪は、後述する主郭部のように石垣で固められてはおらず、土塁によって防御線が形成されている 9 。これらこそが、赤穴氏時代の中世山城の姿を色濃く留める部分であると指摘されている 2 。
この「土の城」の防御思想は、個々の武士による白兵戦を前提としている。斜面を削って作られた曲輪や土塁は、敵兵の足を滑らせ、動きを鈍らせ、防御側が有利な体勢で迎え撃つことを意図している。尾根を断ち切る堀切は、敵の進軍を一時的に停止させ、その間に弓矢などで攻撃を加えるための装置である。地形を最大限に活用し、敵を一点に集中させずに分散させて各個撃破を図る、中世的な「点の防御」思想がここに体現されている。
一方、城の最高所に位置する主郭を中心とした城郭中心部は、全く異なる様相を呈している。ここは、堀尾氏の家臣・松田左近によって改修された、近世城郭の技術が投入された空間である 11 。
石垣: 主郭、およびそれを取り巻く二郭、三郭、四郭、五郭といった主要な曲輪は、高く切り立った石垣によって固められている 3 。破城によってその多くは崩落しているものの、特に曲輪の隅角部には、算木積み(さんぎづみ)に近い技法で積まれた石垣の痕跡が明瞭に残り、当時の壮麗な姿を偲ばせる 15 。この垂直に切り立つ石垣は、敵兵の侵入を物理的に完全に拒絶するものであり、鉄砲の普及など戦術の変化に対応した、より高度な防御思想の表れである。
虎口: 城の入口である虎口(城門)にも、近世的な工夫が見られる。東尾根に設けられた大手口(縄張り図の虎口A)は、進入路を直角に折り曲げることで敵の勢いを殺ぎ、側面からの攻撃(横矢掛かり)を可能にしている 3 。また、主郭へ至る虎口(縄張り図の虎口B)は、門の内側に四角い空間を設ける「内桝形(うちますがた)」と呼ばれる構造になっており、狭い空間に敵兵を誘い込んで殲滅することを意図した、極めて高い防御性を誇る設計である 3 。
主郭と天守の可能性: 城の心臓部である主郭は、不等辺五角形を呈するが、その面積は非常に狭い 1 。このことから、主郭の曲輪そのものを天守台として利用し、隣接する二郭にあった建物から渡り廊下のようなもので出入りする、不定形の天守(あるいは三階建ての大型櫓)が聳えていたのではないか、という説も提唱されている 3 。これが事実であれば、瀬戸山城は単なる国境の砦ではなく、領主の権威を象徴するシンボルとしての役割も担っていたことになる。
このように、瀬戸山城の遺構を読み解くことは、日本の築城技術が、地形に寄り添う「土の城」から、権威と防御力を誇示する「石の城」へと移行していく、まさにその過渡期の姿を追体験することに他ならない。
防御要素 |
赤穴氏時代(中世・推定) |
堀尾氏時代(近世・推定) |
技術的・思想的背景 |
主郭・曲輪 |
自然地形を削平した土の曲輪。土塁で防御。 |
総石垣による石の要塞。垂直な壁面で敵を拒絶。 |
在地領主の拠点から、新支配者の権威の象徴へ。 |
虎口(城門) |
比較的単純な平虎口や、通路を狭める程度の構造。 |
桝形虎口など、敵を誘い込み殲滅する技巧的な構造。 |
白兵戦主体から、鉄砲などを用いた組織的戦闘への変化。 |
斜面処理 |
堀切や竪堀で敵の移動を阻害。 |
高石垣で斜面を完全に壁化。 |
個々の戦闘を前提とした「点の防御」から、城全体で防衛する「面の防御」へ。 |
象徴性 |
実用本位の軍事拠点。 |
天守(櫓)の存在可能性。支配者の権威を視覚化。 |
戦乱の時代の砦から、新たな統治体制を誇示するシンボルへ。 |
二百数十年にわたる戦いの歴史を終え、静かな眠りについていた瀬戸山城は、現在、その貴重な歴史的価値から飯南町の町指定史跡として保護され、多くの歴史愛好家や登山者が訪れる場所となっている 8 。城跡を訪れることは、在りし日の武士たちの姿に思いを馳せる、またとない機会となるであろう。
瀬戸山城跡は、地元住民グループ「赤名史談会」などの手によって登山道が整備されており、比較的安全に散策することが可能である 32 。麓の赤名小学校の校庭脇に登城者用の駐車スペースと登城口が設けられており、そこから山頂の主郭までは徒歩でおよそ30分ほどの道のりである 29 。道中には解説板や手作りの案内標識が設置されており、初めて訪れる人にも分かりやすい配慮がなされている 3 。
城跡における最大の見どころは、やはり堀尾氏時代に築かれ、一国一城令によって破壊された石垣群であろう 23 。特に主郭や三郭周辺に残る石垣の崩落跡は圧巻であり、破城の激しさを物語ると同時に、往時の堅固な城郭の姿を想像させる 23 。また、主郭から眼下に広がる赤名市街の眺望は素晴らしく、この城が交通の要衝を監視するために築かれたことを実感できる 29 。その景観は、一部の研究者から「但馬の竹田城を彷彿とさせる」と評されるほどである 32 。
瀬戸山城の歴史をより深く理解するためには、城跡だけでなく、山麓に点在する関連史跡を併せて訪れることが推奨される。
これらの史跡を巡ることで、瀬戸山城という一つの城郭が、いかに地域の歴史と深く結びついていたかを知ることができるだろう。
出雲・石見・備後の三国境に聳える瀬戸山城。その歴史は、単に「尼子十旗の一つ」という言葉だけでは到底語り尽くすことのできない、多層的で深い物語を内包している。築城から廃城までの約240年間、この城は中国地方の勢力争いの縮図であり、また日本の城郭技術の変遷を体現する貴重な証人でもあった。
第一に、瀬戸山城は、戦国時代を生きた 国人領主の栄枯盛衰の象徴 であった。城主・赤穴氏は、尼子、大内、毛利という巨大勢力の狭間で、ある時は主家への忠義を貫いて壮絶な討死を遂げ、またある時は一族の存続をかけて苦渋の降伏を決断した。彼らの歴史は、自らの領地と家門を守るために、忠義と現実主義の間で揺れ動きながら生き残りを図った、戦国時代における数多の国人領主たちの運命そのものを凝縮している。
第二に、瀬戸山城は、 城郭技術の変遷を示す生きた標本 である。一つの山の中に、赤穴氏時代に築かれたであろう、自然地形を活かした素朴な「土の城」の遺構と、堀尾氏時代に改修された、権威と防御力を誇示する堅牢な「石の城」の遺構が見事に共存している。そして、その最後の姿は、中央政権の命令による「破城」という、政治的な意図による破壊の痕跡である。この城跡は、城郭が単なる軍事施設ではなく、その時代の政治体制、技術水準、そして戦術思想を色濃く反映する文化遺産であることを、我々に雄弁に物語っている。
今日、静寂に包まれた瀬戸山城跡に立つとき、風の音に混じって、かつてこの地で繰り広げられた攻防の鬨の声や、城の改修に汗した人々の槌音が聞こえてくるかのようである。崩れ落ちた石垣の一つ一つ、草むした土塁の一筋一筋が、国境に生きた人々の誇りと苦悩、そして時代の大きなうねりを、静かに、しかし確かに今に伝えている。瀬戸山城は、歴史の中に埋もれた単なる過去の遺物ではない。それは、訪れる者に戦国の世の記憶を語りかける、永遠の「記憶の器」なのである。