猪苗代城は会津の要衝。戦国期は猪苗代氏の拠点として蘆名氏と対立。摺上原合戦で盛国が伊達政宗に内応し、蘆名氏滅亡の決定打となる。江戸期は一国一城令の例外として存続し、戊辰戦争で焼失。中世と近世の城郭構造が共存する。
福島県耶麻郡猪苗代町、磐梯山の雄大な南麓に広がり、猪苗代湖の北岸にその姿を留める猪苗代城。会津若松城(鶴ヶ城)に対する「亀ヶ城」の雅称でも親しまれるこの城は、単なる地方の一城郭に留まらない、重層的で複雑な歴史を刻んできた存在である 1 。その立地は、磐梯山の火山活動がもたらした天然の要害であり、古くから会津地方の東方を扼する戦略的要衝として、時の権力者たちから常に重要視されてきた 4 。
戦国時代には、会津の領主・蘆名氏の一族でありながら、独立性の高い国人領主として独自の動きを見せた猪苗代氏の拠点として、奥州の歴史に深く関与した。特に、天正17年(1589年)の摺上原合戦においては、当主・猪苗代盛国の決断が、南奥州の勢力図を塗り替える伊達政宗の覇業を決定づける上で、極めて重要な役割を果たした。
江戸時代に入ると、幕府による「一国一城令」の厳しい規制の中で例外的に存続を許され、会津藩の東方を守る支城として、また藩祖・保科正之を祀る聖地・土津神社の守護という特異な使命を帯びて、その重要性を保ち続けた 1 。そして幕末、戊辰戦争の激動の中で、自ら炎に包まれるという悲劇的な最期を遂げ、城としての歴史に幕を下ろしたのである 6 。
本報告書は、猪苗代城に関する既存の知見を再整理するに留まらず、その歴史を多角的に分析し、以下の核心的な問いに答えることを目的とする。第一に、築城年代を巡る二つの説は、何を物語っているのか。第二に、猪苗代氏はなぜ、同族である蘆名氏に反旗を翻し続けたのか。第三に、猪苗代城は、なぜ奥州の歴史が大きく動く摺上原合戦において、決定的な役割を果たすことができたのか。第四に、城跡に残る中世と近世の二重構造は、日本の城郭史においてどのような意味を持つのか。そして最後に、平和な江戸時代において、なぜこの城は特例として存続し、どのような独自の使命を担ったのか。これらの問いを解き明かすことを通じて、戦国期から近代に至る日本の歴史の潮流の中で猪苗代城が果たした役割とその本質的価値を、ここに詳らかにするものである。
西暦(和暦) |
主要な出来事 |
関連人物 |
1191年(建久2年) |
猪苗代経連が築城したとする伝承が残る(『会津古塁記』等による後世の説) 5 。 |
猪苗代経連 |
1248年(宝治2年) |
伊達家の史料によれば、猪苗代経連が猪苗代の地を与えられたとされる 6 。 |
猪苗代経連 |
14世紀中頃~15世紀 |
考古学的知見や関連史料から、南北朝・室町期に築城されたとする説が有力視される 5 。 |
猪苗代氏 |
1521年(永正18年)頃 |
蘆名盛舜が家督相続直後に猪苗代氏の反乱を鎮圧する 9 。 |
蘆名盛舜 |
1589年(天正17年) |
摺上原合戦。当主・猪苗代盛国が伊達政宗に内応し、蘆名氏が滅亡する 6 。 |
猪苗代盛国、伊達政宗、蘆名義広 |
1590年(天正18年) |
豊臣秀吉の奥州仕置により伊達氏が会津を去り、猪苗代氏も猪苗代の地を離れる 6 。蒲生氏郷が会津に入部し、猪苗代城を近世城郭へと大改修する 5 。 |
蒲生氏郷 |
1598年(慶長3年) |
上杉景勝が会津に入封。猪苗代城には水原親憲らが城代として入る 6 。 |
上杉景勝、水原親憲 |
1615年(慶長20年) |
江戸幕府が「一国一城令」を発布するが、猪苗代城は例外として存続を認められる 1 。 |
徳川家康 |
1643年(寛永20年) |
保科正之が会津藩主となり、猪苗代城に城代を置く 6 。 |
保科正之 |
1675年(延宝3年) |
保科正之の墓所である土津神社が創建され、猪苗代城はその守護という役割を担う 1 。 |
保科正之 |
1868年(慶応4年) |
戊辰戦争。母成峠の戦いで会津藩が敗北。城代・高橋権大夫は城を焼き払い若松へ撤退し、廃城となる 1 。 |
高橋権大夫 |
1905年(明治38年) |
町内有志により日露戦争の戦勝記念として桜が植樹され、公園として整備が始まる 1 。 |
小林助治ら |
2001年(平成13年) |
「猪苗代城跡 附 鶴峰城跡」として福島県の史跡に指定される 16 。 |
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猪苗代城の歴史を紐解く上で、最初の論点となるのがその起源、すなわち築城年代である。この点については、長らく信じられてきた鎌倉時代初期とする説と、近年の研究で有力視される南北朝・室町時代とする説の二つが存在し、その背景を考察することは、城の歴史的性格を理解する上で不可欠である。
従来、多くの文献や現地の案内板などで広く紹介されてきたのが、建久2年(1191年)に佐原義連の孫にあたる猪苗代経連によって築かれたとする説である 1 。この説は、文治5年(1189年)の源頼朝による奥州合戦において、三浦一族の佐原義連が軍功を挙げ、その恩賞として会津四郡を与えられたという壮大な歴史物語に端を発する 6 。その子孫である経連が猪苗代の地を領し、城を築いたという系譜は、猪苗代氏の由緒を鎌倉幕府草創期の権威に直結させるものであった。
しかし、この「建久二年説」の直接的な典拠は、江戸時代後期の文化10年(1813年)に成立した地誌『会津古塁記』など、築城から数百年が経過した後に編纂された文献に求められる 5 。同時代の確たる史料による裏付けが存在しないことから、この説は史実そのものというよりは、江戸時代に各大名家や旧家が自らの家の権威と正統性を確立するために、由緒ある起源を求めて形成した一種の「創設神話」としての性格が強いと見なされている。明確な起源を求める後世の人々の心情が、頼朝の奥州平定という歴史的画期に結びつけた物語を育んだ可能性は否定できない。
近年の城郭研究の進展に伴い、より有力視されるようになったのが、猪苗代城の実際の築城年代を南北朝時代から室町時代にかけての時期とする説である 5 。この説は、複数の客観的な根拠に基づいている。
第一に、城跡に残る遺構、特に土塁や空堀を中心とした縄張りの構造が、鎌倉時代のものとしては技術的に発達しすぎている点が挙げられる 5 。むしろその構造は、全国的に争乱が激化し、築城技術が飛躍的に向上した南北朝期以降の特徴を色濃く反映している。第二に、城跡からの出土遺物も、この年代観を支持する。そして第三に、文献史学的な観点からも、『示現寺文書』や『白河証古文書』といった信頼性の高い同時代史料において、猪苗代氏の具体的な活動が確認され始めるのが、まさにこの南北朝期以降なのである 5 。
これらの考古学的知見と文献史料の記録が一致することから、猪苗代城が地域の軍事的緊張が高まったこの時代に、猪苗代氏の拠点として築かれ、あるいは本格的に整備されたと考えるのが、現在の学術的な通説となっている。
この築城年代を巡る二つの説の存在と、その評価の変遷は、単に猪苗代城一城の起源の問題に留まらない。それは、日本の歴史研究そのものが、後世に編纂された伝承や由緒を重んじる歴史観から、考古学的な物証や厳密な史料批判に基づき、証拠から導き出せる範囲で歴史を再構築しようとする、近代的な実証主義へと移行してきた大きな流れを象徴する事例と言える。猪苗代城の研究史は、それ自体が日本の歴史学の発展を体現しているのである。
猪苗代城が築かれた場所の地理的特性は、その戦略的価値を理解する上で極めて重要である。城が位置する丘陵は、約20万年から40万年前の古磐梯火山の火山活動によって噴出したマグマや、火山性泥流(岩屑なだれ)の堆積物によって形成された、南北に細長い「馬ノ背状」の地形である 4 。
この事実は、単なる地質学的な解説ではない。それは、大規模な土木工事が困難であった中世において、築城者がいかに自然地形を最大限に活用し、堅固な防御施設を効率的に構築したかを示している。磐梯山麓から猪苗代湖に向かって舌状に突き出したこの地形は、三方が急峻な崖となり、防御に極めて有利であった。同時に、会津盆地と中通りを結ぶ街道や、猪苗代湖上の水運を眼下に収める絶好の監視地点でもあった。猪苗代城が古くからこの地域の政治・軍事の中心拠点たりえたのは、こうした火山活動がもたらした地理的必然性があったからに他ならない。
猪苗代城を語る上で、その歴史の大部分を形成した城主・猪苗代氏の存在を抜きにすることはできない。約400年にわたりこの地を支配した猪苗代氏は、会津の領主であった蘆名氏との間に、同族でありながらも緊張と対立をはらんだ複雑な関係を続けた。その歴史は、戦国時代の地方領主が、いかにして激動の時代を生き抜こうとしたかの典型例を示している。
猪苗代氏は、会津の戦国大名である蘆名氏と同じく、相模国の豪族・三浦氏の一族、佐原義連を共通の祖先に持つ同族であった 4 。伝承によれば、佐原義連の子・盛連には六人の男子がおり、蘆名氏が四男・光盛を祖とするのに対し、猪苗代氏は長男・経連を祖とするとされる 8 。この系譜が史実であるとすれば、猪苗代氏は蘆名氏の本家筋に連なる家柄であり、そのことが彼らの矜持と独立志向を育んだ一因となった可能性が考えられる。
会津盆地の東の玄関口という地理的に重要な位置を占める猪苗代氏は、蘆名氏の支配体制において、常に有力な一門として重きをなした。しかし、その関係は単なる従順な主従関係ではなく、本家と有力分家の間に生じがちな、複雑な力学の上に成り立っていた。猪苗代氏は、蘆名氏の家臣であると同時に、自らの領地と家臣団を持つ独立した領主(国人)としての側面を強く保持し続けていたのである。
猪苗代氏の歴史は、本家である蘆名氏に対する反逆と従属の繰り返しであったと評される 6 。実際に、歴代当主は幾度となく蘆名氏に対して兵を挙げており、その関係は極めて不安定であった。例えば、16代当主・蘆名盛氏は、家督相続直後に猪苗代氏の反乱を鎮圧し、家中を安定させる必要に迫られている 9 。また、その父である15代当主・盛舜も、猪苗代氏の攻撃を撃退した記録が残る 10 。
これらの反乱は、単なる気まぐれや個人的な感情によるものではない。それは、戦国時代の国人領主が共通して取った、極めて合理的な生存戦略の表れであった。すなわち、蘆名氏の当主交代に伴う内紛や、外部勢力との抗争によって本家の権威が揺らいだ好機を捉え、自らの勢力拡大や領地内での自律性をより確固たるものにしようとする戦略的な行動だったのである。猪苗代氏は、蘆名氏にとって会津の東方を守る重要な盾であると同時に、常に爆発の危険性をはらんだ火薬庫のような存在であり続けた。彼らの「反逆」は、より強力な上位権力に従うか、あるいは自立を模索するかという、戦国国人の絶えざる選択の結果だったのである。
猪苗代氏と蘆名氏の長年にわたる相克が、決定的な破局を迎えるのが、当主・猪苗代盛国の時代である。彼は当初、蘆名氏16代当主・盛氏に仕え、その偏諱(名前の一字)を与えられて「盛国」と名乗るなど、従順な家臣として振る舞っていた 17 。しかし、蘆名氏の屋台骨を揺るがす後継者問題が、彼の運命を大きく変えることになる。
蘆名氏17代当主・盛興が跡継ぎなく早世し、その跡を継いだ盛隆も家臣に暗殺されると、蘆名家は深刻な後継者問題に直面する 10 。家中は、伊達政宗の弟・小次郎を擁立しようとする伊達派と、常陸の佐竹義重の次男・義広を推す佐竹派に二分された 18 。この時、猪苗代盛国は蘆名一門の重鎮として、伊達派の中心人物となった。しかし、重臣・金上盛備らの画策により、最終的に佐竹派が勝利を収め、佐竹家から義広が新たな当主として迎えられたのである 18 。
この政治的敗北は、盛国にとって致命的であった。自らが推した候補が退けられ、敵対派閥が蘆名家中の実権を握ったことで、盛国は家中で完全に孤立し、その将来に絶望したと考えられる。この状況下で、南奥州に勢力を拡大し、会津を虎視眈眈と狙う伊達政宗からの誘いは、彼にとってまさに渡りに船であった。伊達政宗への内応は、単なる裏切りという一面的な評価では捉えきれない。それは、蘆名家中で政治的に敗北し、将来を閉ざされた盛国が、自らの家を存続させるために下した、最後の、そして必然の政治的決断だったのである。
天正17年(1589年)6月5日、磐梯山麓の摺上原で行われた伊達政宗と蘆名義広の合戦は、南奥州の覇権の帰趨を決した、戦国史における重要な一戦である 11 。この合戦において、猪苗代城とその城主・猪苗代盛国の動向は、単なる一要素に留まらず、戦局全体を支配する決定的な役割を果たした。
蘆名氏の本拠地である会津盆地は、四方を山々に囲まれた天然の要害であり、外部からの侵攻は容易ではなかった。会津攻略を目指す伊達政宗にとって、最大の課題は、いかにしてこの堅固な防衛線を突破し、中枢である黒川城(後の会津若松城)に迫るかであった。
この難題を解決する鍵こそが、猪苗代城であった。猪苗代は、会津盆地への東の玄関口に位置し、この城を拠点とすることができれば、山沿いに点在する蘆名方の諸城を迂回し、一気に敵の中枢に王手をかけることが可能となる 11 。政宗は、武力による正面突破の困難さを熟知しており、蘆名家中の内情、特に猪苗代盛国が抱える不満を巧みに利用する調略に活路を見出した。猪苗代城は、政宗の壮大な戦略を実現するための、まさに死活的に重要な駒だったのである。
蘆名氏の後継者問題で敗れ、家中での立場を失った猪苗代盛国に対し、政宗は執拗に内応を働きかけた。そして天正17年6月1日、盛国はついに決断し、嫡子・亀丸を人質として差し出し、政宗に恭順の意を示した 11 。
この瞬間、猪苗代城の戦略的価値は180度転換した。昨日まで「蘆名氏の東方を守る盾」であった城は、一夜にして「伊達氏の会津侵攻の矛先」となったのである。政宗はこの好機を逃さず、直ちに腹心の片倉景綱や伊達成実らを猪苗代城に入城させ、会津攻略のための最前線基地として確保した 20 。これにより、蘆名義広は自領の喉元に敵の刃を突きつけられるという、絶望的な戦略的劣勢に立たされた。彼は、この喫緊の脅威を排除するため、諸将の準備が整わないまま、不利を承知で決戦を挑む以外に選択肢を失ったのである。
猪苗代城に入った政宗は、万全の態勢で蘆名軍を待ち受けた。一方、急遽出陣した蘆名軍は、数では伊達軍に匹敵したものの、指揮系統の乱れや士気の低下は隠せなかった。
摺上原での激戦は、当初一進一退の攻防となったが、やがて風向きの変化などをきっかけに伊達軍が優勢となり、蘆名軍は崩れ始めた 11 。そして、この敗走の局面で、猪苗代盛国は蘆名氏にとどめを刺す決定的な行動に出る。彼は、敗走する蘆名兵の唯一の退路であった日橋川に架かる橋を、あらかじめ破壊していたのである 11 。退路を断たれた蘆名勢は川で多数が溺死し、その被害は壊滅的なものとなった。この合戦での決定的勝利により、伊達政宗は長年の宿敵であった蘆名氏を滅亡に追い込み、名実ともに南奥州の覇者としての地位を確立した 6 。
猪苗代城の帰属の変動は、単に一つの城が敵の手に落ちたという以上の意味を持っていた。それは、両軍の間に存在することで、一方を焦燥と混乱に陥れて不利な決戦へと誘い出し、もう一方に時間的・地理的・心理的な圧倒的優位をもたらす「触媒」として機能したのである。戦いの主導権そのものを伊達政宗にもたらし、戦局の力学を根底から覆した。戦国史において、一つの城の寝返りがこれほど劇的に、かつ迅速に大国の運命を決定づけた例は稀であり、猪苗代城の歴史における最も重要な瞬間であったと言えるだろう。
猪苗代城跡の最大の魅力であり、学術的価値の核心は、その敷地内に中世と近世という二つの異なる時代の城郭構造が、それぞれ明確な形で保存されている点にある。猪苗代氏時代の面影を色濃く残す「鶴峰城」と、蒲生氏郷によって大規模に改修された近世城郭としての「猪苗代城」。この二つの城の遺構を比較分析することは、日本の城郭が「戦闘拠点」から「支配拠点」へとその性格を変質させていった歴史的プロセスを解き明かす上で、極めて重要な示唆を与えてくれる。
猪苗代城跡の北西、主郭部とは大きな堀切で隔てられた丘陵は「鶴峰城」と呼ばれている 6 。文献史料によれば、猪苗代盛国が自らの隠居城として用いたと伝えられるこの城は 6 、猪苗代氏がこの地を去った後は本格的な改修を受けることなく廃城となったため、戦国時代末期の城郭の姿を今に伝える貴重な遺構となっている 5 。
鶴峰城の構造的特徴は、石垣をほとんど用いず、土を主たる材料としている点にある。自然の地形を巧みに削り、あるいは盛り上げることで造成された曲輪群は、高く険しい切岸(人工的な急斜面)によって防御されている。曲輪の周囲には土塁が巡り、曲輪と曲輪の間は深く掘られた空堀や堀切によって分断されている 6 。その縄張りは、華美な装飾を排し、いかに効率よく敵の攻撃を防ぎ、味方の兵を動かすかという、実戦本位の軍事合理性に基づいて設計されている。鶴峰城は、まさに戦乱の時代が生み出した、土の城塞の典型例なのである 23 。
摺上原合戦の後、会津の新たな領主となった蒲生氏郷は、豊臣政権の大名にふさわしい拠点とするため、領内の主要な城郭に大規模な改修を施した。猪苗代城もその一つであり、氏郷の手によって、中世的な山城から、織豊系城郭と呼ばれる最新技術を導入した近世城郭へと劇的な変貌を遂げた 5 。
その最大の特徴は、石垣の多用である。特に城の正面玄関にあたる東麓の大手口には、自然石を巧みに組み合わせ、隙間なく積み上げる「穴太積(あのうづみ)」という技法を用いた、壮大で堅固な石垣が築かれた 2 。さらに、この大手口は、侵入した敵を三方から攻撃できるように設計された「枡形虎口(ますがたこぐち)」という複雑な構造を持っている 6 。これらの構造は、鉄砲の普及など、戦術の変化に対応した高度な防御思想を反映していると同時に、見る者を圧倒し、領主の絶大な権威と財力を視覚的に示すという、政治的な意図をも担っていた。
蒲生氏郷による改修を経て、江戸時代を通じて維持された猪苗代城の縄張りは、近世城郭に典型的な階層構造を示している。
城の中心は、丘陵の最高所に位置する略方形の本丸であった。本丸の周囲は土塁で囲まれ、内部には城主の居館である御座之間(御殿)や茶室、武器庫などが置かれていた 15 。本丸の南側には二の郭が、そして本丸を取り囲むように帯曲輪が配置され、中枢部を幾重にも守っていた 24 。二の郭には、角櫓や番小屋、土蔵などが設けられていた 15 。
丘陵の東麓には、より広い平坦地を利用して二の丸と三の丸が設けられた。二の丸には城代屋敷や馬場、藩の役所などが置かれ、城の行政的中心としての機能を担った 24 。三の丸には上級家臣の屋敷が配置され、城下町との境界をなしていた 15 。これらの曲輪群の周囲には水堀が巡らされており、城全体の防御を固めていた 24 。各曲輪に明確な機能が割り当てられ、身分に応じて居住区が分けられたその構造は、猪苗代城が単なる軍事拠点ではなく、地域の政治・行政を司る支配拠点として完成されていたことを示している。
猪苗代城跡は、一つの場所で日本の城郭史における大きな転換点を体感できる、まさに「生きた博物館」と言える。巨大な堀切を境にして、北に戦国時代の「戦闘拠点」としての土の城(鶴峰城)が、南に近世の「支配拠点」としての石の城(猪苗代城)が並び立つ。この劇的な対比は、戦乱の時代が終わり、安定した統治体制が築かれる中で、城に求められる役割がどのように変化していったかを雄弁に物語っている。この二重構造こそが、猪苗代城跡の持つ学術的価値の核心なのである。
比較項目 |
鶴峰城(猪苗代氏時代) |
猪苗代城(蒲生氏郷改修後) |
主要素材 |
土、木材 |
石、土、木材、瓦 |
防御施設の主体 |
土塁、空堀、切岸など、地形を活かした土木工事が中心 6 。 |
高石垣、水堀、漆喰塗りの土塀など、高度な技術と多大な労力を要する構造物 6 。 |
虎口(入口)の形態 |
簡易な平入虎口や、小規模な喰違虎口が主。 |
巨大な石垣で囲み、複数の門を配置した複雑な枡形虎口 24 。 |
設計思想 |
敵の侵攻を食い止めるための、純粋な軍事合理性・実戦本位の設計 23 。 |
高度な防御機能に加え、領主の権威を誇示するための政治的・象徴的な意図が強く反映されている 23 。 |
時代背景 |
戦乱が常態であった戦国時代。国人領主の拠点としての「砦」。 |
豊臣政権による天下統一が進み、近世的な大名領国が形成された安土桃山時代。「政庁兼シンボル」。 |
戦国時代の動乱が終息し、徳川幕府による安定した統治が確立された江戸時代においても、猪苗代城はその重要性を失うことはなかった。むしろ、会津藩の支配体制の中で、軍事的・政治的に特異な役割を担うことで、その存在意義を確固たるものとしていった。
慶長20年(1615年)、大坂夏の陣の後、徳川幕府は全国の大名に対し、居城以外の城を破却するよう命じる「一国一城令」を発布した。これは、大名の軍事力を削ぎ、幕府への謀反の可能性を根絶するための厳しい統制策であり、これにより全国の数多くの城がその歴史を閉じた。
しかし、猪苗代城はこの厳命の例外として、存続が特別に認められた希有な城の一つであった 1 。これは、猪苗代城が会津藩にとって、単なる過去の遺物ではなく、現実的な軍事的価値を持つ不可欠な拠点と認識されていたことを明確に示している。会津盆地と中通りを結ぶ二本松街道を押さえ、藩の東方を守る地政学的な重要性は、泰平の世といわれた江戸時代においても、決して軽視されることはなかったのである 2 。
猪苗代城が近世を通じて特別な地位を保ち続けた、もう一つの重要な理由が、その役割の変化にある。寛永20年(1643年)、三代将軍・徳川家光の異母弟である保科正之が会津藩主として入封すると、猪苗代城には城代が置かれ、藩の重要拠点として改めて位置づけられた 6 。
そして、正之の死後、その遺言により城の北方の地に、正之を祀る壮麗な土津(はにつ)神社が創建されると 13 、猪苗代城には新たな、そして極めて神聖な使命が与えられた。それが、藩祖の墓所であるこの聖域を守護するという特命であった 1 。会津藩にとって藩祖・正之は、単なる過去の領主ではなく、藩の統治の精神的支柱として神格化された存在であった。その墓所である土津神社は、藩にとって最も重要な聖地であり、猪苗代城は、この聖域を守るという軍事的な任務を超えた、一種の宗教的・儀礼的な役割を帯びるに至ったのである。本城である鶴ヶ城から見て、土津神社と猪苗代城が鬼門(北東)の方角に位置することも、この城の特殊な性格を象徴している 15 。
猪苗代城の重要性は、そこに配置された城代の顔ぶれからも窺い知ることができる。蒲生氏郷の時代には重臣の蒲生郷安、上杉景勝の時代には猛将として知られた水原親憲、そして江戸時代を通じては会津藩の有力家臣が城代として任じられ、城の維持管理と周辺地域の統治にあたった 6 。
彼らは、城の軍事施設を常に臨戦態勢に保つとともに、土津神社への藩主の参詣の際にはその宿所としての役割を果たすなど、多岐にわたる任務をこなした 15 。猪苗代城は、江戸時代を通じて、会津藩の東部支配を支える政治・軍事の拠点として、そして藩の精神的支柱を守る神聖な番人として、機能し続けたのである。この城の存続は、単なる例外措置ではなく、幕藩体制下における「武」の論理(軍事的必要性)と「文」の論理(統治の正統性と権威)が交差し、その存在を二重に正当化した結果であった。
約700年にわたり、会津の歴史と共に歩んできた猪苗代城の歴史は、幕末の動乱の中で、あまりにも劇的な形で終焉を迎える。それは、城がその最後の瞬間に、自らの身を犠牲にして主家を守ろうとした、悲劇的な最期であった。
慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いに端を発した戊辰戦争は、奥羽越列藩同盟を結成した旧幕府勢力と、新政府軍との全面戦争へと発展した。会津藩は同盟の中心として新政府軍と対峙し、猪苗代城は会津領防衛の最前線となった。
しかし、同年8月、会津領への侵攻ルートの一つであった母成峠の守りが、新政府軍の圧倒的な火力の前に突破されると、戦況は一変する 6 。母成峠の敗戦は、会津藩の防衛計画を根底から覆すものであり、新政府軍は雪崩を打って会津盆地へと進軍を開始した。猪苗代城は、敵の進撃路の直上に位置しており、孤立無援の危機に瀕した。兵力、装備ともに劣勢の中、籠城しても勝ち目がないことは、城代・高橋権大夫の目には明らかであった。
敵軍の猛攻を前に、城代・高橋権大夫は苦渋の決断を下す。これ以上の抵抗は無益な犠牲を生むだけであり、また城が新政府軍の拠点として利用されることを防ぐため、自らの手で城に火を放ち、兵を率いて本城である若松城へ撤退することを選んだのである 1 。
燃え盛る炎は、城内にあった全ての建物を焼き尽くし、数百年にわたる猪苗代城の歴史は、ここに幕を閉じた。この決断は、玉砕という名誉の死を選ぶのではなく、戦力を温存して本城での決戦に望みを繋ぐという、極めて合理的な判断であった。会津の東方を守り続けた城は、その最後の瞬間に、自らを灰燼に帰せしめることで、会津藩本体を守るという最後の務めを果たしたのである。
戊辰戦争後、主を失った猪苗代城跡は、しばらくの間、荒廃したまま放置されていた。しかし、明治38年(1905年)、日露戦争の戦勝を記念して、小林助治ら町内の有志の手によって城跡に桜やツツジが植樹され、公園としての整備が始まった 1 。かつて武士の権威の象徴であった場所は、近代国家の栄光を祝う国民の憩いの場として、新たな命を吹き込まれたのである。
現在、城跡は「亀ヶ城公園」として町民に親しまれ、春には多くの花見客で賑わう桜の名所となっている 1 。また、世界的な細菌学者・野口英世が幼少期にしばしばこの城跡で遊んでいたという逸話も、この地に新たな文化的価値を与えている 2 。そして平成13年(2001年)には、隣接する鶴峰城跡とあわせて「猪苗代城跡 附 鶴峰城跡」として福島県の史跡に指定され、その歴史的価値が公的に認められた 2 。
猪苗代城の歴史は、時代の大きな転換期ごとに、古い価値観と共に一度「破壊」され、そして新しい時代の価値観をまとって「再生」されるという、ダイナミックなサイクルの繰り返しであった。戦国の城が、近世の城になり、そして近代の公園へ。その変遷は、猪苗代という地域社会が、日本の大きな歴史のうねりの中で、どのように過去を乗り越え、未来を築いてきたかの縮図と言えるだろう。
本報告書を通じて、猪苗代城が単なる地方の一城郭ではなく、日本の歴史の様々な局面を象徴する、極めて多層的な意義を持つ史跡であることが明らかになった。
第一に、その起源を巡る研究史は、伝承を重んじる近世的な歴史観から、物証と史料批判に基づく近代的な歴史学への移行を映し出す鏡であった。第二に、城主・猪苗代氏の四百年にわたる動向は、主家との絶えざる緊張関係の中で自家の存続を図る、戦国時代の国人領主の典型的な生存戦略を物語っている。第三に、摺上原合戦における猪苗代城の役割は、一つの城の帰趨が戦局全体の力学を支配する「触媒」として機能し、南奥州の歴史を決定づけた稀有な事例であった。
第四に、城跡に残る鶴峰城(中世)と猪苗代城(近世)の二重構造は、日本の城郭が戦闘のための「砦」から、統治のための「権威の象徴」へと変質した歴史的プロセスを、一つの場所で体感できる生きた博物館としての価値を有している。第五に、近世における猪苗代城は、「一国一城令」下で、軍事的必要性という「武威」の論理と、藩祖の聖域を守るという「権威」の論理によって二重にその存在を正当化された、特異な城であった。そして最後に、戊辰戦争による破壊とその後の公園としての再生は、封建体制の終焉と近代国民国家の形成という、時代の価値観の劇的な転換を象徴している。
結論として、猪苗代城は、中世から近世への移行、戦国から幕藩体制へ、そして封建社会から近代へという、日本の歴史における大きな断層をその身に刻み込んだ、類い稀な史跡である。その軌跡は、日本の城郭が辿った歴史の縮図であり、城郭史研究はもとより、日本の社会構造の変遷を理解する上でも、計り知れない価値を持つものと結論づける。