白鹿城は尼子十旗筆頭の堅城で、水運を掌握。毛利元就は坑道戦で攻め、尼子氏衰亡の序曲となった。戦国攻城戦術の進化と経済・軍事の結びつきを示す。
戦国時代の出雲国に覇を唱えた尼子氏。その本拠地である月山富田城を防衛するために、領国境や戦略上の要地に配された支城群は「尼子十旗」と総称される 1 。その中でも、序列筆頭に数えられたのが、今回詳述する白鹿城(しらがじょう)であった 3 。本報告書は、単なる一地方の山城という枠組みを超え、尼子氏の戦略思想と経済基盤、そしてその命運を象徴する存在であった白鹿城の全貌を、城郭構造、戦略的価値、そして歴史を決定づけた攻防戦という三つの側面から徹底的に解明するものである。
軍記物において「尼子氏の支城中、随一といわれた堅城」と称される白鹿城は 5 、なぜそれほどまでに重要視され、中国地方の覇権を狙う毛利元就による出雲侵攻において、最初の主要攻略目標とされたのか。その答えは、城が持つ地理的優位性、計算され尽くした構造的特徴、そして城主松田氏と尼子宗家との間に結ばれた固い絆の中に隠されている。本稿では、これらの問いを解き明かし、戦国史における白鹿城の真の価値を明らかにしていく。
白鹿城の戦略的価値を理解する上で、まずその立地を把握することが不可欠である。城は、現在の島根県松江市法吉町の標高約150メートルの白鹿山に築かれた山城であり 5 、眼下には宍道湖が広がり、東には中海、そしてその先には日本海が控えるという、水運の要衝に位置していた 6 。この地理的条件こそが、白鹿城を尼子氏にとって不可欠な存在たらしめていた。
中世の出雲において、宍道湖と中海は一体のものとして「水海」と称され、広域的な水上交通網の根幹をなしていた 10 。奥出雲のたたら製鉄によって産出された鉄などの物資は、斐伊川水系を通じて宍道湖へ運ばれ 12 、この「水海」を経由して馬潟港や安来港といった外港から日本海交易ルートへと接続されていた 10 。白鹿城は、この巨大な水運ネットワークの北岸を物理的に押さえることで、尼子氏の経済活動と物流を支配する上で極めて重要な役割を担っていたのである 6 。
この経済的側面に加え、軍事的な兵站拠点としての機能もまた、白鹿城の価値を決定づけていた。日本海側からの食料や武具といった物資を本拠・月山富田城へ安全に輸送するための、兵站線の中核基地であった 15 。島根半島からの補給路を確保し、有事の際には水軍の出撃拠点ともなり得るこの城は、尼子氏の支配体制を維持するためのまさに生命線であった。毛利元就が、数ある尼子方の城の中から白鹿城を最初の攻略目標に定めた背景には、単に月山富田城を軍事的に孤立させるという戦術的意図だけでなく、尼子氏の経済力を根底から破壊し、その支配体制を内側から崩壊させるという、より高度な戦略的判断があったと考えられる。
白鹿城は、尾根上に複数の曲輪(郭)を連続して配置する「連郭式山城」に分類される 6 。城域は広大であり、白鹿山山頂の主郭部を中心に、東西に伸びる尾根筋、そして西側の独立した峰(標高109メートル)である「小白鹿城」までを含む、複合的かつ多層的な防御構造を有している 7 。
城の中心である主郭部には、本丸や「月見御殿」と伝わる曲輪が存在する 8 。その中でも最高所に位置するのが「一の床」と呼ばれる広大な曲輪で、実質的な主郭であった可能性が高い 7 。そこから「二の床」「三の床」と続く連郭は、敵の侵攻を段階的に食い止めるための防御ラインを形成していた 8 。一方、主郭部から西に伸びる尾根上に位置する「小白鹿城」は、独立性の高い出城として機能し、主郭部と巧みに連携して敵の攻撃を側面から牽制する役割を担っていた 7 。永禄6年(1563年)の攻防戦において、この小白鹿城が毛利軍の最初の攻撃目標となった事実は、その戦術的な重要性を物語っている 7 。
これらの主要な曲輪群に加え、大黒丸、高坪山、大高丸、小高丸といった地名が現在も残り、これら一帯が城の広大な防衛施設の一部であったことが示唆されている 8 。防御施設としては、急峻な自然地形を最大限に活用した切岸(人工的に造成された崖)に加え、尾根筋を断ち切る堀切や、敵兵の斜面での横移動を妨げるための竪堀群が効果的に配置されている 17 。また、籠城戦における生命線である水を確保するための大規模な井戸跡も現存しており 5 、この井戸の存在が、後に毛利軍による特異な戦術を誘発する要因となる。
特筆すべきは、白鹿城の築城術に見られる地域的特徴である。『島根県中近世城館跡分布調査報告書』からの引用によれば、白鹿城は「土塁を築いていないところは、出雲国人の普請技術の特徴と考えられる」と指摘されている 8 。これは、土を盛り上げて防御壁とする土塁よりも、山を削り、谷を掘るという地形の切削加工を重視した出雲地方独自の築城思想を反映しており、尼子氏の技術的背景を考察する上で貴重な手がかりとなる。白鹿城の縄張りは、単に堅固なだけでなく、城全体を有機的な防御システムとして機能させ、敵に多方面での戦闘を強いることで消耗させ、時間を稼ぐという、高度な戦術的意図に基づいて設計されていた。これこそが、「随一の堅城」という評価を裏付ける構造的証左と言えよう。
白鹿城が歴史の表舞台で最も激しい輝きを放ったのが、永禄6年(1563年)の毛利氏との攻防戦である。永禄3年(1561年)に尼子氏の当主・晴久が急死したことを好機と捉えた毛利元就は 19 、石見国を完全に平定した後、次なる目標を出雲に定めた 19 。永禄5年(1562年)に出雲への本格侵攻を開始すると、その勢いの前に、白鹿城主の松田誠保は三沢氏、三刀屋氏ら他の国人衆と共に一度は毛利氏に降伏した 4 。
しかし、この降伏は長くは続かなかった。元就が、先に降伏していた石見の有力国人・本城常光を謀略によって殺害した事件は 4 、出雲の国人衆に毛利氏への根深い不信感を植え付けた。父・満久が尼子晴久の姉婿という強い姻戚関係にあった誠保は 7 、この事件を契機として再び尼子方へ帰順し、白鹿城に籠城して毛利氏に徹底抗戦する道を選択する 4 。元就の冷徹な謀略が、かえって敵の結束を招いたのである。
この戦いには、もう一つの側面があった。永禄6年8月4日、毛利元就の嫡男であり、後継者であった隆元が陣中で急死するという悲劇が毛利家を襲った 15 。元就はこの死を毒殺と疑い、深い悲しみに沈むが、約10日後には白鹿城への総攻撃を断固として命じる 15 。この攻城戦は、元就にとって、単なる領土拡大のための戦いではなく、最愛の息子を弔うための「弔い合戦」という極めて個人的な動機を帯びることとなったのである 15 。
永禄6年8月13日、毛利軍による白鹿城への総攻撃が開始された 15 。緒戦は、毛利方の出羽中務少輔による抜け駆けから始まったが、城兵の激しい抵抗に遭い、多数の死者を出して後退。救援に駆けつけた熊谷隆直の部隊も撃退され、戦いの序盤は尼子軍の優勢で進んだ 15 。しかし、吉川元春、杉原盛重といった毛利軍の主力部隊が投入されると戦況は一変する。圧倒的な兵力差の前に尼子軍は本丸への退却を余儀なくされ、この日のうちに小白鹿城などの外郭(出丸)は毛利軍の手に落ちた 7 。
その後、戦況は膠着状態に陥る。元就は一時、主力を率いて別の尼子十旗である熊野城の攻略に向かうが、その堅い守りの前に敗退し、再び白鹿城の包囲に専念することとなった 15 。この間、手薄になった包囲網に対して城内の尼子軍が反撃を仕掛けるなど、一進一退の攻防が続いた。事態を憂慮した尼子義久は、弟の倫久を総大将とする1万を超える大軍を白鹿城救援に派遣する 15 。しかし、9月23日、白鹿城の麓で行われた合戦において、救援軍は毛利軍の巧みな戦術の前に大敗を喫し、月山富田城へと敗走した 15 。
この救援軍の壊滅は、籠城する将兵の士気に致命的な打撃を与えた。救援の望みが絶たれ、約3ヶ月にわたる長期の包囲によって兵糧と水は欠乏 15 。毛利軍の最後の総攻撃によって小高丸などが陥落するに及び、永禄6年10月下旬、城主・松田誠保はついに開城を決断。尼子氏随一と謳われた堅城は、ここに落城した 15 。
表1:白鹿城攻防戦における両軍の兵力と主要武将
軍勢 |
指導者・指揮官 |
兵力(諸説あり) |
主要参戦武将 |
典拠史料 |
毛利軍 |
毛利元就、吉川元春、小早川隆景 |
22,000~23,000 |
桂元澄、児玉元良、熊谷隆直、杉原盛重、福間元明など |
『雲陽軍実記』 15 |
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15,000 |
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『陰徳太平記』 15 |
尼子軍 |
松田誠保、牛尾久信(久清) |
2,500 |
松田大炊助、山尾刑部、村井兵庫介、若林宗八郎など |
『陰徳太平記』 15 |
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2,000 |
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『雲陽軍実記』 15 |
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800 |
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『森脇覚書』 15 |
白鹿城の攻防戦を語る上で、戦国時代の合戦史上でも極めて特異な「坑道戦」の存在を欠かすことはできない。力攻めだけでは容易に落城しないと判断した毛利元就は、得意の謀略を用いる。当時、毛利氏の支配下にあった石見銀山から数百人の鉱夫(銀掘り衆)を呼び寄せ、城の生命線である井戸の水を断つため、地下から坑道を掘り進めるという前代未聞の作戦を開始したのである 7 。
この作戦は、戦国大名の強さが、動員できる兵士の数だけでなく、領内の産業基盤や特殊技能を持つ人的資源をいかに軍事転用できるかに懸かっていたことを示す画期的な事例である。毛利氏が世界有数の銀山とその高度な掘削技術を持つ労働力を掌握していたからこそ可能な、まさに経済力と軍事力が直結した戦術であった。
城内の尼子軍もこの動きをいち早く察知し、対抗策として城内から坑道を掘り進めて毛利方の坑道を迎え撃とうとした 15 。やがて、暗い地中の底で双方の坑道が繋がり、鉢合わせとなった両軍による、世界戦史でも類を見ない壮絶な「地下戦闘」が繰り広げられた 15 。狭く、空気の薄い坑道内での戦闘は熾烈を極めたが、決着には至らなかった。最終的に尼子軍が坑道を大石で埋めてしまったため、この戦術が直接の落城原因となることはなかった 15 。しかし、この地下からの見えざる攻撃は、籠城する将兵に多大な心理的圧迫を与えたことは想像に難くない。この坑道戦は、毛利元就の戦術の多様性と、勝利のためには手段を選ばない非情さを示す象徴的な出来事として、後世に語り継がれることとなった。
三ヶ月にわたる死闘の中では、武士たちの勇猛さだけでなく、彼らの教養や死生観を垣間見せる人間ドラマも繰り広げられた。
その一つが、両軍の間で交わされた「和歌の応酬」である 15 。戦闘の合間、毛利方から放たれた挑発的な和歌の矢文に対し、城方の松田誠保は、毛利隆元の急死を「枝葉も落ちて」と揶揄し、自らの健在ぶりを冬に色を増す松の木に例えるという、見事な返歌で応酬した 15 。この返歌は毛利方を激怒させ、攻撃を激化させる一因となったが、それは当時の武士が高い教養を持ち、それが戦場における士気高揚や心理戦の道具としても利用されていたことを如実に示している。
また、若林宗八郎・宗五郎という若い兄弟の悲劇も伝えられている。二人が戦功を挙げられずにいることを、城の櫓の上から見ていた母親に「祖父の名を汚す気か」と厳しく叱咤され、奮起した兄弟は再び敵陣に突入し、壮絶な討死を遂げたという 15 。この逸話は、敵味方の区別なく人々の涙を誘ったとされ、名誉を重んじ、家名を汚すことを何よりも恥とする当時の武士の苛烈な死生観を色濃く反映している。
一方で、この戦いは戦術の転換期であったことも記録から読み取れる。現存する軍忠状(戦功報告書)を分析すると、この戦いにおける負傷原因の実に73%が鉄砲によるものであったことが判明している 15 。これは、白鹿城の戦いが、弓矢や槍といった伝統的な武器が依然として用いられつつも、戦闘の主体が火縄銃による銃撃戦へと移行しつつある、戦国時代の戦術的過渡期を象徴する戦いであったことを示す貴重なデータである。
白鹿城の運命は、城主・松田誠保の生涯と分かちがたく結びついている。出雲松田氏は相模国を発祥とする名門・波多野氏の一族であり、室町時代後期には尼子氏の支配下に入った出雲の国人であった 4 。誠保の父・満久は尼子晴久の姉婿であり、松田氏は尼子一門に準ずる高い家格を誇っていた 4 。
毛利氏の侵攻に対し、一度は降伏の道を選びながらも、主家への忠義と毛利氏への不信から再び反旗を翻した誠保の決断は、滅びゆく尼子氏と運命を共にしようとする出雲国人の苦悩と矜持を象徴している。
白鹿城の開城後、父・満久は城中で自害し、誠保は辛くも隠岐国へと逃亡した 4 。しかし、彼の戦いはそこで終わらなかった。永禄12年(1569年)、山中幸盛らが尼子勝久を奉じて尼子家再興の兵を挙げると、誠保はこれに呼応して協力する 4 。その後の元亀元年(1570年)の布部山の合戦や、天正5年(1577年)の播磨上月城の戦いにも参加したと伝えられており、その生涯を尼子家再興のために捧げた、忠烈な武将であった 4 。
激戦の末に手に入れた「随一の堅城」であったが、毛利氏は白鹿城を自らの拠点として再利用することなく、落城後まもなく破却・廃城とした 5 。そして、白鹿城攻めの際に築いた向城(攻城用拠点)である真山城を改修し、この地域の新たな拠点としたのである 8 。
この判断には、軍事的な合理性を超えた、高度な政治的意図が隠されている。白鹿城は、尼子十旗の筆頭であり、尼子氏の権威と支配体制を象徴する城であった 6 。その象徴を物理的に破壊し、自らが築いた城を新たな拠点とすることで、毛利元就は出雲の国人衆や民衆に対し、支配者が交代したことを明確に示威したのである。これは、旧体制の象徴を破壊することで新体制の正統性を確立するという、巧みな戦後処理であった。
現在、城跡には往時の建造物はなく、曲輪、土塁、堀切、そして壮絶な攻防戦の舞台となった井戸跡などの遺構が残るのみである 5 。国や県、市による文化財指定は受けていないが 6 、登山道や案内板が整備されており、戦国の世に思いを馳せながらその歴史を偲ぶことができる 18 。大規模な学術的発掘調査は行われていないものの、『島根県中近世城館跡分布調査報告書』などにおいてその歴史的価値の重要性が指摘されている 8 。
白鹿城の落城は、単なる一つの城の陥落に留まらない、戦国史における重大な転換点であった。尼子氏にとって、それは経済的基盤と兵站線を断ち切られ、本拠・月山富田城が裸同然にされることを意味した。この敗北は尼子氏の衰亡を決定づけ、永禄9年(1566年)の尼子氏滅亡へと至る道のりを拓く、まさにその序曲であったと言える 16 。
戦術史の観点から見れば、白鹿城の戦いは、鉄砲の本格的な多用や、石見銀山の鉱夫を動員した特異な「坑道戦」など、戦国時代の攻城戦術の多様性と進化を示す貴重な事例を提供している。特に、専門技術者集団の軍事動員は、武士だけでなく領国全体の資源を投入する近世的な総力戦の萌芽と捉えることも可能であろう。
また、城郭史においても、出雲地方独自の築城技術の特徴を色濃く残す白鹿城は、地域の城郭史を研究する上で欠かすことのできない重要な遺構である。その広大で複雑な縄張りは、尼子氏が築き上げた防衛思想の高さと、それを打ち破った毛利氏の卓越した攻城術を今に伝えている。
結論として、白鹿城は、その堅固な構造、戦略的な重要性、そして壮絶な落城の歴史を通じて、戦国大名尼子氏の栄光と悲劇を凝縮して伝える第一級の歴史遺産である。城跡に残された土と石の痕跡は、単なる過去の遺物ではない。それは、謀略と忠誠、革新と伝統が激しく交錯した戦国のダイナミズムを、450年以上の時を超えて雄弁に物語る、無言の語り部なのである。