相馬中村城
奥州の要衝・相馬中村城の全史 ― 戦国乱世の記憶から近世藩庁への変遷 ―
序章:馬陵城、その歴史的座標
福島県相馬市にその遺構を留める相馬中村城は、単なる一地方の城郭ではない。それは、鎌倉時代以来、七百有余年にわたり同じ土地を治め続けた稀有な大名・相馬氏の興亡の歴史そのものを体現する存在である。雅称として「馬陵城(ばりょうじょう)」とも呼ばれるこの城は 1 、戦国時代には奥州の覇権をめぐり、強大な伊達氏と半世紀以上にわたって繰り広げられた熾烈な攻防の最前線であった。そして、近世においては相馬中村藩六万石の藩庁として、泰平の世における領国経営の中枢を担った。その由来が明確に伝わる史料は現存しないものの、「馬陵」の名は、名馬の産地として知られ、神事「相馬野馬追」に象徴されるように馬と深く結びついた相馬氏の歴史と、城が築かれた丘陵の地形にちなむものと推察される。
本報告書は、この相馬中村城という歴史の証人を通して、相馬氏の永きにわたる歩み、特に戦国乱世における存亡をかけた戦略、そして近世大名としての統治理念を解き明かすことを目的とする。そのために、以下の三つの視座を軸として、その歴史を重層的に分析する。
第一に、 地政学的要衝 としての価値である。相馬氏による本格的な築城以前から、この地がいかにして戦略的、そして精神的な中心地として認識されていたのかを、古代の伝承から中世の動向まで遡って検証する。
第二に、 対伊達氏の最前線 としての機能である。宿敵・伊達氏との絶え間ない緊張関係が、城の歴史的運命と、その縄張り、すなわち城郭構造にどのような影響を色濃く刻み込んだのかを詳らかにする。
第三に、 相馬氏の精神的支柱 としての意味である。存亡の危機から奇跡的な復活、そして近世藩体制の確立に至る過程で、この城が相馬一族のアイデンティティと統治の象徴として、いかなる役割を果たしたのかを考察する。
相馬中村城の石垣と土塁に刻まれた記憶を辿ることは、奥州の一角で繰り広げられた壮大な歴史叙事詩を読み解くことに他ならない。
第一章:中村の地の黎明 ― 城郭以前の歴史と戦略的価値
相馬中村城の歴史は、相馬氏が近世城郭として大改修を行った慶長16年(1611年)に始まるものではない。その地は、遥か古来より人々の営みと信仰、そして軍事的な思惑が幾重にも積み重なった、奥州浜通りにおける要衝であった。
古代の記憶と聖地性
城が築かれた小高い丘陵は、古くは「天神山」と呼ばれ、天神の祠が祀られていたと伝わる 1 。さらに、この地には古墳時代の横穴墓群が存在した可能性も指摘されており、支配者層の墓所であった可能性が考えられる 4 。これは、相馬氏がこの地を城郭として選定する以前から、地域の人々にとって信仰の対象となる「聖なる場所」として認識されていたことを示唆している。
また、延暦年間(800年頃)、坂上田村麻呂が蝦夷征討の際に館を築き、菅原敬実に守らせたという伝承も残されている 6 。この伝承は史実として確定するには至らないものの、古くからこの地が奥州における軍事的に重要な地点と見なされていたことを物語る逸話として、その価値を看過することはできない。土地の価値は、単に軍事的な利便性だけで決まるのではなく、その土地が持つ歴史的、文化的な「記憶の蓄積」によっても形成される。相馬氏の築城は、こうした記憶の蓄積の上に成り立っていたのである。
中世における在地勢力の拠点
史料の上でこの地に拠点が確認されるのは、南北朝時代にまで遡る。延元二年(1337年)、結城宗広の一族とみられる中村朝高がこの地に館を築いたとされる 7 。これにより、相馬氏が本格的に進出する以前から、在地領主である中村氏の支配拠点が存在したことが明らかとなる。
戦国時代に入ると、この地は「夫館(ぶだて)」と呼ばれ 4 、周辺の黒木氏などとの間で争奪の対象となっていた 7 。このことは、中村の地が浜通りと内陸を結ぶ中村街道が交差する交通の要衝であり、その支配権が地域情勢を左右する重要な要素であったことを示している 7 。
相馬氏の進出と前線基地化
この中村の地に相馬氏が確固たる支配を確立するのは、天文十二年(1543年)のことである。第14代当主・相馬顕胤が、伊達氏の天文の乱に乗じて、当時この地を支配していた中村大膳義房と黒木弾正信房の兄弟を攻め、降伏させた 7 。これにより、中村城は相馬氏の版図に組み込まれることとなった。
当初、相馬氏の本拠は南方の小高城に置かれていたが、中村城の戦略的重要性は直ちに認識された。永禄六年(1563年)、第15代当主・相馬盛胤は、元服したばかりの次男・隆胤を中村城代に任じている 7 。これは、中村城が単なる砦ではなく、領国経営における副次的な中心地であり、一族の有力者を配置すべき戦略拠点と位置づけられていたことの証左である。戦国大名が広域支配を確立する過程で、本城のみならず各地の支城に一門や重臣を配して権力を浸透させる統治構造を、相馬氏もまた採用していたのである。この時から、中村城は本城である小高城の北方を固め、強大化する伊達氏の勢力圏と直接対峙する、文字通りの最前線基地としての役割を担い始めることとなる。
第二章:戦国動乱の坩堝 ― 伊達氏との永き攻防と中村城
16世紀半ば、伊達氏が天文の乱という内紛を乗り越え、奥州の覇権を目指して勢力を拡大し始めると、領地を接する相馬氏との間に宿命的な対立が生じる。これより約半世紀にわたり、両氏は奥州南部の覇権をかけて、一進一退の激しい攻防を繰り広げることとなる 1 。この永きにわたる戦いの中で、相馬中村城は対伊達氏戦略の要石として、極めて重要な軍事的役割を果たした。
半世紀にわたる抗争の激化
相馬氏と伊達氏は、婚姻関係を結ぶこともあれば 9 、他の大名を巻き込んで同盟と裏切りを繰り返すなど、その関係は複雑を極めた。しかし、基調としてあったのは、伊達氏の膨張政策に対する相馬氏の頑強な抵抗であった。特に、相馬盛胤・義胤の二代にわたる執拗な抵抗は、伊達氏の浜通りへの南進を阻む最大の障壁となった 10 。当時の石高において、六十二万石ともいわれる伊達氏に対し、相馬氏は六万石に満たない小勢力であった 11 。この圧倒的な国力差にもかかわらず、相馬氏が半世紀もの間、独立を維持し得たことは、戦国史において特筆すべき事例である。
この非対称な戦いを可能にした要因の一つが、中村城のような堅固な支城を国境線に巧みに配置し、防衛線を縦深に保つ戦略にあった。中村城は、伊達氏の大軍の侵攻を食い止め、その進軍を遅滞させ、外交交渉や援軍の到着までの時間を稼ぐための「戦略的遅滞拠点」として機能した。小勢力が大勢力に抗うための城郭利用の好例がここに見られる。
中村城の軍事的役割
中村城は、伊達領である亘理郡や伊具郡への攻撃に際しては出撃拠点となり、逆に伊達軍が侵攻してきた際には防衛の中核を担った。永禄六年(1563年)には、伊達氏に通じた中村城代・草野直清らが反乱を起こすという内憂も経験したが、当主・盛胤は嫡男・義胤を初陣させてこれを鎮圧している 7 。この事件は、中村城が伊達氏の調略の標的となるほど重要な拠点であったことを物語っている。
戦いが激化するにつれ、中村城が動員する兵力は相馬軍の中核を成すようになる。天正18年(1590年)の童生淵の戦いでは、中村城の軍勢が出陣したが、伊達方の猛攻の前に総大将であった当主・義胤の弟・隆胤が討死するという、相馬氏にとって最大の悲劇の一つが起こった 11 。この犠牲は、中村城が常に相馬家の命運を左右する決戦の場に、その主力を派遣する重要な兵站基地であったことを示している。
滅亡の危機と中村城
天正17年(1589年)、伊達政宗の猛攻により、相馬氏は新地城や駒ヶ嶺城といった宇多郡の拠点を次々と失陥し、滅亡の淵に立たされた 9 。この絶体絶命の状況において、中村城は相馬氏の誇りと覚悟を象徴する舞台となる。
老練な父・盛胤は、もはやこれまでと伊達氏への服属を当主の義胤に提案した。しかし、血気盛んな義胤はこれを拒絶し、討死こそ本望と徹底抗戦を主張する。子の覚悟に心を動かされた盛胤は自らの提案を撤回し、義胤に同調。「義胤が本城の小高城で討死するならば、自分はこの中村城で腹を切る」と、壮絶な覚悟を表明したのである 9 。この逸話は、中村城が単なる防衛拠点を越え、相馬一族がその誇りと共に殉じるべき、精神的な最後の砦と認識されていたことを雄弁に物語っている。戦国時代を通じて中村城はあくまで「支城」であったが、その戦略的・精神的重要性は、時に本城である小高城を凌駕していた。この戦国期の経験こそが、後の本城移転の歴史的素地を形成したと言えよう。
第三章:近世城郭への大転換 ― 慶長十六年の大改修
豊臣秀吉による天下統一、そして関ヶ原の戦いを経て、日本の統治体制は大きく転換する。戦国乱世を生き抜いた相馬氏もまた、この時代の奔流の中で幾多の試練に直面し、その存続をかけて大きな決断を迫られた。その帰結として行われたのが、慶長16年(1611年)の中村城への本拠移転と、それに伴う近世城郭への大改修であった。
天下統一と相馬氏の存続
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐とそれに続く奥州仕置により、相馬氏は伊達氏との長年の抗争に終止符を打ち、所領を安堵された 12 。しかし、最大の危機は関ヶ原の戦いの後に訪れる。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、当主・相馬義胤は、与力大名として従属していた佐竹氏が徳川家康率いる東軍への旗幟を鮮明にしなかったことから、中立を保たざるを得なかった 10 。この日和見的な態度が戦後、家康の怒りを買い、相馬氏は改易、すなわち領地没収という最も厳しい処分を宣告される 14 。
まさに絶体絶命の窮地に立たされた相馬氏であったが、義胤は諦めなかった。嫡男の利胤(当時は蜜胤)を江戸へ派遣し、徳川家の重臣である本多正信や本多忠勝らに必死の嘆願を行った 16 。その際、かつて東軍方として戦った証拠として戦死者名簿を提出したとも伝わる 17 。さらに、長年の宿敵であった伊達政宗が、家康に対して相馬氏の赦免を助言したという逸話も残されている 15 。これらの懸命な政治工作が功を奏し、慶長7年(1602年)、改易は奇跡的に撤回され、相馬氏は旧領を安堵された 13 。この一連の出来事は、相馬氏が単なる武勇だけでなく、巧みな外交力と情報戦を駆使して近世大名として生き残ったことを示している。
本拠移転の決断:なぜ小高から中村へ?
一度は「死んだ」も同然であった相馬家は、この奇跡的な復活を機に、新たな藩体制の構築へと乗り出す。その象徴的な事業が、慶長16年(1611年)、相馬利胤(義胤の子)による本拠地の中村城への移転と大改修であった 1 。平和な江戸時代が到来したにもかかわらず、あえて国境の最前線に本拠を移すという決断の背景には、複合的な戦略的意図が存在した。
第一に、 対伊達氏への備え である。江戸幕府の体制下にあっても、北隣に六十二万石の広大な領地を持つ仙台藩伊達氏が存在する限り、軍事的な緊張が完全に消え去ることはなかった。藩領の北端に近い中村に本拠を構えることは、伊達氏に対する「万が一の備え」という明確な意思表示であった 1 。
第二に、 領国経営の中心地 としての利便性である。中村は浜通りと内陸部を結ぶ街道が交差する交通の要衝であり、城下町を発展させ、藩全体の経済と政治を効率的に統括する上で、旧来の小高よりも遥かに優位な立地であった 7 。
第三に、 災害からの復興 という側面である。奇しくも慶長16年には会津地震や慶長三陸地震といった大災害が発生しており、この本拠移転は、震災からの復興と新たな城下町建設を一体的に進めるという意図も含まれていた 17 。
この本拠移転は、戦国の記憶を色濃く残す「守りの思想」と、近世大名としての「統治の思想」が融合した、相馬氏ならではの極めて合理的な戦略的決断であった。そしてそれは、改易の危機を乗り越えた相馬藩の「新たな始まり」を内外に示す、政治的なデモンストレーションでもあったのである。
大改修の実態
築城工事は慶長16年7月に着工され、その年の12月には利胤が小高城から移るという驚異的な速さで進められた 1 。これが可能であったのは、全くの新規築城ではなく、戦国期に盛胤・隆胤父子によって既に大規模な改修がなされていた既存の城郭を基礎とし、それを拡張・再整備する形で行われたためと考えられている 1 。この大改修により、中世的な「土の城」の様相が強かった中村城は、本丸に石垣を巡らし、三重の天守を戴く近世城郭へと、その姿を大きく変貌させたのであった。
第四章:城郭の解剖 ― 縄張りに見る対伊達氏防衛思想
慶長16年の大改修を経て近世城郭として生まれ変わった相馬中村城の構造、すなわち縄張りには、半世紀にわたる伊達氏との攻防で培われた経験と、未来への警戒心が色濃く反映されている。城の設計思想そのものが、相馬氏の対伊達氏戦略を具現化した「立体的な戦略マニュアル」とも言うべき様相を呈している。
城郭の全体構造
相馬中村城は、西に連なる阿武隈山地から伸びる、比高約15メートルの舌状丘陵(天神山)の地形を巧みに利用して築かれた、梯郭式の平山城である 19 。城郭全体の規模は、東西約600メートル、南北約650メートル、総面積は23ヘクタールに及ぶ広大なものであった 1 。
防御の基本設計として、南面を流れる宇多川を天然の外堀として活用し、この水を城の北面と東面に引き込んで広大な水堀を形成した 19 。一方で、丘陵が地続きとなる西側は、深く険しい堀切と切岸(人工的な崖)によって厳重に防御されていた 19 。
曲輪の配置と機能
城の中枢部は、丘陵の最高所(標高約23メートル)に本丸を置き、その周囲を防御するように二ノ丸(東・西・南・北の四郭)と三ノ丸(東・西・北の三郭)が段階的に配置されていた 22 。さらに、藩主の氏神である妙見菩薩を祀る聖域「妙見曲輪」や、一族の屋敷が置かれた「岡田館(岡田塁)」といった独立性の高い郭も備え、複雑で堅固な構造を成していた 1 。
これらの曲輪は、時代と共にその役割を変えながらも、城という巨大な有機体の一部として機能していた。
主要曲輪 |
通称・別名 |
主な機能と役割(時代による変遷) |
関連する遺構・特徴 |
本丸 |
- |
城の中枢。御殿、三重天守閣が所在。藩政の中心機関。 |
鉢巻石垣、天守台跡、相馬神社(明治期創建) 22 |
妙見曲輪 |
- |
氏神・妙見菩薩を祀る聖域。相馬氏の精神的中心。 |
相馬中村神社(国指定重要文化財) 19 |
東二ノ丸 |
中館 |
(江戸中期まで)藩主の私邸、(以降)家臣屋敷。 |
丸土張(馬出)、現・二の丸球場 20 |
南二ノ丸 |
長友 |
重臣屋敷、厩(馬屋)、後に営繕所(常小屋)。 |
外天桜、合横矢(側面攻撃用の塁線)の構え跡 22 |
西二ノ丸 |
西館 |
隠居所、家臣屋敷、後に米蔵や火薬庫。 |
籾蔵門跡 22 |
北二ノ丸 |
お花畑 |
家臣屋敷、蔵屋敷。後に藩主の遊観地(花園)となる。 |
やらい門(花畑門)跡 22 |
北三ノ丸 |
御三ノ丸 |
(当初)家臣屋敷、(江戸後期)藩主の居宅(新殿)。 |
岡田館跡、現存する前庭 20 |
北方を意識した堅固な防御施設
相馬中村城の縄張りで最も注目すべき点は、仮想敵である北の伊達氏を強く意識し、城の北面に防御施設が極端に集中していることである 1 。
- 蓮池と水堀: 城の北側には「蓮池」と呼ばれる巨大な溜池や幅の広い外堀、そして土橋が設けられていた 1 。伝承によれば、有事の際にはこれらの堀の堰を切ることで、城の北側一帯を一面の沼沢地に変え、大軍の接近を不可能にすることができたという 19 。
- 馬出と虎口: 城門を守る施設も巧妙に配置された。東二ノ丸は、三方を堀に囲まれた「丸馬出(まるうまだし)」と呼ばれる突出した曲輪となっており、城門に殺到する敵兵に対して三方向から十字砲火を浴びせるための強力な迎撃施設であった 19 。また、西二ノ丸や蓮池の脇には、土塁で四角く囲まれた「枡形虎口(ますがたこぐち)」が現存しており、敵兵を狭い空間に誘い込んで殲滅する工夫が見られる 19 。
石垣と土塁
城郭の大部分は、中世以来の伝統的な築城技術である土塁や空堀で構成された「土の城」であったが、その中枢部である本丸には、当時最新の技術であった石垣が限定的に採用された 19 。これは、全面的な石垣普請を行うほどの財力はなかったものの、城の権威の象徴であり最終防衛線でもある本丸だけは、新時代の技術で強固に、そして壮麗に見せたいという相馬氏の意図の表れであろう。
特に特徴的なのが、本丸の周囲を巡る「鉢巻石垣」である 19 。これは、高さ2~3メートルほどの自然石を多用した野面積みの石垣で、急峻な切岸の中腹に、 마치鉢巻のように巡らされている 22 。会津藩の浪人であった幸田彦左衛門の指導で築かれたとされ、浜通り地方の城郭では、磐城平城とこの中村城にしか見られない貴重な遺構である 22 。この石垣は、土の城の伝統と石の城の革新が融合した、過渡期的な城郭の姿を今に伝えている。
第五章:中村藩の府城として ― 江戸時代の泰平と藩政の中心
関ヶ原の戦いを経て徳川の世が到来すると、城郭の役割は軍事拠点から行政の中心へと大きくその性格を変えていく。相馬中村城も例外ではなく、戦国の記憶をその構造に留めつつも、相馬中村藩六万石の府城として、約260年にわたる泰平の時代の中心となった。
相馬中村藩六万石の藩庁
慶長16年(1611年)の本拠移転以降、相馬中村城は明治維新に至るまで、一度の転封(国替え)もなく相馬氏歴代の居城として、また藩政の中枢機関である藩庁として機能した 1 。一つの大名家が中世から近世を通じて同じ土地を治め続けた例は全国的にも極めて稀であり 15 、相馬氏による安定した統治と、この地への深い愛着を象徴している。城内には藩の政務を執り行う御殿が置かれ、多くの役人や武士がここに集い、領国経営が展開された。
天守の焼失と非再建の決断
近世城郭の象徴ともいえる天守は、相馬中村城にも存在した。慶長16年の大改修の際、本丸の西南隅に三重の天守が建てられた 1 。しかし、その威容は長くは続かなかった。寛文10年(1670年)5月4日の夕刻、不運なことに落雷の直撃を受け、天守は焼失してしまう 1 。
江戸時代、天守は実用的な軍事施設というよりも、大名の権威と格式を示すシンボルであった。そのため、多くの藩では焼失後に再建が試みられた。しかし、時の藩主であった第19代・相馬忠胤は、天守の再建を見送るという重大な決断を下す。その理由は、再建には莫大な費用を要し、それが領内の藩士や領民に大きな経済的負担を強いることになると憂慮したためと伝えられている 1 。
この決断は、極めて重要な意味を持つ。それは、相馬藩が「見栄」や「権威の誇示」といった外面的なシンボルよりも、「領民の生活の安定」という実利を優先する、民政重視の統治哲学を持っていたことの明確な証左である。戦国時代の存亡をかけた苦難を乗り越え、一度は改易の憂き目にまで遭った相馬氏だからこそ、泰平の世における為政者の本分が何であるかを深く理解していたのであろう。天守非再建の逸話は、相馬氏の成熟した統治者としての一面を雄弁に物語っている。
城と城下町の発展
城が藩庁として定着するにつれ、その周囲には城下町が計画的に整備され、発展していった。特に城の東側には商人や職人が集住し、藩の経済的中心地として栄えた。現在も相馬市の市街地には、敵の侵入を妨げるために意図的に道を屈曲させた、城下町特有のクランク状の道割りが数多く残されており、往時の面影を偲ぶことができる 19 。
また、城内においても、時代の変化や藩主の代替わりに応じて、御殿の移転や新築が行われた。例えば、当初は東二ノ丸にあった藩主の私邸は、後に北三ノ丸に新殿が造営されて移るなど、城は時代と共にその内部構造を変化させていった 20 。
相馬野馬追との関わり
相馬氏の武士としての伝統と精神を象徴する神事「相馬野馬追」においても、中村城は重要な役割を果たした。祭りの初日、総大将以下の騎馬武者たちが神輿を奉じて出陣する「お繰り出し」の儀式は、中村城内にある相馬中村神社で厳粛に執り行われる 24 。城は、単なる政治の中心地であるだけでなく、相馬藩の武威と一千年以上続く伝統を内外に示す、荘厳な舞台でもあったのである 18 。
第六章:城郭の終焉と現代への継承 ― 馬陵公園としての再生
江戸幕府の崩壊と明治維新という時代の大きな変革は、全国の城郭に終焉をもたらした。約260年間にわたり相馬氏の居城として君臨した相馬中村城もまた、その歴史的役割を終え、新たな形で未来へとその記憶を継承していくこととなる。
明治維新と廃城
慶応4年(1868年)の戊辰戦争において、相馬中村藩は奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍と対峙したが、やがて降伏した 7 。そして、明治4年(1871年)の廃藩置県により、相馬中村藩は消滅し、中村城もまたその役目を終えて廃城となる。
近代国家建設を急ぐ新政府の方針の下、旧体制の象徴であった城郭の建造物は次々と取り壊された。相馬中村城も例外ではなく、御殿や櫓、城門など、城内にあったほとんどの建物が解体され、その姿を消した 1 。
残された遺構と史跡指定
建造物のほとんどが失われた中で、奇跡的に現存するのが「外大手一ノ門」である 1 。この門は、第18代当主・相馬義胤(近世)が、自身が城番を務めた武蔵国川越城の堅固な門に感銘を受け、それを模して慶安2年(1649年)に完成させたと伝えられている 22 。堀や石垣を除けば、往時の城郭建築を直接目にすることができる唯一の貴重な遺構として、今もなお威厳ある姿を留めている。
一方で、天守や櫓といった「建物」は失われたものの、城の骨格を成す土塁、石垣、堀といった「地形そのもの」は、築城当時の姿を良好に保ったまま残された。これらの遺構は、相馬中村城の歴史的価値を物語る重要な証拠として評価され、昭和30年(1955年)2月、福島県の史跡に指定された 1 。建物が失われても、戦国時代の緊張感と近世の統治の記憶を刻み込んだ城の骨格は、破壊を免れて生き続けているのである。
馬陵公園としての現在
廃城後、城跡は「馬陵公園」として整備され、かつての武士たちの活動の場は、市民の憩いの場として生まれ変わった 3 。園内には約630本ものソメイヨシノが植えられており、春には満開の桜が城跡を彩る、浜通り地方を代表する桜の名所として多くの人々に親しまれている 3 。慶長の築城時に、後の藩主となる相馬義胤(外天公)が自ら植えたという「外天桜」の伝承も残っており 22 、この地と桜との縁の深さを物語っている。
また、本丸跡の中央には、明治13年(1880年)に相馬氏の始祖である相馬師常を祭神として相馬神社が創建された 22 。かつて藩主家の政治の中枢であった場所は、今ではその祖先を祀り、地域の安寧を祈る信仰の場となっている。公園を散策する人々は、美しい花々を愛でると同時に、足元の土塁や堀の起伏から、400年前の相馬氏が伊達氏の襲来に備えた防衛思想を、そしてこの地で繰り広げられた歴史の重みを体感することができるのである。
結論:相馬中村城が物語る奥州の歴史
相馬中村城の歴史を紐解くことは、単に一つの城郭の変遷を追う作業に留まらない。それは、奥州の激動の歴史の中で、小勢力でありながら強靭な生命力をもって存続し続けた相馬氏の、七百年にわたる知恵と覚悟の物語を読み解くことに等しい。
この城は、その時代時代に応じて、多様な顔を見せてきた。戦国時代においては、巨大勢力・伊達氏の南進を阻む 軍事要塞 として、その縄張りには極度の緊張感が刻み込まれた。江戸時代に入ると、相馬中村藩六万石の 行政庁舎 として、泰平の世の領国経営を支えた。そして、天守の非再建という決断には、民を重んじる為政者の崇高な哲学が宿されている。近代以降は、その歴史的役割を終え、今は桜の名所として親しまれる 文化的遺産 として、地域の人々のアイデンティティの拠り所となっている。
相馬中村城は、まさに相馬氏の歴史の縮図である。その土塁と石垣は、古代からの土地の記憶、伊達氏と対峙し続けた戦国の記憶、そして改易の危機を乗り越え、近世大名として生き抜いた統治の記憶を、幾重にも内包している。相馬中村城は、奥州の一角で繰り広げられた壮大な人間ドラマの、静かな、しかし何よりも雄弁な語り部なのである。その歴史を深く理解することは、日本の地方史が持つ豊かさと、そこに生きた人々の不屈の精神を知ることに繋がるであろう。
引用文献
- 中村城跡/相馬市公式ホームページ https://www.city.soma.fukushima.jp/shinososhiki/shogaigakushuka/bunka/digital_museum/bunka_guide/ken_bunkazai/575.html
- 相馬中村城跡・歴史散策 (ガイド付き) | 仙台旅先体験コレクション https://sendai-experience.com/ja/ex/930
- 馬陵公園(中村城跡) - Guidoor https://www.guidoor.jp/en/places/8243
- 相馬中村城と城下町に関する一考察 https://archaeology.jp/sites/default/files/upload-file-pdf/k02xiangmagaoxiaoxiangtubu.pdf
- 県指定史跡「中村城跡」(馬陵城) | 相馬市観光協会オフィシャルサイト https://soma-kanko.jp/trip/%E7%9C%8C%E6%8C%87%E5%AE%9A%E5%8F%B2%E8%B7%A1%E3%80%8C%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%9F%8E%E8%B7%A1%E3%80%8D%EF%BC%88%E9%A6%AC%E9%99%B5%E5%9F%8E%EF%BC%89/
- 相馬中村城の見所と写真・300人城主の評価(福島県相馬市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/382/
- 相馬中村城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.soumanakamura.htm
- 相馬中村城 鬼越館 黒木城 余湖 http://yogokun.my.coocan.jp/hukusima/soumasi.htm
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- 【戦国時代の境界大名】相馬氏――奥州第一の実力者・伊達氏との抗争を戦い抜く https://kojodan.jp/blog/entry/2021/01/13/180000
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- 2023GWは9連休だけど、やっぱり安近短(3)中村城跡に建つ相馬中村神社と相馬神社を参拝 https://4travel.jp/travelogue/11801405
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- 福島県相馬市 相馬中村城跡① | 試撃行 https://access21-co.xsrv.jp/shigekikou/archives/7589
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- 馬陵公園 | 子供とお出かけ情報「いこーよ」 https://iko-yo.net/facilities/17570
- 中村城跡 馬陵公園(福島県/相馬市)|全国のお花見・桜名所・夜桜2024 - るるぶ https://rurubu.jp/andmore/spot/80005467/sakura