最終更新日 2025-08-22

石塚城(常陸国)

常陸国 石塚城 ―佐竹氏一門の興亡と城郭の変遷―

序章:石塚城研究の意義

常陸国(現在の茨城県)に存在した石塚城は、一見すると数多ある地方城郭の一つに過ぎないかもしれない。しかし、その約250年にわたる歴史を丹念に紐解くとき、この城が単なる軍事拠点ではなく、常陸源氏の名門・佐竹氏の領国経営の変遷、すなわち権力構造のダイナミズムを映し出す極めて重要な指標であったことが明らかになる。本報告書は、石塚城の歴史的価値を再評価し、その誕生から終焉までを多角的に解明することを目的とする。

石塚城の歴史は、佐竹宗家の政治的・軍事的動向と完全に軌を一にしている。南北朝時代の築城は、佐竹氏が常陸国内での支配基盤を固めるための戦略的布石であり、戦国時代後期の城主交代は、豊臣政権下で進められた佐竹氏の権力中央集権化を象徴する出来事であった 1 。そして、関ヶ原の戦いを経た近世初頭の廃城は、中世以来の常陸支配者であった佐竹氏の時代の終わりを告げるものであった 3

また、城跡に残る大規模な土塁や空堀といった遺構は、戦国時代を通じて城郭の機能がどのように高度化していったかを示す貴重な物証である 3 。その縄張り(城の設計)には、単なる防御機能を超えた、佐竹氏の領域支配の思想が色濃く反映されている。

このように、石塚城の研究は、佐竹宗家による「庶家(分家)統制」という視点からも極めて示唆に富む。築城は庶家による在地支配の始まりであり、城主交代は庶家の在地性を剥奪する中央集権化の象徴、そして廃城は宗家そのものの移転による支配体制の終焉を意味する。石塚城は、佐竹氏の「分権から集権へ」という統治構造の変遷を、その身をもって体現した歴史の証人なのである。

第一章:石塚城の黎明期 ―築城と石塚氏の台頭―

第一節:築城の時代背景

石塚城の築城は、文献によれば康安2年(北朝年号)/正平17年(南朝年号)、西暦1362年とされる 1 。この時代は、約半世紀にわたった南北朝の動乱が北朝方の優位のうちに終息に向かい、室町幕府の支配体制が確立されつつあった時期にあたる。

常陸国において、佐竹氏は早くから足利尊氏率いる北朝方に与し、常陸守護としての地位を固めていた 2 。南朝方との長きにわたる抗争を経て、その勢力を常陸北部に伸張させていたが、国内には依然として南の江戸氏や大掾氏といった独立性の高い勢力が割拠しており、軍事的な緊張は続いていた 7

石塚城が位置する那珂川流域は、まさに北の佐竹氏と南の諸勢力の勢力圏が接する戦略的要衝であった。南北朝の動乱が一段落し、佐竹氏が常陸国内での支配体制をより一層強化していく過程において、この最前線地域に強固な拠点を設置することは喫緊の課題であった。石塚城の築城は、このような時代背景のもと、佐竹氏による領国経営の安定化と勢力拡大を目指した戦略的配置の一環として行われたのである。

第二節:城主・石塚氏の出自と役割

石塚城を築いたのは、石塚宗義という人物である 1 。彼は、清和源氏佐竹氏の第9代当主・佐竹義篤の三男であり、父から那珂西郡石塚郷、久慈郡西遠野村などを分与され、その地名を姓として「石塚氏」を称したことに始まる 1 。石塚氏は、次男が祖となった小場氏などと並び、佐竹氏の数ある庶流の中でも最も古い家柄の一つに数えられる 10

宗義の配置は、佐竹氏が採用した「物領制」と呼ばれる同族経営の典型例である。これは、惣領(宗家当主)が子弟や一族を領内の要地に配置し、それぞれに所領を分与して在地支配を任せることで、一族全体の結束を固め、領国支配の安定化を図る統治システムであった。石塚氏は、佐竹宗家にとって最も信頼できる一門衆として、那珂川流域の防衛と支配という重責を担うことになったのである。

当初、石塚氏の拠点は下圷館であったが、後に石塚城へ移ったと伝えられている 1 。この移転は、単なる居館の引越し以上の意味を持つ。下圷館跡は、沖積平野に浮かぶ比高の低い丘に位置し、その規模や構造から、居住や在地支配を主眼とした平時の「館(やかた)」としての性格が強いと考えられる 12 。一方、石塚城は那珂川に面した急峻な台地の先端という天然の要害に築かれ、その構造は明確に軍事・防御を意識した「城(しろ)」である 3 。この拠点移動は、南北朝の動乱を経て、在地領主の拠点が、平時の政庁から戦時の要塞へとその性格を質的に変化させていく当時の大きな潮流を反映している。石塚氏の拠点の変遷は、常陸国における軍事的緊張の高まりを物語る物証と言えよう。

第二章:城郭の構造と戦略的価値

第一節:立地と縄張り

石塚城は、その立地選定において極めて優れた戦略眼が見られる。城は、那珂川右岸に南北に伸びる石塚台地の北端、標高約47m、比高約30mの河岸段丘崖上に築かれている 3 。城の北側は那珂川の低地を見下ろす断崖絶壁となっており、崖下を流れる根古屋川が天然の水堀として機能していた 3 。この地形は、北からの攻撃をほぼ不可能にする鉄壁の防御ラインを形成していた。

地理的にも、石塚の地は交通の結節点であった。常陸太田・瓜連方面と笠間方面を結ぶ南北の街道と、水戸から下野国(栃木県)茂木へ至る東西の茂木街道が交差する要衝であり、この地を抑えることは物流と情報の掌握に直結した 3 。石塚城の立地は、①那珂川流域の広大な平野部を監視・支配する軍事的拠点、②常陸国内外を結ぶ陸上交通網を掌握する経済的・戦略的拠点、という二重の重要性を持っていたのである。

城の縄張り(設計)は、この地形を最大限に活用した大規模なものであった。城域は東西約500m、南北約200mの広大な範囲に及び、大きく7つの曲輪(郭)で構成されていたと分析されている 4 。中心となる主郭(曲輪Ⅰ)は「御城」という字名が残る場所にあり、これを守るように曲輪Ⅱ・Ⅲ・Ⅳが配置され、さらにその外側を曲輪Ⅴ・Ⅵ・Ⅶが取り囲む、連郭式と環郭式を組み合わせたような複雑な構造をしていた 4 。このような大規模かつ複雑な構造は、築城当初のものではなく、戦国時代後期に佐竹氏によって大規模な改修が加えられた結果であると推察される 5

第二節:遺構から読み解く防御施設

石塚城跡は、現在、宅地化や耕地化、さらには国道123号線による分断を受けながらも、往時の威容を伝える数多くの遺構を良好な状態で残している 1

  • 堀と土塁 : 石塚城の最大の見所は、その壮大なスケールの空堀である。特に、城の中心部である主郭(Ⅰ)と西側の曲輪(西2郭)の間には、深さ10m、幅25mにも達する巨大な空堀が現存しており、見る者を圧倒する 5 。この堀は、敵の侵攻を完全に遮断する強力な防御線であった。城内各所にも、曲輪を区画する横堀や堀跡が窪地として残存しており、城全体が厳重な防御態勢にあったことが窺える 3
  • 街道の取り込み : 石塚城の縄張りで特筆すべきは、主要街道である旧茂木街道の扱いであった。街道は城外を迂回するのではなく、主郭(Ⅰ)と曲輪Ⅳの間の堀底道として、城の内部を貫通するように設計されていた 1 。これは、交通路の完全な掌握を目指した、極めて高度な築城思想の現れである。街道を通行する者は、巨大な土塁と曲輪に挟まれた道を進むことを強いられ、佐竹氏の権威を肌で感じることになった。この構造は、物理的な防御機能に加え、佐竹氏の支配権を日常的に人々の意識に刷り込むための、象徴的な意味合いを強く持っていたと考えられる。
  • 大手口と虎口 : 城の正面玄関にあたる大手口は、南側の曲輪Ⅵから曲輪Ⅲへ至る道であったと推定されている 4 。主郭への登城路は、堀底から塁上へ斜めに登る道が設けられ、その入口は土塁で固められた虎口(出入口)状になっていた 5
  • 水源の確保 : 城郭にとって生命線である水の確保も万全であった。主郭北側の崖下にある腰曲輪には井戸跡が残り、地元では「どんな日照りでも枯れたことがない」と伝えられている 5 。籠城戦にも耐えうる、重要な水源であったことがわかる。

これらの遺構は、石塚城が単なる在地領主の居館ではなく、佐竹氏の領国経営における中核的な軍事拠点として、多大な労力をかけて整備されたことを雄弁に物語っている。

【表1:石塚城 概要】

項目

詳細

典拠

名称

石塚城(いしづかじょう)

1

所在地

茨城県東茨城郡城里町石塚字御城

3

城郭形式

平山城

3

築城年

康安2年 / 正平17年 (1362年)

1

築城主

石塚宗義

1

主な城主

石塚氏、佐竹東家(東義久・義賢)

1

廃城年

慶長7年 (1602年)

3

城郭規模

東西約500m、南北約200m

4

主な遺構

曲輪、土塁、空堀(横堀)、帯曲輪、井戸跡

3

文化財指定

町指定史跡

15

第三章:戦国時代の激動と城主交代

第一節:佐竹氏の常陸統一と家臣団再編

戦国時代を通じて勢力を拡大した佐竹氏は、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐に参陣したことで、その地位を決定的なものとする。当主・佐竹義宣は、秀吉から常陸一国(一部下野国を含む)の支配を公的に認められ、54万5千石余を領する大大名となった 6

この豊臣政権という強力な後ろ盾を得た義宣は、長年の懸案であった領国内の支配体制の抜本的な改革に着手する。その核心が、文禄4年(1595年)に断行された大規模な家臣団の知行替え(所領再編)であった 1 。この政策の目的は、中世以来、各々の土地に根差し、高い独立性を保持してきた庶家や国人衆を、先祖伝来の土地から切り離し、宗家の管理下に置くことであった。これにより、在地領主の連合体という性格が強かった佐竹氏の支配体制を、当主を頂点とする近世的な中央集権体制へと転換させようとしたのである。

第二節:石塚氏の片野城への移封

この知行替えの嵐は、佐竹氏一門の中でも最古参の家柄である石塚氏も無縁ではいられなかった。当時の当主・石塚義辰は、築城以来230年以上にわたって本拠としてきた石塚城を離れ、新治郡の片野城へと移ることを命じられた 3 。そして、石塚城とその周辺地域は、佐竹宗家の蔵入地(直轄地)とされた 2

石塚氏にとって、これは先祖代々の土地と、そこで培われた家臣団との繋がりを断ち切られるという、極めて大きな変化であった。移封先の片野城は、かつて「関東の梟雄」と恐れられた太田資正が居城とした名城であり、石高の上では必ずしも冷遇ではなかった可能性もある 16 。しかし、在地領主としての基盤を失い、宗家から与えられた土地を治める「官僚」へとその性格を変えられたことは、紛れもない事実であった。

第三節:新たな城代・佐竹東家

石塚氏に代わって、宗家の直轄地となった石塚城の城代として入ったのは、佐竹一門の中でも別格の家柄である佐竹東家の当主・東義久(佐竹義久)と、その子・義賢であった 1 。東義久は、先代当主・義重の時代から佐竹家を支えてきた宿老中の宿老であり、その功績と影響力は絶大なものがあった。

義久は、天正7年(1579年)には後北条氏に対抗するため武田氏との外交交渉をまとめ(甲佐同盟)、陸奥方面の軍権を任されるなど、軍事・外交の両面で活躍した 18 。さらに、豊臣政権が確立すると、いち早く秀吉との関係を構築し、天正19年(1591年)には豊臣姓を下賜され、秀吉直轄地の代官を務めるなど、中央政権との太いパイプを持つ人物でもあった 18

この義宣政権の中枢を担う重鎮を石塚城に配置したことには、明確な政治的意図が読み取れる。それは、交通の要衝であり、旧来の在地勢力の影響が残るこの地域を、宗家の最も信頼する人物によって直接掌握し、支配を盤石なものにするという狙いであった。石塚城は、一庶家の拠点から、佐竹領国の最重要拠点の一つへとその戦略的価値を大きく高められたのである。

この城主交代劇には、さらに深層的な権力構造の変動が見て取れる。東義久は先代・義重を支えた重臣であり、一門の長老として絶大な発言力を持っていた。若い当主である義宣にとって、彼は頼もしい後見人であると同時に、その影響力は時として自身の権力基盤を脅かしかねない存在でもあった(一説には義久を当主に擁立しようとする動きもあったとされる 19 )。この時期、義宣は豊臣政権との直接的な結びつきを強化することで、自身の権威を高めていた 20 。このような状況下で、義久を石塚城の城代として配置することは、一見すると重用に見えるが、同時に彼を水戸の政治中枢から物理的に引き離し、一地方拠点の管理者に「封じ込める」という側面も持っていた可能性がある。これにより、義宣は名実ともに佐竹家の単独支配者としての地位を確立し、世代交代を完了させたのではないか。石塚城の城主交代は、義宣の巧みな人事戦略の一環であったと推察される。

第四章:終焉 ―廃城とその後―

第一節:関ヶ原の戦いと佐竹氏の転封

慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、佐竹義宣は石田三成との旧交から西軍に与したい内心を持ちつつも、徳川家康率いる東軍の強大さを前に、最終的に曖昧な態度に終始した。この日和見的な態度は、戦後、徳川家康の不興を買うことになる。

佐竹家の存亡の危機に際し、家康との交渉に奔走したのが、石塚城代の東義久であった。義久はその外交手腕を発揮し、一時は家康から本領安堵の約束を取り付けたと伝えられている 18 。家康も義久の忠義と器量に感銘を受けたとされるが、その交渉の矢先、義久は江戸で急死してしまう。病死とも、家康に義久が佐竹本家当主とされることを嫌う勢力による暗殺とも言われているが、真相は定かではない 18

最大の交渉役を失った佐竹氏の運命は暗転する。最終的に慶長7年(1602年)、徳川家康は佐竹氏に対し、常陸54万石から出羽秋田20万石への大減封・転封という厳しい処分を命じた 22 。これは、中世以来、数百年にわたり常陸国に君臨してきた佐竹氏の時代の終焉を意味した。

この結末は、石塚城の運命を振り返る上で極めて皮肉な巡り合わせと言える。佐竹一門の重鎮であり、豊臣政権下でその威光を知らしめた東義久が城代となったことは、石塚城の重要性が頂点に達したことを示していた。しかし、その彼が佐竹家の命運を左右する交渉の最中に倒れたことが、結果的に佐竹氏の常陸支配を終わらせ、石塚城を廃城へと導いたのである。城の最も輝かしい時代の支配者が、図らずもその終焉の引き金を引く形となった。城の運命は、最後の城代である東義久個人の運命と、極めて密接に、そして悲劇的な形で結びついていた。

第二節:石塚城の廃城

主家である佐竹氏が常陸の地を去ることになり、国内に配置されていた数々の支城はその存在意義を失った。石塚城も例外ではなく、佐竹氏の秋田移封に伴い、慶長7年(1602年)に廃城となった 1 。康安2年(1362年)の築城から、実に240年の長きにわたる歴史に幕を下ろしたのである。この廃城は、単に一つの城郭がその役目を終えたというだけでなく、常陸国における中世という一つの時代が終わったことを象徴する出来事であった。

第三節:歴史の中に埋もれた城

廃城後、軍事施設としての役割を完全に失った石塚城跡は、時の流れとともに次第に農地や宅地へと姿を変えていった 2 。特に近代に入り、国道123号線が城跡の西側を分断するように建設されたことは、その変容を象徴している 1

しかし、城は完全に歴史の中に埋没したわけではなかった。現在でも、主郭部は竹藪や畑地となりながらも、往時の縄張りをよく留めており、特に城の中心部を区画していた巨大な空堀や、各所に残る土塁は、今なおこの城が並々ならぬ規模と堅固さを誇った拠点であったことを雄弁に物語っている 3 。これらの遺構は、戦国時代の佐竹氏の築城技術と動員力の高さを伝える貴重な歴史遺産である。

第四節:秋田藩士となった石塚氏

一方、片野城に移っていた石塚氏は、主家である佐竹氏の秋田移封に従い、常陸の地を離れた 16 。彼らは、新たな本拠地となった出羽秋田(久保田藩)で藩士として存続した。江戸時代に作成された秋田藩の分限帳(家臣の名簿)には「石塚」の名が見え、藩の中核を担う家臣として続いたことが確認できる 24 。故地を離れてもなお主家に従い、新たな土地で家名を保った石塚氏の動向は、近世大名家臣団の形成過程と、戦国武士の主従関係の一つの姿を示している。

結論:石塚城が物語るもの

常陸国石塚城は、その240年の歴史を通じて、佐竹氏という一族の国家形成のダイナミズムを体現した城郭であった。南北朝時代、在地支配の拠点として誕生し、戦国時代には領国支配の要として大規模に改修され、そして豊臣政権下の中央集権化の波の中で、その役割を大きく変えた。最後は、主家の運命と共に歴史の舞台から姿を消した。

その広大な城域と、今なお見る者を圧倒する巨大な堀や土塁は、単なる過去の遺物ではない。それらは、戦国時代末期における佐竹氏の高度な築城技術と、それを可能にした強大な動員力を証明する一級の歴史資料である。また、主要街道を城内に取り込むという特異な設計は、佐竹氏の領域支配に対する明確な思想と、それを具現化するだけの権勢があったことを示している。

石塚城の歴史は、城主であった石塚氏、そして最後の城代となった東義久という人物たちの運命とも分かちがたく結びついている。彼らの動向を追うことは、佐竹氏の政治史、ひいては戦国時代から近世へと移行する時代の大きなうねりを理解する上で、重要な示唆を与えてくれる。

現代において、石塚城跡は国道による分断や宅地化の進行という課題に直面している。しかし、その歴史的価値は決して失われてはいない。近年行われたバイパス整備に伴う発掘調査では、城の外堀とみられる遺構が検出されるなど、新たな知見も得られている 4 。この貴重な歴史遺産を適切に保存し、その価値を後世に伝えていくためには、さらなる学術的調査と、史跡としての計画的な整備が強く望まれる。石塚城は、これからも常陸国の歴史、そして日本の城郭史を語る上で、多くのことを我々に教えてくれるであろう。

引用文献

  1. 常陸 石塚城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/hitachi/ishizuka-jyo/
  2. 石塚城址 (2019年10月2日)(茨城県東茨城郡城里町) - び・び・びのびいすけ http://biisuke0822.blog.fc2.com/blog-entry-4042.html
  3. 常陸石塚城 http://www.oshiro-tabi-nikki.com/hitatiisiduka.htm
  4. 0334 館山城跡 0336 石塚城跡 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/52/52701/131674_7_%E8%8C%A8%E5%9F%8E%E7%9C%8C%E3%81%AE%E4%B8%AD%E4%B8%96%E5%9F%8E%E9%A4%A8.pdf
  5. 石塚城 http://otakeya.in.coocan.jp/info01/isidukajhk.htm
  6. 北条氏政の小田原城を包囲しました。このとき、常陸太田を本拠地とする佐竹氏は秀吉の参陣令に積極的に応じましたが - 大洗町の歴史 http://rockwave.my.coocan.jp/26history/history_html/history05.htm
  7. 常陸江戸氏 | 水戸の観光・名所・名物を巡ってみよう https://mito-ibaraki.mypl.net/article/kankou_mito-ibaraki/30608
  8. 武家家伝_常陸江戸氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/edo_k.html
  9. (1) 城館跡 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/52/52696/131674_2_%E8%8C%A8%E5%9F%8E%E7%9C%8C%E3%81%AE%E4%B8%AD%E4%B8%96%E5%9F%8E%E9%A4%A8.pdf
  10. 石塚氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%A1%9A%E6%B0%8F
  11. 佐竹氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E7%AB%B9%E6%B0%8F
  12. 下圷館跡 - 城里町 https://www.town.shirosato.lg.jp/kyouikuiinkai/bunkazai-shiryoukan/machishitei-bukazai/shiseki/page000050.html
  13. 石塚城跡(いしつかじようあと)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%9F%B3%E5%A1%9A%E5%9F%8E%E8%B7%A1-3032461
  14. 石塚城の見所と写真・全国の城好き達による評価(茨城県城里町) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/2642/
  15. 石塚城 - 城塞史跡協会ホームページ https://forts-castles.sakura.ne.jp/201702/isizuka.html
  16. 0580 根当要害跡 0582 外城跡 - 全国遺跡報告総覧 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/52/52717/131674_9_%E8%8C%A8%E5%9F%8E%E7%9C%8C%E3%81%AE%E4%B8%AD%E4%B8%96%E5%9F%8E%E9%A4%A8.pdf
  17. 柿岡城址・片野城址-歴史の里石岡ロマン紀行 http://www.rekishinosato.com/kakiokajyou.htm
  18. 佐竹義久 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E7%AB%B9%E7%BE%A9%E4%B9%85
  19. 佐竹一族に「豊臣」姓?の武将がいた - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=0reZVUAsTDk
  20. 「佐竹義宣」関ヶ原では東軍でありながら義理を通して西軍に与した律義者!? - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/717
  21. 佐竹家の歴史と武具(刀剣・甲冑)/ホームメイト https://www.touken-world.jp/tips/30448/
  22. 記憶の交流 ~移封後の佐竹家中と常陸~ https://www.city.hitachiomiya.lg.jp/data/doc/1632716413_doc_1_6.pdf
  23. 佐竹氏の秋田転封とその影響 - 常陸大宮市 https://www.city.hitachiomiya.lg.jp/data/doc/1643071176_doc_1_0.pdf
  24. 久保田藩家臣のご先祖調べ https://www.kakeisi.com/han/han_kubota.html
  25. 石塚家の歴史を調べている。江戸末期・明治の頃の河辺や鍛冶屋敷の生活の様子について記載のある資料を探し... | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000250797&page=ref_view