福光城
越中福光城は石黒氏の拠点として栄えたが、戦国黎明期、一向一揆との相克の末、田屋川原の戦いで落城。旧来の武士の支配が終わり、民衆の力が台頭する時代の転換点を象徴する。
越中福光城と石黒氏の興亡 ― 戦国黎明期における一向一揆との相克
序章:忘れられた城郭、福光城の歴史的意義
越中国砺波郡、現在の富山県南砺市福光の地に、かつて福光城と呼ばれる城郭があった。平安時代末期の築城から約三百年、この地を治めた在地領主・石黒氏の拠点として栄えたこの城は、しかし戦国時代の本格的な到来を前に、歴史の表舞台からその姿を消す 1 。その終焉は、武田信玄や織田信長といった戦国大名同士の華々しい抗争によるものではない。むしろ、日本の社会構造が根底から覆される画期的な事件の舞台として、福光城の落日は、戦国乱世の本質を理解する上で極めて重要な意味を持つ。
一般的に「戦国時代」という言葉は、群雄が割拠し、下剋上が横行した十六世紀の動乱を想起させる。しかし、その激動の時代は、突如として始まったわけではない。応仁の乱(1467-1477年)を経て室町幕府の権威が失墜し、守護大名による旧来の支配体制が崩壊していく中で、新たな勢力が各地で胎動していた。本報告書では、福光城の歴史を単なる一地方城郭の興亡史としてではなく、戦国時代の幕開けを象徴する社会変革の縮図として捉え直す。すなわち、福光城の落城とは、荘園制という旧秩序に立脚した伝統的武士階級の支配が、中央の権威とは無関係に、宗教的結束によって強大な力を得た民衆(一向一揆)によって覆された、時代の転換点を印す事件であった。
福光城の歴史的重要性は、その存続期間の長さや城郭の規模にあるのではない。その「滅び方」にこそ、本質がある。文明13年(1481年)という廃城年は、応仁の乱終結のわずか4年後であり、守護体制の崩壊と下剋上の常態化が始まる、まさにその画期に位置する。福光城の物語は、戦国という時代を準備した巨大な地殻変動を解明するための、一つの鍵となるのである。
第一章:砺波の巨星、石黒一族の勃興
石黒氏の出自と系譜
福光城の城主であった石黒氏は、その起源を古代にまで遡ることができる、越中国でも屈指の名族であった。その出自については、古代における砺波郡の豪族・利波臣(となみのおみ)の末裔であるとする説が有力視されている 3 。平安時代後期には武士団として頭角を現し、藤原北家利仁流を称するようになった 3 。その名の通り、越中国石黒荘(現在の南砺市福光周辺)を本貫の地とし、この地を拠点として一族は勢力を拡大していった 4 。
源平の動乱と石黒光弘
石黒氏の名が中央の歴史に大きく刻まれるのは、十二世紀末の治承・寿永の乱、いわゆる源平合戦においてである。信濃国で挙兵した木曽義仲が北陸道へと勢力を伸ばすと、越中の武士の中では宮崎太郎らと共にいち早くこれに呼応したのが、石黒太郎光弘であった 6 。寿永2年(1183年)、平家が派遣した十万ともいわれる大軍を迎え撃った倶利伽羅峠の戦いにおいて、光弘は義仲軍の勝利に大きく貢献し、その武勇を天下に轟かせたと伝えられる 1 。この功績は、単なる一戦の勝利に留まらなかった。源平という国家規模の動乱に主体的に関与し、勝利者側につくという戦略的判断を下したことで、石黒氏は来るべき鎌倉幕府の時代において、砺波郡における支配の正統性を確固たるものにしたのである。
福光城の築城と石黒荘の支配
福光城は、この石黒光弘によって平安時代末期に築かれたとされている 1 。以後、約三世紀にわたり、福光城は石黒氏宗家の居城として、その支配の中心であり続けた。一族は福光五郎、彦二郎といった分家を輩出しながら砺波郡一帯に勢力を張り、越中国を代表する国人領主として栄華を誇った 2 。
石黒氏が三百年もの長きにわたり砺波の地を支配し得たのは、彼らが単なる地方の小領主ではなく、中央の動乱を勝ち抜いた由緒ある武士団であったという事実に拠るところが大きい。しかし、この輝かしい歴史と、それに裏打ちされた武門としての誇りこそが、後の時代において、彼らが新たな脅威を正しく認識することを妨げる一因となった可能性は否定できない。旧来の武士としての名誉と伝統は、時代の変化に対応できない硬直性へと転化し、新興勢力である一向一揆を侮り、安易な武力討伐という選択に固執させる遠因となったのかもしれない。彼らの最大の強みは、時代の奔流の中で、最大の弱みへと姿を変えていったのである。
第二章:戦国前夜の越中 ― 権力の真空地帯
守護畠山氏の形骸化と応仁の乱の影響
室町時代の越中国は、管領家の一つである畠山氏が守護職を世襲していた。しかし、守護自身は京都に在住することが常であり、現地の支配は守護代と呼ばれる家臣に一任されるのが通例であった 7 。この体制は、中央の権威が盤石である限りにおいて機能したが、十五世紀後半になると大きく揺らぎ始める。
その決定的な契機となったのが、応仁・文明の乱(1467-1477年)である。この十一年にも及ぶ大乱は、畠山氏の家督相続争いが直接的な原因の一つとなっており、乱を通じて幕府と守護の権威は地に堕ちた 8 。守護畠山氏自身が争いの当事者であったため、領国である越中を顧みる余裕はなく、その統制力は完全に失われた。結果として、越中国内は中央のコントロールが全く及ばない、事実上の権力空白地帯と化したのである。
守護代・神保氏と椎名氏の対立
主家である畠山氏の権威が低下すると、越中にあってその代官であった守護代たちが国人領主として自立化し、領国の支配権を巡って私闘を繰り広げるようになった。婦負・射水郡を地盤とする神保氏、新川郡の椎名氏、そして砺波郡の遊佐氏がそれである 7 。特に神保氏と椎名氏の対立は激しく、彼らは越後の長尾氏(後の上杉氏)といった外部勢力を領内に引き入れ、越中の混乱を一層深刻なものにしていった 12 。
権力構造の隙間と石黒氏の立場
福光城を本拠とする石黒氏は、守護代・遊佐氏が名目上の支配者であった砺波郡において、最も有力な国人領主であった。しかし、守護も守護代も国内を統制する力を失い、自らの勢力争いに明け暮れる中で、石黒氏のような在地領主は、もはや上位権力からの支援や調停を期待することはできなかった。彼らは、自らの実力のみで領地と権益を守り抜かなければならない、極めて不安定な状況に置かれていたのである。
福光城落城の直接的な引き金は一向一揆との衝突であったが、その根本的な背景には、この応仁の乱によって引き起こされた越中の「権力の真空化」が存在する。もし守護畠山氏の権威が健在であったならば、国人領主と宗教勢力の紛争に対して、調停や鎮圧といった形で介入することができたかもしれない。しかし、その上位権力自体が機能不全に陥っていたが故に、石黒氏と一向一揆の対立は、いかなる調停メカニズムも働かないまま、互いの存亡を賭けた武力衝突へと際限なくエスカレートせざるを得なかった。一向一揆という新たな勢力は、まさにこの政治的空白を突く形で、その勢力を爆発的に拡大させたのである。
第三章:一向一揆、北陸を席巻す
本願寺勢力の拡大と瑞泉寺
十五世紀後半、本願寺八世・蓮如が精力的に北陸地方で布教活動を行ったことにより、浄土真宗(一向宗)は農民や下級武士を中心に爆発的に信者を増やしていった。越中においては、井波(現在の南砺市井波)に建立された瑞泉寺がその中核的な拠点となり、地域社会に深く根を張っていった 16 。
加賀からの奔流 ― 対立の直接的要因
石黒氏と一向一揆の対立が決定的なものとなる直接の要因は、隣国・加賀国の情勢にあった。文明7年(1475年)頃から、加賀守護・富樫政親は、自らの領国支配を脅かすまでに強大化した一向一揆勢力に対し、厳しい弾圧政策を開始した 17 。この弾圧から逃れるため、数多くの加賀門徒が国境を越え、井波瑞泉寺とその周辺地域へと流入し、匿われたのである 1 。
この大量の難民流入は、瑞泉寺の勢力を急激に増大させると同時に、その性格をより戦闘的なものへと変質させた。瑞泉寺は単なる宗教施設に留まらず、武装化・要塞化が進み、加賀から逃れてきた門徒たちの抵抗拠点としての色彩を強めていった。
在地領主との軋轢
一向一揆の教えは、阿弥陀仏の前では全ての人間は平等であると説き、その結束力は従来の武士と百姓といった身分秩序を揺るがすものであった。彼らの勢力拡大は、荘園制に基づく旧来の支配体制を維持しようとする石黒氏のような在地領主にとって、自らの支配基盤を根底から覆しかねない、看過できない脅威として映った 18 。
ここに、石黒氏と一向一揆の対立の本質がある。それは単なる領土争いや、天台宗(石黒氏が与した惣海寺)と浄土真宗という宗派間の対立に留まるものではない。特定の土地に根差し、世襲によって支配権が継承される「垂直的」な封建支配システム(石黒氏)と、国境を越えて信仰によって人々が結びつく「水平的」な宗教ネットワーク(一向一揆)との間の、根本的な社会システムの衝突であった。富樫政親は、国境を越えて逃亡する一揆勢を追撃できず、国境の向こう側にいる越中の石黒氏に討伐を「依頼」するしかなかった 17 。この事実は、守護の権力が令制国という単位で完結しているのに対し、一向一揆のネットワークは国境を意に介さなかったという、構造的な非対称性を如実に示している。石黒氏は、この近代以前の「非国家主体」との戦いにおいて、構造的に不利な立場に立たされていたのである。
第四章:田屋川原の戦い ― 福光城、落日の刻
開戦に至る経緯
加賀国における一向一揆の勢いに苦慮していた守護・富樫政親は、ついに越中の石黒氏に直接的な軍事行動を要請する。古来より同族とも伝えられる誼を頼り、一向一揆の越中における最大拠点である瑞泉寺の焼き討ちを、福光城主・石黒光義に依頼したのである 1 。自領内での一向宗門徒の伸張に強い危機感を抱いていた光義は、この要請を受諾。医王山に拠点を置く天台宗の有力寺院・惣海寺と連合し、瑞泉寺討伐の軍を起こすことを決断した 1 。
両軍の兵力と布陣
文明13年(1481年)2月18日、石黒光義率いる石黒・惣海寺連合軍は、総勢1600余(一説には2300余)の兵力で福光城を出陣し、井波瑞泉寺へと向かった 1 。一方、瑞泉寺側はこの動きを事前に察知し、直ちに周辺の一向宗門徒に動員をかけた。五箇山の山間部から、般若野の平野部、さらには射水郡に至るまで、広範囲から門徒や武装した百姓たちが馳せ参じ、その数は総勢5000に達したという 1 。彼らは小矢部川の支流である山田川の田屋川原(現在の南砺市田屋)に布陣し、石黒軍を迎え撃つ態勢を整えた。
合戦の経過 ― 挟撃による壊滅
山田川を挟んで両軍は激突した。戦いの序盤は、戦闘の訓練を積んだ武士団を中核とする石黒軍が優勢に戦いを進めたと伝えられる 21 。しかし、戦局は予期せぬ方向から一変する。
合戦の最中、かつて石黒氏の分家であった桑山城主・坊坂四郎左衛門が一揆方に寝返り、加賀湯涌谷から駆け付けた門徒衆2000余を率いて戦場に姿を現したのである 1 。この別働隊は、石黒軍の主力が戦っている前線には向かわず、手薄になっていた連合軍の後方拠点へと殺到した。彼らはまず医王山にあった惣海寺の四十八ヶ寺をことごとく焼き払い、返す刀で福光城下へと攻め入って火を放った 1 。
背後の本拠地が攻撃され、黒煙が上がったとの報は、前線で戦う石黒軍に致命的な動揺をもたらした。指揮系統は混乱し、軍は総崩れとなった。瑞泉寺勢はこの好機を逃さず猛然と追撃し、石黒軍は壊滅的な敗北を喫した 1 。
石黒光義の最期
敗走した石黒光義は、わずかな家臣と共に、この地方で最も由緒の古い寺院である安居寺(現在の南砺市安居)へと逃れた 22 。しかし、一揆勢の追撃は執拗であり、寺はたちまち包囲される。もはやこれまでと覚悟を決めた光義は、最後まで付き従った主従16名と共に自刃して果てた 22 。その首は獄門にかけられたといい、源平の動乱以来、約三百年続いた福光石黒宗家は、ここに滅亡したのである。
この合戦の詳細を伝える史料は、瑞泉寺側の記録である『闘諍記』(または『闘静記』)にほぼ限られている 5 。勝者の視点で書かれた後世の編纂物であるため、両軍の兵力差や合戦の経過には誇張が含まれている可能性も指摘されるが、この戦いによって石黒宗家が滅亡し、一向一揆が砺波郡の支配権を確立したという歴史的結末は、動かしがたい事実として受け入れられている 5 。
表1:田屋川原の戦いにおける両軍の勢力比較
項目 |
石黒・惣海寺連合軍 |
瑞泉寺一向一揆軍 |
総大将 |
石黒右近光義 1 |
瑞泉寺蓮誓 5 , 竹部豊前 20 |
総兵力 |
約1,600名 1 |
約5,000名 1 |
主要構成 |
福光石黒一族の武士団、医王山惣海寺の僧兵 1 |
瑞泉寺・土山御坊の僧侶・寺侍、五箇山・般若野等の門徒・武装百姓 1 |
支援/別働隊 |
(加賀守護・富樫政親の後援) 17 |
加賀湯涌谷の門徒衆(約2,000名) 1 |
戦術的特徴 |
旧来の武士による正面攻撃 |
圧倒的な兵力による迎撃、別働隊による後方攪乱・挟撃 |
この戦いの本質は、単なる兵力差以上に、軍の「質」と「戦術」の差にあった。石黒軍が中世的な「武士と僧兵」の連合軍であったのに対し、一揆軍は多様な階層の人々が宗教的紐帯で結ばれた、近世的な「民衆軍」の萌芽ともいえる性格を持っていた。そして、石黒側が他国から得た支援が間接的な「後援」に留まったのに対し、一揆側は国境を越えて実働部隊が参戦した。この事実は、彼らのネットワークがいかに有効に機能したかを物語っている。
第五章:城郭としての福光城
立地と構造
福光城は、険しい山に築かれた山城ではなく、平地に位置する平城、もしくは居館に近い城館であったと分類される 1 。これは、戦国後期に見られるような常時臨戦態勢の軍事拠点というよりも、平時の政庁や居住空間としての機能を重視した、室町期までの国人領主の城郭形態としては典型的なものである。
なお、調査の過程で、島根県大田市に存在する同名の山城「福光城(別名:物不言城)」に関する情報が散見された 24 。この石見国の福光城は、毛利氏配下の吉川氏の居城であり、尾根上に本丸・二の丸・三の丸を連ねた連郭式の縄張りを持ち、石垣や堀切を備えた本格的な山城である。本報告書の対象である越中国福光城とは全くの別物であり、これらの山城としての構造に関する記述は、越中福光城には適用されない。
推定される城域と遺構
記録によれば、往時の福光城は広大な城域を持ち、その周囲には城下町が形成されて繁栄していたと伝えられる 1 。城の周りには、東西約50メートル(二十七間)、南北約30メートル(十六間)の堀が巡らされていたという 1 。
現在、城跡は「福光城址栖霞園」として公園整備されており、往時を直接的に偲ばせる遺構は極めて少ない 29 。わずかに残る石垣と、一段高くなった郭跡(曲輪跡)が、かつてここに城があったことを物語るのみである 1 。周囲を巡っていたとされる堀は、後世に水田となり、その痕跡を明確にたどることはできない 1 。南砺市埋蔵文化財センターが地域の遺跡調査を担っているが、福光城の正確な縄張りを示すような詳細な発掘調査報告は、現時点では確認されていない 31 。
福光城が「平城」であったという構造そのものが、石黒氏の敗因の一つを暗示している。彼らが築城以来三百年間にわたって想定してきた敵は、同格の武士による、ある意味で儀礼的な戦闘であった。数千人規模の武装した民衆が、自らの本拠地そのものを包囲し、城下町ごと焼き払うという「新しい戦争」の形態は、彼らの想定を完全に超えていた。城と城下町が一体化した平城の脆弱性を突かれたことは、石黒氏の戦争観が、もはや時代遅れのものであったことを示している。城の物理的構造は、城主の時代の認識の限界を、静かに物語っているのである。
第六章:福光城廃城後の砺波郡
「百姓の持ちたる国」の出現
田屋川原の戦いにおける決定的勝利により、福光城を中心とした砺波郡一帯は、井波瑞泉寺を核とする一向一揆勢力の完全な支配下に入った 5 。これにより、越中西部には武士階級による直接支配が及ばない、一向宗門徒による強力な自治共同体が成立した。これは、後に「百姓の持ちたる国」と評される加賀国と同様の状況を、越中にもたらした画期的な出来事であった。福光城の落城は、単に石黒氏という一武家の滅亡に留まらず、この地域における権力構造の根本的な転換を意味していた。
石黒氏のその後
福光城と共に石黒宗家は滅亡したが、石黒一族の血脈が完全に絶えたわけではなかった。木舟城を拠点とする分家など、一族の一部は存続した 4 。しかし、彼らがかつて砺波郡に誇った権威は完全に失われた。生き残った一族は、時代の流れの中で、ある者は加賀藩前田家や富山藩に仕官して武士としての道を歩み、またある者は帰農して地域の豪農となるなど、様々な運命を辿った 4 。
戦国時代の終焉と一向一揆支配の結末
福光城廃城後、約一世紀にわたって越中西部を実効支配した一向一揆勢力であったが、その支配も永遠ではなかった。天正年間(1573-1592)に入り、天下統一を目指す織田信長が北陸地方へ侵攻を開始すると、彼らは織田軍(柴田勝家、佐々成政ら)と激しく対立することになる。越後の上杉謙信との戦いを経て、最終的には織田軍の圧倒的な軍事力の前に制圧され、越中における一向一揆の王国は終焉を迎えた 34 。福光城の跡地に、再び武士による支配が確立されるのはこの時である。
このように、福光城の落城は、その後の約百年にわたる越中の政治・軍事地図を決定づけた、まさに「画期」であった。上杉謙信や佐々成政が越中で繰り広げた戦いの多くは、この文明13年(1481年)の事件によって誕生した巨大な「一向一揆勢力」との戦いであったと言える。福光城の物語は、越中の戦国時代史という壮大なドラマの序章であり、その後の全ての展開の伏線となっている。この事件を理解せずして、謙信や成政の越中経営の本質を真に理解することはできないのである。
終章:栖霞園に眠る記憶 ― 福光城が現代に語りかけるもの
城跡の変遷
田屋川原の戦いで主を失い、廃城となった福光城跡は、その後長い間、荒廃するに任されていた 1 。再びこの地に光が当てられるのは、江戸時代後期のことである。地域の文化人たちの手によって城跡に小亭が建てられ、中国の古典に由来する「栖霞園(せいかえん)」と名付けられた 21 。
時代は下り、明治元年(1869年)、城跡には郷学所「栖霞塾」が設立され、この地方における学問の中心地としての役割を担った 1 。武士の時代の終焉と共に、かつて武の拠点であった場所が、新たな時代の知の拠点として生まれ変わったことは象徴的である。
現在、城跡は「福光城址栖霞園」として南砺市の史跡に指定され、茶会などに利用される市民の憩いの場として親しまれている 28 。
歴史的遺産としての価値と総括
福光城の物語は、中世から近世へと移行する時代の大きなうねりの中で、旧来の権威がいかにして新興の力に飲み込まれていったかを示す、生きた教材である。源平の動乱期に生まれ、三百年の栄華を誇った名族・石黒氏は、戦国という新たな時代の黎明期に、社会の根底から湧き上がった巨大なエネルギー(一向一揆)の前に、その歴史の幕を閉じた。
栖霞園の静かな佇まいの中に眠る福光城の記憶は、我々に多くを語りかける。それは、単なる一つの城の滅亡の物語ではない。武士の時代の終焉の一つの形と、それに続く民衆の時代の幕開けを、静かに現代に伝えている。古い時代が新しい時代に乗り越えられていく、歴史のダイナミズムそのものの証人として、福光城の名は記憶されるべきであろう。
引用文献
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