筑前の要塞、立花山城は博多湾を見下ろす要衝に築かれ、大友・大内・毛利氏の激しい争奪戦の舞台に。立花道雪・誾千代・宗茂が守り、島津軍の猛攻を退けるも、秀吉の九州平定後、福岡城築城に伴い廃城となった。
筑前国、現在の福岡市東区、糟屋郡新宮町、久山町にまたがる標高367メートルの立花山。その山頂から連なる峰々にかけて、かつて九州の戦国史にその名を深く刻んだ巨大な山城が存在した。それが立花山城である。この城は単なる一介の山城ではない。南北朝の動乱期に産声を上げてから、豊臣秀吉による天下統一を経て、江戸時代の幕開けと共にその役目を終えるまでの約270年間、一貫して九州北部の覇権を争う上での最重要戦略拠点であり続けた 1 。
その価値の根源は、類まれなる地政学的な優位性にあった。山頂からは、西に広がる玄界灘、博多湾に浮かぶ島々、そして国際貿易港として栄華を極めた博多の町並みまでを一望の下に収めることができる 3 。この立地は、博多を起点とする陸上交通と海上交通の双方を扼する「筑前の要塞」としての絶対的な地位を、この城に与えたのである 1 。
中世から戦国時代にかけて、博多がもたらす莫大な富は、九州の諸大名にとって自らの勢力を維持・拡大するための生命線であった。それゆえ、博多の支配権は筑前の支配に直結し、ひいては九州全体の勢力図を左右した。立花山城の歴史は、この博多の支配権を巡る絶え間ない争奪戦の歴史そのものであった。豊後の大友、周防の大内、安芸の毛利、そして薩摩の島津といった、当代一流の戦国大名たちが、この城を巡って幾度となく激しい攻防を繰り広げたのは、その戦略的価値を誰よりも深く理解していたからに他ならない。
本報告書は、戦国時代という視座から立花山城を徹底的に調査し、その築城から廃城に至るまでの全貌を明らかにするものである。城を巡る英雄たちの興亡、繰り広げられた壮絶な合戦、そして時代の変遷と共に移り変わる城の役割を多角的に分析することで、立花山城が単なる石と土の構造物ではなく、戦国九州の精神そのものを宿す記念碑的な存在であったことを論証する。
年代 |
主な出来事 |
関連する主要人物 |
元徳2年 (1330) / 建武元年 (1334) |
大友貞載により築城される。 |
大友貞載 |
永享3年 (1431) |
大内盛見が一時攻略するも、大友方が回復。 |
大内盛見、大友親繁 |
文安2年 (1445) |
大内教弘が攻略。博多が大内氏の支配下に入る。 |
大内教弘 |
永禄11年 (1568) |
城主・立花鑑載が謀反。大友軍が鎮圧する。 |
立花鑑載、大友宗麟、戸次鑑連 |
永禄12年 (1569) |
立花合戦。大友氏と毛利氏が城を巡り激突。 |
吉川元春、小早川隆景 |
元亀2年 (1571) 頃 |
戸次鑑連(立花道雪)が城主として入城。 |
立花道雪 |
天正3年 (1575) |
道雪が娘・誾千代に家督を譲り、女城主が誕生。 |
立花誾千代 |
天正9年 (1581) |
高橋紹運の長男・統虎(宗茂)が婿養子となる。 |
立花宗茂、高橋紹運 |
天正14年 (1586) |
島津軍が侵攻。岩屋城玉砕と立花山城籠城戦。 |
島津義久、立花宗茂 |
天正15年 (1587) |
豊臣秀吉の九州平定。小早川隆景が入城。 |
豊臣秀吉、小早川隆景 |
慶長6年 (1601) |
黒田長政が福岡城を築城。それに伴い廃城となる。 |
黒田長政 |
立花山城の歴史は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての動乱期に始まる。築城者として名を残すのは、豊後国守護であった大友氏第6代当主・大友貞宗の次男、大友貞載である 1 。築城年代については、元徳2年(1330年)とする説 6 と、建武元年(1334年)とする説 1 が伝わっているが、いずれにせよ14世紀前半、大友氏が本拠地・豊後から西へ勢力を伸張し、筑前国への影響力を確立しようとした時代背景の中で築かれたことは間違いない。貞載はこの地に拠ったことから「立花」の姓を名乗るようになり、これが後の立花氏の濫觴となった 5 。
大友氏がこの地を選んだ理由は、その卓越した戦略的位置にあった。立花山は、博多湾岸の平野部に孤立してそびえ立ち、博多の港とそれを結ぶ内陸の街道網を同時に見渡せる。この城を拠点とすることで、大友氏は博多の経済的利権に直接関与し、筑前国内の諸勢力を牽制する強力な足がかりを得ることができた 1 。立花山城の築城は、単なる防衛拠点の設置にとどまらず、大友氏による筑前支配という遠大な構想の第一歩を示すものであった。
しかし、築城草創期の道のりは平坦ではなかった。城主となった大友貞載は、建武の新政後の混乱の中で足利尊氏方に与して戦ったが、建武2年(1335年)の箱根・竹ノ下の戦いで戦功を挙げるも、翌年には京で襲われ、その傷がもとで死去するという波乱の生涯を送った 7 。その後、城は南朝方の雄・菊池武光の勢力に圧迫されるなど、南北朝の動乱の渦中に巻き込まれていく 7 。
室町時代に入ると、立花山城は九州北部の覇権を巡る、より大きな勢力争いの焦点となる。特に、周防国を本拠とする大内氏は、大陸貿易の利権を掌握するため、博多の支配を強く欲し、筑前への侵攻を繰り返した。永享3年(1431年)、大内盛見は立花山城を攻め落とすが、その直後に少弐氏と大友氏の連合軍に敗れて戦死。城は大友方の手に戻った 1 。
この攻防は、立花山城の帰趨が即座に地域のパワーバランスを変動させることを示している。城は静的な「拠点」ではなく、常に複数の勢力が引き合う動的な「係争地」としての性格を帯びていた。そして文安2年(1445年)、大内教弘が再び大軍を率いて立花山城を攻略したことで、この均衡は大きく大内氏に傾く。この勝利により、博多は大内氏の実質的な支配下に置かれ、大友氏は筑前における影響力を大幅に後退させることを余儀なくされた 1 。立花山城の喪失が、博多の支配権の喪失に直結したこの出来事は、戦国時代を通じて繰り返される争奪戦の序章であった。
戦国時代中期、九州は豊後の大友宗麟、肥前の龍造寺隆信、薩摩の島津義久という三強が覇を競う時代へと突入する。この中で、大友氏は筑前国における支配体制の動揺という内憂に直面することになる。その震源地となったのが、他ならぬ立花山城であった。
当時の城主は、大友一門の立花鑑載であった。しかし、永禄年間に入ると、鑑載は主君・大友宗麟との間に確執を深めていた 10 。時を同じくして、中国地方の覇者となった毛利元就が、大内氏の旧領回復を大義名分に北九州への進出を本格化させ、筑前の有力国人である秋月種実や高橋鑑種らへの調略を活発に行っていた 10 。
この内外の情勢が結びついたのが、永禄11年(1568年)の立花鑑載の謀反である。鑑載は、高橋鑑種ら反大友勢力に呼応し、毛利氏と内通して宗麟に反旗を翻した 1 。大友氏にとって筑前支配の根幹である立花山城が敵方に寝返ったことは、領国を揺るがす最大の危機であった。宗麟は即座に、重臣中の重臣である戸次鑑連(後の立花道雪)、吉弘鑑理、臼杵鑑速らに3万の大軍を預け、鎮圧を命じた 7 。3ヶ月以上にわたる激しい攻城戦の末、鑑載の重臣・野田右衛門大夫が内応して大友軍を城内に引き入れたことで、堅城・立花山城は陥落。鑑載は城内で自刃して果てた 7 。
鑑載の謀反は鎮圧されたものの、毛利元就にとって九州進出の好機であることに変わりはなかった。翌永禄12年(1569年)、元就は次男・吉川元春と三男・小早川隆景を総大将とする4万とも5万ともいわれる空前の大軍を筑前へ派遣。大友方が守備する立花山城に矛先を向けた 1 。
これに対し、大友方も戸次鑑連ら3万5千の軍勢を博多近郊に集結させ、多々良川を挟んで両軍が対峙。九州の歴史上でも最大級の会戦、「立花合戦」の火蓋が切られた 12 。毛利軍は力攻めを避け、兵糧攻めや水の手を断つ戦術で城を追い詰め、一時は大友方の守将を降伏させて城を占領することに成功する 1 。
しかし、この戦いの決着は戦場そのものではなく、より広域的な戦略によってもたらされた。戦いが膠着状態に陥る中、大友宗麟は謀略を発動。毛利氏の背後、本国である周防国山口で大内氏の残党・大内輝弘に反乱を起こさせたのである。さらに山陰地方では、宿敵であった尼子氏の残党が再興の兵を挙げるなど、毛利領内はにわかに騒然となった 10 。本国の危機という報を受けた元就は、苦渋の決断を下す。吉川、小早川両将に九州からの全面撤退を命じたのである。乃美宗勝らのわずかな守備兵が城に残されたが 1 、毛利軍主力の撤退により、立花山城は間もなく大友氏の手に奪還された。
この立花合戦は、単なる一つの城を巡る攻防戦ではなかった。動員された兵力、戦いの期間、そして勝敗を決した要因のいずれを見ても、それは西日本全域を巻き込んだ総力戦であった。大友宗麟の、戦場の外にまで及ぶ広域的な謀略が、毛利元就の軍事力を凌駕したのである。この戦いを通じて、立花山城という一点の帰趨が、西日本全体の政治・軍事バランスを揺るがすほどの戦略的重要性を持つことが、改めて証明されたのであった。
立花合戦を経て、大友氏は筑前支配の要である立花山城を死守した。そしてこの城は、戦国九州史に不滅の輝きを放つ、三人の英雄たちの新たな舞台となる。軍神と謳われた老将・立花道雪、戦国に咲いた稀有な女城主・立花誾千代、そして後に西国無双と称される若き獅子・立花宗茂である。彼らの存在は、落日の色を濃くする大友家にあって、最後の、そして最も鮮烈な光芒であった。
人物名 |
読み |
概要 |
立花道雪 |
たちばな どうせつ |
大友家宿老。本姓は戸次(べっき)。立花山城主として筑前防衛の全権を担う。「軍神」「鬼道雪」と畏怖された。 |
高橋紹運 |
たかはし じょううん |
大友家臣。岩屋城・宝満城主。道雪とは固い絆で結ばれた盟友であり、立花宗茂の実父。 |
立花誾千代 |
たちばな ぎんちよ |
道雪の一人娘。父から家督を譲られ、7歳で立花山城の城主となる。宗茂の正室。 |
立花宗茂 |
たちばな むねしげ |
紹運の長男。道雪の婿養子となり立花家を継ぐ。後に豊臣秀吉から「西国無双」と絶賛される名将。 |
大友宗麟 |
おおとも そうりん |
豊後大友氏の当主。キリシタン大名としても知られる。彼ら四人の主君にあたる。 |
立花合戦における多大な功績を認められ、元亀2年(1571年)頃、戸次鑑連は大友宗麟から直々に立花山城の城督に任じられた 7 。この時より彼は「道雪」と号するようになる。ただし、謀反人である立花鑑載の姓を宗麟が忌み嫌ったため、道雪自身は生涯にわたって「立花」を名乗ることはなく、戸次姓を通したと伝えられている 7 。
道雪の武名は、九州全土に轟いていた。14歳の初陣で、わずか2000の兵を率いて倍以上の敵軍を打ち破るという天才的な軍才を発揮 16 。以来、生涯を通じて大小百数十回に及ぶ合戦に出陣し、そのほとんどで勝利を収めたことから、人々は彼を畏敬の念を込めて「軍神」と呼んだ 19 。
彼の人物像を語る上で欠かせないのが「雷切」の逸話である。若い頃、大木の下で涼んでいた際に落雷に遭うも、瞬時に愛刀「千鳥」を抜き放ち、稲妻の中にいた雷神を斬り伏せたとされる 16 。この落雷により左足が不自由になるという致命的な傷を負ったが 16 、道雪の闘志は衰えるどころか、ますます燃え上がった。以降の合戦では輿に乗って最前線で指揮を執り、その異様な姿は敵兵に「鬼道雪」と恐怖を植え付けた 18 。そして、雷を斬った刀は、以後「雷切」として彼の代名詞となった 20 。
道雪は、鉄砲に弾薬を素早く装填する「早込」を考案するなど、革新的な戦術家であった 21 。同時に、彼は部下を深く慈しむ将でもあった。「武士に弱い者はいない。もし弱い者がいれば、それは大将が励まさない罪である」と語り、手柄を立てられず落ち込む家臣を励まし、酒席での部下の失敗を庇うなど、その温情あふれる人柄によって家臣団から絶大な信頼と忠誠を勝ち得ていた 20 。
その道雪にも悩みがあった。嫡子となる男子に恵まれなかったのである。大友家の最前線を預かる身として、家の断絶は許されない。そこで道雪は、常識を覆す決断を下す。天正3年(1575年)、一人娘である誾千代に家督と立花山城の城督の座を譲ったのである 7 。この時、誾千代はわずか7歳の少女であった 24 。
これは、単なる名目上の相続ではなかった。主君である大友宗麟・義統親子が連署で承認した公式の文書が現存しており、戦国時代において、後継ぎの男子がいないという理由以外で女性が正式に家督を相続した、極めて稀な事例として知られている 26 。この異例の措置は、道雪に対する宗麟の絶対的な信頼の証であると同時に、大友家が直面していた危機的状況の裏返しでもあった。
誾千代は、父の期待に応えるかのように、幼い頃から城主としての気概を持って育ったと伝えられる。侍女たちを集めて武術の訓練を施し、有事の際には自らも甲冑を身にまとい、薙刀を手に軍勢の先頭に立ったという武勇伝が数多く残されている 26 。
誾千代への家督相続は、道雪の深謀遠慮の一環であった。彼の真の狙いは、自らの死後も立花山城、ひいては筑前の防衛体制を盤石なものにすることにあった。そのために白羽の矢を立てたのが、盟友であり、同じく大友家の柱石であった岩屋城主・高橋紹運の長男、弥七郎統虎であった。
天正9年(1581年)、統虎は誾千代の婿養子として立花家に入り、正式に家督を継承した 7 。これが、後に豊臣秀吉をして「その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一」と言わしめた名将、立花宗茂の誕生である。
この一連の家督継承は、血縁や旧来の慣習を超え、大友家の存亡という大目的のために「最強の布陣」を構築しようとした道雪の戦略であった。これにより、筑前の防衛線は、立花山城の「軍神」道雪と「若き獅子」宗茂、そして岩屋・宝満城の「名将」紹運という、鉄壁のトライアングルによって守られることになったのである。それは、やがて来る九州史上最も熾烈な戦いに備えるための、最後の布石であった。
天正13年(1585年)、軍神・立花道雪が陣中で病没すると、九州の勢力均衡は急速に崩れ始めた。道雪という重石を失った大友家に対し、薩摩の島津氏が九州統一の野望をむき出しにして、その牙を剥いたのである。天正14年(1586年)、島津義久は数万の大軍を北上させ、大友領の心臓部である筑前国へと侵攻した。それは、立花山城と、城を守る若き当主・立花宗茂にとって、最大の試練の始まりであった。
島津軍の圧倒的な兵力の前に、筑前の国人衆は次々と降伏、あるいは寝返っていった 29 。この絶望的な状況下で、敢然と島津軍の前に立ちはだかったのが、宗茂の実父であり、道雪の盟友であった高橋紹運である。彼は岩屋城と宝満山城を拠点に、立花山城と連携して防衛線を形成した 30 。
紹運は、この戦いの本質を冷静に見抜いていた。それは、豊臣秀吉の中央軍が援軍として到着するまでの時間を、いかにして稼ぐかという一点にあった。そのためには、島津軍の主力を一箇所に引きつけ、その足を止めさせる「捨て石」が必要であった。紹運は、自らその役目を引き受け、最も攻められやすい最前線の岩屋城に、わずか763名の寡兵で籠城したのである 30 。これは、息子・宗茂が守る立花山城と、主家・大友家の命運を未来に繋ぐための、壮絶な覚悟の表れであった。
島津軍は、紹運の器量を惜しみ、再三にわたって降伏を勧告した。しかし、紹運は「主家が盛んなる時は忠誠を誓い、衰えたときは裏切る。そのような鳥獣以下の振る舞いはできぬ」と、敵味方が見守る中で毅然と言い放ち、これを一蹴した 30 。
7月14日、攻城戦が開始された。763名対数万という圧倒的な兵力差にもかかわらず、紹運の巧みな采配と城兵の決死の奮戦により、岩屋城は島津軍の猛攻を半月にわたって凌ぎ続けた。しかし、衆寡敵せず、7月27日、城はついに陥落。紹運は櫓の上で壮絶な割腹を遂げ、城兵763名全員が討ち死、あるいは自害して果てた 30 。この戦いで、島津軍もまた3000名以上という甚大な死傷者を出し、その進軍計画に大きな遅滞を生じさせることになった 33 。紹運の死は、まさに「戦国の華」と称されるにふさわしい、忠義に殉じた壮烈な最期であった 35 。
実父・高橋紹運の玉砕という悲報は、立花山城に籠る弱冠20歳の立花宗茂のもとにも届いた。悲しみに暮れる暇もなく、父が命を賭して稼いだ貴重な時間を背負い、宗茂は島津の大軍と対峙する。父の犠牲を無駄にしないため、彼は立花山城での徹底抗戦を決意した 3 。
紹運の戦いが「静」の籠城戦であったとすれば、宗茂の戦いは「動」の籠城戦であった。彼はただ城に籠って敵の攻撃を待つのではなく、積極的に城外へ打って出て、ゲリラ戦や奇襲を繰り返した 7 。島津軍の兵糧部隊を襲撃して補給を断ち、油断した部隊に夜襲をかけるなど、神出鬼没の戦術で敵を大いに悩ませた。
戦いが長引き、豊臣軍の九州上陸が間近に迫っていることを察知した宗茂は、次なる一手として大胆な計略を仕掛ける。島津軍が総攻撃の準備を整えつつある中、重臣の内田鎮家を偽りの降伏交渉の使者として送り込み、巧みに時間を稼いだのである 7 。これは、父・紹運が「死」をもって時間を稼いだのに対し、宗茂が「智」をもって時間を稼いだ瞬間であった。
宗茂の計略が功を奏している最中、ついに決定的な報せがもたらされる。豊臣秀吉の先鋒軍である毛利の大軍が、豊前国の小倉に上陸したのである。背後を突かれる危険を悟った島津軍は、目前にまで迫っていた立花山城の攻略を断念。天正14年8月24日、包囲を解いて本国への撤退を開始した 38 。
この好機を、宗茂が見逃すはずはなかった。彼は島津軍が陣払いをするや否や、即座に城兵を率いて追撃に転じた。その勢いは凄まじく、まず島津方に与していた高鳥居城を電光石火の速さで攻略。返す刀で、父・紹運が玉砕した岩屋城と、弟・高橋統増が守っていた宝満山城をも奪還するという離れ業をやってのけたのである 23 。
この一連の戦いにおける宗茂の働きは、九州平定を成し遂げた豊臣秀吉から最大限の賛辞をもって迎えられた。秀吉は、宗茂の忠義と武勇を「その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一」「九州の逸物」と絶賛し 7 、その功績に報いるため、彼を主家である大友家から独立させ、筑後柳川13万2千石の大名へと取り立てた 7 。
岩屋城と立花山城を巡る一連の戦いは、単なる二つの籠城戦ではない。それは、高橋紹運の「忠義の死」と、立花宗茂の「智勇の生」とが織りなす、二代にわたる壮大なリレー防衛戦であった。父が命を賭して繋いだ時間を、子が智勇の限りを尽くして活かしきり、ついには絶望的な状況を覆したのである。この父子の奮戦なくして、大友家の命脈は尽き、九州の歴史は大きくその姿を変えていたことであろう。
豊臣秀吉による九州平定は、九州における長年の戦乱に終止符を打ち、新たな時代の到来を告げた。それは、立花山城にとっても、その存在意義を大きく変える転換点であった。戦乱の象徴であった山城は、平和な時代の到来と共に、その役割を終え、新たな時代の礎となる運命を辿ることになる。
九州平定後の論功行賞により、筑前国は毛利元就の三男であり、秀吉政権の重鎮であった小早川隆景に与えられた。隆景は当初、筑前支配の拠点として立花山城に入城した 5 。
しかし、隆景は山城である立花山城が、これからの時代の政治・経済の中心としては不向きであると判断した。彼は、より交通の便が良く、城下町の発展が見込める博多湾岸の地に、新たに名島城を築き、そこを居城と定めた 1 。この決断により、約250年間にわたり筑前の最重要拠点であり続けた立花山城は、その主たる座を名島城に譲り、一介の「支城」へとその地位を大きく低下させることになった 6 。
支城となった立花山城の城代として、隆景は重臣の乃美宗勝(浦宗勝とも)を置いた 1 。奇しくもこの宗勝は、かつて永禄12年の立花合戦において、毛利軍が九州から撤退する際に最後まで城に残り、守将を務めた人物であった 7 。数奇な運命の巡り合わせを経て、彼は再び立花山城の土を踏むことになったのである。
時代はさらに下り、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て、天下は徳川家康のものとなった。この戦いで東軍として多大な功績を挙げた黒田長政が、筑前国52万3千石の新たな領主として入封した 5 。
長政もまた、名島城が手狭で、大規模な城下町を形成するには不向きであると考えた。彼は、父である稀代の軍師・黒田如水(官兵衛)と共に、新たな時代の筑前の中心地として、より広大な福崎の地に近世的な平山城の築城を開始する 46 。これが、現在の福岡市の名の由来ともなった福岡城である 49 。
この壮大な新城建設に伴い、慶長6年(1601年)、立花山城は正式に廃城の時を迎えた 1 。そして、その最後の役目として、城を構成していた石垣の多くが解体され、福岡城の石垣へと転用されたと伝えられている 5 。
立花山城の廃城と、その資材が福岡城に転用されたという事実は、単なる城の解体・再利用以上の意味を持つ。それは、絶え間ない戦乱に明け暮れた「中世(戦国)」の時代が終わり、安定した統治と経済発展を志向する「近世(江戸)」の時代が始まったことを象-徴する、物理的なパラダイムシフトであった。防御に特化した険峻な山城の時代は終わりを告げ、藩の政庁として、また経済の中心地として城下町と一体化した平山城の時代が幕を開けたのである。立花山城の石の一つ一つが、福岡城の礎となったことは、文字通り「戦国の時代を土台として、新たな平和の時代が築かれた」という歴史の必然を物語っている。
廃城から400年以上の歳月が流れた現在、立花山城はかつての軍事要塞としての姿を失い、豊かな自然に抱かれた史跡として静かに時を刻んでいる。しかし、注意深く山中を歩けば、今なお往時の激しい攻防を物語る数多くの遺構を見出すことができる。
立花山城は、単一の山に築かれた城ではない。標高367メートルの立花山を中心に、松尾山や白岳など、「立花七峰」と呼ばれる大小七つの峰々に曲輪や砦が配された、東西約1キロメートルにも及ぶ広大な城郭群であった 2 。これは九州でも随一の規模を誇る中世山城であり、山全体が一個の巨大な要塞として機能していた 3 。
近年では、城を訪れた記念となる「御城印」も販売されるようになり 59 、歴史探訪の新たな楽しみ方として定着しつつある。立花山城は、戦国の記憶を深い森の中に留めながら、現代の人々と新たな関係を築いている。
立花山城の約270年にわたる歴史は、筑前国、ひいては九州北部の支配権を巡る権力闘争の縮図であった。その地理的優位性から、築城直後から常に争奪の的となり、大友、大内、毛利、島津といった西日本を代表する大名たちの興亡を映す鏡として、歴史の表舞台に立ち続けた。
この城が単なる軍事拠点として以上の意味を持つのは、その歴史が戦国九州を代表する英雄たちの壮大な物語と分かちがたく結びついているからに他ならない。落雷にも屈せず、半身不随の身で輿に乗り指揮を執った立花道雪の不屈の闘志。主家と息子の未来のため、わずかな兵で大軍の前に散った高橋紹運の忠義と犠牲。そして、父の死を乗り越え、類まれなる智勇で城を守り抜き、西国無双の名将へと駆け上がった立花宗茂の輝かしい武勲。彼らの生き様、死に様が、この山の石垣や曲輪の一つ一つに刻み込まれている。
やがて戦乱の時代が終わりを告げると、立花山城はその役目を終え、自らの石垣を新たな時代の象徴である福岡城の礎として提供し、歴史の舞台から静かに姿を消した。それは、戦の時代が終わり、統治の時代が始まるという、歴史の大きな転換点を象徴する出来事であった。
現代において、立花山城跡は国の特別天然記念物であるクスノキの原生林に抱かれ、訪れる人々に過去の記憶を静かに語りかけている。城跡そのものは史跡として未指定であるが、それはこの場所が持つ歴史的価値と自然的価値の重層性を示唆しており、我々に文化財保護のあり方を問いかけている。立花山城は、もはや武将たちが覇を競う要塞ではない。しかし、そこには戦国武将たちの精神が今なお宿り、九州の戦国史そのものを体現する、不滅の記念碑として存在し続けているのである。