花巻城は中世稗貫氏の鳥谷ヶ崎城が前身。小田原不参で稗貫氏改易、一揆で一時奪還も鎮圧。南部氏の支城「花巻城」となり、北信愛、南部政直により近世城郭として整備。関ヶ原では「花巻城の夜討ち」で城を守り抜いた。
本報告書は、岩手県花巻市に存した花巻城を、単なる一地方城郭としてではなく、戦国時代末期の天下統一事業という巨大な地殻変動が奥州の政治秩序をいかに再編したかを象徴する存在として捉え、その全史を徹底的に解明することを目的とする。中世国人領主・稗貫氏の拠点「鳥谷ヶ崎城」が、豊臣政権による中央集権化の波に呑まれ、近世大名南部氏の支城「花巻城」へと変貌を遂げる過程は、奥州における戦国時代の終焉と近世の幕開けを体現する、極めて重要な事例である。
この名称の変更は、単なる改名に留まらない。それは、この城が持つ権力構造、統治理念、そして戦略的価値の根本的な転換を示すものであった。稗貫氏の滅亡後、新領主となった南部氏の命を受けた初代城代・北秀愛によって断行されたこの改名は 1 、敗者である稗貫氏の痕跡を大地から抹消し、新たな支配者である南部氏の権威を刻印する象徴的な政治行為であった。物理的な城郭改修に先立ち、まず思想的な再構築が図られたのである。
本報告全体の理解を助けるため、まず花巻城に関連する主要な出来事を時系列で整理した年表を以下に示す。
表1:花巻城関連年表
年代 |
主要な出来事 |
関連人物 |
平安時代 |
安倍頼時が城柵を築いたとの伝承 2 |
安倍頼時 |
永享8年 (1436) 以降 |
稗貫氏が本拠を小瀬川館から鳥谷ヶ崎城へ移す 1 |
稗貫氏 |
天正18年 (1590) |
豊臣秀吉の小田原征伐に不参。奥州仕置により稗貫氏が改易される 4 |
稗貫広忠、豊臣秀吉 |
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浅野長政が代官として入城、後に浅野重吉が城代となる 6 |
浅野長政、浅野重吉 |
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和賀・稗貫一揆勃発。一揆勢が一時的に鳥谷ヶ崎城を奪還 6 |
和賀義忠、稗貫広忠 |
天正19年 (1591) |
奥羽再仕置により一揆が鎮圧される。和賀・稗貫領は南部氏の所領となる 6 |
豊臣秀次、蒲生氏郷 |
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南部信直の重臣・北秀愛が初代城代として入城。城名を「花巻城」と改称 2 |
南部信直、北秀愛 |
慶長3年 (1598) |
北秀愛が死去。父の北信愛(松斎)が城代を継承 6 |
北秀愛、北信愛 |
慶長5年 (1600) |
関ヶ原の戦いに際し、岩崎一揆(和賀・稗貫一揆)が蜂起。「花巻城の夜討ち」 6 |
和賀忠親、伊達政宗、北信愛 |
慶長18年 (1613) |
北信愛が死去。南部利直の次男・南部政直が2万石で花巻城主となる 6 |
北信愛、南部利直、南部政直 |
寛永元年 (1624) |
南部政直が急死。以後、盛岡藩の城代が置かれる体制となる 1 |
南部政直 |
明治2年 (1869) |
廃城令により廃城。建造物は解体、払い下げとなる 2 |
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花巻城の前身である鳥谷ヶ崎城の歴史は、この地を長らく支配した国人領主・稗貫氏の歴史と不可分である。稗貫氏の出自には、藤原北家流や伊達氏の庶流とする説など諸説が存在するが、近年の研究では武蔵国の武士団「武蔵七党」の一つ、横山党に連なる中条氏を祖とする説が有力視されている 12 。彼らは鎌倉時代、源頼朝による奥州合戦の功により稗貫郡を与えられてこの地に入部し 1 、「稗貫五十三郷」と称される広大な所領を支配する国人領主として、中世を通じて勢力を維持した 1 。
しかし、稗貫氏の支配は常に安泰ではなかった。彼らは、周辺を強力な勢力に囲まれた地政学的に困難な状況にあり、ついに戦国大名へと完全に脱皮するには至らなかった 6 。北からは南下政策を推し進める三戸南部氏、南には葛西氏、西には同盟関係と緊張関係を繰り返す和賀氏、そして宗家筋にあたる高水寺斯波氏といった諸勢力との複雑な力関係の中で、かろうじて独立を保っていた 14 。特に南部氏との関係は深刻で、長年にわたり抗争を繰り返し、永享7年(1435年)の「和賀の大乱」では南部守行・義政父子の介入を招き、翌永享8年(1436年)には居城を攻め落とされ、南部氏の軍門に降る形で和議を結ぶという屈辱を経験している 14 。
一族の求心力低下も深刻な問題であった。戦国後期には葛西氏や斯波氏、和賀氏といった他家から養子を迎えることが相次いでおり 6 、これは一族の結束を弱め、外部勢力の介入を招く一因となった可能性が高い。稗貫氏の歴史は、戦国時代における国人領主の precarious な存在様態を典型的に示している。彼らは、真の戦国大名が持つような巨大な軍事力と中央集権的な支配体制を確立できず、地域的なパワーバランスの狭間で生き残りを図るしかなかった。それゆえ、豊臣政権という圧倒的な中央権力が明確かつ迅速な服従を要求した際、彼らが長年培ってきた地域内での合従連衡という生存戦略は全く通用せず、その命運は尽きることになる。
稗貫氏は当初、小瀬川館(または瀬川城)を本拠としていたが、郡内を転々とした後、史料によれば永享8年(1436年)以降に、北上川と瀬川に挟まれた天然の要害である鳥谷ヶ崎の地に本拠を移したとされる 1 。この段階の鳥谷ヶ崎城は、大規模な石垣を持たず、土塁や堀を主とした中世的な城館であったと推測される。近年の花巻城跡の発掘調査では、近世の造成土の下層から16世紀代の中国産青花磁器や瀬戸・美濃産の陶器が出土しており、これらが鳥谷ヶ崎城時代に日常的に使用されていた遺物と考えられている 15 。
戦国末期、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)による天下統一事業の奔流は、奥羽の地にも容赦なく押し寄せた。天正17年(1589)から18年(1590)にかけ、秀吉は関東の北条氏を討伐するため、関東・奥羽の全大名に対して小田原への参陣を厳命した 4 。これは単なる軍事動員ではなく、豊臣政権への服従を誓わせるための政治的な踏み絵であった。しかし、当時の稗貫氏当主・広忠は、隣接する和賀氏や葛西氏らと同様に中央の情勢に疎く、その重要性を認識できなかった 5 。結果として、彼らは小田原に参陣しなかった。
この不参陣は、秀吉の逆鱗に触れた。天正18年(1590)7月、小田原城が落城すると、秀吉は直ちに奥州の秩序再編に着手した。これが「奥州仕置」である。参陣しなかった稗貫氏、和賀氏、葛西氏、大崎氏らは、天下の秩序を乱す者として問答無用で所領没収、城地追放という最も厳しい処分を受けた 4 。これにより、鎌倉時代から400年以上にわたってこの地を治めてきた名族・稗貫氏は、歴史の表舞台から姿を消すこととなった。
奥州仕置は、単なる懲罰ではなかった。それは、奥州に根付いていた旧来の複雑な勢力図と、何世紀にもわたる土地の領有権を、中央集権的な豊臣政権のヒエラルキーに従属させるための、暴力的かつ意図的な政治的・社会的秩序の再構築であった。花巻城の運命は、この巨大な変革の渦の中心に位置していたのである。
奥州仕置軍を率いた豊臣政権の重臣・浅野長政は、秀吉の代官として鳥谷ヶ崎城に入城し、検地や刀狩りといった新体制の基礎を固めるための政策を強行した 6 。長政が畿内へ帰還するにあたり、城には一族の浅野重吉が城代として残されたが、その手勢はわずか数百名に過ぎなかった 6 。この権力の空白と、新体制への急激な移行に対する反発が、次なる動乱の火種となる。
奥州仕置の強権的な手法は、旧領主層やその家臣、そして土地に根差した人々の間に深刻な不満と抵抗心を生んだ。天正18年(1590)10月、改易された稗貫広忠と和賀義忠は、旧臣らを糾合して蜂起した 6 。この「和賀・稗貫一揆」は、豊臣政権による強制的な秩序再編に対する、奥州の旧勢力による最初の組織的な抵抗であった。一揆勢はまず和賀氏の旧居城であった二子城を攻め落とすと、その勢いを駆って鳥谷ヶ崎城を包囲した。城代・浅野重吉は寡兵ながらも奮戦したが、数に勝る一揆勢の猛攻を支えきれず、北方の南部領へと撤退を余儀なくされた。これにより、一揆勢は一時的に旧本拠地の奪還に成功した 6 。
しかし、旧領主たちの束の間の勝利は長くは続かなかった。一揆の報に接した豊臣政権の対応は迅速かつ大規模であった。翌天正19年(1591)、関白・豊臣秀次を総大将とし、蒲生氏郷らを主力とする再仕置軍が奥州に派遣され、各地で蜂起した一揆勢を徹底的に鎮圧した 8 。戦後処理の結果、一揆の舞台となった和賀・稗貫の両郡は、小田原にいち早く参陣して豊臣政権への恭順の意を示していた南部信直に与えられることとなった。ここに、鳥谷ヶ崎城は正式に南部氏の所領となり、信直は重臣の北秀愛を8千石で入城させ、この地の統治を任せた 6 。
南部氏による支配が始まって約10年後の慶長5年(1600)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、花巻城は再び存亡の危機に立たされる。この動乱は、単なる地方の反乱ではなかった。それは、関ヶ原の戦いの周縁で繰り広げられた、伊達政宗の壮大な野望と徳川家康による天下掌握が交錯する代理戦争であった。
当時、伊達政宗は徳川家康から、上杉景勝を攻めた際の恩賞として旧領回復を含む「百万石のお墨付き」を得ていた 10 。政宗はこの機に乗じてさらなる領土拡大を画策し、南部領の混乱を誘うべく、かつての一揆の指導者・和賀義忠の子である和賀忠親を密かに煽動した 6 。折しも、南部氏の主力部隊は家康の要請に応じ、最上義光支援のために出羽戦線(慶長出羽合戦)へ出払っており、南の国境は極めて手薄であった 25 。政宗の策謀は、この絶好の機会を突いたものであった。
和賀忠親に率いられた一揆勢約500は、慶長5年9月20日未明、守りが手薄な花巻城に夜襲を仕掛けた 10 。この時、城内に残っていた兵力はわずか十数騎と従兵のみ 10 。城代の北信愛は70代半ばの高齢で、しかも失明していた 10 。絶体絶命の状況であったが、老将信愛の采配は冴えわたっていた。彼は即座に城下の町人たちを城内に招き入れ、侍女や女中に至るまで弓や槍、鉄砲を持たせて防衛体制を敷いた 6 。
兵力で圧倒する一揆勢は破竹の勢いで三の丸、二の丸を突破し、本丸へと迫った。しかし、本丸の通用門にあたる御台所前御門付近で、城兵は決死の抵抗を見せる 10 。門を挟んで一進一退の激しい攻防が続き、一揆勢はあと一歩のところで本丸を攻め落とすことができなかった。
夜が明けようとする頃、戦場に突如として鬨の声が響き渡った。信愛の養子である猛将・北信景が率いる南部氏の救援部隊が、一揆勢の背後に現れたのである 10 。挟撃されることを恐れた忠親は、やむなく全軍に撤退を命令。一揆勢は追撃を受けながら敗走し、岩崎城へと立て籠もった 10 。この「花巻城の夜討ち」は、老将・北信愛の卓越した知謀と、身分を問わず武器を取った城内の人々の奮戦によって、奇跡的に守り切られたのである。
この花巻城での攻防戦は、一つの城の運命に留まらず、東北地方全体の勢力図に決定的な影響を与えた。戦後、南部氏は一揆の背後に伊達政宗の煽動があったことを徳川家康に報告した。これが家康の不興を買い、政宗に与えられていた「百万石のお墨付き」は反故にされた 6 。もし花巻城が陥落し、南部領が内側から崩壊していれば、政宗の野望は実現していたかもしれない。御台所前御門での必死の抵抗が、結果的に奥州最大の野心家の野望を打ち砕き、その後250年以上にわたる東北の政治地図を固定化させる一因となったのである。
二度にわたる存亡の危機を乗り越えた花巻城は、南部氏による統治の下、近世城郭へと大きく変貌を遂げていく。その過程は、二人の傑出した人物、北信愛と南部政直の功績によって特徴づけられる。
初代城代であった北信愛の次男・秀愛は、九戸政実の乱で負った傷がもとで若くして亡くなった 18 。その後を継いで花巻城代となったのが、父である老将・北信愛(松斎)であった 9 。信愛は、自らが指揮した二度の一揆との攻防戦の教訓から、城の防御力を抜本的に強化する必要性を痛感し、本格的な城郭改修と城下町の整備に着手した 9 。彼の計画は、実戦の経験に裏打ちされた、極めて実践的なものであった。
信愛の構想は、単なる軍事拠点の再建に留まらなかった。彼は花巻を盛岡藩南部の政治・経済の中心地とするべく、壮大な都市計画を推進した 18 。城内三の丸に重臣たちの屋敷を、外堀沿いには武士団を計画的に配置。さらに、敵の侵攻速度を遅らせるため、城下の道を意図的にジグザグにするなど、防衛を強く意識した町割りを実施した 18 。
経済振興にも力を注ぎ、商業の拠点として四日町や一日市といった市場を開設し 18 、盛岡藩の重要な物流路となる北上川水運の拠点として船着き場を建設した 18 。このようにして、北信愛は近世城下町・花巻の基礎を築き上げた。その功績から、彼は「花巻開町の祖」として今日まで敬愛されている。現在、花巻を代表する祭りとして400年以上の歴史を誇る「花巻まつり」は、元は信愛が出陣に際して戦勝を祈願した観音祭りが起源とされており、彼の遺徳を偲ぶ行事として受け継がれている 18 。
北信愛が築いた実践的な基礎の上に、近世城郭としての威容と格式を完成させたのが、南部政直であった。慶長18年(1613)に信愛が91歳で大往生を遂げると、盛岡藩主・南部利直は、次男の政直に和賀・稗貫二郡から2万石を与え、花巻城主とした 6 。藩主の子息が城主となることで、花巻の戦略的重要性が改めて示された。
政直は、北信愛の計画を継承しつつ、城の大規模な改修を断行した。彼の事業は、大名の権威を象徴する建築物の建設に重点が置かれていた。本丸には藩主を迎えるための壮麗な御殿を整備し、二層二階の櫓や複数の重層の城門を新たに建設した 3 。これにより、花巻城は中世以来の土の城の面影を残しつつも、近世城郭としての体裁を整え、完成の域に達した。信愛が「安全保障」を、政直が「権威の象徴」をそれぞれ担うことで、花巻城はその最終形態へと至ったのである。
しかし、政直の治世は長くは続かなかった。寛永元年(1624)、彼は25歳の若さで急死した 31 。嫡子がいなかったため、花巻城主は政直一代で終わり、以後、明治維新に至るまで盛岡藩から城代(郡代)が派遣されてこの地を統治する体制へと移行した 1 。政直の早すぎる死については、隣接する仙台藩の伊達政宗の陰謀による毒殺説も根強く伝えられており、南部・伊達両藩の根深い対立を象徴する逸話として語り継がれている 31 。
表2:花巻城を巡る主要人物とその役割
人物名 |
立場 |
主な功績・役割 |
稗貫 広忠 |
最後の稗貫氏当主 |
小田原不参により改易。和賀・稗貫一揆を主導し、一時的に城を奪還するも敗北 6 。 |
浅野 長政・重吉 |
豊臣政権の代官・城代 |
奥州仕置後に鳥谷ヶ崎城に入城し、検地・刀狩りを実施。一揆勢の攻撃により撤退 6 。 |
和賀 忠親 |
旧和賀氏当主、一揆指導者 |
伊達政宗の煽動を受け、関ヶ原の戦いの裏で蜂起。「花巻城の夜討ち」を敢行するも失敗 6 。 |
北 秀愛 |
南部氏初代花巻城代 |
鳥谷ヶ崎城を「花巻城」と改称し、初期の城郭・城下町整備に着手するも若くして病死 2 。 |
北 信愛 (松斎) |
南部氏二代目花巻城代 |
「花巻城の夜討ち」で城を死守。「花巻開町の祖」として城郭と城下町の基礎を築く 10 。 |
南部 政直 |
最初で最後の花巻城主 |
北信愛の計画を継承し、櫓や城門を建設。花巻城を近世城郭として完成させるも急死 6 。 |
絵図史料や遺構から、花巻城の全体構造は、本丸を北東の隅に置き、その南側と西側を二の丸が、さらにその南側を三の丸がL字型に囲む「梯郭式」の縄張りであったことが判明している 16 。各曲輪は堀と土塁で明確に区画され、それぞれが異なる機能を有していた。
花巻城の防御施設は、東北地方の城郭に共通する特徴を示している。すなわち、石垣の使用は限定的で、堀と土塁を主体とした「土の城」であった 34 。城の周囲は、外堀と内堀、さらに「薬研御堀」「亀御堀」といった複数の堀によって厳重に防御されていた 7 。特に、本丸と二の丸を隔てる「鐘搗堂前御堀」は、最大幅約20メートルに達し、現在も往時の姿をよく留めている 7 。
石垣は、城内で最も防御が重要視される虎口(入口)周辺にのみ、集中的に用いられた。具体的には、本丸の正門である西御門へと通じる土橋の両側面に、加工しない自然石を積み上げた「野面積み」の石垣が構築されているのが確認できる 15 。これは、限られた資源と技術を最も効果的な場所に投入するという、合理的な設計思想の表れである。
近年の継続的な発掘調査は、文献史料だけでは知り得なかった花巻城の実像を次々と明らかにしている。その成果は、この城が単一の計画で建設された静的な存在ではなく、時代の要請に応じて変化し続けた動的な建造物であったことを物語っている。
これらの考古学的成果は、花巻城の建設が、旧時代の完全な「消去」、新時代の「構築」、そしてその後の継続的な「適応」という、ダイナミックなプロセスであったことを我々に教えてくれる。地面に残された物理的な痕跡は、文献史料にはない雄弁な物語を語っているのである。
平和な時代として知られる江戸時代においても、花巻城は極めて重要な軍事的役割を担い続けた。盛岡藩(南部氏)の南には、奥州の覇者であり、関ヶ原の動乱期にも南部領侵食の野望を露わにした仙台藩(伊達氏)が広大な領地を構えていた。両藩の関係は、表面的な平穏の裏で常に潜在的な緊張をはらんでおり、花巻城はこの強大な隣国に対する最前線の軍事拠点として、盛岡藩の安全保障の要であった 20 。
この地政学的重要性は、江戸幕府にも公に認められていた。慶長20年(1615)、徳川幕府は全国の大名に対し、居城以外のすべての城を破却するよう命じる「一国一城令」を発布した。これは大名の軍事力を削ぎ、幕府への反乱を防ぐための重要な政策であった。しかし、花巻城は盛岡藩の支城として、この法令の例外として存続を許された 6 。これは、仙台藩における白石城などと同様の措置であり 33 、幕府が大大名同士の国境地帯における抑えの城の必要性を認識し、両者の勢力均衡を保つための戦略的判断を下した結果であった。花巻城の存在は、南部・伊達両藩の「冷戦構造」を物理的に示す象徴であり、その維持管理は盛岡藩の最重要課題の一つであった。
花巻城は、軍事的な役割に加え、和賀・稗貫二郡を統括する行政・経済の中心地としての機能も果たした 11 。二の丸に置かれた巨大な蔵には、藩内屈指の穀倉地帯から納められた年貢米が集積され、城のすぐそばを流れる北上川の水運を利用して、盛岡や江戸へと輸送された 18 。城は、軍事拠点であると同時に、藩財政を支える物流のハブでもあったのである。
南部政直の死後、城代統治体制の下で、花巻城は盛岡藩南部の拠点として安定した時代を過ごした。しかし、その歴史は明治維新によって大きな転換点を迎える。戊辰戦争を経て新政府の管理下に入ると、明治2年(1869)、城は廃城となり、明治6年(1873)には城内の建物や石垣が民間に払い下げられ、その多くが解体された 2 。
かつての壮麗な城郭は失われたが、その記憶は現代に受け継がれている。城跡の中心部は現在、鳥谷ヶ崎公園として整備され、桜の名所として市民の憩いの場となっている 38 。本丸跡には今も土塁や堀の一部が残り、訪れる人々に往時の面影を伝えている 36 。平成7年(1995)には、本丸の正門であった西御門が、絵図などの史料を基に木造で忠実に復元され、新たな歴史のシンボルとなった 44 。
花巻城が後世に残した最も大きな遺産は、物理的な遺構だけではない。戦国の動乱を乗り越え、近世花巻の礎を築いた「開町の祖」北信愛を偲び、その功績を称えるために始まったとされる「花巻まつり」は、400年以上の時を超えて今なお盛大に催されている 29 。この祭りは、城と城下町を築いた先人たちの記憶を、世代を超えて現代に伝え続ける生きた文化遺産である。
中世から近世への転換期という日本の歴史上最もダイナミックな時代を、その身をもって体験した花巻城。その歴史は、幾多の戦乱を乗り越え、一つの町を形成し、そして今を生きる人々の文化的アイデンティティの中に、深く、そして確かに刻み込まれているのである。