苗木城
苗木城は、巨岩を活かした「懸造」の天守を持つ「天空の要塞」。遠山氏が織田・武田の狭間で巧みな外交を展開し、関ヶ原で旧領を奪還。小藩ながら財政難に苦しみ「赤壁城」伝説を生む。
日本の戦国時代における苗木城の総合的研究
序章:天空の要塞、苗木城の特異性
日本の城郭史において、苗木城は特異な存在として際立っている。岐阜県中津川市、木曽川の北岸に屹立する標高432メートルの高森山に築かれたこの城は、単なる戦国時代の山城という範疇に収まらない、地理的条件、建築技術、そして政治的宿命が複雑に絡み合った歴史の結晶体である 1 。川面からの比高差約170メートルという峻険な立地は 2 、城に「天空の城」あるいは「日本のマチュピチュ」とも称される壮大な景観を与えた 3 。しかし、その絶景の裏には、城主であった遠山氏が、限られた資源と絶え間ない外部からの圧力の中で、いかにして存続を図ったかという、知恵と苦闘の物語が刻まれている。
苗木城の地理的位置は、その戦略的重要性を決定づけた。美濃、信濃、尾張の三国を結ぶ交通の要衝、中山道と木曽川水運を眼下に収めるこの地は、支配者にとって極めて価値の高い拠点であった 5 。それゆえに、戦国時代を通じて、東の武田氏、西の織田氏という二大勢力の狭間に置かれ、常に緊張を強いられる最前線となった。この地を治めた遠山氏は、強大な隣人たちの間で生き残るため、武力だけでなく、複雑な婚姻政策を駆使した巧みな外交戦略を展開した。苗木城は、その「境界大名」としての遠山氏の存亡を賭けた営みの物理的な現れであった。
本報告書は、この苗木城を多角的な視点から徹底的に分析するものである。第一部では、城の構造に焦点を当て、花崗岩の巨岩という特異な地質がいかにして「懸造(かけづくり)」という他に類を見ない建築様式を生み出したのかを解明する。第二部では、戦国時代の動乱期における苗木城の歴史を追い、築城から織田・武田両氏との関係、本能寺の変後の混乱、そして関ヶ原の戦いにおける決断に至るまでの変遷を詳述する。第三部では、城主・遠山一族そのものに光を当て、鎌倉時代に遡るその系譜と、激動の時代を生きた主要な人物たちの軌跡を描き出す。第四部では、江戸時代に入り苗木藩として存続したものの、常に財政的苦境に立たされた小藩経営の実態と、その貧窮が生んだ「赤壁城」伝説の真相に迫る。最後に終章として、明治維新による廃城から現代における国指定史跡としての保存、そして文化観光資源としての価値について論じ、苗木城が持つ重層的な歴史的意義を総括する。
苗木城の研究は、単一の城郭の歴史を紐解くにとどまらない。それは、自然の制約を創造性へと転換した建築の物語であり、大国の間で翻弄されながらも主体性を失わなかった小領主の外交史であり、そして近世封建体制下における小藩の経済的限界を映し出す社会史でもある。この城が語る物語は、戦国時代から近世、そして現代に至る日本の歴史の縮図そのものである。
第一部:城郭の構造と縄張り ― 巨岩と懸造りの城
苗木城の構造は、日本の城郭の中でも類を見ない独創性に満ちている。その設計思想の根幹にあるのは、自然の地形、特に花崗岩の巨岩群を破壊し克服するのではなく、最大限に活用し一体化するという哲学である。この思想は、城の縄張り、石垣の構築法、そして象徴的な天守の姿に至るまで、あらゆる側面に貫かれている。
1.1 地形と地質:花崗岩が規定した城の姿
苗木城が築かれた高森山は、苗木‐上松花崗岩と呼ばれる岩石で構成されている 6 。花崗岩は堅固な石材である一方、マグマが冷却する過程で生じる「節理(方状節理)」と呼ばれる規則的な割れ目を持つ特徴がある。この節理に沿って風化が進むと、岩盤は巨大なブロック状の岩塊(節理塊)となって残り、山全体が巨岩の露頭で覆われた独特の景観を形成する 6 。
この地質学的特性が、苗木城の構造を根本的に規定した。城郭建築に不可欠な平坦な土地の確保が極めて困難であったため 1 、築城者たちは大規模な造成を諦め、既存の地形と巨岩を防御施設の一部として直接取り込むという選択を余儀なくされた。つまり、高森山の地質は、城の受動的な土台ではなく、城の設計そのものに深く関与した能動的な共同設計者であったと言える。城の最も際立った特徴である、巨岩を石垣の代わりとする構造、複雑な段差を持つ曲輪配置、そして後述する「懸造」の天守はすべて、この地質的制約に対する必然的な建築的応答なのである。この適応の思想は、限られた資源と技術の中で最大限の防御効果を追求した、戦国時代の山城ならではのリアリズムと創意工夫の表れである。
1.2 石垣の博物館:時代の変遷を刻む石積み
苗木城の石垣は、その多様性から「石垣の博物館」と称される 7 。場内には、自然石をほとんど加工せずに積み上げる戦国期以来の「野面積み」、石の接合部をある程度加工して隙間を減らした「打込接(うちこみはぎ)」、そして石を方形に整形して隙間なく積み上げる江戸期以降の高度な技術「切込接(きりこみはぎ)」まで、様々な時代の技法が混在している 1 。
この多様性は、苗木城が戦国時代から明治維新に至るまで、長期間にわたって現役の城として機能し続けたことの証左である。築城当初の緊急性の高い防御施設から、江戸時代に入って藩の権威を示すために改修された箇所まで、時代の要求に応じて絶えず手が加えられてきた。例えば、藩の政庁が置かれた二の丸周辺には、最も見栄えのする切込接の石垣が用いられており、その重要性が窺える 1 。
しかし、苗木城の石垣を最も特徴づけているのは、これらの人工的な石積みが、山肌に露出する自然の巨岩と巧みに融合している点である 4 。特に大矢倉の櫓台では、巨大な天然の岩盤を土台とし、その周囲を加工された石垣で補強するという、自然と人工の見事な調和が見られる 6 。このように、苗木城の石垣は単なる構造物ではなく、数百年にわたる城の歴史、防衛思想の変遷、そして石工技術の進化をその身に刻んだ、生きた歴史資料なのである。
1.3 懸造(かけづくり)の天守:岩上の奇跡
苗木城の象徴であり、その建築思想の頂点を示すのが、山頂の二つの巨岩にまたがるようにして建てられた天守である 10 。平坦地が皆無のこの場所に建物を構築するため、築城者たちは「懸造(かけづくり)」という驚異的な技法を用いた。これは、京都の清水寺の舞台でも知られる建築様式で、崖や岩盤に直接穴を穿ち、そこに長短様々な柱を立てて床下を支える構造である 12 。苗木城では、現存する25箇所の柱穴が確認されており、これらを利用して岩の上に人工的な基盤を創出し、三層の天守を支えていた 12 。
この天守は、外観は三層に見えるが、内部の下二層は実用には適さないほど狭く、敵を欺くための意匠であったとされる 11 。その姿も時代と共に変化した。江戸時代中期の享保年間に幕府へ提出された絵図では、入母屋屋根を持つ神殿のような壮麗な姿で描かれている。これは関ヶ原の戦いを経て大名となった遠山氏の権威の象徴であったと考えられる 12 。一方で、幕末期の絵図を基にした復元模型では、切妻屋根の質素な小屋のような姿となっている 10 。この変化は、後述する苗木藩の深刻な財政難を直接的に反映したものであり、天守の建築様式の変遷そのものが、藩の盛衰を物語る視覚的な記録となっている。懸造の天守は、不可能を可能にした技術の奇跡であると同時に、遠山氏の栄光と苦難の歴史を体現する存在なのである。
1.4 主要な曲輪と施設の配置
苗木城の縄張りは、山頂の本丸を中心に、二の丸、三の丸が渦巻状に配置される典型的な梯郭式の山城である 1 。木曽川沿いの麓に設けられた大手門から山頂までは、「四十八曲り」と呼ばれる急峻なつづら折りの登城路が続く 2 。
- 二の丸 : 城主の居館と藩の政庁が置かれた、城の中枢部であった。表方、中奥、奥向で構成されていたが、敷地が狭隘なため、御殿としては異例の二階建て構造となっていた 1 。
- 大矢倉 : 城の北側、風吹門の脇に位置した城内最大の櫓。三層の望楼であり、北からの攻撃に対する重要な防御拠点であった 10 。
- 千石井戸 : 本丸近くの高所にありながら、大干ばつでも枯れることがなかったと伝えられる井戸。「千人の兵の喉を潤すことができる」という意味で名付けられ、籠城戦における生命線であった 8 。
- 武器蔵 : 鉄砲や弓矢などを保管した蔵。現在も建物の土台や縁石が良好な状態で残っている 10 。
- 馬洗岩 : 周囲約45メートルにも及ぶ巨岩。籠城戦の際、水の手を断たれた城兵が、この岩の上で米を使って馬を洗い、水が豊富にあるように見せかけて敵を欺いたという伝説が残る 11 。この伝説は、史実かどうかは別として、戦国時代の戦いにおいて物理的な防御だけでなく、敵の士気を挫く心理戦がいかに重要であったかを示唆している。水の確保という籠城戦の最重要課題と、それを逆手に取る将の知略というテーマが、この岩にまつわる物語に凝縮されている。
これらの施設配置は、峻険な地形を最大限に活用し、防御力を高めるための工夫に満ちている。苗木城は、自然の要害と人工の防御施設が一体となった、計算され尽くした要塞であった。
第二部:戦国動乱の年代記 ― 権力者の狭間で
苗木城の歴史は、戦国時代という激動の時代そのものを映し出している。美濃東部という地政学的に極めて重要な位置にあったがゆえに、この城と城主遠山氏は、常に周辺の強大な戦国大名たちの思惑に翻弄され続けた。その歴史は、小領主が生き残りをかけて繰り広げた、絶え間ない緊張と駆け引きの連続であった。
【表1】苗木城関連略年表(戦国時代~安土桃山時代)
年代 (西暦) |
元号 |
主要な出来事 |
関連勢力 |
苗木城主 (推定含む) |
1331-1334年 |
元弘年間 |
遠山景長親子が、高森山に砦を築く 2 。 |
遠山氏 |
遠山景長 |
1526年 |
大永6年 |
遠山昌利が植苗木から高森山に館を移し、苗木城の基礎を築く 2 。 |
遠山氏 |
遠山昌利 |
1532-1555年 |
天文年間 |
遠山正廉が高森に苗木城を築城する 2 。 |
遠山氏 |
遠山正廉 |
1560年 |
永禄3年 |
苗木勘太郎(直廉)、桶狭間の戦いに織田方として出陣 2 。 |
織田氏 |
遠山直廉 |
1565年 |
永禄8年 |
遠山直廉の娘(信長の養女)が武田信玄の次男・勝頼に嫁ぐ 2 。 |
織田氏、武田氏 |
遠山直廉 |
1570年 |
元亀元年 |
遠山直廉が死去。信長の命で飯羽間遠山氏の遠山友勝が苗木遠山氏を継ぐ 2 。 |
織田氏、武田氏 |
遠山友勝 |
1574年 |
天正2年 |
武田勝頼が東美濃に侵攻し、苗木城は落城 2 。 |
武田氏 |
遠山友勝 |
1575年 |
天正3年 |
織田信忠が岩村城を攻略し、東美濃の諸城を奪還。苗木城も織田方の支配に戻る 2 。 |
織田氏 |
遠山友忠 |
1582年 |
天正10年 |
本能寺の変。旧織田家臣の森長可が東美濃統一を目指し苗木を攻撃 2 。 |
森氏 |
遠山友忠 |
1583年 |
天正11年 |
森長可の再度の攻撃により苗木城は落城。城主の遠山友忠・友政父子は浜松の徳川家康を頼り亡命 2 。 |
森氏 |
(森氏支配下) |
1599年 |
慶長4年 |
森氏が信濃川中島へ転封。河尻直次が城主となり、関治兵衛が城代となる 2 。 |
豊臣氏 |
河尻直次 |
1600年 |
慶長5年 |
関ヶ原の戦い。8月、遠山友政が徳川家康の命を受け、東軍として苗木城を奪還(東濃の戦い) 2 。 |
徳川氏 |
遠山友政 |
2.1 築城と遠山氏の台頭
苗木城の起源は、鎌倉時代に源頼朝の御家人・加藤景廉がこの地の地頭に任じられたことに遡る 5 。その子孫が恵那山(当時、遠山と呼ばれた)にちなんで遠山姓を名乗り、美濃東部に勢力を築いた 5 。南北朝時代の元弘年間(1331-1334年)には、遠山景長が高森山に砦を築いたとされ、これが苗木城の原型となった 2 。
本格的な築城は戦国時代に入ってからで、大永6年(1526年)に遠山昌利が、あるいは天文年間(1532-1555年)に遠山正廉が、木曽・飛騨方面への影響力拡大と領国経営の中心地として、高森山に城を構えたとされる 2 。これにより、遠山氏は東美濃における有力な国人領主としての地位を固め、戦国乱世の表舞台に登場することになる。
2.2 織田・武田の外交の結節点
戦国中期の苗木城主・遠山氏は、自らの軍事力が周辺の大国に及ばないことを冷静に認識し、生き残りのために巧みな婚姻外交を展開した。彼らは、西の織田信長と東の武田信玄という、敵対する二大勢力の双方と姻戚関係を結ぶという、極めて高度で危険な綱渡り外交を推進した。
- 織田氏との関係 : 織田信長は、叔母にあたるおつやの方を遠山氏の宗家である岩村城主・遠山景任に嫁がせた。さらに、苗木城主の遠山直廉には自身の妹(一説には姪)を嫁がせ、強固な血縁関係を築いた 21 。
- 武田氏との関係 : 驚くべきことに、遠山氏は織田氏との関係を保ちつつ、武田氏とも誼を通じた。信長は、妹と苗木城主・直廉の間に生まれた娘を自らの養女とし、武田信玄の世子・勝頼の正室として嫁がせたのである 2 。
この複雑な婚姻網により、遠山氏の領地は、織田・武田両勢力間の緩衝地帯として、また外交上の重要な結節点としての役割を担うことになった。信長は、西の上洛作戦に集中するため、東の武田との安定した関係を必要としており、そのために遠山氏を介した外交ルートを重視した 21 。遠山氏にとって、この戦略は自らの脆弱な地理的条件を逆手に取り、大国間の平和を維持することで自らの存続を保障するという、唯一無二の生存戦略であった。彼らは単なる大国の駒ではなく、自らの価値を最大化し、地域の安定に能動的に寄与する外交主体として振る舞ったのである。
2.3 崩壊する均衡:武田の侵攻と森長可の蹂躙
遠山氏の巧みな外交によって保たれていた微妙な均衡は、信長の勢力拡大と共に崩れ始める。元亀3年(1572年)、武田信玄が西上作戦を開始すると、東美濃は織田・武田の主戦場と化した。武田軍の将・秋山信友が岩村城を攻略し、天正2年(1574年)には武田勝頼自身が軍を率いて東美濃に侵攻、苗木城もこの時に落城した 2 。
しかし、翌天正3年(1575年)の長篠の戦いで武田軍が織田・徳川連合軍に大敗すると、信長の嫡男・信忠が東美濃に反攻し、岩村城をはじめとする諸城を奪還、苗木城も再び遠山氏の手に戻った 2 。
束の間の平穏は、天正10年(1582年)の本能寺の変によって終わりを告げる。信長の死によって生じた権力の空白は、地域の勢力図を再び流動化させた。この機に乗じて東美濃の統一を狙ったのが、信長の旧臣で「鬼武蔵」の異名を持つ猛将・森長可であった。金山城を拠点とする長可は、天正11年(1583年)に苗木城を攻撃し、これを陥落させた 2 。城主であった遠山友忠と嫡男・友政は、城を脱出し、浜松の徳川家康のもとへ亡命を余儀なくされた 2 。
この一連の出来事は、「境界大名」戦略の限界を明確に示している。遠山氏の外交網は、大国間の均衡が保たれている間は有効であったが、全面戦争や権力構造の崩壊といった事態の前では無力であった。強力な庇護者を失った苗木城は、森長可のような地域の実力者の野心の前に、容易にその支配を覆されたのである。
2.4 関ヶ原前哨戦「東濃の戦い」と城の奪還
失意のうちに徳川家康の庇護下にあった遠山友政にとって、最大の好機が慶長5年(1600年)に訪れる。天下分け目の関ヶ原の戦いを前に、家康は中山道を進軍する徳川秀忠軍の安全を確保するため、東美濃の平定を計画した。当時、苗木城を含む東美濃の主要な城は、西軍に与した大名たちの支配下にあり、苗木城は河尻秀長の城代・関治兵衛が守っていた 2 。
家康は、この地の元領主であり、地理と人脈に明るい友政に白羽の矢を立てた。友政は家康から鉄砲30丁と黄金を与えられ、旧領回復の命を受ける 18 。友政は同じく東軍に与した地元の諸将と連携し、関ヶ原の本戦に先立つ前哨戦、通称「東濃の戦い」を開始した。
友政は苗木周辺の農民らを味方に引き入れ、苗木城に迫った。城代の関治兵衛らは戦わずして城を明け渡し、友政は同年8月、戦闘らしい戦闘もなく無事に苗木城を奪還することに成功した 17 。その後、友政は岩村城の開城にも貢献し、東濃地方の平定に大きな役割を果たした。
この功績により、友政は関ヶ原の戦い後に家康から旧領を安堵され、1万521石の大名として苗木藩を立藩する 22 。亡命領主であった友政が、家康の戦略的意図と自らの地域的影響力を結びつけ、計算されたリスクを取ることで、一族の再興を成し遂げたのである。苗木城の奪還は、単なる個人的な勝利ではなく、徳川の天下統一事業の一翼を担う戦略的成功であり、遠山氏が近世大名として新たな時代を歩み始めるための礎となった。
第三部:城主・遠山一族の興亡
苗木城の歴史は、その城主であった遠山一族の歴史と不可分である。鎌倉時代から続く名門として美濃東部に根を張り、戦国の動乱を乗り越え、江戸時代を通じて小藩ながらも存続した遠山氏の軌跡は、日本の武家社会の一つの典型を示している。
【表2】苗木遠山氏 歴代城主・藩主一覧
代 |
氏名 |
続柄 |
在位期間 |
主要な出来事・備考 |
初代 |
遠山 友政 (ともまさ) |
友忠の三男 |
1600年 - 1619年 |
関ヶ原の戦いの功により苗木藩を立藩。初代藩主。 |
2代 |
遠山 秀友 (ひでとも) |
友政の長男 |
1620年 - 1642年 |
土地開発、家臣団編成を進め、藩政の基礎を固める。 |
3代 |
遠山 友貞 (ともさだ) |
秀友の長男 |
1642年 - 1675年 |
|
4代 |
遠山 友春 (ともはる) |
友貞の長男 |
1675年 - 1712年 |
|
5代 |
遠山 友由 (ともよし) |
友春の長男 |
1712年 - 1732年 |
大坂加番などの出費で財政が悪化。享保17年(1732年)に500石を幕府に返上。 |
6代 |
遠山 友将 (ともまさ) |
友由の長男 |
1732年 - 1742年 |
7歳で家督を継ぐが、17歳で病死。 |
7代 |
遠山 友央 (ともなか) |
友将の叔父 |
1742年 - 1753年 |
友将の養子となり家督相続。お家断絶の危機を回避。 |
8代 |
遠山 友清 (ともきよ) |
友央の長男 |
1753年 - 1781年 |
|
9代 |
遠山 友随 (ともより) |
友清の長男 |
1781年 - 1792年 |
|
10代 |
遠山 友福 (ともよし) |
友随の長男 |
1792年 - 1838年 |
|
11代 |
遠山 友寿 (ともひさ) |
友福の長男 |
1838年 - 1842年 |
|
12代 |
遠山 友禄 (ともよし) |
友寿の長男 |
1842年 - 1871年 |
最後の藩主。若年寄などを務めるが、藩財政は破綻。版籍奉還後、子爵となる。 |
3.1 鎌倉以来の名門:遠山氏の系譜と「遠山七頭」
遠山氏の祖は、鎌倉幕府の創設に貢献した源頼朝の重臣、加藤景廉に遡る 5 。景廉が恩賞として得た美濃国遠山荘が、一族の名の由来となった 5 。以来、遠山氏は美濃東部に深く根を下ろし、鎌倉・室町時代を通じて地域の有力者として勢力を保持した。
戦国時代になると、一族は宗家の岩村遠山氏を中心に、苗木、明知、飯羽間、串原、明照、安木(阿木)などの分家に分かれ、これらは「遠山七頭(とおやましちとう)」と総称される国人領主連合を形成した 20 。彼らは一族内で結束し、美濃守護の土岐氏と並ぶ地域の一大勢力として、東美濃一帯を支配した。苗木遠山氏は、この七頭の中でも木曽川の水運を抑える要地にあり、特に重要な位置を占めていた 20 。
3.2 戦国期を率いた城主たち
戦国時代の苗木城は、激動の情勢を乗り切るべく奮闘した個性的な城主たちによって率いられた。
- 遠山直廉(なおかど) : 遠山正廉とも。岩村遠山氏から養子に入り、苗木城主となる 20 。織田信長の妹を娶り、その娘を武田勝頼に嫁がせるなど、前述の複雑な婚姻外交の中心人物であった。しかし、武田氏の要請で飛騨へ出兵した際に負った傷が元で元亀元年(1570年)に死去し、彼の死は地域のパワーバランスを大きく揺るがした 2 。
- 遠山友勝(ともかつ) : 直廉の死後、織田信長の命令によって飯羽間遠山氏から苗木遠山氏の家督を継いだ 2 。これは、当時の遠山氏に対する信長の影響力の強さを物語っている。
- 遠山友忠(ともただ)・友政(ともまさ)親子 : 友勝の後を継いだ友忠と、その三男である友政は、苗木遠山氏の歴史において最も劇的な運命を辿った親子である。本能寺の変後の混乱期に森長可に城を追われ、徳川家康の下で雌伏の時を過ごした 2 。そして関ヶ原の戦いにおいて、友政が旧領を奪還し、一族の再興を成し遂げた。特に友政は、戦国武将としての時代を終え、近世大名として新たな時代を切り開いた、苗木遠山氏中興の祖と言える人物である 22 。
3.3 江戸時代の藩主たち:小藩存続の軌跡
関ヶ原の戦いの功績により、遠山友政は苗木藩初代藩主となり、以後、明治維新に至るまでの約270年間、12代にわたって遠山氏が一系でこの地を治め続けた 4 。これほど小規模な藩が、一度も転封(領地替え)や改易(取り潰し)されることなく存続したのは、全国的にも稀な例である 3 。
しかし、その道のりは平坦ではなかった。藩の内部では、深刻な対立も発生した。寛文4年(1664年)、家老職にあった遠山太左衛門と遠山勘兵衛という、藩主一門の重臣同士が斬り合いの末に共に命を落とす事件が起きた。この結果、両家は断絶となり、以後、苗木藩内で「遠山」を名乗ることが許されるのは藩主のみと定められ、藩主の権力集中が進んだ 22 。
また、藩主の跡継ぎをめぐる危機も経験した。18世紀、6代藩主の友将が嗣子のないまま17歳で病死した際、通常であれば家名は断絶するところであった。しかし、友将の死の直前に、10歳年上の叔父・友央が養子として認められたことで、かろうじてお家断絶の危機を回避した 28 。
これらの危機を乗り越え、遠山氏が270年もの間、苗木を治め続けることができたのは、巧みな藩政運営と、小藩ゆえに幕府の政治の中枢から距離を置き、目立たぬように振る舞った結果かもしれない。その歴史は、安定したかに見えた江戸時代においても、武家社会が常に存亡の危機と隣り合わせであったことを示している。それは華々しい成功物語ではなく、幾多の困難に耐え抜いた粘り強い存続の記録なのである。
第四部:近世苗木藩の治世と苦難
江戸時代、苗木藩として新たなスタートを切った遠山氏であったが、その治世は常に財政的な苦難と隣り合わせであった。戦国の動乱を生き抜いた武勇の誉れとは裏腹に、平和な時代における小藩経営の厳しさが、苗木藩の歴史を色濃く規定することになる。
4.1 一万石大名の現実:表高と実収
苗木藩の石高は、立藩当初1万521石であった 24 。石高が1万石以上の領主を「大名」と定義する江戸幕府の制度において、苗木藩はまさに大名としての最低ラインに位置していた。しかし、この「城持ち大名」という格式は、藩の財政に重くのしかかった。
苗木藩は、その石高の小ささにもかかわらず、数十万石の大藩と同様に、藩主が江戸と領地を一年おきに往復する「参勤交代」や、幕府が命じる公共事業(手伝普請)、軍役といった義務を負わされた 22 。これらの出費は、小藩の財政規模では到底賄いきれるものではなかった。
さらに深刻だったのは、藩の領地が山間地にあり、米の生産に不向きであったことである 5 。藩の財政の基礎となる石高は、あくまで土地の潜在的な生産力を示す公称値(表高)であり、実際の年貢収入(実収)はそれを大きく下回っていたと考えられる。家臣への俸禄も、表高100石の武士に対して実際の支給米は30石(免三ツ)という低い水準であったが 30 、それでも藩の財政は常に逼迫していた。
この構造的な問題、すなわち「大名」という格式に伴う過大な支出と、山がちな領地から得られる僅かな収入という根本的な矛盾が、苗木藩を二百数十年間にわたる慢性的な財政危機へと追い込んでいった。関ヶ原で勝ち取った大名という地位は、経済的な視点から見れば、藩の存続を脅かすほどの重荷だったのである。
4.2 藩財政の破綻と藩札
藩政の初期から始まった財政窮乏は、時代が下るにつれて深刻さを増していった。新田開発によって4,000石以上の増収を図る努力もなされたが、5代藩主・友由の時代の大坂加番(大坂城の警備役)による出費などが嵩み、財政状況は改善しなかった 22 。歴代藩主は厳しい倹約令を発し、天保年間には家臣への給米を全額借り上げるという非常手段にまで訴えた 22 。
こうした状況を打開するため、藩は独自の紙幣である「藩札」の発行に踏み切る。表向きは幕府発行の貨幣不足を補うためとされたが、発行された藩札に高額なものが多かったことから、その真の目的が藩の財政赤字を補填するための資金調達であったことは明らかである 31 。文政11年(1828年)には、1万4,500両もの藩札が発行された記録が残っている 31 。
幕末期、最後の藩主となった遠山友禄が幕府の若年寄に就任し、大坂警備や第二次長州征伐への参加を命じられると、藩の財政は完全な破綻を迎える 22 。明治維新直前の藩の借金は14万両に達し 22 、明治4年(1871年)の時点では元金だけで20万両を超えていたという 32 。これは、1万石の小藩にとっては天文学的な数字であった。
4.3 「赤壁城」伝説の真相
苗木城は別名「赤壁城(あかかべじょう)」と呼ばれる 33 。その由来として、次のような伝説が語り継がれている。城の壁に白い漆喰を塗っても、木曽川に棲む竜が白い色を嫌い、嵐を起こして一夜のうちに剥がしてしまい、下地の赤土が剥き出しになってしまう、というものである 33 。
しかし、この神秘的な伝説の裏には、極めて現実的な理由が隠されていた。それは、苗木藩の深刻な財政難である。藩には、城壁全体に高価な漆喰を塗る経済的余裕がなかったのである 33 。幕末期において、1万石という最低限の石高で城を維持していた大名は苗木藩のみであり 2 、その財政的特異性が城の外観にまで影響を及ぼしていた。
「赤壁城」の伝説は、厳しい経済的現実を、竜という超自然的な存在の仕業として物語化し、ある種の誇りへと昇華させようとした人々の心情の表れと解釈できる。武士の権威の象徴であるべき城が、貧しさゆえに未完成な姿を晒しているという事実を、幻想的な物語で覆い隠したのである。伝説と史実は、武士の理想と小藩の厳しい現実との間の埋めがたい溝を象徴する、表裏一体の関係にあると言えよう。
4.4 城下町の様相
苗木城の北麓には城下町が形成された。18世紀の絵図によれば、当時の町は約168戸の家々で構成されていた 35 。上町、新町、下町といった町名が記録されており、城を中心に町が発展していった様子が窺える 2 。
大規模な城下町とは異なり、武家屋敷と町人地が明確に分離されておらず、武士の住居は城の周辺に点在していた 2 。これは、藩の規模が小さく、家臣団を強制的に城下に集住させるほどの力がなかったことを示唆している。芝居見物が禁止されるなど、町における武士の行動には厳しい制約が課せられていた記録も残っており、小規模ながらも厳格な身分秩序が維持されていたことがわかる 2 。
終章:史跡としての継承と現代的価値
かつて遠山氏の栄枯盛衰の舞台となった苗木城は、時代の変遷とともにその役割を大きく変え、今日では国の史跡として、また地域の文化遺産として新たな生命を吹き込まれている。その軌跡は、一つの城が持つ歴史的価値が、いかにして現代に継承され、新たな意味を見出していくかを示す好例である。
5.1 明治維新と廃城
慶応4年(1868年)、大政奉還とそれに続く明治維新の到来は、苗木藩と苗木城の運命を決定づけた。明治2年(1869年)の版籍奉還により、藩主・遠山友禄は藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県によって苗木藩は消滅、短期間の苗木県を経て岐阜県に編入された 2 。
遠山氏270年の治世の終わりと共に、苗木城もその軍事的・政治的役割を終えた。そして、藩が抱えていた莫大な借金の返済のため、城は解体され、その建材や武具に至るまで、価値のあるものはすべて競売にかけられた 5 。遠山氏の権威の象徴であった城郭そのものが、その権威を維持するために生じた負債を清算するために売り払われるという皮肉な結末は、封建時代から近代国家へと移行する時代の大きな転換を象徴する出来事であった。城を失った遠山家は、華族令によって子爵の位を授けられ、東京へと移住した 2 。
5.2 史跡指定と保存整備
建物が失われ、石垣だけが残された苗木城跡であったが、その歴史的・建築学的な価値が忘れ去られることはなかった。特に、自然の巨岩と一体化した石垣群や、他に類を見ない懸造の天守台跡は、日本の城郭史上、極めて貴重な遺構と評価された。
その結果、昭和56年(1981年)、苗木城跡は国の史跡に指定され、法的な保護の下で後世に伝えられることとなった 2 。さらに平成29年(2017年)には、日本城郭協会によって「続日本100名城」に選定され、その全国的な知名度と評価は一層高まった 2 。現在では、史跡の保存活用計画に基づき、発掘調査や石垣の維持管理など、継続的な保存整備事業が進められている 36 。
5.3 文化観光資源としての現代的価値
今日の苗木城跡は、単なる歴史遺産にとどまらず、地域を代表する文化観光資源として重要な役割を担っている。
城山の麓には「中津川市苗木遠山史料館」が設置され、遠山氏ゆかりの武具や古文書など、苗木領の歴史を伝える貴重な資料が保存・公開されている 38 。館内には、城の唯一の現存建築遺構である風吹門の扉と柱が展示されているほか、在りし日の城の姿を立体的に理解できる精巧な復元模型があり、城跡を訪れる前の予備知識を得る上で不可欠な施設となっている 41 。
また、地域住民の活動も活発である。ボランティアガイドの会が組織され、予約をすれば専門的な解説を聞きながら城跡を巡ることができる 4 。毎年開催される「苗木城まつり」では、武者行列や地元の特産品を販売するマルシェが開かれ、多くの観光客で賑わう 44 。これらの活動は、苗木城が静的な史跡ではなく、地域コミュニティのアイデンティティと経済を支える、生きた文化遺産であることを示している。
かつては戦いのための砦であり、権力の象徴であった苗木城は、今や歴史を学び、雄大な自然景観を楽しみ、地域の文化に触れるための開かれた場所へと変貌を遂げた。その価値はもはや石高や戦略的重要性で測られるものではなく、日本の歴史の独創性、地域の風土、そして人々の存続への意志を現代に伝え、未来へと継承していく力そのものにある。天空の要塞は、時代を超えて新たな役割を担い、静かにその存在意義を語り続けている。
引用文献
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- 岐阜のマチュピチュ・苗木城跡ウォーキングと中津川宿、馬籠宿へ行く【1泊2日モデルコース】 https://www.toretabi.jp/zipangclub/page/plan_shun2310_tokai.html
- 苗木城ボランティアガイド案内 - 中津川市 https://www.city.nakatsugawa.lg.jp/museum/t/naegijo_ruins/guide.html
- 令和6度『苗木城まつり』開催します | 岐阜県中津川市観光局webサイト https://nakatsugawa-kankou.com/topics/%E4%BB%A4%E5%92%8C%EF%BC%96%E5%BA%A6%E3%80%8E%E8%8B%97%E6%9C%A8%E5%9F%8E%E3%81%BE%E3%81%A4%E3%82%8A%E3%80%8F%E9%96%8B%E5%82%AC%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%99/
- イベントのご案内 - こんにちは!苗木公民館です https://naegimachi.jimdofree.com/%E3%82%A4%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%88/
- 【苗木地区】5/26苗木城まつりが開催されます! - 中津川市定住情報ポータルサイト「中津川に住もう!」 https://www.nakatugawa.com/blog/19367.html