最終更新日 2025-08-22

蒲原城

蒲原城は駿河の要衝に位置し、今川・北条・武田の三大勢力間で争奪された「境目の城」。武田信玄の策略により北条氏信が討死し落城。戦国終焉と共に廃城となるも、その歴史は東国史の縮図として今に伝わる。

駿河の攻防を映す「境目の城」― 蒲原城の総合的研究

序章:駿河の要衝、蒲原城の戦略的価値

戦国時代の日本列島において、一国の、あるいは一地域の命運を左右する戦略的要衝は数多く存在する。その中でも、駿河国(現在の静岡県中部)に位置した蒲原城は、戦国東国史の激動を最も色濃く映し出した城郭の一つと言えるだろう。本報告書は、この蒲原城について、その築城から廃城に至るまでの全貌を、文献史学、考古学、そして城郭構造論の観点から多角的に解明することを目的とする。単に城の変遷を追うだけでなく、今川・北条・武田という三大勢力の興亡の中で、この城が果たした戦略的役割とその変遷を明らかにすることに主眼を置く。

蒲原城が位置する駿河国庵原郡蒲原は、日本の大動脈である東海道が通過し、富士川が駿河湾に注ぐ交通の結節点である 1 。南に駿河湾を臨み海上交通を監視し、北方は甲斐国(山梨県)へと通じる富士川流域を睨むことができるこの地は、地政学的に極めて重要であった 2 。この地理的条件ゆえに、蒲原城は常に大国間の勢力争いの最前線、すなわち「境目の城」としての宿命を背負うこととなった 3 。その歴史は、今川氏対北条氏、そして北条氏対武田氏という、戦国東国史の主要な対立構造の転換点を克明に記録している。

蒲原城の価値は固定的ではなかった。当初、駿河を支配する今川氏にとっては、富士川の東、いわゆる「河東地域」を巡って争う相模国(神奈川県)の北条氏に対する最前線基地であった。しかし、甲相駿三国同盟の崩壊後、武田信玄が駿河に侵攻すると、今度は今川氏を救援する北条氏がこの城に入り、甲斐の武田氏を食い止めるための拠点へと、その戦略的役割を180度転換させる。このように、蒲原城の歴史は、東国の外交関係の変遷そのものであり、城の主と敵が入れ替わる中で、その構造や役割もまた変化していったのである。

第一章:築城と今川氏の時代 ― 富士川を巡る攻防の拠点

築城年代を巡る諸説

蒲原城の正確な築城年代を記した一次史料は乏しく、その起源については複数の説が存在する。一つは、南北朝時代(1331年~1392年)に、今川氏の初代当主である今川範国が足利尊氏から駿河守護に任じられた際、東方の勢力に対する押さえとして築いたとする説である 6 。この説を補強するように、城跡の発掘調査では南北朝中期の瓶子(へいし)片が出土しており、この時代に何らかの軍事施設、あるいはそれに準ずる活動があった可能性を示唆している 8

もう一つは、より時代が下った戦国時代の天文年間(1532年~1555年)に、今川氏が北条氏との抗争の激化に伴い、本格的に築城あるいは大改修を行ったとする説である 2 。この時期、今川義元と北条氏綱・氏康父子の間で、富士川以東の「河東地域」の領有を巡る大規模な抗争、いわゆる「河東一乱」が勃発しており、国境の城である蒲原城の軍事的価値が飛躍的に高まったことは想像に難くない。

これらの説は必ずしも矛盾するものではなく、南北朝時代に小規模な砦として築かれたものが、戦国時代の緊迫した情勢下で、今川氏によって大規模な山城へと改修・拡張されたと考えるのが最も合理的であろう。

「河東一乱」と今川氏の拠点

蒲原城が歴史の表舞台で重要な役割を果たすのは、天文6年(1537年)に始まる「河東一乱」においてである。この抗争で、蒲原城は富士川を防衛線とする今川氏にとって、対北条氏の最重要拠点として機能した 10 。今川氏の重臣である飯尾豊前守乗連や二俣政長といった武将が城番として在城した記録が残っており、今川氏がこの城を極めて重視していたことがわかる 2

当時の緊迫した状況は、天文13年(1544年)にこの地を訪れた連歌師・宗牧の紀行文からも垣間見える。それによれば、蒲原城の守備には、駿河の国衆だけでなく、遠く遠江国(静岡県西部)の井伊氏や堀越氏といった諸氏までが動員されていたという 11 。通常、国境の城の守備(在番)は近隣の国衆が担うのが通例であるが、あえて遠方の国衆まで動員した背景には、今川氏の高度な政治的意図があったと考えられる。

すなわち、今川氏は「河東」という戦略的要地の防衛を、駿遠両国にまたがる今川領国全体の責務と位置づけたのである。そして、各国の国衆に蒲原城での在番勤務を命じることで、彼らの忠誠心を試すと同時に、今川家を中心とした強固な軍事体制に組み込むことを目指した。国衆にとって城番勤務は大きな負担であったが、同時にそれは今川体制の一員であることを示す重要な機会でもあった。このように、今川氏時代の蒲原城は、単なる軍事拠点に留まらず、領国支配体制を維持・強化するための政治的装置としても機能していたのである。

第二章:城郭の構造と縄張り ― 天然の要害を活かした「峰式の山城」

全体構造と曲輪配置

蒲原城は、標高約137mの城山に築かれた、戦国期によく見られる「峰式(みねしき)の山城」である 9 。これは、山の尾根筋を巧みに利用し、山頂に主郭(本曲輪)を置き、そこから伸びる尾根に沿って階段状に複数の曲輪(くるわ)を配置する構造を指す 12 。城域は東西・南北にそれぞれ約550mに及んだと推定され、その規模は決して小さくない 15

城の中枢は、山頂に位置する 本曲輪(ほんくるわ) 、別名「南曲輪」である。東西に長く、現在は城山八幡宮が祀られ、「蒲原城跡」の石碑が建てられている 1 。発掘調査では、ここから大量のかわらけ(素焼きの土器)が出土しており、籠城中の将兵による何らかの儀式や饗宴が行われた可能性が指摘されている 11

本曲輪の北側には、城内でも特に重要な防御区画である 善福寺曲輪(ぜんぷくじくるわ) 、別名「北曲輪」が位置する。ここには現在、物見櫓風の展望台や、敵の突進を防ぐための障害物である逆茂木(さかもぎ)が復元されている 1 。曲輪の西から南にかけては土塁が残り、急峻な切岸(きりぎし)の裾には、補強のための腰巻石垣が確認できる 16

本曲輪から南西に伸びる尾根筋には、 二ノ曲輪 三ノ曲輪 と呼ばれる平坦地が連なる 1 。そして、城の正面玄関にあたる

大手曲輪 は、城の南側山麓に存在したと推定されるが、昭和期に行われた東名高速道路の建設によって、その大部分が破壊され、往時の姿を偲ぶことは困難となっている 1

防御施設と考古学的知見

蒲原城の防御構造で最も特筆すべきは、尾根筋を人工的に分断する二つの巨大な堀である。一つは、本曲輪と善福寺曲輪の間に穿たれた**大堀切(おおほりきり)である。これは岩盤を直接削って造られたもので、尾根伝いに進む敵の行く手を阻む絶大な効果を発揮した 11 。もう一つは、善福寺曲輪のさらに北東に位置する

大空堀(おおかうぼり)**で、自然の谷地形をさらに深く掘り下げて改変したものである 11 。これら二つの大規模な堀によって、城の中枢部は鉄壁の守りを固めていた。

城内各所には、戦国期らしい野趣あふれる野面積(のづらづみ)の石垣が点在し、土塁と共に防御力を高めている 6 。しかし、複数回にわたる発掘調査の結果、現在確認できる土塁や帯曲輪の一部は、戦国時代以降の農地化や神社建立に伴う後世の造成であることが判明している 11

この事実は、蒲原城跡を理解する上で極めて重要な視点を提供する。すなわち、我々が今日目にしている城跡の姿は、純粋な戦国時代の遺構ではなく、今川・北条・武田という各時代の支配者による改修の痕跡の上に、近世以降の平和な時代の土地利用、そして近代のインフラ開発という、異なる時代の営みが幾重にも重なった「歴史の地層」なのである。したがって、安易に「これは北条氏の石垣」「あれは武田氏の改修」と断定することはできず、一つ一つの遺構を考古学的な視点から慎重に分析する必要がある。これは、蒲原城に限らず、多くの城跡が抱える共通の課題でもある。


表1:蒲原城の主要な曲輪と遺構の概要

曲輪名

位置

主な機能(推定)

確認されている遺構・特徴

本曲輪(南曲輪)

城山山頂

城の中枢、司令部、祭祀空間

城山八幡宮、城跡碑、土塁、発掘調査で多量のかわらけ出土 7

善福寺曲輪(北曲輪)

本曲輪の北側

主郭の北面防御、兵の駐屯地

復元物見櫓・逆茂木、土塁、腰巻石垣、発掘調査で火縄銃の玉など出土 1

大堀切

本曲輪と善福寺曲輪の間

尾根筋の分断、敵の侵攻阻止

岩盤を削った大規模な堀切、北条氏時代の改修との説あり 6

大空堀

善福寺曲輪の北東

外部からの侵入路の遮断

自然の谷を改変した大規模な空堀、発掘調査で犬走り状の平坦面を確認 11

二ノ曲輪・三ノ曲輪

本曲輪南西の尾根筋

主郭に至る経路上の中間防御拠点

平坦地、発掘調査で柱穴・土塁・石列遺構などを検出(後世の改変あり) 1

大手曲輪

城の南側(大手口)

城の正面玄関、麓の宿場との連携

東名高速道路建設により大部分が消失 1


第三章:永禄十二年の攻防戦 ― 武田信玄による電撃的攻略

第一節:背景 ― 甲相駿三国同盟の崩壊と駿河侵攻

永禄11年(1568年)、武田信玄は長年の同盟関係にあった今川氏との甲相駿三国同盟を一方的に破棄し、徳川家康と密約を結んで駿河への電撃的な侵攻を開始した 11 。世に言う「駿州錯乱」である。今川氏真は本拠の駿府を追われ、遠江の掛川城へと逃亡した。

これに対し、今川氏と同盟関係にあった相模の北条氏康・氏政父子は、信玄の盟約違反を非難し、今川氏救援を名目に駿河へ出兵する 6 。北条軍は蒲原城に入ると、ここを拠点として武田軍の補給路を遮断。これにより、信玄は駿府の占領を維持できず、一時甲斐への撤退を余儀なくされた 1

戦線が膠着する中、信玄は翌永禄12年(1569年)秋、大胆な戦略に打って出る。駿河の蒲原城に固執するのではなく、大軍を率いて北条氏の本拠地・小田原城を直接攻撃したのである 15 。小田原城は難攻不落であり、信玄も攻略は早々に諦めたが、真の狙いは別にあった。甲斐へ引き揚げる途上の三増峠(みませとうげ)で、追撃してきた北条軍主力を待ち伏せ、これに壊滅的な打撃を与えたのである 4

この一連の動きは、蒲原城攻略のための壮大な陽動作戦であった。信玄は、駿河という「点」の戦いを、関東全域を巻き込む「面」の戦略で解決しようとした。敵の本拠地を直接叩くことで、駿河に展開していた北条軍を関東へ引き戻させ、三増峠の戦いでその戦力を削いだ。その結果、蒲原城は友軍からの援護を期待できない、完全に孤立した存在となったのである 15 。蒲原城落城の真の要因は、城そのものの攻防以前に、この信玄の広域的なグランドストラテジーの成功にあったと言える。

第二節:城将・北条氏信 ― 北条幻庵の子、その悲壮なる覚悟

孤立した蒲原城の守将を任されていたのは、北条新三郎氏信(ほうじょう うじのぶ)であった 4 。彼は、北条早雲の子にして、北条家五代にわたって一門の長老として重きをなした北条幻庵(げんあん)の実子である 3 。武蔵国の河越城代などを歴任した経験豊富な武将であり、その派遣は、北条氏がこの戦いを単なる援軍ではなく、自国の存亡に関わる重大事と捉えていたことの証左であった。

城内には、氏信の弟である長順(ちょうじゅん)や、伊豆水軍を率いた清水康英の嫡子・新七郎、そして笠原氏、狩野介といった今川・北条の精鋭たちが、約1千の兵と共に籠城していた 6 。幻庵という北条家の「生き字引」とも言うべき重鎮が、二人の息子を最前線に送り込んだという事実そのものが、この戦いに賭ける北条家の並々ならぬ覚悟を物語っている。氏信兄弟の悲劇は、単なる一武将の戦死に留まらず、北条家の威信と戦略が、武田信玄のそれの前に砕け散った象徴的な出来事となるのである。

第三節:攻防の展開 ― 信玄の策略と勝頼の武勇

三増峠の戦いから約2ヶ月後の永禄12年12月5日、信玄は満を持して蒲原城への総攻撃を開始した。その戦術は、力攻めではなく、周到に計算された策略に満ちていた。まず、夜陰に乗じて城下の蒲原宿に放火し、城兵の動揺を誘った 25

翌6日未明、武田軍は城の南、由比・倉沢方面に布陣するが、本陣には小山田信茂(おやまだ のぶしげ)の部隊のみを残し、あたかも主力が薩埵(さった)峠を越えて駿府方面へ向かうかのように見せかけた 25 。この偽装工作に、城将・氏信はまんまと嵌ってしまう。武田軍主力が移動し、手薄になった本陣を叩く好機と判断した氏信は、主力を率いて城から出撃した 13

しかし、それこそが信玄の狙いであった。氏信ら守備の主力が城を離れた瞬間、かねてより城の背後にある道場山に伏せていた武田勝頼(たけだ かつより)・信豊(のぶとよ)の精鋭部隊が、手薄になった搦手(からめて)口から一斉に城内へ突入した 13 。罠に気づき、慌てて城へ引き返そうとした氏信の部隊は、追撃してきた武田勢と城門で鉢合わせとなり、壮絶な乱戦の末、城内へとなだれ込まれた 25 。もはや組織的な抵抗は不可能であり、激戦の末に氏信・長順兄弟をはじめ、籠城していた将兵はことごとく討死。東海一の堅城と謳われた蒲原城は、わずか一日で陥落した 1

この戦いにおける勝頼の活躍は、軍記物『甲陽軍鑑』に印象的に記されている。信玄は、勝頼と信豊の働きを「いつもの事だが、無謀にも城に攻め上ったが、思いがけず攻略することができた。蒲原城は東海一の堅城で常人には落とせない」と評したという 27 。その猪突猛進ぶりを「無謀」と戒めつつも、結果として大功を挙げたことを称賛する、父としての複雑な心情がうかがえる。

この蒲原城での鮮烈な勝利は、若き勝頼の武将としてのキャリアにおいて、決定的な成功体験となった可能性がある。本来、武田家の家督を継ぐ立場ではなかった勝頼にとって、自らの武勇を内外に示すことは極めて重要であった 29 。父・信玄の巧妙な策略があったとはいえ、「東海一の堅城」を自らの武勇で陥落させたという経験は、彼の自信を深めさせ、後の戦いにおける戦術的判断に大きな影響を与えたかもしれない。慎重論を退けてでも積極的な攻勢を好む、彼の「強すぎる大将」 29 としての気質は、この蒲原城での大勝利によって形成された側面があるのではないか。そう考えると、この勝利が、皮肉にも後の長篠の戦いでの悲劇、そして武田家滅亡の遠因の一つとなったと解釈することも可能である。

第四章:武田氏支配下の蒲原城 ― 対北条氏の最前線拠点へ

落城後の再整備と武田流築城術

蒲原城を攻略した信玄は、自ら城に入り、その検分を行った後、対北条氏の最前線拠点として改修を命じたとされる 15 。これにより、蒲原城は今川氏の城から武田氏の城へと生まれ変わり、武田氏による駿河支配を磐石にするための東の要となった 1

武田氏が改修した城郭には、虎口(こぐち、城の出入り口)の前に設けられた半月状の防御施設である「丸馬出(まるうまだし)」や、その周囲を囲む「三日月堀(みかづきぼり)」といった、いわゆる「武田流築城術」の顕著な特徴が見られることが多い 32 。しかし、現在の蒲原城跡においては、これらの典型的な遺構は明確には確認されておらず、武田氏による改修が具体的にどのようなものであったかは、今後の考古学的調査を待たねばならない 5

「蒲原衆」の編成と在地支配

信玄の占領地経営の巧みさは、物理的な城の改修以上に、人的な支配体制の構築にこそ見られる。蒲原城の支配においても、信玄は甲斐から譜代の家臣を城代として派遣するだけでなく、蒲原周辺の土豪や地侍を巧みに組織化し、「蒲原衆(かんばらしゅう)」と呼ばれる一つの軍事ユニットとして編成した 10 。そして、彼らに城の守備や地域の支配を委ねたのである。

これは、信玄が信濃や上野といった他の占領地でも用いた「先方衆(さきかたしゅう)」の編成と同じ手法である 35 。武力で制圧するだけでなく、現地の勢力を味方に取り込み、彼らの地域社会への影響力を利用して支配を安定させるという、高度な政治戦略であった。大規模な土木工事で城を造り変えるよりも、在地領主の心を掴み、彼らを武田軍団の一員として機能させることを優先したのである。この点に、軍事力だけでなく統治能力にも長けた信玄ならではの戦略眼がうかがえる。蒲原城は、武田氏の支配下で、山県昌景(やまがた まさかげ)が城主となった江尻城などと連携し、北条氏の反攻に備える駿河東部の防衛ネットワークの重要な一翼を担った 10

第五章:終焉と廃城 ― 徳川の世へ

武田氏の滅亡と徳川氏による支配

武田氏の支配下で対北条氏の最前線として機能した蒲原城であったが、その役割も長くは続かなかった。天正10年(1582年)、織田信長と徳川家康による連合軍が甲斐へ侵攻(甲州征伐)。これにより、信玄亡き後の武田氏はあっけなく滅亡する。この過程で、蒲原城も徳川軍の攻撃を受けて落城し、徳川家康の支配下に入った 1

その後、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が天下統一の総仕上げとして北条氏を攻めた「小田原征伐」の際には、徳川軍がこの城に一時的に着陣したという記録が残っている 26 。しかし、この戦いで北条氏が滅亡し、家康が関東へ移封されると、もはや駿河国に大規模な軍事的緊張は存在しなくなり、蒲原城はその戦略的価値を完全に失った。

城が廃された時期については、武田氏が滅亡した天正10年(1582年)とする説 9 と、小田原征伐後の天正18年(1590年)頃とする説 6 があるが、いずれにせよ、戦国時代の終焉と共にその歴史的使命を終えたのである。

蒲原御殿の成立と時代の転換

蒲原城が廃城となり、歴史の舞台から静かに姿を消した後、その麓の蒲原宿には、徳川家康によって「蒲原御殿」が造営された 38 。これは、将軍が上洛する際などの宿舎として利用された施設であり、戦乱の時代が終わり、泰平の世が訪れたことを象徴する出来事であった。

山上の軍事要塞である「城」が放棄され、平地の街道沿いに政治・経済の拠点である「御殿」と「宿場町」が発展する。この対比は、蒲原という土地が経験した時代の大きなうねりを物語っている。すなわち、軍事的な緊張が全てを支配した「城の時代」が終わりを告げ、東海道の物流と交通が中心となる「町の時代」が到来したのである。丘の上の要塞は役目を終えて静かに自然に還り、人々の生活と社会の中心は、麓の街道沿いへと移っていった。蒲原城の廃城と蒲原御殿の成立は、単なる施設の置き換えではなく、戦国乱世から近世という新たな社会構造への歴史的転換を象徴する出来事であったと言えよう。

終章:史跡としての蒲原城 ― 現代に遺る記憶

史跡としての現状と遺物が語る歴史

現在、蒲原城跡は市民の憩いの場である公園として整備されており、往時の姿を偲ばせる曲輪、堀切、土塁、石垣といった遺構を間近に観察することができる 1 。善福寺曲輪には、かつての蒲原町時代に行われた発掘調査の成果に基づき、物見櫓や逆茂木などが復元され、戦国山城の雰囲気を今に伝えている 8

城跡から出土した遺物は、この城が重ねてきた長い歴史の雄弁な証人である。南北朝時代の瓶子片は城の起源の古さを物語り、大量のかわらけは籠城する将兵たちの儀礼や生活の一端を垣間見せる 8 。そして、永禄12年の攻防戦で使われたであろう火縄銃の玉は、ここで繰り広げられた激戦の生々しい記憶を呼び覚ます 8 。これらの遺物は、文字史料だけでは知り得ない、城に生きた人々の息遣いを我々に伝えてくれる貴重な資料である。

人々の記憶の継承と歴史的意義

本曲輪跡には、現在、城山八幡宮が静かに鎮座している 7 。その傍らには、永禄12年の戦いで悲劇的な最期を遂げた城将・北条氏信を偲ぶ石碑が建てられている 7 。中央に刻まれた「善福寺殿衝天良月大居士」という戒名は、落城の将への地域の人々の追悼の念が、時代を超えて受け継がれてきたことの証である。春には桜の名所として親しまれ、多くの人々が訪れるこの場所は、単なる史跡ではなく、地域の歴史と人々の記憶が息づく生きた空間なのである 7

総括すれば、蒲原城は、特定の時代の、特定の勢力だけの城ではなかった。南北朝の動乱にその起源の可能性を持ち、戦国時代には今川、北条、武田、そして徳川という時代を代表する大名たちが、それぞれの戦略の中にこの城を組み込み、時に血で血を洗う壮絶な争奪戦を繰り広げた。その複雑な縄張り、そして電撃的な落城の歴史は、戦国時代の「境目の城」が持つ地政学的な重要性と、そこで生きる人々の過酷な運命を、現代に力強く伝えている。蒲原城は、まさに「戦国東国史の縮図」とも言うべき、類稀な歴史遺産なのである。その価値を正しく理解し、後世に語り継いでいくことは、現代に生きる我々に課せられた重要な責務と言えるだろう。

引用文献

  1. 蒲原城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/1509
  2. 蒲原城 - 埋もれた古城 表紙 http://umoretakojo.jp/Shiro/TokaiKoshin/Shizuoka/Kanbara/index.htm
  3. 駿河 蒲原城 蒲原城は海道一の嶮難の地に候 - 久太郎の戦国城めぐり http://kyubay46.blog.fc2.com/blog-entry-358.html
  4. 蒲原城攻略戦(一) - 武田勝頼激闘録(@pip-erekiban) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/1177354054888041452/episodes/1177354054890614682
  5. 蒲原城 余湖 http://yogokun.my.coocan.jp/sizuoka/kanbaramati.htm
  6. 蒲原城跡 - BIGLOBE http://www2u.biglobe.ne.jp/~ture/kanbarasizuoka.htm
  7. 蒲原城 https://shizuoka.veritas.jp/imatabi/12kanbara.html
  8. 蒲原城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/chubu/kanbara.j/kanbara.j.html
  9. 蒲原城址|【公式】静岡のおすすめ観光スポット/駿府静岡市~最高の体験と感動を https://www.visit-shizuoka.com/spots/detail.php?kanko=325
  10. 駿河蒲原城 http://oshiro-tabi-nikki.com/kanbara.htm
  11. 蒲原城 - 日本のお城 - FC2 http://shizuokacastle.web.fc2.com/shizuoka_castle/kanbara.html
  12. 蒲原城址 | 静岡 おすすめの人気観光・お出かけスポット - Yahoo!トラベル https://travel.yahoo.co.jp/kanko/spot-00033783/
  13. 5.難攻不落の蒲原城の落城|税理士法人森田いそべ会計。静岡市清水区の会計事務所。相続、公認会計士磯部和明 http://www.isobekaikei.jp/pages/867/
  14. 蒲原城 - - お城散歩 - FC2 https://kahoo0516.blog.fc2.com/blog-entry-841.html
  15. 蒲原城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E5%8E%9F%E5%9F%8E
  16. 駿河 蒲原城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/suruga/kanbara-jyo/
  17. 蒲原城の見所と写真・200人城主の評価(静岡県静岡市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/946/
  18. 蒲原城(1) ~ なで斬りの城 - 武蔵の五遁、あっちへこっちへ http://tutinosiro.blog83.fc2.com/blog-entry-1459.html
  19. 蒲原城 - 城郭図鑑 http://jyokakuzukan.la.coocan.jp/021shizuoka/043kanbara/kanbara.html
  20. 武田滅亡は信長を激怒させた代償? 武田信玄の外交戦略とその失敗 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2648
  21. 武田信玄 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%8E%84
  22. 三増合戦場跡 - 神奈川県ホームページ https://www.pref.kanagawa.jp/docs/u5r/cnt/f550/tabi-153.html
  23. 「三増峠の戦い(1569年)」北条方の本拠・小田原城まで進出した武田信玄。その退却戦で明暗分かれる | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/779
  24. 北条氏信 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/HoujouUjinobu.html
  25. 蒲原城の戦い - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/KanbaraJou.html
  26. 静岡の城 蒲原城 https://shiro200303.sakura.ne.jp/Kanbara-Jo.html
  27. 蒲原城 ~甲相駿の争奪戦となった境目の城~ | 城なび https://www.shiro-nav.com/castles/kanbarajou
  28. 逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第11回【武田勝頼・前編】なぜオレが?四男に転がり込んできた名門当主の座 - 城びと https://shirobito.jp/article/1507
  29. 敗者の日本史「長篠合戦と武田勝頼」①勝頼の人物評 - funny 一時 serious のち interesting http://arcadia.cocolog-nifty.com/nikko81_fsi/2014/07/post-e41b.html
  30. 「武田勝頼」天目山で最期を迎えた信玄の後継者は類いまれな能力と不運さを兼ね備えた武将であった! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/544
  31. 蒲原城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.kanbara.htm
  32. 逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第10回【武田信玄・後編】武田家の運命を変えた駿河侵攻 https://shirobito.jp/article/1483
  33. 「信玄は城を築かなかった」はウソ!武田信玄が城に仕掛けた難攻不落の工夫とは | サライ.jp https://serai.jp/hobby/176924
  34. 主に西 - 郭:当主の住まい兼政庁 (信虎が造営し、 晴信(信玄) ・勝頼が使用) - 甲府市 https://www.city.kofu.yamanashi.jp/rekishi_bunkazai/documents/takeda-ura.pdf
  35. 兵卒の戦闘意欲を鼓舞した信玄の軍制とは? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/20312
  36. 武田信玄の家臣団 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%8E%84%E3%81%AE%E5%AE%B6%E8%87%A3%E5%9B%A3
  37. 「駿河侵攻」信玄の大胆すぎる外交転換でカオスと化した外交関係。武田 vs 北条の全面戦争へ! https://sengoku-his.com/778
  38. 蒲原御殿 - 静岡市観光 https://www.visit-shizuoka.com/t/oogosho400/study/07_60.htm
  39. 家康公の史話と伝説とエピソードを訪ねて - 由比・蒲原方面 https://www.visit-shizuoka.com/t/oogosho400/study/13_19.htm