最終更新日 2025-08-18

蒲池城

筑後の名族蒲池氏の居城、蒲池城は、水利を活かした平城。龍造寺隆信との恩讐の果てに一族は滅亡するも、その血脈は現代に続く。今は石碑が往時を語る。

筑後国・蒲池城の研究 ― 名族蒲池氏の興亡と戦国時代の終焉

序章:筑後の地に佇む、忘れられた城

筑後国、現在の福岡県柳川市一帯に、かつて蒲池城(かまちじょう)と呼ばれる城が存在した。今日、その地に往時の威容を伝える石垣や天守はなく、水田と民家が広がる風景の中に、その名を示す石碑が静かに佇むのみである 1 。しかし、この失われた城の歴史を深く掘り下げることは、単に一つの城郭の沿革を追うにとどまらない。それは、平安の動乱期に生まれ、鎌倉、室町、そして戦国の世を駆け抜けた筑後屈指の名族・蒲池氏の栄光と悲劇、そして九州の勢力図を塗り替えた激しい権力闘争の縮図を解き明かすことに他ならない。

柳川一帯は、無数のクリーク(堀割)が縦横に走る低湿地帯であり、この地理的特性は古くから治水と防衛の両面で重要な意味を持っていた 3 。蒲池城と、後にその役割を引き継ぐ柳川城は、この水の利を最大限に活用した平城であり、蒲池氏の戦略の根幹をなすものであった。

本報告書は、戦国時代という時代を主軸に据え、蒲池城の黎明期から、城主であった蒲池氏の複雑な出自、筑後における勢力確立、そして「肥前の熊」と恐れられた龍造寺隆信との恩讐渦巻く関係の果てに訪れる悲劇的な滅亡、さらには城の終焉と現代にまで続く一族の血脈に至るまでを、多角的な視点から徹底的に考究するものである。忘れられた城の石碑の背後に広がる、壮大な歴史の物語がここから始まる。


蒲池城および蒲池氏 関連略年表

年代

出来事

天慶年間 (938-947)

藤原純友の乱に関連し、蒲池城が築城されたと伝わる 1

建久元年 (1190)

嵯峨源氏の源久直が筑後国三潴郡の地頭となり、蒲池氏を称したとされる 5

承久3年 (1221)

承久の乱に蒲池行房が朝廷方として参加し、敗北。一族は存亡の危機に陥る 5

南北朝時代

蒲池武久が南朝方として多々良浜の戦いで討死。その娘婿に宇都宮久憲が入り、「後蒲池」が始まる 5

文亀年間 (1501-1504)

14代当主・蒲池治久が、支城として柳川城を築城。また菩提寺として崇久寺を定める 5

天文20年 (1551)

龍造寺隆信が肥前を追われ、柳川城主・蒲池鑑盛に保護される 8

永禄年間 (1558-1569)

蒲池鑑盛が柳川城を本格的な本城として改築。蒲池城は支城となる 2

天正6年 (1578)

耳川の戦いで大友氏が大敗。大友方として出陣した蒲池鑑盛は討死にする 4

天正9年 (1581)

蒲池鎮漣が龍造寺隆信の謀略により佐嘉で謀殺される。嫡流の下蒲池氏は滅亡 1

慶長6年 (1601)頃

関ヶ原の戦いの後、筑後国の領主となった田中吉政により、蒲池城は廃城となる 1


第一章:蒲池城の黎明期 ― 築城と初期の支配者

築城の背景 ― 藤原純友の乱

蒲池城の起源は、平安時代中期にまで遡る。多くの伝承が一致して、その築城を天慶年間(938年~947年)としている 1 。この時代は、律令国家体制が揺らぎ、地方で武士が台頭し始めた過渡期にあたる。特に西日本では、承平天慶の乱の一翼を担った藤原純友が瀬戸内海を中心に朝廷に対して大規模な反乱を起こし、社会を震撼させていた 12 。蒲池城の築城は、この歴史的な大事件と密接に関連していると考えられている。純友の勢力は一時期、九州の政庁である大宰府を占領するに至り、その弟である藤原純乗の軍勢は筑後国の柳川まで進出したと記録されている 13 。蒲池城が築かれたのは、まさにこの緊迫した情勢の最中であった。

相克する築城主の伝承

興味深いことに、蒲池城の築城主については、正反対の二つの説が並立して伝えられている。

一つは、反乱軍の当事者である 藤原純友の一族 、具体的にはその弟・純乗が築いたとする説である 1 。この説に立てば、蒲池城は純友軍の侵攻拠点、あるいは占領地を確保するための前線基地として建設されたことになる。

もう一つは、純友軍を迎え撃った 朝廷側 の将、大宰権帥(だざいのごんのそち)であった橘公頼(たちばなのきみより)が築いたとする説である 1 。この場合、城の性格は全く逆転し、大宰府を防衛し、反乱軍の南下を食い止めるための拠点として築かれたことになる。

なぜ、このように築城主について180度異なる伝承が生まれたのか。これは単なる事実関係の混乱として片付けるべきではないだろう。藤原純友は朝廷に対する「反逆者」であり、歴史の敗者である。一方、橘公頼は朝廷に忠誠を尽くした「忠臣」であり、勝者である。後世、公式な歴史観が浸透する中で、城の起源を輝かしい忠臣に結びつけようとする意図が働いた可能性は否定できない。しかし、それにもかかわらず反逆者である純友一族の築城説が根強く地域に残り続けたという事実は、この地において中央の権威とは異なる、独自の勢力や記憶が存在したことを示唆している。蒲池城の歴史は、その黎明期から既に、中央の公式史観と地域に根差した記憶との間の緊張関係を内包していたのである。

いずれの説が真実であれ、築城当初の蒲池城は、後の戦国時代の城郭のような大規模なものではなく、防衛拠点としての性格が強い「砦」であったと考えられている 2 。この砦が、その後数百年にわたる蒲池氏の興亡の舞台となる礎であった。

第二章:名族・蒲池氏の興隆 ― 複雑なる出自と筑後での勢力確立

蒲池城の歴史は、その城主であった蒲池一族の歴史と不可分である。蒲池氏は鎌倉時代から戦国時代にかけて筑後国に覇を唱えた名族であるが、その出自は極めて複雑であり、複数の伝承が絡み合っている 5

出自をめぐる諸説

蒲池氏の祖先については、第一章で述べた藤原純友や橘公頼の子孫とする説のほか、嵯峨天皇を祖とする嵯峨源氏説、さらには下野国(現在の栃木県)の名族・宇都宮氏の流れを汲むとする説まで、多岐にわたる 1 。これらの多様な伝承は、後世に編纂された『蒲池物語』などの軍記物によって広まった側面が大きいが、その史料的信憑性については慎重な検討が必要とされる 5

現在、より信憑性が高いと考えられているのは、江戸時代に編纂された『蒲池家譜』に基づく系譜である 5 。それによれば、蒲池氏の起源は嵯峨源氏にあり、鎌倉時代初期の建久元年(1190年)、源久直という人物が幕府から筑後国三潴郡の地頭職に任じられ、現地の地名である「蒲池」を苗字としたことに始まるとされる 5 。これが武家としての蒲池氏の出発点であった。

「前蒲池」から「後蒲池」への転換

蒲池氏の歴史は、大きく二つの時代に区分される。源久直に始まる嵯峨源氏の系統を「前蒲池」、そして南北朝時代に宇都宮氏から養子を迎えて以降を「後蒲池」と呼ぶ 5 。この転換は、一族の存亡をかけた大きな画期であった。

「前蒲池」は、承久3年(1221年)の承久の乱において、後鳥羽上皇の側、すなわち反幕府方として参戦した蒲池行房が敗北したことで、一族滅亡の危機に瀕した 5 。この窮地を乗り越えるため、他家から婿養子を迎えることで家名を存続させたと伝えられている。

そして決定的な転換点となったのが南北朝時代である。南朝方として九州で戦っていた蒲池武久が、建武3年(1336年)の多々良浜の戦いで足利尊氏軍に敗れ、跡継ぎのないまま討死した 5 。蒲池氏は再び断絶の危機に直面するが、この時、武久の娘の婿として家督を継いだのが、同じく南朝方として九州に下向していた宇都宮氏の一族、宇都宮久憲であった 5 。久憲は蒲池氏の名跡と所領を継承し、「蒲池久憲」と名乗った。これ以降、蒲池氏は藤原氏北家を称する宇都宮氏の流れを汲む一族、すなわち「後蒲池」として、筑後の地に新たな根を下ろすことになったのである。

この複雑な出自の背景には、中小国人領主が激動の時代を生き抜くためのしたたかな生存戦略が見て取れる。鎌倉時代には幕府の権威を背景とする「嵯峨源氏」を名乗り、南北朝・室町時代には九州探題や守護大名とも繋がりを持つ名門「宇都宮氏」の血統を導入する。それは、その時々の政治状況に応じて、より権威のある出自と自らを結びつけることで、在地支配の正統性を補強し、一族の存続を図ろうとした極めて戦略的な選択であった。蒲池氏の複雑な系譜は、単一の血統による継承ではなく、婚姻や養子縁組を巧みに利用して「蒲池」という名跡と所領を守り抜いてきた、力強い歴史の証左なのである。


表1:蒲池氏の出自に関する主要な説

説の名称

系統

概要と根拠

嵯峨源氏説(前蒲池)

嵯峨源氏

『蒲池家譜』などに見られる説。鎌倉時代、源久直が地頭として入部し蒲池氏を称したとされる。現在の通説の基礎となっている 5

宇都宮氏説(後蒲池)

藤原北家宇都宮氏

南北朝時代、蒲池武久の戦死後、宇都宮久憲が婿養子として家督を継承。以降、宇都宮氏の血統となる 5

橘氏説

橘氏

蒲池城の築城主とされる橘公頼の子孫が、蒲池の領主となったとする伝承 1

藤原純友説

藤原氏

蒲池城を築いたとされる藤原純友の一族が、そのまま領主となったとする伝承 1


第三章:戦国動乱と蒲池氏 ― 大友氏の麾下から柳川城への本拠移転

室町時代を通じて筑後国人としての地位を固めた蒲池氏は、戦国時代に入ると、16代当主・蒲池鑑盛(かまち あきもり、法名:宗雪)の時代にその最盛期を迎える 4

蒲池鑑盛の時代と筑後での覇権

鑑盛の治世において、蒲池氏は筑後十五城の旗頭と称され、その勢力は12万石にも及んだと伝えられる 4 。彼は筑後の実質的な支配者でありながら、形式的には豊後国(現在の大分県)を本拠とする戦国大名・大友氏の麾下にあった。鑑盛は大友宗麟に忠誠を尽くし、中国地方から九州へ勢力を伸ばす毛利元就との戦いや、肥前国(現在の佐賀県・長崎県)で台頭する龍造寺隆信の討伐戦など、大友氏の主要な合戦に幾度となく出陣し、その武功を高く評価された 4 。その忠義心と仁徳にあふれた人柄は、「義心は鉄の如し」と称えられたという 4

戦略拠点の大転換 ― 柳川城への移転

この蒲池氏の勢力拡大と、戦国時代の戦いの激化を背景に、鑑盛は一族の歴史における極めて重要な決断を下す。それが、平安時代以来の本拠地であった蒲池城から、支城であった 柳川城 へと中枢機能を移転することであった 1

永禄年間(1558年~1569年)、鑑盛は柳川城を本格的な本城として大規模に改修した 10 。柳川城は、周囲を幾重ものクリーク(堀割)に囲まれた天然の要害であり、その水路網は防御施設であると同時に、物資を運搬する経済の大動脈でもあった 3 。この移転により、古くからの居館であった蒲池城は、柳川城を守る支城の一つへとその役割を変えることになった 2

この本拠移転は、単なる居城の変更以上の意味を持っていた。中世的な在地領主の拠点であった蒲池城に対し、城と城下町全体を水堀で囲む「惣構え」の思想を取り入れた柳川城は、数万の軍勢による大規模な攻城戦にも耐えうる、より近代的な城郭であった 18 。この決断は、蒲池氏が単なる一地域の領主から、領域全体を統治する戦国大名へと名実ともに脱皮したことの物理的な証左と言える。それは、戦いの様相が個人の武勇に頼る小競り合いから、組織的な大軍が動く総力戦へと移行した戦国時代の軍事革命を、一国人領主の動向の中に明確に見て取れる象徴的な出来事だったのである。

第四章:肥前の熊、龍造寺隆信との因縁 ― 恩と裏切りの序曲

蒲池氏の運命を決定づけることになる人物が、肥前の龍造寺隆信である。後に「肥前の熊」と恐れられ、九州三強の一角にまで成り上がるこの梟雄と、蒲池鑑盛との間には、後の悲劇をより一層際立たせる深い因縁があった 19

龍造寺氏への二度にわたる大恩

龍造寺隆信は、その前半生において何度も存亡の危機に立たされている。天文14年(1545年)、主家であった少弐氏の内紛に巻き込まれ、父祖を殺害された隆信は、曽祖父・家兼と共に筑後の蒲池鑑盛を頼って落ち延びた 21 。鑑盛はこれを手厚く保護した。さらに天文20年(1551年)、一度は肥前に復帰した隆信が、再び家中の内紛によって居城を追われ、行く当てもなく筑後川のほとりを彷徨った際にも、彼に救いの手を差し伸べたのは鑑盛であった 8 。鑑盛は隆信を三潴郡一木村に匿い、その再起を助けたのである 5 。この二度にわたる鑑盛の保護がなければ、龍造寺氏の歴史はその時点で途絶え、後の隆信の興隆もあり得なかったことは想像に難くない。

九州の勢力図の激変と世代交代

しかし、両者の関係は、九州全体のパワーバランスの激変によって大きく揺らぐことになる。天正6年(1578年)、蒲池氏の主家である大友宗麟は、日向国(現在の宮崎県)の耳川において、南九州の雄・島津義久と激突。この「耳川の戦い」で大友軍は壊滅的な大敗を喫し、その権威は完全に失墜した 4 。この歴史的な敗戦は、九州北部に巨大な力の空白を生み出し、その間隙を突いて急速に勢力を拡大したのが、他ならぬ龍造寺隆信であった。

そして、この運命の戦いで、蒲池氏にも大きな転機が訪れる。大友氏への忠義を貫いた蒲池鑑盛は、この合戦で奮戦の末、討死を遂げたのである 4

家督を継いだのは、嫡男の蒲池鎮漣(かまち しげなみ)であった。鎮漣は、父・鑑盛ほど大友氏への旧来の義理に固執してはいなかった。彼は、没落していく大友氏と、日の出の勢いである龍造寺氏を天秤にかけ、より現実的な外交路線を模索し始める 4

鑑盛の死と鎮漣の家督相続は、単なる世代交代ではなかった。それは、武士の「仁義」や「恩」を重んじる旧来の価値観を体現した鑑盛の時代が終わり、冷徹な勢力拡大の論理が全てを支配する、非情な「実利」の時代へと九州の戦国が移行したことを象徴していた。鎮漣が直面したのは、この二つの価値観の狭間で、いかにして蒲池家を存続させるかという、すべての中小国人領主が抱えた普遍的な苦悩だったのである。鑑盛が隆信に施した大恩は、この新しい時代の論理の前では、もはや何の価値も持たないものとなろうとしていた。

第五章:悲劇の終焉 ― 蒲池鎮漣の謀殺と一族の滅亡

父・鑑盛の死後、蒲池鎮漣は、当初、龍造寺隆信の麾下に属した。しかし、隆信の強圧的な支配に不満を抱いた鎮漣は、密かに旧主である大友氏への帰順を画策するようになる 5

謀略の宴と一族の根絶やし

この鎮漣の離反の動きを察知した隆信の対応は、迅速かつ非情であった。天正8年(1580年)、隆信は約2万の大軍を柳川城に差し向けた。鎮漣は籠城して抵抗するが、兵糧が尽きかけ、叔父である田尻鑑種(たじり あきたね)の仲介によって隆信と和睦した 5 。隆信はこの和睦の証として、自らの娘・玉鶴姫を鎮漣に嫁がせ、両家は縁戚関係となった 5

しかし、これは偽りの和平であった。鎮漣が裏で大友氏のみならず、薩摩の島津氏とも通じているという密告が、鎮漣の親族である西牟田氏や田尻鑑種からもたらされると、隆信は蒲池一族の完全な根絶を決意する 5

天正9年(1581年)5月、隆信は「須古の新城にて猿楽を興行するゆえ、見物に来られよ」と、鎮漣を肥前・佐嘉へと誘い出した 1 。これは巧妙に仕組まれた罠であった。祝宴の席で、鎮漣は隆信の兵に囲まれ、奮戦の末に謀殺された 1

隆信の謀略はこれに留まらなかった。鎮漣殺害と時を同じくして、龍造寺軍は柳川に侵攻。その先鋒を務めたのは、皮肉にも和睦を仲介した叔父の田尻鑑種であった 5 。塩塚城などに立てこもった蒲池一族の残党は次々と討ち取られ、鎮漣の幼い嫡男・宗虎丸も殺害された 2 。こうして、鎌倉時代以来、筑後に君臨した名族・蒲池氏の嫡流は、恩義を仇で返した隆信の謀略によって、悲劇的な滅亡を迎えたのである。このあまりに非情な仕打ちには、龍造寺四天王の一人であった百武賢兼ですら、大恩ある蒲池家を滅ぼすことに疑問を呈したと伝えられている 5

蒲池氏の滅亡は、龍造寺隆信個人の冷酷さだけが生んだ悲劇ではない。それは、巨大勢力の強大な圧力の下で、地域の国人領主たちが互いに疑心暗鬼に陥り、自らの家の安泰のために親族すら裏切らざるを得なかったという、戦国末期の地方社会が抱えた構造的な病理が生んだ結末でもあった。

地域に残る悲劇の伝承

この悲劇は、今なお柳川の地に生々しい伝承として語り継がれている。夫を謀殺され、実家である龍造寺氏が攻め寄せるという絶望的な状況に置かれた玉鶴姫の悲劇や、殺害された108人の家臣を弔ったとされる「百八人塚」の存在は、蒲池氏滅亡の記憶が地域の歴史に深く刻まれていることを物語っている 22

第六章:城の終焉と蒲池氏のその後 ― 廃城から現代に続く血脈

蒲池氏の滅亡後、その本拠であった蒲池城と柳川城、そして一族の血脈は、それぞれ異なる運命を辿ることになる。

蒲池城の廃城

蒲池氏滅亡後、筑後の地は豊臣秀吉による九州平定を経て、立花宗茂の所領となった。この時期、蒲池城には城番として小野和泉守鎮幸が置かれていた記録があるが、城の戦略的重要性は既に低下していた 14 。そして関ヶ原の戦いの後、徳川家康から筑後32万石を与えられて新たに入国した田中吉政によって、慶長6年(1601年)頃、蒲池城は筑後国の他の支城と共に取り壊され、完全に廃城となった 1 。城跡の大部分は開墾され、水田や畑へと姿を変えたのである 2

滅亡を越えて続く血脈

戦国大名としての蒲池氏は滅亡したが、それはあくまで「政治的・軍事的な実体」としての終焉であった。「家」や「血脈」は、それとは異なる次元で驚くべき生命力を示し、様々な形で生き延びていった。

  • 下蒲池系の存続 :謀殺された鎮漣の娘・徳子は豊後に落ち延び、旧主である大友氏の重臣・朽網氏に嫁いだ 5 。その子孫からは、幕末に徳川幕府最後の西国郡代を務めた旗本・窪田鎮勝(蒲池鎮克)といった人物が出ている 5
  • 上蒲池系の存続 :蒲池氏の分家であった山下の蒲池氏(上蒲池)は、蒲池鎮運が立花氏の与力となり、その後の関ヶ原の戦いで主家と共に改易されるも、子孫は福岡藩の黒田氏や肥後藩の細川氏に仕官し、武士としての家名を保った 5
  • 僧籍からの再興 :最も象徴的なのは、鎮漣の弟・統安の子である応誉の系譜である。彼は僧籍にあったため難を逃れ、後に柳川藩主となった立花宗茂に招かれて、宗茂の正室・誾千代の菩提寺である良清寺の開山住職となった 23 。この応誉の子孫は武家として蒲池氏を再興し、江戸時代を通じて柳川藩の家老格という重職を務めた 5

現代への繋がり

この柳川藩家老格として続いた蒲池家の末裔に、昭和から現代にかけて活躍する歌手の松田聖子(本名:蒲池法子)氏がいることは、特筆すべき事実である 2 。戦国時代の滅亡という断絶を乗り越え、形を変えながらも受け継がれてきた血脈が、数百年後の現代において、広く知られる人物に繋がっている。これは、政治的な敗北の後にも、家のアイデンティティがいかに力強く継承されていくかを示す、稀有な実例と言えよう。

第七章:史跡としての蒲池城 ― 遺構と伝承を訪ねて

失われた城の痕跡

現在の福岡県柳川市東蒲池および西蒲池に広がる蒲池城跡を訪れても、城の遺構は完全に消滅しており、往時の姿を偲ぶことは極めて困難である 1 。かつて城の中心部であったとされる一帯は水田や宅地となり、歴史の痕跡は大地の下に埋もれている。わずかに、民家の前や田畑の中に「蒲池城之跡」と刻まれた石碑と説明板が建てられているのみであり、これらがかつてこの地に城が存在したことを現代に伝えている 1 。この石碑には、建立に協力した蒲池姓や宇都宮姓など、ゆかりのある子孫たちの名が刻まれており、城の記憶が現代に生きる人々によって能動的に継承されていることを示している 15

記憶の器としての崇久寺

物理的な城郭が失われた一方で、蒲池一族の歴史と記憶を今に伝える最も重要な場所が、菩提寺である 崇久寺 (そうきゅうじ)である 7 。この寺は、文亀年間(1501年~1504年)に14代当主・蒲池治久によって蒲池氏の菩提寺と定められて以来、一族の栄枯盛衰と共に歩んできた 7

境内には、蒲池氏の最盛期を築いた蒲池鑑盛をはじめ、一族累代の墓碑が静かに立ち並び、訪れる者にその歴史を物語りかけてくる 1 。天正9年(1581年)の蒲池氏滅亡の際には、龍造寺軍の攻撃を受けて寺もまた破壊され、多くの寺宝や文書が失われたという悲しい歴史も持つ 25 。崇久寺は単なる墓所ではなく、蒲池一族の栄光と悲劇の物語が集約された「記憶の聖地」として、今日までその役割を果たし続けているのである。

関連史跡を巡る

蒲池氏の歴史をたどる旅は、蒲池城跡と崇久寺だけでは完結しない。彼らがその勢力の絶頂期に本拠とした 柳川城跡 (現在の柳川高等学校・柳川中学校の敷地) 26 や、謀殺された蒲池鎮漣らが祀られている沖端の

二宮神社 2 など、柳川市内には一族の歴史の断片を伝える場所が点在している。これらの史跡を巡ることで、失われた城と一族の物語は、より立体的に立ち上がってくる。蒲池城の真の価値は、今はなき石垣や堀にあるのではなく、これらの「記憶の場」を通じて、その歴史的意味を再生産し続ける力そのものにあると言えるだろう。

終章:蒲池城が物語るもの ― 歴史の記憶と教訓

筑後の地に築かれ、そして跡形もなく消え去った蒲池城。その歴史は、戦国時代という激動の時代を生きた中小国人領主の典型的な運命を辿った。しかしその内実には、旧来の仁義を重んじる父・鑑盛と、時代の変化に対応しようともがく子・鎮漣との路線対立、そして大恩ある相手からの非情な裏切りによる滅亡という、極めてドラマティックな要素が凝縮されている。

蒲池氏の悲劇は、我々に歴史の厳しさを教える。激しい変化の時代において、一つの価値観(鑑盛の仁義)に固執することも、あるいは時勢に迎合しようと危うい外交を繰り返すこと(鎮漣の選択)も、共に破滅に繋がりうるという現実である。生き残るためには、確固たる信念と、時流を見極める冷徹な現実認識の両方が不可欠であった。

忘れ去られたかのような一地方の城跡も、その歴史を深く探求すれば、戦国という時代の複雑な人間模様、権力闘争の非情さ、そしてそれでもなお形を変えて受け継がれていく記憶と血脈の力強さを、雄弁に語りかけてくる。蒲池城の物語は、歴史とは単なる過去の出来事の記録ではなく、現代に生きる我々のアイデンティティにも繋がりうる、生きた物語であることを示しているのである。

引用文献

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  2. 蒲池城(福岡県柳川市)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/8796
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  4. 家具の町大川の戦国史 蒲池家から立花家へBLOG DETAIL - プロセス井口 https://p-iguchi.co.jp/blog/2748/
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  10. 柳川城跡 - 福岡史伝 https://www.2810w.com/archives/5856
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  12. 蒲池城(かまちじよう)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E8%92%B2%E6%B1%A0%E5%9F%8E-3097778
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  15. 蒲池城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E6%B1%A0%E5%9F%8E
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  23. 蒲池の姫君 | 樋口法律事務所 https://ahiguchi.com/stroll/%E8%92%B2%E6%B1%A0%E3%81%AE%E5%A7%AB%E5%90%9B/
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