最終更新日 2025-08-22

金ヶ崎城

金ヶ崎城は敦賀湾の要衝に位置し、南北朝期には新田義貞が籠城、戦国期には織田信長が「金ヶ崎の退き口」で危機を脱した。歴史の転換点を見つめ続けたこの城は、現在は金崎宮が鎮座し、恋の宮として親しまれる。
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金ヶ崎城 ― 日本史の分水嶺に屹立する要害の興亡

序論:歴史の転換点を見つめ続けた要害、金ヶ崎城

福井県敦賀市、敦賀湾の喉元を扼するように突き出した岬に、金ヶ崎城は存在する。その名は、日本の歴史における二つの巨大な動乱期、すなわち南北朝時代と戦国時代の帰趨を左右した、極めて重要な舞台として刻まれている。単なる一地方の城郭ではなく、敦賀港という地政学的な要衝を掌握し、時代の激流の中で数多の悲劇と英雄譚の証人となってきた、多層的な歴史的価値を秘めた要害である 1

平通盛による築城の伝承に始まり、後醍醐天皇の皇子を奉じた新田義貞の悲壮な籠城戦、そして織田信長の天下統一事業における最大の危機として知られる「金ヶ崎の退き口」。これらの著名な出来事は、金ヶ崎城の歴史の断片に過ぎない。本稿は、これらの事象の背景にある戦略的意図、人物の動機、そして後世への深遠な影響を、専門的な視座から徹底的に解明することを目的とする。金ヶ崎城がなぜ、時代を超えて権力者たちを惹きつけ、歴史の転換点となり得たのか。その構造、地理的優位性、そしてそこに刻まれた人々の記憶を丹念に紐解いていく。

なお、岩手県にも同名の城跡が存在するが 3 、本稿の対象は、ユーザーの指定に基づき、福井県敦賀市に位置する金ヶ崎城(別名:敦賀城)に限定することをここに明記する。

【表1:金ヶ崎城 関連年表】

本稿で詳述する歴史的変遷を概観するため、以下に主要な出来事をまとめた年表を提示する。

年代(西暦/和暦)

主要な出来事

典拠

1181年(養和元年)

平通盛が木曽義仲に備え「津留賀城」(金ヶ崎城の前身と推定)に籠城。

1

1336年(延元元年/建武3年)

新田義貞が後醍醐天皇の皇子、恒良・尊良両親王を奉じ、金ヶ崎城に籠城。

1

1337年(延元2年/建武4年)

足利軍の猛攻と兵糧攻めにより落城。尊良親王、新田義顕らが自害。

1

1471年(文明3年)

敦賀郡司・朝倉景冬が居城とし、以降、朝倉氏の敦賀支配の拠点となる。

5

1570年(元亀元年)4月26日

織田信長軍の攻撃を受け、城主・朝倉景恒が降伏し開城。

10

1570年(元亀元年)4月28日

浅井長政の裏切りが発覚。信長軍は金ヶ崎城から決死の撤退を開始(金ヶ崎の退き口)。

5

1570年以降

「金ヶ崎の退き口」以降、軍事拠点としての役割を終え、廃城になったと推定される。

5

1890年(明治23年)

尊良親王を祀る金崎宮が創建される。

7

1934年(昭和9年)

城跡が国の史跡に指定される。

1

現代

金ヶ崎公園として整備され、市民の憩いの場となる。日本の歴史公園100選にも選定。

7

第一章:敦賀湾を制する天然の要害 ― 地理的条件と城郭構造

金ヶ崎城を巡る数々の歴史的事件は、その特異な地理的条件と不可分である。この城がなぜこれほどまでに重要視されたのかを理解するためには、まずその立地と構造を詳細に分析する必要がある。

敦賀港の地政学的重要性

古代より、敦賀港は日本海側の物流と文化が畿内へ流入する、極めて重要な玄関口であった。越前以北の日本海の物資は敦賀に集積され、そこから陸路もしくは琵琶湖の水運を利用して京や大坂へと運ばれた 15 。この交易ルートは、大陸との交易をも含み、敦賀に莫大な経済的富をもたらした。したがって、敦賀港を支配することは、単に一地方を領有する以上の意味を持ち、畿内の経済と政治に直接的な影響力を行使しうる戦略的要衝を掌握することに他ならなかった。金ヶ崎城は、この敦賀港の入り口に楔を打ち込むように突き出し、港湾機能を物理的に監視し、完全に支配することが可能な絶好の位置に築かれていたのである 17

この城の価値は、単なる軍事拠点としての防御能力に留まらない。港に出入りする全ての船舶をその眼下に収める立地は、この城の支配者が交易利権と関税収入を独占できることを意味していた。つまり、金ヶ崎城は物理的な「要塞」であると同時に、日本海交易の支配権を象徴する存在でもあった。時代を超えて多くの権力者がこの地を巡って熾烈な争奪戦を繰り広げた根源には、領土的野心のみならず、この地が生み出す経済的価値への渇望があったのである。

地形と縄張り

金ヶ崎城は、標高約86メートルの金ヶ崎山に築かれた山城である 1 。その最大の特徴は、三方を敦賀湾の海に囲まれ、陸地に面した南側以外は切り立った断崖絶壁となっている点にある。南北朝時代の軍記物語『太平記』には、「かの城の有様、三方は海によって岸高く、巌なめらかなり」とその堅固さが記されており、まさに天然の要害と呼ぶにふさわしい地形であったことが窺える 7 。この急峻な地形は、特に大規模な軍勢による力攻めを困難にし、防御側に圧倒的な利点をもたらした 17

現存する遺構の分析

現在、金ヶ崎城跡には往時の姿を偲ばせるいくつかの遺構が残されている。

  • 月見御殿(本丸跡) : 城の最高地点に位置する主郭であり、城の中枢部であったと考えられる 1 。戦国時代には武将たちがここから月を愛でたという風雅な伝承が残るが 2 、その本質は敦賀湾全体と港、そして内陸へ続く街道筋までを一望できる司令塔であった。
  • 曲輪・木戸跡・堀切・竪堀 : 城内には、主要な郭である月見御殿のほかにも、複数の曲輪が段状に配置されていた。これらの郭は、尾根を断ち切るように掘られた「堀切」によって区画され、独立した防御単位として機能していた 1 。また、斜面には敵兵の直登を妨げるための「竪堀」が設けられており、中世山城としての典型的な防御構造を見て取ることができる 18

支城・天筒山城との連携

金ヶ崎城の防衛システムを理解する上で、その南に位置する天筒山城の存在は欠かせない 21 。標高約170メートルの天筒山に築かれたこの城は、金ヶ崎城への主要な進入路を抑える前衛拠点であり、両城は一体となって敦賀一帯の防衛網を形成していた。1570年の織田信長による越前侵攻の際には、まずこの天筒山城に猛攻が加えられ、その陥落が金ヶ崎城主・朝倉景恒の戦意を挫き、降伏へと直結した 10 。この二城の関係性は、金ヶ崎城が単独で機能していたのではなく、より広域な防衛システムの一部であったことを示している。

第二章:黎明期から南北朝の悲劇へ

金ヶ崎城が日本の歴史の表舞台に初めて登場するのは、源平合戦の時代に遡る。そして、その名を不朽のものとしたのは、南北朝時代の悲劇的な籠城戦であった。

源平合戦期の築城伝承

金ヶ崎城に関する最も古い記録は、治承・寿永の乱(源平合戦)の最中である1181年(養和元年)にまで遡る。この年、北陸で勢力を拡大する木曽義仲の軍勢に敗れた平家方の武将・平通盛が、「津留賀城」に籠もって抵抗したと伝えられている 1 。この「津留賀城」が、後の金ヶ崎城の前身であったと推定されており、この時から既に敦賀の地が軍事的な要衝として認識されていたことがわかる。

南北朝の動乱と金ヶ崎の戦い

金ヶ崎城の歴史において、最も悲劇的な一幕が演じられたのが南北朝時代である。

  • 背景 : 1336年(延元元年/建武3年)、湊川の戦いで楠木正成を破った足利尊氏が京都を制圧。後醍醐天皇を中心とする南朝方は劣勢に立たされた。再起を図るべく、後醍醐天皇は重臣・新田義貞に、自身の二人の皇子、恒良親王(皇太子)と尊良親王を奉じて北陸へ落ち延び、官軍を再興するよう命じた 1
  • 籠城 : 義貞一行は、敦賀の気比神宮大宮司であった気比氏治らに迎えられ、天然の要害である金ヶ崎城に入城した 24 。しかし、安息の時は短かった。直後に、足利方の越前守護・斯波高経が率いる大軍が城を包囲し、長く絶望的な籠城戦が始まったのである 1
  • 悲劇的結末 : 足利軍は力攻めを避け、兵糧攻めという最も過酷な戦術を選択した。城への補給路は完全に断たれ、城内は飢餓地獄と化した 1 。外部からの援軍も、杣山城から救援に向かった瓜生保の部隊が途中で足利軍に阻まれ壊滅するなど、ことごとく失敗に終わった 9 。翌1337年(延元2年/建武4年)3月、食料も尽き、兵の疲労が極限に達したところへ足利軍が総攻撃を開始。城兵は次々と討ち取られ、ついに城は陥落した。この時、尊良親王と新田義貞の嫡男・新田義顕は城に火を放って自害。城兵三百余名もまた、彼らに殉じた 8 。恒良親王は一旦城を脱出するも捕縛され、後に京で毒殺されるという非業の最期を遂げた 7

この南北朝の悲劇は、金ヶ崎城の性格を決定的に変えた。単なる軍事拠点であった城は、皇子と忠臣たちが殉じた「殉難の地」としての物語性を帯びることになったのである。この出来事により、金ヶ崎城は物理的な要害としての価値に加え、人々の記憶に深く刻まれる精神的な価値を獲得した。戦国時代の「金ヶ崎の退き口」という軍事的事件が注目されがちだが、この地の精神的な核を形成しているのは、むしろこの南北朝の悲劇であると言える。二つの異なる時代の物語が同じ場所で重なり合うことで、金ヶ崎城は他に類を見ない歴史的深みを持つ史跡となったのである。

金崎宮の創建

この悲劇は後世に長く語り継がれ、明治時代に入ると、敦賀の人々の熱心な請願により、尊良親王と恒良親王を御祭神とする金崎宮(かねがさきぐう)が城跡に創建された 7 。これにより、金ヶ崎城跡は単なる古戦場ではなく、皇子たちの鎮魂の地という聖性を帯び、現在に至るまで多くの人々の信仰を集めている 19

第三章:戦国動乱 ― 朝倉氏の越前支配と金ヶ崎城

南北朝の動乱が終息し、室町時代に入ると、金ヶ崎城は越前の新たな支配者である朝倉氏の拠点として、再び歴史の表舞台に登場する。

朝倉氏の拠点へ

南北朝の戦いの後、金ヶ崎城は越前守護代の甲斐氏などが城主となる時期を経た。そして1471年(文明3年)、応仁の乱の中で越前を平定した朝倉孝景(英林)の弟である朝倉景冬が敦賀郡司として入城する 5 。これ以降、金ヶ崎城は名実ともに朝倉氏による敦賀支配の中核拠点となり、約100年間にわたる朝倉氏の栄華を支えることとなった。

前線基地としての役割

戦国大名・朝倉氏にとって、金ヶ崎城が持つ戦略的価値は計り知れないものであった。朝倉氏の本拠地である一乗谷(現在の福井市)から見て、敦賀は若狭国や近江国方面への玄関口にあたる。そのため、金ヶ崎城は、長年対立していた若狭武田氏や、南近江の六角氏といった敵対勢力に対する最前線の軍事基地として機能した 5 。同時に、前章で述べた敦賀港の経済的重要性を確保するための拠点でもあり、朝倉氏の富と権力の源泉を支える城であった。

1570年時点の状況

織田信長が越前へ侵攻した1570年(元亀元年)当時、金ヶ崎城の城主は朝倉一族の重鎮である朝倉景恒であった 5 。彼は支城である天筒山城と連携し、織田軍を迎え撃つ態勢を整えていた。しかし、主君である朝倉義景が率いる本隊の動きは鈍く、一説には朝倉一門内での序列争いが影響し、敦賀への援軍派遣が意図的に遅らされたとも言われている 22 。この内部の不協和音が、後の金ヶ崎城の運命を大きく左右することになる。

第四章:信長の天下一統を揺るがした「金ヶ崎の退き口」

金ヶ崎城の名を日本の歴史に不滅のものとして刻みつけたのが、1570年に起きた「金ヶ崎の退き口」である。これは、織田信長の生涯における最大の危機であり、戦国時代の勢力図を一夜にして塗り替えかねない、劇的な撤退戦であった。

第一節:越前侵攻と束の間の勝利

1568年(永禄11年)、足利義昭を奉じて上洛を果たした織田信長は、天下静謐の大義名分のもと、各地の大名に上洛を命じた。しかし、越前の名門・朝倉義景はこれを再三にわたり無視 12 。信長にとって、京と自身の本拠地である美濃・尾張の間に位置する越前を支配下に置くことは、戦略上不可欠であった。義景の上洛拒否を格好の口実とし、信長は1570年4月、同盟者である徳川家康を伴い、約3万と号する大軍を率いて越前討伐を開始した 11

織田・徳川連合軍の進撃は電光石火であった。4月25日、敦賀に到着した軍勢は、まず支城である天筒山城に猛攻を加え、激戦の末にわずか一日で陥落させる 22 。この凄まじい攻撃力と、圧倒的な兵力差を目の当たりにした金ヶ崎城主・朝倉景恒は戦意を喪失。翌26日、信長の降伏勧告を受け入れ、城はほとんど抵抗することなく開城した 10 。戦況は完全に織田方優位で進み、信長は朝倉軍主力が守る木ノ芽峠を越え、本拠地・一乗谷へとなだれ込む準備を着々と進めていた 12

第二節:浅井長政、裏切りの真相

順調に進軍する信長のもとに、突如として信じがたい報せがもたらされた。義理の弟であり、堅い同盟者であったはずの北近江の浅井長政が、信長を裏切り、朝倉に味方して信長軍の背後を突くべく出陣したというのである 12 。これにより、織田軍は北に朝倉軍、南に浅井軍という、二つの敵に挟撃される絶体絶命の危機に陥った 10 。当初、信長はこの報を「虚説たるべき」として信じなかったが、次々と届く知らせに、それが紛れもない事実であることを認めざるを得なかった 12

長政のこの行動は、単なる気まぐれな裏切りではなく、当時の複雑な政治力学と、彼自身の置かれた苦しい立場から生じた、苦渋の決断であった。その要因は複合的であり、複数の説が提唱されている。

【表2:浅井長政の裏切りに関する諸説比較】

根拠・内容

信憑性・近年の評価

典拠

朝倉氏との主従・同盟関係優先説

浅井氏は六角氏に対抗するため長年朝倉氏に従属。長政は義景を「親方様」と呼ぶなど、単なる同盟以上の強い関係があった。旧来の信義を優先した。

最有力説 。当時の境目の国衆(有力大名に挟まれた地方勢力)の生存戦略として、極めて合理的と評価される。

29

信長への不信・反発説

信長が長政を家臣同然に扱ったことへの不満。また、仏閣への攻撃も辞さない信長の非情なやり方への反発。

有力説を補強する一因として妥当。長政個人の感情や価値観も決断に影響したと考えられる。

30

「朝倉への不戦の誓い」破棄説

織田・浅井同盟時に「朝倉を攻めない」という密約があったが、信長が一方的に破ったため、長政が義憤にかられて離反したとする説。

現在では否定的 。同盟締結当時は織田・朝倉が敵対していなかったため、そのような誓いがあったとする根拠が薄い。後世の創作の可能性が高い。

12

嫡男・万福丸の人質説

長政の嫡男・万福丸が朝倉家に送られており、その安全のために朝倉方につかざるを得なかったとする説。

可能性の一つとして挙げられるが、決定的な史料に欠ける。主因というよりは、決断を後押しした一要素の可能性がある。

31

足利義昭の策動説

将軍・足利義昭が、勢力を増す信長を危険視し、諸大名に「信長包囲網」の形成を働きかけており、長政もそれに呼応したとする説。

状況証拠的には考えられる。信長と義昭の関係悪化という大局的な流れの中で、長政の決断を位置づける視点。

32

歴史上の人物の重大な決断は、単一の理由に還元できるものではない。長政の「裏切り」もまた、旧主への義理、新興勢力への反発、そして自家の存亡をかけた冷徹な計算など、様々な要因が複雑に絡み合った結果であった。この多角的な視点を持つことで、「裏切り者」という単純なレッテルを剥がし、苦悩する一人の戦国武将としての長政の姿を立体的に捉えることが可能となる。

第三節:史上最も困難な撤退戦

絶体絶命の状況を認識した信長は、即座に全軍撤退を決断する。ここから、日本戦史上に名高い「金ヶ崎の退き口」が始まった。

  • 信長本隊の脱出(朽木越え) : 信長は、自らは僅かな供回りだけを連れ、敵の待ち伏せが予想される往路(北国街道)を避け、西の若狭街道を南下するルートを選択した 11 。この撤退行の成否は、道中の近江国朽木谷の領主・朽木元綱の動向にかかっていた。元綱は浅井氏とも繋がりがあり、彼の協力が得られなければ信長の命はなかったであろう 12 。松永久秀らの決死の説得が功を奏し、元綱は信長の通行を許可。信長一行は朽木谷を駆け抜け、4月30日、無事に京都へと生還した 11
  • 殿(しんがり)の奮戦 : 信長本隊を無事に逃がすため、最も危険な最後尾で敵の追撃を食い止める部隊、「殿(しんがり)」が編成された。この九死に一生の任務を志願、あるいは命じられたのが、当時はまだ一介の部将であった木下秀吉(後の豊臣秀吉)、そして明智光秀、池田勝正らであった 12 。彼らは金ヶ崎城に残り、あたかも信長本隊がまだいるかのように多数の旗指物を掲げるなどの偽装工作を行いながら 36 、鉄砲隊を巧みに用いて追撃してくる朝倉・浅井軍を食い止めた。この絶望的な状況下での奮戦は、彼らの武将としての評価を決定的に高めることになる。
  • 徳川家康の役割 : この戦いには徳川家康も参陣していたが、その役割については諸説ある。『三河物語』など徳川方の史料によれば、信長は家康に何も告げずに撤退し、結果的に家康軍が殿の一部を担う形になったと記されている 37 。一方で、秀吉から助力を請われ、協力して殿を務めたという記述もあり 39 、その詳細は定かではない。いずれにせよ、家康軍もまた、この困難な撤退戦を戦い抜き、無事に領国へ帰還したことは確実である。
  • 朝倉軍の追撃 : 朝倉軍の追撃は、織田軍に壊滅的な打撃を与えるほど苛烈なものではなかった。その理由として、秀吉ら殿部隊の巧みな遅滞戦術に加え、朝倉義景自身の優柔不断さや、前述した朝倉一門衆間の連携不足が追撃の機を逸した可能性が指摘されている 12

第四節:歴史的意義と後世への影響

「金ヶ崎の退き口」は、単なる一回の撤退戦に留まらない、極めて大きな歴史的意義を持つ。

  • 信長の危機管理能力 : 生涯最大の危機を、冷静かつ迅速な判断力と、僅かな供回りだけで突破したこの一件は、織田信長の非凡な胆力と危機管理能力を天下に示す逸話となった 41
  • 家臣団の成長と出世 : この撤退戦で命を賭して殿を務め上げた羽柴秀吉と明智光秀は、信長から絶大な信頼を勝ち得、その後の出世の大きな足掛かりとした 42 。特に秀吉にとっては、彼の立身出世物語における最大のハイライトの一つとなった 44
  • 朝倉・浅井氏滅亡への序章 : 一方、信長を取り逃がしたことは、朝倉・浅井両氏にとって致命的な失策となった。態勢を立て直した信長は、同年6月の姉川の戦いで連合軍に勝利。そして3年後の1573年(天正元年)には両氏を完全に滅亡させる 11 。「金ヶ崎の退き口」は、結果的に彼らの滅亡への序曲となったのである。

この事件は、織田信長という個人の危機であったと同時に、「織田政権」という組織が次のステージへと飛躍するための試練であった。この極限状況を乗り越えた経験は、家臣団に強烈な成功体験と教訓(同盟の脆さ、情報戦の重要性)を与えた。秀吉、光秀、そして家康といった、後の天下統一事業を担う人材が選別・育成され、政権全体の戦略思想がより洗練されたのである。歴史の「もしも」を考えれば、信長がここで討たれていれば、その後の日本の歴史は全く異なる様相を呈していたであろう。金ヶ崎は、まさに日本の歴史そのものの分水嶺となった地であった。

第五章:廃城から史跡へ ― 近世から現代への歩み

戦国の嵐が過ぎ去った後、金ヶ崎城は歴史の表舞台から姿を消し、静かな時を刻み始める。しかし、その価値が忘れ去られることはなかった。

廃城の経緯

「金ヶ崎の退き口」の後、朝倉氏が滅亡し、越前が織田家の支配下に入ると、金ヶ崎城はその軍事的役割を終えた。戦国末期から近世にかけて、城郭建築の主流が防御力と政治的中心機能を兼ね備えた平城・平山城へと移行する中で、防御に特化した中世的な山城である金ヶ崎城は次第に顧みられなくなり、やがて廃城に至ったと考えられる 5

金崎宮と「恋の宮」

廃城となり、忘れられたかに見えた金ヶ崎城に新たな光を当てたのが、第二章で述べた金崎宮の創建であった。明治期に南北朝の皇子を祀る神域として再生した城跡は、やがて桜の名所として知られるようになる 19 。そして、この桜が、古戦場に新たな物語を生み出した。花見に訪れた男女が「花換えましょう」と声をかけあい、桜の小枝を交換することで想いを伝えたという風習から「花換まつり」が生まれ、いつしか金崎宮は「恋の宮」としても親しまれるようになったのである 25 。悲劇の歴史を持つ地が、時代を経て人々の幸福を願う場へと変容したこの事実は、歴史の重層性を示す興味深い事例である。

史跡としての保存と活用

1934年(昭和9年)、金ヶ崎城跡はその歴史的価値が公的に認められ、国の史跡に指定された 1 。戦後、城跡一帯は金ヶ崎公園として美しく整備され、現在では「日本の歴史公園100選」にも選定されるなど、市民や観光客の憩いの場となっている 13 。月見御殿跡や木戸跡などを巡る遊歩道も整備されており、歴史の息吹を感じながら散策を楽しむことができる 18

未解明の謎と将来への期待

これほど重要な史跡でありながら、驚くべきことに、金ヶ崎城跡では本格的な学術的発掘調査がほとんど行われていない。地権の問題などが障壁となっているとされるが、その結果、城の正確な縄張りや、合戦の具体的な痕跡など、多くの謎が今なお地中に眠っている 46 。将来的な調査によって、金ヶ崎城の歴史がさらに詳しく解明され、新たな発見がもたらされることが大いに期待される。

現代の金ヶ崎城は、単に保存されるべき「過去の遺物」ではない。それは、南北朝の「鎮魂」、戦国の「教訓」、そして現代の「祈り」と「憩い」が重層的に存在する、ダイナミックな文化的空間である。未発掘という事実は、この空間に「未来への可能性」という更なるレイヤーを加えている。この城の真の価値は、その歴史的深みと、時代と共に変容し続ける現代的意義との共存関係そのものにあると言えるだろう。

結論:金ヶ崎城が我々に語りかけるもの

金ヶ崎城の歴史は、敦賀という日本の歴史における交通・交易の結節点に位置し続けたことの重要性を物語っている。その地理的優位性ゆえに、この城は常に時代の権力者たちの注目を集め、その争奪の舞台となってきた。

特筆すべきは、源平、南北朝、戦国という、日本の歴史を画する三つの異なる時代の動乱が、この同じ場所で凝縮された形で展開されたことの特異性である。金ヶ崎城は、ある時は王権の再生をかけた悲劇の舞台となり、またある時は天下人の運命を左右する試練の場となった。一つの城が、これほどまでに時代の分水嶺に立ち会い続けた例は稀有である。

この城の歴史を深く掘り下げることは、単に過去の出来事を知ることに留まらない。それは、権力闘争の非情さ、人間の忠義と裏切り、そして絶望的な状況を打開しようとする人々の強靭な意志といった、時代を超えた普遍的なテーマに触れることに他ならない。金ヶ崎城は、今や声高に語ることはない。しかし、その断崖に、その遺構に、そしてそこに吹く風に耳を澄ませば、日本の歴史のダイナミズムと、そこに生きた人々の息遣いが聞こえてくる。金ヶ崎城は、沈黙のうちに、我々に多くを語りかけ続ける、かけがえのない「歴史の証人」なのである。

引用文献

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  2. 金ヶ崎の戦い古戦場:福井県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/kanegasaki/
  3. 金ヶ崎城(かねがさきじょう・金ヶ崎町) | いわての文化情報大事典 - 岩手県 http://www.bunka.pref.iwate.jp/archive/cs16
  4. 金ケ崎町城内諏訪小路伝統的建造物群保存地区保存計画目次 https://www.town.kanegasaki.iwate.jp/docs/2017071900038/file_contents/suwakoujihozonkeikaku.pdf
  5. 金ヶ崎城の歴史 | 金ヶ崎城のガイド - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/504/memo/4306.html
  6. 金ヶ崎城(福井・敦賀市) - たびよみ https://tabiyomi.yomiuri-ryokou.co.jp/article/000819.html
  7. 金崎宮 由 緒 – 恋の宮 金崎宮ホームページ https://kanegasakigu.com/?page_id=47
  8. 金崎宮 - 玄松子の記憶 https://genbu.net/data/etizen/kanagasaki_title.htm
  9. 金崎宮 - 福井県神社庁 https://www.jinja-fukui.jp/detail/index.php?ID=20160118_120909
  10. 織田信長 まさかの危機一髪!!《金ヶ崎の退き口》|まさざね君 - note https://note.com/kingcobra46/n/n6077881758cb
  11. 歴史の目的をめぐって 金ヶ崎城(越前国) https://rekimoku.xsrv.jp/3-zyoukaku-06-kanegasakijo-echizen.html
  12. 金ヶ崎の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7305/
  13. 金ヶ崎公園が「日本の歴史公園100選」に選ばれました - 敦賀市 https://www.city.tsuruga.lg.jp/smph/sightseeing/attractions/kanagasakiryokuchi/rekishikoen100sen.html
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  15. 中世日本の 海運の要、 越前の 湊 み - 福井県 https://www.pref.fukui.lg.jp/doc/brandeigyou/brand/senngokuhiwa_d/fil/fukui_sengoku_total_02.pdf
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  37. 金ヶ崎合戦、姉川の戦いで徳川家康は一体どうした⁉ - 歴史人 https://www.rekishijin.com/26842
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  42. 三英傑+明智光秀が一堂に会した「金ヶ崎の退き口」の背景・結果を解説|信長に置いて行かれた家康は絶体絶命の危機に…【日本史事件録】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1121787
  43. 明智光秀の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/32379/
  44. 織田信長最大のピンチ! 金ヶ崎の退き口ってどんな戦いだったの?ー超入門!お城セミナー【歴史】 https://shirobito.jp/article/847
  45. 金崎宮 - 旅する港町つるが 敦賀観光公式サイト https://tsuruga-kanko.jp/spot/shrines_temples/kanegasakigu-shrine/
  46. ロマン溢れる“未発掘古墳”への道【福井県敦賀市を発掘!】|#わかさはっくつ - note https://note.com/wakasa_hakkutsu/n/n1ddddcd1ec57