金石城は対馬宗氏の拠点。戦国期は貿易と軍事の要、秀吉の命で清水山城と連携。江戸期は朝鮮通信使の迎賓館となり、日朝外交の歴史を刻む。
日本列島と朝鮮半島の中間に位置する対馬は、その地理的条件そのものが歴史を規定してきた特異な島である 1 。耕作可能な平地が極めて少なく、米の収穫量を基準とする石高経済が成立しにくいという宿命を負う一方で、古来より日朝間の文化、経済、そして時には軍事が交差する結節点としての役割を担ってきた 2 。古代には大陸からの文化伝来の窓口となり、白村江の戦いの後には国防の最前線として防人や金田城が置かれた 4 。この「国境の島」という地政学的特性は、対馬を支配する者にとっても、その権力のあり方を決定づける根源的な要因となった。
鎌倉時代から明治維新に至るまで、約650年もの長きにわたり対馬を支配し続けたのが宗氏(そうし)である 6 。宗氏の権力基盤は、日本の他の大名とは根本的に異なっていた。彼らの力の源泉は、島内の農業生産力ではなく、朝鮮半島との外交・貿易関係をほぼ独占したことにあった 1 。中世後期、対馬を拠点とする倭寇の活動が活発化すると、宗氏はその鎮圧と統制を通じて朝鮮王朝との交渉における主導的立場を確立し、公的な貿易パートナーとしての地位を不動のものとした 2 。江戸時代には、徳川幕府から朝鮮との外交実務を独占的に委任され、その格式は実質的な米の収穫量とは無関係に「10万石格」とされた 3 。これは、宗氏の価値が領国経営ではなく、国家的な外交・貿易における重要性によって評価されていたことの証左である。
宗氏が対馬における政治・経済の中心地として府を置いたのが厳原(いづはら)であった 10 。古代には対馬国の国府が置かれたこの地は、宗氏の支配下で城下町として整備され、対朝鮮外交の拠点として発展した 9 。本報告書で詳述する金石城は、この厳原の地に築かれ、戦国の動乱期から江戸時代の泰平の世に至るまで、宗氏の、そして日本の対外関係の歴史において重要な役割を果たした城郭である。
この城を理解する上で、まず認識すべきは、城の機能が領主の権力基盤を映し出す鏡であるという点である。一般的な戦国大名の城が領国支配と軍事防衛を主目的とし、その構造が石高に裏打ちされた経済力を反映するのに対し、宗氏の権力基盤はあくまで朝鮮との関係にあった。したがって、その居城である金石城は、単なる軍事拠点や居住施設にとどまらず、「国際交易と外交交渉の司令塔」という、日本の他の城には見られない極めて特殊な機能を内包していた。発掘調査で出土した朝鮮由来の陶磁器や瓦は、単なる輸入品ではなく、この城の根幹をなす活動の物証として理解されねばならない 11 。金石城の歴史的価値は、この特異な地政学的・経済的文脈を抜きにしては正当に評価できないのである。
表1:金石城関連年表
年代 |
主な出来事 |
古代 |
対馬国分寺の創建 |
1468年(応仁2年) |
宗貞国、府を峰町佐賀から厳原へ移す 10 |
1526年(大永6年) |
宗将盛、「池の屋形」を築き居所とする 12 |
1528年(享禄元年) |
内乱で「池の屋形」焼失、宗将盛が「金石屋形」を築く 10 |
1591年(天正19年) |
豊臣秀吉の命により、背後に清水山城が築かれる 14 |
1665年(寛文5年) |
3代藩主・宗義真による金石屋形の大規模拡張・整備が開始される 10 |
1678年(延宝6年) |
対馬藩の政庁機能が新築の桟原城へ移転 12 |
1690年(元禄3年) |
旧金石城庭園(心字池)の作庭工事が開始される記録がある 17 |
1811年(文化8年) |
朝鮮通信使の饗応・宿泊施設として使用される 14 |
1919年(大正8年) |
大手櫓門が解体・売却される 9 |
1990年(平成2年) |
大手櫓門が復元される 9 |
1995年(平成7年) |
国の史跡に指定される 9 |
2007年(平成19年) |
旧金石城庭園が国の名勝に指定される 17 |
金石城の歴史は、戦国時代の宗氏内部における激しい権力闘争の中から始まる。その直接的な契機となったのが、享禄元年(1528年)に発生した内乱であった。
15代当主・宗将盛(そう まさもり、初名は盛賢)は、大永6年(1526年)、それまでの居館であった中村館から居を移し、「池の屋形」と呼ばれる新たな館を築いた 13 。この館は現在の厳原市街地にある池神社付近に比定されているが、遺構は現存しない 13 。しかし、将盛がこの新館で政務を執った期間は、わずか2年という短いものであった。
享禄元年(1528年)、豆酘(つつ)郡主の一族であった宗盛治らが謀反を起こし、将盛の居館「池の屋形」を急襲した 12 。この内乱により、池の屋形は炎上、焼失してしまう 10 。この事件は、当時の対馬国内における宗氏本家の支配が必ずしも盤石ではなく、一族内の対抗勢力による挑戦に常に晒されていたことを示している。当主の居館が焼き討ちに遭うという事態は、宗氏の支配体制が深刻な危機に瀕していたことを物語る。
内乱を辛うじて逃れた宗将盛は、新たな拠点の建設を余儀なくされた。彼が選んだ場所は、当時荒廃していた国分寺の東側に広がる空き地であった 10 。この地は、南に金石川が流れ天然の堀をなし、西と北を山に囲まれた、防御に適した要害の地であった 14 。将盛はここに新たな館を築き、これを「金石屋形(かねいしやかた)」と称した 10 。これが、後の金石城の直接的な起源である。なお、城名の読みについては、『津島紀略』に「か祢以志」と記されていることから、地名に由来する「かねいし」が正しく、「きんせき」という音読みは後世のものである 21 。
金石屋形の誕生は、単なる拠点の移転以上の意味を持っていた。それは、内乱という内部の危機を、宗氏が持つ最大の強み、すなわち対外関係の利によって乗り越えようとする戦略の現れであった。宗氏の権力の源泉は、島内の統治力以上に、朝鮮貿易の独占権にあった 2 。したがって、宗将盛がこの危機に際して目指したのは、単に防御力の高い新拠点を作ることだけではなかった。自らの最大の強みである対外的な権威と経済的利益(朝鮮貿易)を集中させる中枢を新たに構築することで、国内の対抗勢力を圧倒し、失墜した権威を再建しようとしたと考えられる。金石屋形の建設は、内向きの守りであると同時に、外向きの強さを誇示するための戦略的な一手だったのである。
戦国時代の「屋形」は、天守や高石垣を備えた近世城郭とは異なり、堀や土塁、柵などで防御された領主の館を中心とするものであったと推測される。金石城跡の発掘調査では、この時期に該当する遺構として第II期(1528年~1679年)が設定されており、その初期の様相が「金石屋形」の姿を物語る 11 。
発掘調査における特筆すべき発見は、朝鮮半島由来の遺物の多さである。特に、朝鮮系の瓦や、流通前の半製品を含む多量の高麗茶碗が出土している点は重要である 11 。これらの遺物は、金石屋形が単なる居住空間や政庁であっただけでなく、朝鮮との貿易品を管理・検分し、さらには茶会などの外交儀礼を執り行うための施設を併設していたことを強く示唆している。高麗茶碗は当時、日本の茶の湯文化において非常に珍重されており、その流通に対馬宗氏が深く関与していたことが、これらの出土品から窺える 11 。
このように、戦国期の金石屋形は、宗氏の居館であると同時に、日朝間の外交と貿易を司る最前線の拠点として機能していた。その構造は、防御施設と外交・交易施設が一体となった、国境の島ならではの複合的な性格を持っていたと考えられる。
戦国時代の終焉を告げた豊臣秀吉の天下統一は、対馬と宗氏を新たな、そして過酷な歴史の渦中へと巻き込んでいく。九州征伐を経て秀吉に臣従した当時の当主・宗義智(そう よしとし)は、その地理的条件と朝鮮との長年にわたる交渉経験から、秀吉が企図した朝鮮出兵(文禄・慶長の役)において、否応なく最前線に立たされることとなった 6 。
対馬は、肥前(佐賀県)の名護屋城から朝鮮半島へ渡る数十万の軍勢と膨大な物資の中継地となり、兵站線における極めて重要な拠点と位置づけられた 15 。金石屋形は、この国家的な軍事行動において、兵站物資の集積・管理、部隊の宿営といった後方支援の中枢、すなわち兵站基地としての役割を担うことになったのである 23 。
この未曾有の対外戦争に際し、金石屋形単独の防備では不十分と判断された。秀吉は、朝鮮・明からの反撃を想定し、対馬の防衛体制を抜本的に強化する必要があった。その結果、秀吉の直接命令により、天正19年(1591年)頃、金石屋形の背後にそびえる清水山(標高210m)の山上に、総石垣造りの堅固な山城「清水山城(しみずやまじょう)」が築かれた 15 。
清水山城は、居住や政務を目的とした城ではなく、純粋な軍事要塞であった。岩盤が露出した険しい尾根上に、石垣で固められた複数の曲輪(郭)が階段状に配置され、虎口(出入口)なども巧みに設計されている 23 。その構造は、明らかに朝鮮半島からの攻撃を想定した籠城拠点としての性格を示しており、金石屋形とは全く異なる目的で築かれた城であった 23 。
これにより、対馬の厳原には、麓の金石屋形と背後の清水山城という、二つの城が一体となって機能する防衛システムが形成された。その役割分担は明確であった。
この二つの城の関係性は、日本の城郭史において画期的な意味を持つ。麓の居館と背後の山城という組み合わせ自体は、日本の城郭によく見られる形態である。しかし、それは通常、領主が日常を過ごす館と、国内の敵対勢力に攻められた際に籠城する山城という、国内の紛争を想定したものであった。
これに対し、金石屋形と清水山城のシステムが想定する「敵」は、国内のライバルではなく、「朝鮮・明からの反撃軍」という 国外の勢力 であった 23 。さらに、清水山城の築城は宗氏の自発的なものではなく、豊臣秀吉の命令による国家プロジェクトであった 22 。したがって、この二つの城が形成した防衛システムは、もはや一地方領主の防衛戦略の範疇を超え、豊臣政権による壮大な大陸侵攻計画の一部として位置づけられるべきものである。宗氏の居城であった金石屋形は、その性格を維持しつつも、国家的な兵站ネットワークの一拠点へとその機能を拡張され、清水山城はその安全を担保するための軍事装置として付加された。これは、城の機能が領主個人のものから国家規模の戦略へとスケールアップした瞬間を物語っている。
表2:文禄・慶長の役における金石城と清水山城の役割比較
項目 |
金石城(金石屋形) |
清水山城 |
立地 |
麓の平地(平城) |
背後の山頂(山城) |
築城主体 |
宗将盛(宗氏) |
豊臣秀吉(命令による) |
構造 |
館、政庁施設、倉庫群など |
石垣、曲輪、虎口など純軍事施設 |
主機能 |
政庁、居住、 兵站基地 |
防衛拠点 、籠城 |
位置づけ |
日常の拠点、後方支援 |
非常時の拠点、詰めの城 |
想定敵 |
(当初)国内の対抗勢力 |
朝鮮・明からの反撃軍 |
文禄・慶長の役という激動の時代を経て江戸時代に入ると、金石城はその性格を大きく変貌させる。戦国期の「金石屋形」は、17世紀後半、特に対馬藩3代藩主・宗義真(そう よしざね)の治世において大規模な拡張・整備が行われ、近世的な「城」としての体裁を整えた 9 。
この大改修により、城の正面には壮麗な大手櫓門(おおてやぐらもん)が築かれ、周囲は石垣で固められ、敵の侵入を阻むための桝形(ますがた)構造も設けられた 11 。天守は持たなかったが、この大手櫓門が城の象徴、すなわち天守の代用とされた 25 。この一連の整備によって、「屋形」は名実ともに「金石城」となったのである。現在、平成2年(1990年)に復元された大手櫓門が、往時の姿を偲ばせている 9 。
この城郭化は、単なる軍事施設の強化を意味するものではなかった。江戸時代、対馬藩は徳川幕府から朝鮮との外交・貿易窓口を正式に委任され、その役割はより公的で儀礼的なものとなった 2 。これに伴い、金石城は
朝鮮通信使 を饗応し、宿泊させるための迎賓館という、新たな重要な役割を担うことになった 14 。
戦国期の金石屋形が、実利(貿易)と実力(軍事)が不可分な、緊張感に満ちた拠点であったのに対し、江戸時代の金石城は、徳川幕府の権威を背景とした「平和的・儀礼的外交の舞台」へとその本質を劇的に転換させた。宗義真による城郭化は、国境の藩として、また外交使節を迎える迎賓館としての「格」を示すためのものであった。壮麗な櫓門や後述する庭園は、軍事力を誇示するためではなく、対馬藩の文化的な成熟と幕府の代理人としての権威を朝鮮側に示すための装置であったと言える。この転換は、城の機能が「武」から「文」へ、すなわち実力行使の拠点から儀礼と饗応の空間へと移行したことを意味し、日本の城が戦乱の時代から泰平の時代へと移り変わる過程を象徴的に示している。
金石城が外交の舞台として具体的に機能した記録は、特に江戸時代後期に見られる。文化8年(1811年)、朝鮮通信使は江戸への長旅を行わず、対馬で国書交換を行うことになった。この際、金石城の建物の一部が増築され、通信使一行の宿舎として充てられた 14 。また、その数年前の文化3年(1806年)から翌年にかけても、通信使を迎えるための大規模な城内整備が行われた記録が残っている 17 。金石城は、まさに日朝友好の最前線に立つ迎賓館だったのである 27 。
江戸時代の金石城を語る上で欠かせないのが、城の西南隅に位置する優美な庭園である。この庭園は、宗家文書『毎日記』に元禄3年(1690年)、「御城」の「心字池(しんじいけ)」の作庭工事が行われたという記事があり、この頃に造営されたと考えられている 17 。
戦後は中学校の校庭の一部となっていたが、平成9年(1997年)から平成16年(2004年)にかけて行われた発掘調査と整備事業により、江戸時代の姿が見事に蘇った 9 。調査の結果、この庭園が極めて高度な技術と意匠をもって作庭されていたことが判明した。池の底には、漏水を防ぐための版築(はんちく)工法が用いられ、見所となる中島や石橋の周辺には、対馬特産の石英斑岩が風化した白色の土を用いて化粧が施されていた 17 。
さらに、中島の水際には細かな玉砂利を敷き詰めた洲浜(すはま)が広がり、巨大な景石へと続くその意匠は、対馬の風光明媚な東海岸の風景を模したものとされ、地域の風土を活かした作庭思想が窺える 17 。この庭園は、単なる藩主の慰めの場ではなく、朝鮮からの賓客をもてなし、対馬藩の文化水準の高さを示すための重要な施設でもあった。その学術的・芸術的価値の高さから、平成19年(2007年)には国の名勝に指定されている 17 。
3代藩主・宗義真は、金石城を外交の迎賓館として整備する一方で、藩の政務を執るための新たな中枢施設の建設にも着手していた。万治3年(1660年)に着工し、18年の歳月をかけて延宝6年(1678年)に完成したのが、金石城の北東に位置する「桟原城(さじきはらじょう)」である 16 。
桟原城が完成すると、対馬藩の政庁機能はそちらへ全面的に移された 12 。移転の理由としては、金石城が手狭であったことや、谷筋の奥に位置するため湿気が多かったことなどが考えられている 30 。しかし、この新拠点の建設は、幕府が定めた一国一城令(大名の領国には一つの城しか認めない法令)に抵触する可能性があった。
そこで対馬藩は、巧みな方便を用いた。表向きには、古くから存在する金石を対馬国唯一の「城」とし、新たに政庁とした桟原のことは「屋形(やかた)」あるいは「館」と呼称したのである 30 。実質的な政治・行政の中心は桟原屋形であったが、公式には金石城が対馬府中藩の城とされ続けた。
この「実質的な機能」と「形式的な権威」の分離は、近世武家社会における興味深い事例である。藩政運営上、より機能的で大規模な新拠点(桟原)が必要となるのは自然な流れであったが、幕府の法規制を遵守する必要もあった。そこで宗氏は、政治の「実」を桟原(屋形)に移しつつ、対馬国唯一の城という「形式・権威」を金石に残した。これにより、金石城は政庁の中心ではなくなっても、宗氏の歴史的正統性と対馬国の城としての象徴的地位を保持し続けることになったのである。
政庁機能が移転した後も、金石城は完全にその役割を終えたわけではなかった。前述の通り、朝鮮通信使の客館としての機能は維持され、外交の舞台として重要な役割を担い続けた 27 。また、22代藩主・宗義倫が金石城で政務を執ったという記録もあり、限定的ながらも藩の施設として利用されていたことがわかる 5 。
しかし、明治維新を迎えると、金石城はその歴史的役割を終える。城内の屋形は明治24年(1891年)頃まで存在したが、その後解体された 14 。城の顔であった大手櫓門も、大正8年(1919年)に解体され、一説には京都かどこかの寺院に売却されたと伝わっている 9 。
戦後は敷地が厳原中学校の校地となるなど、城の遺構は失われつつあったが、その歴史的価値が再評価される機運が高まり、平成7年(1995年)に国の史跡に指定された 14 。これを契機に本格的な発掘調査と保存整備事業が開始され、大手櫓門の復元や旧金石城庭園の復原が実現し、今日の姿に至っている 17 。現代の我々が「金石城跡」を訪れるとき、そこには戦国期の屋形、文禄・慶長の役の兵站基地、江戸期の迎賓館、そして近世を通じて「城」という格式を担い続けた象徴的空間という、幾重にも重なった歴史の層が存在しているのである。
金石城の歴史は、単一の機能や時代に収斂されるものではない。それは、対馬という国境の島が経験した歴史の変遷を、その身に刻み込んだ多層的な存在である。その歴史的役割は、少なくとも三つの異なる時代精神を体現している。第一に、 戦国期の内部抗争の中から生まれ、対外交易を生命線とする領主の拠点であった「金石屋形」 。第二に、 豊臣政権の世界戦略に組み込まれ、対外戦争の兵站基地としての役割を担った城 。そして第三に、**徳川の泰平の世における平和外交の迎賓館として華やかに彩られた「金石城」**である。
この多層性こそが、史跡としての金石城の最大の価値である。日本の他の城郭とは一線を画す、国境の島・対馬の特殊な歴史を物語る第一級の史料であり、特に清水山城との一体的な防衛システムや、朝鮮通信使の饗応という具体的な歴史の舞台であった点は、日朝交流史を理解する上で不可欠な価値を持つ。発掘調査と復元整備によって蘇った庭園や櫓門は、往時の対馬藩の文化水準と、外交に懸けた情熱を現代に雄弁に伝えている。
現代において、金石城が持つ意義は大きい。緊張と友好が繰り返された日朝関係の歴史を体現する場として、金石城は我々に多くの示唆を与える。それは、対立の時代には軍事拠点となり、平和な時代には文化交流の架け橋となった場所である。この歴史の両側面を学ぶことは、現代の国際関係を考える上でも重要な視点を提供する。
近年、金石城跡に隣接して「対馬朝鮮通信使歴史館」が開館した 27 。ユネスコ「世界の記憶」に登録された「朝鮮通信使に関する記録」を後世に伝えるこの施設と連携し、金石城は歴史を未来に伝えるための重要な拠点としての新たな役割を担っている。戦国の動乱から近世の平和外交まで、日本の対外関係史の縮図ともいえる金石城は、過去を学び、未来を考えるための貴重な遺産として、これからもその価値を放ち続けるであろう。