鏡山城
安芸国における大内氏の拠点城郭 ― 鏡山城の総合的研究
序論:戦国史における鏡山城の意義
広島県東広島市に現存する国史跡「鏡山城跡」は、戦国時代前期を代表する大規模な山城として知られている 1 。この城は、単に一地方の城跡に留まらず、西国最大の守護大名・大内氏による安芸国支配の盛衰、そして後の中国地方の覇者・毛利元就の台頭に深く関わる、歴史の転換点を目撃した重要な舞台であった。本報告書は、この鏡山城について、築城から廃城に至る歴史、城郭構造、戦略的価値、そして歴史的逸話の真相を、最新の研究成果と史料批判に基づき徹底的に解明するものである。
一般的に鏡山城は、大永三年(1523年)に毛利元就の謀略によって落城した「鏡山城の戦い」の舞台として広く認識されている 2 。しかし、その歴史は応仁の乱の時代にまで遡り、また落城の経緯についても、後世に成立した軍記物語と信頼性の高い一次史料との間には大きな隔たりが存在する。本報告書では、これらの多層的な歴史を解きほぐし、安芸国の政治史・軍事史における鏡山城の実像に迫ることを目的とする。
第一章:鏡山城の黎明 ― 築城から応仁の乱まで
鏡山城の歴史は、毛利元就が登場する戦国時代中期よりも遥か以前、南北朝の動乱期にまで遡る。その成立と初期の歴史は、周防国を本拠とする大内氏が、隣国である安芸国へといかにして勢力を伸長させていったかの過程と密接に結びついている。
鏡山城 関連年表
西暦(和暦) |
出来事 |
主要人物 |
典拠・意義 |
1360年代頃 |
鏡山城、築城される(推定) |
大内弘世 |
2 考古学的知見。大内氏の安芸進出と同時期。 |
1460-65年(寛正年間) |
文献に初見(『細川勝元感状写』) |
細川勝元、小早川煕平 |
2 史料上で存在が確認される。 |
1467-77年(応仁・文明の乱) |
安芸武田氏らと争奪戦の舞台となる |
大内政弘、安芸武田氏 |
2 応仁の乱における安芸国の混乱を象徴。 |
1474年頃(文明6年) |
仁保弘有が籠城、安富行房に攻められ落城 |
仁保弘有、安富行房 |
6 大内氏の内紛と応仁の乱が連動した事件。 |
1478年(文明10年) |
「安芸国西条鏡城法式条々」制定 |
大内政弘 |
7 現存最古の城掟。城の管理的側面を示す。 |
1523年(大永3年)6月 |
鏡山城の戦い。尼子軍の攻撃により落城 |
尼子経久、蔵田房信、毛利元就、平賀弘保 |
2 大内氏の安芸支配が一時的に後退。 |
1525年(大永5年)頃 |
大内氏が鏡山城を奪還。その後、廃城となる |
陶興房 |
2 拠点が杣城(曽場が城)へ移転。 |
1998年(平成10年)1月14日 |
国の史跡に指定される |
- |
1 歴史的価値が公的に認められる。 |
第一節:築城年代と地理的要件
鏡山城が歴史の舞台に登場する時期については、二つの異なる時間軸が存在する。文献史料における初見は、寛正年間(1460-65年)に比定される「細川勝元感状写」という文書である 2 。しかし、城跡で実施された発掘調査から出土した遺物の分析により、実際の築城はさらに約1世紀遡る南北朝時代の1360年代頃まで遡る可能性が極めて高いとされている 2 。この時期は、周防・長門を本拠とする大内氏が、室町幕府の承認のもと安芸国への進出を本格化させた時期と完全に一致する。当初南朝方であった大内氏は、幕府(北朝)から「安芸国は切り取り次第」という条件を提示され、北朝方へと転向し、その強力な軍事力をもって安芸国に勢力を拡大した 11 。鏡山城は、この大内氏の安芸国経営の初期段階において、その橋頭堡として築かれたと考えられる。
城が築かれた西条の地は、戦略的に極めて重要な位置を占めていた。西条盆地の中央部に位置する標高335mの鏡山は、古代山陽道をはじめとする交通の要衝を見下ろすことができた 11 。当時、大内氏は九州の博多港を掌握し、日明貿易や日朝貿易によって莫大な富を蓄積していた 11 。この経済力を背景に、博多から京へと至る瀬戸内海の制海権を確保することは、大内氏の国家戦略の根幹をなすものであった。その過程で、領国周防の東に隣接し、畿内の細川氏との勢力圏の接点となる安芸国に、安定的かつ強力な拠点を確保する必要があり、その拠点として鏡山が選ばれたのである 11 。
第二節:大内氏の安芸国支配と「東西条代官」
南北朝時代の1360年代以降、現在の東広島市の大部分と呉市の一部を含む地域は「安芸国東西条」と呼ばれ、大内氏の直轄領地として組み込まれた 6 。この重要拠点を統治するため、大内氏は鏡山城に「東西条代官」を派遣した。この職務は単なる地方官ではなく、大内氏の分国支配体制において極めて重要な役割を担っていた。
任命された人物の顔ぶれは、その重要性を如実に物語っている。内藤弘矩、杉武明、杉弘相、そして陶興房といった、大内家の守護代クラスの重臣が歴代の代官として名を連ねている 6 。彼らの地位は、他の分国における郡代よりも守護代に近い、高いレベルの軍事・行政権限を有していたと推察される 15 。ただし、これらの重臣は本拠地である山口での政務も兼ねていたため、常に鏡山城に在城することは難しかった。そのため、彼らの代理として現地の統治を担う「小郡代」と呼ばれる又代官が置かれることもあった 8 。鏡山城は、こうした重層的な支配体制の中心に位置づけられていたのである。
この城が単なる一時的な軍事施設ではなく、恒久的な行政拠点であったことは、その運営体制からも窺える。城の維持管理は、「鏡城衆」と呼ばれる大内氏に従属する東西条の中小武士団が交代で城番を務めることによって担われていた 8 。さらに、城の維持管理費を賄うための「城料所」として、近隣の原村(現・八本松町原)に50貫文の土地が設定されていた記録も残っている 8 。これらの事実は、鏡山城が制度化された統治機構に支えられた、大内氏の安芸国における政庁(守護所)であったことを示している。
第三節:応仁・文明の乱における攻防
応仁元年(1467年)に京都で勃発した応仁の乱は、全国に波及し、安芸国もまた東西両軍に分かれて激しい戦乱の渦に巻き込まれた。大内氏の重要拠点である鏡山城もその例外ではなく、安芸国の旧守護であった安芸武田氏や、沼田小早川氏といった在地勢力との間で、繰り返し争奪戦の対象となった 2 。
この時期の鏡山城を巡る攻防で特に注目すべきは、応仁・文明の乱の最中に発生した「文明鏡山合戦」である。当時、西軍の主力として在京していた大内政弘の留守中、当主の叔父である大内教幸が反乱を起こした。この内紛に呼応し、東西条代官として鏡山城を守っていた仁保弘有が東軍に寝返り、鏡山城に籠城するという事件が発生した 16 。これにより、鏡山城は西軍大内氏にとって敵の拠点と化してしまった。
事態を重く見た大内政弘は、ただちに新たな東西条代官として安富行房を任命し、平賀氏をはじめとする味方の安芸国人衆を率いて鏡山城の奪還を命じた 6 。安富行房率いる大内軍は鏡山城を包囲し、攻防戦は約4ヶ月にも及んだ。籠城する仁保弘有は備後国の山名是豊に援軍を要請したが、援軍が到着することはなかった 6 。そして文明6年(1474年)10月中旬、大内軍は城の生命線である「水の手」(水汲み場)を占領することに成功し、水利を断たれた鏡山城はついに力尽き、落城した 6 。この一連の攻防は、中央の政争が地方の支配体制をいかに揺るがしたか、そして鏡山城がいかに重要な戦略拠点であったかを物語る事例である。
第二章:城郭の構造 ― 縄張りと防御施設
鏡山城は、戦国時代前期を代表する大規模な山城であり、その遺構は当時の築城技術と思想を現代に伝える貴重な文化遺産である。城の縄張り(設計)は、単に戦闘における防御効率を追求するだけでなく、支配者の権威を視覚的に示す機能も併せ持っていた。
第一節:全体構造と設計思想
鏡山城の城域は、標高335mの鏡山の山頂部を中心に、東西南北約300m四方という広大な範囲に展開している 1 。城郭設計の基本は、山頂から東西に延びる主尾根の両端を、巨大な堀切(人工的に尾根を分断する空堀)によって遮断し、城域を独立した防御区画として画定する点にある 11 。これにより、城は外部からの侵入に対して明確な防御ラインを形成している。
縄張りは、山頂の主郭部を核として、そこから派生する北、南、東、西の各尾根上に郭(曲輪)群を巧みに配置する、中世山城の典型的な連郭式と梯郭式を組み合わせた構造を持つ 4 。しかし、鏡山城の設計思想は、単なる実用的な防御施設の集合体にとどまらない。後述する畝状竪堀群の圧倒的な景観や、各郭の計画的な配置は、来訪者や周辺地域の住民に対して大内氏の権威と軍事力を誇示する、「見せる城」としての意図が明確に見て取れる 11 。これは、城郭が軍事拠点であると同時に、地域の政治的・経済的中心地として機能していたことの物理的な証左である 17 。
第二節:各曲輪の構成と推定される機能
鏡山城は、機能の異なる複数の郭によって構成されており、それぞれが城内において特定の役割を担っていたと考えられる。
- 一郭(御殿場) : 城内で最も高い位置にある本丸であり、城の中枢部である 5 。その周囲は高さ13mから23mにも達する急峻な切岸(人工的な崖)によって固く守られている 11 。郭内には建物の基礎となる基壇や礎石が多数残存しており、多くの建物が建ち並んでいたことがうかがえる。その名称が示す通り、城主である東西条代官の居館や政務を執り行う施設が存在した、文字通りの「御殿場」であったと推定される 11 。
- 二郭(中のダバ) : 一郭のすぐ東側に隣接し、一体となって主郭部を形成する重要な郭である。「ダバ」とは「段場」、すなわち平坦地を意味する言葉が転訛したものと考えられ、主郭内の主要な区画であったことがわかる 11 。
- 三郭(馬のダバ) : 主郭部の南側に位置し、大手道から主郭へ至る経路上に設けられた防御の要である。「馬」は方角を示す十二支の「午(南)」を指す可能性が指摘されており、南側からの攻撃に対する最前線であった 11 。南斜面に広がる畝状竪堀群と連携し、敵の登攀を効果的に阻害する役割を担っていた 11 。
- 四郭と大手道 : 南側へ舌状に突き出すように配置された郭で、石垣と土塁によって厳重に防御されている 16 。この郭から南郭群へと道が伸びていることから、城の正面玄関にあたる大手門がこの位置にあったと強く推定されている 11 。この道こそが、城の公式な登城路である大手道であったと考えられる。
- 五郭(下のダバ) : 大手道沿いに位置する広大な平坦地で、城内でも特徴的な空間である。礎石を用いた建物跡や、儀礼的な施設を思わせる小規模な築山状の遺構が確認されていることから、来客を応接するための会所や、公的な儀礼を行うための空間であった可能性が指摘されている 11 。
- 出丸群 : 主郭部を守るため、外縁部にも防御拠点が設けられていた。西側には城内最大規模の出丸である「藤の出丸」が、東側には「東出丸」が存在し、それぞれが独立した防御拠点として機能し、多方面からの攻撃に備えていた 4 。
このように、鏡山城の内部は、政務・居住空間(主郭)、迎賓・儀礼空間(五郭)、そして純粋な軍事施設(出丸、竪堀群)が明確に区画されており、その縄張りは、政治的・社会的な機能を内包した複合的空間として高度に設計されていたことがわかる。
第三節:特筆すべき遺構
鏡山城跡には、戦国時代前期の築城技術を伝える数多くの遺構が良好な状態で残されているが、中でも以下の二つは特筆に値する。
- 畝状竪堀群 : 鏡山城の最大の見どころであり、その軍事的特徴を最もよく示す遺構である 21 。これは、山の急斜面を削り、多数の縦方向の溝(竪堀)を櫛の歯のように並べた大規模な防御施設である 11 。この構造の主たる目的は、斜面を登ってくる敵兵の横移動を物理的に不可能にし、その動きを竪堀内の縦方向に限定させることにある。これにより、防御側は敵兵の動きを予測しやすくなり、城の上部から弓矢や投石による効率的な攻撃を加えることができた。鏡山城では、主郭部の南北両斜面にこの畝状竪堀群が設けられており、その圧倒的な景観は、敵の戦意を削ぐとともに、大内氏の築城技術の高さを誇示する視覚的な効果も絶大であったと考えられる。
- 井戸跡 : 城郭における水の確保は、籠城戦を想定する上で死活問題である。鏡山城内では、現在までに5箇所もの井戸跡が確認されている 11 。発掘調査によって構造が判明した井戸は、底に水を通しにくい白色粘土を貼り詰めることで水漏れを防ぎ、雨水などを貯留する「溜井戸」として造られていた 11 。これほど多くの井戸が計画的に設けられていたという事実は、鏡山城が長期の籠城に耐えうる設計であったこと、そして東西条代官とその配下、さらには「鏡城衆」と呼ばれる在番の武士団など、多くの人々が城内で恒常的に生活していたことを物語る重要な証拠である 11 。
第四節:発掘調査で判明した事実
近年の考古学的調査により、文献史料だけでは知り得なかった鏡山城の具体的な姿が明らかになりつつある。
- 火災の痕跡 : 主郭部にあたる一郭から五郭にかけての調査では、多くの岩や建物の礎石が熱によって赤く変色していることが確認されている 6 。これは、大永三年(1523年)の「鏡山城の戦い」において城が落城した際、城全体が激しい炎に包まれたという歴史的事件を、考古学的に裏付ける動かぬ証拠である 6 。
- 出土遺物 : 城跡からは、当時の生活を窺い知ることができる様々な遺物が出土している。特に、備後国の草戸千軒町遺跡(中世の港町)で出土するものと同時期の陶磁器などが発見されており、鏡山城が瀬戸内海地域の広域な経済圏と密接に結びついていたことが示唆される 23 。また、四郭(大手門推定地)付近の調査では、城門の扉の軸受けをはめ込むための円形の刳り込みを持つ石製の唐居敷(敷居)が、設置された当時の位置のまま発見された 24 。これは、鏡山城に石材を用いた堅固な門が存在したことを具体的に示しており、城の格式の高さを物語っている。これらの考古学的成果は、鏡山城が単なる土の城ではなく、石材も効果的に用いた高度な技術で築かれていたことを明らかにしている。
第三章:鏡山城の戦い(大永三年) ― 謀略と史実
大永三年(1523年)、鏡山城は落城の時を迎える。この「鏡山城の戦い」は、毛利元就の智謀を象徴する逸話として後世に語り継がれてきた。しかし、近年の史料研究は、その通説に大きな疑問を投げかけている。本章では、通説として知られる軍記物語の記述と、一次史料に基づく歴史的実像を比較検討し、この戦いの真相に迫る。
第一節:合戦の背景
16世紀初頭の中国地方は、周防を本拠とする大内義興と、出雲から急速に勢力を拡大した尼子経久という二人の戦国大名が覇を競う時代であった 9 。安芸国は、両勢力が直接衝突する最前線となっていた。
大永三年(1523年)、大内義興が九州における少弐氏との戦いのために本国の主力を率いて出陣すると、中国地方に一時的な力の空白が生じた 9 。この好機を捉えた尼子経久は、安芸国における大内氏の勢力を一掃すべく、大攻勢を開始した。その最大の標的とされたのが、大内氏の安芸支配の拠点である鏡山城であった。
この時、安芸国の多くの国人衆は、尼子氏の勢威に服属していた。後の中国地方の覇者となる毛利氏もその一つであり、当主はまだ幼い幸松丸で、叔父の毛利元就が後見人として家政を担っていた 9 。同じく有力国人であった吉川氏も尼子方に属しており、尼子経久はこれらの安芸国人衆を先鋒として動員し、鏡山城へと進軍させた 9 。
第二節:通説における戦闘経過 ― 毛利元就の謀略
江戸時代に成立した『陰徳太平記』などの軍記物語において、「鏡山城の戦い」は、若き毛利元就の智将としての才能が遺憾なく発揮された戦として劇的に描かれている 27 。この物語は広く知られ、今日における鏡山城の一般的なイメージを形成している。
その内容は以下の通りである。
- 攻防の膠着 : 尼子・毛利連合軍の攻撃に対し、鏡山城を守る大内方の城将・蔵田房信は寡兵ながらも勇猛に防戦し、城は容易に落ちなかった。攻め手は大きな損害を出し、戦線は膠着状態に陥った 2 。
- 元就の調略 : この状況を打開するため、毛利元就は一計を案じる。彼は、城の副将を務めていた房信の叔父・蔵田直信(日向守)が、甥である房信に対して家督を巡る不満を抱いていることを見抜いた。元就は密かに直信に接触し、「房信を裏切って城内に兵を導き入れれば、戦功として蔵田家の家督と所領を安堵する」という破格の条件を提示して内応を誘った 9 。
- 落城と蔵田一族の悲劇 : 家督と利欲に目が眩んだ直信は、この誘いに乗り、自らが守備する二の丸から尼子軍を手引きした。予期せぬ内部からの攻撃に城内はたちまち大混乱に陥った。城主・房信は本丸に籠もり、一昼夜にわたって最後の抵抗を試みたが、もはやこれまでと覚悟を決め、妻子及び城兵の助命を条件に自刃して果てた 9 。
- 戦後の確執 : 戦後、尼子経久は房信が願った城兵らの助命は認めたものの、主君を裏切った蔵田直信の行為を「不義の至り」と断じ、処刑を命じた。これにより、直信に家督を約束していた元就の面目は丸潰れとなり、約束を反故にされた形となった。さらに、最大の功労者であったにもかかわらず、毛利氏には十分な恩賞が与えられなかった。この一件が、元就に尼子経久への根深い不信感を抱かせ、後の離反に繋がった、と物語は締めくくられる 9 。
第三節:一次史料に基づく再検討
この劇的な元就の謀略説は、彼の「謀将」としてのイメージを決定づけたが、近年の歴史研究では、その史実性に重大な疑義が呈されている。この物語の多くは、毛利氏の権威を高める目的で江戸時代に編纂された軍記物に依拠しており、後世の創作である可能性が極めて高いと指摘されている 6 。
この説を覆す強力な根拠となるのが、同時代に書かれた信頼性の高い一次史料、特に『平賀家文書』に残された記録である。これらの史料を分析すると、軍記物語とは全く異なる合戦の様相が浮かび上がってくる。
- 恩賞に見る真の功労者 : 戦後の恩賞に関する記録は、合戦における実際の貢献度を客観的に示す最も重要な指標の一つである。史料によれば、鏡山城落城後、尼子氏から最も手厚い恩賞を与えられたのは、毛利氏ではなく、同じく安芸国人であった平賀弘保であった。平賀弘保には600貫余りという広大な所領が加増されたのに対し、毛利氏の家臣の中で最も功績があったとされる粟屋元秀への加増は、わずか70貫に過ぎなかった 6 。
- 功績の再評価 : この8倍以上にもなる恩賞の格差は、偶然では説明がつかない。これは、鏡山城を陥落させる上で、決定的な役割を果たしたのが平賀弘保の軍勢であったことを強く示唆している。毛利氏がこの戦いに尼子方として参加したことは事実であるが、その役割は限定的であり、落城の主役は平賀氏であったと考えるのが妥当である。したがって、元就の謀略という逸話は、史実というよりも、後の時代に「英雄・毛利元就」の物語を形成するために創り上げられたものと捉えるべきであろう。
この戦いの歴史的意義は、戦闘の経過そのものよりも、むしろ戦後処理がもたらした政治的力学の変化にある。元就の謀略が事実であったか否かにかかわらず、この戦いが毛利氏にとって大きな転機となったことは確かである。戦功に対する恩賞問題などを通じて、元就が尼子経久に対して強い不信感を抱いたことは、複数の資料から示唆されている 9 。この不信感こそが、わずか2年後の大永五年(1525年)、元就が尼子氏を見限り、宿敵であった大内氏へと鞍替えする決断を下す直接的な伏線となった 9 。この戦略的転換は、安芸国における尼子・大内両勢力のパワーバランスを根底から揺るがし、毛利氏が両大名の狭間で巧みに立ち回り、自立への道を歩み始める第一歩となった。鏡山城の戦いは、毛利元就が単なる一国人から戦国大名へと脱皮していく上で、避けては通れない画期的な出来事だったのである。
第四章:終焉 ― 奪還、拠点移転、そして廃城へ
大永三年の落城により、鏡山城はその歴史の頂点を迎えるとともに、終焉への道を歩み始める。大内氏による奪還後、城は再興されることなく放棄され、安芸国支配の拠点は新たな城郭へと移されていった。この拠点移転の過程は、大内氏の安芸国支配戦略の転換を象徴するものであった。
第一節:大内氏による奪還と戦略転換
鏡山城の失陥は、大内氏の安芸国支配にとって深刻な打撃であった。大内義興は直ちに反撃体制を整え、重臣中の重臣である陶興房を総大将とする大軍を安芸国に派遣した 6 。大内軍の攻勢に加え、大永五年(1525年)には毛利元就が尼子方から大内方へと寝返ったこともあり、戦局は大きく転換した 9 。同年頃には、大内氏は安芸国のほぼ全域の再掌握に成功し、鏡山城も奪還を果たした 2 。
しかし、大内氏は奪還した鏡山城を安芸支配の拠点として再利用する道を選ばなかった。代わりに、西条盆地の西端に位置する曽場が城山に、新たに杣城(そまじょう、一般には曽場が城として知られる)を築城し、ここを新たな拠点とした 2 。これは、大内氏の安芸国に対する戦略が、鏡山城落城を契機に新たな段階に入ったことを示している。
さらに時代が下った天文十二年(1543年)、拠点は曽場が城からさらに南に位置する槌山城へと移された 12 。槌山城は、安芸国のみならず備後国南部をも管轄する守護所としての機能を担い、大内氏のこの地域における支配体制の中核を成すことになった 12 。
第二節:廃城の理由と歴史的役割の終焉
大永五年(1525年)頃に実質的にその役割を終えた鏡山城が、なぜ放棄されたのか。その理由については、複数の戦略的・地理的、そして心理的要因が複合的に作用したと考えられる。
- 防御上の脆弱性 : 尼子氏の攻撃によって一度は落城したという事実は、鏡山城の防御能力に限界があったことを大内氏に認識させた可能性がある。後世の評価として「比高も低く要害の地でも無い」との指摘もあり、より堅固な城郭が求められたことは想像に難くない 2 。
- 地理的・戦略的優位性の変化 : 新たに築かれた城郭は、鏡山城を凌駕する地理的優位性を持っていた。曽場が城は標高606mと鏡山城(標高335m)よりも遥かに高く、山陽道の難所であった大山峠を直接見下ろす位置にあり、交通路の監視・遮断能力に優れていた 12 。また、槌山城は西条盆地の出入り口を押さえる戦略的要地にあり、より広範囲を俯瞰できるだけでなく、安芸・備後両国を統治する行政拠点として適した立地であった 12 。大内氏の支配体制が、単なる前線での軍事対峙から、より広域的で安定した領域支配へと移行する中で、拠点の機能もそれに合わせて変化する必要があった。
- 心理的要因 : 一度敵の手に落ちた城を、再び自らの本拠として使用することに対する心理的な抵抗感、すなわち「縁起が悪い」という観念も、廃城の一因であったとする説も存在する 16 。
これらの要因が重なり、鏡山城は大永五年(1525年)頃に廃城となり、その後二度と歴史の表舞台に登場することはなかった。鏡山城から曽場が城、そして槌山城へと続く拠点移転の軌跡は、大内氏の安芸国支配が、国人衆を抑えながら勢力を維持する不安定な「前方展開拠点」の段階から、より安定的で制度化された「領域支配の恒久拠点」へと質的に変化したことを象徴する出来事であった。鏡山城の終焉は、まさにその戦略的転換点を示すものであったと言える。
第五章:史跡としての価値と現代
戦闘の舞台としての役割を終えた鏡山城は、その後400年以上の時を経て、日本の歴史を物語る貴重な史跡として新たな価値を見出されることになった。特に、城跡そのものが持つ考古学的価値と、城に関連する文献史料が持つ歴史的価値は、他に類を見ない重要性を有している。
第一節:現存最古の城掟「安芸国西条鏡城法式条々」
鏡山城が日本の城郭史において特異な地位を占める最大の理由の一つが、「安芸国西条鏡城法式条々」の存在である 1 。これは、文明十年(1478年)に、当時大内氏の当主であった大内政弘によって制定された、鏡山城の管理・運営に関する5カ条の規則である。この文書は、現存が確認されている中では日本最古の「城掟(じょうおきて)」とされ、中世城郭が具体的にどのような規律の下で維持されていたかを知る上で、極めて貴重な一級史料である 7 。
その条文は、現代語に訳すと以下のようになる 7 。
- 城番の勤務は、本人が直接務めるべきであり、代理人に務めさせてはならない。
- この城の普請(整備・修繕)は、毎日怠ることなく行うこと。
- たとえ城番の知人であっても、許可なく城内に入れてはならない。
- 常に城内に蓄えている食料は、平時であっても城番に配給してはならない。
- 博打(賭博)は固く禁止する。この定めに背く者は厳罰に処す。
これらの条文からは、厳格な規律が城内に敷かれていたことが鮮明に読み取れる。職務の厳正(第一条)、施設の維持管理(第二条)、情報保全と防諜(第三条)、兵糧の厳格な管理(第四条)、そして風紀の維持(第五条)に至るまで、城を一つの独立した組織として機能させるための具体的な規則が定められている。
この城掟は、大内氏の分国法(領国経営のための法律)として知られる「大内家壁書」の一部として伝わっており、大内氏がいかに体系的かつ法に基づいた領国経営を行っていたかを示す好例である 7 。戦国時代というと「下剋上」や「武力こそが全て」という混沌としたイメージが強いが、大内氏のような有力大名の支配下では、このような成文化された法規によって重要拠点が管理・統制されていたのである。この城掟の存在は、鏡山城が単なる「戦いの場」ではなく、中世社会における「法と秩序の空間」であったことを証明しており、その歴史的価値を一層高めている。
第二節:国史跡としての保存と活用
鏡山城跡は、戦国時代前期における守護大名の拠点城郭の姿を、極めて良好な状態で今日に伝えている。その歴史的・考古学的価値の高さから、平成十年(1998年)1月14日、国の史跡に指定された 1 。
現在、城跡一帯は鏡山公園として整備されており、多くの市民や歴史愛好家が訪れる場所となっている 1 。公園の入口から山頂の本丸跡までは徒歩約20分で到達でき、ハイキングコースを散策しながら、往時の姿を偲ぶことができる 1 。見どころは数多く、郭を区切る土塁や堀切、往時を偲ばせる崩れた石垣、籠城戦を支えた井戸跡、そして何よりも圧巻なのは、山の斜面を埋め尽くす畝状竪堀群である 1 。山頂からは西条盆地を一望でき、大内氏がなぜこの地を拠点として選んだのか、その戦略的意図を体感することができる 3 。
一方で、史跡の保存には課題も存在する。特に平成30年(2018年)の西日本豪雨では、城跡の一部が被害を受け、現在も立ち入りが制限されている箇所がある 10 。自然地形を利用した山城であるからこそ、風雨による浸食や崩落の危険は常にあり、文化財としての価値を未来へ継承していくための継続的な維持管理が求められている。
現在、東広島ボランティアガイドによる案内なども実施されており、鏡山城は地域の歴史を学び、伝えるための重要な文化遺産として活用されている 1 。その壮大な遺構は、訪れる人々に戦国時代の息吹を静かに語りかけている。
結論:鏡山城が戦国史に刻んだもの
鏡山城は、南北朝期の黎明から戦国期における終焉までの約150年間にわたり、西国における政治・軍事の力学を体現する存在であった。その歴史は、周防の大内氏による安芸国支配の拠点として始まり、応仁の乱における地方の動揺、出雲の尼子氏の台頭、そして後の覇者・毛利氏の飛躍という、戦国時代の大きな歴史的転換点を凝縮している。
本報告書で明らかにしたように、鏡山城の価値は複合的である。まず、その城郭遺構は、畝状竪堀群に代表される戦国時代前期の高度な築城技術の粋を示しており、考古学的に極めて重要である。同時に、「安芸国西条鏡城法式条々」のような比類なき文献史料は、中世武家社会における城郭運営と法秩序の実態を具体的に伝え、史料的価値も計り知れない。
また、毛利元就の謀略によって落城したという有名な逸話は、近年の研究によって史実とは異なる可能性が示された。しかし、この物語自体が、後の時代に「英雄」のイメージがどのように形成され、語り継がれていったかを示す、歴史叙述史(historiography)の観点から興味深い研究対象である。史実の探求と、物語の解釈を両立させることこそ、鏡山城の歴史を深く理解する鍵となる。
国史跡として保存される鏡山城は、単なる過去の遺物ではない。それは、戦国時代の社会構造、戦略思想、法の支配、そしてそこに生きた人々の営みを我々に語りかける、生きた歴史の証人なのである。その壮大な遺構と、そこに秘められた多層的な物語は、これからも日本の歴史を学ぶ上で重要な示唆を与え続けるであろう。
引用文献
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- 【鏡山城跡】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet https://www.jalan.net/kankou/spt_34212af2170021007/
- 鏡山城 [1/2] 西国の守護大名 大内氏の拠点だった巨大山城。 https://akiou.wordpress.com/2018/08/22/kagamiyamajo/
- 鏡山城 - 戦国の城を訪ねて http://oshiromeguri.net/kagamiyamajo.html
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- え、そうなん?知らんかった! 東広島にある3つの国史跡 https://higashihiroshima-digital-sightseeing.com/sightseeing-spot-161008-kokusiseki/
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- 国宝松本城:歴史の中で輝く黒い城 - 日ノ本文化財団 https://hinomoto.org/blog/matsumoto-castle/
- 鏡山城の見所と写真・100人城主の評価(広島県東広島市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/551/
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- 鏡山公園 - 東広島おでかけ観光サイト「ヒガシル」 https://higashihiroshima-kanko.jp/spot/kagamiyama-park/