長野城
伊勢長野城は、長野工藤氏の本拠。山頂の詰城と麓の防御施設からなる複合城郭は、中世国人領主の生存戦略を体現。北畠氏との抗争、織田信長の侵攻を経て廃城。遺構は今も歴史を語る。
伊勢国 長野城 ―中伊勢の雄・長野工藤氏の興亡と城郭群の全貌―
序論:中伊勢に君臨した孤高の山城
本報告書は、伊勢国(現在の三重県津市美里町)に存在した長野城を、単一の城郭としてではなく、その主であった長野工藤氏の約350年にわたる興亡の歴史と不可分な「複合的城郭群」として捉え直すことを目的とする。特に、戦国時代という激動期において、中伊勢の有力な国人領主が、いかにしてその勢力を維持し、そして中央の巨大な権力(織田氏)の前にいかにして解体されていったのかを、長野城の構造と運命を通して詳細に分析する。
利用者様が提示された概要情報を基点としつつ、本報告書では城郭の構造論、一族の内部動態、そして周辺勢力との関係性の三つの軸から、より深く、多角的な知見を提供する。長野城は、その峻険な立地だけでなく、麓の防御施設群と一体となることで、中世から戦国期にかけての国人領主の生存戦略を物理的に体現している。その歴史を紐解くことは、伊勢一国の動乱のみならず、戦国という時代の権力構造の変遷を理解する上で、極めて重要な示唆を与えるものである。
第一章:長野工藤氏の起源と勢力基盤の確立
第一節:工藤氏の系譜と伊勢入部
伊勢国に勢力を張った長野氏は、その出自を藤原南家に遡り、鎌倉幕府の有力御家人であった工藤祐経を祖とする、格式高い一族である。『曽我物語』における「曽我兄弟の仇討ち」で知られる工藤祐経の三男・祐長が、伊勢平氏の残党討伐における功績により、伊勢国安濃郡・奄芸郡の地頭職を与えられたことが、伊勢長野氏の歴史の幕開けであった。
祐長の伊勢入部は、鎌倉幕府が全国にその支配体制を確立していく過程で、東国の有力御家人を西国の要地に配置した典型的な事例と見なすことができる。そして延応元年(1239年)、祐長の子である祐政が父の所領に来住し、その地の名にちなんで「長野氏」を名乗った。これにより、東国武士であった工藤氏は、伊勢の地に深く根を下ろす国人領主「長野工藤氏」として、新たな歩みを始めることとなった。
第二節:長野城の築城と南北朝の動乱
長野氏の本拠となる長野城本体は、文永十一年(1274年)、二代当主・祐藤によって築かれたと伝えられている。この年は、奇しくも元寇(文永の役)の年にあたり、幕府による西国沿岸の防衛体制強化という大きな時代の要請が、築城の背景にあった可能性も否定できない。伊勢・伊賀の国境に位置するこの城は、鎌倉幕府の地方における軍事拠点としての役割も期待されていたと考えられる。
時代が下り、南北朝の動乱が始まると、伊勢国は大きな転換点を迎える。南朝方の国司として伊勢に入部した北畠氏が勢力を伸張させると、在地領主として既得権益を持つ長野氏は、自らの立場を守るため北朝方(室町幕府方)に与した。ここから、伊勢の覇権を巡る長野氏と北畠氏の、数百年にわたる宿命的な抗争が開始されるのである。
この時代の長野城の堅固さを示す逸話が、『太平記』に記されている。延文五年(1360年)、室町幕府内部の政争に敗れた伊勢守護・仁木義長が長野城に逃れ、土岐頼康や六角氏頼らが率いる幕府追討軍に対し、2年以上にわたる籠城戦を繰り広げた。『太平記』には、長野城が「要害堅固」であったため、寄せ手が容易に近づけなかったとあり、築城当初から天然の地形を活かした難攻不落の城として認識されていたことが窺える。
第三節:「長野衆」の形成と中伊勢の支配体制
長野氏は、本家を中心としながらも、一族を周辺の要地に分封することで、その支配領域を安定させ、勢力を拡大していった。二代・祐藤の子である祐高は雲林院家、祐宗は細野家を興し、その後も家所氏、分部氏、草生氏といった有力な分家が次々と成立した。
これらの分家一族は「長野衆」と総称され、中伊勢一帯に網の目のような支配ネットワークを構築した。この統治形態は、強力な当主が全てを支配する中央集権的な戦国大名とは異なり、一族の連合体によって領域支配を維持する、中世国人領主の典型的な姿であった。この構造は、平時においては一族の強固な結束力を生み出す源泉となったが、戦国時代後期、織田信長という巨大な外部権力が登場した際には、内部対立を誘発する脆弱性へと転化することになる。長野氏の出自から勢力確立に至るまでの道のりは、鎌倉幕府の支配体制確立、南北朝の動乱、そして在地における国人領主の自立化という、日本中世史の大きな流れを体現するものであり、彼らが単なる地方豪族ではなく、中央の政治動向と密接に連動しながら約3世紀にわたり中伊勢の支配者として君臨した、由緒ある名門であったことを示している。
年代 |
主な出来事 |
関連当主など |
延応元年 (1239) |
工藤祐長が安濃・奄芸二郡の地頭職を得る。子・祐政が長野氏を称す。 |
工藤祐長、長野祐政 (初代) |
文永十一年 (1274) |
長野城が築城される。 |
長野祐藤 (2代) |
貞和二年 (1346) |
北畠氏の攻撃により長野城が落城。 |
長野藤房 (4代) |
文和元年 (1352) |
仁木義長の支援により長野城を奪回し、長野氏が再興。 |
長野豊藤 (5代) |
延文五年 (1360) |
仁木義長が長野城に籠城し、2年以上にわたり幕府軍と戦う。 |
長野豊藤 (5代) |
正長元年 (1428) |
岩田川の戦いで幕府方として北畠満雅を破る。 |
長野満藤 |
応仁元年 (1467) |
応仁の乱で西軍に属し、東軍の北畠氏と対立。 |
長野藤継 (11代) |
天文十二年 (1543) |
垂水鷺山の戦いで北畠晴具と戦うが決着せず。 |
長野藤定 (15代) |
永禄元年 (1558) |
北畠氏と和睦し、北畠具教の次男・具藤を養子に迎える。 |
長野藤定 (15代)、長野具藤 (16代) |
永禄十二年 (1569) |
織田信長の伊勢侵攻。信長の弟・信包を養子に迎え和睦。 |
長野具藤 (16代)、織田信包 |
元亀元年 (1570) |
信包が上野城へ移り、 長野城は廃城となる。 |
織田信包 |
天正四年 (1576) |
三瀬の変で長野具藤が田丸城にて謀殺される。長野工藤氏本家滅亡。 |
長野具藤 (16代) |
昭和五十七年 (1982) |
「長野氏城跡」として国の史跡に指定される。 |
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第二章:城郭群の構造分析 ―二つの城跡が語る防御思想―
長野氏の拠点であった「長野氏城跡」は、単一の城ではなく、性格の異なる二つの城郭群から構成される複合的な防御施設である。山頂に築かれた詰城としての「長野城」本体と、麓の居館を防衛するために伊賀街道沿いに築かれた「長野氏城」(東の城・中の城・西の城)は、それぞれが異なる役割を担い、一体となって長野氏の支配と生存を支えていた。この二元的な構造は、常に周辺の有力勢力からの脅威に晒されていた中世国人領主の、極めて現実的な生存戦略を物理的に体現している。
第一節:天険の要害「長野城」本体の縄張り
長野城本体は、標高520メートルから580メートル、麓からの比高360メートルという、伊勢国の中世城館としては最も高い場所に位置する峻険な山城である。その山頂からは、眼下に伊賀街道と中伊勢の平野部、遠くは伊勢湾までを一望することができ、軍事的な監視拠点として絶好の立地を誇る。
城の構造は、主郭、腰曲輪、堀切、土塁といった要素からなる、比較的シンプルな構成を特徴とする。主郭の西側には「コ」の字型に低い土塁が巡らされているが、大規模な石垣や複雑な虎口は見られない。これは、戦国時代に大規模な改修が加えられることなく、南北朝時代から室町時代にかけての古い山城の様相を色濃く残していることを示唆している。この城の防御の要は、人工的な構造物以上に、周囲を取り巻く切り立った自然の断崖絶壁そのものであった。このような立地と構造から、長野城本体は平時に政務や生活を営む居城ではなく、戦乱が激化した際に一族郎党が立て籠もる、最終防衛拠点としての「詰の城」であったと結論付けられる。
第二節:居館防衛線「長野氏城」(東・中・西の城)の構造
一方、長野城本体とは伊賀街道を挟んだ対岸の、より低い丘陵(標高約230メートル)に築かれたのが、「長野氏城」と呼ばれる一連の城郭群である。地元では「じょうやま」「経塚」とも呼ばれるこの城郭群は、長野氏の平時の居館(現在はその位置を特定できていない)を守るための、最前線防御施設であったと推定されている。
その構造は独特で、一つの長い尾根を二条の巨大な堀切によって三つに分断し、それぞれを「東の城」「中の城」「西の城」として独立した防御区画としている。特に中央に位置する「中の城」は、深く掘り込まれたダイナミックな堀切と高く盛られた土塁が圧巻であり、戦国期の緊迫した状況を反映した、より実践的な防御思想が見て取れる。これらの城郭群は、街道を直接押さえる位置にあり、敵の侵攻を食い止め、山頂の長野城本体への籠城準備の時間を稼ぐという重要な役割を担っていた。現在、これらの遺構は国の史跡として保存されているが、一部は藪化や倒木が見られ、往時の姿を偲ぶには注意深い観察が必要である。
第三節:複合城郭としての戦略的考察
長野城は、麓の「長野氏城」と山頂の「長野城」本体が一体となった、二元的な防御システムを構築していた。このシステムは、麓の城で「支配(経済・交通の掌握)」を行い、山頂の城で「生存(籠城による家の存続)」を確保するという、国人領主の典型的な戦略思想を反映している。平時には交通の要衝である麓の居館と「長野氏城」で政治と経済活動を営み、街道を管理する。そして有事の際には、まず「長野氏城」で敵の進軍を遅滞させ、最終的には一族郎党と共に天然の要害である「長野城」本体に籠城し、長期戦に持ち込むことで家の存続を図るという戦略であったと考えられる。
この二つの城郭群が、1982年(昭和57年)に「長野氏城跡」として一括で国の史跡に指定されたことは、この複合的な城郭の全体像が、長野氏の歴史と戦略を理解する上で不可分かつ重要であると公的に評価されたことを意味している。この城郭群の構造そのものが、長野氏という一族の政治的・軍事的立ち位置を雄弁に物語る「物言わぬ歴史書」なのである。
項目 |
長野城(本体) |
長野氏城(東・中・西の城) |
所在地 |
津市美里町桂畑(山頂部) |
津市美里町桂畑(丘陵部) |
標高 / 比高 |
約520-580 m / 約360 m |
約210-230 m / 約60 m |
主な遺構 |
主郭、腰曲輪、土塁、堀切 |
複数の曲輪、大規模な堀切、土塁 |
構造的特徴 |
単純な縄張り、自然地形を最大限に活用 |
尾根を堀切で分断した連郭式の構造 |
想定される主機能 |
詰の城 (最終的な籠城拠点) |
最前線防御拠点 (平時の居館防衛) |
築城年代の推定 |
南北朝時代(14世紀)以前 |
戦国時代に改修か |
第三章:戦国動乱と北畠氏との宿命的対決
南北朝時代以来、伊勢国における覇権を争い続けてきた長野氏と北畠氏の関係は、戦国時代に入ると新たな局面を迎える。旧来の「国人連合」という統治形態を維持する長野氏に対し、より中央集権的な「戦国大名」へと変貌を遂げつつあった北畠氏が、その勢力差を背景に攻勢を強めたのである。この対立の帰結は、単なる一地方の勢力争いにとどまらず、戦国という時代の大きな権力構造の変化を象徴する出来事であった。
第一節:室町後期から戦国期における抗争の激化
応仁の乱(1467年-1477年)において、長野氏は西軍の山名方に、北畠氏は東軍の細川方に属して対立し、両者の溝はさらに深まった。乱後も長野氏は、美濃の土岐氏や斎藤氏と連携して北伊勢への進出を図るなど、積極的な勢力拡大策をとった。文明十一年(1479年)には、攻め込んできた北畠政郷の軍を撃退するなど、一時は長野氏の勢威が高まる場面も見られた。
しかし、戦国時代に入り、南伊勢の北畠氏に晴具、そしてその子・具教という英主が相次いで登場すると、勢力均衡は大きく崩れる。北畠氏はその強力な指導力のもとで領国経営を安定させ、周辺へと勢力を拡大。これにより、長野氏は次第に圧迫され、守勢に立たされることが多くなった。
第二節:垂水鷺山の戦いと長野藤定の苦境
この劣勢を挽回すべく、第15代当主・長野藤定は一大決心をする。天文十二年(1543年)、藤定は細野氏や分部氏といった一族を主力とする5000の兵を率いて、北畠氏の支配する南伊勢へと侵攻した。これに対し、北畠晴具も軍を率いて迎撃し、両軍は垂水鷺山(現在の津市垂水付近)で激突した(垂水鷺山の戦い)。
この戦いは、長野軍の赤備え部隊や国司軍の家木氏らが奮戦し、勝敗のつかないまま両軍が兵を引くという結果に終わった。しかし、長野氏にとって南伊勢への勢力拡大の試みが頓挫したことを意味し、戦略的には失敗であった。この後、天文十六年(1545年)から十八年(1547年)にかけて、逆に北畠氏による激しい反攻を受け、長野氏は自領内での防戦を強いられるなど、苦しい状況へと追い詰められていった。
第三節:長野具藤の養子入りと北畠氏による支配の実態
長年にわたる抗争の末、劣勢を覆すことができないと判断した長野藤定は、永禄元年(1558年)、宿敵・北畠氏との和睦を決断する。その条件は、北畠具教の次男・具藤を、藤定自身の養嗣子として迎え入れ、長野家の家督を譲るというものであった。
これは形式的には「和睦」であったが、実質的には、約300年にわたり中伊勢に君臨した名門・長野工藤氏が、宿敵であった北畠氏に事実上乗っ取られたことを意味した。当主となった長野具藤は、実父である北畠具教の指揮下で長野軍を率い、赤堀氏や関氏を攻めるなど、北畠氏の勢力拡大のために戦った。これにより、中伊勢における長野氏の独立性は完全に失われたのである。この「乗っ取り」は、長野氏の譜代家臣団の間に、新たな当主に対する潜在的な不満と反感を蓄積させる結果となり、後の織田氏侵攻時に一気に噴出する内紛の火種が、この時に蒔かれたのであった。
第四章:織田信長の伊勢侵攻と名門の終焉
永禄十一年(1568年)、尾張の織田信長による伊勢侵攻は、長野氏にとって最後の、そして最大の試練となった。この未曾有の危機は、北畠氏による支配下で燻っていた長野氏内部の対立を白日の下に晒し、結果として一族の自壊と滅亡を招くことになる。長野氏の終焉は、信長による「天下布武」の過程で、地方の旧来の権力構造が、いかにして解体・再編されていったかを示す、象徴的な事例であった。
第一節:信長の侵攻と長野氏の内部分裂
信長が北伊勢の神戸氏、関氏を次々と屈服させ、その矛先を中伊勢へと向けた時、長野氏の内部は大きく揺れた。当主である長野具藤は、実父・北畠具教と共に織田軍に対する徹底抗戦を主張した。しかし、長野氏譜代の重臣であり、一族の中でも特に剛勇で知られた細野藤敦をはじめとする家臣団は、織田氏の圧倒的な軍事力を冷静に分析し、家の存続のためには和睦・降伏以外に道はないと考えていた。
この方針の対立は、単なる意見の相違にとどまらなかった。具藤は、和睦派の筆頭である細野藤敦が信長方に内通したとの流言に惑わされ、これを攻めるという挙に出る。しかし、藤敦はこれを逆に撃退し、具藤を居城から追放する事態にまで発展した。これにより、長野家中の主導権は完全に和睦派の手に渡り、織田氏への降伏が決定づけられた。信長は、この長野氏内部の脆弱性、すなわち北畠から来た当主と譜代家臣団との間の忠誠心の断絶を巧みに利用し、最小限の戦闘で中伊勢の有力国人を屈服させることに成功したのである。
第二節:織田信包の入嗣と長野城の廃城
内紛を制した細野藤敦ら和睦派は、信長に降伏した。その和睦の条件として、信長の弟である織田信包(のぶかね)を長野氏の新たな養嗣子として迎え入れることが提示され、これを呑んだ。これにより、長野氏は北畠氏の間接支配から、今度は織田氏の直接的な支配下へと組み込まれることになった。
当主となった信包は、伊勢支配の拠点として、山深く交通も不便な長野城を選ばなかった。彼はより政治・経済の中心地に近い平城である上野城(現在の津市河芸町)を新たに築いて居城とした。これに伴い、鎌倉時代から約300年にわたり長野工藤氏の本拠地であり続けた長野城は、元亀元年(1570年)頃にその歴史的役割を終え、廃城となった。中世的な山城である長野城の廃城は、国人領主の時代の終わりと、織田政権による新たな支配体制の始まりを告げる象徴的な出来事であった。
第三節:三瀬の変 ―長野具藤と北畠一族の最期―
長野氏の名跡を継いだ信包のもとで、伊勢の情勢は一応の安定を見るかに思われた。しかし、信長の旧勢力に対する戦略は、より冷徹かつ徹底したものであった。天正四年(1576年)11月25日、信長とその次男で北畠家の名跡を継いでいた信雄(のぶかつ)は、伊勢における旧北畠一族の潜在的な脅威を根絶するため、大規模な粛清を断行する。これが「三瀬の変」である。
この粛清の対象には、長野氏の旧当主であった長野具藤も含まれていた。当主の座を追われた後、田丸城に身を寄せていた具藤は、饗応の席と偽って呼び出され、実弟の北畠親成らと共に、信雄の命を受けた土方雄久、日置大膳亮らの手によって謀殺された。享年25であった。
この事件により、剣豪として名を馳せた北畠具教をはじめとする北畠本家一族と共に、その血を引く長野氏の旧当主も命を落とし、国人領主としての長野工藤氏本家は名実ともに滅亡した。一族の一部である分部氏などは、その後も織田家臣として生き残り、近世大名となる家もあったが、中伊勢に覇を唱えた本流の歴史は、ここで完全に途絶えたのである。
第五章:史跡としての長野城跡
第一節:国史跡「長野氏城跡」の概要と保存状況
長野工藤氏の滅亡後、歴史の舞台から姿を消した長野城であったが、その遺構は中世山城の姿を良好に留めていたことから、歴史的価値が再評価されることとなった。1982年(昭和57年)1月16日、山頂の長野城跡、及び麓の丘陵に広がる東の城・中の城・西の城跡は、「長野氏城跡」として一括で国の史跡に指定された。
城跡は、特に山頂の長野城本体において、地元関係者や行政による草刈りや樹木の剪定などの維持管理が行き届いており、保存状態は比較的良好である。これにより、訪問者は主郭や腰曲輪、そして主郭西側を囲む土塁といった遺構を明瞭に確認することができる。
なお、調査の過程で、長野県長野市に存在する「長沼城跡」に関する発掘調査情報が散見されたが、これは本報告書で扱う伊勢国長野城とは全く別の城跡である。現時点の資料では、伊勢長野城跡に関する大規模な学術的発掘調査の公式な報告は確認されておらず、今後の調査研究による新たな発見が期待される。
第二節:現存遺構の詳細と見学のポイント
史跡へのアクセスは、主に南麓の桂畑集落から林道を利用するルートとなる。桂畑文化センターから瀬戸林道、高狭ヶ野林道を経て城跡直下まで至るが、林道は一部未舗装区間を含み、落石や路面状況の悪化も考えられるため、車両でのアクセスには十分な注意が必要である。林道の分岐点から徒歩で登る場合は、約2.4km、40分から50分程度の時間を要する。
山頂の長野城本体における最大の見どころは、主郭を取り巻く土塁や急峻な切岸といった防御遺構と、何よりも主郭東側の腰曲輪に設けられた城址碑付近からの絶景である。ここからは、長野氏が支配した中伊勢の地を一望でき、遠く伊勢湾の水平線までを望むことができる。
一方、麓の長野氏城では、中の城に見られる巨大な堀切と高くそびえる土塁が圧巻であり、戦国期の緊迫感を今に伝えている。東の城、中の城、西の城を繋ぐ谷筋の道は、往時の登城路の雰囲気を体感できるが、一部で倒木や藪が深くなっている箇所もあり、見学の際は足元に注意が必要である。
第三節:美里ふるさと資料館の役割と今後の展望
長野氏城跡を訪れるにあたり、不可欠な情報拠点となるのが、津市美里ふるさと資料館(旧・美里郷土資料館)である。館内では、長野氏城跡の縄張り図が掲載されたパンフレットを入手できるほか、城郭群の立体模型などが展示されており、訪問前に城の全体像を把握する上で極めて有用である。
国史跡として指定された長野氏城跡は、今後も適切な保存と活用が求められる。特に、いまだその正確な位置が特定されていない長野氏の平時の居館跡など、未解明な部分に関する考古学的調査が進展すれば、長野工藤氏の支配の実態がさらに明らかになる可能性を秘めている。
結論:長野城が戦国史に刻んだもの
伊勢国長野城と、その主であった長野工藤氏の歴史は、鎌倉時代に東国から来た一御家人が在地に根を張り、有力な国人領主へと成長し、そして戦国の巨大なうねりの中で滅亡に至るという、栄光と悲劇の物語である。
山頂の「詰の城」と麓の「防御拠点」からなる複合城郭の構造は、彼らが置かれた厳しい政治的・軍事的環境と、それに対応するために編み出された巧みな生存戦略を、現代に静かに語りかけている。それは、単独で広大な領域を支配する力はないが、在地に深く根を張り、容易には滅ぼされないという、中世国人領主の強さと脆さを同時に示すものであった。
宿敵・北畠氏との数百年にわたる抗争の末の事実上の臣従、そして織田信長の登場による内部崩壊と滅亡という劇的な過程は、戦国時代が単なる武力衝突の時代ではなく、謀略、内紛、そして旧来の権力構造そのものの解体といった、より複雑な要因によって動いていたことを示す、貴重な歴史的ケーススタディと言える。
廃城となり、主を失ってから450年以上の歳月が流れた今も、長野城跡に残る土塁と堀切は、中伊勢の地に確かな足跡を刻んだ一族の記憶と、時代の大きな転換点に翻弄された人々の歴史を、伊勢湾から吹く風の中に静かに伝え続けている。