隈本城は肥後国の要衝。城氏が支配し、佐々成政時代に国人一揆で攻防。加藤清正が近世城郭熊本城を築き、蔚山城の教訓を活かした堅固な城と城下町を整備。肥後の歴史を刻む。
戦国時代の肥後国(現在の熊本県)において、その中央部に位置した隈本城は、単なる一地方の城郭に留まらない、九州全体の政治・軍事力学を映し出す鏡のような存在であった。その歴史は、在地領主の興亡、九州を三分した三大勢力の角逐、そして中央政権による統一という、戦国時代のダイナミズムを凝縮している。本報告書は、「戦国時代」という視座から隈本城を多角的に分析し、その戦略的価値と歴史的変遷を徹底的に解明することを目的とする。
隈本城が築かれたのは、熊本平野の中心に座す茶臼山丘陵である 1 。この丘陵は、阿蘇の火山活動によって形成された京町台地の南端に位置し、東に坪井川、西に井芹川、そして南には白川が流れるという、天然の要害をなしていた 1 。三方を河川に囲まれ、北側のみが台地に繋がるこの地形は、防御拠点として理想的な立地であり、古くから地域の政治・軍事の中心として注目される素地を持っていた 5 。この地政学的な優位性こそが、隈本城が肥後の歴史において常に重要な役割を担い続けた根源的な理由である。
戦国後期の九州は、北部に豊後の大友氏、西部に肥前の龍造寺氏、そして南部に薩摩の島津氏という三大勢力が覇を競う、まさに「三すくみ」の状態にあった 6 。肥後国は、これら三大勢力の力がぶつかり合う緩衝地帯であり、同時に九州の覇権を握るための戦略的要衝であった。そのため、肥後は常に外部勢力の介入に晒され、城氏をはじめとする在地領主(国人衆)は、自らの家と領地を存続させるため、三大勢力の狭間で離合集散を繰り返すという極めて過酷な状況に置かれていた 9 。隈本城の城主が目まぐるしく変遷し、その所属勢力が揺れ動いた歴史は、この九州全体の動乱を直接的に反映したものであり、その軌跡を追うことは、戦国九州史の縮図を読み解くことに他ならない。
本報告書は、隈本城が歴史の表舞台に明確に登場する15世紀後半から、加藤清正による近世城郭・熊本城の築城が本格化し、隈本城がその役割を終える17世紀初頭までを主要な分析対象とする。分析にあたっては、城郭そのものの構造的変遷、城主の政治的・軍事的動向、そして九州全体の戦国史という三つの視点を有機的に関連付け、隈本城という「点」の分析を通じて、戦国期肥後という「面」の歴史的実像を立体的に描き出すことを目指す。
表1:隈本城 年表(戦国時代)
年代 |
隈本城における出来事・城主 |
関連する九州の動向 |
1351年(観応2年) |
「隈本」の地名が史料に初見 10 |
南北朝の動乱。菊池氏が南朝方として活動。 |
1377年(永和3年) |
「隈本城」の名が史料に初見。南朝方菊池氏の拠点 10 |
九州探題今川了俊による南朝方掃討。 |
15世紀後半 |
出田秀信が茶臼山丘陵東端に城を構える(後の千葉城) 2 |
肥後守護・菊池氏の権威が揺らぎ始める。 |
1492-1501年(明応年間) |
鹿子木親員が隈本城を築城し、居城とする 11 |
菊池氏の内紛が激化し、国人領主が自立。 |
1550年(天文19年) |
鹿子木氏が退去。大友氏の後援を得た城親冬が入城 11 |
大友義鎮(宗麟)が肥後守護職を得て勢力を拡大。 |
1578年(天正6年) |
(城主:城親賢) |
耳川の戦いで大友氏が島津氏に大敗。 |
1580年(天正8年)頃 |
城氏、大友氏から離反し、島津氏に接近 12 |
龍造寺氏が肥後へ侵攻。島津氏が北上を開始。 |
1587年(天正15年) |
城久基、豊臣秀吉に隈本城を開城。秀吉が入城 10 |
豊臣秀吉による九州平定。 |
1587年(天正15年) |
佐々成政が肥後国主として入城。直後に肥後国人一揆勃発 15 |
九州国分。豊臣政権による直接支配体制の構築開始。 |
1588年(天正16年) |
佐々成政切腹。加藤清正が肥後北半国の領主として入城 1 |
肥後国人一揆鎮圧。在地領主層が一掃される。 |
1601年(慶長6年) |
加藤清正、茶臼山に新城(熊本城)の築城を開始 17 |
関ヶ原の戦いを経て、清正が肥後一国54万石の大名となる。 |
1607年(慶長12年) |
新城が完成し、「隈本」を「熊本」に改称 1 |
隈本城は熊本城二の丸(古城)として取り込まれる。 |
隈本城の歴史は、肥後国の支配構造が大きく転換する時代、すなわち中世から戦国への移行期と深く連動している。当初は地域の軍事拠点として歴史に登場し、やがて守護大名の権威が失墜する中で、自立した国人領主たちがその支配権を争う舞台となった。
「隈本」という地名が歴史資料に初めて登場するのは、観応2年(1351年)の軍忠状に「隈本在陣」と記されたのが最古である 10 。「隈本城」という城名としては、永和3年(1377年)の記録が初見とされる 10 。この時代、隈本城は九州における南朝方の中心勢力であった菊池氏の拠点の一つであり、北朝方と対峙する最前線の城郭として機能していた 10 。このことは、茶臼山一帯が南北朝の動乱期から既に軍事的な要衝として認識されていたことを示している。
より具体的な城郭としての隈本城の起源は、15世紀後半に遡る。文献によれば、菊池氏の代官であった可能性のある出田秀信が、茶臼山丘陵の東端、後に千葉城と呼ばれる場所に城を構えたとされる 2 。この時期の城郭は、まだ石垣や瓦を多用する近世城郭とは異なり、自然地形を活かした中世的な「土の城」であった。その構造は、人工的に斜面を削り出して造成した切岸を主たる防御施設とし、中心となる郭(単郭)の周囲に、補助的な平坦面である帯郭や腰郭を付設する程度の、比較的単純なものであったと推定されている 10 。
室町時代を通じて肥後国の守護職を世襲した菊池氏は、15世紀後半から一族内の後継者争いや、相良氏をはじめとする周辺勢力との抗争によって、その支配力と権威を急速に失墜させていった 19 。この菊池宗家の衰退は、肥後国内の権力構造に大きな空白を生み出す。その結果、これまで菊池氏の家臣として仕えていた赤星氏、隈部氏、そして城氏といった有力な国人領主たちが、守護の束縛から離れて自立し、それぞれが領地の支配権を巡って実力で争う、まさに戦国乱世の時代へと突入していくのである 14 。隈本城の物理的な発展と、その城主の変遷は、この肥後社会の権力構造の変化を可視化したものに他ならない。
菊池氏の権威が失墜する中、肥後中部の新たな実力者として台頭したのが鹿子木氏であった。明応年間(1492年~1501年)、鹿子木親員は従来の千葉城から、より strategic な茶臼山に拠点を移し、本格的な隈本城を築城したと伝えられている 6 。これは、国人領主が自らの権力基盤を強化するために、より大規模で防御能力の高い城郭を必要とした時代の要請を反映している。鹿子木氏はその後、親員、親俊、鑑員と三代にわたって隈本城を拠点に勢力を振るったが、最終的には彼らが従属していた豊後の大友宗麟の勘気に触れ、隈本城を追われることとなった 11 。
鹿子木氏に代わって隈本城の主となったのが城氏である。城氏は、肥後の名門・菊池氏の祖である菊池能隆の子、隆経を始祖とする、由緒ある菊池一門の支族であった 14 。そのルーツは鎌倉時代に遡り、南北朝時代には菊池本家を率いた菊池武光に従い、南朝方として各地の合戦で活躍した記録が残る 14 。室町時代には、赤星氏、隈部氏と共に菊池氏の「三家老家」の一つに数えられるほどの有力な一族へと成長していた 14 。
戦国時代に入り、菊池本家が事実上滅亡すると、城氏は肥後国内の他の国人衆と同様、自立の道を歩む。そして天文19年(1550年)、城親冬は、当時九州最大の勢力を誇った豊後大友氏の力を後ろ盾とすることで、鹿子木氏を追放し、隈本城主の座を手にすることに成功した 6 。旧主筋である菊池氏の支流が、外部勢力の力を借りてその本拠地とも言える城を手に入れたこの出来事は、まさに戦国時代の下剋上と権謀術数の力学を象徴している。これ以降、隈本城は親冬、親賢、久基という城氏三代にわたる支配の拠点となり、肥後国中部における一大勢力としての地位を確立するのである。
隈本城主となった城氏は、戦国後期の九州を揺るがした三大勢力、すなわち大友・龍造寺・島津の狭間で、家の存続を賭けた巧みで現実的な外交戦略を展開した。その動向は、巨大勢力に翻弄される弱者の姿であると同時に、自らの判断で未来を切り拓こうとする国人領主の主体的な生き様を物語っている。
城氏が隈本城を手にした当初、その支配の正統性は、肥後守護職を幕府から得ていた豊後大友氏の権威に依存していた。城親冬は、大友義鎮(後の宗麟)から飽田郡・託麻郡の支配権と共に隈本城を与えられ、大友氏の肥後支配を代行する立場にあった 12 。この時期の城氏は、大友氏の麾下にある一武将として、肥後国内の統治や、西から勢力を伸ばしてきた龍造寺氏との戦いに動員されるなど、大友氏の九州戦略の一翼を担っていた 23 。
城親冬の子、親賢の時代になると、肥後を取り巻く情勢は一層緊迫の度を増す。西の肥前では、「肥前の熊」と恐れられた龍造寺隆信が急速に勢力を拡大し、肥後への侵攻を本格化させていた 6 。一方、南の薩摩では島津氏が三国統一を成し遂げ、その矛先を北に向け始めていた 6 。これにより、肥後国は文字通り、大友・龍造寺・島津という三大勢力が激突する最前線と化したのである。
この均衡を崩す決定的な転換点となったのが、天正6年(1578年)の耳川の戦いである。日向国に侵攻した大友軍が島津軍に壊滅的な敗北を喫したことで、九州における大友氏の権威は完全に失墜した 12 。これまで大友氏の軍事力に依存してきた肥後の国人衆にとって、これは自領の安全保障が崩壊したことを意味した。
この状況下で、城親賢は極めて現実的な判断を下す。もはや自領の安堵を保証できなくなった大友氏を見限り、新たに九州の覇者として台頭してきた島津氏に誼を通じ、接近を図ったのである 12 。これは単なる裏切りや日和見主義と断じるべきではない。眼前に迫る龍造寺氏の脅威に対抗するためには、それに匹敵する軍事力を持つ島津氏との連携が不可欠であった。大友氏の衰退というマクロな情勢変化を的確に読み、龍造寺氏という直接的な脅威を排除するために、島津氏と手を結ぶ。これは、自らの家と領地を守り抜くという国人領主の至上命題に基づいた、主体的かつ合理的な生存戦略であった 14 。
親賢の子、城久基の代には、島津氏の勢いが肥後全土を席巻し、隈本城もその支配下に組み込まれた 6 。島津義久は、城久基に自らの名から「久」の一字を与えて偏諱とするなど、彼を厚遇した 15 。これは、城氏が島津氏の肥後支配における重要な協力者として位置づけられていたことを示唆している。城氏は、激動する情勢の中で巧みに舵を切り、新たな支配者の下でその地位を保全することに成功したのである。
軍事・外交面での激動の傍ら、城氏は隈本城を拠点とした城下町の経営にも注力していた。隈本城は、祇園社(現・北岡神社)の門前町である「古町」と、藤崎八旛宮の門前町である「新町」という、二つの経済・宗教的中心地を扼する絶好の立地にあった 12 。城氏によるこれらの町の支配と育成は、後の加藤清正による大規模な城下町建設の基礎を築くものであり、近世熊本城下町の原型がこの時代に既に形成されつつあったことは特筆に値する 12 。
16世紀末、日本の統一を進める豊臣秀吉の力は九州にも及び、隈本城は再び歴史の大きな転換点の舞台となる。在地領主・城氏の時代は終わりを告げ、中央政権から派遣された新たな支配者、佐々成政の入城は、肥後の地にくすぶっていた中世以来の秩序と、豊臣政権が目指す近世的な支配体制との間に、避けられない激しい衝突を引き起こした。
天正15年(1587年)、30万とも言われる大軍を率いて豊臣秀吉が九州平定を開始すると、九州の勢力図は一変する 15 。当時、島津氏の傘下にあった隈本城主・城久基は、天下人の圧倒的な軍事力を前にして抵抗することなく城を明け渡し、秀吉に恭順の意を示した 6 。秀吉自身もこの隈本城に数日間滞在しており、この城が肥後統治の拠点としていかに重要視されていたかを物語っている 1 。
この開城により、城氏は改易こそ免れたものの、大坂への移住を命じられ、事実上、肥後の領主としての歴史に幕を閉じた 12 。その後、所領を筑後に移されたが、当主・久基が若くして死去したため、菊池氏の支流として続いた城氏の嫡流は断絶した 12 。
九州全土を平定した秀吉は、新たな領地配分、いわゆる「九州国分」を実施する。その中で、肥後国(球磨・天草の両郡を除く)は、織田信長麾下の猛将として知られた佐々成政に与えられた 11 。肥後は、中世以来の伝統を持つ国人衆の力が根強く、極めて統治が難しい土地であった。ここに、かつては秀吉と敵対したこともある武断派の成政を配置した人事には、秀吉の巧みな戦略が窺える。それは、成政の剛腕による国人衆の制圧を期待する一方で、彼を中央から遠ざけ、困難な役目を押し付けることでその力を削ごうとする、二重の意図があったと見られている 27 。
隈本城に入った成政は、秀吉から「3年間は検地を実施してはならない」と固く釘を刺されていたにもかかわらず、入国後わずか1ヶ月で性急な検地を強行した 26 。この行動は、肥後の国人衆の激しい反発を招き、大規模な反乱「肥後国人一揆」の直接的な引き金となった 27 。
成政が秀吉の命令に背いてまで検地を急いだ背景には、複数の要因が考えられる。一つには、越中から連れてきた自らの家臣団に知行地を配分するため、早急に領内の石高を確定させる必要があったこと 34 。そしてもう一つは、より根本的な問題として、豊臣政権が目指す画一的な石高制による中央集権的支配と、国人衆が期待していた伝統的な所領安堵という、両者の土地支配に対する認識に埋めがたい溝があったことである 26 。成政の検地は、国人衆にとっては先祖伝来の権利を一方的に剥奪する行為に他ならなかった。結果、隈部親永をはじめとする52の国人衆が一斉に蜂起し、肥後全土を巻き込む大一揆へと発展したのである 27 。
成政が一揆の首謀者である隈部氏の居城・隈府城の攻略に主力を率いて向かった隙を突き、数万に膨れ上がった一揆軍の主力部隊が隈本城に殺到した 16 。城の守りは、城代の神保氏張らが率いるわずかな兵力のみであった 16 。一揆軍の猛攻は凄まじく、一時は二の丸まで攻め込まれるなど、隈本城は落城寸前の危機に陥った 30 。しかし、神保らの必死の防戦により、辛うじて城を死守することに成功した 16 。この攻防戦は、中世的な城郭の構造を色濃く残していた隈本城が、大規模な軍勢による攻城戦に対しては必ずしも万全ではなかったことを示している。
事態を重く見た秀吉は、小早川、立花、鍋島といった九州・中国地方の大名を総動員し、一揆の徹底的な鎮圧を命じた 26 。豊臣連合軍の前に、和仁氏が籠る田中城をはじめとする国人衆の拠点は次々と陥落し、一揆は終息した 26 。
戦後、秀吉は一揆を誘発した責任を問い、佐々成政に切腹を命じた 26 。この一連の事件は、単なる一揆とその鎮圧に留まらない、より大きな歴史的意味を持っていた。それは、豊臣秀吉という中央権力が、肥後における中世以来の国人領主による分割統治体制を、武力をもって完全に解体するプロセスであった。隈本城を舞台としたこの激しい衝突は、肥後における「中世の終わり」を告げる画期的な事件であり、この焦土の上に初めて、加藤清正による全く新しい思想に基づいた近世的な城と城下町の建設が可能となるのである。
隈本城の物理的な構造は、その時代ごとの城主の思想と、肥後国が置かれた軍事的状況を如実に反映している。中世的な「土の城」として誕生し、戦国の動乱の中で徐々に防御機能を高め、やがて豊臣政権下で近世的な「石と瓦の城」へと変貌を遂げる。その過渡的な姿は、肥後社会そのものの変容を象徴していた。
城氏の時代までの隈本城は、典型的な中世城郭の特徴を備えていた。平成14年から15年にかけて行われた二の丸地区の発掘調査では、この時期の遺構として、防御施設である柵や横堀、そして建物の痕跡である掘立柱建物跡などが確認されている 10 。これらは石垣ではなく、土木工事を主体とした構造であり、当時の築城技術の段階を示している。
絵図資料などを基にした復元研究によれば、城の中心である主郭は、茶臼山丘陵の最高所に位置し、その規模は東西約60m、南北約70mであったと推定される 10 。主郭の周囲は、北側を堀切(尾根を断ち切る堀)で、東と南側を竪堀(斜面に掘られた縦方向の堀)や切岸(人工的な崖)で固め、防御の弱い西側斜面には二段から三段の腰郭(小規模な平坦地)を設けていた 10 。城全体の規模は300m四方に及び、単郭を基本としながらも、多数の兵が籠城することを想定した、地域拠点城郭としての性格を持っていたことが窺える。
天正15年(1587年)に隈本城主となった佐々成政は、入城後、城の改修に着手したと記録されている 41 。これは、直後に勃発した肥後国人一揆において、数万の一揆軍に城を包囲され、落城寸前まで追い込まれた経験から、防御力の大幅な強化が急務であると痛感したためであろう。
具体的な改修内容は史料に乏しく不明な点が多いが、この時期から隈本城に、織田信長や豊臣秀吉の築城に見られるような「織豊系城郭」の技術要素、すなわち本格的な石垣や瓦葺きの建物の導入が始まったと考えられる 42 。これは、隈本城が中世的な「土の城」から、より堅固で恒久的な近世城郭へと移行する、重要な過渡期にあったことを示唆している。
隈本城の性格をより深く理解するためには、同時代に肥後国内に存在した他の城郭との比較が不可欠である。
これらの城郭と比較すると、隈本城の位置づけはより明確になる。国人衆の山城が純粋な軍事拠点、小西行長の城が経済を重視した拠点であったのに対し、平野の中心に位置する平山城である隈本城は、政治・経済・軍事の機能を兼ね備えた総合的な拠点であった。その構造は、城氏の時代には中世的な特徴を留めつつも、佐々成政による改修を経て、織豊系城郭へと進化する第一歩を踏み出した。この城郭構造の変遷は、支配者の出自や思想、そして時代の要請が、城という物理的な構造物にいかに深く刻み込まれるかを雄弁に物語っている。
佐々成政と国人衆の衝突という激しい産みの苦しみを経て、肥後の地は新たな時代を迎える。その担い手として登場したのが、豊臣秀吉子飼いの猛将、加藤清正である。彼は、隈本城が持つ戦略的な立地を継承しつつも、それを遥かに凌駕する全く新しい思想と技術に基づき、天下の名城「熊本城」を築き上げた。隈本城から熊本城への移行は、単なる城の建て替えではなく、戦国という時代の終焉と、近世という新たな時代の幕開けを象威する画期的な出来事であった。
天正16年(1588年)、佐々成政の失政の後を受け、肥後北半国19万5千石の領主として隈本城に入った清正は、当初、既存の城郭を本拠とした 1 。彼はすぐさま城の改修に着手し、石垣の構築や堀の普請を進めた記録が残っている 51 。これは、来るべき新城建設までの暫定的な拠点として、まずは最低限の防御力を確保するための措置であったと考えられる。
関ヶ原の戦いでの功績により、肥後一国54万石の大名となった清正は、慶長6年(1601年)頃から、旧来の隈本城と千葉城を取り込む形で、茶臼山丘陵全体に及ぶ壮大な新城の建設を開始する 17 。この熊本城の設計思想の根底には、文禄・慶長の役における蔚山城での過酷な籠城戦の経験が色濃く反映されていた 54 。
蔚山城で水と食料が尽き、飢餓と寒さの中で死線を彷徨った教訓から、清正は熊本城に徹底した籠城対策を施した 55 。その思想は、城の隅々にまで見て取れる。
清正の構想は、城郭内部に留まらなかった。彼は築城と並行して、大規模な城下町整備と治水事業を一体的に進めた。当時、氾濫を繰り返していた白川や坪井川の流路を大胆に変更し、洪水を防ぐと同時に、その流れを城の天然の外堀として利用し、さらに舟運を発達させるという、一石三鳥の壮大な都市計画であった 5 。
特に注目されるのが、城下の町人地(古町)に採用された「一町一寺制」である。これは、約120m四方の正方形の区画(町)の中央に必ず一つの寺院を配置するという、全国的にも珍しい町割りであった 67 。この配置は、平時における住民の統治や宗教政策としての意味合いに加え、有事の際には寺院の広大な敷地や堅牢な建物を、兵の駐屯地や防御拠点として活用するという、極めて高度な防衛思想に基づいていた 70 。
慶長12年(1607年)、新城の完成を機に、清正は地名を「隈本」から「熊本」へと改めた 1 。通説によれば、その理由は「隈」の字に含まれる「畏(おそれる)」という部分が、武将の居城名として縁起が悪いと考え、勇壮な「熊」の字を当てたためとされる 67 。この改称は、過去の歴史との決別と、自らが築く新たな時代の始まりを宣言する、強い政治的意志の表れであったと言えよう。
近世熊本城の完成により、隈本城は城の北西部に位置する「古城」と呼ばれる曲輪、すなわち二の丸の一部として取り込まれ、独立した城郭としての歴史に幕を下ろした 6 。しかし、その存在が完全に消滅したわけではない。
隈本城が長年にわたって占めてきた茶臼山という比類なき戦略的要地、そして城氏の時代から育まれてきた城下町の原型は、加藤清正による壮大な都市計画の揺るぎない礎となった。清正が築いた熊本城は、単なる隈本城の延長線上にあるものではなく、豊臣恩顧の大名として、将来徳川政権との間に起こりうるかもしれない国家規模の動乱をも見据えた、全く新しい思想の産物であった。本丸御殿に設けられた「昭君之間」が、豊臣秀吉の遺児・秀頼を万が一の際に迎え入れるための部屋だったという説は、この城に込められた清正の深謀遠慮を象徴している 51 。
戦国時代の動乱を生き抜き、在地領主たちの興亡の舞台となった隈本城の歴史と、それが占有し続けた地理的優位性こそが、天下の名城と謳われる熊本城を誕生させるための、不可欠な前提条件であった。隈本城の物語は、戦国期肥後の過去を映し出し、熊本城の誕生は、清正が切り拓こうとした近世という未来への力強い布石だったのである。