音羽城
近江音羽城は、蒲生氏初期の本拠。堅固な山城として六角氏の危機を救うも、内紛で落城し、日本史上初期の「城割」を経験。蒲生氏郷の祖先が日野菜を発見した地としても知られる。
近江日野の要害、音羽城 ― 忘れられた蒲生氏本城の真実
序章:近江日野の要害、音羽城 ― 忘れられた蒲生氏本城の真実
近江国蒲生郡日野の地に、かつて音羽城とよばれる堅城が存在した。戦国時代に会津九十二万石の大名としてその名を轟かせた蒲生氏郷。その祖先が本拠としたこの城が、なぜ歴史の表舞台から忽然と姿を消したのか。蒲生氏の歴史における一大転換点でありながら、後継の中野城(日野城)の陰に隠れ、多くを語られることのないこの城の全貌を、本報告書は詳細に解き明かすものである。
音羽城は、単なる一つの山城として片付けることはできない。それは、中世から戦国時代へと移行する激動の時代において、近江の有力国人領主であった蒲生氏の自立と従属、一族内に吹き荒れた相克の嵐、そして彼らを取り巻く守護大名・六角氏の台頭という、戦国初期の力学が凝縮された歴史の舞台であった。応仁の乱後の混沌とした時代に築かれ、わずか五十数年という短い歴史の中で経験した栄光と悲劇は、戦国という時代の本質そのものを我々に問いかける。本報告書は、地理的構造、歴史的変遷、そして文化的な側面に至るまで、音羽城を多角的に分析し、その歴史的意義を深く掘り下げることを目的とする。
第一章:地理と縄張り ― 城が語る戦略思想
城郭の構造は、築城主の戦略思想を雄弁に物語る。音羽城の立地と縄張り(城の設計)を分析することは、蒲生氏が置かれていた軍事的状況と、彼らが描いた防衛戦略を理解する上で不可欠である。
第一節:戦略的要衝としての立地
音羽城は、現在の滋賀県蒲生郡日野町音羽に位置する 1 。地理的には、鈴鹿山脈の支脈である猪の鼻ヶ岳(宝殿ヶ嶽)から北へ向かって半島状に突き出した丘陵の先端部を利用して築かれた、典型的な中世の丘城(あるいは山城)である 3 。その標高は約283メートルから285メートル、麓の集落からの比高(高さの差)は約49メートルを測る 5 。
この立地は、軍事的に極めて優れた選択であった。城の北側には日野川が流れ、天然の外堀として機能する 2 。そして背後には猪の鼻ヶ岳の山塊が控え、敵の背後からの攻撃を困難にする「後堅固(うしろけんご)」の地形を形成している 1 。さらに、城の南方は搦手(からめて、裏門)として、鎌掛(かいがけ)や土山町の鮎河方面へと通じる間道を抑える戦略的要衝でもあった 2 。このように、音羽城は防御に徹するための自然の要害を最大限に活用した、まさに「天嶮の要害」と呼ぶにふさわしい城であった 1 。
第二節:中世山城の構造と遺構
音羽城の縄張りは、中世山城の防御思想を色濃く反映している。城の中心部は、現在「音羽山公園」として広場になっている平坦地にあり、かつては本丸、二の丸、南丸といった主要な曲輪(くるわ、城内の区画)が設けられていたと推定される 3 。これらの主郭部を防御するため、周囲には帯状の小規模な曲輪である帯曲輪が配置され、さらに城の前面には独立した防御拠点としての出曲輪(でぐるわ)や、家臣団が居住したとされる士屋敷(さむらいやしき)跡が構えられていた 6 。
現在でも、城跡には往時の姿を偲ばせる多くの遺構が残されている。特に城の南側斜面には、尾根筋を人工的に断ち切って敵の侵攻を阻む「堀切(ほりきり)」、斜面に沿って横方向に掘られた「横堀(よこぼり)」や「空堀(からぼり)」、そして土を盛り上げて防御壁とした「土塁(どるい)」などが色濃く確認できる 6 。また、城門が置かれた「虎口(こぐち)」の跡や、籠城戦において生命線となる「井戸跡」、さらには伝説的な「抜け穴跡」とされる遺構も現存している 1 。これらの遺構は、敵の侵攻ルートを限定し、幾重にも張り巡らされた防御線によって段階的に迎撃するという、中世山城ならではの巧みな戦術思想を体現している。
音羽城の縄張りは、純粋な軍事拠点としての性格が極めて強いことを示唆している。これは、後の蒲生氏が中野城で整備したような、政治・経済の中心となる広大な「城下町」を伴う城郭とは、その設計思想において明確な一線を画す。音羽城には、領地を統治するための政庁や、商工業者を住まわせる区画といった要素は見られない。その構造は、あくまで敵の攻撃から身を守り、撃退することに特化している。この構造の違いは、蒲生氏の領主としてのあり方が、自らの拠点を守ることに主眼を置いた中世的な「防衛」の段階から、領国全体を支配し経営する近世的な「領域支配」の段階へと移行する、その過渡期にあったことを象徴している。音羽城の廃城と中野城への移行は、単なる本拠地の移動ではなく、蒲生氏の統治理念そのものの変革を示す画期的な出来事だったのである。
表1 音羽城の主要遺構一覧 |
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遺構の種類 |
推定配置場所 |
機能解説 |
現状 |
堀切 |
主郭部南側、士屋敷と出曲輪の間など 6 |
尾根を断ち切り、敵兵の連続的な侵攻を阻止する。 |
良好な状態で現存。特に南側の尾根に残るものは明瞭。 |
横堀・空堀 |
本丸周囲、南丸、出曲輪など 6 |
曲輪の斜面下部に設け、敵の登攀を妨げる。 |
一部は後世のトロッコ道により改変された可能性 6 。南側には明瞭な遺構が残る。 |
土塁 |
南側 6 |
曲輪の縁を高く盛り上げ、防御壁とする。 |
一部が現存。 |
虎口 |
南側、大手門跡、搦手門跡 6 |
城への出入り口。防御の要となる。 |
跡地が推定されている。 |
井戸跡 |
主郭部付近 1 |
籠城時の飲料水や生活用水を確保する生命線。 |
跡地が確認できる。 |
出曲輪 |
北西部、南側 6 |
主郭から独立して設けられた前線防御拠点。 |
跡地が確認できる。 |
第三節:後世の改変と失われた姿
音羽城が誇った堅固な縄張りも、時代の流れとともにその姿を大きく変えざるを得なかった。特に明治時代後期以降、城跡は「音羽山公園」として整備が進められ、また昭和期には未墾地開拓や溜め池の堤防工事のための土砂採取が大規模に行われた 1 。さらに、公園内に敷設された「トロッコ道」は、城の横堀跡を利用または改変したものであり、遺構の正確な判別を困難にしている 3 。
これらの後世の改変により、特に城の中心部であった本丸や二の丸の遺構は著しく破壊され、往時の正確な姿を復元することは極めて困難な状況にある 3 。この事実は、近代化の過程で多くの中世城郭がその歴史的価値を十分に認識されないまま姿を変えていったという、日本の文化財保護史が抱える課題の一端を示すものである。しかしながら、今なお残る堀切や土塁の痕跡は、失われた城の基本的な構造と規模を我々に力強く語りかけている。
第二章:蒲生氏の勃興と音羽城の創建
音羽城の歴史は、その築城主である蒲生氏の歴史と不可分である。近江の地に根を張った一国人領主が、いかにして戦国の舞台で頭角を現していったのか。その勃興期を象徴する城こそが、音羽城であった。
第一節:近江の国人領主・蒲生氏
蒲生氏は、その出自を平安時代の武将・藤原秀郷に連なる名門と称し、古くから近江国蒲生郡を本拠としてきた有力な国人領主であった 2 。鎌倉時代にはすでにその名が記録に見え、室町時代を通じて在地での勢力を着実に拡大していった 2 。戦国時代に入ると、近江守護であった佐々木六角氏の重臣として、その軍事力と政治力を支える重要な役割を担うようになる 11 。
彼らは、守護大名と在地に盤踞する土豪との間に位置する「国人」という存在の典型例であった。すなわち、守護の権威を認め、その家臣として仕える一方で、自らの領地においては高い自立性を保ち続けるという、複雑な立場にあった。蒲生氏は、この自立と従属のバランスを巧みにとりながら、激動の時代を生き抜いていったのである。
第二節:築城年代と築城者を巡る諸説
音羽城がいつ、誰によって築かれたのかについては、いくつかの説が存在し、確定には至っていない。
一つは、応永22年(1415年)に蒲生秀綱あるいは蒲生秀糺によって築城されたとする説である 8 。これは『近江蒲生郡志』などの記述に基づくもので、比較的早い時期の築城を示唆している。
しかし、より有力視されているのが、応仁・文明年間(1467年~1487年)、すなわち応仁の乱の直後の時期に、蒲生氏中興の祖と称される蒲生貞秀(がもう さだひで)によって築かれたとする説である 1 。貞秀は、応仁の乱において幕府が支持する東軍に属し、西軍についた主家・六角氏と各地で戦うなど、自立した武将として活躍した人物である 13 。彼がその勢力を拡大する過程で、新たな本拠地として音羽城を築いた、あるいは既存の砦を大規模に改修したと考えるのが、歴史的状況とも符合する。当時の史料に散見される「蒲生館」や「蒲生の城」といった記述は、この音羽城を指している可能性が高いと考えられている 7 。
この築城年代を巡る諸説は、単なる年代の不一致以上の、本質的な意味を内包している。応仁の乱は、日本の歴史における大きな分水嶺であり、それ以前と以後では社会のあり方が大きく異なる。もし応永説(乱以前)が正しければ、音羽城は室町幕府から守護へと続く既存の権力構造の下で、地方の拠点的役割を担う城として築かれたことになる。しかし、応仁・文明説(乱以降)を採るならば、この城はもはや旧来の権威が通用しない、実力主義が横行する戦国乱世の到来を告げる狼煙として、自らの領地を自らの武力で守り抜くための、より緊張感の高い戦闘拠点として築かれたと解釈できる。応仁の乱という未曾有の内乱を生き抜き、その中で武功を挙げた蒲生貞秀が築城主とされる応仁・文明説には、戦国時代の幕開けを象徴する城としての、より強い歴史的リアリティが感じられるのである。
第三章:主家を守る砦 ― 明応・文亀の戦い
音羽城は、蒲生氏一族の内紛によってその歴史に幕を下ろす前に、二度にわたって主家である六角氏の危機を救うという重要な役割を果たしている。これらの戦いは、音羽城の戦略的価値と、城主・蒲生貞秀の六角家における地位を如実に示すものであった。
第一節:明応の戦い(1496年)
明応5年(1496年)、美濃国の斎藤氏が、近江国内の反六角勢力であった京極氏と結び、近江守護・六角高頼の討伐に乗り出した。斎藤・京極連合軍は日野へと侵攻し、蒲生氏の拠点である音羽城がその攻撃目標となった 2 。この戦いの詳細は明らかではないが、蒲生貞秀は音羽城に籠城し、見事にこれを撃退、勝利を収めたと記録されている 6 。この勝利は、音羽城の堅固さを示すとともに、蒲生氏が六角氏の領国を防衛する上で欠くことのできない存在であることを証明した。
第二節:文亀の戦い(1502年)
文亀2年(1502年)、六角氏の内部で重大な事件が発生する。重臣であった伊庭貞隆が主君・高頼に反旗を翻し、クーデターを起こしたのである 2 。本拠地である観音寺城を追われた高頼が、最後の望みを託して逃げ込んだ先こそ、家臣である蒲生貞秀が守る音羽城であった 2 。反乱軍を率いる伊庭氏は直ちに音羽城を包囲し、激しい攻撃を加えたが、貞秀は再びこの城に籠もり、徹底抗戦の末に反乱軍を撤退させることに成功した 7 。
これら二度の戦いは、音羽城が単に蒲生氏の私的な居城であっただけでなく、近江守護・六角氏にとっての「最後の砦」として機能する、公的な性格を帯びた戦略拠点であったことを明確に示している。主君である六角高頼が、自らの本拠地ではなく、一家臣の城に命運を託したという事実は、音羽城の比類なき堅固さと、城主・蒲生貞秀に対する絶対的な信頼を物語っている。貞秀は、二度にわたって主君の窮地を救うことで、六角家臣団の中における自らの地位を不動のものとした。しかし、この貞秀が築き上げた主家との強固な信頼関係が、皮肉にも次世代における一族内紛の遠因となっていく。貞秀が保った自立性と忠誠のバランスは、彼の死後、大きく揺らぐことになるのである。
第四章:大永の内紛 ― 蒲生一族を揺るがした八ヶ月の籠城戦
蒲生貞秀の死後、彼が築き上げた栄光は、一族内の深刻な対立によって揺らぎ始める。音羽城の運命を決定づけ、蒲生氏の歴史を大きく転換させることになったのが、大永年間に勃発した宗家の家督を巡る内紛であった。
第一節:対立の構造 ― 秀紀と高郷
蒲生氏中興の祖・貞秀の死後、家督は貞秀の長男・秀行の子である蒲生秀紀(ひでのり)が継承した。これは嫡流相続の原則に則った、正当なものであった。しかし、これに異を唱える人物が現れる。貞秀の次男であり、秀紀にとっては叔父にあたる蒲生高郷(たかさと)である 1 。高郷は、兄・秀行が早世した際に家督相続を望んだが、父・貞秀の意向で甥の秀紀が後継者とされた経緯があり、宗家の地位に対して強い野心を抱いていた 16 。
両者の対立の根源は、単なる個人的な野心に留まらなかった。そこには、主家である六角氏との距離感を巡る、根本的な戦略思想の違いが存在した。宗家を継いだ秀紀は、父祖・貞秀以来の伝統を受け継ぎ、六角氏の家臣でありながらも国人領主としての一定の独立性を保とうとする立場であった 16 。一方の高郷は、早くから宗家を離れて六角高頼に直接出仕し、高頼の名から「高」の一字を与えられて「高郷」と名乗る(偏諱)など、完全に六角氏の麾下に入り、その権威を背景に自らの地位を築こうとしていた 16 。この戦略の違いが、両者の対立を決定的なものとした。
表2 大永の内紛 主要人物関係図 |
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人物名 |
関係性 |
立場・動向 |
蒲生貞秀 |
蒲生氏中興の祖 |
秀行・高郷の父。秀紀の祖父。 |
蒲生秀行 |
貞秀の長男 |
秀紀の父。早世。 |
蒲生秀紀 |
貞秀の孫(秀行の子) |
音羽城主 。蒲生宗家の正当な後継者。六角氏とは一定の距離を保つ。 |
蒲生高郷 |
貞秀の次男 |
攻撃側 。秀紀の叔父。六角氏に完全臣従し、家督を狙う。 |
蒲生定秀 |
高郷の嫡男 |
高郷の跡を継ぎ、中野城を築城。蒲生氏郷の曽祖父。 |
六角定頼 |
近江守護 |
高郷を強力に支援し、蒲生氏の内紛に介入。 |
第二節:六角定頼の介入
大永2年(1522年)7月、叔父・高郷はついに実力行使に出る。彼の背後には、近江守護・六角定頼の強力な支援があった 3 。高郷は六角氏からの援軍を得て挙兵し、甥の秀紀が籠る音羽城を包囲したのである 7 。この時、六角定頼が派遣した兵力は二万にものぼったと伝えられており、これは単なる家督争いへの助力というレベルを遥かに超えた、大規模な軍事介入であった 2 。
六角定頼が、なぜ蒲生氏の内紛にこれほど深く介入し、高郷を一方的に支援したのか。その理由は、蒲生氏をより強力に自らの支配下に置こうとする政治的野心にあった。独立志向の強い秀紀よりも、自らに絶対的な忠誠を誓う高郷を当主の座に据えることは、六角氏にとって蒲生氏という有力国人を完全に掌握するための絶好の機会であった。高郷もまた、子の定秀に六角一門である馬淵氏から嫁を迎えさせるなど、六角氏との関係強化に努めており、定頼にとって高郷は極めて「都合の良い」存在だったのである 16 。この内紛は、もはや蒲生一族内の争いではなく、六角氏による蒲生氏支配体制の再編という、より大きな政治的文脈の中で展開されることとなった。
第三節:八ヶ月の攻防と落城
六角氏の大軍を後ろ盾とする高郷に対し、秀紀は音羽城に籠城して徹底抗戦の構えを見せた。籠城戦は、大永2年(1522年)7月から翌大永3年(1523年)3月までの約8ヶ月間に及んだ 3 。一部の資料では3年と記されているものもあるが、8ヶ月が通説となっている 1 。この長期にわたる籠城戦は、音羽城がいかに堅固な城であったかを証明すると同時に、外部からの後詰(援軍)を期待できず、城内で孤立無援となった秀紀側の絶望的な状況を物語っている 16 。
兵糧も尽き、士気も衰える中、秀紀はついに降伏を決断。大永3年(1523年)3月8日、音羽城は開城され、8ヶ月に及んだ悲劇的な籠城戦は終結した 16 。この戦いの結末は、戦国時代において国人領主が生き残るための「二つの戦略」が衝突した結果であった。伝統的な家格と在地での独立性を重んじる秀紀の戦略は、より大きな権力に積極的に臣従することで自らの地位を確保しようとする高郷の戦略の前に、打ち砕かれた。そして、時代は後者を選択したのである。
第五章:城割と廃城 ― 歴史の転換点
音羽城の落城は、単に一つの戦いが終わったことを意味するだけではなかった。それは蒲生氏の歴史、ひいては近江国における支配構造の転換を象徴する、画期的な出来事であった。戦後処理として行われた「城割」は、その象徴的行為であった。
第一節:日本史上初期の「城割」
籠城戦の終結後、六角定頼の仲裁という名目のもとで和議が結ばれた。しかし、その内容は定頼の後援を得ていた高郷側に圧倒的に有利なものであった 16 。和議の条件に基づき、蒲生氏の家督は秀紀から高郷の子である定秀(さだひで、後の氏郷の曽祖父)に移譲されることが決定した 16 。そして、敗者となった秀紀は城を退去させられ、彼が最後まで守り抜いた音羽城は、徹底的に破却(はきゃく)されることになったのである 1 。
この音羽城の破却は、戦後処理や支配体制の強化を目的として城を破壊させる「城割(しろわり)」の、史料で確認できる日本史上初の事例、あるいは極めて早い時期の事例とされている 7 。これは、勝者である六角氏と高郷が、敗者である秀紀の軍事力を完全に無力化し、再起の芽を摘むという強い意志の表れであった。この支配手法は、後の織田信長や豊臣秀吉が敵対勢力を支配下におさめる際に用いた手法の先駆けと見ることもでき、音羽城の終焉が、中世的な慣習から近世的な支配へと移行する時代の過渡期を象徴する事件であったことを示している。
第二節:蒲生氏本拠地の移転と宗家の断絶
音羽城の廃城に伴い、蒲生氏の本拠地は、新たに家督を継いだ高郷・定秀親子が日野谷の中野の地に築いた中野城(後の日野城)へと移された 3 。これにより、蒲生氏の歴史は新たな舞台で紡がれることになる。
一方、城を追われた秀紀の運命は悲惨であった。彼は鎌掛城へと移されたが、拠点を失い、後ろ盾もない彼に安住の地はなかった 8 。大永5年(1525年)12月、高郷・定秀父子の放った刺客によって毒殺され、その生涯を閉じた 7 。秀紀に子はなく、その血筋はここに断絶。蒲生氏の正当な宗家(嫡流)は、歴史の闇へと消え去ったのである 16 。
音羽城の破却は、物理的な城の消滅以上の、極めて象徴的な意味を持つ。それは、蒲生氏にとっての「過去」、すなわち貞秀以来の独立性の象徴であった拠点との決別であり、六角氏への完全な臣従を内外に示す儀式であった。この一連の出来事を通じて、蒲生氏は六角体制下の一家臣として再編成され、その先に蒲生氏郷の活躍へと繋がる新たな歴史が始まる。宗家の悲劇的な断絶は、皮肉にも、一族が戦国大名として大きく飛躍するための礎となったのである。もし秀紀が家督争いに勝利していれば、蒲生氏郷という傑出した武将の登場はなかったかもしれない。歴史の非情さと皮肉が、この音羽城の終焉には凝縮されている。
第六章:城跡に薫る文化 ― 日野菜伝説と蒲生貞秀
音羽城は、血で血を洗う戦いの舞台であっただけではない。その城跡には、地域の文化を育んだ風雅な一面も伝えられている。その代表が、現在も日野町の特産品として知られる「日野菜」にまつわる伝説である。
第一節:日野菜発祥の地
日野菜の歴史は、約500年前の室町時代に遡る。その発見者は、音羽城の城主であった蒲生貞秀であったと伝えられている 1 。ある時、貞秀が日野町鎌掛(かいがけ)の山中にある観音堂を訪れた際、牛の角のような形をした野生のカブを発見した。彼はこれを珍しいものとして城に持ち帰り、栽培を試みた。これが、日野菜の始まりであるとされている 1 。この逸話は、音羽城が単なる軍事拠点ではなく、地域の産物を育む生活の中心地であったことを示している。
第二節:朝廷への献上と「桜漬」の命名
貞秀はこのカブを浅漬けにしたところ、美しい桃色の漬物ができあがり、その風味も格別であった 18 。出家して智閑(ちかん)と号していた貞秀は、かねてより親交のあった歌道の師、公家の飛鳥井雅親(あすかい まさちか)に、この珍しい漬物を自作の和歌を添えて贈った 18 。
ちぎりおきて けふはうれしく いづる「日野菜」と「あかつき」を恨みわびけん
この風雅な贈り物を受け取った雅親は、その色合いと風味にいたく感動し、時の帝であった後柏原天皇に献上した。天皇もこの漬物を大層喜ばれ、その美しい桜色から「これを桜漬と名付けよ」と命じ、雅親に返歌を詠ませて貞秀に贈ったという 18 。
近江なる ひものの里の桜漬け これや小春のしるしなるらん
この日野菜にまつわる逸話は、城主・蒲生貞秀が、武勇に優れた武将であっただけでなく、京の公家や朝廷とも交流を持つほどの高い教養を身につけた文化人であったことを物語っている。武骨な山城のイメージと、風雅な和歌の贈答という物語の対比は、戦国武将の多面的な人物像を浮き彫りにする。日野菜という一つの作物が、地方の城、領主、京都の文化人、そして天皇までをも繋いでいるという事実は、当時の地方領主が決して中央から孤立した存在ではなく、広範な文化的ネットワークの中に位置していたことを示唆している。
終章:史跡としての音羽城 ― 現代に遺された記憶
音羽城は、その存在した約五十数年間という短い期間に、蒲生氏の栄光(主家防衛)、悲劇(一族内紛)、そして歴史的転換(城割による廃城)という、極めて濃密なドラマの舞台となった。それは、戦国初期の近江における国人領主の栄枯盛衰と、守護大名による支配体制の確立過程を物語る、非常に重要な史跡であると言える。
現在、城跡の主要部は「音羽山公園」として整備され、遊具が設置されるなど、市民の憩いの場として親しまれている 5 。しかし、公園として大きく姿を変えたその地には、今なお堀切や土塁といった遺構が残り、訪れる者に往時の記憶を語りかけている。また、日野町教育委員会による発掘調査も行われており、その地下には未だ多くの歴史が眠っている可能性を秘めている 20 。今後の考古学的な調査によって、さらに新たな事実が明らかになることも期待される。
音羽城の物語は、その子孫である蒲生氏郷という著名な武将の輝かしい功績の陰に隠れがちである。しかし、氏郷が登場する以前の蒲生氏が経験した苦難と選択の歴史を、この城は雄弁に物語っている。六角氏の支配下で雌伏の時を過ごしたからこそ、後の織田信長との出会いを経て、蒲生氏は大きく飛躍を遂げることになった。この忘れられた城の記憶を掘り起こすことは、戦国という時代をより深く、そして多層的に理解するために不可欠な作業である。音羽城は、蒲生氏の、そして近江の戦国史の原点として、静かにその価値を主張し続けている。
引用文献
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- 近江にあった音羽(おとわ)城の所在地などのほか、その歴史を知りたい。 | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000097858
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- 音羽城 中野城(日野城) 鳥居平城 佐久良城 鎌掛け城 余湖 http://otakeya.in.coocan.jp/siga/hinomati.htm
- 蒲生高郷 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E7%94%9F%E9%AB%98%E9%83%B7
- 日野城跡(中野城跡) | 滋賀県観光情報[公式観光サイト]滋賀・びわ湖のすべてがわかる! https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/888/
- 伝統野菜「日野菜」のお話 - 近江物語 https://oumi-monogatari.net/%E4%BC%9D%E7%B5%B1%E9%87%8E%E8%8F%9C%E3%80%8C%E6%97%A5%E9%87%8E%E8%8F%9C%E3%80%8D%E3%81%AE%E3%81%8A%E8%A9%B1/
- 日野菜 ひのな - 素材ダウンロード|心にチクっとささるワードで作る「ちくわPOP(ちくわぽっぷ)」|農産物直売所やスーパーの青果売り場の活性化に!農に特化したPOPが無料!! https://tikuwapop.com/sozaiDetail.php?num=364&words=
- 日野町の音羽城跡が掲載されている資料を知りたい。 | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000095569
- 滋賀県 - 日野町 - 全国遺跡報告総覧 - 奈良文化財研究所 https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/list/25/25383