最終更新日 2025-08-22

飯山城

飯山城は北信濃の要衝に築かれ、武田・上杉の激戦地。謙信が改修し「龍の牙城」と称された堅固な城は、江戸期には本多氏が統治。地震や戊辰戦争を乗り越え、桜の名所として今に。
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戦国期北信濃における飯山城の戦略的価値と歴史的変遷に関する総合的研究

序論:戦国期北信濃における飯山城の地政学的意義

戦国時代の信濃国は、越後の上杉氏、甲斐の武田氏、そして後に関東の北条氏や尾張の織田氏といった強大な戦国大名に囲まれ、地政学的に極めて重要な緩衝地帯としての性格を帯びていた 1 。この地は、飛騨、木曽、赤石といった山脈に抱かれた内陸国でありながら、古来より官牧が置かれるほどの良馬の産地であり、麻布や林業も盛んな経済的に魅力ある地域でもあった 2

特に、千曲川と犀川が合流する北信濃の善光寺平(現在の長野盆地)は、広大で肥沃な穀倉地帯であると同時に、名刹善光寺を擁する経済・宗教の中心地であり、その支配権を巡って熾烈な争奪戦が繰り広げられた 4 。甲斐国主武田信玄にとって、山がちで水害が多く、耕作適地の少ない本国から脱却し、豊かな信濃を掌握することは、その勢力拡大戦略の根幹を成すものであった 5

この武田氏の南下政策に対し、越後の上杉謙信は、信濃の在地領主である村上義清や高梨政頼からの救援要請に応える形で介入し、両雄は善光寺平を主戦場として、天文22年(1553年)から永禄7年(1564年)にかけて、実に5度にわたる川中島の戦いを繰り広げることとなる。

飯山城は、この善光寺平の北東、千曲川西岸の丘陵地に位置する。越後国境へと至る関田峠や富倉峠を扼する交通の要衝であり、上杉氏にとっては越後本国を守る最終防衛線であると同時に、信濃へ出兵する際の最前線基地となる、まさに戦略上の要諦であった 6 。飯山城の存在、そして特に上杉謙信によるその要塞化は、単なる偶発的な出来事ではない。北信濃の地政学的緊張と経済的価値が必然的にもたらした帰結であり、武田氏の南下政策と上杉氏の国土防衛戦略が衝突する一点として、歴史の表舞台に立たざるを得なかったのである。

本報告書は、戦国時代という視座から飯山城を多角的に分析し、その築城から構造、関わった武将たちの動向、そして近世以降の変遷に至るまでを徹底的に詳述するものである。


表1:飯山城 歴代主要城主と関連する出来事年表

時代区分

年代(西暦)

主要城主(城代)

関連する主要な出来事

典拠

鎌倉時代

14世紀初頭

泉氏(伝承)

泉親衡の伝承(桜井戸)。居館が存在したとされる。

8

戦国時代

16世紀中頃

高梨政頼

武田信玄の侵攻により中野から退去、飯山城に籠城。

6

永禄7年 (1564)

上杉謙信(城主)

対武田の前線基地として本格的に築城・大改修。

8

永禄11年 (1568)

(上杉方城番)

武田信玄による飯山城攻撃を撃退。

6

安土桃山時代

天正6年 (1578)

(武田勝頼方)

謙信死後の混乱に乗じ、武田氏が一時占領。

12

天正10年 (1582)

森長可

武田氏滅亡後、織田信長配下として入城。

13

天正10年 (1582)

岩井信能(城代)

本能寺の変後、上杉景勝が奪還。城代を置く。

8

天正11年 (1583)

岩井信能(城代)

城下町の建設を開始。

8

慶長3年 (1598)

関一政

上杉氏の会津移封に伴い、豊臣大名として入城。

13

江戸時代

慶長15年 (1610)

堀直寄

以後、佐久間氏、松平氏など城主が頻繁に交代。

13

享保2年 (1717)

本多助芳

本多氏が入封。以後10代にわたり明治まで統治。

9

弘化4年 (1847)

本多助実

善光寺地震で城郭が甚大な被害を受ける。

9

嘉永2-4年(1849-51)

本多助実

地震で倒壊した石垣や御殿などを再建・修復。

11

明治時代

明治元年 (1868)

本多助成

戊辰戦争(飯山戦争)の舞台となり、城下と共に炎上。

8

明治6年 (1873)

(なし)

廃城令により、建物は破却・移築され城は廃城となる。

11


第一章:飯山城の黎明期 ― 泉氏・高梨氏の時代

築城前史と泉親衡の伝承

飯山城の起源については、鎌倉時代の御家人・泉親衡にまつわる伝承が残されている。北条氏に反旗を翻して敗れた親衡がこの地に逃れ、渇きを癒すために桜の大木のもとを掘ったところ、清水が湧き出たという。この井戸は「桜井戸」と呼ばれ、後世まで歴代城主によって大切にされたと伝わる 8 。この伝承は、飯山の地と泉氏との古くからの関わりを示唆するものであるが、史実としての築城は、より時代が下ってからと考えられる。

より確かな記録としては、戦国期にこの地域を治めていた土豪・泉弥七郎が構えた居館が、飯山城の直接的な原型であるとする説が有力である 8 。この泉氏は、古代からこの地方に存在した官牧の一つである常盤牧一帯を領した一族であった 6 。この段階での城は、軍事的な要塞というよりも、在地領主の生活と統治の拠点である「居館」としての性格が強かったと推測される。

高梨氏の北信濃支配と飯山城

室町時代末期から戦国時代前期にかけて、北信濃では中野(現在の長野県中野市)を本拠とする高梨氏が勢力を伸張させた。飯山の泉氏は高梨氏の配下となり、飯山城(当時は泉氏の館)は高梨氏の勢力圏に組み込まれ、その「支城」として位置づけられるようになった 9 。この変化は、北信濃において地域内での勢力争いが常態化し、それまで比較的平和であった在地領主の拠点にも、より強い軍事機能が求められるようになったことを示している。

武田信玄の侵攻と高梨政頼の退却

弘治年間(1555-1558年)、甲斐の武田信玄による北信濃侵攻が本格化すると、地域の勢力図は一変する。武田軍の圧倒的な軍事力の前に、高梨氏の同族や家臣が次々と降伏・内応し、高梨政頼は孤立を深めていった 6 。ついに本拠地である中野の高梨氏館を維持することが困難となった政頼は、かねてより縁故のあった越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼り、その庇護のもとで飯山城へと退去し、籠城した 6

この出来事は、飯山城の歴史における最初の大きな転換点であった。在地領主の居館から地域有力者の支城へとその性格を変えてきた城は、この時、外部からの強大な軍事圧力に直面する高梨氏にとって文字通り「最後の砦」となり、同時に、越後の上杉氏が武田氏と直接対峙する最前線へと、その戦略的価値を劇的に高めることになったのである。城の機能と規模が段階的に強化されていく過程は、北信濃全体が戦国の動乱に飲み込まれていく様を象徴している。

第二章:龍の牙城 ― 上杉謙信による大改修と戦略拠点化

永禄七年(1564年)の画期

永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いは、両軍合わせて数千人の死者を出す大激戦となったが、武田・上杉双方の戦略的状況を決定的に変えるには至らなかった 4 。この経験は、一度の野戦で信玄を信濃から排除することの困難さを謙信に痛感させた可能性がある。そして、より持続可能で、かつ越後本国への負担が少ない新戦略への転換を促したと考えられる。その戦略とは、堅固な前線基地を築き、そこを拠点として武田の北上を恒常的に阻止する、要塞線を基盤とした持久戦であった。

この新戦略を具現化する物理的な拠点として選ばれたのが飯山城である。永禄7年(1564年)、第五次川中島合戦の後、謙信は飯山城を本格的な軍事拠点として大改修した 8 。この大規模な改修は、事実上の「築城」と見なされることも多く、これにより飯山城は、在地領主の砦から戦国大名の戦略思想を体現した近代的な城郭へと生まれ変わった。伝承によれば、謙信自らが改修の検分を行い、この時にほぼ現在の城の規模が定まったとされる 21

対武田戦略の要石として

謙信による改修は、対武田という明確な目的意識のもと、城の防御力を徹底的に高めることに主眼が置かれた。城の周囲には深く堀を巡らし、丘陵の斜面は人工的に削られて、より急峻な「切岸(きりぎし)」とされた。さらに丘の上には土塁を高く築き、容易に兵が取りつけないよう工夫された 11

こうして要塞化された飯山城は、謙信にとって二重の戦略的役割を担っていた。第一に、武田軍が越後本国へ侵攻するのを防ぐ「最後の砦」としての役割。第二に、信濃へ再出兵する際に兵馬を集結させ、補給を行う「前線基地」としての役割である 10 。飯山城は、謙信の軍事思想の進化を体現した、まさに「戦略兵器」であったと言える。

城番・援将の配置と情報網

謙信は城の物理的な強化だけでなく、人的な配置にも万全を期した。旧来の城主である泉弥七郎を実城に留め、その在地における影響力を活用しつつ、桃井伊豆守義孝や加地安芸守春綱といった譜代の家臣を援軍として配置した 6

さらに、城番として岩船藤左兵衛門長忠、堀江駿河守宗親らを常駐させ、彼らに対して飯山城周辺の武田方の動向を詳細に注進するよう命じている 6 。これは、飯山城が単なる防御拠点ではなく、敵情を収集・分析し、春日山城の本営へと伝達する情報拠点としての機能も重視されていたことを示している。

永禄十一年(1568年)飯山城の戦い

謙信による要塞化の真価は、永禄11年(1568年)の戦いで証明された。この年、武田信玄は、越後で発生した家臣・本庄繁長の乱に呼応する形で、飯山城とその支城群に大軍を差し向けた 4 。武田軍は上蔵城などを陥落させるなど猛攻を加えたが、桃井伊豆守らが守る飯山城本体は、上杉からの援軍もあって堅く守り抜き、ついに信玄は攻略を断念して撤退した 6 。この勝利は、謙信の築城術と戦略が実戦において有効であったことの証左であり、飯山城は難攻不落の「龍の牙城」として、その名を北信濃に轟かせたのである。

第三章:激動の時代 ― 武田・織田・上杉景勝の支配

謙信死後の権力闘争と飯山城

天正6年(1578年)3月、上杉謙信が急死すると、北信濃の政治情勢は再び流動化する。謙信の後継者を巡って養子の景勝と景虎が争った「御館の乱」の隙を突き、武田勝頼は北信濃への攻勢を強め、飯山城を一時的にその支配下に置いた 8 。長年にわたる上杉氏の拠点が、宿敵武田氏の手に落ちたこの出来事は、謙信という絶対的な支柱を失った越後の混乱を象徴するものであった。

「鬼武蔵」森長可の入城と統治

しかし、武田氏による支配も長くは続かなかった。天正10年(1582年)3月、織田信長による甲州征伐によって武田氏は滅亡する。信長は戦功のあった家臣・森長可に川中島四郡(高井・水内・更級・埴科)を与え、長可は飯山城をその統治拠点の一つとした 13

「鬼武蔵」の異名を持つ長可の統治は苛烈を極めたとされる。彼は北信濃の在地国衆を完全に信用せず、その妻子を人質として海津城(後の松代城)に集住させるなど、恐怖による支配を試みた 23 。飯山城においても、対上杉の最前線という地政学的リスクを認識し、城の修築と守備の強化を急いだと考えられる 14

本能寺の変と上杉景勝の復権

同年6月2日、京都で本能寺の変が勃発し、織田信長が横死すると、北信濃に再び権力の空白が生じる。この激変を察知した森長可は、信濃の領地を放棄して本拠地である美濃へと撤退した。この機を逃さず、上杉景勝は迅速に軍を動かし、混乱に乗じて飯山城を含む北信濃の旧領を回復することに成功した 15 。天正6年からわずか4年の間に、飯山城の主は上杉、武田、織田、そして再び上杉と、目まぐるしく入れ替わった。この事実は、飯山城が単なる戦略拠点であるだけでなく、北信濃の支配権そのものを象徴する「トロフィー」であったことを示している。

城代・岩井信能と城下町の形成

北信濃を再掌握した上杉景勝は、腹心の将である岩井備中守信能を飯山城代として任命した 8 。信能は、景勝の命を受けて飯山城のさらなる改修を進めると同時に、城の歴史において極めて重要な事業に着手する。それが城下町の建設であった 24

天正11年(1583年)頃、信能は城の麓に、まず上町・下町(本町)・肴町の三町を整備し、街道沿いに町屋を形成した。さらに、城の周囲には北町・田町・福寿町といった侍屋敷を計画的に配置した 8 。この岩井信能による町づくりは、飯山城が純粋な軍事拠点から、地域の政治・経済の中心地へとその性格を変貌させ始める画期的な出来事であった。度重なる支配者の交代に揺れた領民に対し、上杉氏による恒久的な統治を内外に示し、新たな秩序を構築しようとする強い意志の表れであったと言えよう。これにより、現在の飯山市街地の原型が築かれ、飯山は都市としての歴史を歩み始めたのである。

第四章:城郭の構造と縄張り ― 戦国期における防御思想の具現

飯山城は、その構造と縄張り(城の設計)において、戦国時代の築城術と、上杉謙信の対武田戦略という明確な思想が見事に具現化された、平山城の傑出した作例である。

平山城としての地勢的優位性

飯山城は、東を天然の外堀である千曲川、西を関田・斑尾の山地、南を急崖、そして西側の一部は湿田地帯という、四方を自然の要害に囲まれた独立丘陵に築かれている 8 。このように平野部に孤立した丘陵を利用して築かれた城を「平山城」と呼び、山頂に築かれる「山城」に比べて領国経営の拠点としての利便性が高く、平地に築かれる「平城」よりも防御力に優れるという特徴を持つ。飯山城は、この平山城の利点を最大限に活かした設計となっている。

「後堅固の城」と梯郭式縄張り

飯山城の縄張りの最大の特徴は、「梯郭式(ていかくしき)」と呼ばれる構造にある 26 。これは、城の最重要区画である本丸を丘陵の最も奥まった高所(南端)に置き、そこから二の丸、三の丸を、あたかも梯子(はしご)の段のように北に向かって階段状に配置する設計である 11

この配置は、主たる脅威である武田軍が南の善光寺平方面から来襲することを想定しており、城の全戦力を南面に集中させる意図があった。一方で、背後となる北側は越後本国に繋がるため、大規模な攻撃は想定されていない。このように、背後の守りが堅固で、正面の防御に特化した城は「後堅固(あとかたこ)の城」と呼ばれ、飯山城はその典型例であった 8 。この設計思想により、比較的少数の兵力でも効率的な防御が可能となった。

一方で、北から三の丸、二の丸、本丸と続く現在の構造は、後に城を奪った武田氏が、逆に対上杉(北)を意識して改修した結果ではないかという興味深い異説も存在する 20 。基本構造は謙信の設計思想が色濃いものの、後の支配者による改修が加えられ、重層的な構造を持つに至った可能性も指摘できる。

防御施設の詳細と各曲輪の機能

飯山城は、天守を持たなかったが、堅固な防御施設によって守られていた。本丸には二棟、三の丸には一棟の二重櫓が建てられ、これが天守の代わりとして監視と遠距離攻撃の拠点となった 8 。門は全部で12棟あったとされ、城郭全体が厳重に区画されていた 9

城の防御力を飛躍的に高めていたのが、石垣、土塁、切岸、そして枡形虎口といった施設である。本丸の周囲には高い石垣がめぐらされ、特にその出入り口である虎口は「枡形(ますがた)」と呼ばれる構造になっていた 13 。これは、石垣で敵を四角く囲み、直進を妨げて三方向から矢や鉄砲を浴びせるための巧妙な仕掛けであり、飯山城跡における最大の見所の一つである 13 。また、各曲輪の周囲には土を盛り上げた土塁や、斜面を削った切岸が設けられ、敵兵の侵入を阻んだ 13


表2:飯山城の縄張りにおける主要構成要素と機能

構成要素

戦国期に想定された機能

規模・特徴

現在の遺構状況

典拠

本丸

城主の居館、最後の防衛拠点。司令塔。

城内最高所に位置。二重櫓二棟、御殿があった。

葵神社境内。枡形虎口と周囲の石垣、土塁が現存。

8

二の丸

政務を執り行う政庁機能。本丸の前面防御。

本丸の北側に位置。大規模な御殿があった。

飯山城址公園の中心部。平坦地として形状が残る。切岸が見られる。

8

三の丸

城の北側を守る最前線。物資の貯蔵。

城の北端に位置。二重櫓一棟、武器蔵、籾蔵があった。

公園の一部。平坦地として形状が残る。

8

西曲輪

重臣たちの居住区画。城の西側面を防御。

城内で最も広い曲輪。藩主の私邸が置かれた時期も。

形状は残るが、現在はグラウンド等になっている部分もある。

8

石垣

斜面の崩落防止、敵の登攀を阻害する防御壁。

本丸周囲に高く積まれる。野面積みから切込接ぎまで。

本丸虎口周辺に残るが、多くは善光寺地震後に修復されたもの。

9

土塁・切岸

敵の侵入を阻む土製の壁と、人工的な崖。

城郭全体を囲む。特に本丸、二の丸の周囲は堅固。

二の丸東端や西曲輪南側などに良好な状態で現存。

13

枡形虎口

敵兵の直進を防ぎ、三方から攻撃を加える出入口。

本丸の入口に設置。石垣で四角く囲む構造。

本丸跡に形状が明瞭に残る、最大の見所の一つ。

13

二重櫓

監視、遠距離攻撃(弓・鉄砲)の拠点。天守の代用。

本丸に二棟、三の丸に一棟。天守はなかった。

建物は全て現存しない。絵図でのみ姿を確認できる。

8

敵の接近を阻む障害。水堀と空堀があった。

城の周囲を囲む。大手門前の堀は幅約30mと広大だった。

現在は埋め立てられ、市街地化しているが、地形に痕跡が残る。

8


第五章:近世城郭への変遷と飯山藩の成立

豊臣政権下から江戸初期の城主変遷

慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の命により上杉景勝が会津へ移封されると、飯山城は豊臣政権の支配下に入り、伊勢出身の豊臣大名・関一政が三万石で入城した 13 。関ヶ原の戦いを経て江戸幕府が成立すると、飯山城主は森忠政(長可の弟)、松平忠輝の付家老であった皆川広照、堀直寄、佐久間安政など、数年単位で目まぐるしく交代した 13 。この時期、松平氏の治世下では城の整備が進められ、門の増設や曲輪を囲む柵の土塀化など、城郭機能の向上が図られたことが絵図から確認できる 30

本多氏による長期統治と飯山藩の安定

享保2年(1717年)、越後糸魚川藩から本多助芳が入封すると、ようやく飯山藩の統治は安定期を迎える。以降、明治維新に至るまで約150年間にわたり、本多氏が10代にわたって飯山を治めた 9 。本多氏の藩政下では、検地による財政基盤の確立、殖産興業の奨励、そして長年の懸案であった千曲川の治水事業などが行われ、飯山は城下町として成熟していった 33 。しかし、千曲川の洪水はその後も大きな脅威であり続け、寛保2年(1742年)の「戌の満水」をはじめ、江戸時代から昭和に至るまで、地域の人々を苦しめ続けた 34

善光寺地震と戊辰戦争

平穏であった江戸時代後期、飯山城は二つの大きな厄災に見舞われる。第一が、弘化4年(1847年)に発生した善光寺地震である。この巨大地震により、飯山城は石垣の大半が崩落し、御殿や櫓、門なども半壊・全壊するという甚大な被害を受けた 9 。しかし、飯山藩は嘉永2年(1849年)から再建に着手し、石垣の全面修復や二の丸御殿の再建などを成し遂げた 11 。現在、本丸跡に残る石垣は、戦国時代のものではなく、この幕末期に最新の技術で再建されたものである。これは、飯山城の遺構が、戦乱の記憶のみならず、自然災害との闘いと復興の歴史をも刻んでいることを物語っている。

第二の厄災は、慶応4年(明治元年、1868年)の戊辰戦争であった。飯山藩は新政府軍に与したが、旧幕府軍の衝鋒隊が飯山に侵攻し、城下で激しい戦闘が繰り広げられた(飯山戦争)。この戦いで城は炎上し、多くの建物を焼失した 8 。これが、飯山城が経験した最後の戦いとなった。明治6年(1873年)の廃城令により、残された建物も破却、あるいは市中の寺院などに移築され、飯山城はその城郭としての歴史に幕を下ろしたのである 11

結論:戦国期の遺産と現代への継承

飯山城の歴史は、一つの城郭が時代と共にその役割を変化させながら生き続けた、重層的な物語である。その価値は、以下の三つの側面に集約することができる。

第一に、戦国期における軍事拠点としての卓越した価値である。上杉謙信の対武田戦略という明確な思想のもとに設計された「後堅固の城」「梯郭式縄張り」は、戦国時代の築城術を理解する上で極めて貴重な実例である。千曲川という自然の要害を巧みに利用し、最小限の兵力で最大限の防御効果を発揮するよう計算されたその構造は、今なお城跡を歩く者に当時の緊迫感を伝えている。

第二に、近世における藩政の中心地としての政治的価値である。岩井信能による城下町の建設を濫觴とし、江戸時代を通じて飯山藩の藩庁が置かれたことで、飯山城は単なる軍事施設から、地域の政治・経済・文化の中心へと昇華した。現在の飯山市街地の骨格は、この時代に形成されたものであり、城と町が一体となって発展してきた歴史を物語っている。

第三に、幕末の動乱と災害を乗り越えた歴史的転換点の象徴としての価値である。善光寺地震からの復興事業は、困難に立ち向かう人々の営力を示し、現存する石垣にその記憶を刻んでいる。また、戊辰戦争の戦火は、武士の時代の終焉と近代の幕開けを告げるものであった。

昭和40年(1965年)、飯山城跡はその歴史的価値を認められ、長野県の史跡に指定された 11 。現在、城跡は城山公園として整備され、往時の縄張りの形状を良好に留めながら、約400本のソメイヨシノが咲き誇る桜の名所として、市民や観光客に広く親しまれている 13

飯山市は「城山公園整備基本計画」を策定し、史跡としての価値を後世に伝えるための遺構の保存・整備と、現代の公園としての利活用を両立させる取り組みを進めている 39 。今後の活用においては、単に戦国時代の姿を再現するだけでなく、この地に積み重なった「記憶の重層性」そのものを来訪者に伝え、体験させることが重要な課題となるであろう。戦国期の軍事思想、江戸期の統治、幕末の災害と戦争、そして現代の市民の憩いの場という、異なる時代の記憶が一つの場所に凝縮されていることこそが、飯山城跡の現代における最大の価値である。飯山城は過去の遺物ではなく、多様な歴史の物語を内包し、現代に生き続ける「生きた史跡」として、その豊かな物語を未来へと継承していく責務を我々に問いかけている。

引用文献

  1. 歴史に抱かれて - 伊那不動産組合 https://www.inafk.com/contents/ina_life/ina_history/
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  10. 飯山城跡 /【川中島の戦い】史跡ガイド - 長野市 - ながの観光net https://www.nagano-cvb.or.jp/furinkazan/shiseki/entry/000748.php.html
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  27. 城山公園整備基本計画書 - 飯山市 https://www.city.iiyama.nagano.jp/assets/files/toshikeikaku/machi/jyouyama-plan/0-hyoushi-mokuji.pdf
  28. 飯山城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/1224
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  30. 《シリーズ》絵図からみた飯山城 - マイ広報紙 https://mykoho.jp/article/202134/8822098/8902286
  31. 調査箇所 確認された遺構 - 飯山市 https://www.city.iiyama.nagano.jp/assets/files/toshikeikaku/machi/jyouyama-plan/2-13-25.pdf
  32. NOTES ON TYPOGRAPHY | ことのは もんじ しるす | ページ 7 https://robundo.com/robundo/notesontypography/page/7?title=www.robundo.com
  33. 飯山藩主松平家・本多家:概要 - 長野県:歴史・観光・見所 https://www.nagareki.com/bodaiji/tyuuon.html
  34. 改修の歴史と変遷 | 千曲川・犀川直轄改修100周年記念事業 https://www.hrr.mlit.go.jp/chikuma/100th/history/history03.html
  35. 4. 水害と治水事業の沿革 - 4.1 既往洪水の概要 - 国土交通省 https://www.mlit.go.jp/river/basic_info/jigyo_keikaku/gaiyou/seibi/pdf/shinanogawa35-5-4.pdf
  36. 「ふるさと教育」参考資料 飯山地区 https://www.city.iiyama.nagano.jp/assets/files/kodomo/download/4%20hurusato%20kyoiku%20siryou.pdf
  37. 【飯山の戦い】 - ADEAC https://adeac.jp/nagano-city/text-list/d100050/ht000080
  38. 飯山城址公園 | 上杉謙信の戦略拠点だった城跡 飯山を代表する桜の名所 | 長野県飯山市 https://trip.iko-yo.net/spots/904
  39. 3.1 整備基本方針 https://www.city.iiyama.nagano.jp/assets/files/toshikeikaku/machi/jyouyama-plan/3-26-28.pdf