信濃飯田城は、天竜川支流に挟まれた要害に築かれ、交通の要衝として栄えた。武田信玄が改修し軍事拠点化、豊臣政権下で近世城郭へと大転換。幻の天守伝説も残る。
信濃国南部に位置する飯田城は、その歴史を通じて、単なる一地方の城郭に留まらない、極めて重要な戦略的価値を保持し続けた拠点でした。その価値を理解するためには、まず城が置かれた地理的環境と、それが戦国時代の権力闘争の中で果たした地政学的な役割を分析する必要があります。
飯田城は、天竜川の二つの支流、南の松川と北の野底川(または谷川)に挟まれた河岸段丘の先端部分を利用して築かれた平山城です 1 。この地形は、三方を川と断崖に守られた天然の要害を形成しており、防御拠点として理想的な立地でした 3 。河岸段丘という伊那谷特有の地形を最大限に活用したこの配置は、城の基本的な防御構造を決定づけ、後の拡張においてもその方向性を規定する重要な要素となりました。城跡から周囲を見渡すと、この地形的優位性は一目瞭然であり、なぜこの地が選ばれたのかを雄弁に物語っています 3 。
飯田の地は、軍事的な要衝であると同時に、古くから交通の結節点でもありました。信濃と三河国を結ぶ三州街道(塩の道)、遠州国へ通じる遠州街道、木曽へ抜ける大平街道、そして伊那谷を南北に貫く伊那街道がこの地で交差していたのです 1 。これにより、飯田は人の往来や物資の集散地として、経済的・物流的な中心地となる潜在能力を秘めていました。江戸時代には、この地の利を活かして宿場町や中馬輸送の中継地として「入馬千匹、出馬千匹」と謳われるほどの繁栄を見せたことからも、その重要性が窺えます 1 。
戦国時代に入ると、飯田の持つ地政学的重要性はさらに高まります。甲斐国の武田氏、三河・遠江国の徳川氏、そして尾張・美濃国の織田氏という、天下の覇権を争う三大勢力の中間に位置するこの地は、彼らの勢力がぶつかり合う最前線となりました 5 。特に、信濃統一から西上作戦へと駒を進める武田信玄にとって、飯田城は極めて重要な意味を持ちました。三河や美濃への侵攻ルートを確保するための攻撃拠点であると同時に、徳川・織田連合軍の信濃侵攻に対する防衛拠点としての役割を担っていたのです 1 。
飯田城の歴史は、単に城自体の物語としてではなく、「伊那谷」という地理的空間の支配権を巡る、より大きな戦略ゲームの一駒として読み解く必要があります。城主の交代は、この地域の戦略的価値がその時々の有力大名によっていかに重視されていたかを示す指標と言えるでしょう。武田氏にとっては対徳川・織田の攻撃拠点、織田・徳川氏にとっては武田氏を封じ込めるための防御拠点、そして豊臣政権にとっては東国を睨み安定支配を確立するための行政拠点と、城の機能は時代を支配する権力者の戦略に応じて変遷していきました。この視点を念頭に置くことで、飯田城が辿った複雑な歴史の理解がより深まります。
飯田城の歴史は、戦国時代の激動期に先立つ室町時代に、在地領主であった坂西(ばんざい)氏によってその幕を開けたと伝えられています 4 。しかし、その創始を巡る記録は断片的であり、築城主である坂西氏の出自や、築城当初の城の姿については、多くの謎に包まれています。
飯田城を最初に築いたとされる坂西氏の出自は、複数の説が存在し、明確にはなっていません。一説には、南北朝時代の信濃守護であった小笠原貞宗の三男・宗満を祖とする、清和源氏小笠原氏の一族であるとされています 8 。一方で、四国・阿波国の近藤氏の一族とする説もあり 10 、さらには、南北朝時代まで飯田郷の地頭は阿曽沼氏であり、坂西氏は地頭ですらなかった可能性も指摘されています 1 。このように出自が不確かであることは、戦国時代において坂西氏が他の有力な国衆のように強固な独立性を保てず、武田氏などの外部勢力に容易に従属せざるを得なかった遠因の一つと考えられます。
諸記録によれば、坂西氏は当初、飯田市愛宕にあった愛宕城(飯坂城)を居城としていましたが、より広く展望の利く要害の地を求め、現在の飯田城の地に移ったとされています 1 。この移転に際しては興味深い伝承が残されています。城を築こうとした土地は、もともと山伏(修験者)の修行場であったため、坂西氏は自らの居城であった愛宕城の土地と交換する形でこの地を得たというのです 1 。城郭内に「山伏丸」という曲輪の名称が後世まで残っているのは 6 、この土地が元々持っていた聖なる記憶を留めるものと言えるでしょう。
近年の考古学的調査は、この中世の飯田城の姿を解明する上で重要な手がかりを提供しています。1986年から1988年にかけて、現在の飯田市美術博物館の建設に先立って行われた発掘調査では、本丸と二の丸の間で、現在の城の縄張りとは明らかに異なる配置の古い堀跡が発見されました 12 。これは、坂西氏が築いた中世の飯田城が、後に武田氏や豊臣系大名によって改修された近世城郭とは、その規模も構造も大きく異なっていたことを示す決定的な証拠です 4 。
さらに注目すべきは、二の丸跡から多数発見された「方形竪穴」と呼ばれる住居跡です 4 。半地下式で臨時的な住居とみられるこれらの遺構は、城の防御区画内に多くの人々が居住、あるいは兵士が駐屯していたことを示唆しています。市内の他の国衆が拠点とした城からは同様の遺構が見つかっていないことから、飯田城は中世の段階から単なる防御施設ではなく、多くの人口を収容する地域の中心拠点として特別な機能を有していた可能性が考えられます 4 。
これらの発掘調査の結果は、飯田城の歴史が単に近世城郭へと「拡張」されたのではなく、ある時点で根本的に「再設計」されたことを示唆しています。方形竪穴の存在は、中世の城郭が防御機能と居住機能が一体化した「城館」に近い性格を持っていたことを物語っています。後の毛利・京極氏による計画的な城下町整備は、この城と居住区が一体化した空間を解体し、武士の居住区(城内)と町人の商工業区(城下町)へと機能的に分離・再編成する大事業でした。それは単なる増築ではなく、都市設計思想そのものの根本的な転換を意味していたのです。
16世紀半ば、甲斐国から急速に勢力を拡大した武田信玄による信濃侵攻は、飯田城の歴史における最初の大きな転換点となりました。在地領主の拠点であった城は、天下統一を目指す戦国大名の広域戦略に組み込まれ、堅固な軍事要塞へとその姿を大きく変貌させていきます。
天文23年(1554年)、武田信玄は伊那谷に大軍を進め、まず地域の有力国衆であった鈴岡城の小笠原信定を攻め落としました。この武田軍の圧倒的な軍事力を見て、飯田城主の坂西氏をはじめ、大島氏、松岡氏といった下伊那の国衆たちは次々と信玄に降伏し、その支配下に入りました 1 。これにより、飯田城は武田氏の南信濃支配の拠点となり、以後、天正10年(1582年)までの約30年間にわたる武田氏の統治時代が始まります 1 。
信玄は、三河・遠江方面への進出を視野に入れ、飯田城を戦略上の重要拠点と位置づけました。そして、武田二十四将の一人としても名高い猛将・秋山信友(虎繁)を城代として配置し、城の大規模な改修を行わせたとされています 4 。この改修によって、飯田城は対徳川・織田戦線の最前線基地として、より防御能力の高い堅固な城郭へと生まれ変わりました。発掘調査では、この時期の改修を示す可能性のある遺構も指摘されており 12 、城内には武田氏特有の築城様式が取り入れられたと考えられています 1 。秋山信友は飯田城を拠点として伊那郡を統治し、後には美濃方面の軍団長として織田氏との最前線で活躍しました 4 。
武田氏の伊那谷支配は、飯田城単独で行われたわけではありません。信玄は、伊那谷という南北に長い地理的空間を効率的に支配・防衛するため、複数の拠点を有機的に連携させる城郭ネットワークを構築しました。その中核をなしたのが、上伊那の拠点である「高遠城」、下伊那の拠点である「飯田城」、そして両者の中間に位置する「大島城」です 1 。これらの城は相互に連携し、信濃から三河・遠江へ至る軍事・兵站ルートを確保すると同時に、敵の侵攻に対する多層的な防衛ラインを形成していました 4 。
城郭名 |
所在地(現市町村) |
戦略的役割 |
主要な城将・関連人物 |
縄張りの特徴・備考 |
高遠城 |
伊那市 |
伊那谷全体の統括拠点。対織田・徳川の本国最終防衛線。 |
武田信廉、仁科盛信、山本勘助 |
山本勘助が縄張りを手掛けたと伝わる「勘助曲輪」が存在する 21 。天然の要害を活用した堅城 18 。 |
飯田城 |
飯田市 |
下伊那の統治拠点。対三河・美濃方面への前線基地。 |
秋山信友、坂西織部亮、保科正俊 |
秋山信友による大改修で軍事拠点化 12 。後の織豊期に大規模拡張される。 |
大島城 |
松川町 |
飯田城と高遠城を結ぶ中間拠点。兵站基地。 |
日向虎頭、武田信廉 |
武田流築城術の典型。二重の三日月堀と丸馬出が特徴 23 。信玄の命で大規模な普請が行われた 17 。 |
この表が示すように、各城はそれぞれ異なる役割を担っていました。高遠城が伊那谷全体の統括と最終防衛を担うのに対し、飯田城と大島城はより攻撃的な前線基地としての性格が強かったことがわかります。このネットワークによって、武田氏は伊那谷を安定的に支配し、西上作戦を遂行するための重要な基盤を築いたのです。
しかし、この強固な支配体制も、信玄の死後、徐々に揺らぎ始めます。天正10年(1582年)、織田信長の嫡男・信忠が率いる大軍が伊那谷に侵攻を開始すると(甲州征伐)、武田方の戦線は瞬く間に崩壊しました。飯田城を守っていた城将の保科正俊や坂西織部亮らは、織田軍の攻勢を前に戦わずして城を放棄し、最終決戦の地と目された高遠城へと退却しました 1 。この無抵抗での開城は、高遠城で仁科盛信が壮絶な徹底抗戦を見せたのとは対照的です 18 。この迅速な放棄は、単に織田軍の兵力が圧倒的であったという理由だけでなく、勝頼時代の武田氏の求心力が低下し、城を守るべき在地国衆の支持がすでに失われ、組織的な籠城戦を維持することが困難な状況にあったことを示唆しています。武田氏の伊那谷支配が、外部からの軍事侵攻と同時に、内部から崩壊していったことを象徴する出来事でした。
武田氏の滅亡により、飯田城はその強力な支配者を失い、信濃国全体が新たな権力闘争の渦に巻き込まれていきます。この激動の時代、飯田城は織田、徳川、そして豊臣という、天下の覇権を握る者たちの支配下を転々とすることになり、その過程で城の性格も大きく変化していきました。
天正10年(1582年)6月、本能寺の変で織田信長が斃れると、信濃国は再び権力の空白地帯となりました。これを好機と見た徳川家康、越後の上杉景勝、相模の北条氏直が信濃の領有権を巡って激しく争います。これが世に言う「天正壬午の乱」です。この混乱の中、飯田城は三河国に近いという地理的条件から、いち早く徳川家康の影響下に置かれることになります。家康の支援を受けた在地領主の下条頼安が一時城を掌握した後、家康の家臣である菅沼定利が入城し、徳川方の南信濃における拠点となりました 1 。
この徳川氏による支配も長くは続きませんでした。小牧・長久手の戦いを経て豊臣秀吉が天下人としての地位を確立し、天正18年(1590年)に家康が関東へ移封されると、信濃国は豊臣政権の直接支配地となります。秀吉は、この戦略的要衝である飯田城に、自らの信頼厚い側近を配置しました。まず城主となったのは毛利秀頼です。彼は秀吉から「羽柴」の称号と「豊臣」の姓を授かるほど寵愛された武将でした 1 。その後、秀頼の娘婿である京極高知が城主の座を継ぎました 1 。
毛利秀頼や京極高知といった豊臣系大名の入城は、単なる人事異動ではありませんでした。それは、全国の重要拠点に信頼できる直臣を配置し、中央集権的な支配体制を確立しようとする豊臣政権の明確な国家戦略の表れでした 29 。彼らに与えられた使命は、単に地域を統治することに留まらず、城郭を大規模に改修・拡張し、天下人の威光を天下に示すとともに、恒久的な支配体制を構築することにありました。
この時期、飯田城の歴史は大きな転換点を迎えます。それまでの城は、坂西氏にとっては一族の支配拠点、武田氏にとっては武田家の軍事戦略のための拠点であり、いずれも特定の「家」の私的な性格を帯びていました。しかし、豊臣政権下の毛利・京極氏は、秀吉という「天下人」の代理として城を預かる存在です。彼らが行う城の改修は、もはや私的な武備のためではなく、豊臣政権による統一された国土経営計画の一環として行われる「公的な」事業でした。この城の性格の転換こそが、次章で詳述する、中世的な城郭から近世的な城郭への劇的な変貌を促す原動力となったのです。城の機能が、純粋な戦闘拠点から、行政や経済の中心へとその比重を移していく時代の大きな流れが、飯田城の変貌に凝縮されていると言えるでしょう。
豊臣政権下で飯田城主となった毛利秀頼、京極高知の時代は、飯田城がその構造と機能を根本的に変革させ、中世の山城から近世の政治・経済都市へと飛躍を遂げた画期的な時代でした。この大転換は、城郭そのものの拡張と、計画的な城下町の建設という二つの側面から進められました。
毛利・京極両氏は、それまで山伏丸、本丸、二の丸を中核としていた飯田城に、西側へ向かって三の丸と追手門を新たに増設しました 11 。これにより城の領域は大幅に拡大され、防御能力が向上するとともに、より多くの家臣団を収容できる大規模な城郭へと生まれ変わりました。この西側への拡張は、城の正面玄関(追手)を従来の東側から変更し、城下町の建設と一体で進められたと考えられます。
城の拡張と並行して、その周囲には本町などの町人地が計画的に建設されました 31 。これは、増加する家臣団を城の周辺に集住させると同時に、商工業者を呼び寄せて経済を活性化させることを目的とした、近世的な都市開発の始まりでした 32 。飯田の城下町の基本的な骨格は、この織豊期に築かれたと言えます 33 。
この大改修を経て完成した飯田城と城下町の姿は、江戸時代初期の寛文12年(1672年)頃、飯田藩主が脇坂氏から堀氏へと交代する際に作成された「信濃国飯田城絵図」によって詳細に知ることができます 28 。長野県宝にも指定されているこの貴重な絵図からは、以下の重要な情報が読み取れます。
この城と城下町の構造変化は、防御思想の転換を明確に示しています。武田氏時代の城が、個々の城砦とそれらを結ぶ街道という「点と線」で防御する思想であったのに対し、織豊期以降の飯田城は、城下町全体を防御線内に取り込む「面」での防御思想へと進化しました。これは、守るべき対象がもはや兵士や武士だけでなく、経済活動を担う町人や彼らが蓄積した富へと拡大したことを意味します。戦乱の時代が終焉に向かい、経済を基盤とする安定統治の時代へと移行していく日本の大きな歴史的潮流が、飯田城の構造変化に明確に刻み込まれているのです。
関ヶ原の戦いを経て江戸幕府が開かれると、飯田城は飯田藩の藩庁として、南信濃の政治的中心地となります。城主は、小笠原秀政(1代)、脇坂安元・安政(2代)と変遷した後、寛文12年(1672年)に堀親昌が下野国烏山から2万石で入封しました。以後、明治維新で廃藩置県が行われるまで、堀家が12代にわたって飯田の地を治めました 1 。
明治維新後、飯田城はその役目を終え、多くの城郭建築が徹底的に破却されました 36 。しかし、往時の姿を完全に失ったわけではありません。城の記憶は、奇跡的に残された建造物や石垣、そして城跡に建てられた新たな施設を通じて、今なお飯田の街に息づいています。
飯田城桜丸の正門であった「桜丸御門」は、その扉や柱が弁柄で赤く塗られていることから、通称「赤門」として親しまれています 1 。この門は、飯田藩主・堀氏の時代の宝暦4年(1754年)に完成したものです 1 。廃藩置県後、城内の建物が次々と取り壊される中で、この赤門だけが唯一、創建当時と同じ場所(現在の長野県飯田合同庁舎の敷地内)に現存しています 37 。飯田城の建築遺構として極めて価値が高く、飯田市の有形文化財に指定されています 1 。
赤門の他にも、いくつかの城門が解体を免れ、市内の個人宅や寺院に移築されて現存しています 36 。これらの移築門は、城が失われた後もその記憶を地域社会の中で継承しようとした人々の意志を物語っています。
城の公的な機能が失われた後、その構成要素であった門が、地域の有力者や寺院によって引き取られ、新たな役割を与えられて生き残ったという事実は興味深い点です。これは、廃城という出来事が単なる破壊行為ではなく、城の記憶が公的なものから地域コミュニティの中の私的なものへと「再配置」され、継承されていくプロセスであったことを示しています。
建築物だけでなく、城の土台をなした石垣の一部も現存しています。特に、追手町小学校の東側の急坂に残る「水の手御門」跡の石垣は、野面積みの大きな石が組まれ、戦国末期から江戸初期にかけての城の堅固さを偲ばせます 2 。この門は、時代によって城の大手門(正門)や搦手門(裏門)として機能した重要な場所でした 41 。
現在、飯田城の中枢であった本丸跡には、江戸時代を通じて藩主であった堀家の先祖を祀る長姫神社が鎮座しています 43 。また、二の丸跡には飯田市美術博物館が建設され 7 、常設展や特別展を通じて飯田城と城下町の歴史を発信しています 33 。これらの施設は、飯田城の歴史を学び、後世に伝えていくための現代における新たな拠点となっています。
飯田城の歴史を語る上で、最も興味深く、そして謎に満ちたテーマが「天守」の存在です。現在の飯田城跡には天守台などの明確な遺構は残されていませんが、かつてこの城に壮麗な天守が存在し、それが国宝・松本城の一部として現存しているという、壮大な伝説が語り継がれています。
江戸時代中期に書かれた『信州伊奈郷村鑑』や『飯田記』といった複数の地誌や記録の中に、「飯田城の天守は、慶長18年(1613年)に当時の城主であった小笠原秀政が松本城へ移封される際に解体・運搬され、松本城の乾小天守として再建された」という趣旨の記述が見られます 3 。これが「飯田城天守・松本城移築説」です。
この伝説を支持する論拠は、主に状況証拠に基づいています。
一方で、この伝説を確定的な事実とするには、いくつかの大きな障壁があります。
以上のことから、現時点では飯田城に天守が存在し、それが松本城に移築されたという説を史実として断定することはできません。この問題は、今後の新たな史料の発見や考古学的調査の進展が待たれる、飯田史上「最大の謎」と言えるでしょう 26 。
しかし、この伝説がなぜ生まれ、語り継がれてきたのかを考えること自体に、歴史的な意味があります。「天守移築説」は、史実の探求であると同時に、飯田の歴史における「失われた栄光の中心」を求める物語とも解釈できます。豊臣政権下で10万石の大名の拠点として迎えた絶頂期の記憶と、国宝として名高い松本城という偉大な存在に自らの郷土の歴史を結びつけたいという地域の人々の誇りが、この魅力的な伝説を育んできたのかもしれません。それは、単なる真偽の問題を超えて、地域の歴史的アイデンティティを形成する上で重要な役割を果たしてきた文化的な現象として捉えることができるのです。
信濃国飯田城の歴史は、一城郭の盛衰に留まらず、中世から近世へと移行する日本の社会構造の大きな変動を映し出す鏡と言えます。その城跡に刻まれた歴史の積層は、現代に生きる我々に多くのことを語りかけます。
飯田城は、その誕生から終焉まで、時代を支配する権力者の戦略思想を色濃く反映し、その姿を大きく変え続けました。在地領主・坂西氏による素朴な「城館」として始まり、武田信玄の下で伊那谷支配の軍事ネットワークを担う「要塞」へと変貌し、豊臣政権下では中央の威光を示す壮大な「近世城郭」へと大転換を遂げました。そして江戸時代には、飯田藩の「藩庁」として地域の政治・経済の中心であり続けました。発掘調査で明らかになった中世の堀跡から、現存する江戸時代の赤門に至るまで、飯田城に残るすべての痕跡は、日本の城郭史の変遷そのものを体現する貴重な史料群です。
特に戦国時代という視点で見れば、飯田城は下伊那地域で唯一、戦国末期の動乱を乗り越えて江戸時代まで存続した城でした 4 。これは、飯田城が単なる軍事拠点としてだけでなく、南信濃の政治・経済の中心地として、時代を超えて必要とされ続けたことの証左に他なりません。
幻の天守伝説に象徴されるように、飯田城の歴史は多くの謎とロマンに満ちています。しかし、その最大の価値は、城跡が美術博物館や神社、公園として整備され、今なお市民の憩いの場、そして歴史を学ぶ場として生き続けている点にあります。飯田城が辿った激動の歴史を理解し、その価値を未来へと継承していくこと。それこそが、この偉大な歴史遺産に対する我々の責務と言えるでしょう。