最終更新日 2025-08-23

高原諏訪城

飛騨の高原諏訪城は、戦国期江馬氏の堅固な山城。武田・上杉の狭間で勢力拡大も、八日町の戦いで鉄砲に敗れ滅亡。土木技術の粋を集めた「土の城」として、江馬氏の興亡を見守りし。

高原諏訪城 ― 戦国期飛騨の山城と江馬氏の興亡に関する総合的研究

序章:飛騨の山中に眠る、北の雄の拠点

岐阜県飛騨市神岡町の山中に、高原諏訪城(たかはらすわじょう)の遺構が静かに眠っている。この城は、単なる過去の建造物跡ではない。戦国時代の飛騨国において、北部に覇を唱えた江馬一族の興亡を刻み込んだ、地形そのものが語る歴史的文書である 1 。高原諏訪城は、江馬氏の政治的・軍事的拠点網の中核をなし、その栄華と悲劇の舞台となった。

本報告書は、この高原諏訪城を多角的な視点から徹底的に分析するものである。城主であった江馬氏の歴史的背景、城郭としての構造と防御思想、そして城と一族の運命を決定づけた「八日町の戦い」に至るまでを詳細に検証する。高原諏訪城の歴史は、より大きな戦国時代の地政学的力学、すなわち武田氏や上杉氏といった大国の狭間で翻弄され、やがて織田信長による天下統一の奔流に飲み込まれていく地方領主の典型的な軌跡を映し出している。特に、その堅固な土塁と堀切を中心とした「土の城」としての構造は、石垣を多用した新時代の城郭が登場する以前の、地域的な軍事戦略と思想を理解する上で極めて重要な事例と言える。高原諏訪城の盛衰を解き明かすことは、戦国期飛騨の歴史的実像に迫るための鍵となるであろう。

第一章:城主・江馬一族の盛衰

高原諏訪城の歴史は、その主である江馬氏の歴史と不可分である。飛騨北部に確固たる勢力を築き上げたこの一族は、戦国時代の荒波の中でいかにして台頭し、そして滅びていったのか。その軌跡を追う。

一節:飛騨高原郷の領主、江馬氏の台頭

江馬氏が歴史の表舞台に登場するのは南北朝時代にまで遡る。文献上の初見は、応安5年(1372年)の足利将軍家御教書案であり、そこには「江馬但馬四郎」の名が見える 3 。この文書は、幕府が江馬氏に対し、他の武士による所領の押領を停止させる公務執行を命じるものであり、この時点で既に江馬氏が幕府から信任され、地域に影響力を持つ有力な武士であったことを示唆している 3 。その出自については諸説あり、鎌倉幕府の執権であった北条氏の一族に連なるとの説も存在するが、確たる証拠はなく、詳細は不明な部分が多い 4

室町時代を通じて、江馬氏は飛騨国吉城郡高原郷(現在の飛騨市神岡町および高山市上宝町一帯)を本拠地として着実に勢力を拡大した 5 。15世紀後半には、室町幕府の公務を担う存在として、隣接する荒城郷にまで影響力を及ぼしていたことが史料から確認できる 4 。この頃には、飛騨国司を称する姉小路氏や、後に台頭する三木氏と並び、飛騨の有力国衆の一角を占めるに至っていた 6

二節:武田・上杉の狭間で

戦国時代が本格化すると、飛騨国は甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信という二大勢力の緩衝地帯となり、その地政学的な重要性を増す。江馬氏をはじめとする飛騨の国衆は、これら大国の間で巧みにかじ取りをしなければ、生き残ることのできない厳しい状況に置かれた 8

この外部からの強大な圧力は、江馬一族の内部に深刻な亀裂を生じさせた。当時の当主であった江馬時盛は、一族の安泰を図るために武田氏への従属を選択した 7 。これに対し、嫡子であった江馬輝盛は、越後の上杉氏との連携を主張し、父と激しく対立した 7 。この対立は単なる親子間の不和ではなく、一族の存亡をかけた外交方針の根本的な違いであった。

永禄7年(1564年)、武田信玄は越中への進出路を確保し上杉氏を牽制するため、重臣の山県昌景を将とする軍勢を飛騨へ侵攻させた 4 。この時、時盛は武田軍に恭順の意を示し、三男を人質として甲斐に送ることで従属を誓った 7 。一方、輝盛はこれに反発して高原郷を脱出、三木氏や上杉氏の支援を受けながら父時盛と交戦するに至った 9 。最終的に、上杉謙信が信濃川中島へ出兵したことで武田軍は飛騨から撤退を余儀なくされ、時盛は降伏。これを機に輝盛が江馬氏の実権を掌握したと見られる 9

この父子の確執は、天正6年(1578年)頃、悲劇的な結末を迎える。輝盛は、時盛が武田家に送った弟を次期当主に据えようとしたことを理由に、実の父である時盛を殺害したとされる 6 。この冷酷な決断は、一族内の親武田派を粛清し、親上杉路線を確定させるための政変であった。江馬氏の内部対立は、まさしく戦国大国の代理戦争の縮図であり、その苛烈さが浮き彫りとなる事件であった。

三節:飛騨の覇権への道と宿敵・三木氏

江馬氏にとって、飛騨統一の道を阻む最大の障壁は、飛騨南部を拠点とする三木氏であった 6 。三木氏は、当初は飛騨守護・京極氏の被官であったが、巧みな政治手腕で勢力を拡大。ついには、権威はあれど実力を失っていた飛騨国司・姉小路家の名跡を継承し、「姉小路」を名乗ることで、その正統性を内外に示した 13 。当主の三木自綱(姉小路頼綱)は、中央の覇者である織田信長にいち早く接近し、その支援を背景に飛騨国内での影響力を絶大なものとしていた 6

天正元年(1573年)の武田信玄、そして天正6年(1578年)の上杉謙信の死により、飛騨を巡る大国のパワーバランスは崩壊する。かつては武田、上杉という後ろ盾をそれぞれ持っていた江馬氏と三木氏は、共に織田信長の支配下に組み込まれる形となったが、両者の間に横たわる飛騨統一という野望が消えることはなかった 6 。飛騨の覇権をかけた両雄の直接対決は、もはや避けられない運命となっていたのである。

年代(西暦)

元号

主な出来事

1372年

応安5年

文献上で江馬氏が初見される(江馬但馬四郎) 3

15世紀後半

文明年間

室町幕府の命を受け、荒城郷の所領回復に関与するなど、勢力を拡大 4

16世紀中頃

天文・弘治年間

江馬時経・時盛の代。三木氏が台頭し、飛騨国内の緊張が高まる 6

1564年

永禄7年

武田信玄が飛騨へ侵攻。江馬時盛は武田氏に、子・輝盛は上杉氏に通じ、父子で対立 4

1578年頃

天正6年頃

江馬輝盛が父・時盛を殺害し、家中の実権を完全に掌握 6

1582年6月

天正10年6月

本能寺の変。織田信長が死去し、飛騨国内に権力の空白が生じる 17

1582年10月

天正10年10月

江馬輝盛が三木自綱との決戦に臨み、八日町の戦いで敗死。高原諏訪城が落城し、江馬宗家は事実上滅亡 4

1585年

天正13年

豊臣秀吉の命を受けた金森長近が飛騨へ侵攻。江馬氏の残党である江馬時政が金森氏に反旗を翻すが鎮圧され、江馬氏は完全に滅亡 2

第二章:高原諏訪城の縄張りと防御思想

高原諏訪城は、戦国時代の山城が持つ機能美と、飛騨の厳しい自然環境に適応した築城技術の結晶である。その縄張り(城の設計・配置)と防御施設は、江馬氏の軍事思想を雄弁に物語っている。

一節:戦略的立地と詰城の機能

高原諏訪城は、典型的な山城(やまじろ)であり、標高622メートル、麓からの比高(ひこう)約170メートルの峻険な尾根上に築かれている 2 。この立地は、江馬氏の本拠地である高原郷一帯を一望に収めることを可能にし、山之村道や上宝道といった領内の主要交通路を厳しく監視する上で、この上ない戦略的優位性をもたらした 3

この城は、江馬氏が平時に居住し政務を執った山麓の居館「下館(しもやかた)」に対する「詰城(つめのしろ)」としての機能を持っていた 2 。詰城とは、戦時や緊急時に領主一族が立て籠もる最後の砦であり、居住性よりも防御能力が最優先される。平時は下館で生活し、有事の際には堅固な山城である高原諏訪城へ退避するという二元的な拠点システムは、戦国期の地方領主が採用した極めて合理的かつ一般的な支配形態であった 5

二節:鉄壁の防御網 ― 堀切と曲輪群の徹底解剖

高原諏訪城の縄張りは、南北に伸びる一本の尾根を主軸として構成されている。城の中心部である主郭(しゅかく)を頂点に、北と南の尾根筋に沿って複数の曲輪(くるわ、城内の平坦地)群が連なる、連郭式の構造を基本とする 22

主郭は、山頂部を削平して造成された南北に長い方形の空間であり、現在「江馬侯城趾」と刻まれた石碑が建てられている 3 。この主郭は、西側を除く三方を腰曲輪(こしぐるわ)と呼ばれる帯状の細い曲輪と、切岸(きりぎし)と呼ばれる人工的に削り出した急斜面によって厳重に守られている 2

城への主要な攻撃ルートと想定された北側尾根には、特に念入りな防御施設が施されている。尾根筋を完全に遮断するために、二重、あるいは三重にも及ぶ巨大な堀切(ほりきり)が穿たれている 21 。堀切とは、尾根をU字またはV字状に深く掘り下げて敵の進軍を物理的に妨害する、山城の最も基本的な防御施設である。この大規模な堀切群は、高原諏訪城の防御思想を象徴する遺構と言える。

主郭の南側にも、城内最大級の大堀切(おおほりきり)が存在し、主郭部と南曲輪群とを明確に分断している 21 。これにより、たとえ城の一部が突破されても、敵は次々と現れる堀切によって行く手を阻まれ、城内での自由な移動を許されない構造となっている。

さらに、尾根の側面からの攻撃を防ぐため、山の急斜面には竪堀(たてぼり)が数多く設けられている 21 。竪堀は、斜面を垂直に掘り下げた溝であり、敵兵が斜面を横移動するのを防ぎ、特定の攻撃路へと誘導する効果があった。特に北東の尾根筋には、小規模な段々と竪堀を組み合わせた複雑な防御ラインが構築されており、設計者の高い技術水準がうかがえる 22

三節:戦国期飛騨における山城の典型 ―「土の城」の極致

高原諏訪城は、石垣(いしがき)をほとんど用いず、土を掘り、盛り、削るといった土木工事のみで防御施設を構築した「土の城(つちのしろ)」の傑出した作例である 22 。その防御力の源泉は、自然地形を最大限に活用し、それを人工的に改変することで生み出される。

この点は、宿敵であった三木氏の本城・松倉城と比較すると、その性格の違いがより鮮明になる。松倉城は、16世紀後半に築城または大改修されたと考えられ、高さ5メートルから8メートルにも達する高石垣(たかいしがき)で主要部が固められている 24 。隅角部には、より高度な技術を要する算木積み(さんぎづみ)が見られるなど、織田・豊臣政権下で発展した最新の築城技術が導入されていることがわかる 25

高原諏訪城が伝統的な土木技術の極致を示す山城であるのに対し、松倉城は中央の先進技術を取り入れた近世城郭への過渡期的な姿を示している。この建築様式の違いは、単なる技術の差だけを意味するものではない。大規模な石垣普請には、専門技術者集団の確保、莫大な費用、そして巨石を山頂まで運び上げる高度な兵站能力が不可欠である。中央の織田信長と結びついた三木氏が、その経済力と政治力を背景にこうした大事業を成し得たのに対し、江馬氏は飛騨の山々に根差した伝統的かつ効率的な築城術を選択した。両者の城は、それぞれの勢力が置かれた政治的・経済的状況、そして軍事思想の違いを物理的に体現していると言えよう。高原諏訪城は古くからの地域権力の砦であり、松倉城は中央の力を背景とした新興勢力の野心の象徴であった。

第三章:「飛騨の関ヶ原」― 八日町の戦いと落城

天正10年(1582年)、高原諏訪城と江馬氏の運命は、わずか数日のうちに劇的な終焉を迎える。飛騨の覇権をかけた「八日町の戦い」は、一地方の合戦でありながら、戦国時代の終わりを告げる戦術的転換点を象徴する出来事であった。

一節:本能寺後の激動

天正10年6月2日、織田信長が京都・本能寺で横死したという報は、全国に衝撃を与えた 6 。信長という絶対的な権力者が消滅したことで、彼のもとでかろうじて保たれていた各地の勢力均衡は一挙に崩壊した。飛騨国も例外ではなく、信長の家臣として同格に扱われていた江馬氏と三木氏の間の緊張関係は、もはや抑えがたいものとなった。

この千載一遇の好機を逃さず、宿敵・三木氏を打倒し、悲願の飛騨統一を成し遂げようと決断したのが、江馬氏当主・江馬輝盛であった 17 。同年10月、輝盛は自らの全兵力を動員し、本拠地である高原郷から三木氏の領内へと進軍を開始した 17 。この軍事行動における江馬軍の前線基地となったのが、梨打城(なしうちじょう)であった 28

二節:決戦、八日町にて

戦端は10月26日の深夜に切られた。江馬軍は、三木氏の重要な同盟者である小島時光が守る小島城に夜襲を仕掛けたが、これは小島勢の激しい抵抗にあい、撃退された 17

翌27日、両軍の主力は現在の高山市国府町にあたる八日町(ようかまち)の地で対峙した。三木自綱が率い、小島時光や牛丸親正らの援軍を得た三木連合軍の兵力は約1,000。対する江馬軍は、精鋭の騎馬隊を中心とする約300騎であり、兵力では圧倒的に不利であった 17

しかし、戦いが始まると、江馬輝盛は自ら先頭に立ち、その精鋭騎馬隊を率いて三木軍の陣形に猛然と突撃した。この突撃は凄まじく、三木軍は一時混乱に陥り、後退を余儀なくされた 10 。戦いの序盤は、兵力で劣る江馬軍が優勢に進めた。だが、戦局は一つの出来事で劇的に転回する。三木軍が予め配置していた伏兵の鉄砲隊が一斉に火を噴き、その一弾が江馬軍を率いる輝盛を捉え、致命傷を与えたのである 17 。この戦いは、飛騨の合戦史において、鉄砲が本格的に使用された最初の事例とされる 17

江馬氏の強みは、伝統的な戦法である騎馬突撃にあった。しかし、三木氏は織田信長のもとでその威力を学んだであろう新兵器・鉄砲を、単に戦列に並べるのではなく、伏兵として効果的に用いるという先進的な戦術を駆使した。指揮官を狙い撃ちにするという「斬首作戦」の成功は、戦術思想の勝利であった。大将を失った江馬軍は統率を失って総崩れとなり、輝盛は討ち取られ、多くの家臣もまたその場で命を落とした 7 。この戦いは、旧来の戦術が新技術とそれを活かす新戦術の前に敗れ去った「飛騨の長篠」とも言うべきものであり、飛騨における戦国時代の終焉を告げる象徴的な戦いであった。輝盛の墓は現在も八日町の地に残り、彼に殉じた13人の家臣が自害したと伝わる峠は「十三墓峠(じゅうさんづかとうげ)」と呼ばれ、往時を偲ばせている 5

三節:落日の本拠地

八日町での決定的な敗北により、江馬氏の運命は事実上決した。軍を再編する時間も、新たな指導者を立てる余裕もなかった。勝利に乗じた三木連合軍は、輝盛が討ち死にした翌日の10月28日、間髪入れずに江馬氏の本拠地・高原郷へ雪崩れ込んだ 2

小島時光を将とする軍勢は、主を失い、精鋭を失って士気の上がらぬ高原諏訪城に迫った。伝承によれば、折からの大雪で城の防御柵が破損していたことも、落城を早める一因となったとされる。指導者と兵力を失い、防御体制も不十分であった城に、もはや抵抗する力は残されていなかった。高原諏訪城はあっけなく陥落し、ここに北飛騨に君臨した江馬宗家は滅亡したのである 4

第四章:国史跡「江馬氏城館跡」― ネットワークとしての城郭群

高原諏訪城は、単独の城郭としてではなく、より広範な支配システムの一部として理解する必要がある。1980年(昭和55年)3月21日、高原諏訪城は周辺の城館群と共に「江馬氏城館跡(えましじょうかんあと)」として、国の史跡に指定された 3 。この指定は、これらの遺跡群が一体となって江馬氏の領域支配を支えた、一個の有機的なネットワークであったことを示している。

一節:江馬氏の領域支配システム

国史跡「江馬氏城館跡」は、江馬氏の支配領域の構造を具体的に示す貴重な遺産である。このネットワークは、それぞれ異なる機能を持つ複数の城館から構成されていた。

  • 江馬氏下館(えまししもやかた) :山麓の平坦地に位置する、平時の政治・生活の中心地。発掘調査により、庭園や会所、常御殿などの施設が確認され、現在は公園として整備されている 3
  • 高原諏訪城(たかはらすわじょう) :下館の背後にそびえる詰城。有事の際の最終防衛拠点であり、領域全体を監視する司令塔でもあった 19
  • 支城群(しじょうぐん) :領国の境目や主要街道沿いに配置された、国境警備と情報伝達を担う城塞群。
  • 土城(どじょう)、寺林城(てらばやしじょう) :越中方面からの侵攻に備え、街道を監視する役割を担った 3
  • 政元城(まさもとじょう)、洞城(ほらじょう)、石神城(いしがみじょう) :上宝方面やその他の重要な交通路を抑えるために築かれた 3
  • 傘松城(からかさまつじょう) :2024年(令和6年)に史跡に追加指定された大規模な山城 19 。神岡の市街地を見下ろし、特に西方の高山・古川方面、すなわち宿敵・三木氏の勢力圏に対する防御を強く意識した縄張りを持つ 3

これらの城館群の配置を見れば、江馬氏の戦略的思考が明確に読み取れる。彼らは、政庁である下館と最終防衛ラインである高原諏訪城を中核に据え、領国の内外を結ぶ全ての街道を支城によって監視・管理する、緻密な防衛・支配システムを構築していた。史跡指定という現代の学術的評価は、個々の城を点として捉えるのではなく、これらを結ぶ線、すなわち江馬氏の支配領域全体を面として理解することの重要性を示している。江馬氏にとっての真の「城」とは、高原諏訪城単体ではなく、この城郭ネットワークによって守られた高原郷そのものであったと言えるだろう。

構成資産名称

種別

所在地(飛騨市神岡町)

推定される戦略的機能

江馬氏下館跡

居館

殿

平時の政庁・居住空間、行政の中心

高原諏訪城跡

山城

和佐保

下館の詰城、領域全体の監視・司令塔

傘松城跡

山城

吉田

西方(三木氏方面)からの侵攻に対する最重要防衛拠点

土城跡

山城

越中街道の監視、北方からの侵攻に対する防衛

寺林城跡

山城

寺林

越中東街道の監視、姉小路氏への押さえ

政元城跡

山城

西

脇街道の分岐点の監視、狼煙による情報伝達

洞城跡

山城

麻生野

上宝道(鎌倉街道)の監視

石神城跡

山城

石神

上宝道沿いの防衛、信州方面への備え

二節:史跡としての価値

「江馬氏城館跡」の学術的価値は極めて高い。第一に、中世武士の居館、詰城、そして国境の城塞群という一連の施設がセットで良好に保存されている点である 33 。これにより、中世の領主がどのようにして自らの領地を統治し、防衛していたのかを、具体的な空間配置を通して理解することができる。

第二に、高原諏訪城をはじめとする各城の遺構、特に土塁や堀切の保存状態が非常に優れていることである 21 。これらの遺構は、戦国期における山城の築城技術や防御思想を研究する上で、一級の資料となる。さらに、一部の城には、後の時代にこの地を支配した三木氏や金森氏による改修の痕跡も認められ、飛騨地域の支配者の変遷を城郭の構造変化から読み解くことも可能である 35 。このように、江馬氏城館跡は、飛騨という一地域の歴史的変遷を物語る、貴重な文化遺産なのである。

第五章:廃城から現代へ

八日町の戦いと高原諏訪城の落城は、江馬宗家の滅亡を意味したが、江馬一族の歴史が完全に途絶えたわけではなかった。城がその役目を終え、再び歴史の光を浴びるまでの道のりは、飛騨の支配者の交代と密接に連動していた。

一節:江馬氏の終焉と城の放棄

1582年の敗北後も、江馬一族の生き残りである江馬時政が活動を続けていた 2 。天正13年(1585年)、豊臣秀吉は三木氏(姉小路氏)の討伐を金森長近に命じる。この飛騨侵攻に際し、時政は父・輝盛の仇である三木氏を討つため、そして旧領回復を期して金森軍に加わり、戦功を挙げた 16

しかし、金森長近が飛騨一国を平定した後、時政が江馬氏の旧領を与えられることはなかった。この処遇に不満を抱いた時政は、他の旧領主の残党らと共に金森氏に対して反乱を起こしたが、これはあえなく鎮圧された 4 。この反乱の失敗により、江馬時政は自害または討死し、ここに名門・江馬氏は完全に歴史から姿を消した。

新たな飛騨の支配者となった金森氏は、高山に新たな城と城下町を築き、そこを政治の中心とした 37 。これにより、高原郷にあった高原諏訪城は戦略的価値を完全に失い、放棄されることとなった(廃城)。その後、城は人の手を離れ、数世紀にわたって静かに山林に還っていったのである 2

二節:史跡としての再発見と探訪の手引き

長い眠りの後、高原諏訪城は昭和期の歴史・考古学調査によってその価値が再発見され、1980年に国史跡に指定された。現在、城跡に建物は残っていないが、主郭や曲輪、そして圧巻の堀切群といった土木遺構は、驚くほど良好な状態で保存されており、戦国山城の醍醐味を存分に体感することができる 21

城跡へのアクセスと見学の注意点

  • 駐車場 :城跡に専用の駐車場はない。麓にある「道の駅 スカイドーム神岡」の駐車場を利用し、そこから徒歩で向かうのが最も確実である 1 。江馬氏の菩提寺である圓城寺(えんじょうじ)付近や、県道484号線沿いの登城口脇に若干の駐車スペースがあるが、収容台数は限られる 2
  • 登城路 :主な登城ルートは二つある。一つは、麓の圓城寺裏手から登る歴史的なルートで、主郭までの所要時間は約40分 2 。もう一つは、山腹を走る県道484号線沿いの登城口から入るルートで、こちらからは主郭まで10分から15分程度で到達できる 32 。道は比較的整備されているが、急な坂や狭い箇所もあるため、歩きやすい靴など登山の準備が望ましい 2 。また、熊の出没情報もあるため、熊鈴などを携行することが推奨される 2
  • 関連施設 :高原諏訪城をより深く理解するためには、関連施設への訪問が欠かせない。神岡城の模擬天守内にある 高原郷土館 は、近年のリニューアルで江馬氏と城館跡に関する展示が大幅に充実しており、城跡訪問前の予習に最適である 2 。また、麓にある
    史跡江馬氏館跡公園 では、発掘調査に基づき復元された居館の一部や庭園を見学でき、江馬氏の平時の暮らしに思いを馳せることができる 42

終章:高原諏訪城が物語るもの

高原諏訪城は、単なる山中の城跡ではない。それは、戦国時代という激動の時代を生きた一地方領主の叡智と野望、そしてその末路を刻んだ、壮大な歴史の証人である。

本報告書で明らかにしたように、この城は江馬氏の領域支配システムの中核であり、その縄張りには、自然地形を巧みに利用した高度な防御思想が凝縮されている。堀切と土塁を駆使した「土の城」としての完成度は、飛騨の山城の中でも随一であり、戦国期における築城技術の一つの到達点を示している。

しかし、その堅城も、時代の大きなうねりには抗えなかった。江馬輝盛の死と高原諏訪城の落城を決定づけた八日町の戦いは、鉄砲という新兵器とそれを活用する新戦術が、旧来の戦い方を凌駕した瞬間であった。江馬氏の滅亡は、織田信長、そして豊臣秀吉による天下統一事業の過程で、数多の地方勢力が淘汰されていった歴史の縮図でもある。

今日、高原諏訪城跡を訪れる者は、再建された天守閣や華麗な石垣ではなく、尾根を断ち切る深い堀切や、草木に覆われた曲輪の削平地に立つことになる。しかし、その静寂の中にこそ、この城が持つ真の価値がある。風が木々を揺らす音に耳を澄ませば、かつてこの地で繰り広げられたであろう武士たちの鬨の声や、一族の存亡をかけた緊迫した空気が伝わってくるかのようである。高原諏訪城は、日本の統一という壮大な物語が、無数の地域的な物語の終焉の上に成り立っているという、歴史の厳然たる事実を我々に突きつける。その静かなる稜線は、飛騨の、そして日本の複雑な歴史的パズルを解き明かすための、かけがえのない一片なのである。

引用文献

  1. 高原諏訪城跡(国史跡) | スポット | 飛騨市公式観光サイト「飛騨の旅」 https://www.hida-kankou.jp/spot/402
  2. 高原諏訪城の見所と写真・100人城主の評価(岐阜県飛騨市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/1165/
  3. 高原諏訪城(飛騨市) - デジタルアーカイブ研究所 - 岐阜女子大学 https://digitalarchiveproject.jp/database/%E9%AB%98%E5%8E%9F%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E5%9F%8E%E9%A3%9B%E9%A8%A8%E5%B8%82/
  4. 二 江馬氏の出自の謎 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/45/45372/115714_4_%E5%A4%A9%E5%9C%B0%E3%82%92%E7%BF%94%E3%81%91%E3%82%8B%E3%83%BC%E6%B1%9F%E9%A6%AC%E6%B0%8F%E5%9F%8E%E9%A4%A8%E8%B7%A1%E3%81%AE%E3%81%99%E3%81%B9%E3%81%A6%E3%83%BC.pdf
  5. 歴史好き必見!飛騨高山〜神岡【山城・グルメ】江馬氏ゆかりの史跡を巡るドライブコース - 岐阜の旅ガイド https://www.kankou-gifu.jp/blog/detail_458.html
  6. 江馬氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E9%A6%AC%E6%B0%8F
  7. 武家家伝_江馬氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ema_k.html
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  18. 江馬時政 - Wikiwand https://www.wikiwand.com/ja/articles/%E6%B1%9F%E9%A6%AC%E6%99%82%E6%94%BF
  19. 江馬氏城館跡 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E9%A6%AC%E6%B0%8F%E5%9F%8E%E9%A4%A8%E8%B7%A1
  20. 3.飛騨高山匠の技デジタルアーカイブ資料集(下) https://digitalarchiveproject.jp/wp-content/uploads/2023/12/4306d0881a0f7772f776997262e825e4.pdf
  21. [高原諏訪城] - 城びと https://shirobito.jp/castle/1713
  22. 飛騨 高原諏訪城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/hida/takahara-suwa-jyo/
  23. 高原諏訪城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8E%9F%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E5%9F%8E
  24. 松倉城 (飛騨国) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%80%89%E5%9F%8E_(%E9%A3%9B%E9%A8%A8%E5%9B%BD)
  25. 【岐阜県高山市】「松倉城跡」の国史跡指定が決定! - PR TIMES https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000191.000124925.html
  26. 松倉城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/1700
  27. 【合戦地をゆく】飛騨の関ケ原の戦い 八日町の戦い - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=o2ietq61ogw
  28. 飛騨 梨打城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/hida/nashiuchi-jyo/
  29. 江馬輝盛の墓 高山市指定文化財 - デジタルアーカイブ研究所 - 岐阜女子大学 https://digitalarchiveproject.jp/database/%E6%B1%9F%E9%A6%AC%E8%BC%9D%E7%9B%9B%E3%81%AE%E5%A2%93%E3%80%80%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%B8%82%E6%8C%87%E5%AE%9A%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1/
  30. 飛騨の史跡 ~ 江馬輝盛、十三士の碑 - デジタルアーカイブ研究所 - 岐阜女子大学 https://digitalarchiveproject.jp/database/%E9%A3%9B%E9%A8%A8%E3%81%AE%E5%8F%B2%E8%B7%A1%E3%80%80%EF%BD%9E%E3%80%80%E6%B1%9F%E9%A6%AC%E8%BC%9D%E7%9B%9B%E3%80%81%E5%8D%81%E4%B8%89%E5%A3%AB%E3%81%AE%E7%A2%91%E3%80%80%EF%BD%9E/
  31. 小島時光 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B3%B6%E6%99%82%E5%85%89
  32. 高原諏訪城の駐車場や登城口、見どころ https://okaneosiroblog.com/gihu-takaharasuwa-castle/
  33. 【岐阜県飛騨市】国史跡指定!!戦国時代の城郭の変遷が色濃く残る飛騨の城跡群 - PR TIMES https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000028.000120394.html
  34. 江馬氏城館跡 下館跡 高原諏訪城跡 傘松城跡 土城跡 寺林城跡 政元城跡 洞城跡 石神城跡 - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/205443
  35. 傘松城跡が国史跡江馬氏城館跡に追加指定! - 飛騨市公式ウェブサイト https://www.city.hida.gifu.jp/soshiki/32/59866.html
  36. 君は戦国飛騨を知っているだろうか。鎌倉・室町の名家から戦国、織豊政権を経て、江戸時代の天領まで目まぐるしく入れ替わる土地が、今も懐かしさを留めて進化を続ける飛騨市(岐阜県)で体感できるぞ - エリアLOVE WALKER https://lovewalker.jp/elem/000/004/205/4205684/
  37. 【飛騨】飛騨の戦国めぐり ~金森長近の飛騨攻略~|モデルコース - 岐阜の旅ガイド https://www.kankou-gifu.jp/model/detail_45.html
  38. 神岡城(東町城・飛騨市神岡町東町) http://yogokun.my.coocan.jp/gihu/hidasikamioka.htm
  39. 城へのアクセス・ガイダンス施設 - 飛騨市公式ウェブサイト https://www.city.hida.gifu.jp/soshiki/32/66272.html
  40. 飛騨市 神岡城をリニューアルオープン、5月31日まで入場無料 - トラベルニュースat https://www.travelnews.co.jp/news/area/2023040311033834864.html
  41. 【お知らせ】 「神岡城茶会」を開催4月に神岡城の展示内容がリニューアルされ、江馬氏の歴史や山城跡について学べる展示が行われて...(2023.05.11) | 飛騨市の公共施設 - 飛騨市役所 | ひだラボ https://www.hidalabo.com/detail/686/news/news-35882.html
  42. 高原郷土館 - 飛騨市公式ウェブサイト https://www.city.hida.gifu.jp/site/kamiokalab/11765.html
  43. 高原郷土館(神岡城) | スポット - 飛騨市公式観光サイト「飛騨の旅」 https://www.hida-kankou.jp/spot/283