日向高城は、天然の要害。南北朝期に築かれ、伊東、島津と支配者変遷。耳川の戦いと九州征伐では、城主・山田有信が寡兵で大軍を退け、その忠義と武勇は秀吉をも感嘆させた。
宮崎県児湯郡木城町にその跡を残す高城は、戦国時代の九州史、とりわけ日向国の動乱を語る上で欠かすことのできない重要な山城です。この城は、小丸川と切原川に挟まれた標高約60mの丘陵の先端部に築かれており、三方を断崖に囲まれた天然の要害でした 1 。古代、この地には律令制下の交通制度である駅路の「児湯の駅」が置かれていたとされ、古来より交通の要衝であったことが窺えます 3 。戦国時代においても、日向国北部から宮崎平野を経て大隅国へ至る「薩摩往還」と呼ばれる官道を扼する位置にあり、その戦略的価値は極めて高いものでした 1 。高城を制することは、日向国中部の交通と物流を掌握し、さらには隣国である豊後国への進出、あるいは豊後国からの侵攻を防ぐための鍵を握ることを意味していました。
戦国時代の九州は、数多の勢力が興亡を繰り返す、まさに群雄割拠の様相を呈していました。日向国もその例外ではなく、古くからの在地領主である土持氏や、鎌倉時代以来の地頭職を背景に勢力を拡大した伊東氏などが覇を競っていました 4 。やがて16世紀後半になると、薩摩・大隅を統一し、九州制覇の野望を抱く島津氏と、豊後国を拠点に六ヶ国の守護を務めた九州最大の勢力・大友氏という二大勢力が、この日向国を舞台に激突します。高城は、奇しくもこれら在地勢力と二大大名の勢力圏が複雑に交錯する最前線に位置することとなりました。そのため、高城の支配権がどの勢力の手にあるかは、そのまま日向国、ひいては九州全体の勢力図の変化を映し出す鏡となり、その帰趨は九州の歴史を大きく左右するほどの重要性を帯びていたのです。
本報告書は、宮崎県木城町に存在する「高城(木城城とも呼ばれる)」について、戦国時代という時代を主軸に据え、その歴史的価値を多角的に解明することを目的とします。築城から廃城に至るまでの詳細な歴史的変遷、城主の交代劇が意味するもの、そして九州の勢力図を塗り替えた二度の大きな合戦の分析を通じて、高城が果たした役割を明らかにします。さらに、難攻不落と謳われた城郭の構造的特徴を縄張りや防御施設の観点から詳述し、発掘調査によって得られた考古学的知見と文献史料を照合することで、城の実像に迫ります。本報告は、単なる城の歴史の記述に留まらず、城をめぐる人々の動向、戦術、そして時代の大きなうねりを統合的に考察し、高城という歴史遺産の全体像を提示するものです。
高城が築かれる以前から、この地は軍事的に重要な拠点であった可能性が示唆されています。大宝元年(701年)には、既に土塁が存在し、砦としての役割を果たしていたとの記述が残されており、その歴史は古代にまで遡ることができます 5 。平安時代末期になると、宇佐八幡宮(大分県宇佐市)の社家を出自とし、物部氏の後裔とされる土持氏が日向国北部に勢力を確立しました 6 。土持氏は荘園領主として、また在地領主として実質的な支配を行い、11世紀には日向北部における最大の豪族へと成長していました 8 。高城が位置する新納院一帯も、古くは日下部氏、そして土持氏の支配領域であったと考えられています 6 。
高城が明確な城郭として歴史の表舞台に登場するのは、南北朝時代の動乱期です。建武2年(1335年)、室町幕府を開いた足利尊氏は、その功績への恩賞として、島津氏第4代当主・忠宗の四男である時久に新納院の地頭職を与えました 1 。時久はこの地に城郭を築き、これが高城の直接的な起源とされています 5 。そして、時久はこの地の名にちなんで「新納(にいろ)氏」を名乗りました 5 。高城は、島津氏の分家である新納氏発祥の地という、もう一つの歴史的側面を持っているのです。
しかし、築城間もない高城は、南北朝の激しい争乱に巻き込まれていきます。北朝方の観応元年(1350年)、新納時久が京に滞在している隙を突き、南朝方の足利直義に与した畠山直顕が高城を攻撃し、数ヶ月後に落城させました 5 。その後、延文2年(1357年)には、九州探題であった一色範親の命により、土持氏が新納院の地頭職を賜り、高城は土持氏の支配下に入ります 5 。この時期の目まぐるしい城主の交代は、当時の日向国における政治情勢がいかに不安定であったかを物語っています。高城は、築城当初から各勢力がその支配を狙う、戦略上の要衝として認識されていたのです。
14世紀末になると、島津氏が日向国の守護職に任じられますが、国内では在地領主たちの勢力争いが続いていました。特に、古くから日向北部に根を張る土持氏と、鎌倉時代に地頭として入国して以来、勢力を拡大してきた伊東氏との間では、激しい抗争が繰り広げられていました 4 。伊東氏は、現在の西都市にあった都於郡城を本拠地とし、最盛期には日向国中部から南部にかけて「伊東四十八城」と称される広大な支城網を構築するに至ります 14 。この両者の争いは、戦国時代の日向における主要な対立軸の一つでした。
この長きにわたる抗争の中で、高城の運命を大きく変える出来事が起こります。長禄元年(1457年)、土持景綱が伊東氏の当主・伊東祐堯との戦いに敗れ、高城は財部城をはじめとする10の城と共に伊東氏の所領となりました 2 。伊東氏は、家臣の野村蔵人を城主に任命し、高城を自らの支城網の重要な一角に組み込みました 2 。伊東氏にとって高城は、旧土持氏領や、その背後にいる島津氏、さらには北方の豊後大友氏に対する備えとして、極めて重要な前線基地となったのです。
伊東氏はその後、約120年間にわたり高城を支配し、日向国にその威勢を誇りました。しかし、その栄華も永遠には続きませんでした。元亀3年(1572年)、薩摩の島津義弘との間で行われた木崎原の戦いで伊東軍は壊滅的な敗北を喫します 5 。この敗戦を契機に、伊東氏の勢力は急速に衰退。そして天正5年(1577年)12月、当主・伊東義祐は宿敵・島津義久の猛攻の前に、ついに本拠地である都於郡城を放棄。一族郎党を引き連れ、姻戚関係にあった豊後の大友宗麟を頼って落ち延びていきました 5 。主を失った日向国内の伊東氏の城は、雪崩を打つように次々と島津方に帰し、高城もまた、その運命を島津氏の手に委ねることになったのです。
この一連の城主の変遷は、単なる城の奪い合い以上の意味を持っています。新納氏(島津系)から土持氏へ、そして土持氏から伊東氏へと城主が代わる過程は、南北朝から戦国中期にかけての日向国における在地勢力と新興勢力の覇権争いの縮図と言えます。高城の支配者が変わるたびに、日向中部の実質的な支配者が交代したことを意味しており、城の帰属は地域の勢力図を可視化する指標として機能していました。また、伊東氏の支配領域は「伊東四十八城」と称されますが、その本拠は南方の都於郡城であり、高城はその広大な支城網の中でも北東端に位置していました。これは、高城が伊東氏にとって北方に勢力を伸ばすための前線基地であったと同時に、それ以上の拡大が困難であった勢力圏の限界点、すなわち常に緊張状態に置かれた「境界の城」としての性格を強く持っていたことを示唆しています。
表1:高城 城主変遷と関連年表
西暦(和暦) |
時代区分 |
城主(所属勢力) |
主要な出来事 |
1335年(建武2年) |
南北朝時代 |
新納時久(島津氏一門) |
新納時久が新納院の地頭となり、高城を築城 1 |
1350年(観応元年) |
南北朝時代 |
畠山直顕(南朝方) |
新納時久の不在を突き、畠山直顕が高城を攻略・落城させる 5 |
1357年(延文2年) |
南北朝時代 |
土持氏 |
一色範親の命により、土持氏が新納院地頭職を得て高城を領有 5 |
1457年(長禄元年) |
室町時代 |
野村蔵人(伊東氏家臣) |
土持景綱が伊東祐堯に敗北。高城は伊東氏の所領となる 2 |
1577年(天正5年) |
安土桃山時代 |
(島津氏支配下へ) |
伊東義祐が島津氏に敗れ豊後へ逃亡。高城は島津氏の支配下に入る 2 |
1578年(天正6年) |
安土桃山時代 |
山田有信(島津氏家臣) |
山田有信が城主兼地頭に任命される。第一次高城合戦(耳川の戦い) 5 |
1587年(天正15年) |
安土桃山時代 |
山田有信(島津氏家臣) |
第二次高城合戦(豊臣秀吉の九州征伐)。根白坂の戦いの後、開城 5 |
1587年以降 |
安土桃山時代 |
秋月種実 |
九州国分けにより、高鍋城主・秋月種実の所領となる 5 |
1615年(元和元年) |
江戸時代 |
(廃城) |
江戸幕府の一国一城令により廃城となる 5 |
天正5年(1577年)に伊東氏を日向から駆逐した島津氏にとって、次なる脅威は北方に控える豊後の大友氏でした。伊東義祐の亡命を受け入れた大友氏が、伊東氏旧領の回復を名目に日向へ侵攻してくることは火を見るより明らかでした。この新たな対立構造の中で、高城の戦略的価値はかつてなく高まります。伊東氏にとっては北の境界であった高城は、島津氏にとっては大友氏の南下を食い止める最前線の防波堤であり、絶対に失うことのできない拠点となったのです 21 。
この国家の存亡を左右しかねない重要拠点・高城の守将として、島津義久が白羽の矢を立てたのが、歴戦の勇将・山田有信でした。天正6年(1578年)2月14日、有信は正式に高城の城主兼地頭に任命されます 2 。山田有信は、幼少期より島津貴久・義久の父子二代に側近として仕え、日向高原攻めなどで数々の戦功を挙げてきた、忠誠心篤い武将でした 6 。彼の着任は、島津氏が高城を単なる支城ではなく、対大友戦線における最重要拠点と位置づけていたことの何よりの証左と言えるでしょう。
その頃、豊後では大友宗麟が大規模な日向侵攻の準備を着々と進めていました。その目的は、姻戚関係にある伊東氏を救うという大義名分に加え、宗麟自身が熱心なキリシタンであったことから、日向国にキリスト教の理想郷を建設するという壮大な野望があったとされています 5 。かくして、島津氏の九州統一への野心と、大友宗麟の宗教的情熱が、高城という一点をめぐって激突することは避けられない運命となりました。日向の地に、戦国史に残る大合戦の暗雲が垂れ込めていたのです。
表2:第一次高城合戦(耳川の戦い)両軍勢力比較
項目 |
大友軍 |
島津軍 |
総大将 |
田原親賢(実質的な指揮官)、大友宗麟は後方(無鹿)に滞在 20 |
島津義久 22 |
主要武将 |
佐伯惟教、田北鎮周、角隈石宗、吉弘鎮信など 22 |
島津義弘、島津家久、島津歳久、山田有信、伊集院忠棟など 22 |
総兵力 |
3万~5万(諸説あり) 19 |
2万~4万(援軍含む、諸説あり) 22 |
兵装・特記戦力 |
国崩し(フランキ砲)、多数の鉄砲 25 |
巧みな鉄砲運用、卓越した野戦戦術 5 |
戦略目標 |
高城を攻略し、日向国内の伊東氏旧領を回復、キリスト教国の建設 5 |
高城を死守し、大友軍を日向から撃退、日向国の完全掌握 30 |
指揮系統の状況 |
総大将の宗麟が前線におらず、諸将間の意思統一を欠き、組織的な連携が困難 20 |
義久を頂点に、義弘・家久ら一族が中核をなす強固な指揮系統 28 |
天正6年(1578年)、大友宗麟は満を持して数万の大軍を日向へ侵攻させました 19 。大友軍は緒戦で島津方に寝返っていた日向北部の国人・土持親成を滅ぼし、耳川以北の17の城を制圧します 21 。宗麟は占領地である無鹿(現在の延岡市)に入ると、自身のキリスト教信仰に基づき、地域の寺社をことごとく破壊し、聖堂を建設するなど、キリシタンの理想郷づくりに着手しました 22 。この行為は、単なる領土紛争の枠を超え、地域の宗教的・文化的秩序を根底から覆すものであり、島津方だけでなく、多くの在地勢力の反発を招く要因ともなりました。
耳川以北を平定した大友軍は、同年10月11日、ついに高城近郊の国光原台地に着陣し、城を完全に包囲しました 5 。この時、高城を守る山田有信の兵は当初500名ほどでしたが、耳川方面から後退してきた島津家久の部隊などが合流し、最終的に1500名から3000名程度に増強されていました 5 。それでも、数万を擁する大友軍との兵力差は絶望的でした。
10月20日、大友軍による総攻撃の火蓋が切られます。彼らは麓の民家100軒余りに火を放って威嚇し、当時最新鋭の兵器であった大砲「国崩し(フランキ砲)」や大量の鉄砲を用いて、城に猛烈な砲火を浴びせました 5 。しかし、山田有信率いる籠城軍は、高城の堅固な地形と防御施設を最大限に活用し、巧みな鉄砲の一斉射撃でこれに応戦。大友軍は城門を幾度か突破するも、その都度、城兵の決死の反撃によって押し返され、多大な損害を出して後退を余儀なくされました 5 。籠城中、城内の井戸が枯渇し水の手を断たれるという絶体絶命の危機にも見舞われましたが、城内で新たな湧き水が発見されるという天佑にも恵まれ、士気を維持し続けました 22 。
山田有信が時間を稼いでいる間に、島津義久率いる2万から4万の本隊が佐土原城に到着し、決戦の準備を整えました 22 。11月11日の夜、島津義弘率いる部隊が密かに小丸川(当時の高城川)を渡河し、大友軍の佐伯惟教が布陣する松山陣の近くに複数の伏兵を配置します 22 。
そして翌12日、島津軍は伝家の宝刀である「釣り野伏せ」戦法を実行に移します。まず、伊集院忠棟らが率いる囮部隊が意図的に大友軍に攻撃を仕掛けて敗走を装いました 22 。これに勢いづいた大友軍の先鋒が追撃を開始し、伏兵が潜む地点まで深くおびき寄せられます。敵が完全に術中にはまった瞬間、潜んでいた島津義弘の伏兵が側方から猛然と襲いかかり、同時に敗走を装っていた囮部隊が反転して正面から攻撃。さらに、好機を逃さず高城から山田有信と島津家久の部隊が打って出て背後を突くという、完璧な三面攻撃が成立しました 22 。総大将の宗麟が前線におらず、諸将の意見対立から指揮系統に乱れが生じていた大友軍 20 は、この立体的な奇襲攻撃に対応できず、瞬く間に総崩れとなりました。
敗走を始めた大友軍に、さらなる悲劇が襲います。折からの大雨で増水していた高城川や、さらに北方の耳川を渡ろうとして、多くの兵士が溺死したのです 20 。島津軍の執拗な追撃も相まって、大友軍は文字通り壊滅的な打撃を受けました。この「耳川の戦い」での大敗北は、長らく九州に覇を唱えてきた大友氏の没落を決定づけるものとなりました。これ以降、大友氏は家臣団の離反なども相次ぎ、急速にその勢力を失っていきます。代わって、この戦いに勝利した島津氏が日向国を完全に掌握し、肥前の龍造寺氏と共に九州の覇権を争う「三国鼎立」の時代が到来しました 30 。高城をめぐる一連の攻防が、九州の歴史を大きく塗り替える一大転換点となったのです。
耳川の戦いから9年後の天正15年(1587年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉が、島津氏の討伐(九州征伐)に乗り出します。耳川の戦いで衰退した大友宗麟からの救援要請を受けた秀吉は、弟の豊臣秀長を総大将とする8万から15万ともいわれる空前の大軍を日向へ派遣しました 2 。4月6日、耳川を渡った秀長軍は、再び歴史の舞台となった高城を完全に包囲。城の周囲に51もの砦を築き、高所に見張りのための望楼を建て、そこから昼夜を問わず鉄砲や火矢を撃ち込むという、圧倒的な物量に物を言わせた兵糧攻めを開始しました 5 。
この時、高城を守る山田有信の兵力は、わずか1300から1500名ほどであったと伝えられています 1 。第一次合戦と同様、絶望的な兵力差でした。島津義久は高城を救援すべく本隊を率いて南下し、4月17日の夜、高城南方の根白坂に布陣する豊臣軍に夜襲をかけ、決戦を挑みました(根白坂の戦い)。しかし、兵力で十数倍も上回る豊臣軍の守りは固く、島津軍は猛反撃を受けて完敗。多くの将兵を失い、撤退を余儀なくされました 5 。
援軍という最後の望みを絶たれた高城は、完全に孤立無援となりました。その後、島津義久は秀長を通じて秀吉に降伏。これにより、島津氏の組織的な抵抗は終焉を迎えました。しかし、主君が降伏したという報せを受けてもなお、城主・山田有信は降伏を断固として拒否し、城を枕に討死する覚悟で徹底抗戦の構えを崩しませんでした 6 。その姿は、敵である豊臣方の武将たちをも感嘆させたと伝えられています。最終的には、降伏した主君・義久自らが送った使者の懸命な説得を受け入れ、有信は息子の有栄(後の有栄)を人質として差し出し、自らは剃髪して、4月29日に静かに城を明け渡しました 5 。
二度にわたる大軍の包囲を寡兵で耐え抜き、主家が降伏した後も最後まで節義を貫いた山田有信の武勇と忠義は、天下人・豊臣秀吉の耳にも達しました。秀吉はその器量を高く評価し、有信を島津氏から引き抜いて直臣とし、肥後国天草に4万石を与えるという破格の条件で大名に取り立てようとしました。しかし、有信は「二君に仕えず」との信念から、この申し出をきっぱりと固辞したと伝えられています 6 。この逸話は、彼の武士としての矜持を象徴するものであり、後世まで語り継がれることとなりました。
この二つの大戦役は、高城が単なる一地方の城ではなく、時代の転換点を象徴する舞台であったことを示しています。第一次高城合戦は、兵力で劣る島津軍が、地形の利用、巧みな籠城戦術、そして「釣り野伏せ」という卓越した野戦戦術によって大友軍を打ち破った、戦国的な「戦術の勝利」でした。それに対し、わずか9年後の第二次高城合戦では、豊臣軍は島津軍の戦術を意に介さず、圧倒的な兵力と物量で包囲網を築き、兵站を断ち、力で押し潰しました。これは、中央集権化された権力による近世的な「兵站と物量の勝利」と言えます。高城は、この二つの異なる戦争の形態が激突した、歴史の分水嶺に位置していたのです。
また、山田有信が秀吉からの破格の誘いを断ったことは、単なる美談に留まりません。これは、島津氏の家臣団がいかに当主に対して強い帰属意識と忠誠心を持っていたか、その組織の強固さを示しています。一方で、敵将であった有信を高く評価し、大名として登用しようとした秀吉の姿勢は、出自を問わず有能な人材を抜擢して自らの権力基盤を強化しようとする、豊臣政権の合理的かつ先進的な人材戦略の表れでもあります。有信の個人的な選択は、結果として、島津氏という旧来の封建的組織と、豊臣氏という新しい中央集権的組織の、それぞれの組織原理と思想を浮き彫りにしたと言えるでしょう。
高城が二度にわたる大軍の猛攻に耐え抜いた背景には、山田有信の卓越した指揮能力と共に、城そのものが持つ優れた防御構造がありました。城は標高約60mの丘陵の先端に位置し、東・南・北の三方が小丸川と切原川によって形成された断崖絶壁に囲まれていました 1 。これは、九州南部に広く分布するシラス台地特有の侵食地形を巧みに利用したもので、敵の接近を物理的に極めて困難にする天然の要害でした 15 。城の縄張り(設計)は、この自然地形を最大限に活かすことを基本思想としていました。
攻撃経路が唯一、西側の尾根続きに限定されるため、城の防御機能はこの一点に集中して構築されていました。尾根には、5本から7本にも及ぶ大規模な空堀が、幾重にも深く掘り込まれていました 1 。地元で「七つの空堀」と語り継がれているのは、その多重防御の堅固さを象徴するものです 5 。これらの空堀は、単に地面を掘っただけの単純な溝ではありません。敵兵が堀底に下りれば、両側から矢や鉄砲の攻撃を受け、堀を越えようとすれば、次の堀が待ち構えているという、敵の侵攻速度を著しく低下させ、兵力を消耗させるための極めて計算された防御施設でした。これは、敵の大軍が持つ数の優位性を無力化し、援軍が到着するまでの時間を稼ぐ「遅滞戦闘」を前提とした、非常に合理的かつ効果的な設計思想の現れです。山田有信が寡兵で大軍を防ぎきれたのは、この城の構造そのものがそれを可能にしたと言っても過言ではありません。
城の中心部は、丘陵の東端に本丸(主郭)、その西側に二の丸が配置された、典型的な連郭式の構造であったと推定されています 1 。本丸と二の丸の間も、第一空堀と呼ばれる巨大な堀切によって厳重に分断されていました 34 。また、文献には、平時には麓に設けられた「平城」で政務を行い、有事の際には山頂の城に立て籠もるという、中世山城に典型的な運用形態がとられていたことが示唆されています 1 。この麓の居館部分については、今後の発掘調査による実態解明が待たれますが、戦時と平時で機能を分離した効率的な支配体制が敷かれていたと考えられます 35 。
中世城郭研究の第一人者である八巻孝夫氏が作成した縄張図を見ると、高城の巧みな防御設計がより明確に理解できます 38 。図からは、西側の尾根に連続して設けられた複数の空堀(堀切)が、いかにして敵の直線的な侵攻を阻むかが見て取れます。それぞれの曲輪は独立性が高く、一つが突破されても次の曲輪で抵抗できるようになっています。虎口(出入り口)も、敵が容易に進入できないよう、内側に折り曲げられたり(内枡形)、土塁で囲まれたりするなどの工夫が凝らされていたと推測されます。このような専門家による実測に基づいた縄張図は、失われた建物を補い、城の機能性を視覚的に復元するための極めて重要な学術資料です 41 。
平成4年(1992年)以降、木城町教育委員会によって高城跡の発掘調査が複数回実施されており、文献史料だけでは知り得ない城の実像が徐々に明らかになっています 34 。調査では、日常的に使われたと考えられる土師質土器のほか、中国産とみられる青磁や白磁の椀、皿といった高級な陶磁器も多数出土しています 34 。これらの出土遺物の年代は、その大部分が16世紀、特に後半に集中していることが判明しています 34 。これは、山田有信が城主となり、二度の大規模な籠城戦が繰り広げられた時期と完全に一致しており、高城がこの時代に最も活発な軍事拠点として機能していたことを考古学的にも裏付けています。
青磁や白磁といった輸入品は、当時、非常に高価な高級品でした。これらが純粋な軍事施設である山城から出土するという事実は、興味深い考察を促します。これは、城主である山田有信や彼に付き従う上級武士たちが、緊迫した戦時下においても、一定水準の文化的で格式ある生活を営んでいた可能性を示唆しています。このことから、高城は単に兵士が詰めるだけの最前線の砦というだけでなく、地頭が政務を執り、地域の支配者として振る舞うための威信財を備えた、地域の政治・経済の中心地としての機能も併せ持っていたことが窺えます。
発掘調査では、遺物だけでなく、城の構造を示す遺構も確認されています。特に、本丸と二の丸を隔てる第一空堀や、西側の尾根に連なる5本の空堀跡(第2から第6空堀)は、その存在と規模が明確になりました 34 。また、曲輪内からは建物の存在を示す柱の穴の跡なども検出されており 37 、かつて城内にどのような施設が建てられていたのかを具体的に推測する手がかりとなっています。
これらの発掘調査の成果は、高城が16世紀後半に大規模な軍事拠点として激しい攻防の舞台となったという文献史料の記述を、物的証拠によって強力に補強するものです。土の中から現れた陶磁器の破片や遺構は、450年以上の時を超えて、この城で繰り広げられた歴史の真実を雄弁に物語っています。今後のさらなる調査、特に未だ謎に包まれている麓の「平城」の実態が解明されることにより、高城の全体像はより一層鮮明になることが期待されます。
天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州平定は、日向国の勢力図を再び大きく塗り替えました。島津氏が降伏した後、秀吉が行った「国割り」によって、高城は日向北部の高鍋城主となった秋月種実の所領に組み入れられました 5 。秋月氏はもともと筑前の大名でしたが、島津氏に与したため減封され、この地に移封されたのです。戦国の英雄たちが鎬を削った高城は、近世大名・秋月氏の支配下で、新たな時代を迎えることになりました。
しかし、高城が城としての役割を担った期間は、もはや長くはありませんでした。慶長20年(1615年)、江戸幕府第二代将軍・徳川秀忠は、全国の大名に対し「元和の一国一城令」を発布します。これは、大名が居城以外のすべての城(支城)を破却することを命じたもので、地方勢力の軍事力を削ぎ、幕府による中央集権体制を確立するための重要な政策でした。この法令に基づき、秋月氏の居城である高鍋城の支城と位置づけられていた高城も、その歴史的役割を終え、正式に廃城となりました 5 。築城から約280年、数多の攻防戦の舞台となった名城は、戦国の世の終わりと共に、静かにその姿を消したのです。
廃城後、高城の建造物は取り壊され、城跡は長い年月を経て山林へと還っていきました。しかし、二度の籠城戦の記憶や、名将・山田有信の物語は地域の人々によって語り継がれ、その歴史的重要性は忘れ去られることはありませんでした。現代において、高城跡は「城山公園」として美しく整備され、多くの人々が訪れる憩いの場となっています 2 。本丸跡には町のシンボルとして模擬櫓が建てられ、展望台からはかつて眼下に敵味方数万の軍勢がひしめいたであろう小丸川流域の雄大な景色を望むことができます 45 。
現在、高城跡は木城町の指定文化財(史跡)として大切に保護されており 5 、公園内には合戦で亡くなった兵士たちを弔う供養塔や忠魂碑なども建立されています 38 。これらの施設は、高城が単なる観光地ではなく、地域の歴史を学び、過去の出来事に思いを馳せるための貴重な教育遺産であることを示しています。
宮崎県木城町の高城は、その築城から廃城に至るまでの歴史を通じて、戦国時代の日向国の動乱を凝縮した存在であったと言えます。島津氏一門による創建に始まり、在地領主の土持氏、日向中部を席巻した伊東氏、そして九州統一を目指した島津氏へと、その支配権は目まぐるしく移り変わりました。この城主の変遷は、そのまま日向国における在地勢力と中央から進出してきた大大名の興亡の歴史と重なり、高城はまさに地域の歴史の縮図でした。
高城の歴史を語る上で、城主・山田有信の存在は決して切り離すことができません。大友氏数万の軍勢、そして豊臣氏数十万の大軍という、二度にわたる絶望的な状況下で城を死守し、主家への忠誠を命がけで貫いた彼の生き様は、戦国武将が持つべき理想の姿の一つとして、後世に強い感銘を与えました。主君が降伏した後も抵抗を続け、敵将である秀吉から破格の誘いを受けても「二君に仕えず」と固辞した逸話は、彼の揺るぎない忠義心と武士としての矜持を物語っています。高城が「難攻不落」の名を馳せたのは、その優れた構造だけでなく、山田有信という不世出の将の存在があったからに他なりません。
今日、城山公園として人々に親しまれている高城跡は、静かな佇まいの中に、かつての激しい歴史の記憶を留めています。深く刻まれた空堀の跡、曲輪の削平地、そしてそこから出土した陶磁器の欠片は、戦略、戦術、忠誠、そして時代の大きな転換点といった、戦国時代のダイナミズムを凝縮した歴史の証人です。高城は、文献史料を読むだけでは感じることのできない、歴史の確かな息吹と、困難に立ち向かった人々の力強い生き様を、現代に生きる我々に静かに語りかけているのです。この貴重な歴史遺産を保護し、後世に伝えていくことは、我々に課せられた重要な責務と言えるでしょう。