最終更新日 2025-08-22

高岡城

高岡城は前田利長の深謀により築かれ、わずか6年で廃城となるも、その縄張りは近世城郭の最高水準。一国一城令で危機を迎えるも、利常の慧眼と市民の情熱で商都として再生。今もその遺構は高岡の誇りである。
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深謀の城塞 高岡城—前田利長の野心と加賀百万石の礎

序論:はかなくも永続する城—高岡城の歴史的特異性

慶長14年(1609年)に築城され、わずか6年後の元和元年(1615年)に廃城となった高岡城。その短い歴史とは裏腹に、城郭遺構、特に広大な水堀の保存率は日本一とされ 1 、富山県内で唯一「日本100名城」に選定されている 1 。一見すると「未完の城」であり、歴史の波間に消えたかに見えるこの城塞が、なぜ近世城郭史において最高水準の縄張り(設計)を持つと評価されるのか 4 。本報告書は、この歴史的特異性の謎を多角的に解き明かすことを目的とする。

高岡城は、加賀藩二代藩主・前田利長の単なる隠居城だったのか。それとも、豊臣から徳川へと天下が移る激動の時代において、外様大名の筆頭たる加賀藩の存亡を賭けた深謀遠慮の戦略拠点だったのか。本報告書では、築城の政治的背景、類稀なる防御構造、廃城後の都市再生という一連の歴史を、政治、軍事、都市計画の各観点から総合的に再検証し、高岡城が持つ真の価値と、それが現代に投げかける歴史的意義を明らかにする。

第一章:築城の背景—天下泰平前夜の緊張と前田利長の深謀

1. 加賀百万石の苦悩:外様大名筆頭としての前田家の立場

高岡城の築城背景を理解するためには、まず当時の加賀藩前田家が置かれていた極めて繊細な政治的立場を把握する必要がある。関ヶ原の戦いを経て徳川の天下が確立しつつあったものの、豊臣家は依然として大坂城に健在であり、世情は未だ不安定であった。前田家は豊臣政権下では五大老の一角を占める大大名であったが、徳川の世では100万石を超える石高を持つ外様大名の筆頭であり、幕府から常に警戒と圧力を受ける立場にあった 5

父・前田利家の死後、家督を継いだ利長は、徳川家康から謀反の嫌疑をかけられるという絶体絶命の危機に直面する。この「加賀討伐」の策略に対し、利長は母・芳春院(まつ)を人質として江戸に送るという苦渋の決断を下すことで、辛うじて危機を回避した 5 。この出来事は、前田家にとって徳川幕府との関係がいかに危険を伴うものであるかを痛感させると同時に、藩の存続のためには細心の注意と深慮遠謀が不可欠であることを示す教訓となった。

このような背景から、利長の隠居城計画は、単なる個人的な隠居所の建設に留まるものではなかった。それは、幕府の監視の目をかいくぐりつつ、万一の有事、特に豊臣家との最終決戦が予測される状況に備えるための、高度な政治的・軍事的判断に基づくものであった。隠居という穏健な名目の裏で、金沢城とは別に、実質的な軍事拠点を持つことは、加賀藩の安全保障上、極めて重要な戦略であったと考えられる。高岡城が「富山城を凌ぐ堅固な」城塞として計画されたのは 1 、まさにこの政治的緊張関係の必然的な帰結であった。

2. 隠居城に求められたもの:富山城焼失と新たな拠点構築の必要性

慶長10年(1605年)、利長は家督を異母弟の利常へ譲り、越中国統治の拠点であった富山城へ隠居した 6 。しかし慶長14年(1609年)3月、富山城は城下からの火災により、建造物のほとんどが焼失するという災禍に見舞われる 6 。これが高岡城築城の直接的な引き金となった。

利長は、この危機に際して驚くべき迅速さで行動する。火災後、直ちに富山城から西へ約20km離れた「関野」と呼ばれた台地を新たな築城地として選定。同年4月には工事を開始し、9月13日には未完ながらも入城を果たすという、驚異的な速度で築城を進めた 2 。この突貫工事の背景には、利長が自身の新たな拠点を早急に確保する必要性を強く認識していたことが窺える。実際に、築城や城下町造成に関する利長の書状が約30通も現存しており、その中で家臣に対して工事を厳しく督促する様子が記録されていることから、利長自らが陣頭指揮を執り、並々ならぬ決意でこの大事業に臨んでいたことがわかる 1

3. 徳川秀忠の書状を読む:幕府との政治的駆け引きと築城許可の真相

外様大名が新たに城を築くことは、徳川幕府にとって極めて敏感な問題であり、当然ながらその許可が必要であった。近年、高岡市立博物館が発見した徳川二代将軍・秀忠から利長に宛てた書状は、この許可を巡る幕府と前田家の間の巧妙な政治的駆け引きを浮き彫りにする貴重な史料である 1

この書状の釈文によれば、秀忠は「其許居城普請之儀可然之由、芳春院へ申候故、従此方不申越付而、普請不被相企之由候、早々被申付尤候(あなたの居城の普請について、よろしい旨を芳春院(利長の母)へ申し伝えたので、こちらから直接あなたに伝えなかったところ、普請を計画されていないとのこと。早々に申し付けられるのがもっともである)」と述べている 8

この一文は、単なる伝達の遅延を詫びるものではない。秀忠が築城許可という重要事項を、当主である利長本人にではなく、江戸に人質として滞在する母・芳春院に先に伝えたという事実は、幕府による巧妙な牽制と解釈できる。これは、加賀藩の重要事項決定プロセスに幕府が介入し、藩主である利長を直接の対話相手とせず、人質である母を介することで、徳川の優位性と主従関係を明確に誇示する意図があった可能性が高い。利長が正式な許可を待つ間、築城に着手できずにいたという状況は、幕府が許可権の行使だけでなく、その伝達方法によっても巨大な外様大名である加賀藩をコントロールしようとする、高度な政治的統制術の一端を示している。

4. 「隠居政治」の本拠地:利長が目指した権力構造

利長は家督を譲った後も、藩政の実権を握り続け、金沢にいる若年の利常を後見しながら絶大な権力を行使する「隠居政治」を展開していた 1 。高岡城は、まさにこの隠居政治を執行するための物理的な拠点として計画された。

利長は晩年、腫物などの病に苦しんでいたことが他の書状からも知られているが 9 、その政治的影響力は全く衰えていなかった。高岡城から加賀藩全体に指示を出し、藩の舵取りを行っていたのである。その死の直前に記された遺言状からは、後継者である利常の将来や、家中の対立を憂い、藩の安泰に最後まで心を砕いていた様子が痛切に伝わってくる 11 。高岡城は、単なる静養の場ではなく、利長の強固な意志と権力が及ぶ、加賀百万石のもう一つの中枢となるべく築かれた城であった。

第二章:縄張りの思想—最高水準と評される防御設計の解剖

高岡城が歴史的に高く評価される最大の理由は、その卓越した縄張り、すなわち城郭全体の設計思想にある。わずか6年で廃城となったにもかかわらず、その遺構は近世城郭の到達点を示すものとして、今なお多くの研究者の注目を集めている。

1. 設計者は誰か:高山右近説と利長主導説の学術的再検討

高岡城の縄張り担当者については、長らく築城の名手として知られたキリシタン大名・高山右近であるという説が通説とされてきた 6 。右近は当時、前田家に客将として招かれており、利長とも深い交流があったことから、この説は広く受け入れられ、現在、高岡古城公園内には右近の銅像も建立されている 14

しかし、近年の研究ではこの通説に疑問が呈されている。高山右近が縄張りを担当したことを直接示す同時代の史料は存在せず、後年の伝聞史料にその名が見られるに過ぎない 16 。むしろ、前述の通り、利長自身が築城や城下町造成に関して約30通もの書状で詳細な指示を出している史料が確認されており、利長が主体的に設計を行った可能性が有力視されるようになってきた 1

当時の右近は、藩の軍奉行などの役職にはあったものの、信仰活動に没頭していた時期にあたり、大規模な築城事業に全面的に関与したとは考えにくいという指摘もある 16 。利長が主体となり、築城の名手である右近に助言を求めた可能性は否定できないが、高岡城の独創的な縄張りのグランドデザインを描いたのは、他ならぬ前田利長その人であったと見るのが、現在の学術的な潮流となっている。

2. 鉄壁の防御システム「重ね馬出」:構造、戦術的有効性、そしてその独創性

高岡城の縄張りが最高水準と評される所以は、その最大の特徴である「重ね馬出(連続馬出)」という極めて独創的な構造にある 4 。これは、本丸を中心に、二の丸、三の丸、鍛冶丸、明丸など7つの郭(くるわ)が、それぞれ独立した馬出として機能し、それらが土橋で数珠繋ぎのように連結された構造である 18

馬出とは、城門の前面に設けられた小規模な郭で、敵の直線的な突撃を防ぎ、城の出入口である虎口(こぐち)を防御するための施設である 7 。しかし、高岡城のそれは単なる防御施設に留まらない。大手口や搦手口から侵入した敵は、一つの郭を突破しても、すぐに次の郭からの側面攻撃に晒される。この構造は、敵部隊を分断・孤立させ、常に城兵の射線に捉えることを意図している 7 。特に、当時の鉄砲の有効射程距離が約60mであったことを考慮すると、敵を常に効果的な射程内に誘い込み、かつ城兵の死角をなくすよう、極めて論理的に計算された設計であったことがわかる 7

この「重ね馬出」は、敵を待ち受けて撃退するだけの消極的な防御思想の産物ではない。各馬出は、敵の攻撃を吸収する防御拠点であると同時に、味方部隊が出撃して反撃に転じるための拠点としても機能する「攻撃的な出入口」でもある 7 。敵が郭と郭の間の狭い土橋で進軍を停滞させている間に、別の郭から出撃した部隊が側面を突く。このような能動的な戦術を可能にするこの構造は、戦国時代の野戦における陣形の思想を城郭設計に応用したものであり、極めて高度な戦術理解がなければ実現できない。高岡城は単に「守りが堅い」のではなく、「反撃しやすい」城、すなわち「攻撃的防御」思想を具現化した城塞なのである。

3. 水堀という巨大な防壁:縄張り全体に占める役割と土木技術

高岡城のもう一つの大きな特徴は、その広大な水堀である。城の総面積約21万平方メートルのうち、約3分の1にあたる約7万平方メートルが水堀で占められており、その幅は広いところで約50メートルにも達する 2 。この水堀は、廃城後も埋め立てられることなく、ほぼ築城当時の姿のまま現存しており、その保存率は日本一と評されている 1

この巨大な水堀を造るため、大規模な土木工事が行われた。発掘調査によれば、まず広範囲にわたって深く掘削し、その土に小石を混ぜて突き固めることで、強度と水はけのバランスが取れた強固な地盤を造成した 1 。さらに、その盛土の下から縄文時代の地層が確認されたことから、一度表土を丁寧に取り除いてから地盤造成を行うという、極めて入念な工事が行われたことが判明している 1 。この徹底した基礎工事が、400年以上もの間、城郭の基本構造を維持する要因となった。

4. 天守なき本丸:意図された不在か、未完の象徴か

近世城郭の象徴ともいえる天守閣であるが、高岡城にはそれが建てられた形跡がない。本丸の北隅には天守台らしき高まりが存在するものの 1 、築城から3年後に描かれた「高岡御城景台之絵図」には、この場所に「御材木御蔵」と記されており、当時は資材置き場として利用されていたことがわかる 1

一方で、発掘調査では本丸跡から16個の礎石が検出されており、幅50メートルを超える大規模な御殿(城主の居館)が存在したことが確認されている 1 。このことから、築城期間の短さゆえに天守の建設が間に合わなかったという「未完説」と、前述の政治的状況を鑑み、徳川幕府を過度に刺激することを避けるため、意図的に天守を建てなかったという「意図的非建築説」の両方が考えられる。利長は、権威の象徴である天守よりも、政治と生活の場である御殿と、城全体の防御機能という実用性を優先した可能性が高い。

5. 石垣と土塁が語るもの:発掘調査から見る築城の実態

高岡城は基本的には土を盛り上げて造った土塁を主とする城であるが、本丸と二の丸を結ぶ土橋の側面など、防御上の要所には堅固な石垣が用いられている 12 。この石垣は、自然石に近い石を巧みに組み合わせる「打込接(うちこみはぎ)」の「乱積」という技法で積まれている 21

石材には、石を割る際に打ち込んだ楔の跡である「矢穴」や、石工集団や担当者を示すと考えられる128種類もの「刻印」が見られる 7 。これらの刻印の中には、金沢城や、前田家も普請に参加した名古屋城の石垣に見られるものと共通する刻印も多く、前田家お抱えの石工集団が広範囲で活動していたことを示している 7 。石材の産地についても調査が進んでおり、高岡から氷見にかけての海岸で採れる砂岩や、県東部の花崗岩などが、水運を利用して運ばれたと考えられている 21 。これらの痕跡は、築城工事の具体的な様相を今に伝える貴重な証拠である。

第三章:「高岡」の誕生—『詩経』に込めた瑞祥と城下町の創生

高岡城の築城は、単なる軍事拠点の建設に留まらず、新たな都市を創生する壮大なプロジェクトであった。その思想は、新しい町の命名に色濃く反映されている。

1. 「鳳凰鳴けり彼の高き岡に」:地名に託された利長の教養と平和への願い

利長は築城にあたり、この地の旧名であった「関野」を「高岡」へと改めた 6 。この「高岡」という名は、中国最古の詩集である『詩経』大雅・巻阿に収められた「鳳凰鳴矣于彼高岡(鳳凰鳴けり 彼の高き岡に)」という一節に由来する瑞祥地名である 25

鳳凰とは、徳の高い君主が世を治める平和な時代にのみ姿を現すとされる伝説の瑞鳥である 27 。利長がこの一節を引用したことは、単に縁起の良い地名を選んだという以上の深い意味を持つ。それは、武力で覇を競う戦国の価値観から、徳と文化によって民を治める新たな泰平の世への移行を、自らの手でこの地に実現するという強い意志表明であった。この命名は、利長自身の高い漢詩の素養を示すと同時に 11 、新しい町に恒久的な平和と繁栄をもたらすという為政者としての崇高な理念を刻み込む行為だった。地名の改変は、戦乱の時代の終わりと新時代の幕開けを告げる、高度な政治的・文化的パフォーマンスだったのである。

2. 城と町のグランドデザイン:防御と経済を両立させた初期都市計画

利長は、城だけでなく城下町の建設にも心血を注いだ。城の南西に広がる台地上に家臣団の武家屋敷を、そして防御線となる台地下の西から北にかけての平地に町人地を配置するなど、地形を巧みに利用した計画的な町割りを実施した 7

開町にあたっては、加賀・越中・能登の領内三州はもとより、近江や信濃といった他国からも積極的に人々を呼び寄せ、武士とその家来562人、商工人630人余りを移住させた 7 。特に、鋳物師7人を金屋町に招き、手厚く保護したことは、今日の高岡銅器の礎を築く先見の明に満ちた政策であった 32 。このように、高岡は築城当初から軍事拠点であると同時に、地域の経済を牽引する商工業都市としての役割が期待されていたのである。

第四章:廃城と再生—一国一城令の衝撃と前田利常の慧眼

輝かしい理想と共に始まった高岡の歴史は、しかし、予期せぬ形で大きな転機を迎える。城主・利長の死と、徳川幕府による新たな法令が、この町を存亡の危機へと突き落とした。

1. 突然の終焉:一国一城令と高岡城の運命

慶長19年(1614年)5月、高岡城への入城からわずか5年で、前田利長はこの世を去る 6 。そして翌元和元年(1615年)、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡した直後、徳川幕府は全国の大名に対し、居城以外の城をすべて破却することを命じる「一国一城令」を発布した。これにより、加賀藩の支城であった高岡城は、築城からわずか6年という短さで廃城の運命を辿ることとなった 5

城の廃止は、町の存立基盤を根底から揺るがした。城に仕えていた武士たちはことごとく本拠地である金沢へ引き揚げ、彼らを相手に商いをしていた町人たちもまた、高岡を離れ始めた。開町から数年にして、町は急激に活気を失い、衰退の危機に瀕したのである 7

2. 存亡の危機からの転換:利常による商工業都市への大胆な再設計

この危機に際し、利長の後を継いだ加賀藩三代藩主・前田利常は、兄の遺志を継いで高岡の再生に乗り出した 7 。利常は、高岡がもはや城下町として存続できない現実を直視し、商工業の力で自立する都市へと転換させるという大胆な政策を断行した 7

その政策は多岐にわたった。まず、人口流出を食い止めるため、高岡町人の他所への転出を厳しく禁じた 7 。その上で、塩や魚の問屋を設置させ、高岡を麻布の集散地とするなど、様々な殖産興業政策を実施し、町の経済基盤を強化した 29 。これは、軍事都市から経済都市へという、都市のアイデンティティそのものを再設計する試みであった。

3. 「加賀藩の台所」へ:城跡の戦略的活用と高岡商人の勃興

利常の政策の中でも特に慧眼であったのが、廃城となった高岡城跡の活用法であった。彼は一国一城令に従い、城の御殿などの建造物は破却する一方で、城の防御力の根幹をなす広大な水堀や郭、土塁は埋め立てずにそのまま保存した 7 。そして、その城跡の中心部に、藩の年貢米を納める米蔵と、塩を保管する塩蔵を設置したのである 7

この一連の措置は、複数の目的を同時に達成する極めて巧妙な一手であった。第一に、城の建造物を破却し、跡地を平和的・経済的な目的で利用することで、幕府の一国一城令に従うという恭順の意を示した。第二に、城の基本構造である堀や郭を維持することで、万一の有事の際には即座に再武装可能な軍事的潜在能力を保持した。そして第三に、藩の重要な物資である米と塩の蔵を置くことで、高岡を物流の拠点とし、商都としての発展を強力に後押ししたのである。

この戦略は功を奏し、高岡は背後に広がる豊かな穀倉地帯と、日本海航路の拠点である伏木港を結ぶ重要な結節点として発展を遂げた。特に17世紀中頃に西廻り航路が開拓されると、北前船交易の拠点ともなり、米や綿、肥料などの取引で大いに栄えた。やがて高岡は「加賀藩の台所」と称されるほどの隆盛を極め、北陸有数の経済都市へと成長していった 34

第五章:近現代における継承—払い下げの危機を越えて国民的史跡へ

江戸時代を通じて戦略的に保存された高岡城跡であったが、明治維新という新たな時代の変革期に、再びその存続を揺るがす危機に直面することになる。

1. 明治の危機と市民の情熱:服部嘉十郎の保存運動

明治維新後の廃藩置県を経て、城はもはや無用の長物と見なされるようになった。明治3年(1870年)、旧加賀藩(金沢藩)は高岡城跡を民間に払い下げ、農地として開墾する方針を布告した 1 。入札によって樹木の伐採業者も決まり、400年の歴史を持つ城郭は完全に姿を消す寸前であった。

この危機に立ち上がったのが、高岡の市民たちであった。当時の第十七大区長(市長に相当)であった服部嘉十郎ら有志が中心となり、「町民の誇りである城跡を失ってはならない」と、城跡を公園として保存するよう県に嘆願書を提出するなど、粘り強い保存運動を展開した 7 。彼らの情熱と尽力が実を結び、明治8年(1875年)7月4日、高岡城跡は「高岡公園」として正式に指定され、破壊の危機を免れたのである 7 。この運動の立役者である服部嘉十郎は、35歳という若さでその生涯を閉じたが、その功績は公園内に建立された頌徳碑によって今なお称えられている 39

2. 高岡古城公園としての歩み:市民の憩いの場から文化遺産へ

公園として新たな道を歩み始めた城跡は、その後も時代に応じて整備が進められた。明治41年(1908年)には皇太子(後の大正天皇)の行啓に合わせた大改修が行われ、明治44年(1911年)には近代庭園の先駆者として名高い長岡安平による設計改良がなされるなど、景観が整えられていった 1

現在、高岡古城公園は、約1800本の桜が咲き誇る「日本さくら名所100選」にも選ばれた桜の名所として知られている 41 。園内には高岡市立博物館、市民会館、動物園、そして越中一宮である射水神社などが点在し、歴史を学び、自然に親しむ市民の憩いの場として広く愛され続けている 42

3. 現代に生きる城郭遺構:国史跡としての価値と今後の展望

市民の力によって守り抜かれた高岡城跡は、20世紀後半からその学術的価値が再評価されるようになる。その卓越した縄張りと、奇跡的ともいえる保存状態の良さが認められ、昭和40年(1965年)に富山県史跡に指定されたのを皮切りに、平成18年(2006年)には財団法人日本城郭協会によって「日本100名城」(33番)に選定、そして平成27年(2015年)には、ついに国の史跡に指定された 20

近世初頭の政治・軍事状況や、鉄砲の時代に対応した最先端の築城技術を具体的に知る上で、高岡城跡は他に類を見ない極めて貴重な歴史遺産である 45 。今後は、史跡としての価値を損なうことなく、その魅力を次世代に伝えていくための適切な保存活用が求められている。

結論:城郭から都市へ—高岡城が残した永続的遺産

高岡城の歴史は、前田利長の深謀に始まり、弟・利常の慧眼によって再生し、そして近代市民の情熱によって守り抜かれた、幾多の危機を乗り越えた物語である。

その物理的な遺産として、高岡城は戦国末期の築城技術の到達点を示す「重ね馬出」という類稀な縄張りを、ほぼ完全な形で現代に伝えている。それは、天下泰平前夜の緊迫した情勢の中で、一個の城がいかにして鉄壁の要塞となり得たかを示す、生きた証拠である。

そして、その精神的な遺産として、高岡城は廃城という最大の危機を乗り越え、商工業都市として自立した高岡市民の誇りの源泉であり続けている。城主を失い、軍事拠点としての役割を終えた後も、城跡は町の中心にあり続け、経済の核となり、市民の心の拠り所となった。

わずか6年でその歴史的役割を終えた城は、しかし、400年以上にわたって都市・高岡のアイデンティティを形成し続ける、最も永続的な礎となったのである。高岡城は、失われたからこそ、より大きな価値を生み出した稀有な城郭として、日本の歴史の中に確固たる地位を占めている。


表1:高岡城関連年表

年代(西暦)

元号

主な出来事

典拠

1605年

慶長10年

前田利長、家督を弟・利常に譲り富山城へ隠居。

6

1609年

慶長14年

3月:富山城焼失。4月:利長、関野にて新城(高岡城)の築城を開始。9月:利長、高岡城へ入城。「高岡」と改称。

6

1614年

慶長19年

5月:前田利長、高岡城にて死去。

6

1615年

元和元年

徳川幕府が「一国一城令」を発布。高岡城は廃城となる。

7

(廃城後)

(元和年間以降)

前田利常、高岡を商工業都市へ転換する政策を実施。城跡に米蔵・塩蔵を設置。

7

1645年

正保2年

前田利常、利長の菩提寺として瑞龍寺の建立に着手。

20

1870年

明治3年

金沢藩、高岡城跡の払い下げ・開墾を布告。

1

1872年

明治5年

七尾県が払い下げを断行。

1

1875年

明治8年

服部嘉十郎らの保存運動が実り、城跡が「高岡公園」として指定される。

7

1907年

明治40年

公園内に「中の島」が造成される。

1

1965年

昭和40年

富山県史跡に指定される。

20

2006年

平成18年

(財)日本城郭協会により「日本100名城」(33番)に選定される。

20

2015年

平成27年

国の史跡に指定される。

20

引用文献

  1. 富山県唯一の日本百名城・国指定史跡「高岡城跡」 https://www.e-tmm.info/siro.htm
  2. 【富山県のお城】隣国の武将たちが覇権を争い、築かれたお城の数は約400! - 城びと https://shirobito.jp/article/1851
  3. お城大好き雑記 第126回 富山県 高岡城 https://sekimeitiko-osiro.hateblo.jp/entry/takaokajo-toyamakenn
  4. 高岡古城公園景観再生プロジェクト2025実施中 https://www.city.takaoka.toyama.jp/soshiki/keikammidorika/2/3/2/1/R7keikansaiseipuroject.html
  5. となみ野.jp|散居村とチューリップの里、砺波へようこそ|砺波野 ... http://tonamino.jp/shiru/post_25.html
  6. 高岡城の歴史と見どころを紹介/ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/chubu-castle/chubu-takaoka-castle/
  7. 高岡城は語れない。 https://www.takaoka.or.jp/lsc/upfile/download/0000/0060/60_1_file.pdf
  8. 年未詳5月1日付徳川秀忠書状(前田利長宛) ねんみしょうごがつついたちづけとくがわひでただしょじょう(まえだとしながあて) - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/552111
  9. 年未詳2月2日付徳川秀忠書状(前田利長宛) - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/619889
  10. 常設展 お宝コーナー「原本新発見!前田利長を見舞う徳川秀忠書状」 - 駅探 https://ekitan.com/event/evid-ac70b48ba3a5c7673584d43d9ec0610c
  11. 前田利長遺言状(写) - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/400428
  12. 高岡城 : 高山右近が設計した越中前田家の拠点城だが僅か6年で廃城 https://akiou.wordpress.com/2013/12/07/%E9%AB%98%E5%B2%A1%E5%9F%8E/
  13. 高岡城と高山右近 - 古城万華鏡Ⅰ https://www.yamagen-jouzou.com/murocho/aji/kojyou/kojyou1.html
  14. 高山右近像 - 高岡銅像マップ【公式Webサイト】 https://www.douki-takaoka-map.com/%E5%A0%B4%E6%89%80-%E3%81%8B%E3%82%89%E6%8E%A2%E3%81%99/%E9%AB%98%E5%B2%A1%E5%B8%82%E5%86%85-02/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%8F%B3%E8%BF%91%E5%83%8F/
  15. 高山右近:加賀藩に仕えたキリシタン大名の足跡をたどる|特集 - 金沢旅物語 https://www.kanazawa-kankoukyoukai.or.jp/article/detail_544.html
  16. 高岡城の縄張は高山右近が行ったのか? https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/maibun/toyamajyo/takaoka/6.htm
  17. 1 はじめに 絵図にみる高岡城 https://www.e-tmm.info/27shiro2.pdf
  18. 超入門! お城セミナー 第40回【構造】お城の防御設備・馬出はどうやってお城を守るの? - 城びと https://shirobito.jp/article/553
  19. 【日本100名城®】富山県・高岡城 - nippon.com https://www.nippon.com/ja/guide-to-japan/castle00118033/
  20. 【富山県】高岡城の歴史 前田利長の隠居城として築城、急ピッチで作られたワケ | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/170
  21. 高岡古城公園として整備<高岡城> - 岡山県の文化財 https://sirohoumon.secret.jp/takaoka.html
  22. 「石垣の博物館」金沢城の楽しみ方。プロに教わる謎多き庭園の魅力 https://story.nakagawa-masashichi.jp/57171
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  27. 鳳鳴橋と新幸橋 - kanaya nadesiko https://nettoko.kanaya-machi.com/katomi/ttr98.html
  28. 鳳凰降り立つ『御鳳輦』記念御朱印を授与【最新】 - 射水神社 https://www.imizujinjya.or.jp/archives/18616
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  30. 初期高岡城下町の復元(2) https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/maibun/toyamajyo/takaoka/5.htm
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  32. 鳳鳴橋 | 富山 高岡 おすすめの人気観光・お出かけスポット - Yahoo!トラベル https://travel.yahoo.co.jp/kanko/spot-00036013/
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  35. 日本遺産に認定された高岡の歴史ストーリー全文 https://www.city.takaoka.toyama.jp/soshiki/kyoikuiinkai_bunkazaihogokatsuyoka/1/2/3/5197.html
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  39. 高岡古城公園:服部嘉十郎碑 http://takaoka.zening.info/old_castle/Hattori_Kajyuro_memorial.htm
  40. 服部嘉十郎 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E5%98%89%E5%8D%81%E9%83%8E
  41. 富山のサクラ】県唯一「日本100名城」で愛でる1800本のサクラ【高岡古城公園】桜まつりは4/1から https://www.knb.ne.jp/nannan/6303/
  42. [日本100名城 No.33] 高岡城:見どころとスタンプの設置場所を解説 | KOKONTABI https://travel.marc.style/entry/takaokajo
  43. 高岡古城公園(高岡城跡) | スポット・体験 | 【公式】富山県の観光/旅行サイト「とやま観光ナビ」 https://www.info-toyama.com/attractions/21103
  44. 高岡古城公園(高岡城跡)|観光スポット・体験|【公式】高岡観光ナビ - 富山県高岡のおでかけ・旅行情報 https://www.takaoka.or.jp/viewpoint/detail_3200.html
  45. 高岡城跡/高岡市公式ホームページ https://www.city.takaoka.toyama.jp/soshiki/kyoikuiinkai_bunkazaihogokatsuyoka/1/4/1/3514.html