高津城(丹波国)
丹波国人・大槻氏の拠点城郭「高津城」の総合的研究 ― 戦国期における構造、歴史、そして落城の真相 ―
序章:丹波高津城 ― 戦国史に埋もれた国人領主の城
本報告書は、丹波国何鹿郡(いかるがぐん)、現在の京都府綾部市高津町に存在した山城「高津城」について、城主であった大槻氏の歴史的変遷、城郭の構造(縄張り)に見られる防御思想、そして戦国時代における落城の歴史的背景という三つの視点から総合的に分析・考察するものである。八幡山城とも呼ばれるこの城は、明智光秀による丹波平定の過程で比較的早期に攻略された城郭として知られている 1 。しかしながら、その具体的な歴史的意義や構造的特徴については、これまで断片的な記述に留まることが多く、総合的な評価は十分になされてきたとは言い難い。
丹波国は、京の都に隣接する戦略的要衝でありながら、多くの国人領主が割拠し、中央の支配に対して強い独立性を維持してきた地域である 2 。高津城を拠点とした大槻氏もまた、そうした丹波国人の一角を占める有力な在地領主であった 3 。本稿では、各地の地誌や近年の城郭調査によって得られた知見、そして大槻一族に伝わる記録など、散在する資料を体系的に整理し、高津城が持つ歴史的価値を再評価することを目的とする。
特に、本報告書では二つの重要な点に着目する。第一に、多くの資料が示す落城年、天正二年(1574年)という時期の特異性である。これは明智光秀による本格的な丹波攻略戦が開始される以前の出来事であり、この軍事行動が丹波平定全体の戦略の中でどのような位置づけにあったのかを解明する。第二に、高津城の縄張りが、東西で異なる構造様式を併せ持つという二面性である 4 。この構造的特徴を詳細に分析することで、城の成立から終焉に至るまでの改修の歴史と、そこに込められた防御思想の変遷を明らかにする。これらの分析を通じて、高津城が単なる一地方城郭に留まらず、戦国期丹波の軍事・政治情勢を映し出す鏡であった可能性を探求していく。
第一章:丹波国何鹿郡の雄、大槻一族の興亡
高津城の歴史を理解するためには、その主であった大槻一族の歩みを抜きにしては語れない。本章では、一族の起源に関する伝承から、丹波国人としての勢力確立、そして織田信長の天下統一事業の過程における滅亡と、その後の血脈の存続に至るまで、大槻氏の興亡の軌跡を丹念に追う。これにより、城が築かれ、そして失われるに至った人間的、社会的な背景を明らかにする。
第一節:一族の起源と伝承 ― 菅原道真から丹波国人へ
大槻氏の出自には、その権威を裏付ける高貴な伝承が残されている。一族の記録によれば、そのルーツは平安時代の傑出した学者であり政治家でもあった菅原道真の三男、大月清重に遡るとされる 6 。道真が政争に敗れて大宰府へ左遷された際、その子らも各地へ離散したが、清重は備後国(現在の広島県東部)に下り、在地豪族として「大月」を名乗ったという 6 。この菅原氏後裔という由緒は、戦国時代において在地領主が自らの正統性や権威を示す上で、極めて重要な意味を持っていたと考えられる。
さらに、一族の歴史を物語る上で興味深いのが、姓の変遷にまつわる逸話である。平安時代末期の源平合戦の折、関東で挙兵した源頼朝の軍勢に大月氏も馳せ参じた。その際、一族が「弓矢の名手」であり、狩りを得意としたことから、頼朝より偏(へん)に「扌(てへん)」、旁(つくり)に「矢」と「見」を組み合わせた「ツキ」の字を賜ったと伝えられている 6 。この漢字は明治時代まで使用されたといい、一族が古くから中央の軍事動乱に関与し、武門としての名誉を確立していたことを示唆する伝承である。
また、一族のアイデンティティは家紋にも表れている。狩りが得意であったという逸話に由来する「結び雁金」のほか、「扇紋」「三つ柏」「橘」など複数の家紋が伝わっている 6 。特に「橘紋」は、菅原氏のルーツに由来するとされ、武門としての誇りと共に、学問の神として知られる菅原道真に連なるという文治的な権威をも示そうとした一族の意識が窺える。
第二節:丹波における勢力基盤の確立
南北朝時代の動乱期を経て、大槻氏は丹波国何鹿郡に確固たる勢力基盤を築き上げていく。高津城の築城伝承は、その画期を象徴する出来事である。伝承によれば、高津城は1349年(貞和5年/正平4年)、大槻左京進清三によって築かれたとされる 8 。この時期は、足利尊氏が率いる北朝と後醍醐天皇の南朝が激しく争った時代であり、大槻氏は足利氏方に与して丹波における軍事拠点を確保したものと考えられる 11 。
大槻氏の勢力は高津城単体に留まるものではなかった。彼らは中世に「高津荘」と呼ばれた綾部市西部一帯を本拠とし、由良川流域に複数の城郭を配置することで、面的な支配体制を構築していた 3 。高津城の他にも、一族の本城格であった可能性のある高城城や、由良川を挟んで高津城と対峙する栗城など、大槻一族が築いたとされる城砦群がこの地域に散在している 4 。
表1:大槻一族の主要城郭一覧
城郭名 |
所在地(現市町村) |
標高/比高 |
縄張り様式 |
大槻一族内での位置づけ |
高津城 |
綾部市高津町 |
151m / 約100m |
複合型(梯郭式+連郭式) |
高津大槻氏の居城 5 |
高城城 |
綾部市七百石町 |
298m / 約250m |
不明 |
高城大槻氏の居城、一族の本拠か 3 |
栗城(一尾城) |
綾部市栗町 |
不明 |
不明 |
栗大槻氏の居城 3 |
この城郭ネットワークは、大槻氏が何鹿郡一帯において強力な軍事力と支配力を有していたことを示している。そして、その独立性の高さは、室町時代中期に発生した国人一揆「位田の乱」への関与からも明らかである。文明年間(1480年代)、丹波守護代であった上原元秀の支配に反発した在地国人たちが蜂起した際、大槻氏は荻野氏や須知氏らと共にその中心勢力として戦った 4 。この反乱は、守護方の軍勢によって最終的には鎮圧されるものの、大槻氏が外部からの支配に強く抵抗し、丹波の在地勢力としての自立を志向する気概を持っていたことを明確に物語っている。
第三節:明智光秀の丹波侵攻と一族の滅亡
戦国時代の最終局面、織田信長による天下統一事業の波は、丹波国にも容赦なく押し寄せた。信長の命を受けた明智光秀による丹波平定戦は、大槻氏にとって一族の存亡をかけた戦いであった。
江戸時代の地誌『丹波志』をはじめとする複数の記録によれば、天正二年(1574年)、明智光秀の軍勢が高津城に侵攻し、これを陥落させたとされる 6 。この戦いで、城主であった大槻大学(だいがく)は討死を遂げ、丹波国人としての大槻本宗家はここに滅亡した 1 。
この高津城の落城は、光秀が「丹波の赤鬼」と恐れられた赤井直正の守る黒井城や、波多野秀治の八上城といった丹波の最有力拠点を攻める以前の出来事であった。この時期の特異性については第三章で詳述するが、丹波平定の序章として、大槻氏が標的とされたのである。山家藩の和久氏など他の有力武士も次々と滅ぼされ、丹波の国人衆は大きな打撃を受けた 6 。
第四節:滅亡後の血脈 ― 離散と再興の物語
高津城の落城と城主の討死により、丹波国人としての大槻氏は滅亡したかに見えた。しかし、その血脈は完全に途絶えたわけではなかった。戦国の世の常として、一族の遺児たちが家臣らの手によって密かに落ち延び、再興の機会をうかがっていたのである。
伝承によれば、落城の混乱の中、乳母に抱かれた大槻氏の幼子が丹後国大江町の有力武士であった林田氏のもとにかくまわれたという話が残っている 6 。また、後に安国寺の中興の祖となる周慶善室禅師も大槻氏の忘れ形見であったとされ、安国寺村の渡辺家の養子となって出家したという 6 。
特に注目すべきは、林田氏にかくまわれて成長した大槻清勝の生涯である。清勝は成人後、豊臣秀頼に仕え、1700石を与えられる武士として大槻家を再興した 6 。彼は慶長十九年(1614年)からの大坂冬の陣・夏の陣に豊臣方として参戦するが、豊臣家の滅亡と共に討死を遂げた。死を覚悟した清勝は、幼い一人娘の鶴に一族の系図を託し、「誰でもかれでも大月(大槻)を名乗らないよう、子々孫々の宝として系図を書き残す」という言葉を遺したと伝えられている 6 。
その後、成長した鶴は園部(現在の京都府南丹市)の豪士であった大槻氏から養子を迎え、綾部市西坂に居を構えた。以来、その家系は約400年にわたって続き、現代に至っているという 6 。
大槻氏の歴史は、高貴な出自を主張して権威を高め、在地領主として自立と抵抗を試み(位田の乱)、織田政権という巨大な中央権力によって滅ぼされ、そして血脈の一部が離散しつつも他家への仕官などを通じて家名を存続させるという、戦国時代を生きた多くの国人領主が経験した栄枯盛衰の典型的な軌跡を辿っている。高津城と大槻氏の物語は、単なる一地方史に留まらず、在地勢力の自立と中央集権化の波との相克という、戦国時代そのものの本質を象徴する一つの縮図として捉えることができるのである。
第二章:山城・高津城の構造と防御思想
高津城は、その物理的な構造、すなわち縄張りの中に、数百年にわたる歴史と、時代の要請に応じて変化してきた軍事的意図を刻み込んでいる。本章では、城の立地条件から、曲輪の配置、堀や土塁といった防御施設の詳細に至るまで、高津城の構造を分析する。特に、東西で異なる様式を持つという特徴に着目し、そこに込められた防御思想と丹波の山城としての特質を明らかにする。
第一節:地勢と立地 ― 由良川を望む戦略的要衝
高津城は、その立地自体が優れた軍事拠点としての性格を物語っている。城は、京都府北部を流れる由良川の南岸に位置し、甲ヶ岳(こうがたけ)から北西方向に派生した尾根の先端部、通称「八幡山」と呼ばれる標高151メートルの丘陵上に築かれている 1 。麓からの比高は約100メートルであり、峻険な要害というよりは、比較的アクセスしやすい丘城の様相を呈しているが、山頂からは由良川流域や福知山方面まで一望でき、監視拠点として極めて優れた立地であった 5 。
由良川は古代より丹波と丹後、そして若狭を結ぶ水上交通の動脈であり、この川筋を抑えることは、地域の物流と軍事行動を制御する上で決定的に重要であった。高津城は、この交通の要衝を眼下に見下ろす位置にあり、経済的・軍事的な支配拠点としての役割を担っていたと考えられる。また、山麓には地域の信仰の中心であった高津八幡宮が鎮座しており 4 、城がこの地域の政治・信仰の中心地を防衛する役割も果たしていたことが窺える。
第二節:縄張りの全体像 ― 東西二つの城郭群からなる複合構造
高津城の縄張りは、単一の設計思想で貫かれたものではなく、異なる特徴を持つ二つの区画から構成されている点が最大の特徴である。城は全体として東西約300メートルに及ぶ大規模な山城であり、大きく分けて、南北に伸びる山頂の主郭を中心とした「東曲輪群」と、そこから西へ派生した尾根上に築かれた「西曲輪群」の二つから成り立っている 1 。
近年の城郭研究や現地調査によれば、これら二つの区画は、その構造様式において明確な違いを見せる。東曲輪群は、山頂の主郭を最高所とし、そこから段々状に曲輪を配置する「梯郭式(ていかくしき)」に近い構造を持つ 4 。一方、西曲輪群は、一本の尾根に沿って複数の曲輪を直線的に連ねる「連郭式(れんかくしき)」の構造を基本としている 4 。このような異なる縄張り思想が一つの城郭内に同居している事実は、高津城が長期間にわたって段階的に築城、あるいは改修・増築が繰り返されてきたことを強く示唆している。
第三節:東曲輪群の詳細分析 ― 防御の核心
東曲輪群は、高津城の中枢部であり、最も厳重な防御が施された区画である。
- 主郭 : 城の最高所に位置する主郭は、政治的・軍事的な中心であった。比較的広い平坦地が確保されており、周囲には防御のための土塁や、主郭を一周するように帯曲輪が巡らされている 1 。主郭からは周囲の地形を一望でき、敵の動きを察知する司令塔としての機能も果たしていた 18 。
- 防御施設 : 東曲輪群の防御は、地形を巧みに利用した古典的な山城の技術が中心となっている。主郭と他の曲輪、あるいは尾根筋を分断するために、深く掘り込まれた「堀切(ほりきり)」が複数設けられている 4 。また、山の斜面を人工的に削り出して急角度の崖とした「切岸(きりぎし)」が、敵兵の侵入を阻むための障壁として機能していた 10 。特に、城の北東方面の尾根には三条もの堀切が穿たれ、さらに北側の斜面には、敵の横移動を妨げるための「連続竪堀(れんぞくたてぼり)」群が確認されている 1 。これらの防御施設は、特定の方向からの攻撃を強く意識して配置されており、城の防御思想を読み解く上で重要な手がかりとなる。
第四節:西曲輪群の先進的防御機能
東曲輪群が中世的な山城の様相を色濃く残しているのに対し、西曲輪群には、より戦術が複雑化した戦国時代後期の先進的な防御技術が見られる。
- 構成 : 西曲輪群は、尾根筋に沿って配置された四段の曲輪から構成されている 8 。
- 横堀と横矢掛かり : 西曲輪群の防御思想を象徴するのが、「横堀(よこぼり)」と「横矢掛かり(よこやがかり)」の存在である。横堀とは、尾根筋を断ち切る竪堀とは異なり、等高線に沿って長く掘られた堀のことで、敵兵の移動を広範囲にわたって阻害する効果がある。西曲輪群では、切岸の下に土塁を伴う形でこの横堀が設けられている 4 。さらに特筆すべきは、城壁の一部を突出させ、側面から敵を射撃できるように設計された「横矢掛かり」の構造が確認できる点である 4 。これは、鉄砲の普及などに対応した戦国後期の高度な防御技術であり、高津城が時代の軍事技術の進化に対応して改修されたことを示している。
- 防御思想の分離 : 京都府教育委員会による『京都府中世城館跡調査報告書』においても、高津城の特色として、堀切と切岸を防御の中心とする郭群(東曲輪群)と、横堀と土塁を防御の中心とする郭群(西曲輪群)に、その構造が明確に分離している点が指摘されている 5 。
高津城の縄張りに見られる東曲輪群の古典的な構造と、西曲輪群の先進的な構造という二面性は、単一の設計思想によるものではなく、異なる時代における築城・改修の痕跡である可能性が極めて高い。具体的には、南北朝時代の築城伝承と整合性の高い東曲輪群がまず築かれ、その後、戦国時代の「位田の乱」や織田信長の脅威が迫る緊迫した情勢の中で、より実践的で高度な防御機能を持つ西曲輪群が増築・改修されたのではないかという仮説が成り立つ。このように、高津城の縄張りは、数百年にわたる歴史の中で、時代の要請に応じて防御機能を更新し続けた結果形成された、歴史の積層体であると解釈できる。城に残された土塁や堀の一つ一つが、その変遷を物語る歴史の証人なのである。
第三章:天正二年(1574年)の落城 ― 歴史的背景と考察
高津城の終焉は、天正二年(1574年)の明智光秀による攻撃であった。この落城は、単なる一城郭の攻防戦に留まらず、織田信長の天下統一事業における丹波平定という、より大きな歴史的文脈の中に位置づけることで、その戦略的な意味が明らかになる。本章では、落城前夜の丹波国の情勢から、光秀の軍事行動の意図までを深く考察する。
第一節:丹波平定前夜 ― 織田信長と丹波国人衆
天正年間初頭、織田信長と室町幕府第15代将軍・足利義昭との対立は決定的となっていた。元亀四年(1573年)に義昭が京から追放されると、かつて義昭を奉じていた丹波の国人衆の多くは、信長に対して敵対的な姿勢を強めた 20 。丹波国は、京の西隣に位置し、山陰道を通じて西国や日本海側へと通じる戦略的要地である。信長にとって、この地域を平定し、背後の安全を確保することは、天下統一を進める上で避けては通れない喫緊の課題であった 2 。
しかし、天正二年(1574年)の時点では、信長の主たる関心は伊勢長島の一向一揆鎮圧や、越前での戦いに向けられており、丹波国への大規模かつ組織的な軍事侵攻はまだ開始されていなかった。丹波国内では、氷上郡の赤井直正や多紀郡の波多野秀治といった有力国人が依然として強大な勢力を保持しており、織田方にとっては予断を許さない状況が続いていた。このような情勢下で、高津城への攻撃は行われたのである。
第二節:高津城落城 ― 丹波攻略の序章
複数の史料が、高津城の落城を天正二年(1574年)と記録していることは、極めて重要である 1 。なぜなら、これは明智光秀が「丹波の赤鬼」と恐れられた赤井直正の守る黒井城に対して、第一次攻撃を開始する天正三年(1575年)よりも一年早いからである 21 。丹波平定戦の主要な戦役が始まる前に、なぜ光秀は丹波の最大勢力ではない大槻氏を標的としたのか。この早期の軍事行動には、周到に計算された戦略的意図があったと推察される。
表2:明智光秀の丹波平定 年表(天正年間抜粋)
年月(天正) |
主要な出来事 |
場所 |
関連勢力 |
備考 |
天正二年 (1574) |
高津城落城 |
何鹿郡 |
大槻大学 |
本格侵攻に先立つ限定的な軍事行動 |
天正三年 (1575) |
第一次黒井城の戦い |
氷上郡 |
赤井直正 |
波多野秀治の裏切りにより光秀は敗走 21 |
天正五年 (1577) |
丹波攻略再開 |
丹波各地 |
- |
信貴山城の戦いの直後に再侵攻 22 |
天正六年 (1578) |
八上城包囲戦開始 |
多紀郡 |
波多野秀治 |
金山城などを拠点に兵糧攻めを実施 24 |
天正七年 (1579) |
八上城・黒井城落城 |
多紀郡・氷上郡 |
波多野氏・赤井氏 |
丹波平定が完了 25 |
この年表が示すように、高津城の戦いは、光秀が一度手痛い敗北を喫し、数年がかりで丹波を制圧することになる一連の戦役の、まさに「序章」であった。この限定的な軍事行動には、少なくとも三つの戦略的意図があったと考えられる。
第一に、 他の国人衆に対する見せしめと恫喝 である。信長に反抗的な姿勢を見せる国人領主の一つである大槻氏を、いわばピンポイントで攻撃し、迅速に滅ぼすことで、織田方の圧倒的な軍事力を丹波全域に誇示する。これにより、他の国人衆の戦意を削ぎ、恭順を促すという政治的効果を狙ったものであろう。
第二に、 将来の本格侵攻に向けた兵站路の確保 である。前述の通り、高津城は由良川流域の交通の要衝に位置する。この城を早期に制圧しておくことで、天正三年以降に計画されていた大規模な軍事侵攻において、兵員や物資を円滑に輸送するための進軍ルートや兵站基地を確保する目的があったと考えられる。
第三に、 丹波国人勢力の連携分断 である。丹波の国人衆は一枚岩ではなく、それぞれが独立した勢力であった。何鹿郡に強い地盤を持つ大槻氏を早期に排除することで、西の氷上郡に勢力を張る赤井氏と、東の多紀郡に拠る波多野氏という、丹波の二大勢力間の連携を地理的に断ち切る狙いがあった。かつて「位田の乱」で大槻氏と共闘した荻野氏(赤井氏)との連携を断つことは、光秀にとって重要な課題であった 15 。
以上の考察から、高津城の落城は、単独の戦闘として捉えるべきではなく、明智光秀による丹波平定戦略全体の「第一手」であったと結論付けられる。それは、本格的な軍事侵攻に先立ち、政治的・軍事的な優位を確立するための、周到に計画された布石であった。この戦いによって、高津城の歴史的役割は、一地方城郭の攻防戦という枠を超え、織田信長の天下統一事業の一環という、より大きな文脈の中で理解されるべきものとなるのである。
終章:高津城が物語るもの
丹波国何鹿郡に築かれた高津城は、その歴史と構造を通じて、戦国時代を生きた在地領主の栄枯盛衰と、時代の大きなうねりを我々に伝えている。本報告書で考察してきた内容を総括し、高津城が持つ歴史的価値と現代における意義を以下に記す。
歴史的価値の総括
高津城は、南北朝時代の1349年の築城伝承から、戦国時代末期の天正二年(1574年)に落城するまで、約225年間にわたり丹波の在地領主・大槻氏の拠点として機能し続けた。その縄張りは、東曲輪群に見られる竪堀や切岸を中心とした中世的な防御思想と、西曲輪群に見られる横堀や横矢掛かりといった戦国期後葉の先進的な防御思想が同居する、複合的な構造を持つ。これは、城が長年の歴史の中で、時代の軍事的要請に応じて改修・増築を繰り返してきたことを示す動かぬ証拠であり、中世から戦国期への城郭構造の変遷を一つの城で体現する、学術的にも極めて貴重な史跡であると言える。
丹波国人史における意義
城主であった大槻氏の興亡史は、菅原道真に連なるという高貴な出自を誇り、室町時代には守護代の支配に抵抗して「位田の乱」に身を投じるなど、高い独立性を維持した丹波国人の典型的な姿を映し出している。しかし、織田信長という巨大な中央権力の前に、その独立は終焉を迎える。高津城の落城は、明智光秀による丹波平定戦の序章であり、丹波の在地勢力がその自立性を失い、織田政権の統治下へと組み込まれていく画期的な出来事の嚆矢(こうし)であった。一方で、滅亡後も血脈を保ち、豊臣家臣として再興を果たした子孫の物語は、戦国時代の敗者が必ずしも歴史から完全に姿を消すわけではなく、形を変えて存続し得たことを示す好例として、歴史の多層性を我々に教えてくれる。
現代における史跡としての展望
現在、高津城跡は「京都の自然200選」の一つに選定されており、主郭をはじめとする曲輪群、土塁、堀切などの遺構が良好な状態で保存されている 9。山麓の高津八幡宮の境内は、ツブラジイやケヤキからなる天然林が広がり、歴史的遺産と豊かな自然が融合した空間として、地域住民の憩いの場となっている 17。
しかし、その学術的な価値や、丹波の戦国史における重要性については、未だ十分に知られているとは言い難い。今後は、現地に設置されている縄張り図の解説板に加え、城の歴史的背景や構造的特徴をより深く理解できるような案内・解説の充実が望まれる。本報告書が、高津城という一つの山城に秘められた歴史の物語を解き明かし、その価値を再認識するための一助となることを期待する。
引用文献
- 丹波 高津城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/tanba/takatsu-jyo/
- 丹波平定 京都通百科事典 https://www.kyototuu.jp/History/SengokuTanbaHeitei.html
- 栗(一尾)城址 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/zyosi/tan_KURIjo.html
- 綾部、大槻氏の山城-高津城・栗城に登る - 播磨屋 備忘録 http://usakuma21c.sblo.jp/article/41989656.html
- 何鹿郡の大規模城館群 | 京都府教育委員会 文化財保護課 https://www.kyoto-be.ne.jp/bunkazai/cms/?p=2162
- 綾部市で多い名字、1位の四方(しかた)さん、2位の大槻さん そのルーツに迫る! - 京都府 https://www.pref.kyoto.jp/co-kyoto/special/21022502.html
- 武家家伝_大槻氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tan_otuki.htm
- 丹波高津城 http://www.oshiro-tabi-nikki.com/tanbatakatu.htm
- 高津城(京都府綾部市) | 滋賀県の城 - WordPress.com https://masakishibata.wordpress.com/2018/06/03/ayabe-takatsu/
- 綾部市の城 高津城(八幡山城)・甲ヶ岳(鴻ヶ嶽城) - 丹波霧の里 - FC2 https://tanbakiri.web.fc2.com/KYOTO-kougatake-siro-docu.htm
- 綾部 上杉荘 上杉弾正屋敷・今北砦・八田城・久保城 - 丹波霧の里 - FC2 https://tanbakiri.web.fc2.com/KYOTOayabe_6-siro.html
- 京都府綾部市のお城一覧-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/kyoto/?c=ayabe
- 丹波 高城城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/tanba/takashiro-jyo/
- 位田城・栗城・小西城~空山・鍛冶屋・館城 - 丹波霧の里 - FC2 https://tanbakiri.web.fc2.com/KYOTO-sorayama-takasiro-docu.htm
- 位田の乱 https://nihon.matsu.net/nf_folder/nf_Fukuchiyama/nf_iden.html
- 綾部市で多い名字1位の四方さん、2位の大槻さん。そのルーツに迫る! - ページ 3 / 3 https://tripeditor.com/383376/3
- 京都の自然200選 八幡山(高津八幡宮・高津城跡) - 京都府 https://www.pref.kyoto.jp/select200/historical14.html
- 中腹に高津八幡宮が建つ 八幡山(高津町)の頂上の 山城跡が今年四月 https://ayabe.city-news.jp/tanpo/tanpo04.pdf
- 丹波國 高津城 - FC2 http://oshiromeguri.web.fc2.com/tanba-kuni/takatsu/takatsu.html
- 丹波戦国史-通史 http://www2.harimaya.com/sengoku/sengokusi/tanba_01.html
- 明智光秀・丹波攻めのすべて【にっぽん歴史夜話36】 - サライ.jp https://serai.jp/hobby/1015063
- 丹波攻略についてまとめてみた【明智光秀】 - 明智茶屋 Akechichaya https://akechichaya.com/tanba-capture/
- 「黒井城の戦い(1575年/1579年)」明智光秀が丹波平定で苦しめられた赤井氏との戦い https://sengoku-his.com/854
- 金山城跡 明智光秀による奥丹波攻めの拠点 https://www.city.tambasasayama.lg.jp/photo_history/2/bunkazai_hubutu_huzoku/tanbaburarisanpodou/14070.html
- 知られざる 「明智光秀」を訪ねて - 福知山市オフィシャルホームページ https://www.city.fukuchiyama.lg.jp/site/mitsuhide/
- 黒井城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E4%BA%95%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 猪崎城・横山城の築城と塩見頼勝 https://nihon.matsu.net/nf_folder/nf_Fukuchiyama/nf_yokoyama.html