高津城(石見国)
石見国・高津城に関する総合的調査報告書:南北朝の動乱から戦国期の機能変遷、そして近世への継承
序論:石見国の要衝・高津城
本報告書は、石見国(現在の島根県益田市)に存在した高津城について、南北朝時代から戦国時代、そして現代に至るまでの歴史的変遷を、多角的な視点から詳細に分析・考究するものである。特に、従来の研究では南北朝時代の動乱における役割が主に注目されてきたが、本報告では「戦国時代」という視座を主軸に据え、在地領主・益田氏の支配下における当城の潜在的な戦略価値と機能の変遷を明らかにすることを目的とする。
高津城は、島根県益田市を流れる一級河川・高津川が日本海に注ぐ河口付近の丘陵に築かれた山城である 1 。この地は、水運と陸運の結節点であり、鎌倉幕府滅亡後の動乱期、建武政権下で活躍した高津長幸によって築かれた 3 。その戦略的重要性から、南北朝の内乱期には南朝方の拠点として激しい争奪戦の舞台となり、その後、応仁・文明の乱においてもその名が記録されている 1 。しかし、戦国時代を経て、関ヶ原の合戦後に廃城となったと伝えられる 3 。
現在、城跡の主要部分は歌聖・柿本人麻呂を祀る高津柿本神社の境内および島根県立万葉公園として整備されている 3 。往時を偲ばせる遺構は、公園造成などにより断片的になってはいるものの、曲輪や堀切の痕跡、そして何よりも城が占地した丘陵の地形そのものが、中世山城の面影を今に伝えている 3 。
本報告書の理解を助けるため、以下に高津城に関連する主要な出来事を時系列で整理した年表を提示する。
表1:高津城 関連歴史年表
西暦 |
元号 |
主な出来事 |
関連勢力・人物 |
1333年 |
元弘3年 |
高津長幸、後醍醐天皇方として挙兵し長門探題を攻略。 |
高津長幸、吉見頼行 |
1334-38年 |
建武年間 |
高津長幸により高津城が築城される 1 。 |
高津長幸 |
1336年 |
建武3年/延元元年 |
益田兼弘・吉川経明の連合軍に攻められ落城。後に長幸が回復 4 。 |
益田兼弘、吉川経明 |
1340年 |
暦応3年/興国元年 |
北朝方の石見守護・上野頼兼に包囲される 4 。 |
上野頼兼 |
1341年 |
暦応4年/興国2年 |
約6ヶ月の攻防の末、再び落城。長幸は九州へ逃れる 2 。 |
高津長幸 |
1471年 |
文明3年 |
益田貞兼が高津城を攻撃する 1 。 |
益田貞兼 |
不明 |
南北朝-室町期 |
益田兼見が稲積城・高津城を落とすとの記録あり 8 。 |
益田兼見 |
1600年頃 |
慶長5年頃 |
関ヶ原の合戦後、多くの山城と同様に廃城になったと推定される 3 。 |
益田氏、毛利氏 |
1681年 |
延宝9年 |
津和野藩主・亀井茲政により、城跡に柿本神社が遷座される 3 。 |
亀井茲政 |
現代 |
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城跡は高津柿本神社、万葉公園として整備・活用されている 3 。 |
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第一章:城郭の構造と立地
第一節:地理的条件と縄張り
高津城の戦略的価値を理解する上で、その卓越した立地条件は不可欠な要素である。城は、石見国最大級の河川である高津川が日本海へと注ぐ河口部の北西丘陵、標高約50メートル(比高約40メートル)の地に占地する 2 。この位置は、高津川そのものを南側の天然の堀として利用できる防御上の利点を持つと同時に、河川交通と海上交通を直接的に掌握・管理できる経済的・軍事的な要衝であった 1 。高津城の存在意義は、この地理的優位性に根差していると言っても過言ではない。
城の具体的な縄張り(設計)については、後世の柿本神社建立や万葉公園の造成によって大きく改変されているため、完全な復元は困難である 1 。しかし、現存する地形や部分的な遺構、そして古文書の記述から、その全体像をある程度推定することは可能である。
城の中核部は、現在の柿本神社が鎮座する区域に相当する。神社の本殿が建つ上部の平坦地(益田第二配水池・稲荷神社付近)が「本丸」、拝殿や本殿が位置する区画が「二ノ丸」、そして参拝者用の駐車場や社務所がある辺りが「三ノ丸」であったと推定されている 1 。
さらに、これらの中心的な曲輪群に加えて、西側に広がる万葉公園の敷地内には、「四ノ平」「五ノ平」と呼ばれた複数の郭が存在したと考えられている 2 。これらの郭は、本丸を防衛するための段階的な防御ラインを形成していたのであろう。
特筆すべきは、城の北東端に位置したとされる「鍋島出丸」の存在である 2 。現在の柿本神社本殿周辺から、最先端の鍋島八幡宮にかけての区域がこれにあたるとされ、築城主である高津長幸が自領鎮護の氏神として深く信仰した八幡宮が祀られていた 2 。これは、城の最前線とも言える場所に、純粋な軍事施設だけでなく、城主と城兵の精神的な支柱となる聖地を意図的に配置したことを示唆している。この配置は、城郭に神聖な加護を求め、士気を高揚させるという中世武士の信仰心を色濃く反映した設計思想の現れと解釈できる。高津城は、単なる軍事拠点ではなく、高津氏の支配領域における「精神的中心地」としての役割をも担っていたのである。
防御施設としては、現在でも境内各所で堀切や切岸の痕跡が確認できる 3 。特に、万葉公園造成以前の地形は、比高こそ40メートル程度と低いものの、随所に険峻な切崖が巡る、防御に適したものであったと推測される 2 。これらの遺構は、中世山城の典型的な防御思想に基づいている。
第二章:築城と南北朝の内乱
第一節:城主・高津長幸の実像
高津城は、建武年間(1334-1338年)に高津長幸によって築かれたとされるのが通説である 1 。城の歴史は、この高津長幸という一人の武将の栄光と没落の物語と分かち難く結びついている。
長幸の出自については、石見国の有力な国人領主であった吉見氏の一族、吉見頼行の九男であったとする説が有力である 2 。彼の名は、元弘3年(1333年)、隠岐を脱出した後醍醐天皇が倒幕の兵を挙げた際に、歴史の表舞台に現れる。吉見一族は後醍醐天皇の綸旨を奉じ、長門探題(鎌倉幕府の出先機関)の攻略に向かった。この戦いで長幸は一軍を率いて奮戦し、長門探題を滅ぼす上で多大な功績を挙げた 2 。この功により、建武の新政下では従五位播磨権守に叙せられ、一時は石見国の守護に任じられるなど、目覚ましい活躍を見せた 2 。
しかし、足利尊氏の離反によって建武政権が崩壊し、朝廷が南北に分裂すると、長幸の運命は暗転する。彼は一貫して後醍醐天皇の南朝方として行動し、彼が築いた高津城は、石見国における南朝勢力の最重要拠点となった 2 。
第二節:南朝方の拠点としての攻防
南朝方の拠点となった高津城は、必然的に北朝(足利)方の攻撃目標となり、二度にわたる大規模な攻防戦の舞台となった。
一度目の落城は、建武3年(延元元年、1336年)のことである。足利尊氏方に与した在地領主の益田兼弘と吉川経明の連合軍による攻撃を受け、城は陥落した。しかし、長幸はこの後、城の回復に成功したと伝えられている 1 。
二度目の攻防戦は、高津城の歴史において最も激しい戦いであった。暦応3年(興国元年、1340年)、幕府によって正式に石見守護に任じられた北朝方の上野頼兼が、大軍を率いて高津城に迫った 4 。北朝軍は高津川を挟んで対岸の須子山(現在の陣手山)に陣を構え、高津城を包囲した 2 。長幸は、東方の稲積城に籠る同じ南朝方の日野邦光と連携してこれに対抗したが、北朝軍は両城の連絡を巧みに遮断した 2 。
この戦いは、単なる地方領主間の私闘ではなく、中央政権の対立を背景とした代理戦争の様相を呈していた。高津長幸の栄光が後醍醐天皇という後ろ盾の権勢と連動していたように、彼の没落もまた、南朝方の劣勢という中央の力学と直結していたのである。約6ヶ月にもおよぶ攻防の末、翌暦応4年(1341年)2月、稲積城と時を同じくして高津城もついに陥落した 2 。
城を脱出した長幸は九州へ落ち延び、その後も南朝方として各地を転戦したと記録されているが、再び故郷石見の地を踏むことはなかった 2 。高津城の攻防史は、南北朝の内乱が全国の武士を二分し、地方の勢力図を根底から塗り替える巨大な地殻変動であったことを示す、石見国における具体的な証左と言える。
第三章:戦国時代における高津城と石見国の情勢
第一節:応仁・文明の乱と益田氏の台頭
南北朝の動乱が終息した後も、高津城の戦略的重要性は失われなかった。中央で応仁・文明の乱(1467-1477年)が勃発すると、石見国もその影響を受け、高津城は再び争奪の舞台となった 3 。
この時期、石見西部で着実に勢力を拡大していたのが、在地領主の益田氏であった。文明3年(1471年)には、益田氏の当主・益田貞兼が高津城を攻撃したという記録が残っている 1 。また、時代は特定できないものの、益田兼見が稲積城と高津城を落としたという記述も存在する 8 。これらの事実は、高津長幸という強力な城主を失った後も、高津城がその地理的・経済的な価値ゆえに、地域の覇権を目指す有力者にとって依然として魅力的な拠点であり続けたことを物語っている。
第二節:「戦国期の沈黙」の分析
16世紀に入り、戦国時代が本格化すると、石見国は周防の大内氏、出雲の尼子氏、そして安芸から台頭した毛利氏という三大勢力が覇を競う最前線となった 11 。しかし、この激動の時代において、高津城に関する直接的かつ詳細な記録は、南北朝期に比して著しく減少する。この史料上の「沈黙」は、一見すると城の価値が低下したかのように思われるが、当時の石見国の勢力図を詳細に分析することで、その背景にある真実が浮かび上がってくる。
この時代の石見西部の主役は、紛れもなく益田氏であった。特に当主・益田藤兼は、巧みな外交手腕を発揮した武将として知られる。当初は大内氏の重臣である陶氏と連携していたが、厳島の戦いで毛利元就が陶氏を破ると、速やかに毛利氏との関係構築に動き、最終的にはその傘下に入ることで、石見西部における支配権を維持、むしろ拡大させることに成功した 8 。
第三節:益田氏支配下における高津城の役割(考察)
戦国期の益田氏の支配が確立する中で、高津城の役割は大きく変化したと考えられる。史料上の「沈黙」は、価値の低下ではなく、益田氏の領国経営システムの中に組み込まれ、その役割が「専門化・固定化」した結果と解釈すべきである。
この時代の益田氏の本拠は、益田平野の内陸部に位置する堅固な山城・七尾城であった 14 。政治・軍事の中心が七尾城へと移る中で、高津城は七尾城に対する**「外港管理拠点」**としての専門的な機能を担うようになったと推察される。益田氏は日本海交易によって強大な経済力を有しており 13 、高津川河口という絶好の立地を占める高津城は、その交易ルートを管理・防衛し、物資を荷揚げするための兵站基地として不可欠な支城であった。
また、西の長門国(毛利氏の本拠)へと至る長門道を押さえるという軍事的な意味合いも持ち続けていたであろう 3 。さらに、長年のライバルであった津和野の吉見氏に対する牽制という側面からも、その存在価値は依然として高かったはずである 14 。
南北朝期のように、城の帰趨そのものが地域の支配者を決定するような争奪の対象ではなくなったため、大規模な合戦の記録は残らなかった。しかし、それはむしろ益田氏の支配が安定し、高津城がその体制下で平穏に、しかし確実に機能していたことの証左と見ることができる。戦国時代の高津城は、歴史の表舞台から姿を消したのではなく、益田氏という巨大な領国経営システムの中で、その地理的特性を活かした「経済・兵站の要」として、静かにその役割を果たし続けていたのである。
第四章:廃城と後世への継承
第一節:近世の到来と廃城
戦国時代を通じて益田氏の支城として機能した高津城も、時代の大きな転換期とともにその役割を終える。多くの山城がそうであったように、関ヶ原の合戦(1600年)後、江戸時代初期に廃城となったと推定されている 3 。
この背景には、二つの大きな要因がある。一つは、関ヶ原の戦いで西軍に与した毛利氏が、周防・長門の二国に減封されたことである。益田氏も主君である毛利氏に従って益田の地を去り、長州萩へと移住したため、高津城は主を失った 18 。もう一つは、徳川幕府による支配体制の確立である。元和元年(1615年)に発布された一国一城令は、大名の軍事力を削減し、支配の拠点を限定させる政策であったが、高津城の廃城はそれに先立つ動きであり、戦乱の時代の終焉と、近世的な支配体制への移行を象徴する出来事であった 19 。
第二節:聖地への転換
軍事拠点としての役目を終えた高津城跡は、その後、新たな役割を与えられることで後世に継承された。廃城から約80年が経過した延宝9年(1681年)、この地を治めていた津和野藩主・亀井茲政によって、歌聖・柿本人麻呂を祀る柿本神社が城跡へと移されたのである 3 。
この遷座は、極めて意図的な空間の再編成であったと言える。神社の社殿は、本丸や二ノ丸といった城の曲輪跡を巧みに利用して建てられており、城郭遺構と神社建築が一体となった独特の景観を生み出している 1 。特筆すべきは、拝殿が津和野城の方向を向いて建てられているという伝承である 20 。これは、新たな支配者である亀井氏が、旧時代の軍事拠点を自らの権威下に組み込み、統治していることを示す象徴的な設計であった可能性がある。
武士たちが覇を競った「武」の空間を、和歌の神を祀る「文」の聖地へと転換させる行為。これは、過去の戦乱の記憶を完全に消去するのではなく、旧時代の遺産を新たな価値観の下に「上書き」し、自らの支配の正当性に取り込むという、近世大名による巧みな統治技術の現れであった。高津城跡の変遷は、物理的な土地利用の変化に留まらず、時代の価値観そのものの変遷を映し出す鏡なのである。
第三節:現代における史跡としての価値
現代において、高津城跡は歴史的遺産として、また地域住民の憩いの場として新たな価値を見出されている。
遺跡としては「島根県遺跡データベース」に「高津城跡」として登録されており(遺跡番号:益田67)、その時代区分は中世・近世・近現代にわたる 6 。これまでの調査では、中世に属する土師器、陶磁器、金属製品や、近世の土師器などが出土しており、各時代の城跡における人々の活動を窺い知る貴重な手がかりとなっている 6 。ただし、2024年現在、国や県、市による文化財としての公式な指定は受けていない 6 。
史跡としての活用面では、高津柿本神社および広大な敷地を持つ島根県立万葉公園として一体的に整備され、多くの市民や観光客に親しまれている 5 。また、益田市教育委員会などが主催する山城見学イベントの開催地となるなど、地域の歴史を学ぶための貴重な教育資源としても活用が進められている 3 。
結論:高津城が語る石見中世史
石見国・高津城の歴史は、一つの城郭が時代に応じてその役割を多様に変化させながら、地域の歴史においていかに重要な存在であり続けたかを示す好例である。
その歴史は、南北朝の動乱期に南朝方の拠点として華々しく幕を開けた。築城主・高津長幸の活躍と悲運は、中央政権の動向が地方の勢力図をいかに激しく揺さぶったかを物語っている。動乱の時代が過ぎ、戦国期に入ると、高津城は地域の覇者となった益田氏の安定した支配体制下に組み込まれた。史料上の記録は減少するものの、それは価値の低下ではなく、高津川河口という不変の地理的優位性を活かし、日本海交易を支える「経済・兵站の要」として、より専門的かつ不可欠な機能へと役割を特化させた結果であった。
近世の到来とともに軍事拠点としての使命を終えると、城跡は柿本人麻呂を祀る聖地へと姿を変えた。これは、戦乱の記憶が刻まれた場所を文化と信仰の空間へと昇華させることで、新たな時代の到来を宣言する象徴的な転換であった。
高津城の真の価値は、特定の時代の華々しい戦歴のみによって測られるべきではない。むしろ、時代の要請に応じてその役割を柔軟に変化させながらも、常に石見西部における戦略的要衝であり続けた、その持続性と適応性にこそ見出されるべきである。今後、考古学的調査の進展によって、特に史料の少ない戦国期における具体的な利用状況が解明されることが期待される。高津城の研究は、石見国、ひいては環日本海地域の中世から近世への移行期を理解する上で、依然として多くの可能性を秘めている。
引用文献
- 石見高津城 http://www.oshiro-tabi-nikki.com/takatu.htm
- 高津城(島根県益田市高津町上市) - 西国の山城 http://saigokunoyamajiro.blogspot.com/2009/12/blog-post_24.html
- 益田市内山城ラリー第2回「高津城跡をめぐる」を開催しました ... https://www.city.masuda.lg.jp/soshikikarasagasu/kyoikuiinkai/bunkazaika/1/yamajirosummitmasuda/yamajirorari-/9673.html
- 石見 高津城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/iwami/takatsu-jyo/
- 人麿さんを訪ねて...【その後の、その4】 https://www.shimane19.net/report/masuda/325
- 島根県遺跡データベース https://iseki.shimane-u.ac.jp/search_detail.php?target=site&org_target=literature&subtarget=articles&id=10331&search_kbn=site&page=1&sitename=%E6%B8%A9%E6%B9%AF%E5%9F%8E
- 街の史跡 城跡探索 島根県のお城 高津城 https://tansaku.sakura.ne.jp/sp/tansaku_siro/sirodata/siro_simane/takatu01.html
- 第2章 益田氏城館跡を取り巻く環境 - 益田市 https://www.city.masuda.lg.jp/material/files/group/48/10007.pdf
- 高津城(高津柿本神社) | 筑後守の航海日誌 - 大坂の陣絵巻へ https://tikugo.com/blog/shimane/iwami_takatujo/
- 平成27年4月 島根県への旅・一日目 http://www.rekitabi.sakura.ne.jp/H27/270405iwami/270405iwami.htm
- 戦国時代の中国地方で2大勢力に割って入った毛利元就の謀略とは⁉ - 歴史人 https://www.rekishijin.com/22542
- 月山富田城|中国地方争奪戦の舞台。大内・尼子・毛利氏の戦い - 史跡ナビ https://shisekinavi.com/gassantodajo/
- ॡѠಕਅ - 島根県芸術文化センター 「グラントワ」 https://www.grandtoit.jp/uploads/files/press_iwami_sengokubusyo.pdf
- 山陰の城館跡 - 島根県 https://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/event/saninshisekigaidobook.data/GuidebookNo.1_2021.pdf
- 七尾城(ななおじょう)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%B8%83%E5%B0%BE%E5%9F%8E-180191
- Masuda Japan Heritage 島根県益田市日本遺産 公式ポータルサイト - https://masuda-rekitabi.com/
- 四郎と千代の物語 - 須佐郷土史研究会 https://susakyodoshi.sakura.ne.jp/essay/shiro_y_chiyo.htm
- ミステリアス!益田 - 中国地方整備局 http://www.cgr.mlit.go.jp/cgkansen/yumekaidou/pc/nintei/14/pdf/yumerunetiku14-2.pdf
- 明治時代にお城がたくさん破壊されてしまったって「廃城令」って?ー超入門!お城セミナー 【歴史】 https://shirobito.jp/article/1344
- 高津柿本神社 | 島根県益田市観光公式サイト https://masudashi.com/kankouspot/kankouspot-727/