最終更新日 2025-08-18

魚津城

越中の要衝、魚津城は上杉・織田の激戦地。天正十年、上杉将兵が本能寺の変を知らぬまま壮絶な最期を遂げた悲劇の舞台。その抵抗は、秀吉の天下取りを間接的に助けた。

越中の要衝・魚津城:戦国史における戦略的意義と天正十年の悲劇

序章:越中の要衝、魚津城

越中国新川郡、現在の富山県魚津市にその跡を残す魚津城は、戦国時代の日本史において、一地方の城郭という位置づけを遥かに超える重要な役割を担った戦略拠点である。越後の上杉氏、加賀・能登の一向一揆勢力、そして天下統一を目指す織田氏という、当時の主要勢力が激しく角逐を繰り広げた北陸道。そのほぼ中間に位置する魚津城は、まさに諸勢力の思惑が交錯する最前線であった。

魚津城の戦略的価値は、その地理的条件に深く根差している。北は富山湾に面し、南と東を角川と神明川(現在の鴨川)に、西を沼沢地に囲まれた天然の要害に築かれたこの平城は、陸路の幹線である北陸道を押さえる「押さえ」の城であると同時に、日本海の水運をも掌握しうる海陸交通の結節点であった 1 。さらに、新川郡における政治・軍事の中心であった山城・松倉城の支城として、広域な防衛ネットワーク「松倉城塁群」の一翼を担う存在でもあった 3 。この立地こそが、魚津城を単なる防御拠点に留まらせず、経済活動と兵站を支える複合的な戦略拠点たらしめたのである。平城でありながら、戦国大名たちがこの城を巡って熾烈な争奪戦を繰り広げた理由は、この地が持つ交通・物流の支配力にあった。魚津城を掌握することは、越中東部における経済と軍事の主導権を握ることを意味したのである。

本報告書は、この魚津城が歴史の表舞台に登場した築城期から、戦国時代の動乱の中でその役割を大きく変転させ、やがて廃城に至るまでの全史を、特に天正十年(1582年)に起こった「魚津城の戦い」とその悲劇的な結末に焦点を当てて詳述する。そして、一地方の攻防戦が、いかにして中央の政局、すなわち本能寺の変後の天下の行方にまで影響を及ぼしたのかを多角的に分析し、戦国史における魚津城の真の歴史的意義を明らかにすることを目的とする。


表1:魚津城 関連年表

年代(西暦)

元号

主要な出来事

1335年

建武二年

椎名孫八入道胤明により築城されたと伝わる 1

室町時代

-

越中守護・畠山氏の配下、椎名氏が本拠・松倉城の支城として支配 2

1568-69年

永禄十一-十二年

上杉謙信が椎名康胤を攻め、松倉城と共に魚津城を攻略。上杉氏の拠点となる 2

1573年頃

天正元年頃

上杉方の重臣・河田長親が城代となり、越中東部を支配 2

1581年

天正九年

織田信長の命を受けた佐々成政が越中攻略を開始 2

1582年3月

天正十年

柴田勝家を総大将とする織田軍が魚津城を包囲。「魚津城の戦い」が始まる 3

1582年6月2日

天正十年

京都にて本能寺の変が勃発。織田信長が自刃 3

1582年6月3日

天正十年

魚津城落城。中条景泰ら上杉方守将十三名が自刃 2

1582年6月4日以降

天正十年

信長の死報が織田軍に伝わり、軍は撤退。上杉方が城を奪還 2

1583年

天正十一年

佐々成政が再び魚津城を攻略し、越中をほぼ平定 3

1595年

文禄四年

豊臣秀吉の命により、新川郡が前田利家に加増され、加賀藩の支配下に入る 2

1609年

慶長十四年

富山城焼失後、前田利長が高岡城へ移るまでの一時期、居城とする 9

1615年

元和元年

一国一城令により廃城となる 2

江戸時代

-

本丸跡は加賀藩の米蔵・武器庫「古城御蔵屋敷」として利用される 11

明治以降

-

城跡は小学校や裁判所の敷地となり、遺構はほぼ消滅 11


第一章:魚津城の黎明 ― 築城と椎名氏の時代

魚津城の正確な築城年代を記す確たる史料は現存しないが、南北朝時代の建武二年(1335年)、椎名孫八入道胤明によって築かれたという伝承が残されている 1 。この時期、魚津城は越中国新川郡を拠点とする国人領主・椎名氏の支配下にあり、その本拠であった山城・松倉城の支城として機能していたと考えられる 2 。室町時代を通じて、椎名氏は越中守護であった畠山氏の守護代として地域の支配を担っており、魚津城は椎名氏の勢力を平野部において維持・強化するための重要な拠点であった 5

この城が持つ初期の戦略的重要性は、その巧みな立地選定に見て取ることができる。城郭は、南に角川、北に神明川(現在の鴨川)という二つの河川を天然の堀とし、北西には広大な富山湾が控え、西には沼沢地、東には深田が広がるという、四方を水に囲まれた要害の地に築かれていた 2 。このような地形は、敵の侵攻を困難にする防御上の利点だけでなく、河川や海上交通を利用した兵員や物資の輸送においても大きな優位性をもたらした。事実、戦国時代の永禄年間には、魚津の地に「ハタコ」と記される旅籠が存在していたことが史料から確認されており、この頃には既に城下町として一定の賑わいを見せていたことがうかがえる 14

しかし、この時期の魚津城は、あくまで椎名氏という一地方勢力の支配体制を支えるための城であり、その価値は新川郡という限定された地域内でのものであった。城が本来秘めていた地理的なポテンシャル、すなわち越後と加賀・能登を結ぶ北陸の交通軸を支配しうる戦略的価値が最大限に引き出されるのは、戦国時代の動乱が越中に及び、上杉謙信や織田信長といった天下の趨勢を左右する大名たちがこの地に進出してきてからのことである。地方の支城であった魚津城が、日本の歴史を動かす戦略拠点へとその姿を変貌させていく過程は、まさに戦国という時代のダイナミズムを象徴している。

第二章:動乱の越中 ― 上杉謙信の進出と支配

戦国時代中期、越後の「龍」上杉謙信が越中へとその勢力を伸張させる中で、魚津城の運命は大きく転換する。永禄十一年から十二年(1568-69年)にかけて、甲斐の武田信玄と密かに通じ、上杉氏に反旗を翻した椎名康胤を討伐するため、謙信は越中に大軍を進めた。この戦役において、椎名氏の本拠・松倉城と共に魚津城も上杉軍の猛攻の前に陥落した 2

この攻略により、魚津城は椎名氏の支配を離れ、上杉氏の越中経営、特に対一向一揆、そして西から勢力を拡大する織田信長に対峙するための最前線基地へと、その戦略的性格を劇的に変化させた 3 。謙信はこの地を重要視し、腹心の将である河田長親を城代として配置した。長親は魚津城を拠点として、知行の安堵や宛行を積極的に行い、旧椎名氏の支配領域に上杉氏の統治権を確立していった 2 。これにより、魚津城は単なる軍事拠点に留まらず、新川郡における上杉方の行政センターとしての機能も担うようになったのである。

この時期、謙信が魚津城において詠んだとされる一首の和歌が伝えられている。

「武士(もののふ)の 鎧の袖を かたしきて 枕に近き 初雁の声」 1

北陸の厳しい戦況の最中、鎧の袖を枕代わりにして仮眠をとる束の間、初雁の鳴き声に秋の訪れを感じるというこの歌は、戦いに明け暮れる謙信の繊細な一面を今に伝えている。

謙信の死後、上杉家は後継者を巡る内乱「御館の乱」によって国力を大きく消耗する 15 。一方、中央では武田氏を滅ぼした織田信長が、その矛先を北陸へと本格的に向け始めていた。跡を継いだ上杉景勝にとって、もはや越中は攻勢のための拠点ではなく、本国・越後を防衛するための絶対不可欠な緩衝地帯、そして最前線となっていた。河田長親のような重臣が引き続き配置されたことからもわかるように、魚津城は上杉氏の存亡をかけた西方防衛戦略の要であり、いわば「西の国門」としての極めて重い役割を担うことになったのである。

第三章:天正十年の悲劇 ― 織田軍侵攻と魚津城の戦い

天正十年(1582年)、魚津城は日本戦国史の中でも特に悲劇的かつ劇的な攻防戦の舞台となる。この戦いは、織田信長の天下統一事業の最終局面と、それに抵抗する上杉氏の存亡をかけた戦いが交錯する、時代の転換点を象徴する出来事であった。

第一節:織田信長の北陸平定戦略と柴田勝家軍団

天正九年(1581年)、織田信長は北陸方面の完全平定に向け、本格的な軍事行動を開始した。その尖兵として越中に送り込まれたのが、猛将・佐々成政である 2 。成政は越中西部の諸城を次々と攻略し、上杉勢力を東へと圧迫していった。そして天正十年、信長は北陸方面軍総大将である筆頭家老・柴田勝家に、前田利家、佐々成政らを率いさせ、上杉氏の越中における最後の拠点群の掃討を命じた 15 。この時点で、上杉方にとって魚津城と本城である松倉城は、越後国境へと続く最後の防衛線となっていた 6 。織田軍の目標は、この防衛線を突破し、上杉氏の本拠地である春日山城へとなだれ込むことにあった。

第二節:八十日間の攻防

天正十年三月、柴田勝家率いる織田軍団は、四万ともいわれる大軍で魚津城を完全に包囲した 3 。これに対し、城内に籠もる上杉軍の兵力はわずか三千八百であったと伝えられている 6 。絶望的な兵力差にもかかわらず、上杉方の将兵は固い決意で籠城戦に臨んだ。


表2:「魚津城の戦い」(天正十年)主要参戦武将一覧

勢力

役職・立場

主要武将

織田軍

総大将(北陸方面軍)

柴田勝家

与力

佐々成政、前田利家、佐久間盛政

上杉軍

籠城守将(十三将)

中条景泰、吉江宗信、吉江景資、吉江資堅、山本寺孝長、竹俣慶綱、寺島長資、蓼沼泰重、安部政吉、石口広宗、若林家長、亀田長乗、藤丸勝俊


攻防戦は熾烈を極めた。当初、織田軍は上杉方の別動隊による富山城急襲の報を受け、一時的に魚津城の包囲を解いて富山城の奪還に向かうという一幕もあったが、すぐに城を奪い返すと、再び全軍で魚津城に攻撃を集中させた 6 。この戦いにおいて、織田軍は鉄砲に加え、大砲を使用したことが一次史料から確認されている。これは、北陸における大砲の使用例としては最古のものとされるが、この大砲は不良品であり、修理を要したため、戦局を決定づけるほどの効果はなかったようである 7

第三節:援軍の断念と守将たちの覚悟

城内の将兵が必死の抵抗を続ける中、主君である上杉景勝も手をこまねいていたわけではなかった。五月、景勝は自ら救援軍を率いて魚津城の東方に位置する天神山城に布陣し、織田軍の背後を脅かした 3 。しかし、景勝はここで究極の選択を迫られることになる。織田軍は信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の軍勢を越後国境へと進出させ、上杉氏の本国そのものを脅かす態勢を整えていたのである 3 。さらに悪いことに、越後国内では、信長と通じた重臣・新発田重家が反乱を起こし、上杉家は内憂外患の危機的状況に陥っていた 6

この状況を鑑み、景勝は魚津城を直接救援することが不可能であると判断せざるを得なかった。もし天神山城で織田軍と決戦を挑み、万が一敗れれば、越後本土を防衛する兵力すら失ってしまう。五月二十六日、景勝は苦渋の決断を下す。魚津城の将兵を見捨てる形で、全軍を率いて越後へと撤退したのである 3

主君からの援軍という最後の望みを絶たれた魚津城の守将たちは、自らの運命を悟った。しかし、彼らは降伏の道を選ばなかった。主君・景勝が越後に戻り、本国の防衛体制を立て直すための時間を一刻でも長く稼ぐことこそが、自分たちに残された最後の務めであると覚悟したのである。彼らは城を枕に討ち死にすることを決意し、その旨を記した連署状を作成したと伝えられている 6 。彼らの抵抗は、もはや単なる籠城戦ではなく、上杉家全体の存続をかけた、意図的な「捨て石」としての壮絶な戦いであった。

第四節:壮絶なる落城

景勝軍の撤退後も、魚津城の抵抗は約一週間続いた。しかし、兵糧も尽き、兵の疲労も極限に達する中、落城の時は刻一刻と迫っていた。天正十年六月三日、八十日間にわたる攻防の末、織田軍の最後の総攻撃が開始され、ついに魚津城は陥落した 2

その最期は壮絶を極めた。中条景泰、吉江宗信をはじめとする守将十三名は、もはやこれまでと覚悟を定め、城内で次々と自刃して果てた 6 。後世に伝わる逸話によれば、彼らは落城後、敵に首を取られた際に誰の首か判別できるよう、自らの耳に穴を開け、名前を記した木札を通して自害したという 6 。この凄惨ながらも潔い最期は、戦国の武士としての誇りを最後まで貫いた彼らの生き様を物語っている。

第四章:歴史の皮肉 ― 本能寺の変とその影響

魚津城の将兵が壮絶な最期を遂げた天正十年六月三日。そのわずか一日前、六月二日の未明に、京都の本能寺において日本の歴史を根底から揺るがす大事件が起きていた。織田信長が、最も信頼していたはずの家臣・明智光秀の謀反によって斃れたのである 3

しかし、この天下の一大事を、北陸の戦場で死闘を繰り広げていた両軍は知る由もなかった。信長横死の報が、柴田勝家率いる織田軍のもとにもたらされたのは、魚津城が血の海に沈んだ後の六月四日から五日にかけてのことだった 1 。もし、この報せがあと二、三日早く届いていれば、織田軍は包囲を解いて撤退し、魚津城の悲劇は起こらなかったかもしれない。歴史の残酷な皮肉であった。

主君の突然の死という衝撃的な報せは、勝利に沸いていた織田軍に大混乱をもたらした。軍団の統制は失われ、諸将はそれぞれの領国へ向けて撤退を開始する 8 。この機を逃さず、上杉方は須田満親らを中心に軍勢を再編し、主のいなくなった魚津城を奪還。一時的ではあるが、越中東部の失地を回復することに成功した 2

魚津城での八十日間にわたる攻防戦は、図らずも本能寺の変後の天下の行方に決定的な影響を及ぼすことになった。織田家の後継者レースにおいて、筆頭家老であり、織田家最強の軍団を率いる柴田勝家が最有力候補であったことは間違いない。しかし、彼はすぐさま京へ向かうことができなかった。その最大の理由は、魚津城を落とした直後であり、背後にいる上杉軍の追撃を警戒し、軍をまとめて安全に撤退する必要があったからである 8 。魚津城での長期にわたる戦いが、勝家の軍団を北陸の地に「釘付け」にする結果をもたらしたのだ。この時間的遅れが、備中高松城から驚異的な速さで京へ引き返した羽柴秀吉に、明智光秀討伐の功を独占させ、その後の清洲会議で織田家中の主導権を握る絶好の機会を与えた。魚津城を守って散った上杉の将兵たちの命を懸けた抵抗は、彼らが意図せずして、宿敵・織田家の内部崩壊を促し、豊臣秀吉の天下取りへの道を拓く遠因となったのである。

第五章:戦国時代の終焉へ ― 佐々成政、そして前田氏の治世

本能寺の変後の混乱に乗じて上杉方が奪還した魚津城であったが、その支配は長くは続かなかった。天正十一年(1583年)、織田家内部の主導権争いで秀吉に敗れた柴田勝家方に与していた佐々成政は、体勢を立て直すと再び越中東部に侵攻した。成政は魚津城を再度攻略し、城将の須田満親は信濃へと退去を余儀なくされる 3 。これにより成政は越中一国をほぼ平定し、富山城を本拠として、名実ともに越中の支配者となった 9

しかし、その成政もやがて中央で天下人への道を突き進む羽柴秀吉と対立。天正十三年(1585年)、秀吉は自ら大軍を率いて越中に侵攻し、成政は富山城に籠城するも降伏した(富山の役) 9 。戦後処理の結果、越中は分割され、魚津城を含む新川郡は前田利長の預かり地となり、文禄四年(1595年)には正式に前田利家に加増されることとなった 2 。これにより、長きにわたる上杉氏と織田・豊臣方の争奪の舞台であった魚津城は、加賀藩前田氏の安定した支配下に入ることになる。前田氏の治世下では、青山吉次らが城代を務めた 7

佐々成政の時代まで、魚津城は対上杉、そして対豊臣という軍事的最前線としての緊張を常に強いられていた。しかし、前田氏が越中全域をその版図に収めると、魚津城の東に敵対勢力は存在しなくなり、その役割は大きく変化する。城の機能は「戦闘」から、広大な加賀藩領を統治するための地方拠点、すなわち「統治」へとシフトしていったのである。慶長十四年(1609年)、前田利長は居城であった富山城の焼失に伴い、新たな居城として高岡城を築城するまでの間、一時的に魚津城をその居所としていた 9 。この事実は、魚津城が単なる砦ではなく、大名が居住可能な一定の行政機能と居住性を備えた城郭であったことを示している。これは、戦乱の時代が終わりを告げ、近世的な大名領国体制が確立していく時代の移り変わりを象徴する出来事であった。

第六章:城の終焉と記憶の継承

戦国の世が終わり、徳川幕府による泰平の時代が訪れると、魚津城の運命もまた大きく変わる。元和元年(1615年)、幕府が発令した一国一城令により、魚津城はその歴史的役割を終え、廃城となった 2

しかし、城郭としての機能は失われたものの、その場所が持つ価値が完全に失われたわけではなかった。廃城後、本丸跡地は加賀藩の米蔵や武器庫を収める「古城御蔵屋敷」として利用され続けた 2 。これは、魚津城が持つ水陸交通の便の良さが、軍事目的から物資の集積・管理という経済・行政目的へと転用されたことを示している。江戸時代中期の天明五年(1785年)に描かれた「越中魚津町惣絵図」には、本丸とそれを三方から囲む二の丸、そして二重の堀といった近世城郭としての縄張りが記されており、往時の姿を推測する上で貴重な史料となっている 3

近代化の波は、魚津城に残されたわずかな痕跡をも消し去っていった。明治時代に入ると、残されていた堀や土塁は破却され、城郭としての景観は完全に失われた 10 。現在、本丸跡地は魚津市立大町小学校の跡地(2018年に統合廃校)となり、二の丸跡は魚津簡易裁判所などの敷地となっている 4 。かつての壮絶な戦いの舞台であったことを示す物理的な遺構は、今やほとんど残されていない。

だが、城の姿は消えても、その記憶は形を変えて受け継がれている。城跡には現在、「史跡 魚津城跡」と刻まれた石碑が建てられ、その傍らには上杉謙信が植えたと伝わる「常盤の松」(現在は二代目)や、謙信の歌碑が静かに佇んでいる 1 。そして、魚津歴史民俗博物館には、江戸時代の魚津城周辺を再現した復元模型や、「魚津城の戦い」の経緯を解説する映像資料が展示されており、訪れる人々にその激動の歴史を語りかけている 13 。魚津城は、物理的な城郭としては消滅したが、その劇的な歴史、特に天正十年の悲劇は、地域の歴史的アイデンティティを形成する「記憶の遺構」として、今なお人々の心の中に生き続けているのである。

終章:戦国史における魚津城の歴史的意義

越中国魚津城の歴史、とりわけ天正十年を巡る攻防の軌跡は、この城が単なる北陸の一城郭ではなく、戦国時代末期の天下の動向と密接に連動する、極めて重要な戦略拠点であったことを明確に示している。

その歴史的意義は、多岐にわたる。第一に、上杉氏にとっては越中支配を維持し、本国・越後を守るための最後の砦であり、織田信長にとっては天下統一事業の最終段階において、上杉氏を滅ぼすための最重要攻略目標であった。第二に、「魚津城の戦い」における上杉守備隊の八十日間にわたる必死の抵抗が、結果として柴田勝家の本能寺の変への対応を遅らせ、豊臣秀吉の台頭を間接的に助けるという、日本史の大きな転換点に波及効果をもたらした点である。そして第三に、援軍の望みが絶たれた中で、主家のために自らの命を捧げた籠城将たちの壮絶な最期は、戦国武士の主従関係の在り方と、その時代に生きた人々の義の精神を現代に強く問いかけている。

物理的な遺構のほとんどを失った今、魚津城は石碑と伝承の中にその存在を留めるのみである。しかし、その地で繰り広げられた人間ドラマと、それが歴史に与えた影響の大きさは、決して色褪せることはない。魚津城は、戦国時代の非情な戦略と、それに翻弄されながらも己の信念を貫いた人々の記憶を宿す、歴史の永遠の証人として、今後も語り継がれていくべき重要な文化遺産である。

引用文献

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  5. 越中 魚津城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/ecchu/uozu-jyo/
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  8. (わかりやすい)本能寺の変 中編 https://kamurai.itspy.com/nobunaga/honnouji2.htm
  9. とやま文化財百選シリーズ (5) - 富山県 https://www.pref.toyama.jp/documents/14266/osiro.pdf
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  11. 魚津城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%9A%E6%B4%A5%E5%9F%8E
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  13. 魚津城の見所と写真・200人城主の評価(富山県魚津市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/424/
  14. 富山県魚津市 - 松倉城郭群調查概要 - concat https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach_mobile/24/24856/18386_1_%E5%AF%8C%E5%B1%B1%E7%9C%8C%E9%AD%9A%E6%B4%A5%E5%B8%82%E6%9D%BE%E5%80%89%E5%9F%8E%E9%83%AD%E7%BE%A4%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E6%A6%82%E8%A6%81.pdf
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  18. 魚津城攻防・後詰め - 戦国カフェ http://cafe.kenshingen.fem.jp/?eid=1220563
  19. 「新発田重家」恩賞問題で不満爆発!上杉家に背く | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/302
  20. 上杉景勝と直江兼続は蜃気楼を見たか - 魚津市 https://www.city.uozu.toyama.jp/nekkolnd/news/umoregi-pdf/031.pdf
  21. 秀吉に及ばなかった柴田勝家の「統御」 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/35640/2
  22. 佐々成政 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%88%90%E6%94%BF
  23. 佐々 http://v-rise.world.coocan.jp/rekisan/htdocs/infoseek090519/hokuriku/tateyama/sasamasanaga.htm
  24. 第22回:魚津城(その時 北方司令官は?魚津城の戦い) https://tkonish2.blog.fc2.com/blog-entry-22.html
  25. 魚津城跡:北陸エリア - おでかけガイド https://guide.jr-odekake.net/spot/14722
  26. 魚津歴史民俗博物館 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%9A%E6%B4%A5%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E6%B0%91%E4%BF%97%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8