出羽北方の要衝、鮭延城は小野寺氏と最上氏の攻防の舞台。名将鮭延秀綱が守り、最上家臣となり長谷堂城で奮戦。最上家改易後、廃城となるも、その名は今も地域に刻まれる。
山形県最上郡真室川町、真室川の流れを見下ろす高台に、かつて戦国の世を駆け抜けた一つの城があった。鮭延城、別名を真室城という 1 。現在ではその遺構をわずかに留めるのみであるが、この城が単なる一地方の砦ではなく、出羽国北部の勢力図を左右するほどの戦略的要衝であった事実は、歴史の中に深く刻まれている。本報告書は、この鮭延城を基点として、その構造的特徴、地政学的重要性、そして城と運命を共にした鮭延一族、特に名将として知られる鮭延秀綱の生涯を多角的に分析し、戦国時代における地方豪族の生存戦略と、時代の転換期における武士の生き様を深く掘り下げるものである。
鮭延城の歴史は、城主である鮭延氏の興亡と不可分に結びついている。当初は仙北の雄・小野寺氏の麾下として最上氏と対峙し、後にはその最上氏に臣従して旧主と刃を交えるという、戦国ならではの流転の運命を辿った。この過程で、鮭延城の持つ戦略的価値は常に変わることなく、出羽北部の覇権を狙う者たちにとって、まさしく鍵となる存在であった。本報告は、利用者から提示された概要情報、すなわち「小野寺家臣・鮭延貞綱が築き、後に最上家臣となり、御家騒動で最上家が改易されると同時に破却された」という骨子をさらに深く探求し、城の縄張から城主の人間ドラマに至るまで、その全貌を包括的に解き明かすことを目的とする。
鮭延城が戦国時代において重要な役割を果たした背景には、その巧みな城郭構造と、傑出した地理的条件が存在した。これらは、城が単なる居住空間ではなく、常に臨戦態勢にあった実戦的な軍事拠点であったことを雄弁に物語っている。
鮭延城は、真室川の左岸に位置する、標高約110メートルから115メートルの舌状台地の上に築かれた山城である 2 。この地形は、天然の防御施設として機能した。城の西側を真室川が流れ、天然の堀を形成。さらに北側を支流の近江沢川、南側を薬師沢川という二つの小河川が囲むことで、三方が川と沢によって守られた、まさに天然の要害であった 2 。このような立地は、敵の接近を困難にし、城の防御力を格段に高める効果があった。
加えて、この城からは眼下に広がる新庄盆地を一望でき、晴れた日には遠く鳥海山や月山までもが遠望可能であったという 5 。これは単なる景観の良さを意味するものではない。敵軍の動向をいち早く察知し、味方へ情報を伝達するための監視拠点として、極めて有利な条件を備えていたことを示唆している。
城の設計、すなわち縄張は、その機能性を如実に示している。西端の最も高い頂部に本曲輪(主郭)を置き、そこから東側へ向かって二ノ郭、三ノ郭と、主要な区画を直線的に配置する連郭式の構造が採用されていた 4 。これは、限られた地形を最大限に活用し、段階的な防御を可能にするための合理的な設計であった。
城への主要な進入路は、北の近江沢川側に設けられた大手口(正門)と、南西側に位置したと推定される搦手口(裏門)であった 2 。これらの登城路の要所には虎口(防御を固めた出入り口)が巧みに配置され、敵兵の侵入経路を限定し、少数でも効果的な迎撃ができるよう工夫されていた 2 。
鮭延城の防御施設は、戦国時代後期の山城の特徴を色濃く反映している。
堀切と土塁: 城が築かれた台地は、南東方向で後背の丘陵と尾根続きになっており、ここが唯一の弱点であった。築城者はこの弱点を克服するため、尾根を断ち切るように複数の大規模な堀切(三重堀切ともいわれる)と土塁を築いた 2 。これにより、城域を人為的に独立させ、陸続きの方向からの敵の侵攻を効果的に阻んだ。
畝状竪堀群: 城の斜面には、複数の竪堀を並行して掘り下げた「畝状竪堀群」の存在が確認されている 2 。これは、戦国時代後期に発達した先進的な防御技術であり、斜面を横移動しようとする敵兵の動きを著しく制限し、上からの攻撃を容易にする効果があった。
これらの構造から導き出されるのは、鮭延城が平時の統治や居住性を重視した城ではなく、徹頭徹尾、防御に特化した実戦的な戦闘要塞であったという事実である。三方を川に囲まれた天然の地形を利用し、弱点である尾根筋には大規模な堀切を設け、斜面には畝状竪堀群を配するという徹底した防御思想は、この城が常に敵対勢力との緊張関係の中に置かれていたことを物理的に証明している。後に新領主となった戸沢氏が、この城を「狭隘かつ不便」であるとして放棄したこと 2 も、鮭延城が統治拠点ではなく、戦時のための「詰めの城」としての性格が極めて強かったことを逆説的に裏付けている。
さらに、この城の構造は、その歴史的役割の変遷をも物語っている。当初、小野寺氏の対最上氏最前線として築かれた際には 4 、南東から侵攻してくる最上軍を想定した防御が最重要課題であったはずであり、尾根を断ち切る三重堀切はその思想の具現化であった 8 。しかし、最上氏に降った後は、立場が逆転し、対小野寺氏攻略の拠点へと役割を変えた 2 。この段階で、北や西への出撃拠点としての機能が強化されるなど、縄張に改修が加えられた可能性も考えられる。このように、城の構造は、その時代ごとの地政学的な役割に応じて変化する、生きた要塞であったのである。
鮭延城の歴史は、鮭延氏の歴史そのものである。彼らが如何にしてこの地に至り、城を築き、勢力を伸ばしていったのかを理解することは、城の存在意義を解き明かす上で不可欠である。
鮭延氏は、近江源氏佐々木氏の流れを汲む六角氏の一族、鯰江氏の庶流を自称していた 9 。戦国時代の武将が自らの権威を高めるために名門の系譜を称することは珍しくないが、この出自に対する意識は、後の当主・鮭延秀綱の誇り高い生き方に少なからず影響を与えたと考えられる。
記録によれば、一族は応仁の乱以降の15世紀末頃に出羽国仙北郡へ下向し、この地の有力大名であった横手城主・小野寺氏の庇護下に入った 9 。当初は秋田県湯沢市関口にあたる地の番城を預かるなど、小野寺氏の国境防衛の一翼を担う存在であった 9 。
やがて鮭延氏は、小野寺氏の命を受けて最上地方へと進出する。当初は現在の戸沢村にあった岩鼻館を拠点としていたが 8 、より戦略的な価値を持つ真室の地に着目した。そして天文4年(1535年)、当時の当主であった佐々木貞綱(後の鮭延貞綱)がこの地に鮭延城を築城した 1 。これが、鮭延氏の本格的な拠点となり、その後の飛躍の礎となった。
貞綱は軍事拠点を固めるだけでなく、在地領主としての支配権確立にも注力した。築城の翌年である天文5年(1536年)には菩提寺として正源寺を開基し 9 、さらに天文15年(1546年)には鮭川のほとりに庭月観音を祀るなど 11 、地域の信仰の中心となることで、領民の心を掌握しようと試みた。これらの行動は、彼が単なる武人ではなく、地域の支配者としての長期的な視点を持っていたことを示している。
この時代の鮭延城築城は、より大きな視点で見れば、16世紀前半の出羽国における勢力争いの一環であった。南の伊達氏、中央の最上氏、そして北の小野寺氏が覇権を争う中、鮭延氏が小野寺氏の家臣として最上領との境界線上に城を築いたという事実は 4 、これが小野寺氏の対最上戦略における極めて重要な一手であったことを意味する。鮭延城と鮭延氏は、小野寺氏本体が直接手を下すことなく最上氏を牽制し、あるいは侵攻するための「尖兵」であり、両勢力の衝突を吸収する「緩衝地帯」としての役割を期待されていたのである。
一方で、鮭延氏自身の動きは、主家に従属しつつも、独自の自立性を模索する戦国国衆の典型的な姿を映し出している。彼らは主家である小野寺氏の権威を利用しながらも、自らの名字を土地の名である「鮭延」に改め 4 、その土地の領主としてのアイデンティティを強く主張した。菩提寺や観音堂の建立も、地域の支配者としての正統性を自ら構築しようとする意志の表れに他ならない。これらの行動は、彼らが将来的には独立した勢力となることを視野に入れ、虎視眈々と力を蓄えていた可能性を示唆している。
戦国時代の出羽国において、破竹の勢いで領土を拡大していた最上義光にとって、北の小野寺氏の勢力圏に深く楔を打ち込む鮭延城は、まさしく目の上の瘤であった。この城を攻略することは、出羽統一を目指す上で避けては通れない道であった。
天正9年(1581年)頃、最上義光は本格的な鮭延城への侵攻を開始した 2 。城主は、後に名将と謳われることになる鮭延秀綱であった。秀綱は、第一章で述べた堅固な城の防御力を存分に活かし、最上軍に対して激しく抵抗した。ある資料によれば、義光がこの城を落とすのに2年の歳月を要したとされており 15 、その戦いが如何に熾烈であったかを窺い知ることができる。
力攻めだけでは容易に落ちないと判断した義光は、戦術を切り替える。腹心の智将として名高い氏家守棟を起用し、武力と並行して調略、すなわち内部工作を開始したのである 13 。守棟は、鮭延一族の中でも有力者であった庭月広綱らに接触し、内応を働きかけた。この調略が功を奏し、城の結束は内部から崩れ始めた 9 。
外部からの猛攻に加え、内部からの切り崩しに遭い、これ以上の抵抗は無意味であると悟った秀綱は、ついに降伏を決断する。鮭延城の落城は、純粋な武力衝突の結果ではなく、情報戦や心理戦を巧みに駆使する最上義光の卓越した戦術眼の勝利であった。
降伏した秀綱に対し、義光は意外な処遇を見せる。その武勇と才覚を高く評価し、処断するどころか本領を安堵した上で、自らの家臣として召し抱えたのである 2 。これは、敵将であっても有能な人材は積極的に登用するという、義光の合理的な人材活用術の現れであった。
この瞬間、鮭延城と鮭延秀綱の運命は180度転換した。城は「対最上氏の最前線拠点」から、逆に「対小野寺氏・庄内攻略の拠点」へと、その戦略的役割を大きく変えることになった 2 。そして秀綱は、昨日までの主君であった小野寺氏と戦うという、過酷な宿命を背負うことになったのである。
鮭延城の落城は、単に一つの城が主を変えたという出来事に留まらない。これは、出羽北部におけるパワーバランスの決定的な転換点であった。小野寺氏にとって、鮭延城は最上領への侵攻の橋頭堡であると同時に、自領への防波堤でもあった。この城が最上氏の手に落ちたことで、小野寺氏は最上領への直接的な圧力をかける手段を失い、逆に自領の喉元に刃を突きつけられる形勢となった。事実、この後、秀綱は最上軍の先鋒として旧主攻略の先頭に立ち、湯沢城攻略などで功績を挙げており 9 、鮭延城が勢力圏の逆転を象徴する場所となったことがわかる。
秀綱の降伏という決断もまた、戦国武将のリアリズムを色濃く反映している。内部から切り崩され、これ以上の籠城が玉砕を意味するだけであった状況下で、彼は一族の血と土地を守ることを最優先した。当時の最上義光の勢いを考えれば、時代の流れがどちらにあるかは明らかであった。主家を変えることは、現代的な価値観では裏切りと見なされがちだが、一族の存続こそが至上命題であったこの時代においては、それは極めて合理的かつ現実的な生存戦略だったのである。義光が本領を安堵したという事実 2 が、秀綱のこの決断を後押しした最大の要因であったことは想像に難くない。
鮭延城の歴史を語る上で、その城主であった鮭延秀綱の存在は傑出している。彼の生涯は、戦国乱世の猛将としての姿から、泰平の世における武士の理想像まで、時代の大きなうねりを体現するものであった。
秀綱の名を不動のものとしたのが、慶長5年(1600年)に勃発した慶長出羽合戦、通称「北の関ヶ原」である 19 。天下分け目の関ヶ原の戦いに連動し、出羽国では東軍の最上義光と西軍の上杉景勝が激突した。
上杉軍の総大将・直江兼続は、自ら大軍を率いて最上領内に侵攻し、山形城の重要な支城である長谷堂城を包囲した 20 。城の守将は智将・志村光安であったが、衆寡敵せず、落城は時間の問題と見られた。この絶体絶命の危機に際し、義光は最も信頼する武将の一人として、鮭延秀綱を副将として長谷堂城へ派遣した 17 。
援軍として城に入った秀綱の働きは、まさに鬼神の如きものであった。彼は少数精鋭の部隊を率いて城から打って出て、上杉軍に夜襲を仕掛けるなど、その勇猛さで敵を大いに混乱させた 22 。その凄まじい奮戦ぶりは敵将である直江兼続をも深く感嘆させ、「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」(鮭延ほどの勇将は、かの武田信玄公や上杉謙信公の家臣にもいなかった)と最大級の賛辞を送らしめたという逸話は、今なお語り継がれている 7 。秀綱らの決死の防戦により長谷堂城は持ちこたえ、関ヶ原での東軍勝利の報が届くと上杉軍は撤退。最上家は滅亡の危機を脱した。
この戦における比類なき功績により、戦後の論功行賞で秀綱は1万1500石に加増され、名実ともに最上家随一の重臣としての地位を確立した 2 。
栄華を極めた最上家であったが、偉大な当主・義光の死後、暗雲が立ち込める。家督を継いだ二代・家親が急死し、年少の最上義俊が三代当主となると、家臣団は二つに分裂し、激しい内紛、いわゆる「最上騒動」が勃発した 24 。
このお家騒動において、秀綱は義光の四男で人望も厚かった山野辺義忠を新たな当主として擁立する派閥の旗頭となった 10 。これは単なる派閥争いというよりも、年少の義俊では、戦国の遺風が色濃く残る57万石の大藩を統治することはできないという、秀綱なりの憂国の念からくる行動であったと考えられる 24 。彼にとって絶対的な主君であった義光が一代で築き上げた大藩が、器量に欠ける当主によって揺らぐことを許せなかったのかもしれない。それは、偉大な主君の遺産を守らんとする、彼なりの純粋な、しかし結果として家を滅ぼすことになった悲劇的な忠義心の発露であったとも解釈できる。
この内紛は江戸幕府の介入を招き、元和8年(1622年)、最上家は改易という最も厳しい処分を受けることとなった 1 。騒動の中心人物と見なされた秀綱は、老中・土井利勝に御預けの身という処遇を下された 1 。
罪人として預けられた秀綱であったが、その武名と高潔な人格は広く知れ渡っていた。二代将軍・秀忠から、その弟である駿河大納言忠長の付家老として招聘されたが、これを固辞したと伝えられている 25 。
最終的に秀綱は、預かり親であった土井利勝の家臣として5000石を与えられることになった。しかし、彼はこの知行の全てを、出羽から彼を慕って付き従ってきた家臣たちに分け与え、自らは無禄となり、家臣たちからの仕送りによって慎ましく暮らしたという 24 。この清貧な生き様を伝える逸話から、秀綱は後世「乞食大名」という異名で呼ばれることとなった 10 。
寛永10年(1633年)、主君・土井利勝の転封に伴い、秀綱も下総国古河へと移り住み、正保3年(1646年)、84歳で波乱の生涯を閉じた 10 。彼の死後、その遺徳を深く偲んだ家臣たちは、古河の地に一寺を建立し、敬愛する主君の姓を冠して「鮭延寺」と名付けた 10 。
鮭延秀綱の生涯は、戦国武将から近世武士への価値観の変容そのものを体現している。長谷堂城での武功に象徴される前半生は、個人の武勇こそが全てである戦国武将の姿そのものであった。しかし、最上家改易という理不尽な結末を経て、彼の価値観は大きく変化したように見える。晩年の「乞食大名」の逸話は、もはや個人の武功や領地への執着から離れ、主君としての責任、家臣との揺るぎない絆といった、より内面的な「仁義」や「忠誠」を重んじる、近世的な武士道精神の理想像を示している。彼の人生は、まさに時代の転換点を生きた一人の武士の精神史であったと言えよう。
最上家の改易により、鮭延城とそれを巡る人々の運命は大きく動いた。城は新たな主を迎えるが、その役割は終わりを告げようとしていた。
最上領が幕府に没収された後、この地には常陸松岡から戸沢政盛が6万石で新たに入封した。政盛は当初、この地域の拠点として鮭延城に入城した 1 。
しかし、鮭延城はあくまで戦国時代仕様の山城であり、防御には優れていたものの、平時の統治拠点としては「狭隘かつ不便」であった 2 。幕藩体制下における大名の城には、軍事拠点としての機能以上に、領国を経営するための政治・経済の中心地としての機能が求められた。そのためには、家臣団を集住させ、商業を振興させるための広大な城下町を形成できる平城、あるいは平山城が適していた。
この時代の要請に応えるため、戸沢政盛は鮭延城を放棄し、より平坦な沼田の地に新たな城、すなわち新庄城の築城を開始した 2 。
寛永2年(1625年)、新庄城が完成すると、戸沢氏はそちらへ居城を移した。これに伴い、鮭延城はその歴史的役割を完全に終え、廃城となった 1 。戦国の動乱の中で築かれ、数々の攻防の舞台となった北の要害は、静かにその歴史の幕を下ろしたのである。
鮭延城の廃城は、単に一つの城がその役目を終えたという出来事ではない。それは、戦国時代の終焉と、近世、すなわち江戸時代の始まりを象徴する出来事であった。城に求められる機能が、純粋な「軍事拠点」から、統治のための「政治・経済の中心」へと移行する時代の大きな流れがあった。防御に特化した山城である鮭延城が放棄され、領国経営に適した平城である新庄城が新たに建設されたことは 2 、この全国的なトレンドが出羽国北部に到達したことを示す具体的な事例である。つまり、鮭延城の廃城は、「戦の時代」が終わり、「治の時代」が始まったことを、この地の歴史において物理的に示しているのであった。
歴史の表舞台から姿を消した鮭延城であったが、その存在が完全に忘れ去られたわけではない。城跡は地域の歴史を物語る貴重な遺産として、現代にその姿を伝えている。
現在、城跡は「鮭延城跡」として整備され、本丸跡と目される場所には石碑や説明板が設置されている 4 。訪れる者は、かつてこの地で繰り広げられた歴史に思いを馳せることができる。城の防御を支えた土塁、堀切、そして畝状竪堀群といった遺構は今なお明瞭に残り、往時の緊迫した姿を偲ばせている 2 。ただし、西側斜面はJR奥羽本線の敷設工事、南側斜面は地すべり防止工事によって一部が改変されているという側面もある 2 。
こうした歴史的価値が認められ、鮭延城跡は平成7年(1995年)3月30日をもって、真室川町の指定史跡に登録された 1 。これにより、地域の歴史を物語る貴重な文化遺産として、公的な保護のもとに置かれることとなった。
鮭延城と城主・秀綱が紡いだ物語は、時を超えて現代にも続いている。秀綱がその晩年を過ごし、彼を偲ぶ家臣たちによって鮭延寺が建立された茨城県古河市(旧総和町)と、鮭延城があった山形県真室川町は、この深い歴史的な縁を礎として、姉妹都市盟約を締結している 28 。
かつての城主の名は、単に歴史書の中の存在に留まらない。鮭延秀綱は、今なお両市町を繋ぐ英雄として顕彰され、その名は地域の人々の記憶の中に生き続けているのである 24 。鮭延城は、物理的には廃城となったが、その歴史と精神は、史跡として、そして人々の交流の絆として、確かに未来へと継承されている。
本報告書の理解を深めるため、鮭延城に関連する主要な出来事を時系列で以下に示す。
西暦(和暦) |
主要な出来事 |
関連人物 |
典拠 |
1535年(天文4年) |
佐々木貞綱(鮭延貞綱)、真室の地に鮭延城を築城する。 |
鮭延貞綱 |
1 |
1536年(天文5年) |
鮭延貞綱、菩提寺として正源寺を開基する。 |
鮭延貞綱 |
9 |
1562/63年(永禄5/6年) |
鮭延秀綱、誕生。 |
鮭延秀綱 |
10 |
1581年頃(天正9年) |
最上義光が鮭延城を攻撃。氏家守棟の調略により、城主・鮭延秀綱は降伏し、最上氏の家臣となる。 |
鮭延秀綱, 最上義光, 氏家守棟 |
2 |
1600年(慶長5年) |
慶長出羽合戦が勃発。秀綱は長谷堂城の副将として籠城し、直江兼続率いる上杉軍を相手に奮戦する。 |
鮭延秀綱, 最上義光, 直江兼続 |
7 |
1622年(元和8年) |
最上家がお家騒動(最上騒動)により改易される。秀綱は騒動の中心人物と見なされ、老中・土井利勝預かりの身となる。 |
鮭延秀綱, 最上義俊, 土井利勝 |
1 |
1625年(寛永2年) |
新領主・戸沢政盛が新庄城を完成させたことに伴い、鮭延城は廃城となる。 |
戸沢政盛 |
1 |
1646年(正保3年) |
鮭延秀綱、土井家の転封先である下総国古河にて死去。享年84または85。 |
鮭延秀綱 |
10 |
1988年(昭和63年) |
鮭延秀綱の縁により、山形県真室川町と茨城県総和町(現・古河市)が姉妹都市盟約を締結する。 |
- |
28 |
1995年(平成7年) |
鮭延城跡が真室川町の指定史跡となる。 |
- |
1 |