因幡の要衝、鳥取城は山名氏の拠点から織田・毛利の争奪戦の舞台に。秀吉の「渇殺し」で悲劇の城となるも、吉川経家の義は今も語り継がれる。多様な遺構は「城郭の博物館」と称される。
鳥取城の名は、日本戦国史において特異な響きを持つ。それは多くの場合、羽柴秀吉が指揮した「鳥取の渇殺し」という、凄惨を極めた兵糧攻めの記憶と分かち難く結びついている 1 。城兵のみならず、城内に逃げ込んだ数多の民衆が飢餓の地獄を味わい、人肉を食らうに至ったという記録は、戦乱の非情さを象徴する出来事として後世に語り継がれてきた。
しかし、鳥取城の歴史をこの一点にのみ集約させることは、その本質を見誤らせる。この城は、単なる悲劇の舞台ではない。戦国時代の典型的な山城の姿から、江戸時代の壮麗な石垣群を誇る近世城郭へと、時代の要請に応じてその姿を大きく変貌させた、生きた歴史の証人でもある。故に、多様な時代の城郭遺構が重層的に残る様相から「城郭の博物館」とも称されるのである 3 。
本報告書は、この鳥取城が持つ二つの顔、すなわち「渇望の記憶」と「城郭の変遷」という両側面を深く掘り下げるものである。因幡国の支配拠点として誕生した黎明期、織田と毛利という二大勢力の狭間で翻弄された激動期、そして悲劇を経て近世大名の居城へと再生していく過程を、戦略、人物、城郭構造という多角的な視点から徹底的に分析し、その歴史的意義を明らかにすることを目的とする。
西暦(和暦) |
主な出来事 |
関連人物 |
背景・意義 |
1545年(天文14年)頃 |
因幡守護・山名誠通が、但馬山名氏との抗争に備え、久松山に出城を築く。これが鳥取城の起源とされる 4 。 |
山名誠通 |
同族間の争いが激化し、より軍事的な拠点が求められた。 |
1562年(永禄5年)頃 |
山名氏家臣・武田高信が久松山を拠点とし、主家に対し反旗を翻す 5 。 |
武田高信 |
守護大名の権威が失墜し、下剋上が常態化する時代の到来。 |
1573年(天正元年) |
山名豊国が武田高信を追放。因幡守護所の機能を布施天神山城から鳥取城へ移転する 5 。 |
山名豊国 |
鳥取城が名実ともに因幡支配の中心地となる。 |
1580年(天正8年) |
第一次鳥取城攻め 。羽柴秀吉の因幡侵攻により、山名豊国は3ヶ月の籠城の末に降伏 5 。 |
羽柴秀吉、山名豊国 |
織田氏の中国方面侵攻が本格化。鳥取城は毛利方から織田方へ。 |
1581年(天正9年)3月 |
山名豊国が家臣団により追放され、毛利氏から派遣された吉川経家が入城 9 。 |
吉川経家 |
鳥取城は再び毛利方の最前線拠点となる。 |
1581年(天正9年)6月-10月 |
第二次鳥取城攻め(鳥取の渇殺し) 。秀吉による徹底した兵糧攻めが行われる 5 。 |
羽柴秀吉、吉川経家 |
日本攻城戦史上に残る悲劇。兵站の重要性を示す。 |
1581年(天正9年)10月25日 |
吉川経家が城兵の助命を条件に自刃し、鳥取城は開城 9 。 |
吉川経家 |
経家の義将としての評価を決定づける。因幡は織田氏の支配下に。 |
1581年(天正9年)以降 |
宮部継潤が城主となり、石垣を用いるなど近世城郭への改修を開始する 5 。 |
宮部継潤 |
戦乱の拠点から、統治の拠点への転換が始まる。 |
鳥取城の歴史を語る上で、その揺籃期を支配した山名氏の存在は不可欠である。室町時代、山名氏は最盛期に全国66ヶ国のうち11ヶ国もの守護職を兼任し、その勢威は「六分一殿(ろくぶのいちどの)」と称されるほどであった 13 。因幡国(現在の鳥取県東部)もまた、長らく山名氏の支配下にあり、守護所が置かれるなど、地域の政治的中心として機能していた 16 。
しかし、明徳の乱(1391年)で幕府に反旗を翻して敗北すると、その広大な領国は大幅に削減され、往時の勢いを失う 14 。戦国時代に至る頃には、因幡・但馬・伯耆の三国を維持する一地方勢力へとその姿を変えていた。かつての栄光は薄れ、守護としての権威は揺らぎ、国内の国人領主や、同族である但馬山名氏との絶え間ない権力闘争に明け暮れる日々が続いていたのである。
戦国期以前、因幡山名氏の拠点、すなわち守護所が置かれていたのは、湖山池の東岸に位置する布施天神山城であったと伝えられる 5 。この地は、当時の町の近くにあり、政治や経済を司るには利便性の高い場所であった 19 。平地に近く、安定した統治を行うための拠点としての性格が強かったと言える。
しかし、16世紀中頃になると、この政治的中心地から、より軍事的な性格の強い久松山へと拠点が移されることになる。久松山は標高263メートルの独立峰であり、四方が険しい断崖に囲まれた天然の要害であった 20 。ここに新たな城、すなわち鳥取城が築かれたのである 4 。この拠点の移動は、単なる城の移転以上の意味を持っていた。それは、山名氏の置かれた状況が、安定した統治から、絶え間ない軍事的緊張へと移行したことを物語るものであった。政治的利便性よりも、防衛能力を優先せざるを得ないほど、因幡国の情勢は緊迫していたのである。
鳥取城の誕生が山名氏の権威の揺らぎの証左であることは、その後の歴史が如実に示している。山名氏の重臣であった武田高信は、主家が築いたこの鳥取城を拠点として勢力を蓄え、やがて主君である山名氏に反逆するに至る 5 。これは、守護の権威が地に落ち、実力ある者が成り上がる下剋上の時代の典型であった。
この内乱を制し、最終的に武田高信を追放したのが、因幡守護の正統な後継者である山名豊国であった。天正元年(1573年)、豊国はついに鳥取城を奪還し、布施天神山城から守護所の機能を完全に移転させる 4 。ここに鳥取城は、名実ともに因幡支配の拠点として確立された。しかし、その支配は決して安泰なものではなかった。東からは織田信長、西からは毛利輝元という二大勢力の圧力が、刻一刻とこの因幡の地に迫っていたのである。
天正5年(1577年)、天下統一を目前にする織田信長は、西国最大の雄・毛利氏を討つべく、腹心の将・羽柴秀吉を総大将とする中国方面軍を派遣した 8 。秀吉は播磨、但馬を平定し、その矛先を因幡国に向けた。当時、鳥取城主の山名豊国は毛利氏の傘下にあり、鳥取城は毛利方の東の拠点として重要な戦略的位置を占めていた 7 。
天正8年(1580年)、秀吉率いる織田軍が鳥取城を包囲する(第一次鳥取城攻め)。山名豊国は3ヶ月にわたって籠城し抵抗を続けたが、衆寡敵せず、ついに降伏。織田方に臣従することを誓った 5 。これにより、鳥取城は毛利方の最前線から、一転して織田方の拠点へとその立場を変えることになった。
しかし、この臣従は長くは続かなかった。秀吉が軍を引くと、因幡国内では依然として毛利方の影響力が強く、城内の国人領主たちの心は揺れ動いた。彼らにとって、遠い中央の織田政権よりも、長年にわたり関係を築いてきた西の毛利氏の方が、現実的な庇護者と映ったのである。
この状況下で、城内の重臣であった森下道誉や中村春続らは、主君・山名豊国の降伏という決断を日和見的であると断じ、彼を城から追放するというクーデターを敢行した 9 。彼らの忠誠は、もはや山名豊国という個人に向けられていたのではなかった。自らの所領と一族の存続を保障してくれる、より強大な権力ブロック、すなわち毛利氏への帰属を選択したのである。この国人たちの現実的な生存戦略こそが、鳥取城の運命を決定的な悲劇へと導く引き金となった。主を失った鳥取城の家臣団は、毛利氏の重鎮・吉川元春に対し、織田の大軍と対峙し得る新たな城主の派遣を嘆願した 9 。この要請に応え、白羽の矢が立てられたのが、石見国の武将・吉川経家であった。
吉川経家を新たな城主として迎え、毛利方への帰属を鮮明にした鳥取城に対し、秀吉は再度の攻略を決意する。しかし、その手法は第一次攻撃とは全く異なっていた。それは、武力による攻城を極力避け、兵站と経済、心理を巧みに操る、冷徹かつ合理的な殲滅戦であった。この戦術は、先行する三木城での「干殺し」の経験をさらに発展させたものであり、秀吉の戦術家としての進化を示すものであった 25 。
天正9年(1581年)6月、完全包囲が開始されると、城内の食糧は瞬く間に底をついた。人々は城内に生える草木の根や樹皮を食べ、牛や馬を殺してその肉を食らい、飢えを凌いだ 11 。しかし、それらもやがて食べ尽くされ、8月頃から餓死者が続出する 11 。
その後の城内の様子は、織田信長の一代記である『信長公記』に克明に記されている。その記述は、まさに地獄絵図そのものであった。
餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給えと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず。
(中略)鉄砲を打ち当て候えば、息の通う内、彼の者へ走り寄り、切り裂き、肉を喰らい候。中にも、人の首を取り、骨を砕き、脳を吸い候 12。
飢餓は人間の尊厳を奪い、子は親を、弟は兄の肉を食らうという、常軌を逸した状況が生み出された 2 。城外に助けを求めて逃れようとする者は、秀吉軍の鉄砲隊に容赦なく撃ち倒され、その亡骸は、まだ息があるうちから飢えた人々によって解体されたという 2 。
籠城開始から約四ヶ月、城内の惨状に耐えかねた吉川経家は、ついに開城を決断する。秀吉は投降を受け入れ、生き残った人々のために粥の炊き出しを行った。しかし、ここで新たな悲劇が起こる。長期間にわたる極度の飢餓状態にあった人々が、急に栄養のある食事を摂取したことで、身体が対応できずに命を落とす者が続出したのである 2 。これは、現代医学で「リフィーディング症候群(再栄養症候群)」として知られる現象であり、地獄を生き延びた人々にさえ、安息は訪れなかった 31 。
この未曾有の悲劇の中で、自己犠牲をもって責務を全うした将として、吉川経家の名は戦国史に深く刻まれている。経家は、毛利元就の次男・吉川元春を当主とする安芸吉川本家の一族ではあるが、その本流ではなく、石見国(現在の島根県西部)を本拠とする分家・石見吉川氏の当主であった 40 。彼は因幡国とは直接的な地縁を持たない、いわば「派遣城主」であった。
天正9年3月、鳥取城主就任の要請を受諾した経家は、この任務が死地であることを覚悟していた。その覚悟のほどは、入城の際に自らの首を納めるための首桶を持参したという逸話に象徴されている 10 。彼は、生きてこの城を出るつもりはなかったのである。
経家は籠城戦において奮戦したが、秀吉の周到な兵糧攻めの前には、なすすべもなかった。城内が地獄絵図と化す中、彼の心は、毛利家への忠誠という武士としての責務と、目の前で苦しみ死んでいく城兵や領民への慈愛との間で引き裂かれた。
最終的に、彼は人々の命を救うことを選び、自らの首を差し出すことを条件に開城を申し出た 9 。経家の武勇と義理堅い人柄を高く評価していた秀吉は、責任は豊国を追放した重臣たちにあるとして、経家自身の助命を提案した。しかし、経家は「城の将たる私の責任である」としてこれを固辞し、自刃の意思を変えなかった 10 。秀吉はその潔い態度に感銘を受け、主君である信長に書状で判断を仰いだ。信長も経家の覚悟を認め、その自刃を許可した 10 。
天正9年10月25日早朝、吉川経家は自刃して果てた。享年35歳 9 。その首は秀吉のもとに届けられ、秀吉は「哀れなる義士かな」と涙したと伝わる 41 。
彼は死に臨み、辞世の句と、石見国に残した幼い子供たちに宛てた遺書を残している。特に、まだ文字が読めないであろう子供たちのために、すべてひらがなで書かれた遺書は、彼の人間性を深く伝えている 38 。
とつとりのこと、よるひるにひやく日こらえ候。ひやうろうつきはて候まま、われら一人ごよう(御用)にたち、おのおのをたすけ申し、一もん(門)の名をあげ候。そのしあわせものがたり、おききあるべく候。
(鳥取城のことで、夜昼二百日間も持ちこたえた。しかし兵糧が尽き果てたので、私一人が責任を取ることで、皆を助け、吉川一門の名誉を高めた。この一連の出来事を、幸せな物語として後世に語り継いでいってほしい)10。
自らの死を「しあわせものがたり」と表現したこの一節には、悲劇を乗り越え、家の名誉として未来に語り継いでほしいという、父としての、そして武将としての強い願いが込められている。彼の行動は、特定の主君や土地に縛られる封建的な価値観を超え、預かった人々の命に対する普遍的な責任感と人間愛に根差していた。だからこそ、敵将である秀吉をも感嘆させ、400年以上の時を超えて現代に生きる我々の心を打つのである。なお、彼の血筋は鳥取藩池田家に仕えて続き、後年には落語家の五代目三遊亭圓楽師がその末裔として知られることとなった 42 。
吉川経家が籠城した戦国時代の鳥取城は、久松山の山頂部である「山上ノ丸(さんじょうのまる)」を中核とした、典型的な山城であった 18 。その防御構造は、石垣を多用する後の姿とは大きく異なり、自然の地形を最大限に活用した「土の城」であった 6 。
敵の侵攻ルートとなりうる尾根筋は、深く掘り込んで進軍を妨げる「堀切(ほりきり)」で分断された。また、山の斜面は人工的に削られて急角度の「切岸(きりぎし)」とされ、容易に登れないように加工されていた 6 。曲輪(くるわ)と呼ばれる平坦地の周囲には、掘り上げた土を盛り上げた「土塁(どるい)」が築かれ、防御の壁とされた 44 。これらの遺構は、現在も久松山の山中にその痕跡を留めており、戦国時代の城郭の姿を今に伝えている。
「鳥取の渇殺し」による落城後、鳥取城の様相は大きく変化していく。城主となった宮部継潤、そして関ヶ原の戦いの後に入封した池田長吉といった領主たちによって、城の中心は次第に山頂から利便性の高い山麓の「山下ノ丸(さんげのまる)」へと移り、石垣を用いた本格的な近世城郭への改修が始まった 4 。
この流れを決定づけたのが、江戸時代に入り、因幡・伯耆32万石の大名として池田光政、そしてその従兄弟である池田光仲が入城したことである 7 。彼らは鳥取城を藩の政庁にふさわしい城郭とするため、大規模な拡張・改修を行った。この時期に、現在我々が目にする壮麗な石垣群の大部分が完成したのである 20 。
この城郭構造の変化は、日本の城の役割が、戦乱を勝ち抜くための「戦闘拠点」から、領国を安定して治めるための「政治・経済の拠点」へと移行した歴史そのものを体現している。城の中心が険しい山頂から広大な山麓へと降りてきたことは、戦乱の時代の終焉と、藩体制という新たな統治システムの確立を、物理的な構造として示しているのである。
この改修期に築かれた遺構の中でも特に注目されるのが、天球丸(てんきゅうまる)と呼ばれる区画に残る「巻石垣(まきいしがき)」である 3 。これは、石垣が内側に緩やかなカーブを描き、球面状に積まれているという、全国でも他に類を見ない極めて珍しい構造を持つ 3 。崩落を防ぐための高度な技術であったと考えられており、池田氏が動員した石工集団の高い技術力を示す貴重な遺構である。
鳥取城の歴史、特に戦国時代の攻防戦は、我々に多くのことを問いかける。
第一に、それは 戦争の質の変化 である。羽柴秀吉が展開した「鳥取の渇殺し」は、もはや武士個人の武勇や戦術が勝敗を決する時代が終わりを告げ、兵站、経済力、情報、そして非情なまでの合理性を総動員する、新しい形の戦争の時代の到来を告げるものであった 48 。この戦いは、戦国時代の終焉を加速させた画期の一つと言えよう。
第二に、それは 武士の「義」と民衆の悲劇 という対照的な物語である。吉川経家が示した自己犠牲の精神は、武士道の理想として今なお多くの人々の心を捉える。しかし、その崇高な「義」が貫かれた背景には、飢餓地獄の中で名もなきまま死んでいった数千の民衆の存在があったことを忘れてはならない 31 。英雄譚の裏に隠された、戦争に巻き込まれた人々の計り知れない苦しみは、現代を生きる我々が歴史から学ぶべき最も重要な教訓の一つである。鳥取市がかつてこの悲劇をモチーフとしたキャラクター「かつ江さん」を公表した際、その是非を巡って大きな議論が巻き起こったことも、この歴史が持つ重さを物語っている 49 。
最後に、鳥取城は 歴史遺産としての現代的価値 を我々に示す。戦国期の土の城から近世の石垣の城まで、時代の変遷をその身に刻んだ「城郭の博物館」として 3 。そして、凄惨な悲劇の記憶を留める「史跡」として。この二つの顔を持つ鳥取城は、訪れる者に対し、平和の尊さと、過去から未来へと語り継ぐべき教訓を、静かに、しかし力強く語りかけているのである。