西暦 (和暦) |
ルイス・ソテロの動向 |
日本の動向 |
世界の動向 |
1574年 (天正2年) |
9月6日、スペインのセビリアで誕生 1 。 |
織田信長、伊勢長島一向一揆を鎮圧。 |
スペイン王フェリペ2世の治世。 |
1594年 (文禄3年) |
サラマンカ大学で学んだ後、フランシスコ会に入会 1 。 |
豊臣秀吉、伏見城の築城を開始。 |
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1600年 (慶長5年) |
ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)経由でフィリピンのマニラに到着。日本人街で布教と日本語学習に従事 3 。 |
関ヶ原の戦い。徳川家康が覇権を握る。 |
東インド会社(イギリス)設立。 |
1603年 (慶長8年) |
フィリピン総督の使節として初来日。徳川家康・秀忠に謁見 3 。 |
徳川家康、征夷大将軍に就任し江戸幕府を開く。 |
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1609年 (慶長14年) |
前フィリピン総督ドン・ロドリゴの難破船事件で通訳として活躍 4 。 |
薩摩藩が琉球王国に侵攻。 |
オランダ、平戸に商館を設立。 |
1611年 (慶長16年) |
駿河にフランシスコ会の教会を建設 4 。 |
慶長三陸地震(津波)発生。 |
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1613年 (慶長18年) |
江戸で捕縛されるも伊達政宗の助命で赦免 4 。10月、慶長遣欧使節の正使として支倉常長らと月ノ浦を出帆 3 。 |
幕府が全国にキリスト教禁教令を発布(慶長17年説もあり)。 |
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1615年 (元和元年) |
1月、マドリードでスペイン国王フェリペ3世に謁見 8 。11月、ローマで教皇パウルス5世に謁見 1 。 |
大坂夏の陣。豊臣氏滅亡。元和偃武。 |
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1617年 (元和3年) |
交渉が不調に終わり、スペインを発つ 4 。 |
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1618年 (元和4年) |
メキシコ経由でマニラに到着。日本への渡航を待つが、事実上の抑留状態となる 6 。 |
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三十年戦争が勃発(~1648年)。 |
1622年 (元和8年) |
禁教下の日本に密入国を試みるが、薩摩で捕縛される 3 。 |
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1624年 (寛永元年) |
1月、獄中から教皇ウルバヌス8世宛の書簡を執筆 10 。8月25日、肥前国大村の放虎原にて火刑により殉教(享年49) 3 。 |
幕府、スペイン船の来航を禁止。 |
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1867年 (慶応3年) |
教皇ピウス9世により列福される 1 。 |
大政奉還。江戸幕府が終焉。 |
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日本の戦国時代の終焉と江戸時代の幕開けという激動の時代に、一人のスペイン人宣教師がその名を刻んだ。ルイス・ソテロ(Luis Sotelo, 1574–1624)、フランシスコ会に身を捧げ、徳川家康や伊達政宗といった時の権力者と渡り合い、日本とヨーロッパを結ぶ壮大な外交使節団を率いた人物である。彼の生涯は、キリスト教禁教令下の日本に再潜入し、信仰のために火刑台の露と消えたという殉教の物語として語られることが多い 1 。1867年にはカトリック教会によって福者の列に加えられ、その信仰の篤さは公式に認められている 6 。
しかし、この殉教者という一面的な評価は、彼の複雑な人物像のすべてを捉えているとは言い難い。同時代の記録、特にライバルであったイエズス会の報告や、彼と行動を共にした人物の証言は、ソテロの別の顔を浮かび上がらせる。それは、自らの野心と所属する修道会の利益のために、誇張や策謀も厭わない「策略家」(策略家)であり、「山師」(やま師)とまで酷評される姿である 12 。布教のためには嘘も方便とする「聖なる偽り」(聖なる偽り)を実践したとされ、彼が残した記録の信憑性には疑問符が付けられることさえある 1 。
ソテロの生涯を正しく理解するためには、彼が生きた時代背景を把握することが不可欠である。17世紀初頭の世界は、大航海時代が新たな局面を迎え、ヨーロッパ列強がアジアでの覇権を争っていた。特にカトリック国のスペインとポルトガルは、世界を二分して植民地経営と布教活動を展開しており、その対立は彼らが支援する修道会、すなわちフランシスコ会とイエズス会の間の熾烈な競争となって現れていた 16 。一方、日本では徳川家康が天下を統一し、盤石な幕藩体制を築き上げつつあった。幕府は当初、貿易の利益を求めてスペインとの関係に前向きであったが、国内の安定を揺るがしかねないキリスト教の浸透には次第に警戒を強めていく。
本報告書は、ソテロを単なる殉教者、あるいは単なる野心家として描くことを目的としない。むしろ、篤い信仰心と、人間的な、そして組織人としての大いなる野望とが分かち難く結びついた、時代の産物としての彼の姿を多角的に分析する。地球規模で繰り広げられる政治と宗教の複雑な力学の中で、ソテロが如何に行動し、何を夢見、そして何故その夢が破れたのか。その実像に迫ることで、日欧交渉史における彼の真の役割と歴史的意義を再評価することを目指すものである。
ルイス・ソテロは1574年9月6日、大航海時代の栄華を極めたスペイン帝国の中核都市、セビリアで生を受けた 1 。彼の家はセビリアの名門であり、父は市参事会員を務めるなど、社会的地位の高い家庭であった 6 。この恵まれた出自は、彼が質の高い教育を受ける機会と、後年の外交活動で見せる自信に満ちた立ち居振る舞いの素地を形成したと考えられる。
青年期のソテロは、スペイン最古にして最高学府の一つであるサラマンカ大学で学んだ 1 。当時のサラマンカ大学は、単なる神学の中心地にとどまらず、ドミニコ会を中心に「サラマンカ学派」が形成され、神学、哲学のみならず、近代国際法の基礎となる学問が活発に議論される、ヨーロッパ有数の知の拠点であった 19 。ここでソテロは、神学的な知識はもとより、後に徳川家康やヨーロッパの君主たちとの交渉で駆使することになる、論理的思考、法学的知識、そして雄弁術を磨き上げたのであろう 20 。
学問を修めた後、1594年にフランシスコ会に入会する 1 。彼の心を捉えたのは、当時多くの若き聖職者たちを駆り立てた東洋への宣教の情熱であった。特に、清貧を旨とし、初代の使徒たちの精神に倣うことを理想とする托鉢修道会であるフランシスコ会にとって、未知の地での布教は最も崇高な召命の一つと見なされていた 17 。ソテロもまた、その熱意に燃える一人として、極東の地、日本を目指すことを決意したのである。
東洋伝道への志を固めたソテロは、1599年にスペインを出帆し、植民地ヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)を経由して、1600年にスペインのアジアにおける拠点、フィリピンのマニラに到着した 3 。マニラは、アジア各地との交易で賑わう国際都市であり、そこには日本人町(ディラオ)も形成されていた。
ソテロはマニラ近郊のこの日本人町で、すでにキリスト教徒となっていた日本人たちの指導にあたりながら、彼の将来にとって決定的に重要となる準備に着手する。それは、日本語と日本文化の習得であった 1 。彼は驚異的な速さで語学を身につけたとされ、その優秀さが記録されている 21 。このマニラでの期間は、彼にとって日本宣教のための実践的な訓練の場であり、後の活動に不可欠な言語能力と文化的素養を彼に与えた。
同時に、このマニラでソテロは、彼の生涯を貫くことになる深刻な対立構造を肌で感じることになる。フィリピンはスペインの管轄下にあり、フランシスコ会やドミニコ会といったスペイン系の托鉢修道会が強い影響力を持っていた。一方で、日本の布教活動は、先行していたポルトガル系のイエズス会が主導権を握っていた。両者の間には、布教方針の違いや、布教縄張りを巡る激しい対立が既に存在していた 13 。マニラでの経験は、ソテロの中にイエズス会への対抗意識を植え付け、彼の日本でのキャリアを方向づける決定的な要因となったのである。
1603年(慶長8年)、ソテロはついに日本の土を踏む。彼の来日は、一介の宣教師としてではなく、フィリピン総督の書簡を携えた公式使節の一員としてであった 3 。この公式な立場は、彼に日本の最高権力層への扉を開いた。ソテロは江戸城で、天下人となった徳川家康とその世子・秀忠への謁見を果たすことに成功する 22 。この最初の接触から、ソテロは単なる宗教家ではなく、政治の舞台で立ち回ることのできる人物としてのキャリアを歩み始める。
彼の評価を決定的に高めたのが、1609年(慶長14年)に起きたドン・ロドリゴ・デ・ビベロの漂着事件である。前フィリピン総督であったドン・ロドリゴを乗せた船が上総国岩和田村(現在の千葉県御宿町)沖で難破した際、ソテロはその卓越した日本語能力を駆使して通訳と斡旋の任にあたった 4 。この一件を通じて、彼は家康からさらなる信頼を得る。家康は当時、ポルトガルが独占していた生糸貿易に対抗し、スペイン領メキシコとの直接交易(太平洋航路)に強い関心を示しており、ソテロはそのための貴重なパイプ役と見なされたのである 23 。ソテロは家康の外交顧問のような役割を担い、幕府の対スペイン政策に深く関与していくことになった。
ソテロは、幕府とのハイレベルな外交交渉に携わる一方で、フランシスコ会宣教師としての本分である布教活動にも精力的に取り組んだ。彼の活動は広範囲に及び、京都、豊後府内(現在の大分市)、大坂、そして幕府の拠点である江戸に次々と教会を建設していった 3 。
彼の活動の中でも特に象徴的なのが、江戸の浅草にハンセン病患者のための施療院を設立したことである 3 。貧者や病者、社会から疎外された人々に寄り添うことは、イエズス会がエリート層への働きかけを重視したのとは対照的な、フランシスコ会の活動の大きな特徴であった。この慈善活動は、多くの民衆の心をとらえ、キリスト教への共感を広げる上で大きな役割を果たした。この施療院があったとされる場所は、現在のカトリック浅草教会周辺であり、後に多くのキリシタンが殉教した悲劇の舞台ともなった 24 。
ここに、ソテロの巧みな戦略が見て取れる。彼は一方では、徳川家康という最高権力者との個人的な関係を築き、その語学力と国際知識を武器に政治の中枢に食い込むトップダウンのアプローチを実践した 4 。そしてもう一方では、施療院の設立に象徴されるように、民衆に直接働きかける慈善活動を通じて、草の根レベルでの支持を固めるボトムアップのアプローチを展開した 3 。この権力者への接近と民衆への奉仕という二つの路線を同時に追求する戦略は、彼を他の宣教師とは一線を画す、極めて多角的で影響力のある存在へと押し上げた。それは、外交官の顔と民衆の奉仕者の顔を併せ持つ、彼の多面的な人格そのものの現れであったと言えよう。
ソテロの活動が江戸や駿府で注目を集める中、彼の運命を大きく変える出会いが訪れる。奥州の覇者、「独眼竜」として知られる仙台藩主・伊達政宗との接触である 3 。若き頃より南蛮文化に強い興味を抱き、領国の経済的発展のためには海外との交易が不可欠と考えていた政宗にとって、ソテロはまさにうってつけの人物であった 21 。ソテロは政宗に海外の情勢や航海術に関する貴重な情報をもたらし、その知見は政宗を強く惹きつけた 21 。
二人の関係は、互いの野心が共鳴し合うことで急速に深まっていった。政宗の狙いは、幕府が管理する長崎港を介さず、スペイン領ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)との直接貿易路を開設し、藩に莫大な富をもたらすことであった 27 。一方のソテロは、政宗という強力な庇護者を得ることで、イエズス会の影響力が強い西日本を避け、東北地方にフランシスコ会の一大拠点を築くことを目論んでいた。そしてその先には、自らが新設されるであろう日本北部の司教区の初代司教に就任するという、壮大な野望があった 3 。両者の関係は、まさに互いの利害が一致した、野心に基づく戦略的同盟だったのである。
この政宗とソテロの同盟関係から、日本史上前例のない壮大な計画が生まれる。慶長遣欧使節の派遣である。
表向きの、そして政宗にとっての主たる目的は、スペイン国王とローマ教皇に使節を送り、領内でのキリスト教布教を許可する見返りとして、メキシコとの直接貿易の許可を得ることにあった 27 。この計画は、少なくとも当初は、スペインとの関係構築を目指す徳川幕府の公認も得ていた 21 。
しかし、この使節団を立案したソテロの胸中には、政宗のそれを遥かに超える、個人的かつ組織的な野望が渦巻いていた。第一に、そして最大の目的は、自らが日本の新司教区の司教に任命されることであった 3 。第二に、この使節団は、既存のイエズス会ルートを完全に迂回し、カトリック世界の最高権威であるスペイン国王とローマ教皇に直接働きかけることで、日本におけるフランシスコ会の主導権を確立しようとする、大胆不敵な試みであった 13 。そして第三に、この旅はソテロにとって、一大外交事業を成し遂げた英雄として故国スペインに凱旋するという、個人的な栄誉を満たすための舞台でもあった 13 。
巷間では、政宗がスペインの軍事援助を得て徳川幕府の転覆を狙っていたという「幕府転覆説」なども囁かれている 27 。しかし、『伊達政宗遣使録』などの一次史料にはその決定的な証拠は見当たらず、これらの説は依然として憶測の域を出ない 27 。
この使節派遣という決断は、決して安定した状況下でなされたものではなかった。関ヶ原以降、中央政界で主導権を握り損ねた政宗にとって、それは自らの存在感を再び示すための危険な賭けであった。一方のソテロにとっても、1585年の教皇小勅書によって確立されていたイエズス会の日本布教における優越的地位を覆すための、まさに起死回生の一手であった 13 。事実、使節出発の直前、ソテロは江戸での無許可の布教活動が咎められ、投獄されている。死刑を宣告された彼を救い出したのは、まさに政宗の助命嘆願であった 4 。このように、慶長遣欧使節とは、既存の権力構造の中で閉塞感を抱いていた二人の野心家が、現状を打破するために打った、極めてリスクの高い大勝負だったのである。
1613年(慶長18年)10月、使節団は仙台藩内で建造されたガレオン船「サン・ファン・バウティスタ号」に乗り、牡鹿半島の月ノ浦から太平洋へと漕ぎ出した 7 。仙台藩士・支倉常長が副使(公式な大使)として、そしてソテロが正使(事実上の団長兼通訳)として一行を率いた 18 。
しかし、その船出は順風満帆ではなかった。船には、かつて日本の金銀島探索の命を受け、航海術に長けたスペイン人探検家セバスティアン・ビスカイノも同乗していたが、ソテロと彼の関係は最悪であった 13 。使節団の主導権を握るソテロと、専門家としての自負を傷つけられたビスカイノの間の確執は、航海中絶えず一行に不協和音をもたらし、後にビスカイノがスペイン本国へ送ったソテロに批判的な報告は、使節団の交渉に暗い影を落とすことになる 13 。
一行は太平洋を横断してアカプルコに上陸し、メキシコを陸路で進み、大西洋を渡ってヨーロッパへと至った 33 。1615年1月、マドリードでスペイン国王フェリペ3世に 8 、同年11月にはローマで教皇パウルス5世に謁見した 1 。彼らは行く先々で大きな好奇心をもって迎えられ、支倉はローマ市民権を授与されるなど、儀礼的には厚遇された 34 。しかし、肝心の貿易交渉や司教派遣の要請といった実質的な目的は、ことごとく果たされなかった 3 。
この外交的失敗の背景には、悲劇的なまでの時間差と、熾烈な情報戦が存在した。使節団が日本を出帆したのは1613年の末である。しかし、彼らが太平洋を航海している最中の1614年初頭、徳川幕府は全国規模でのキリスト教徒追放令を発布し、厳しい弾圧を開始していた 18 。ソテロと支倉がマドリードやローマで「キリスト教に好意的な奥州の王」からの使者として交渉を行っていた1615年には、日本の厳しい迫害のニュースは、すでにイエズス会のルートを通じてヨーロッパに詳細に伝えられていたのである 13 。
その結果、スペイン国王やローマ教皇は、キリスト教を根絶やしにしようとしている国から来た使節の、布教を歓迎するという申し出をどう受け止めてよいか分からなかった。この根本的な矛盾は、ソテロの政敵であるイエズス会によって執拗に指摘され、交渉の不調を決定づけた。彼らは、日本出帆の時点では存在したはずの政治的現実を頼りに交渉していたが、その現実は彼らが大海を渡っている間に、すでに消え去っていたのである。慶長遣欧使節は、その壮大な航海の果てに、交渉の前提そのものが失われているという厳しい現実に直面することになった。
ルイス・ソテロという人物を評価する上で、その情熱的な信仰心と表裏一体をなす、策謀家としての一面を避けて通ることはできない。彼は「布教」という崇高な目的のためには、時に欺瞞や誇張をも厭わない人物であったと見なされている。この「聖なる偽り」(聖なる偽り)とも呼ばれる姿勢は、同時代人からの批判を招き、現代の歴史家が彼の残した史料を扱う際に慎重な態度を取る原因となっている 1 。
例えば、彼がヨーロッパの権力者たちに伝えた伊達政宗のキリスト教への傾倒ぶりや、奥州全体が改宗間近であるかのような報告は、自らの計画の重要性をアピールするための戦略的な誇張であった可能性が高い 30 。彼自身の自己顕示欲の強さも相まって、彼が執筆した報告書は、客観的な記録というよりは、自らの功績を喧伝し、政敵を貶めるためのプロパガンダとしての性格を色濃く帯びている 12 。
日本側の学者から彼に向けられた「山師」(やま師)という辛辣な評価は、こうした彼の性格を的確に捉えている 12 。その壮大な計画が、しばしば虚勢と不確かな見込みの上に成り立っていたことを示唆するものである。その一例として、使節船の建造が最終段階に入った時期に、ソテロが突如として政宗に対し、国王や教皇に献上するためにもっと豪華な贈答品を用意すべきだと進言し、すでに多額の経費を投じていた仙台藩の重臣を激怒させたという逸話が残っている 13 。これは、目的のためには周囲との軋轢を恐れない、彼の強引な手法を物語っている。
ソテロの生涯を理解する上で最も重要な鍵となるのが、イエズス会との絶え間ない対立である。この対立は、単なる神学論争や個人的な反目ではなく、ポルトガルとスペインという二大国家の国益が絡んだ、根深いものであった。
その根源は、布教地域の縄張り争いにあった。教皇は当初、日本の布教権をポルトガルが支援するイエズス会に独占的に与えていた 13 。しかし、スペインの東洋における拠点フィリピンから、フランシスコ会をはじめとする托鉢修道会が日本に進出してくると、これを既得権益への侵犯と見なすイエズス会との間に深刻な摩擦が生じた 16 。
布教方針の違いも対立に拍車をかけた。イエズス会が大名や武士といったエリート層への働きかけを通じて、上からの改宗を目指す漸進的なアプローチを取ったのに対し、フランシスコ会は清貧を掲げ、民衆の中に入って公然と活動することを信条とした 13 。イエズス会の目には、フランシスコ会のこうした活動は、日本の為政者を不必要に刺激し、キリスト教徒全体を危険に晒す無謀な行為と映った。
この対立構造の中で、ソテロはフランシスコ会の最も野心的で攻撃的な旗手であった。そのため、彼はイエズス会からの集中的な批判の的となった。ローマのイエズス会文書館に残るジロラモ・デ・アンジェリスといった宣教師の報告書は、ソテロを虚栄心が強く、無謀で、不誠実な策略家として描き出している 13 。これらの報告は、ヨーロッパのキリスト教界におけるソテロの評判を著しく傷つけ、彼が主導した慶長遣欧使節の失敗の遠因ともなった。ソテロの物語は、このイエズス会との「戦争」を抜きにしては語れないのである。
ヨーロッパでの外交交渉が完全に失敗に終わったことで、ソテロの権威は失墜した。彼は失意のうちに帰路につき、メキシコを経由してマニラへと戻る 4 。しかし、もはや彼は英雄ではなかった。スペイン植民地当局や、彼が所属するフランシスコ会の上層部でさえ、ソテロを政治的に危険な厄介者と見なし始めていた。彼はマニラで日本への渡航を禁じられ、事実上の抑留状態に置かれることになった 6 。
数年間の足止めの後、ソテロは運命の決断を下す。幕府によるキリシタン弾圧がかつてなく厳しさを増し、全ての宣教師が国外追放か潜伏を余儀なくされている中、彼は禁を破ってでも日本へ戻ることを選んだ。1622年(元和8年)、ソテロは変装して身を隠し、中国船に乗り込んで日本への密入国を敢行、薩摩の地に上陸した 3 。この行動は、彼の揺るぎない宣教師としての情熱の究極的な発露と見ることもできれば、失われた名声を取り戻すための最後の、そして絶望的な賭けであったと解釈することもできるだろう。
ソテロの潜入は、長くは続かなかった。彼は間もなく当局に発見され、捕縛された 4 。身柄は、かつてキリシタン大名・大村純忠の領地であり、西日本におけるキリスト教信仰の中心地であったと同時に、今や最も厳しい弾圧が行われる場所となっていた肥前国大村の牢獄へと送られた 11 。
この絶体絶命の状況下で、かつての盟友・伊達政宗はソテロを見捨てなかった。政宗はソテロの助命を嘆願する書状を送るなど、最後まで救出を試みた 4 。この事実は、二人の間に利害を超えた複雑な絆が存在したことを物語っている。しかし、幕府の禁教政策はもはや絶対的な国策となっており、いかなる例外も許される状況ではなかった。政宗の最後の願いも、幕府に聞き入れられることはなかった。
1624年(寛永元年)8月25日(旧暦7月12日)、ルイス・ソテロは、他の4名の宣教師(フランシスコ会士2名、イエズス会士・ドミニコ会士各1名)と共に、大村郊外の放虎原(ほうこばる)刑場において火刑に処せられた 3 。信仰にその生涯を捧げ、日本とヨーロッパを駆け巡った男は、49歳でその激動の生涯を終えた。彼の殉教地とされる場所には、現在、その死を悼む顕彰碑が建てられている 40 。
大村の牢獄で死を待つ間、ソテロは決して沈黙していたわけではなかった。彼は最後の力を振り絞り、ペンを執った。1624年1月20日付で、彼は時の教皇ウルバヌス8世に宛てて、長文の報告書簡を書き上げていたのである 10 。
この獄中からの手紙は、彼の生涯を貫いたイエズス会との戦いの、文字通り最後の烽火(のろし)であった。書簡の中でソテロは、日本の教会の悲惨な状況、自らが受けた苦難を詳述すると同時に、日本におけるイエズス会の布教方針やその振る舞いを痛烈に告発した 10 。この書簡がヨーロッパに届くと、カトリック教会内部に大きなスキャンダルを巻き起こした。イエズス会側はこれをソテロの名を騙った偽書であると主張し、一方のフランシスコ会側はイエズス会の不正を証明する動かぬ証拠としてこれを擁護した。この論争は、当時ヨーロッパを席巻していた三十年戦争の宗教的対立とも絡み合い、複雑な様相を呈した 10 。死の淵にありながら、ソテロは自らの手で自身の歴史的評価を決定づけ、最後の戦いを挑もうとしていた。この書簡は、彼の不屈の闘志を象徴する、最後のメッセージだったのである。
ルイス・ソテロが心血を注いだ慶長遣欧使節は、外交的には完全な失敗に終わった。しかし、この壮大な試みが歴史に遺した足跡は決して小さくない。使節団が持ち帰った、あるいはヨーロッパ各地に残された膨大な記録や品々は、現在「慶長遣欧使節関係資料」として国宝に指定され、ユネスコの「世界の記憶」にも登録されている 27 。これらは17世紀初頭の日欧交渉の実態を伝える比類なき一次史料であり、その歴史的価値は計り知れない。ソテロは、多くの欠点を抱えながらも、この歴史的事業の紛れもない立案者であり、原動力であった。
1867年、幕末の日本が新たな時代を迎えようとしていた頃、遠くローマでは教皇ピウス9世が、ソテロを日本の他の殉教者たちと共に列福した 1 。これにより、彼はカトリック教会における「福者」(Beatus)として公式に認められることになった。この列福は、彼の生涯における政治的・人間的な複雑さや論争の的となった側面を捨象し、ただ信仰のために命を捧げた「殉教者」としての一面を聖化するものであった。教会史の中では、彼のアイデンティティはこの一点に集約され、記憶されることとなった。
結論として、ルイス・ソテロという人物は、単純なレッテルでは到底捉えきれない、還元不可能なほどの複雑さを内包している。彼はハンセン病患者に寄り添い、自らの信じる神のために死をも恐れなかった、真摯な信仰の持ち主であった。同時に、彼は個人的な栄誉と所属組織の発展のためには策謀も辞さない、冷徹で野心的な政治家でもあった。彼は日本とヨーロッパを結ぶ壮大な橋を架けようとした偉大な先駆者であると同時に、その性急で独善的な行動が、自らが乗り越えようとした迫害の壁をより一層高くした扇動者でもあった。
彼は聖人でもなければ、単なる罪人でもない。信仰と権力、情熱と野望が渾然一体となった、大航海時代の激しい衝突が生み出した、巨大で悲劇的な人物である。その生涯は、グローバル化が始まったばかりの世界における、異なる文明と価値観の出会いの輝きと、その衝突の残酷さを、余すところなく体現していると言えよう。